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『行為と演技――日常生活における自己呈示』

Goffman, Erving 1959 The Presentation of Self in Everyday Life, Doubleday & Company, Inc.

=19741120 石黒 毅 訳『行為と演技――日常生活における自己呈示』,誠信書房


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Goffman, Erving, 1959 The Presentation of Self in Everyday Life, Doubleday & Company, Inc.
=19741120 石黒 毅 訳『行為と演技――日常生活における自己呈示』,誠信書房  ISBN-10: 4414518016 ISBN-13: 978-4414518016 [amazon][kinokuniya]

■目次
謝辞
序言
序論

第一章 さまざまのパフォーマンス
      人の演じている役目への信頼
      外面
      劇的具象化
      理想化
      表出的統制の維持
      偽りの呈示
      神秘化
      リアリティとたくらみ

第二章 さまざまのチーム

第三章 さまざまの局域行動

第四章 さまざまの分裂的役割

第五章 役割からはずれたコミュニケーション
      不在者の取り扱い
      演出‐談合
      チーム単位の共謀
      再調整‐行為

第六章 印象操作の技法
      さまざまの防衛的属性と実際的措置
      保護の実際的措置
      察しに関する察し

第七章 結論
      枠組み
      分析のコンテクスト
      パースナリティ‐相互行為‐社会
      比較と研究
      表出の役割は自己の印象を伝達することである
      演出と自己

訳者あとがき
原注
訳注
索引

■引用
太字見出しは本論を参照して作成者がつけた。

意図的な表出と何気なくする表出
 行為主体の表出性(したがって印象を与える彼の能力)は、二つの根本的に異質の記号活動を含んでいるように思われる。すなわち彼が意図的にするgive表出と、何気なくするgive off表出がそれである。第一の場合には言語的象徴ないしその代替が含まれている。それらのものをエゴは当然のことながら、彼と他者がこれらの象徴に付与していることがわかっている情報を伝達するためにのみ使用するのである。これが伝統的で狭義の意味のコミュニケーションである。第二の場合は他者が行為者の何かを示す徴候として取り扱うことができる広範囲の行為を含んでいる。すなわち、当の行為は表面的に伝達されている情報以外の理由で遂行されたものということが考えられるのである。いうまでもなく、エゴは右の二つの型のコミュニケーションによって意図的に誤りの情報を伝達する場合がある。第一の場合は詐術であり、第二の場合は擬装である。(p.3)

状況に関する定義の投企
いずれにせよ、あたかもエゴが何かある印象を伝達したかのように他者が行為するかぎり、われわれは機能論的ないしはプラグマティックな見地をとって、エゴは状況に関して<実効のある>特定の定義を投企projectし、ある特定の事態が生起しているという理解を<効果的に>した、といってよかろう。(p.8)

コミュニケーションの非対称性
エゴは自己に都合のよい光のもとで自己自身を呈示するものであることを知れば、他者は目撃したことを二つの部分に区分する。すなわち一つは主として口頭による主張で、思うように操作することが比較的容易な部分であり、他はエゴが主として何気なくしている表出から取り出されるもので、ほとんど彼が気にとめていないか、統制できないような部分である。そこで他者はエゴの表出行動のうち彼には支配し得ないと考えられる部分を、彼が支配し得る部分によって伝達されるものの妥当性を照合する手掛かりとして利用することがある。この際、コミュニケーション過程に存在する基本的非対称性が露呈するのである。おそらくエゴは自分のコミュニケーションのただ一つの流れだけにしか気づかず、目撃者はこの流れともう一つ別のコミュニケーションに気づいている。(p.8)

作業のための黙契
 エゴが他者の前に登場して状況の定義を投企することを認めると、われわれはまた、他者はその役割がどれほど受動的なものであろうと、彼らがエゴに反応するということによって、そしてまた彼らがエゴに向けて開始する行為――それがどのように展開するのであれ――によって、彼らの側でも同じ状況に実効をもつ定義を投企する、ということを見逃してはならない。普通は、何人かのことなった参加者が投企する状況についてのさまざまの定義は相互にかなり調整されているので、あからさまの矛盾はおきない。右のようにいうことで、おのおのの行為主体が率直に承認するときに生ずるような種類の一致がある、と私はいおうとしているのではない。この種の調和は楽観的な理想であって、いずれにしても社会の円滑な運行に必要なものではないのである。むしろ、各参加者は、彼がその場で心に感じたことを抑制して、他者にすくなくとも一時的には受け容れられると彼が感知した状況把握をするように、期待されているのである。合意のこのような表面性、一致のこの薄っぺらさ、を維持することは、同席する各人がそれに対しては口先だけも肯定しておかねばならぬと感じているような価値を肯定する言明の背後に参加者各人が自分自身の要求をかくしておくときに、容易になるのである。さらにそのような場面には、通常一種の定義をする仕事の分業ともいうべきものがある。参加者各人は自分にとっては決定的に重要な、しかし他者には直接重要でないような、事柄――たとえば参加者各人の過去の所行を説明する際の合理化および正当化――については試行的な公的規約を制定することを許容されている。このような慎み深さcoutesyを守る代りに、彼は他者にとって重大なことで自分には直接重要ではない事柄には沈黙を守る、あるいは干渉がましいことは一切しないのである。この場合、われわれは一種の相互行為の暫定協定をもつことになる。参加者は協同して、状況に関する単一の包括的規定を設定する。その包括的規定とは、実際に存在する事態の現実に即した合意ではなく、むしろどの問題点についてはだれの要求が暫時尊重されるかに関して、現実に即した合意を含むものである。現実的合意は、また当該の状況の定義についての公然の矛盾を回避することが望ましい場合にも存在している。私はこのレベルの合意を<作業のための黙契working consensus>と呼ぼう。(pp.11-12)

状況の定義と道徳的性質
 エゴが投企する状況の最初の定義は、爾後の協調的活動の見取図になる傾向があるという事実を強調するとき――つまりこの行為という視角を強調するとき――状況について投企された定義は、それがどのようなものにせよ、判然とした道徳的性質こそこの報告でわれわれが主として関心を払うものである。社会は、いくつかの社会的特性をもつ行為主体はだれでも、他者が自分をその特性に相応しい仕方で評価し、処遇して然るべきであると期待してよい道徳的権利をもっているという原理に基づいて組織されている。右の原理には、自分はしかじかの社会的特性をもっているということを陰に陽に示す行為主体は、この要求が他者に尊重されて当然であり、したがって、自分は事実間違いなく要求通りの者であるべきだという第二の原理が結びついている。したがって、ある行為主体状況の定義を投企し、さらにある特定の種類の人物であるということを陰に陽に主張するとき、必然的に彼は他者に向かって道徳的要求を行ない、彼と同類の人物が期待する権利のある仕方で自分を評価し、処遇することを他者に義務づけるのである。彼はまた暗黙のうちに自分の外見と両立しないさまざまのものに対する一切の要求を差し控え、したがって自分の外見と両立しないさまざまのものをもつ人々に相応しい処遇は求めないのである。このようにして他者は、この行為主体が彼らに〔自分が〕何であるか、そしてまた彼らが何をこの〔行為主体の〕<実際の姿the "is">として見るべきかに関して知らせたことを了解するのである。(p.15)

防衛的措置と保護的措置・察し 自己の状況の定義を守ろうとすること、他者の状況の定義を守ろうとすること

 投企された定義の攪乱を防ぐために予防措置がとられるという事実に加えて、そのような攪乱に対する関心が集団内の社会生活において重大な役を果たすようになるということにも、注意を喚起しておこう。大真面目にとられる心配のない当惑が故意につくりだされるようないたずらや社会的ゲームが行われる。ひどい暴露が行なわれるような非現実的物語もつくりだされる。真実の、あるいは真偽入り混じった、あるいは虚構の過去の挿話が再三語られる。そのような挿話には、実際におきた、あるいはおきかかった、あるいは実際におきたが見事に解決された破局的出来事が細部にわたって描きだされている。ユーモアの種、不安の解消剤、さらにまた人びとが自己主張するにあたっては控え目を、また期待を投企するにあたっては、節度を勧告するサンクションとして用いられるゲーム・空想物語・教訓譚が手近にあってすぐに用立てられないような集団はまったく存在しないと思われる。エゴがあり得ぬ立場に立つという夢に託して自己自身を語ることもある。(pp.16-17)

用語
この報告の目的からいって、相互行為interaction(すなわち、対面的相互行為)は、大まかに、双方が直接身体的に相手の面前にあるとき、それぞれの行為主体が〔与え合う〕相互的影響としておこう。ある特定の相互行為とは、特定の組み合わせのの複数行為主体が、相互に継続的に同席する一定期間内に生起する一切の相互行為全体、と定義できよう。<出会いencounter>という用語でもよかろう。ある<パフォーマンス>とは、ある特定の機会にある特定の参加者がなんらかの仕方で他の参加者のだれかに影響を及ぼす挙動の一切、と定義しておこう。特定の参加者および彼のパフォーマンスを基本的準拠点とすると、他のパフォーマンスを寄与する人々をオーディエンス、観察者observer、共同‐参加者co-participantとよぼう。あるパフォーマンスの間に開示され、別の機会にも呈示されたり、演じられたりする既成の行為の形式は、<役目part>ないし<ルーティーン>とよべよう。右の状況に関連する用語は、容易に、従来用いられてきた構造に関連する用語との関係を明らかにすることができるであろう。行為主体ないしはパフォーマーが異なる機会に同一オーディエンスに向って同一の役目を演ずるとき、一定の社会関係が成立する傾向がある。社会的役割をある地位に結びついた義務と権利の実効enactmentと定義すると、社会的役割は一つないしそれ以上の役目を含み、これらの異なった役目のおのおのは一連の機会に同種のオーディエンスあるいは同じ人びとからなるオーディエンスに向けて、呈示されることになる、ということができよう。(p.18)

外面=エゴがパフォーマンスの過程で意図的あるいは無意図的に用いる標準的な型の表出装備、の部分
1 舞台装置setting
2 個人的外面personal front
  (見せかけ・外面appearance・態度manner)

理想化
このようなわけで、エゴが他者の前に自己自身を呈示するとき、彼の行動が全体として実際に吸収し、具体的に示している以上に、彼のパフォーマンスは社会の公的に評価する諸価値を吸収し、具体的に示そうとする傾向があるのである。(p.40)

 すでに私は、パフォーマーは理想化された自己自身ならびにパフォーマンスの結果に背馳するような活動・事実・動機をかくしたり、あるいは目立たないようにする傾向があると指摘した。加えて、パフォーマーはオーディエンスに、自己が理想的自己とか理想的なパフォーマンスに通常の場合以上に理想的な仕方で関わりをもっていると信じさせようとする。(p.54)

表出的統制の維持
 すでに指摘されたところによれば、パフォーマーは、自分のパフォーマンスに何か重要なことがあれば、その記号として、ささいな手掛かりを〔示して〕どう受け容れるかはオーディエンスにゆだねる、ということであった。この便利な事実は不便なことを含意している。まさにこの記号‐受容という傾向のため、オーディエンスはる手掛かりがそれを伝達するために考案された当の意味を誤解するかもしれない。あるいは、偶然のものであったり、不図でてしまったり、瞬間的であったり、またパフォーマーが何も伝達するつもりでしたのでない出来事に〔パフォーマー自身が〕当惑するような意味が読み込まれていることがあるかもしれない。(p.58)

〔しかし〕このようなささいな偶発事とか<何気ない仕草unmeant gesture>のなかには、パフォーマーがオーディエンスに抱かせた印象と矛盾する印象を与えるように非常に巧妙に工夫されたものもあって、その結果、オーディエンスは、最終的なところ〔さきのパフォーマンスと〕不調和な出来事は実際には大した意味はなく、完全に無視されて然るべきものと気づくことがあっても、〔パフォーマーとの〕相互行為への適度の包絡から離脱せざるを得なくなるのである。重要な点は、ある何気ない仕草によってひきおこされた状況の一過的定義自体に問題があるということではなく、ある何気ない仕草によってひきおこされた状況の一過的定義自体に問題があるということではなく、そのような定義は公式に投企された定義とは異なっている、ということである。この種の差異は公式の投企とリアリティの間に当惑をひきおこすくさびをするどく打ち込むものである。(p.59)

あまりにも人間臭い自己all-too-human selfと社会化された自己socialized self

偽りの呈示
 すでに指摘されたように、オーディエンスはパフォーマンスに現れたさまざまの手掛かりをそのまま受け容れるか、それらの記号を何か記号‐搬送体自体より優れたもののあかしと扱うか、あるいはそれとは何か別のもののあかしと扱うかして、一定状況内に定位することができる。したがって、逆にもし記号をこのように受容するオーディエンスの傾向が、パフォーマーを誤解される立場におき、オーディエンスを前にしたときにはパフォーマーをして挙動一切に表出上の配慮をせざるを得なくなるさせるとすれば、また同時に記号を上記のような仕方で受容する傾向は、オーディエンスをも欺かれ迷わされる立場におくのである。というのはその場に現存しないものの存在を証明するために、使用できないような記号はほとんどないからである。しかも多くのパフォーマーは事実を偽って呈示するmisrepresent能力も動機も豊かにもっているのであって、ただ恥・罪・恐れだけが彼を引き止めているにすぎない。(p.67)

見せかけとリアリティ
このことが示唆することは、人びとは通常見せかけのものになりおおせながら同時に〔そのつもりさえあれば〕そういう見せかけを操つることができる、ということである。また見せかけとリアリティの間には、内在的関係もなければ必然的なそれもなく、統計的関係があるだけである。(pp.82-83)

心理劇
 心理療法の技法として<心理劇psychodrama>が最近使われているが、これは上述のことと関連して、さらに別の問題点を示している。そのような精神医学的に演出される舞台では、患者たちはいろいろな役回を、かなり達者に演ずるばかりでなく、演ずるとき全然台本を使わないのである。彼ら自身の過去が、それを舞台の上で彼らが再現できるような形で彼らに利用できるのである。明らかに、過去において正直に真剣に演ぜられた役回が のちにそれを人に見せるように仕組む立場に、彼をおいているのである。さらに過去において彼に対して重要な関わりをもった他者たちがsignificant others演じたさまざまな役回も利用でき、昔の自分のあり方から、昔自分に対していた他者たちのあり方へと変ることもできるのである。すでに演じられた役割を、変えざるを得ないときに変え得るこの能力はあらかじめ推測することができたはずである。というのは明らかにこのことはだれにでもできることだからである。なぜなら、現実の生活において自分の役目を遂行する仕事を習得する際に、われわれは、自分が応対する人びとのルーティーンに初めから通じていたことをあまり意識せずに自己の演出を方向づけているからである。またわれわれが現実のルーティーンを適切に操作できるようになるのは、一つには<予科的社会化anticipatory socialization>、すなわちいままさにわれわれにとって目前のことになっているリアリティをあらかじめ教えられていること、によるものなのである。(p.84)

個人的外面の使用
さらにわれわれの見るところでは、パフォーマーの個人的外面は、それによって〔他者の眼に〕映りたいと彼の念ずるように自己自身を呈示することができるからというよりは、彼の外面や態度が広範囲の場面に対してもなんらかの意味をもち得る、用いられるのである。(p.90)

チーム
 チームという概念によって、われわれは一人ないし一人以上のパフォーマーの遂行するパフォーマンスを考えることが可能になるが、それはまた別の場合をも含むのである。すでに指摘されたように、パフォーマーが、ある時点で、自分が人に抱かせたリアリティについての印象は唯一無二のリアリティであると確信して、自分自身の行為によって欺かれることがある。このような場合、パフォーマーであり、かつ同時観察者なのである。おそらく他者の前で維持しようとしている基準を心のうちに感じているintroceptないしは取り入れてincorporateいるので、彼の自意識で社会的に適切な仕方で行為することを彼に要求するのであろう。パフォーマーとしての立場にあるエゴは、オーディエンスとしての立場にある自己自身から、パフォーマンスについて、これまで習得しなければならなかったさまざまの不信を招く事実かくさなければならないだろう。つまり日常的に表現すると、自分が知っている、あるいはいままでに知ったことで、自分自身にいうことができないようなことがあるということである。この種の手の込んだ自己‐瞞着工作self-delusionはたえず生じていている。精神分析家たちは、抑圧ならびに関係分離という見出しで、この種の見事な臨床例を提供している。おそらくここにわれわれは、従来<自己‐疎隔self-distantiation>とよばれてきたもの、すなわち個人が自己自身を疎遠に感ずるようになる過程、の源泉をもつのであろう。
 パフォーマーが自己の私的活動を内面化した道徳的基準に従って方向づける場合、彼はそのような基準をなんらかの準拠集団に結びつけ、自分の活動に対して眼前には不在のオーディエンスをつくりだす。このような可能性はわれわれをさらに別の可能性の考察へと導く。行為主体は社会化した個人としては信じていない行動基準をひそかに保持することがある。それが保持されるのもそのような基準からの逸脱を罰する見えないオーディエンスが現存しているという信憑が生きているからこそである。いい換えれば、エゴは自己自身のオーディエンスであることもあるし、あるいはオーディエンスが現存していると想像することもあるのである。(いずれの場合にも、われわれはチームという概念と個人的パフォーマーちおう概念の間の分析上の差を認める)。右のことからわれわれは、チームも、行為を目撃する肉を備えて眼前に存在するのではないオーディエンスのためにパフォーマンスを演ずることがある、ということを認めざるを得なくなる。(pp.94-95)

 以上のことからチームとは、状況に関してある特定の定義が維持されるものとすれば、緊密な協調〔相互に〕必要な一組の人びとと定義されよう。チームは一つの集合である。がしかし、特定の社会構造ないし社会組織に関連して形成される集合ではなくして、状況に関わる定義が維持されている相互行為ないしは一連の相互行為に関連して形成される集合なのである。(pp.121-122)

局域
 局域regionとは、知覚にとって仕切りになるもので、ある程度区画されている場所と定義されよう。いうまでもなくそれぞれの局域は、それが区画されている程度の上でも、またそこで知覚にとって仕切りとなるものが成立するコミュニケーション媒体によっても差異がある。(p.124)

 特定のパフォーマンスを準拠点とした場合、そのパフォーマンスが行われる場所をいい表すのに<表‐局域front region>という術語を用いるのがよかろう。このような場所の固定的な記号‐装備sign-equipmentは外面のうちの<舞台装置setting>とよばれる部分としてすでに言及されたものである。(p.125)

丁重さpoliteness・作法decorum

 裏‐局域あるいは舞台裏とは、特定のパフォーマンスに関して、該パフォーマンスが人に抱かせた印象が事実上意識的に否定されている場所と定義できよう。いうまでもないことであるが、このような場所には多くの独自の機能がある。ここであるパフォーマンスのそれ自体を超えたことを表現する性能が苦心してでっち上げられ、ここで幻想や印象が公然とつくり上げられ、またここに小道具や個人の外面を形づくる細々としたものが、演技や役柄の全レパートリーとい一種の折畳み式の形で収納されているのである。(p.131)

 これまで二つの型の画定された局域が考察されてきた。一つはある特定のパフォーマンスが現に進行中あるいは進行するはずの表‐局域であり、他は該パフォーマンスに関係がありながらそれがつくりだしている見せかけとは矛盾している行為の生ずる裏‐局域である。〔ここで〕第三の局域、すなわち残余の局域、つまりすでに確認された二つの局域以外の全地域、加えることに異論はないことと思われる。このような局域は<局域外outside>とよべよう。特定のパフォーマンスに関して表でも裏でもない局域外という概念は、社会施設についてわれわれが常識的にもっている概念に合致する。すなわち、たいていの建物を見ると、そのなかには定期的 または一定期間だけ裏‐局域あるいは表‐局域として使用される室があり、その建物の外壁は右の二種類の室を外部世界から遮断しているのである。施設の外部にいる人びとをわれわれは<局外者outsider>とよぼう。(p.156)

 この報告の第一章で指摘されたところによれば、パフォーマーは自分が現時点で演じている役割は自分にとってもっとも重要な役割であり、彼らが自己のものと主張するかあるいは〔他者によって〕彼らに帰属される諸属性は、自分にとってもっとも本質的で特徴的な属性である、という印象を与える傾向があり、またこのような印象に矛盾しないようにする傾向があるということであった。オーディエンスは、自分に向けられた行為を見て、その行為に幻滅を覚えることはもちろんあるが、自分に向けられたのではない行為を見て、その行為に幻滅を覚えることがある。(p.158)

破壊的情報と情報統制
 どんなチームでも、そのチームのパフォーマンスがつくりだす状況の定義を維持することをもって、あらゆる目標に優先する目標としている。このような姿勢は、いくつかの事実についてはコミュニケーション過剰となり、他の事実についてはコミュニケーション過少を生ずる。パフォーマンスが劇化している。リアリティの脆弱さとそれについて必要とされる表出的整合性は不可避的である以上、パフォーマンスの進行中、もしそれらに注意が向けられれば、該パフォーマンスが人に抱かせている印象を混乱させ、それへの不信を招き、あるいはそれを無用にするであろうような事実が存在する。このような事実は、<破壊的情報destructive information>を提供するといってよかろう。以上のようなことから、多くのパフォーマンスにとって一つの基本的問題は、情報統制information controlの問題である。すなわち、現にオーディエンスに対して定義が行われている状況に関する破壊的情報を、オーディエンスに渡してはならないのである。いい換えれば、チームは秘密を保持し、その秘密を漏らさないでおくことができなくてはならないのである。(p.165)

秘密の類型
1 <暗いdark>秘密
2 <戦略的stragitec >秘密
3 <部内inside>秘密
あるチームが他チームの秘密についてもち得る情報の類型
1 <信託されたentrusted>秘密
2 <随意的free>秘密

パフォーマンスの枢軸的役割
1 パフォーマンスを遂行する人びと
2 パフォーマンスの対象になっている人びと
3 その行為においてパフォーマンスを遂行することもなければそれを観察することもない局外者

パフォーマンスの分裂的役割
1<密告者informer>
2<さくらshill>
3<秘密監査人spotter>
4<仲介人>
5<番外の人間non-person>

パフォーマンスの進行中には同席しないが、それについて以外にも情報をもっているような含まれる人
<サービス・スペシャリスト>
<腹心confidant>
<同類colleague>

役柄
 二つのチームが互いに相互行為を目的として自己を呈示する場合、各チームの構成員たちは、自分たちが自称するとおりのものであるという建前を維持しようとする傾向がある。すなわち、役柄characterにとどまる傾向がある。(p.197)

同時に、各チームは自チームおよび他チームに関して率直な見解を抑圧し、自己ならびに他者に関して相手にも比較的受容しやすい像を投企する。(p.197)

役柄から外れたコミュニケーション
 右のような行為進行のための黙契、ならびにこの限定的黙契が基礎をおく相互行為を中断しないようにしようという紳士協定の下および背後に、典型的には比較的目立たないコミュニケーションの流れがある。これらの流れが底流ではなく、またその意味するところが暗黙のうちに伝達されるのではなく、公然と伝達されるようなことがあろうものなら、比較的目立たないコミュニケーションは、参加者が公式に投企している状況の定義に矛盾し、それへの不振を招くことになろう。具体的な社会組織を研究すると、このような分裂的感情がほとんどつねに認められる。この分裂的感情が示すのはつぎのことである。すなわち、状況内での反応が直接的で、なんら思量されたものではなく、自発的であるかのようにパフォーマーは振舞い、自分でもそれが真実だと考えるであろうが、そこに同席する一、二の人に、自分が維持している見せかけはたんに演技にすぎないという了解を伝達するような状況が生じる可能性はつねに存在するのである。したがって、役柄からはずれたコミュニケーションの存在は、さまざまなパフォーマンスを、チームという観点ならびに相互行為攪乱の可能性という観点から研究することが適切だという論拠を与えるのである。くり返していうならば、暗黙のコミュニケーションのほうが、それとは矛盾する公然のコミュニケーションよりも、真のリアリティを反映しているというような主張がされているのでは全然ない。要は、典型的には、パフォーマーは双方の型のコミュニケーションに包絡されているのであって、〔状況の定義の〕公式的投企への不信を招かないようにするために、この二重の包絡は注意深く操作されなくてはならない、ということなのである。(pp.198-199)

この報告の関心事
この報告の関心事は、日常生活に忍び込んでいる劇場的諸側面ではない。この報告の関心事は、社会的出会いの構造――社会生活において、人びとが互いに直接肉体をもった者として人前にでたときに存在し始めるようなさまざまの事象の構造――である。この構造の核心的因子は、状況に関して単一の定義を維持すること、すなわちこのような定義は表出されねばならず、またこのような定義は無数の潜在的攪乱のただなかで維持されねばならない、ということである。(pp.300-301)



*作成:篠木 涼
UP:20080516 REV:2008118,20090804
Goffman, Erving  ◇社会学 sociology  ◇身体×世界:関連書籍 -1970'  ◇BOOK
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