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『すばらしい新世界』

Huxley, Aldous Leonard 1932 Brave New World

松村達雄 訳 1974 講談社文庫, 315p.


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■Huxley, Aldous Leonard 1932 Brave New World=松村達雄 訳 1974 『すばらしい新世界』, 講談社文庫, 315p. ISBN-10: 4061370014 ISBN-13: 978-4061370012 [amazon]


出版社/著者からの内容紹介
人工授精やフリーセックスによる家庭の否定、条件反射的教育で管理される階級社会――かくてバラ色の陶酔に包まれ、とどまるところを知らぬ機械文明の発達が行きついた“すばらしい世界”!人間が自らの尊厳を見失うその恐るべき逆ユートピアの姿を、諧謔と皮肉の文体でリアルに描いた文明論的SF小説。 [イベント。
Book Description
When the novel Brave New World first appeared in 1932, its shocking analysis of a scientific dictatorship seemed a projection into the remote future.
Here, in one of the most important and fascinating books of his career, Aldous Huxley uses his tremendous knowledge of human relations to compare the modern-day world with his prophetic fantasy. He scrutinizes threats to humanity, such as overpopulation, propaganda, and chemical persuasion, and explains why we have found it virtually impossible to avoid them. Brave New World Revisited is a trenchant plea that humankind should educate itself for freedom before it is too late.
--このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。


■言及

Bourdieu, Pierre ; Passeron, Jean-Claude 1970 La reproduction : element pour une theorie du systeme d'enseignement, Editions de Minuit(=19910425, 宮島喬訳『再生産――教育・社会・文化』藤原書店).
(p188)
 それゆえ、試験が、文化的遺産の正統化の機能を、またその正統化によって既成秩序の正統化の機能を完ぺきに果たすには、かくも多くの大学人が全国的 ・ 匿名的競争試験についていだいているジャコバン的な信頼が、試験にいっさいの科学性と中立性の外観をもたらすもろもろの測定テクニックにまで及ぼされればよいということになる。 形式的には文句のつけようのない、職業ポストに就く者の能力を所与の時点で測定するのだとするテストほど、この社会正当論の機能をたくみに果たしてくれるものもないが、そのさい、この能力が、いかに早期に把握されたものであれ、社会的に性格づけられた学習の所産であること、もっとも予測的な測定は社会的にはまさにもっとも中立性を欠いていることが忘れられている。 じっさい、テストを、メリトクラシーであるアメリカ的民主主義の特別な道具であり保証だとする、ある種の記述の行間に読みとることができるのは、「エリートの周流」 も 「大衆の反逆」 もまぬがれているような一社会の、新パレート主義的ユートピアにほかならない。 「文化的 ・ 職業的地位の付与の基準としての能力テストが信頼を増しているが、そこから考えられる一つの結果は、能力にもとづいた、しかし、より強固な一個の階級構造かもしれない。 個人が才能に乏しい両親の下にうまれたとき、能力の遺伝的性質は、厳密な選別テストの一般的使用とあいまって、個人をその他位に固定化することだろう。 階級内婚が多いことを考えると、けっきょくは世代間の上昇はいよいよむずかしくなると予想される(37)」。 ユートピストたちは、このような選別システムが、あの 『すばらしい新世界』 のデルタたち 〔A ・ ハックスリーの上記の逆ユートピア小説 (1932年) に登場する人工受精による画一的な双生児たちで、低階層を運命づけられている〕 のように、しんがりのしんがりで、しかもそれで満足すべきだと思いこまされている 「下層階級」 の成員にもたらさざるをえない 「意気阻喪」 効果をえがいている。 しかしそのとき、かれらは、もっぱら能力または無能力の本来的性格をつよめる学校の傾向を過小評価しているため、本来的能力をつかむのだとするテストの能力をおそらく過大評価していると思われる。


中川米造, 19770215, 『医の倫理』玉川大学出版部.
(pp46-48)
 科学の大きな価格の一つに予見することが含まれている。オーギュスト・コントは、科学は予見すること、その予見から行為することだとした。知ることは、予見するため、予見するのは行為するためだというのである。しかし、予見できれば、直ちに行為にうつれるかどうか。
 一九三二年、オルダス・ハクスレーは『すばらしい新世界』(原題Brave New World)というS・Fを発表した。生物学や医学の発達によって受精卵一個から数十人の同一人間を発生させたり、人工胎盤に栄養コントロールをして種々の能力を発展させ、条件反射によって性格まで計画的につくりだす未来社会を描いている。彼の描いた世界にまでは、まだ到達していないが、必要なだけ研究資金さえ投入すれば、遠からず実現可能になるような状況にある。
 『すばらしい新世界』は、「ロンドン中央人工孵化・条件反射育成所長」は新入りの見習生に訓辞する場面から始まる。所長はいう。「明日ともなれば、諸君は真剣な仕事にとりかかってもらわねばならない。諸君は概論などもてあそんでいる暇はないのだ。……もし社会の善良にして幸福な一員であろうとするならば全般的理解はできるだけ最少限に止めておくことだ。それは、だれしも知っているように、専門的知識は徳と幸福を増進するが、全般的知識は知的見地からいって必要やむを得ざる災害なのだから」と。[p47>
 それから四一年たった一九七三年、ウィーンで開催された第四回国際出産欠陥学会で、ワシントン大学のA・G・モツルスキー教授は、遺伝的疾患の予防・治療および研究の倫理についての総括的講演をおこなったが、その題は『すばらしい新世界?』とハクスレーのS・Fの表題に疑問符をつけたものであった(15)。
 出産欠陥学とは見慣れない言葉だが、要するに、身体的に重大な障害をもって分娩された小児に関する学問で、とくに、最近、ほぼ実用段階に達した。多くの重大な先天性疾患を、妊娠中に予知するための新知識や、技術についての情報交換や討議をおこなう場である。とくに、妊娠子宮から、少量の羊水を採取して、その中に浮んでいる胎児起原の細胞や、微量物質を検査すれば、妊娠中に、かなりの正確度をもって、それぞれの重大な遺伝的、あるいは先天的障害が判別できるので、「予防的」に妊娠中絶させることで、実用化できるという考えが生まれた。
 ごく常識的に考えても、どのような親でも身体精神発育に重大な障害をもつ子供をもちたいと思うものはないはずであり、とくにわが国では、障害の有無にかかわらず、ほとんど、妊娠中絶が野放しになっている状況でもあり、出生前診断と、その結果によって、中絶をすることは、また医学の輝しい栄光の一頁をひらくものとうけとめられた。気の早い地方自治体では「不幸な子供を生まぬ運動」という名をつけて、自治体が音頭をとり、もちろん予算もつけて、その実現にふみきったところもでた。
 アメリカでは、これをもっとすすめて、結婚以前に、予知できる、劣性の、重大な遺伝病の遺伝子をもつものを、あらかじめチェックすることで、自然淘汰の機会を失って、総体として劣悪化しつつ[p48>ある人類の形質を、人為的にコントロールすべきであるという提案がなされた。ポール・ラムゼイは、これを「遺伝子の予告制度」とのべたし、ノーベル化学賞の受賞者ライナス・ポーリングは、鎌状赤血球貧血症(これは赤血球が円板状でなく鎌状になり、重度の貧血症をおこす)、その他の有害な劣性遺伝子をもつ青年には、すべて頭にイレズミを入れさせてはという突飛な提案をしたこともある。


Singer, Peter ; Walters, William A. W. eds. 1982 Test-Tube Babies: A Guide to Moral Questions, Present Techniques, and Future Possibilities, Oxford University Press(=19831024, 坂元正一・多賀理吉訳『試験管ベビー』岩波書店).
(pp66-68)
 もし「生命の尊厳」という教義が、われわれの価値体系の中でその中心的位置を失ってしまったのならば、そして、もし、それがわれわれの行動を正しく導くことができないのならば、もう一度いいたいのだが、このことは「すべては許される」ことを意味するのだろうか。もっとはっきりいうと、体外受精や胚移植は道徳的に承認しうる方法であると結論づけられるのだろうか。われわれはそう結論はできない。というのは、私の指摘が十分に展開された議論というよりも概要にすぎないからでもあるが、それだけではなく、「生命の尊厳」説をもとにした体外受精への反対は支持できないとしても、支持できる別の反対論があるかもしれないからである。
 可能と思われる反対論を、問題はあるが、一つ挙げてみよう。この反対論は、きわめてむずかしい予言に基づいているからというだけではなく、その倫理的理論自体にジレンマがあるから問題なのだが。その反対論では、われわれは、体外受精の技術や、生殖活動と性行為の分離には、本質的には間違った点は何もないことや、過剰のヒトの胚を捨てることと、それを最初から意識的に作らないこととの間には、何ら道徳上違いはないことに同意しても、そのような方法がもたらしうる結果を理由に反対するかもしれないのである。「すばらしい新世界」(オールダス・ハックレーの"The Brave New World".訳注)の幽霊が想像力に付きまとっているのだ。[p67>
 どういうことかというと、体外で生命を創始できるような新しい技術が、同様に他のものも創り出す可能性があるだろうというのである。これらの新技術は、この芽生えつつあるヒトの生命の遺伝子構造を操作できる遺伝子工学やクローニングを可能にするだろうというわけである。もう一度いうが、このような技術そのものには間違った点はないかもしれない。それどころか、われわれは、DNAの組み換え技術を用いて、三〇〇〇以上も知られている染色体異常や遺伝子異常をなくすことができるかもしれないし、遺伝子の「手術」をうけて生まれる子供たちは、これらの技術のおかげで、そのまま生まれた場合よりも自分たちの人生がずっと素晴らしいものになったと喜ぶかもしれない。しかし、貨幣には必ず裏がある。一九七九年に、ボストンのマサチューセッツ工科大学の微生物学教授であるジョナサン・キング博士は、遺伝子工学の可能性について次のように論じている。「科学者たちは、まもなく、新しい人種を付け加えることができるであろう。それは民間企業まるがかえの三本腕の人間という人種だ。おそらく彼らへの食料の供給がまず第一の問題で、たとえば四本足の鶏などいかが。二本の余分な足が明らかに役に立つ(*22)。」この鶏は、一九七九年にはまだ作り話だった。しかし、一九八一年の今、それは現実になっているのである。最近の新聞は、四本足の鶏が初めて作られ、うまくいっていると伝えている。現在、三本腕の人間はまだSFの領域にあるが、それもいつまでのことだろうか。そして、もしわれわれが三本腕の人間を生み出すことができるようになったら、このような[p68>発展に対処するためにはどのような道徳的議論を提起できるだろうか。
(pp144-145)
 宗教的考察はさておくとしても、われわれの人間としての始まりは、両親の人間的な愛の行為に存するということに本質的な価値があるということはできよう。むろん、すべての妊娠がこの尊厳をもっているというわけではない。それでも、ポール・ラムゼイのいうように、「……基本的にこれら二つを分離してしまえば、……人間が親になることの本質に敬意は払われないのである(*9)」。これは、人間の生殖を動物の繁殖から区別することを意味している。
 さきほどの言葉を引用したラムゼイの著書『作られた人間』は、主として、「すばらしい新世界」的な計画と、ある遺伝学者の夢を扱った本である。自然が無作為につくる人間よりもすぐれた型の人間を設計し、製作しようというこの計画の背景には、神のような威厳ある叡知があることになっては[p145>いるがこれに異議を唱えてもおかしくはない。しかし、それよりももっと根本的には、人間の生殖を非人間化することは人間性への侵害であるという点での反対である。もしわれわれがナチスが奨励したといわれる選択的な子孫づくりに嫌悪の念を感じるとしても、それはかならずしもわれわれがアーリア人(ナチ主義の用語。非ユダヤ人の意。訳注)を嫌うためではない。
 体外受精・胚移植は遺伝子工学に不可欠の条件ではあるが、必ずしも遺伝子工学に通じるわけではない。体外受精・胚移植そのものの利点が評価に値するのである。確かにこの手法は医学技術者の参加を必要とするほどにまで非人間化されてはいる。しかし、医学技術者が試みようとしているのは、夫婦のために、夫婦の愛の行為ではなしえないことを成功させることなのである。彼は「すばらしい新世界」のための人間孵化場をつくるために人間の生殖を人間の愛から分離しようとしているのではない。これはラムゼイがまさしく反対した「基本的な」分離ではない。それは、愛と生殖の間の人間的なつながりの否定ではなく、彼らの愛が求めている生殖を達成しようとする試みである。それは夫婦の関係に忠実であるし、それなりに夫婦の関係を表現している。前に引用した女性はメルボルンの新聞インタビューで次のように述べている。「私たちは一心同体です。この赤ちゃんは(夫の)私に対する、そして私の彼に対する愛の証なのです。」
(pp166-167)
 生命の誕生の時から人間の介入を受け入れないという立場は、自然が起こり得ないと定めたことは起こってはならないという考えに基づいている。しかし、不妊の夫婦にとって、この考えは、彼らが不妊のままでいなくてはならないことを意味する。つまり、通常の受胎の手段で子供が生めないのなら、彼らは、子供のないままでいなくてはならないし、子宮の外部で「創造された」子供をもつことはできないのである。この見解によれば、両親の生殖に関与する材料、すなわち卵子と精子を取り出し、それを人体の外部で受精させることは、その結果生じる産物をとにかく非人間的なものにすることになる。それは、ハックスレーの「すばらしい新世界」のロンドン中央孵化試験所と五十歩百歩でしかない。[p167>
 このような見解は、本質的には反技術の態度であり、「自然に」妊娠する子供だけが正当であるというわけである。しかし、「自然な」妊娠と体外受精による妊娠の二つの違いは何であろうか。その答えは、結婚による夫婦の結びつきと受胎という営みとがどのような関係にあるのかという観点からふつうは引き出される。しかし、そうすると、意図的なもの(つまり体外受精)ではなく肉体的な関係が胚の地位を決定し、したがって、偶然の出逢いの結果として受胎することの方が、実験室で生じる受胎よりも道徳的に優っている、ということになってしまう。
 しかし、体外受精の利用に対する反対の根拠は、現在使用されている技術というよりは、むしろ、この技術を用いて、現在可能な方法とは根本的に異なるやり方で新しい型の人間を「創造」するところまで進むようなことが実際におこるのではないかという可能性にあるのである。ここでの議論は結果論的なものである。この議論は、しばしば技術それ自体に対する反対と結びついているが、懸念されているのは、将来起こるかもしれない事柄なのである。


Singer, Peter ; Wells, Deane 1984 The Reproduction Revolution : New Ways of Making Babies, Oxford Univ. Press / Oxford [Oxfordshire] ; New York : Oxford University Press PTBL:Studies in bioethics, ISBN:0192177362 ; 0192860445 $25.90 (U.S.) ; $6.95 (U.S.) =19881120 加茂直樹訳,『生殖革命――子供の新しい作り方』,晃洋書房.
(pp62-70)
 オルダス・ハックスリーの有名な小説『すばらしい新世界』は大部分の読者が反発を感ずるような社[p63>会を描いている。家族は廃止されている。すべての人間は試験管で作られ、懐妊は実験室で行なわれる。9ヶ月経過すると、彼らは生まれるのではなく、「移し変えられる。」幼児期と子供時代は共同生活をして過ごす。「母性」というようなことばは狼褻であるとみなされる。子供時代に、だれもが昼も夜も集中的な洗脳を受ける。夜には子供たちは「睡眠学習」をする。つまり、眠っている間中、猫なで声が彼らに道徳的教えを吹きこむのである。彼らは、乱交が道徳的義務であること、快楽の追求が人生の目標であること、彼らが住む世界を改善するのはほとんど不可能であることを教えられる。厳しい階級構造が遺伝工学によって維持されている。社会はアルファ(知的エリート)、ベータ(二次的な責任を引き受けることのできる人々)、ガンマ、デルタ、エプシロンの5つの階級に分けられる。エプシロンは半ば白痴の人々であって、最も退屈な仕事を欲求不満を感じないで行なわせるために遺伝的に作り出される。アルファとベータだけが外見上の個別性を持っている。その他の階級はクローニングと同じ結果を生み出すシステムによって大量生産される。ガンマ、デルタ、あるいはエプシロンに属する人は90数人の一卵性の兄弟または姉妹を持つであろう。しかし、だれもが人生における自分の地位に無上の幸福を感じ、それ以外のことを望まないように条件づけられでいる。
 ハックスリーは1932年にこれを書いたのであるが、彼はこの小説の年代をフォード後682年、つまり西歴では2629年に設定している。後に1950年版の序文において、彼は一世紀の間にこれが現実化する可能性があるど述べた。現在、多くの人々はハックスリーが描いたような社会の到来がず[p64>っと近づいていると信じている。『誰が神を演ずるか』〔邦訳 磯野直秀訳『遺伝工学の時代』岩波現代選書NS、1979年〕は体外受精、クローニング、遺伝工学を論じた書物であるが、著者のテッド・ハワードとジェレミー・リフキンは、新しいバイオテクノロジーが一歩一歩、企業ベースで民営事業に導入されていくであろうと予言している。

 ある期間(これから25年ないし50年)の間に、このような歩みが積み重なって、企業版のすばらしい新世界が出現するであろうが、それはハックスリーが40年ほど前に想像した世界と似ていなくもないだろう。人間が最終的に奴隷化されるまでの道程はそれほど劇的なものではないだろうが、その結果は狂気の独裁者が容赦なく押しつけるものに劣らず戦慄的である。ハックスリーの描く世界との唯一の真の違いは、われわれがその道程を無抵抗に、場合によっては喜んで受け入れ、苦痛も不便も感じることなく、気づきもしないで、この新世界に入って行くだろう、という点にある〔邦訳書、264ページ〕。

 ハワードとリフキンが述べているのと同様の主張は、体外受精およびこれと関連する子供の作り方の進歩についての無数の新聞雑誌の記事に見出される。ロバート・エドワーズが実験室でヒトの卵子を成熟させる最初の試みの成果を発表した1965年に、サンデー・タイムスは早くもこの実験は「オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』を思い出させる」と書いた。それ以来、このきまり文句は単調な規則性をもって繰り返されてきた。その意味は、これらの新しい技術の発展を手おくれになる前に今すぐ停止させるべきだ、というところにあった。しかし、体外受精とハツクスリーの未来社会との関[p65>係はそんなに密接だろうか。
 ハックスリーは人工的な生殖法と遺伝工学とをわがものにした進歩した工業社会を描いた。しかし、それがすべてではなかった。この社会にはまた大規模な洗脳と厳しい階級制度があり、家族の絆は一切なく、心を改造する薬が政府公認で使用され、自分の生き方を本当に選ぶことは許されなかった。だから、われわれがまだ人工的な生殖法と遺伝工学をわがものにしていないという事実だけが、われわれの社会とハックスリーの反ユートピア社会との唯一の違いではないのである。したがって、バイオテクノロジーの進歩がそれだけでその種の社会を実現させると考えるのはまちがいである。
 ハックスリーの世界の最も嫌悪すべき側面は、疑いもなく、その階級制度と自由の欠如である。この両者はバイオテクノロジーに依存することなしに過去の多くの社会に存在したし、現在もいくつかの社会に存在している。人類は、嫌悪すべき社会体制を発展させるにあたって、進んだバイオテクノロジーの助けを必ずしも必要としないのである。バイオテクノロジーの主要な進歩はわれわれのまわりで実現しつつあるのだから、そのような進歩を実現させている社会制度の性質を考察する方がもっと啓発的である。主要な体外受精センターはオーストラリア、米国、西ヨーロッパにある。これらの諸国は、その社会制度の欠陥が何であるにしても、すべて法の前における平等の原則を承認している。これらすべての国において民主的な選挙が行なわれている。すべての成人は等しい投票権を持つ。すべての国が言論の自由と集会の自由を認めている。国家[p66>は市民に奉仕するためにあるのであって、その反対ではない、という点でも一致している。有効性という面からみれば欠陥はあるとしても、これらの理想は広く尊重され、憲法、法律、政治的、社会的慣行に浸透しているのである。
 そこで次のことが問題になる。1982年の(たとえば)メルボルンにおけるバイオテクノロジーの進歩はこの都市をハックスリーの描いているフォード後682年のロンドンにいっそう接近させるか。」そして、メルボルンがそのような変化をとげる前に、バイオテクノロジーとは無関係と思われる多くの物事が変化しなければならないだろう、というのがそれに対する答えである。すばらしい新世界の階級制度は、いくつかの項目について市民の平等を保障しているあらゆる種類の憲法上および政治的な制限を一掃することなしには、ほとんど実現不可能であろう。ハックスリーのいう家族を廃止する計画もうまくいきそうにない(アルコールの代わりにソーマ酒のような幻覚誘発剤を導入する可能性も、公的に認められた心を改造する薬の導入の可能性と同じく、きわめて僅かであると思われる)。バイオテクノロジーの進歩だけでは、われわれは取り返しのつかないほどハックスリーの悪夢の深みにはまりこんでしまいはしないであろう。テクノロジーは道具であるにすぎない。社会がどのような道具の使い方を選ぶかの決定には、当の社会の性格が影響を与えるであろう。今、問題になっているいくつかの社会には、深く根づいた障害があって、ハックスリー的な計画の遂行を妨げている。
 しかし、問題をそこにとどめておくことは許されない。これまで述べたことはあまりに皮相である。[p67>
 一個の道具がその狭い使用を越えて影響を持ちうることは認められざるをえない。社会は技術を利用する。しかし、技術はまたそれを使用する社会の構造に影響を及ぼす。別の新しい技術であるマイクロチップを考えてみよう。この技術によってタイピスト要員たちは一台のワードプロセッサーにとって代わられ、小売り店員たちは計算機つきの現金箱を扱う1人の勘定係にとって代わられる。この計算機は売上げの記録と商品の在庫管理および移動のための操作を同時にやってのける。この技術は事務、小売り、娯楽、情報伝達関係の仕事に雇傭される人々の数を劇的に減少させてしまう。このような影響は、これらの人々が普通は他に代わるべき仕事を持たないという事情があるために、ますます深刻になる。この技術はまた残った労働者たちを監視するという点でもすぐれた性能を発揮する。何台かのタイプライターとタイピストたちを用済みにし、その代わりに計算機つきのヴィデオ・ディスプレイ一式を備えさせたその同じ技術によって、オペレーターがボタンを押す回数や管理職たち相互の電話による会話の内容まで、容易に記録することができる。いいかえれば、マイクロチップ技術は労働の場に根底的な変化、つまり監視と中央によるコントロールをいっそう厳しくする方向への変化をもたらす。
 これらの多様な変化に対するわれわれの態度がどのようなものであろうとも、マイクロチップ技術が単に中立的な道具ではないことは明白である。それは社会によって形成されたものであるが、明らかにまた社会を形成していく力を持っている。それはそれを利用する社会の未来の形態に影響を及ぼす道具である。[p68>
 バイオテクノロジーの使用も、マイクロチップ技術の場合と同様に、不可避的に社会を形成するような大きな影響力を持つであろうか。もし持つとしたら、ハックスリー的な方向への社会の発展を妨げる政治的、社会的障害があるから、すばらしい新世界に入りこむことなしに、新しいバイオテクノロジーを気楽に利用することができる、というわれわれの見解はどうなるであろうか。この見解は技術が社会を変えるという事実によって根拠を失わないであろうか。
 だが、われわれの考えでは、少なくとも体外受精の最も単純なケースに関しては、これらの問いへの答えは明らかである。新しい技術は社会制度をまったく変えないであろう。最も単純なケースにおいては、体外受精児の親は、子供の親であるという点に関して、他のどのような親にも劣っていない。このような仕方で用いられた技術によって、すばらしい新世界に接近するということはまったくない。
 このような主張にたいしてはおなじみの反論があることが予想される。滑りやすい坂道論である。体外受精に関連してはこの議論はレオン・カス博士によって、米国の保健教育福祉省の倫理諮問委員会の委託により書かれた論文において、最も強力に展開された。この委員会は1978年9月、米国政府は体外受精の研究に資金を提供すべきか、という問題を検討するように求められた。カスは資金を提供すべきでないと答え、その論文において、不妊の夫婦のための体外受精を正当化するのに用いられる論理は「限界を知らない」という主張を明らかにした。よく用いられる比喩を茶化してひっくり返して、彼はいった。「いったん、天才たちが赤ん坊を壜に入れるのを許したら、再び取り出すことは不可能であ[p69>ろう。」要するに、カスは体外受精に関するどのような研究にも政府資金を出すべきでないと論ずるのだが、その理由の一つは、この研究の現在および未来の危険な応用と論理的な拡大にあらかじめ対処することは難しい、ということであった。
 倫理諮問委員会に寄せられた別の論文において、哲学者サミュエル・ゴロヴィッツはカスの主張に反論した。ゴロヴィッツは自らのスキーヤーとしての経験を例に引いて、滑りやすい坂道のどれを乗り切ることができるかできないかについての判断が可能であるという事実に、委員会の注目を促す。「それは制御の問題であり、部分的には判断の問題である。」未来の発展をまったく制御することができないと主張する見解をまじめにとりあげる理由はない、と彼は述べている。われわれは判断と制御の能力を持っており、過去において他の問題に関してその能力を発揮した。たとえば、妊娠中絶の自由化は、社会的に嫌われている人々を選択的に殺すというような結果をもたらしはしなかった。体外受精に関しても、われわれは今後この能力を発揮できるであろう。
 この論争を『偶然から目的へ』という著書において要約したクリフォード・グロブスタインは、目的が果たす決定的な役割に注目を促している。彼によれば、体外受精を開発する目的が結婚における卵管閉塞による不妊の治療だけにあるのならば、これを越えるどのようなことにたいしても承認は与えられていないのである。もし目的がもっと広いものであるならば、われわれが止まることの難しい坂道に踏み出しているということもできよう。われわれに必要なのは、目的が何であるか、どこまで進もうとし[p70>ているか、を明確に表現することである、とグロブスタインは提案する。だから、元来の目的に含まれていない新しい問題点は個々に新しく検討されなければならない。
 不妊の夫婦を救うために体外受精を行なうという限定された目的は、特に最も単純なケースの厳しい制約の範囲内では、すばらしい新世界への接近を促進し、いっそう遠くまで影響を及ぼすような発展の先例になることはない、という判断において、われわれはグロブスタインと一致する。スキーの比喩を重ねて用いるならば、最も単純なケースにおける体外受精は、われわれが大した苦労もなくスキーをあやつることのできる初心者用のゲレンデである。体外受精の他の使い方がわれわれをもっとけわしく危険な坂道に位置させることになるか否かについては、以下の諸章で検討することにしよう。
(p94)
 体外受精に関してさまざまな懸念、つまり、すばらしい新世界に向かっての前進になるとか、生殖行為への技術の不自然な介入であるという懸念が表明されているが、体外受精の単純なケースにたいして最も挑戦的である反対論は、われわれの見解によれば、もっと世俗的な性格のもの、つまり金である。
 体外受精を現在の発展段階にまで到達させるのに必要とされた研究の費用は、それほど問題ではない。医学研究に費やされる金はいつも賭けの要素を含んでいる。体外受精の研究は不妊の治療に成功をもたらしただけでなく、生殖に関するわれわれの基礎的な知識を拡大した。これによって新しい避妊法が可能になった。体外受精はガン研究に新しい方向を開くことを可能にするだろうとさえいわれている。これらの希望はすべて無に帰するかもしれない。しかし、どちらにしても、すぐに体外受精を中止するならば、この基礎的研究に要した費用を償えないであろう。
 個々の患者の治療費はまた別の問題である。これは継続的に要する費用であって、支払う価値があるか否かはわれわれが決めなければならない。前章でみたように、卵子の採取、受精とそれに続く胚の子宮への移植の費用は2000から4000豪ドルである。この方法の成功率は25%以上ではないから、生まれた子供一人当たりの費用は1万から2万豪ドル程度である。この金額は支払うに値するだろうか。
(pp104-105)
 体外受精の「単純なケース」はできるだけ多くの反対論を回避できるように作られていたにもかかわらず、いくつかの挑戦に立ち向かわねばならなかった。体外受精のあらゆる利用が、不自然である、「すばらしい新世界」のような社会への滑りやすい坂道に一歩踏み出すことになる、異常な子供を作り出す恐れがある、子供作りを愛の行為から分離させてしまう、養子をもらう方が望ましい、費用に値し[p105>ない、などの理由で不正であると主張された。
 われわれは今これらすべての反対論を検討し終えた。不自然であるという非難、滑りやすい坂道反対論、性と生殖の分離反対論などは、われわれは決定的とも思われる仕方で論破することができた。単純なケースの体外受精を正当化できるかという問題の考察において、これらの反対論を重視する必要はまったくないと思う。
(p220)
 これもおなじみの反対論である。体外受精にたいして「試験管ベビー」という表現がすぐに使われるようになったのであるが、そのような表現がずっとぴったりするのは完全に体外で成長する胚にたいしてである。実際には、体外生殖は確かに試験管のような単純な容器のなかでは行なわれないが、にもかかわらず、この表現は体外受精の単純なケースよりも体外生殖にずっとよくあてはまる。体外生殖はオルダス・ハックスリーが『すばらしい新世界』で述べているような方法で赤ん坊を大量生産することを技術的に可能にするであろう。ある人々はこの理由によって体外生殖を推進すべきではないと主張するであろう。われわれが持たない方がよいような知識の形態もあるというのである。
(pp222-223)
 われわれの見解では、完全な体外生殖への四つの反対論のうち三つはすぐにしりぞけることができる。「不自然」ということばについて前に述べたことがここでもあてはまる。「不自然」ということばを妥当[p223>な意味で用いるならば、未熟児に人工呼吸装置を用いるのは自然で、体外生殖は不自然である、というような使い分けはできない。しかも、体外生殖に反対する人々は人工呼吸装置には反対しようとはしない。どちらにしても、すでに見たように、「不自然である」から「悪い」への推論は妥当ではない。同様に、前に指摘したように、体外生殖はある点では明らかにわれわれを「すばらしい新世界」に接近させるが、われわれがハックスリーの描いた社会に反対する理由は、その社会の政治的、道徳的理想と大きく関わっているのであって、技術的な能力とは比較的少ししか関わっていない。
(pp258-260)
 ある人々は次のように論ずるであろう。つまり、政府がクローニングに賛成するための以上にあげた理由が不十分であると考え、したがって、これの援助を拒否するのは正当であるとしても、そのことと政府がこれらのクローニングの形態を禁止することとはまったく別のことであると。そして、マックスのような人間はさらに主張すると予想される。この禁止という手段は他人の権利を侵害していない個人の私的決定への不当な介入である。したがって、国家は、人々が自分をクローンすることを望み、自分でその費用を払うことができるなら、自由にそうさせておくべきである。[p259>
 これにたいして心に浮かぶ最初の反論は、マックスの計画が他の同意していない当事者、つまり彼のクローン児に実際に影響するということである。この反論の含む問題点は、こういう主張は余計なことまで正当化しないかというところにある。子供を作るというすべての決定は生まれてくる子供に影響する。そして、その子供はその決定に同意しえない。われわれはマックスが自分をクローンすることを妨げようとするあまり、国家はすべての生殖を許可する権限を持つという結論に導くような論法を用いているのだろうか。
 国家が、人口の増大を制御したり、生まれる子供の不利益になる行為を防いだりするために、生殖に関する決定に介入することは正当化されうる、とわれわれは確信する。しかし、われわれはまた、国家は最も極端なケースにのみ介入すべきである、と確信する。たとえば、国家が『すばらしい新世界』のエプシロン階級(本書第二章63ページ参照)に類するものを作り出すための胚の遺伝子操作を防ぐことは正当化されるであろう。クローニングはそんなに極端な場合であるとは思われない。マックスは、自分の息子が強固な健康と平均以上の知性を備えていて、遺伝的に健全な体質を持つという恩恵を受けるであろう、と説得力をもって論ずることができる。その子供は特殊な状況に適応するのにいくらか苦労するかもしれないが、全体として彼が幸福で生き甲斐のある人生を送る見込みは普通の環境において生まれた子供と少なくとも同程度にはある。
 このような主張を否定することは難しいように思われる。もちろんこれはクローンされた個人が大し[p260>た欠陥もなく、計画どおりに生まれてくることを前提している。ひどくまずいことが起こる危険もあるので、現在のところでは、国家には個人が自分をクローンするのを禁ずる十分な理由がある。いつかこのことが危険なしに行なわれることが示されるならば、政府はクローニングの過程を援助すべきではないが、一人につき一人を複製するという制限がある限りは、それを禁ずるべきでもない、ということをわれわれはしぶしぶ認めることであろう。
(pp291-292)
 遺伝工学の個々の形態が望ましいか否かについての意見の不一致を取り扱うのに、中央立案型のアプローチと自由放任型のアプローチがある。中央集権的アプローチは政府―おそらく専門家の委員会を通じて動くのであろうが―に決定を委ねるであろう。政府が高い知性を望ましいと考えるならば、未来の両親には、生まれてくる子供の知性を高めるように胚を取り扱ってもらう機会が提供されるであろう。
 政府はもちろん、望ましいと思われる性質に関して意見の一致を得ることは難しいことを知るであろう。そして、そのことがこのアプローチへの強い反対の理由である。しかし、もっと強い反対の理由は、それが政府の手に驚くべき大きな権力を委ねることにある。
 これを避けるために、「自由市場」アプローチをとることが考えられる。カップルは自らの子供の遺伝的構造に関して自ら選択をする。何が望ましいかについての合意を得るという問題はこうして克服される。われわれに必要なのは、他人が自分の子供のためにする選択を寛容することだけである。個人の自由は最大化され、国家はこの問題から閉め出され、誤った官僚的計画あるいはもっと困ったことが実現する可能性は排除されるであろう。
 自由市場アプローチも中央立案型アプローチも特に満足なものとは思われない。後者はあまりに「すばらしい新世界」に似ている。市民は自分たちの政府の構造を選ぶべきである。政府はその市民の構造[p292>を選ぶべきではない。」
 自由市場アプローチが不満足なものであるのは別の理由による。それは個人の手にあまりに大きな権限を委ねる。個人はそれを無責任にあるいは異常な仕方で行使するかもしれない。遺伝工学を心なきクローンのボディガードを作り出すために利用する親を想像するのは難しいが、遺伝工学ですばらしい粒ぞろいのフットボール・チームを作ろうと望む親を想像することはできる。


米本昌平, 19870630, 「逆ユートピア小説と生命科学の現在」長尾龍一・米本昌平編『メタ・バイオエシックス――生命科学と法哲学の対話』日本評論社:88-112.
(pp90-97)
  ◎―「すばらしい新世界」
  【ハクスレーの発生学的ユートピア】
 一九八四年は、オーウェルが脱稿の折の年号(四八年)を単にひっくり返してそのタイトルとした、その年に当たったため、この小説をめぐって多数の論考がものされたが、この三冊は、広義の世紀末論としての八○年代論とみなすことができないわけではない。
 『すばらしい新世界』は、一見、後の二者ほどにはこれに当てはまらないようにみえるが、実は一九八二年はこの本の出版半世紀であった。この年、このような問題意識が特にたかまったという記憶はないが、生命科学の立場からみた場合、逆ユートピア小説としては、本書は、いまなお抜群の出来ばえといってよい。祖父がダーウィンの戦闘的な擁護者として、"ダーウィンのブルドック"の異名をとったトマス・ヘンリー・ハクスレーであり、兄ジュリアンもまた著名な生物学者であるためか、その生物学的な条件設定と描写は実に正確である。
 『すばらしい新世界』は、西暦二五〇〇年あたりの想定になっており、性の完全解放による家族の消滅、人間の完全な体外(試験管内)発生、発生過程の条件をコントロールすることによる生得的力ースト人間の産出とこれによるカースト社会の維持、老化の解消など[p91>が実現したことになっている。なかでも人間の完全な体外発生によって女性が出産から解放されることが、この本の鍵となっているので、その間の描写を少し詳しくみてみよう。
 この小説ではまず、
 (1)社会の利益のために、自発的な申出によって卵巣が摘出され、それが培養される
 〔現在、人間の組織や器官で長期的な組織培養が可能になっているのは皮膚と骨髄だけであり、卵巣などの試験管内培養は不可能である〕
 (2)培養されている卵巣から卵を取り出し、検査のうえ、試験管内で体外受精させる
 〔広く知られているように、これは可能になっている。ただし、成熟した卵を取り出し、これに精子をかけても受精は起こらない。その理由は、射精直後の精液には受精阻止因子が含まれているし、精子そのものも母胎内を長距離遊泳する間に、さまざまな化学的処理をうけ、これによって受精能力を獲得するからである。このため、体外受精の場合も、これらに見合った化学的処理が必要なのであるが、人間の卵と精子による狭義の体外受精は一九六九年に成功している。七八年には、この受精卵を子宮に移植して出産に至った、いわゆる試験管ベビーが誕生している〕
 (3)特殊な処理によって、人工的に一卵性多生児の発生が可能になり、一つの受精卵から最大九六個体の遺伝的にまったく同一のクローン人間を作っている
 〔小説では、卵割開始直後の初期胚から発芽による増殖が起きることになっているが、このようなごとは生じない。ただし、初期胚は非常に柔軟な調節力があり、ウシでは初期胚を機械的に二つに分割させて、別々に子宮に戻し、優秀な仔牛を二頭作る技術が確[p92>立されつつある。また人間の場合、偶然に生まれる一卵性双生児は互いにクローンである〕
 (4)培養液中の牝豚の腹膜の薄片に、桑実期(※)まで培養した胚を埋め込み、ビンの中で完全に発生させる
 〔この体外発生の実現化こそ、この小説のキー・ポイントであり、これによって初めて、性と生殖が分離して性が完全に解放され、家族・父・母という言葉の消滅も可能になる。現在、これに最も近い実験は、「マウス胚の試験管内発生-着床前から胚芽段階(※)まで」(Chen & Hsu, Science, Vol. 218, 66, 1982)という論文に報告されたものである。これによると、着床直前のマウスの胚を取り出し、体外で一〇日間培養できたことになっている。
 マウスの妊娠期間は二一日であり、人間に換算すれば、妊娠五ヵ月以上に当たる。五ヵ月の胎児の平均体重が五〇〇グラムとすると、現在では四七〇グラムの早産児でも助かっている例もあるから、このマウスの実験からは、あたかも体外発生の実現までにあと一歩のような印象を受ける。たしかに、一〇日間培養できたマウスの胚は、初原的な心臓ができて卵黄嚢をめぐる血液循環が始まり、四肢の原基ができ、肺・肝臓・目・耳などの原型が次第にはっきりしてきている。ところがこの段階までは、驚くべきことに、ハクスレーが直感したとおり人工のひだに接触したままで発生が進むのだが、これ以後は複雑な胎盤経由の栄養供給が不可欠となるらしく、胚はことごとく死んでしまうのである。[p93>人間の胚の培養は、七九年のアメリカの保健教育福祉省の体外受精研究に関する倫理諮問委員会の報告でも、八四年のイギリスのウォーノック委員会の報告でも、また日本の産婦人科学会のガイドラインでも、一四日を超えて培養してはならないことになっており、これまでは九日間まで培養した例がある。しかし、人間もネズミと同じ哺乳類であるとすれば、現在のところ、哺乳類の発生には胎盤による栄養供給の段階が不可欠であるように思われ、また、かりに人工胎盤や人工子宮を開発するにしても、そのための手がかりも見えてはいない。つまり、半世紀前にハクスレーが仮定した、人間の完全な体外発生は、依然不可能のままなのである〕
 (5)酸素や栄養状態を操作し、人工子宮内での発育をコントロールして、カーストに見合った人間を計画的に産出する
 〔ハクスレーのイメージにはたぶん、発育時に与えられる栄養によって働きバチになったり、オスバチになったり、ローヤルゼリーを与え続けられた個体が女王バチとなるミツバチのカースト社会があったのであろうが、人間の場合、母胎内での極度の栄養不良や薬剤被曝は流産や先天障害へとつながるのであり、小説のように半発育状態の奴隷の出現というのはありえない。ただ唯一、人工子宮の操作を誤ってアルコールを入れられたのではないかといううわさの男を登場させ、胎児性アルコール中毒のような可能性を臭わせているのが、ややもっともらしい例である〕
 (6)薬物による幸福感
 〔LSDが代表的なものだが、ドラッグによる幸福感は、すでに広く現実のものになっ[p94>てしまっている〕
 (7)老化現象の克服
 〔小説では、老化現象が克服され、人間は一生を通じて肉体的にも精神的にも変化せず、六〇歳を過ぎるとある日突然死を迎えることになっている。死は存在するが、日常的にはいっさい死の影が存在しない社会である。しかし、現在の科学は、老化現象の解明にはなおほとんど無力であり、むしろこの課題は、生命科学研究の上に実に重くのしかかってきている〕
 さて、こうして『すばらしい新世界』の中身を生命科学の側から検討してみると、著しい特徴があることがわかる。かりに老化も連続的な発生過程の一部とすれば、ハクスレーが描いたユートピアは、人間が、生殖・妊娠・出産・避妊・感染症・老化から自由になった発生学的ユートピアであるという点である。
 【遺伝による差別は黙殺】
 このユートピアにおけるカーストも発生過程の操作によって生み出されたものであり、この生物学主義的未来社会には、みごとなほど遺伝学的操作や遺伝学的差別という発想が排除されている。これは、出版がナチスの政権獲得以前であったため遺伝的理由による差別社会の出現をあまり深刻に考えてはいなかったため、という可能性と、逆に、ヒトラーの存在を十分意識していたがゆえに遺伝的な側面をあえて黙殺し、その上で成り立つ逆ユートピア社会を描いてみせた、という可能性がありうるが、私は後者ではないかと思っている。だとすると、遺伝学的・優生学的逆ユートピアとしては、われわれは、ナチズムと[p95>いう歴史的実体験をその共通イメージとして持っていることになる。
 登場人物の名前のつけ方が、あまり趣味のよくないアメリカ・オートメーション社会マルクス主義への椰楡になっている分だけ、現在の感覚からズレてはいるが、なお反ユートピア小説の傑作であることには変りない。しかし、こうしてハクスレーのおいた仮定を検討してみると、その中心にある人間の完全な体外発生が当分実現する見込みはなく、しかも遺伝的操作や差別にまったく言及していないとなると、普通意図して用いられているほどには、「すばらしい新世界」という言葉には警句としての意味はないことになる。たぶん、迫力ある使い方としては、代理母に向けられたときだけであろう。

  ◎―オーウェルの逆ユートピア
 「科学技術がどんどん進んで、この先どうなるのか。そんな不安が頭をかすめるたびに、二人の英国作家のSF作品を思い出す。体外受精による人間改造を描いた、オルダス・ハクスレーの『すばらしい新世界』と、壁のテレスクリーンで日常生活まで監視される社会を描いたジョージ・オーウェルの『一九八四年』である。いまから三〇―五〇年も前に、今日の技術を見通して警鐘を鳴らした慧眼には感嘆のほかない」(『朝日新聞』一九八三年一月一二日付「天声人語」)。
 『すばらしい新世界』と『一九八四年』の二書に対する一般の認識はほとんどの場合この[p96>程度のものであるが、少なくとも『一九八四年』については、これが科学技術が発達した末の超管理社会だとは思えない。テレスクリーンとよばれる双方向テレビによる監視体系を除けば、科学技術の水準はこの小説が書かれた当時のままであり、部分的には退化すらしている。特に生命科学の分野はまったく発達しておらず、『すばらしい新世界』のネガといってよいほど、性は完全に抑圧されている。性行為から快楽は剥奪され、子供はすべて人工授精によって出産される。それゆえにこそ、密通による完全な性行為は、政治行動となりうるのである。
 結局のところ、この小説は、スターリン治下のソ連を戯画化し、私生活の管理と洗脳によって成り立つ、強権的な一元的イデオロギー社会を描いたものであるため、政治形態の一つの理念型としてはさまざまな読み方ができるものの、生命科学の未来を考える場合の逆ユートピアとしてはほとんど用を足さないということになる。この二つの小説が似ているところがあるとすれば、内容を厳しく管理された教育と感情の日常的な統制によって個人の思考を同質に保つこと、そしてこのような体制を安定させるために、事実関係に関する情報を管理し科学研究に制限を加えていることである。『すばらしい新世界』では、真理の追求よりは大衆の幸福の方が重要であるという理由で、また『一九八四年』では、「科学技術の開発が経験主義的な思考法に依存していたからであり、厳密に統制された社会では存続し得ぬ」という論理で科学が統制されている。
 この裏側には明らかに、真の自由とは肉体的にも精神的にも自由なことであり、これを守るためにも科学は絶対に統制されていてはならないという、この時代の共通の信念が存[p97>在している。これまでの戦後の常識からすれば、科学の統制は、研究の自由の侵害であり、それはナチスのアーリア科学の時代へ逆戻りしかねない最も危険な試みであることになる。しかし、現在の広義の科学論の中では、むろん純粋な知的営為としての研究の自由は認めるとしても、実験研究に関わるあらゆる判断が研究者自身にゆだねられていると考える立場は、ほとんど存在しないのだと思う。
 もちろん、オーウェルは『すばらしい新世界』を知っていた。しかし一九四〇年代の彼は、「快楽主義にもとづく完全に物質的で俗悪な文明の危険性より、世界が直面しているのは、小さな徒党に支配される中央集権化された奴隷国家である」(B・クリック『ジョージ・オーウェル』)という認識下にあった。だが、今となってみると、とりわけ日本の現状は、性が解放され、物質的欲求が満たされ、科学が発達したハクスレー的世界に、より近いといわざるをえないのである。


◆Pence, Gregory E. 1990,1995,2000 Classic Cases in Medical Ethics: Accouts of Cases that Have Shaped Medical Ethics, with Philosophical, Legal, and Historical Backgrounds McGraw-Hill Companies, Inc., Ney York, 3rd Edition 2000(=20000323, 宮坂道夫・長岡成夫訳『医療倫理1――よりよい決定のための事例分析』みすず書房).
(pp184-185)
 マスメディアはルイーズ・ブラウンを「試験管ベビー」と呼んだが、これは不適切な言い方だった。この言葉は多くの人にとって、奇異な出来事が起こったかのような印象―卵子も精子もなしに子供がつくられたかのような印象を与えるものだった。のちに、レズリー・ブラウンが赤ん坊を外に連れ出した際に、近所の人たちは、体外受精についてのマスコミ報道からこうした印象を与えられていたせいで、何か異常なもの、あるいは小さな化け物を一目見ようとして、乳母車を覗き込んだものだった。
 そもそも最初から、この事例の報道には、不妊を克服するための新しい方法をすべて「遺伝子操作」と同一視して、考える力を持たない奴隷や、危険な超人がつくられるのではないかという懸念に結びつける傾向があった。一九七七年、ジェレミー・リフキンは挑発的な文章でつづられた『誰が神に代わりうるか』〔邦訳『遺伝子工学の時岱〕を発表し、その後二〇年間におよんで、自分の主張に固執し、新しい生殖技術のすべてに反対するキャンペーンを張った。リフキンはいかなる生殖医療も、「遺伝子工学」という名の「生命の人為的操作」と同様に悪しきものだと非難した。リフキンは一人がこうした論陣を張っていたわけではない。たとえば『ロンドン・タイムズ』紙の編集局長は、体外受精を国家が管理する優生学と同一視した。(これと対照的に、レズリーの夫ジョン・ブラウンは、体外受精を単に「自然の過程をほんの少し補助するもの」と考えていた。)
 テレビでは、「遺伝子操作」についての番組が数え切れないほど放映され、ジャーナリストたちはオルダス・バクスリーが一九三二年に書いた小説『すばらしい新世界』を毎回のように引き合いに出した。彼らに言わせれば、この小説には政府が科学技術を使って生殖を管理している未来の姿が描かれており、これこそ彼らが今まさに批判しているものを予言した書なのであった。しかし『すばらしい新世界』をこのように解釈するのは、こじつけに近い話だった。ハクスリーの考えた政府による管理とは、主に心理的な条件づけを利用したものであり、当時評判の悪かった行動主義をもとにしていた。行動主義は心理学の一学派であるが、ハクスリーの時代には(一九七八年当時に体外受精がそうなったように)恐怖と誤解の対象になっていた。ハクスリーが小説に描いた心理的操作についての考え方を「遺伝子操作」や、さらには体外受精―これは遺伝子操作とはまったく異なる―に拡大解釈するというのは、乱暴な話であり、誤解を招くものである。それどころか、「すばらしい新世界』を引き合いに出すことに関しては、皮肉な一面もあった。ハクスリーは個人による選択が許されなくなるという壊滅的な成り行きを描いてみせたのだが、体外受精を禁止すべきだというマスコミの論調は、突き詰めてみれば、カップルに選択する権利を与えてはならないと言っているようなものだったからである。 マスコミとジャーナリストは、しばしば自分たちのことを一般大衆の利益の番人だと考えるものだが、ルイーズ・ブラウンの件に関しては、そうした認識は希薄であった。まさに「誰が監視者を監視するのか?」ということわざのとおりであろう。


立岩真也, 19970905, 『私的所有論』勁草書房.
(4章3節5項「自己決定のための私的所有の否定」)
 A決定能力も生産能力もある人、B生産能力はあるが決定能力はない人、C生産能力がないが決定能力はある人、D生産能力も決定能力もない人がいる。Bは『すばらしい新世界』等に登場する範疇だが、ここでは置くとしよう。CとDの決定と生存を認めるなら、自分が決定するが自分で(あるいは自分が生産したものと引き換えに)行えない部分、しかし必要な部分が生ずる。自分で生産(そして決定)しない、しかし在るために必要な部分が生ずる。この部分について以上述べた。では例えば「生命倫理学」はこの部分をどう考えるのか。今日主張される自己決定の主張は古典的な私的所有の思想とどのように連続していて連続していないのか。
(4章4節5項「他者による規定」)
 他者が私を規定することについて。出生前に行われる人為的な操作は、出生前の操作である限り、私自身が決定することは不可能であって、他者によって決定され、行われるものである。
 技術が悪夢として語られる時、技術は、私を侵害するものとして現われる。私は技術によって他者の思うがままの存在にさせられると言う。しかしこのことは必ずしも言えない(*20)。まず、技術がもたらすものは、その者自身にとって有利なものであるかもしれない。また、独立性が損われるという批判、他者の支配下に入り、自己決定が侵害されてしまうという批判があるが、生まれる時に与えられるものは何でも、そもそも自己決定されたものではない。ならば、有利な条件を整えておいてもらった方がよいのではないか。だから有利・不利という基準をとれば、必ずしも他者がある能力・性質を私に与えることは不利であるというわけではない。
(pp165-172の間)
 (*20) 「反対者たちは、デザインで仕立てられた人間が生物学的に運命づけられた地獄に群がっている、ぞっとするような「すばらしい新世界」を見ている。科学者はついに神を演じるようになり、家系をいじくり、無意識にあるいは故意に、フランケンシュタインの怪物をつくりだすかもしれない(でも、これらの批判家は、研究者がなぜそのような怪物をまず第一にでっち上げたがっているのかを説明したためしがない。)」(Bodmer ; McKie[1994=1995:390-391])遺伝子操作に対する疑念を「フランケンシュタイン症候群」として捉え、批判し、動物の遺伝子操作のあり方を論じている書としてRollin[1995]。(『フランケンシュタイン』=Shelley[1818=1984])


◆Silver, Lee M. 1997 Remaking Eden, Sanford J. Greenburger Associates Inc(=19980530, 東江一紀・渡会圭子・真喜志順子訳『複製されるヒト』翔泳社).
(pp268-269)
 たとえ担当医が出生前診断によって赤ん坊の性別を調べていても、多くの夫婦は、赤ん坊が生まれるまではそれを知ろうとしない。子どもの誕生の瞬間を、親としての発見の喜びにしたいという気持ちがそこにはある。子どもの特徴が、性別以外でもさまざまな意味であらかじめ決まっているとすれば、出産に対して多くの人々が抱く畏怖の念は消えるだろう。一部の人にとっては、たしかに、胚の選択は子どもの誕生から自然の驚異を奪うと言えるかもしれない。だが、それはあくまでも、ある夫[p269>婦が胚の選択をするか否かを決める際の個人的な問題である。だからといって、別の感情を抱いている人々に胚の選択をやめさせることはできない。
(p.注釈-42)
 268ページ「多くの夫婦は、赤ん坊が生まれるまではそれを知ろうとしない」胚のスクリーニングが世界中で自由に利用できるようになる可能性は、経済的に見て、世界中から貧困が根絶される可能性よりも低い。これは、オルダス・ハックスリーの『素晴らしい新世界(Brave New World)』に見られる政治的想定であり、1997現在、この本のエピローグのどの奇想天外な物語よりも、フィクションの領域にとどまっている。


◆Bauman, Zygmunt 2000 Liquid Modernity, Polity Press(=20010620, 森田典正訳『リキッド・モダニティ――液状化する社会』大月書店).
(pp69-71)
 オールダス・ハックスリーとジョージ・オーウェルが、それぞれ『すばらしき新世界』と『一九八四年』で、大衆の不安について、つまり、大衆はなにを怖がるか、時代がそのまま進んだとき、未来はどんな恐怖をもたらすかについて、まったくちがった展望を示したのは、ほんの五十年前だった。これを記憶するひとは少ないだろうし、正確に理解している人はさらに少ないだろう。
 ふたりの想像力あふれる反ユートピア主義者が鮮明に描きだした世界は、チョークとチーズほどに違っていたのだから、対立は本物だった。オーウェルの近未来は荒廃と貧困、欠乏と困窮の世界であるのにたいして、ハックスリーのは富と浪費、潤沢と飽満の世界だった。当然、オーウェル的世界の住人は、悲しく沈んで、恐怖に怯えているのにたいし、ハックスリーが描写した人間は、気ままで無邪気だった。両者の顕著な相違はこれだけにとどまらず、細部のほとんどあらゆる点において、対照的だといっていい。[p70>
 しかし、ふたつのヴィジョンのあいだには、共通のなにかがある(共通性なくしては、ふたつの反ユートピアに対話はないし、まして、対立はありえない)。共通するものとは、厳しい統制社会にたいする不安である。私的自由がゼロに、あるいは、お飾りになるだけでなく、そうした自由が、命令に従順、規則に忠実であるよう訓練された人間から、激しく憎まれるようになる不安。また、ひと握りのエリートがすべての糸をあやつり、他の人間が操り人形になる不安である。世界は管理する者と管理される者、設計者と設計にしたがう者に分裂する。設計者は設計図を握りしめてはなさず、設計にしたがう者は設計図をみようともしないし、わかろうともしないし、みてもわからない。そして、厳しい統制社会に、他の社会形態の可能性は存在しない。
 人間を待ちうけているのは自由でなく、統制、管理、抑圧であるという将来像において、オーウェルとハックスリーの見方は同じだった。かれらは世界の異なった行く末を予想していたのではない。われわれが無知で、鈍感で、自己満足的で、怠惰で、すべてを自然のなりゆきに任せてしまったときたどるだろう道を、かれらは違ったふうに想像していただけなのだ。
 一七六九年、サー・ホレス・マンにあてた手紙のなかで、ホレス・ウォルポールは、「考える人間にとって世界は喜劇であり、感じる人聞にとって世界は悲劇である」と書いた。「喜劇的」「悲劇的」の意味は時を経て変わった。オーウェルとハックスリーが未来の悲劇的輪郭を描こうとしたとき、ふたりがともに感じていたのは、世界の二極分裂、つまり、勢力を増し、いよいよ遠い存在になりつつある支配者層と、いよいよ弱体化する被支配者層の、とどまることを知らぬ分裂だった。ふたりの作家にとりついた悪夢は、みずからの生活を律する権限を人間が失うことだった。良い社会、悪い社会にかぎらず、[p71>奴隷の存在しない社会を、別の時代の思想家であるアリストテレスやプラトンは想像できなかった。これと同じように、オーウェルやハックスリーは、社会が幸福であろうが、みじめであろうが、管理者、設計者、監督の存在しない社会を想像することができなかった。管理者、設計者、監督の仕事とは、一般人支配のシナリオを共同で書き、演出すること、即興で自分勝手に演じようとする人間を追放し、地下牢に投獄することだった。また、かれらは監視塔、管理机のない世界も想像できなかった。かれらの時代の恐怖、希望、夢は、すべて最高司令部に集中していたのである。
(pp258-260)
 重い、固い、そして、ハードウェア的な近代にあった「共通の大義」にとってかわった見世物は、あらたなアイデンティティ形成に甚大な影響をあたえた。また、見世物はアイデンティティ追求にともなってしばしば発生する精神的緊張、攻撃性の原因となる精神性外傷の非常によい説明となる。[p259>
 「カーニヴァル型共同体」というのも、いま、議論している共同体の呼称として、ふさわしいだろう。こうした共同体は、自己扶助の精神をうけいれた、あるいは、強制された「形式上の」個人を孤独な格闘の日々の苦しみや困難な状況から、いっとき解放してくれるだろう。爆発的共同体は日常的孤独の単調さをやぶる出来事であり、カーニヴァルと同じように、欲求不満のガス抜きである。興奮させる出来事、ガス抜きがあるから、お祭り騒ぎが終われば、もどっていかなければならない日常の仕事も、耐えられるのである。ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの憂馨な哲学的瞑想と同じで、爆発的共同体は「あらゆるものを、あったままにしておく」(実際に傷ついた犠牲者、「付随的被害」は逃れても、道徳的な傷をうけたひとがいることを除けば)のだ。
 「クローク型」と呼ぼうが、「カーニヴァル型」と呼ぼうが、爆発的共同体は近代の流体的風景に不可欠な要素であり、形式上の個人の孤独な苦しみ、事実上の個人になりたいという熱いが、むなしい努力の一部である。見世物、クロークのコート掛け、群集の集まるカーニヴァルは、あらゆる好みを満足させようとするため、その種類も多い。オーウェルの『1984年』には「五分間の(共同的)憎悪」という政策がでてくる。一方、ハックスリーは『すばらしき新世界』でこれをひねって、「五分間の(共同的)崇拝」を巧妙に、そして、みごとに考案した。すばらしき新世界の新聞第一面と、テレビ・トップニュースは、人々がその下に結集し、その下で行進すべき新しいスローガンを毎日掲載する。スローガンの恐怖(ときどきは道徳的なものだが、だいたいは非道徳的、不道徳的な恐怖)と慌惚をおりまぜた内容は、ヴァーチャルな共同体のヴァーチャルな「共通目標」である。クローク型/カーニヴァル型共同体は、「ほんとうの」(包括的、永続的という意味で)共同体の姿をま[p260>ね、ほんとうの共同体をゼロからつくると(誤解をまねきかねない)約束をしながら、実際には、そうした共同体の形成を妨害する。クローク型/カーニヴァル型共同体は、社会性をもとめる衝動の未開発のエネルギーを集約するのでなく、拡散し、そして、まれな集団的協調、協力に、必死に、しかし、空しく救いをもとめる人間の孤独を永久化する。
 形式上の個人を待つ運命と、事実上の個人の運命のあいだの渡りきれない、あるいは、渡りきれるとはとうてい思えない割れ目から生じた苦痛を、鎮静…してくれるどころか、クローク型/カーニヴァル型共同体は、流体的近代に特有の社会的混乱の病理学的兆候に、そして、その要因にさえなっているのである。


◆寺園慎一, 20010125, 『人体改造――あくなき人類の欲望』(NHKスペシャルセレクション)日本放送出版協会.
(pp55-59)
  アニッサ事件
 アニッサさんが骨髄性白血病の診断を受けたのは一九八八年の春、高校二年生のときだった。(略)唯一の治療法は、健康な骨髄を移植することだけだった。(略)
 アニッサさんの両親も弟も適合しなかった。両親は、娘の命を救うために必死にドナーを探した。親戚や地域の人たちにあたったが見つからない。頼りは骨髄バンクである。当時骨髄バンクには一万七千人が登録されていた。ところがここで、アニッサさんがヒスパニック系のマイノリティであることがマイナスに作用する。組織が適合する可能性は、同一人種が最も高い。[p56>しかし、骨髄バンクに登録した一万七千人のうち、七〇パーセントがアングロサクソンで、アニッサさんと同じヒスパニック系はわずか七パーセント、千二百人程度しかいなかったのである。それでも、ひとりだけアニッサさんと適合するドナーが見つかったが、最終的に骨髄提供を断られてしまったのである。(略)骨髄性白血病の診断を受けてから二年。ただ、いたずらに時間だけが過ぎていった。(略)
 アニッサさんの死期が刻一刻と迫るなか、母親のメアリーさんはある決断をする。それは、もうひとり子どもを産み、その子の骨髄をアニッサさんに移植することだった。兄弟姉妹であ[p57>れば、組織が適合する確率は、二五パーセントにまで高まる。両親はこの可能性に賭けることにしたのである。しかし、このときメアリーさんは四十二歳、父親のエイブさんは四十五歳。父親、母親ではなく、祖父、祖母になってもおかしくない年齢である。それでも二人にとって、最愛の娘アニッサさんを救うためには、この方法しか残されていなかったのだ。
 メアリーさんは当時をこう振り返る。
 「難しいのはわかっていました。夫は精管切除の手術を受けていましたし、私ももうおばあちゃんになってもおかしくない齢でした。夫に、もうひとり子どもを作ろうと話したとき、彼は私が気が変になったんじゃないかと思ったようです。でも、私はこれに賭けるつもりでした。アニッサがどんどん死に近づいていくのを、手をこまねいて見ていることはできません。もし赤ちゃんができて、たとえアニッサと適合しなくても、アニッサは失うかもしれないけれど、少なくとももうひとり家族が増えることになるでしょう。私は必死でしたし、アニッサを助けるためなら何でもするつもりでした」
 父親のエイブさんは精管をつなぎ直した。そしてメアリーさんは妊娠に成功した。妊娠九か月のとき、メアリーさんは羊水検査を受ける。不利な条件にもかかわらず、胎児とアニッサさんの組織は完璧に適合していた。二五パーセントの確率に賭けた願いは叶ったのである。
 アニッサさんに、そのときの気持ちを聞いた。[p58>
 「本当に嬉しかった。でも飛び上がって喜んだわけではありません。その子が生まれてくるまでにはまだ一か月あったし、生まれてからも成長するのを待たなくてはなりません。当時私は、体内に時限爆弾を抱えているようなものだと医師からいわれていました。ですから、確かに嬉しいけれど、大喜びするのは早いと考えていました。生まれてくる赤ちゃんの顔を見るまでは生きていたい、そんな気持ちでした」
 しかし、アヤラさん一家の取ったこの選択は、全米に大きな論争を巻き起こすことになる。きっかけは、ロスの地方新聞に小さく美談として紹介されたことだった。この記事は大新聞やテレビ局の目にとまり、アヤラさん一家の選択は、たちまち全米に知れわたることになる。アヤラさん一家には取材が殺到、しかしこの段階で出された記事やニュースは美談ではなく、ほとんどが、アヤラさん一家の行動を激しく非難するものだった。当時の新聞記事の見出しをざつと拾ってみょう。
 「ひとりの子どもを救うために、もうひとり子どもを作ることは、正当化されるのか」(シカゴトリビューン)、「スペアの臓器を得る目的で、子どもを作ることは道徳的に許されるのか」(ロサンゼルス・タイムズ)、同じくロサンゼルス・タイムズでは、‘Brave New Reason for having a new baby’という見出しを掲げている。直訳すれば「子どもを作る勇敢な新たな理由」ということになるが、この言葉には下敷きがある。一九三一年に書かれたハックスレー[p59>のSF小説“Brave New World(邦題『すばらしい新世界』講談社)”である。そこには、人間の生殖や性質を政府が完全にコントロールし、厳しい階級社会が作り上げられた不気味な未来社会が描かれている。ドナーを得るために子どもを作るというアヤラさん一家の“Brave New Reason“には、ハックスレーの描いた、生殖をコントロールされた人間が、個性を持たずモノとして扱われる未来社会の不気味さが重ねられているのだ。
 新聞やテレビだけではない。アヤラさん一家には宗教家、生命倫理学者などからも激しい非難が浴びせられた。


◆Fukuyama, Francis 2002 Our Posthuman Future: Consequences of the Biotechnology Revolution, Farrar. Straus and Giroux, New York(=20020927, 鈴木淑美訳『人間の終わり ――バイオテクノロジーはなぜ危険か』,ダイヤモンド社).
(pp4-9)
 私が生まれたのは一九五二年のこと、アメリカはベビーブームのまっただ中だった。二〇世紀半ばに大人になった私のような人間にとって、未来の恐るべき可能性は、二冊の本の中にあった―ジョージ・オーウェルの『一九八四年』(一九四九年発表)と、オルダス・ハックスリーの『素晴らしき新世界』(一九三二年発表)である。[p5>
 この二冊は、二つのテクノロジーを中心として展開しており、当時の誰よりも正確に先を見ていた。際にこのテクノロジーはそれから二世代にわたって登場し、世界を形作ってきた。『一九入四年』は、今でいう情報テクノロジー(IT)をテーマとしている。オセアニアという広大な全体主義帝国の繁栄は、テレスクリーンという装置に支えられていた。これは壁の大きさのパネル状画面で、個々の家の様子から、街角で人々を見守るビッグブラザー(訳注:独裁者)まで、図像を同時に送受信できる。テレスクリーンのおかげで、社会生活は真理省と愛情省による中央集権下に置かれることとなった。大規模なネットワークを通じて言動は政府に逐一監視され、プライヴァシーは一掃されたのだ。
 対照的に、『素晴らしき新世界』に書かれているのは、進行しつつあるもう一つの大きなテクノロジー革命、つまりバイオテクノロジー革命である。子宮の中でなく(今なら、たとえば試験管内だろう)卵子を人工艀化するボカノフスキー法、服用すればたちまち幸福になるソーマ、埋め込んだ電極で感覚が刺激されるフィーリ(触感映画)。さらに不断のサブリミナルな反復を通じて、あるいはそれが働かないときはさまざまな人工ホルモンの管理を通じて、行動が修正されていく。こうした道具立てが、小説に不気味な空気を醸し出している。
 この二冊の出版から、少なくとも半世紀たった今考えると、テクノロジーの予言は驚くほど正確だったものの、『一九八四年』の政治に関する予言は的外れだった。一九八四年という年を迎え、そして送ったが、合衆国はいまだソヴィエト連邦との冷戦に閉じ込められていた。この年、IBMの新型パソコンが導入され、やがてPC革命につながる。ピーター・フーバーが論じたように、パソコンはインターネットと結びついて、オーウェルの描いたテレスクリーンは実現したといえる。しかし中央集権と専制政治の道具とはならず、逆に、パソコンによって誰でも情報にアクセスでき、政治が脱[p6>中央集権化した。ビッグブラザーが各人を監視するのではなく、人々のほうがパソコンとインターネットを使ってビッグブラザーを監視できる。どの国の政府も、政治動向について多くの情報を発表するように求められている。
 一九八四年からちょうど五年、以前なら政治SFだと思えたような劇的事件が続いて、ソヴィエト連邦とその帝国は崩壊した。オーウェルが鮮やかに示してみせた全体主義の脅威は消えたのだ。二つの出来事―一つは全体主義帝国が崩壊したこと、もう一つは、テレビ、ラジオからファクス、eメールまで、安価な情報テクノロジーとともに、パソコンが登場したこと―は、無関係でなかった。全体主義による支配は、政権が情報を独占し続けられるかどうかで決まる。現代の情報テクノロジーによってそれが不可能になった以上、政権の力は弱まらざるをえない。

 「人間」の根拠とは何か
 もう一方の『素晴らしき新世界』で示される政治的予言は、今日も実現しつつある。そこに描かれるテクノロジー―試験管受精、代理母、向精神薬、遺伝子工学を用いた出産など―は、ほとんどが既に存在し、あるいは視野に入ろうとしている。しかし、この革命はまだ緒に就いたばかりだ。二〇〇〇年にヒトゲノム計画が完成したように、生物医学テクノロジーにおいて、飛躍的進歩や成功が次々と発表され、この先、はるかに重大な変化が起こるだろうと予感させる。
 二冊の本はそれぞれ悪夢を見せてくれるが、私にとっては、『素晴らしき新世界』のほうが、いつ読んでもよく練られた感じがして、刺激を覚えた。『一九八四年』の世界の間違い探しは、難しくない。主人公ウィンストン・スミスは、何よりねずみ嫌いで知られている。そこで彼に恋人を裏切らせ[p7>ようと、ビッグブラザーは、ケージの中でねずみが顔に噛みつく仕掛けを作るのだが、これはいかにも古典的専制政治の世界ではないか。テクノロジーの差こそあれ、人間の歴史でも同様のことは既に起こってきた。
 他方,『素晴らしき新世界』では傷つく人がいないから、悪の部分がこれほど明白ではない。実際、誰もが自分の欲するものを手に入れる。登場人物の一人が言うように、「支配者は、暴力が善でないことに気がつき」、人々は強制的にというよりも誘惑されたように、管理社会で生活せざるをえない。この世界では、病気と社会的葛藤が排除され、鬱も狂気も、孤独も、情緒的苦悩もない。セックスは善であり、いつでもできる。政府には、欲求を感じてから満たされるまで、最低限の時間ですむように保証する省庁までが設置されている。もはや宗教を真剣に考えるものはなく、内省的に思索したり、報われない願いを持つものもない。生物学的家族は排斥され、誰もシェークスピアを読もうとしない。しかし幸福で健康だから、(この小説の主人公、野蛮人ジョンを除き)誰もこうしたものがなくなったことを悲しまない。
 本小説の発表以来、各高校では、「ここに描かれる未来図のどこがいけないのか」という問題でエッセイを書かせてきた。数百万にのぼるエッセイのうち、ともかく「A」がもらえる答えは、通例このようなものだ。『素晴らしき新世界』に出てくる人々は健康で幸せかもしれないが、もはや「人間」でない。闘わないし、野心を持たない、愛さない、痛みを感じない、困難な道徳的決断をしない、家族を持たない、伝統的に人間がするものとされてきたことを行わない。人間の尊厳となる特徴を持たない。実際、もはや人類のようなものは存在しない。支配者によって養育され、アルファ、ベータ、エプシロン、ガンマという階級に分化されるが、これは人間と動物の違いと同じくらい、それぞれが[p8>全く別ものなのだ。「人間本来の性質」が変えられてしまったこの世界は、深い意味で不自然である。生命倫理学者レオン・キャスの言葉でいえば、「病気や奴隷制によって劣悪な状態に置かれた人間とは違い、『素晴らしき新世界』風に非人間化された人々は惨めではない。自分が非人間化されていることを知らないのだから。もしも知っていても、気にしないだろう。彼らは実際に、奴隷にふさわしい幸福を与えられて幸せな奴隷なのだ」。
 しかしこの種の答えは、典型的な高校の国語教師を満足させるにはちょうどいいが、(キャスが続けて記しているように)十分とはいえない。というのは、さらにこんな質問が引き出されるだろう。ハックスリーが定義するような意味で「人間である」うえで重要なことは、何か?結局のところ、今日ある人類は、何百万年か前に始まり、この先も運がよければずっと続いていくと思われる進化のプロセスの産物である。人間の特徴として固定しているものといえば、自分がなりたいものを選び、その欲求に合わせて自らを修正していく全般的な能力だけだ。だから、人間であること、尊厳を持つことが一連の情緒反応と直結しているとはいえないはずだ。情緒反応は進化の歴史の副産物にすぎないのだから。生物学的家族というようなものはないし、人間性あるいは「正常な」人間というものもない。もしあったとしても、それが、正しいこと、正義であることを決める指針となる必要はないだろう。ハックスリーが語っているのは、こんなことだ―前から人間がずっと悲しみを感じたり、絶望や孤独にうちひしがれたり、病気に苦しんだりするのは、種としてこれまでしてきたからにすぎない、と。
こんな演説をしたら議員には選ばれそうにない。これが「人間の尊厳」の基盤である、と主張するのをやめて、人間は自ら修正するようにできていると考えようではないか。
 ハックスリーは、人間であることの意味を定義するよりどころは宗教ではないか、と示唆している。[p9>『素晴らしき新世界』において、宗教は排斥され、キリスト教は遠い過去の記憶にすぎない。キリスト教の伝統では、人間は神の形に作られ、これが人間の尊厳の根拠となっている。バイオテクノロジーを用いて(キリスト教作家、C・S・ルィスのいう)「人間の廃止」にかかわることは、神の意志に反する。しかし、ハックスリーやルイスを丁寧に読むと、宗教が「人間である意味」を理解しうる唯一の根拠と思っているとは考えられない。両者とも、正邪、正義と不正、重要と不要の定義においては、特に人間の本質が特殊な役割を果たす、と述べている。ハックスリーの『素晴らしき新世界』のどこがおかしいかは、人間の本質が価値観の源としてきわめて重要である、という見解に当てはまるか否かによる。

 悪魔の取引
 本書の目的は、ハックスリーが正しいと論じること、現代バイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の性質を変え、我々が歴史上「人間後(ポストヒューマン)」の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。これが重要なのは、人間本来の性質なるものが存在し、しかも意味ある概念として存在し、そのおかげで種としての我々の経験が安定的に続いてきたからである。これが宗教と組み合わさって、最も基本的な価値観を決める。政治体制の種類を形作り、制限するのは人間の性質である。だから、我々の現在を変えるほど強力なテクノロジーは、リベラル民主主義と政治の性質そのものに、おそらくよからぬ影響を与えるに違いない。
(pp54-55)
 世界には、本来持っていていいはずの自尊心が大いに欠ける人たちが数百万人もいる。彼らにとっては、プロザックと関連薬は神からの贈り物だった。しかし、セロトニンレヴェルが低いとしても、[p55>それは病気とはいえない。プロザックは、クレイマーのいう美容薬理学の道を開く。つまり薬の服用は、治療のためにでなく、「もっといい」気分になるためだ。もし自尊心が人間の幸福にとって不可欠なものだとしたら、もっと欲しくなって不思議はない。オルダス・ハックスリーの『素晴らしき新世界』のソーマのように、ある意味で不安を感じさせる薬が実現するかもしれない。
(pp252-253)
 我々は「人間後(ポストヒューマン)」の未来に足を踏み入れようとしているのかもしれない。この未来では、テクノロジーによって、人間性を徐々に変える力が与えられる。人間の自由という旗印のもと、多くの人たちはこの力を受け入れる。親がどんな子を生むかを選ぶ自由、科学者が研究を進める自由、企業がテクノロジーを用いて富を築く自由を最大限に活用したい、とみなが望んでいる。
 しかし、この種の自由は、人々がこれまで享受してきた自由とは違う。従来、政治的自由が意味したのは、我々本来の性質が確立してきた目的を行う自由のことだった。この目的は厳密に決められな[p253>い。人間の性質は可塑性が高く、我々は実にさまざまな選択をしている。かといって、これは無限に変えられるわけではない。常に一定であり続ける要素―特に、人間という種に典型的なありとあらゆる感情反応―のおかげで、人間同士互いに通じ合うことができる。
 我々は、この新しい自由を受け入れる運命なのだろうか。既に示唆されているように、進化の次の段階になると、無目的に働く自然淘汰の力に流されるのでなく、自分の生物学的構造に自分で責任を持つようになることもありうる。しかしもしそうだとしても、我々はしっかり目を見開いているべきだ。「人間後」の世界も、我々の世界とほぼ同じで―自由、平等、繁栄、思いやり、同情がある―、ただ今日よりも健康管理が徹底し、長生きでき、知能が高いだけではないか、と想像する人も多い。
 しかし実際は、現在の世界よりもはるかに階層が厳密で、競争も厳しく、その結果、社会的衝突が絶えないかもしれない。人間の遺伝子に他の種の遺伝子をいろいろ融合させすぎて、「人間とは何か」はもはや曖昧になり、「共有された人間性」という概念すら失われてしまうかもしれない。一〇〇歳を超えて長生きし、死を望みながら、しかし死ぬこともできず、介護施設でじっとしている人であふれるかもしれない。あるいは『素晴らしき新世界』で描かれていたソフトな専制政治が敷かれて、みな健康で幸せだが、希望や恐怖、戦いの意味を忘れてしまうかもしれない。
 無制限な生殖の権利であれ、科学研究の自由であれ、見当違いの自由を振りかざした、こんな未来世界を受け入れる必要はない。テクノロジーの進歩が人間の目的に役立たなくなってもまだ、進歩は止められない、自分たちはその奴隷だ、などとあきらめる理由がどこにあるのか。真の自由とは、社会で最も大切にされている価値観を政治の力で守る自由を意味する。バイオテクノロジー革命が進もうとしている今日、我々が守り用いるべきは、この自由にほかならないのである。


Kass, Leon R. 2002 Life, Liberty and the Defense of Dignity: The Challenge for Bioethics, Encounter Books, San Francisco(=20050415, 堤理華 訳『生命操作は人を幸せにするのか――蝕まれる人間の未来』日本教文社).
(pp5-6)
 人間の肉体と精神に介入するテクノロジーの急成長は、たしかに人間の福祉に役立つ面がある一方、使い方しだいで、C・S・ルイス〔訳註・イギリスの英文学者、キリスト教作家(一八九八―一九六三)〕が述べた、そして彼自身の優れた小著の題名にも用いた言葉どおり、「人間の廃止」(一六六―一六七ページ参照)にいたる非人間的な道へ滑り落ちていくことになりかねない。だから、非現代的な狂信や、[p6>人間の生命に対する冷酷な無関心と闘わなければならないのとまったく同じように、科学主義の暴走や、自分の思いどおりに人間を作り変えようとするユートピア計画を避けなければならない。人類の未来を守れるかどうかは、一方の極にいる非人間のオサマ・ビン・ラディンたち、他方の極にいる「人間後(ポスト・ヒューマン)」〔訳註・バイオテクノロジーによって、人間本来の性質を失った人間のこと〕の「すばらしい新世界」の人々を回避しながら、真ん中の道を賢く進んでいけるかどうかにかかっている。不幸にも、私たちはまだ、自分を取り巻く状況の重大さに気づいていない。
(pp7-10)
 人間の形質を転換させる力のいくつかは、すでに現実のものとなっている。経口避妊薬。体外受精。培養胚。代理子宮。クローニング。遺伝子スクリーニング〔訳註・胚・胎児・幼児・成人の遺伝子を検査して遺伝性疾患の有無を調べること〕。遺伝子操作。臓器摘出。機械的な臓器移植。キメラ胚〔訳註・異なった遺伝子型を有する胚細胞や細胞を結合させた胚〕。脳へのコンピュータチップの埋め込み。子供たちにリタリン〔訳註・中枢神経刺激薬。注意欠陥多動性障害(ADHD)の子供などに使用される〕、大人たちにバイアグラ、すべての人に抗うつ薬のプロザック。そして、この憂き世から逃れるため、BGMを聴きながらちょいと余分にモルヒネを。
 オルダス・ハクスリーは、こうした世界が来ることを二世代前に見抜いていた。おもしろいけれども不安をかきたてる小説『すばらしい新世界』(出版されたのは一九三二年で、読み返すたびにいっそう強い感銘を受ける)のなかで、彼はその意味をありありと読者の面前に描き出してみせた。前世紀の、たとえばすでに設定された年代が過ぎ去ってしまったオーウェルの『1984年』などの未来小説とは異なり、ハクスリーは暗黒郷(ディストピア)を人間の性質に反するものとしてではなく、人間の性質にのっ[p8とって出現するものとして描いている。実際、そこに息づいているのは、もっとも人間的で進歩的な願望だ。その願望が完全に成就した姿をとおして、見かけはさほどでもないがより致命的な悪というものが、中途半端な善の勝利と深くかかわっていることを、ハクスリーは教えてくれる。
 ハクスリーが舞台にしたのは、今から七〇〇年後の人間社会である。遺伝子操作、精神賦活薬、睡眠時教育、ハイテクノロジーの娯楽によって生み出された、申し分のない博愛主義に穏やかに支配された暮らしだ。ついに人類は、病気、攻撃性、戦争、不安、苦悩、罪悪感、嫉妬、悲嘆を取り除くことに成功したのだ。しかしこの勝利は、均質化、凡庸、意味のない仕事、薄っぺらな愛着、品のない嗜好、偽の満足、愛や憧れをもたない魂という高い代償を支払うことになる。
 「すばらしい新世界」は繁栄、共同体、安定、ほぼ万人に共通の満足を現実のものとしたが、その結果、形だけが人間で人間性をもたない生き物しか存在しなくなってしまった。彼らは消費し、性交し、心を落ち着かせる薬「ソーマ」を飲み、塔からボールが転がり出てくる「遠心式バンブルパピー」のゲームを楽しみ、何でもかんでも機械を動かしてすませてしまう。読むことも、書くことも、考えることも、愛することも、自分自身を律することもない。芸術や科学、徳や宗教、家族や友情、すべては過去のものだ。いちばん大事なのは肉体の健康と刹那の満足である――「今日得られる楽しみを明日まで我慢するべからず」。誰も高い志はいっさいもたない。すばらしく新しい人間は、あまりにも非人間化されてしまったので、自分が何を失ったのかさえ気づかない。
 もちろん、『すばらしい新世界』は空想科学小説だ。抗うつ薬のプロザックは、ハクスリーの「ソーマ」ではない。核移植や胚分割によるクローニングは、「ボカノフスキー法」〔訳註・『すばらしい新世界』に出てくるクローン大量生産法〕と同一の技術ではない。MTV(ミュージック・テレビジョン)[p9>や仮想現実パーラーは、「触感映画(フィーリ)」と同じものではない。また、気軽に責任のないセックスをする風潮にしろ、小説にあるような空虚で愛のない行為とはかぎらない。だが、ハクスリーの想像世界と現在の世界の類似点は不安を呼び覚ます。何よりも、今の生体工学や精神工学がまだ初期の段階とはいえ、それが本当の成熟に達したときにどうなるかを、あざやかに見せているからだ。すでにテクノロジーによって生じた文化の変化は、ハクスリーの予想をはるかに超えた心配の種となるに違いない。
 ハクスリーの小説では、たとえ善意からにせよ、世界を支配する独裁者の指示にしたがってあらゆることが進んでいく。だが、彼の描いた非人間化には、専制政治や外的コントロールが絶対必要というわけではない。それどころか、未来の社会はまちがいなく人間の望みどおりのもの――健康、安全、快適、豊かさ、楽しみ、心の平和、長生きなど――を提供するだろうから、人間の自由意思のみで、同じように人間性を喪失した状態になってしまう可能性がある。世界を制御する装置など必要ない。テクノロジーの法則を、リベラルな民主社会を、情け深い博愛主義を、倫理の多元性を、市場の開放を提供してくれるだけでいい。そうすれば、すべて自分たちの力で「すばらしい新世界」を作り上げてみせる――行き先を決めるのにむだな時間をかけたりするものか。念のため断っておくが、列車はすでに駅を出発してスピードを上げている。ただ、人間が操縦しているのではないらしい。
 こうした状況を喜んでいる人々もいる。一部の科学者やバイオテクノロジスト、彼らを後援している企業家、サイエンス・フィクション信者や未来学者や自由意思論者を激励する応援団などだ。なぜなら、実現すべき夢、ふるうべき権力、勝利の栄光、そして約束された金――巨額の金――があるからだ。しかし、独善的な主張をする革命支持者ではない多くの人々は、心配している。なぜなら、科学の専門知識がなかったり、未知のものへのおそれを抱いていたりするからだ。それでも私たちには、[p10>列車がどこへ向かっているのかはっきりとわかる。また、そこが行きたい場所ではないことも。目的を遂行する賢明さと、滅亡にいたる知識の区別はつけられる。その違いを説明できないような輩(やから)に、人類の未来を託したくはない。人間後(ポスト・ヒューマン)の未来を歓迎する者は人間性の友ではない。
 だが、心配をよそに、これまで私たちは何ひとつ防ごうとはしなかった。医学が与え続けてくれる恩恵がうれしくて、現実を直視してこなかった。いや、人間工学は必然の結果で止められやしないと理屈をつけて、自分たちの怠慢を正当化しているのかもしれない。いずれにせよ、私たちは自らの瓦解の準備に手を貸しているのであり、ある意味では、まちがった方向へ導いているとはいえ、言葉と実行が一致しているバイオ狂信者よりも責めは重い。
(pp12-14)
 公平に見れば、ハクスリーの『すばらしい新世界』に対する私の生徒たちの反応から判断して、私たちはまだ、彼の描いた社会を不快に感じられないほど堕落していないし、皮肉屋にもなっていない。だが、生徒たちの反対理由を知るのは役に立つ。
 敏感な平等主義者である彼らは、まず、階層化社会の強固なヒエラルキーに反感を抱いた。その社会はアルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、イプシロンに分かれており、それぞれの階層に特有の職業と娯楽が用意されている。しかし生徒たちは、次のことを見逃した。子供のときからきちんとしこまれてきたせいで、各階層の人々はそれぞれ自分たちの居場所に満足しきっており、階層間の嫉妬や敵対心は存在していない。しかも最終的に、アルファであろうとデルタであろうと、楽しまされている存在(そういっていいなら)であることに何の変わりもないのだ。全員の必要性や願望は完璧に充足されている。全員が等しく健康だ。階級の上下にかかわらず、それぞれの仕事はまったく決まりきっている。娯楽も平凡である。人間関係は不毛で、人生最大の楽しみは薬から得る。実際、次のように言い換えてもいいだろう。この厳密な階層区分が、レベルの異なる技術活動や経済活動の必要性を満たすために設けられ[p13>たものにしろ、「すばらしい新世界」は私たちの社会や、(あえていえば)世界のどこかに存在するほかの社会や、どこかにありそうな社会よりも、ずっと博愛精神に満ちている、と。階級別に割りあてられた制服の色の違いほどにも、実際の不平等は存在しないのだ、と。
 彼らが示した第二の不満は自由の欠如だ。なぜなら、私たちは博愛主義者であるばかりでなく、自由主義者でもあるから。小説のなかではすべての人間の資質は遺伝子操作であらかじめ決定され、あらゆる信条は調整され、類似が強制される。世界の管理者たちは、強力な心理学的、化学的テクニックを用いて行動を制御しながら、平和や社会の安定を乱すものがないように取り計らう。自分の頭で考える「異常者」や「不適合者」は島に隔離し、その種の連中だけで暮らさせる。ハクスリー自身、自由の欠如を彼の暗黒郷(ディストピア)の問題の核心とみなしていたのは明らかだ。彼がこの、小説の題辞に選んだのは、やがて世界の知識人はユートピアへの行進に背を向け、かわりに「より不完全で、より自由な」社会を追い求めるだろう、と述べた哲学者ニコライ・ベルジャーエフの一節であった。
 だが自由の欠如は、重大であるにせよ、欠陥の核心ではない。自由を手にした人々は、すべてにわたって自分の意思を押しとおす。「すばらしい新世界」の住民たちと同じく人間関係が希薄となり、つまらない欲求を追いかける。証拠がほしいなら、周囲を見まわせばいい。たしかに自由はどうしても手に入れたいものだが、したい放題したあげくの自滅を防ぐ砦にはならない。つまるところ、選択の余地があるだけではだめで、すべては「何を選んだか」によることになろう。
 「すばらしい新世界」でもっとも厭(いと)わしいことは、不平等でも自由の欠如でもなく、非人間化と堕落である――そして何よりも悪いのは、そういった「人間後(ポスト・ヒューマン)」の状態を、誰も悔やんだり気づいたりしておらず、したがって人間的にもっと豊かになりたい、もっと成長したいという願いもないことだ。[p14>
 読者である私たちもハクスリーの描く非人間化に気づかないのだとすれば、すでに道の半ばを過ぎてしまったに違いない。
 そういった非人間化の徴候や症状が見えないため、不幸にも、ハクスリーが小説をとおして行った文学的批判は私たちの仕事に反映されることがない。また、「すばらしい新生物学」にかかわる大きな危険にも気づかない。とりわけ恐ろしいのは、週を追うごと日を追うごとに完成に近づきつつあるバイオテクノロジーの意味を国民に伝える専門家たるべきアメリカの生命倫理学者のあいだにさえ、この鈍感さが蔓延していることだ。おおかたの学者は来たるべきものにほとんど心を乱されず、続々とバイオテクノロジー会社に雇われてゆき、最新の革新に倫理の祝福を授けている――それが愛のためではなく金のためであることは明らかだ。未来に横たわっているものが、「専門家たち」に見えない、あるいは気にもされないのであったら、残りの人々にどういう望みがあろう?
(pp18-19)
 これら自由民主主義の原理の政治的勝利に、私たちアメリカ人と世界がどれほど大きな恩恵をこうむっているか、とても言葉ではいいつくせない。自由民主主義と、その豊かな果実である現代科学とテクノロジーのおかげで、今日の一般人はより健康に、長く、自由に、安全に、そして近代以前の王侯貴族よりも豊かな生活を送れるようになった。それでもなお――こんなことを述べたら、とりわけ現代自由社会が宗教の狂信者による破壊的な攻撃を受けてからまもない時期であることを考えれば、[p19>不愉快に感じられるかもしれないが――こうした科学技術中心の自由主義の原理では、最先端の生物学の驚異に対処しきれないと認識しなければならない。それは一つには、すぐにくわしく検討するが、人間が人間を滅ぼさずにすむような、ほかの優れた考えを軽んじるからだ。また、もう一つには、「すばらしい新世界」が魅力的で、その到来が好ましいことであるかのように見せかける勢力に、簡単にだまされ、加担してしまうからだ。
(pp20-21)
 「権利」の肥大化によって骨抜きにされた倫理学の分野では、「自由」と「認可(ライセンス)」は同義語となり、やがて完全な無法状態になるだろう。自己主張の自由にいたっては、自殺幇助(ほうじょ)の権利、つまり選ばれた創造物であることを放棄したいという、自己矛盾した自由まで求められている。自分の財産を侵されない権利は、今や、「財産としての自分の肉体を侵していい」権利に変わりつつある。遺伝子操作を施した生きているヒト胚が作られたら、特許取得の対象となりうる。また、徐々にではあるけれども、人体を部品として売買しようとする動きも出てきた。自分の肉体と労働で得た、ほかの誰のものでもない「自分だけのもの」に根ざした権利、すなわち財産は、肉体そのものが商品であるという考えを生み出した。
 人間の尊厳に対する自由主義以前からの考え方、あるいは非自由主義的な考え方は、昔なら権利の政治的原理に反対する社会勢力だったが、今や大きく後退させられている――それは自然の支配を目的とする現代テクノロジーの企てのほか、自由主義陣営の成功によるものでもあろう。幸福の追求――言い換えれば「幸福の実践」、自分にあった生き方をすること――の権利は、結果として、まったくの身勝手、無思慮な娯楽、ハイテクの遊戯と薬物の法悦による人工的な満足と一体化した。みんな「すばらしい新世界」に行きたいかい? もちろんさ。
 さまざまな善からなる人間性の自由の殿堂、とりわけそのポストモダン版から、いったい何が消えたのだろう? 私たちは生命、自由、幸福の追求のほか、どのような善を守っていけばいいのか?[p21>私たちが堕落、下品、非人間化に気づいたとき、何が失われてしまっているのだろう? すでに何度も指摘してきたが、その筆頭は「人間の尊厳」である――ときにはこの言葉と「人間の自由」がペアで使われる。ただし(私たちがおぼろげに感じとっているように)、人間の自由は守るに値する唯一の善とはかぎらない。実際、「人間の尊厳」というのは便利な概念だし、正しいものでもある。私にしろ、しょっちゅう使っている。だが、この言葉が空虚なスローガン以上のものならば、私たちはその意味を明らかにしなければならない。そして、わが同胞たちの心に届き、説得しうる方法を見つけなければならない。それは簡単なことではない。
(p22)
 この言葉そのものはなかったにせよ、古代ギリシャが、卓越性や美徳と結びついたものを尊厳として考えていたことはまちがいない。詩人たちの描く英雄的な世界で、本物の偉大な人間、名と誉れに輝く不滅の人物は、高貴で栄えある行動におのれの価値を示した。勇敢さこそ至上の価値であった。戦場においては、勇気のみを頼りに自ら進んで死地におもむき、現代人のように敵を打ち負かすだけでなく、いわば死に対しても勝利を得ようとする、やはりあっぱれな敵陣の勇者と渡り合いに行った。
 この英雄的な――たとえばアキレスやヘクトールなどの――尊厳は、ブルジョア的な死への恐怖、医学への愛とは対極にあるが、皮肉にも、人間の身体を称え、何ものにもまさる美として歴史のなかに位置づけることとなった。その後、続くソクラテスの時代を境に、英雄の美徳は、知を重んじるギリシャ哲学に場所を譲った。新たなヒーローは、栄えある戦士ではなく知に献身する人間、戦場ではなく永遠の知識を一心に探求するゆえに死と隣り合わせに生きる人間にかわった。
 実際、かの雄々しい戦士と勇敢な知の探究者は、いずれも人間の尊厳の頂点といえるだろう。今日でさえ、アキレスやソクラテスの物語は賞賛の念を抱かせる。とはいえ、民主主義の時代に古代ギリシャの例はあまり実際の役に立たない。さらにいうと、「すばらしい新世界」の問題は、栄えある戦士や傑出した哲学者(また芸術家、科学者、政治家など)の不在がいちばんの原因ではない――もっとも、そういった世界で彼らは歓迎されないのだけれども。根本的な問題は、より普遍的で万人に共通するような「人間の尊厳」の欠如である。
(pp24-25)
 生命倫理学の領域で、「個人の尊厳」の概念が限定的にしか使えない理由は、すぐにわかるだろう。よくいわれるように、個人単位の生命倫理学は、人間の尊厳の一定部分、すなわち「人間の意思の侵害から自律性を守る」という点を擁護するときにとても役に立つ。たとえば、専門家や医師がインフォームド・コンセントをきちんと取らなかったときや、過剰に保護者的な行動をしたときなどだ。事実、人体実験に適用される有名な倫理規定〔訳註・一九六四年に採択されたヘルシンキ宣言。科学の発展とともに、五回の改訂を重ねている〕は、人間の自律性についてのカントの原理や、強者から弱者を守る必要性がもとになっている。
 しかし、この倫理要項は、「すばらしい新世界」の非人間化の危険と戦う際にはほとんど役立たない。実際のところ、ヒト胚の培養、代理母、クローニング、臓器売買、あるいは体外発生でさえも、[p25>この世界にとっては歓迎できる事柄だ。なぜなら、こういった特異的な方法で身体を治療したり、身体の一部を使用したりすることは、道徳観念のない世界のどこかで幸せに暮らす「人間もどき」には、害悪ではないからだ。カントには失礼だが、何か緊急な問題のために高潔さを犠牲にすることや、肉体のために魂を犠牲にすることが原因となって人間の尊厳が脅かされるとき、肉体と精神を切り離したり、緊急の問題を無視したり、現実の具体的な人生への尊厳を否定したりするような教義では、解決は得られない。人間的に優れたものを守るためには、同じように人間的に卑しいと思われるものも守らなければならないのだ。
(pp27-28)
 オルダス・ハクスリーが読者を「すばらしい新世界」にいざなったとき、最初に「中央ロンドン人工孵化センター」の受精室を紹介したのは、ただの思いつきではなかった。そこでは新しい人間の生命が体外で生産され、クローニングが日常的に行われている。この新世界で「誕生」や「母親」が汚らわしい概念とされていたことも、ただの思いつきではなかった。なぜなら、こうした肉体的なはじまりや結合からの逸脱と、ハクスリーが社会全体の特徴として描いた精神の卑しい平板化には、深いつながりがあるからだ。なぜか? それは、赤ん坊の大量生産に「イエス」と言うことは、あらゆる自然な人間的つながりに「ノー」と言うことであり、また、人間の性的な結合、つまり人間の官能的な熱情の基盤となる意義に「ノー」と言うことだからだ。
 人間の「エロス」は、一つの生体内にある二つの異なる熱情が、不可思議にからまりあったり、せめぎあったりして生まれてくる。その二つとは、自己保存の衝動と、再生の衝動である。前者は、自己の永続性や満足という自分自身にかかわる願望である。後者は、有限の自己を超える何か、自分の命をそのために費やしたり与えたりできるものに対する無私の熱情である。もちろん、ほかの動物にしろ、こうした二つの相反する衝動をもっている。しかし人間だけが、自分の存在を意識する。そして、この二つの衝動の緊張関係に基づいて、あるいは「この世で自分の体をもって生きる意味」をはっきりつかもうとして人生を作り上げていこうとする。結果として、人間だけが明らかな意識をもって、より高尚なもの、より完全なもの、より永遠なものを求める。もし私たちが、意識的な自覚によって向上もすれば優れたものにもなる、この肉体的な「二重の衝動」が結びついた存在でなかったなら、こうした願いをもたなかっただろう。[p28>
 人間の熱情の源泉、つまり胚細胞をないがしろにする社会からは、偉大さはもちろん、人間的なすばらしさは跡形もなく消え失せるだろう。胚細胞の意味は、異なる性の二人が互いを補い合って、単一性と完全性を求め、自分たちの子孫の幸福に喜んで自分自身を捧げることだといえる。現在の世代だけの生存と安寧のために、ほかのあらゆる善を喜んで犠牲にする社会からは、偉大さはもちろん、人間的なすばらしさは跡形もなく消え失せるだろう。そして自分自身の肉体の不死だけを願うようになるだろう。
(p66)
 生活が不幸に大きくかかわっているのだとしたら、テクノロジーを使って解決できないだろうか?攻撃性、願望、悲嘆、苦悩、快楽の物質的基盤を理解することによって、デカルト主義がうたった、人間を心身ともに頑健にするという約束を実行できないだろうか? これこそ、自己犠牲や自主規制を必要としない、支配の究極の形式、技能による自己制御の実現ではなかろうか?
 だが、その一方で、こうした人間の性質の最終的な技術的征服は、ほぼ確実に人類を虚弱化するだろう。こうした支配形式は、完全な非人間化と変わりがないかもしれない。ハクスリーの『すばらしい新世界』を、C・S・ルイスの『人間の廃止(The Abolition of Man )』(一六六―一六七ページ参照)を、ニーチェの「最後の人間」についての記述〔訳註・『ツァラトゥストラはかく語りき』で、もっとも軽蔑すべきものとされた〕を、そして新聞を読むがよい。均質化、凡庸、偽の平和、薬物による充足、嗜好の卑俗化、愛も憧れもない魂――人間の性質の核心部分を技術支配の最終目標にすえれば、こうした結果になるのは当然なのだ。勝利の瞬間、プロメテウスのようであった人間は「満ち足りた牛」になってしまうだろう。
 さまざまなテクノロジーの問題を列挙してきたけれども、共通の背景が見つかっただろうか? 問題の「根源」は何だといえるだろうか? 私はこう考える。「テクノロジーの問題」とは、テクノロジーが「問題」ではなくて「悲劇」だということ、大いなる自己矛盾に生きる人間の痛切な挑戦だということだ。この悲劇においては、英雄の成功が失敗の、勝利が敗北の、栄光が悲惨の温床となる。人間の魂に根をはり、現代的思考のバラ色の約束に鼓舞されたテクノロジーは、避けがたく、英雄的ではあっても破滅にいたる道のように思われる。
(pp68-69)
 リベラル民主主義にとって自由と平等が絶対であることを考えれば、リベラル民主主義とテクノロジーの企てが一筋縄ではいかない複雑な関係を築いていても、驚くにはあたらない。ある意味では、リベラル民主主義はテクノロジーの成長にとって最適の土壌を提供しているといえよう。経済や個人の自由、発明や企業活動の解放、向上への不断の努力、個人の野心の実現を妨げる階級制度がないこと、そして(幸運にも)豊富な天然資源をもつ広大な国土。おそらくテクノロジーの歴史上、もっとも居心地のいい社会環境に違いない。さらに福祉一般と同様、自由の維持は、ある特定の時期だけでなく、とりわけ第二次世界大戦を契機にアメリカの工学技術、合理的な計画、秩序だった社会組織と深く結びついてきた。私たちのリベラル民主主義が、マスコミ文化、官僚政治、多国籍企業、大きな政府などをもつ大衆社会になるにつれ、私たちはますます夢中になってテクノロジーを求めるようになってきた。機械や装置という面だけではなく、あらゆる経済的、社会的状況を合理化し、管理していくうえでも。
 こうした現実に、アメリカの個人主義、物質主義、貪欲のほか、アレクシス・ド・トクヴィル〔訳註・フランスの歴史家、政治家(一八〇五―一八五九)。著書に『アメリカの民主政治』など〕が詳述した民主主義の特徴すべてが合わさったら、テクノロジーのありとあらゆる問題が増大していく危険を目のあたり[p69>にすることになるだろう。そのかたわらで私たちは、非人間性を真綿でくるんだ「すばらしい新世界」の専制政治(それでさえましというものだ)に向け、嬉々としてエンジンをふかしているのだ。
 しかしながら同時に、正しく理解さえすれば、アメリカのリベラル民主主義にはテクノロジーの問題を解決に導く手段が示されている。いやむしろ、諸手をあげてテクノロジーの視点に賛成するような姿勢が問題を生み出す原因なのだ、と思い出させてくれる手段といえるかもしれない。リベラル民主主義者である私たちは、テクノロジーの潮流を止められないかもしれないが、沈没を防ぐ手立てを講じることはできる。すべては、完璧な人間を再創造しようとする合理主義者やユートピアの幻想を斥けること、そして、私たちの政治形態の礎となった人間の自由と尊厳に関する豊かな理念を思い出すことにかかっている。
(pp71-72)
 正直に、かつ率直に言っておかなければならないだろう。リベラルな教育は――積極的な市民活動[p72>や豊かな個人生活と同様に――いまだアメリカ社会に根づいていない。専門校や大学教育の現場では、真にリベラルな学習はないがしろにされ、かわりに特定の専門性、職業的・技術的訓練、知的流行への追従、イデオロギー的論争や教化、まったく浅はかでくだらないことに終始している。だが、そこかしこで、思慮深い本物の探求が散見されるようになり――こちらでまともなプログラムが、あちらで優れた教師がひとりふたりというふうに――いくつかの合図の灯火がまじめで熱心な学生を惹きつけ、学ぶ機会を与えている。私にとって、こうした場所の一つ、学生も教師も人間のもっとも重要な問題について深く考える気風をもつシカゴ大学のカレッジの学生であったことが最初の幸運であり、また、ここで二五年間教師として過ごしてきたことが第二の大きな幸運であった。『すばらしい新世界』の住人たちとは異なり、私たちはまだ自由に、技術主義社会の潮流に抗して知性を存分に発揮でき、思考のもたらす真の栄光と真実と意義の探求に魂を捧げる余地が残されている。
(p88)
 倫理学の実践理論の隆盛が、倫理的な行動をするときの役に立つのかどうか、またどうすればそうできるのか、総合的に評価する必要があるだろう。そういった評価をくだす能力は私にはない。しかし、『すばらしい新世界』へいたる道のことを案じている私たちは、安心してはいられない。憂慮すべき厭(いと)わしい生命医学テクノロジー(体外受精、代理母、男女の産み分け、「臓器農場」として死亡直後の遺体を灌流〔訳註・移植臓器を保護するため、冷却保存液で臓器内の血液を洗い流す処置〕すること、着床前遺伝子選別など)のなかには、手をつけられはじめたものもあれば、実際に用いられているものある――たしかに、どれに対しても「適切なガイドライン」があり、悪用の危険性や道徳的代償に関して、もっともな懸念が強く表明されてはいるが。概して、生命倫理学者は、不可避な事柄にお墨付きを与える以上のことはできない(し、するべきでもない)とでもいうような態度を示してきた。そして、自分たちの活動を事細かに検討しなければならないバイオテクノロジー会社に雇われた学者たちは、波風を立てずに船を進ませることで報酬を得てさえいる。
(pp108-109)
 オルダス・ハクスリーの小説の読者は、そこに描かれている社会の住人たちと同じように、「ずんぐりした灰色のビル(……)中央ロンドン人工孵化・条件反射センター」から「すばらしい新世界」へ足を踏み入れる。それも何はさておき、受精室から。受精室では三〇〇人の受精係たちが実験器具の上に覆いかぶさるようにして座り、卵子を検査し、「精子が自由に泳ぎまわっている温めた培養液」のなかにそれを浸して、首尾よく受精にこぎつけたら、ボトル状の容器に移し替える(すなわちボカノフスキー法〔訳註・小説に出てくるクローン人間大量生産法〕によって処理する)時期まで培養を続ける。[p109>
 ここでは、生命は受精――研究室での――からはじまるということが、いかんなく強調されている。研究室における生命は、「すばらしい新世界」への入り口なのだ。
 その入り口の敷居のぎりぎりのところに、今日の私たちは立っている。この入り口を通って、どれくらい奥まで、そしてどれほどのスピードで進んで行くべきなのかは、偶然や運命に左右される問題ではなく、むしろ人類の決断――「私たち」人類の決断にかかっている問題である。いや、それどころか、この重要な問いに答えを出すことまでも、今世紀のアメリカ国民の肩にかかっているように思われる。そのための指標となるのが、現在の私たちがなす行為であり、示す手本といえよう。
(pp125-126)
 どれだけのあいだ、そして発達のどの段階までなら、実験に適した素材であると考えられるのか?[p126>いったいどの時点で培養装置から取り出し、人間社会、あるいはとりあえず未熟児用新生児室に入れるべきなのか? 保護するに値するヒトの生命を規定する、きちんとした境界線を定める必要性は、いくら誇張してもしすぎることはない。中絶問題があるために勝手な解釈をされている現行の境界線(すなわち、出産時か、あるいは生存能力をもった時点か)は、現在の女性解放運動と連邦最高裁判所の両者を納得させ、なおかつ未来の人々をも納得させるものかもしれないが、研究室で生命を培養する技術がより高度化された暁には通用しなくなる(原註6)。
 しかし、研究室で胚を存続させることの目的が実験のためではなく、健康で元気な子供を生むためだとしたらどうだろう――たとえば、科学的根拠に基づいて胎生期中の栄養やケアを与えることが、あらゆる点で最善であるケースは? 研究室で培養される胚へのそうしたあつかいは、その胚に本来はらうべき敬意と矛盾しないのか?「唯一無二の人間」になりうる生命力と来るべき人間性に対してどう接するべきかだけを考えれば、研究室で一個の胚を生存能力のある月満ちた赤ん坊にまで培養すること(すなわち、体外発生)は、じゅうぶん敬意をもったやり方だといえるかもしれない。(これらの理由により、生命の権利を唱える人々、すなわち胚盤胞の破壊にすら反対する人たちは、必要なら瓶のなかであっても、今よりもすぐれた胚保存法や出産までの存続法を何か考えつくだろう。)
 しかし、体外発生を実行することは、私たちの人間性に対してはらわれるべき「さらに大きな」敬意とは矛盾する。「直系の血族、親類、家系といった絆」というものがあるからだ。人間であることとは、人間としての形をとり、人間としての能力をもつことだけを、意味するのではなくて、人間的背景をもち、人間らしいつながりをもっていることを意味している。へそがあることは、言葉をしゃべり、直立の姿勢をとっていることと同じく人類であることのしるしである。『すばらしい新世界』の[p127>人工孵化センターを非人間的と感じるのは、まさにこれらの理由によるのだ。
(pp149-150)
 こうした研究は、私たちの社会の倫理基準に一致しているのだろうか? これはおもに、初期ヒト[p150>胚の位置づけにかかわってくる。これまで述べてきたように、もし初期胚が、現在も未来も、それが「何ものであるか」という理由から尊重に値するとしたら、侵襲的な研究材料に使うことは正当化しきれないだろう。研究のためだけに胚を「製造する」ことなどはなおさらである。読者は、ハクスリーの『すばらしい新世界』に出てくる「中央ロンドン人工孵化センター」を想像したとき、あるいはもう少し刺激を減らして、生きた胚でいっぱいの孵卵器や冷蔵庫を目にしたとき、自分がどう反応するかを考えて、この結論を考えてみればよい。
 たとえこの議論が政策立案者を動かすにいたらなくても、別の議論によって可能となるだろう。というのも、胸にしっかり刻んでおいてほしいのだが、立案者の決定は、体外受精ならびに胚研究がアメリカ国内で許可されるべきかどうかではなく、私たちの税金がそのような研究を促進すべきかどうかに基づいてなされるのだから。したがって、国民のかなりの人々――大多数といってもいいかもしれない――に深く浸透している信念、すなわちヒト胚にも守るべき人間性があり、それ自身が恩恵を受けるのでなければ実験の対象にすべきではない、という信念を無視することはできない。これが何かの宗教的な根拠からくるのかどうかは関係ない――もし宗教的信条だったら絶対に却下しなければ、などというように! この信念の存在、誠実、奥深さ、そして、こうした主題の大いなる重要性こそ、私たちが気にしなければならない事柄なのだ。
(pp175-176)
 遺伝子工学の信徒は、彼らのユートピア計画が、実は苦しみを除去するのではなく、単に別の苦しみに差し替えるだけだということを認めない。人が満ち足りるための条件は、欲望が能力を超えないことであるということを忘れ、最近五〇年間の長足の進歩をもってしても医療が現代人を満足させられていない事実に、目を向けようとしない。実際、私たちは医療分野への期待の高まりの裏で、世間の不満がかなりくすぶっていることを知っている。人々の実際の健康状態はここ何十年かで大幅に改善しているが、人々が健康の現状について抱く「満足感」は変わらないか、あるいは低下した。しかし、これは医学や人道の名のもとに行われた企てにおいて、成功のために支払った代償のなかでは小さいものだ。
 オルダス・ハクスリーがその予言的作品『すばらしい新世界』のなかで明らかにしたとおり、バイ[p176>オテクノロジーで舗装した道を人道主義的情熱でつき進んでいけば、その道の果てにあるのは人間の満足ではなく、人間の基盤喪失である。肉体の完成の代償は精神の停滞である。愛着や達成感がもたらす人間らしい喜びや悲しみは、薬物による人工的な快感にとってかわられる。生殖は「製造」となり、家族の絆は失われ、人々は無意味な仕事と無意味な娯楽に時間を費やす。トルストイが「実人生」と呼ぶところのもの――直接的で、鮮明で、大地に根ざした営み――は、完全に操作され、実りのない、孤立したものにおきかえられていく。ひとことでいえば、それは非人間化である。自然を人間の財産と考え、その解放のために「自然を征服」することを究極の目標にすえるだけでなく、それこそ人間の性質の根幹だとしてしまったことからくる必然的結果なのだ。
(p188)
 人間後(ポスト・ヒューマン)の世界を選択するか否かについて、信任投票で結論を出そうとしない私たちは、生物学の行きつく先に広がる世界をコントロールしようとする際、少なからず困難に直面する。その世界をもたらす科学的な発見や先端技術は、断片的に、一つずつ、一見それぞれが無関係に現れ、「(人類を)病から救う」ための手段として歓迎されているように見える。
 だが、ときに私たちは、決断をくだす曲がり角にさしかかる。その決断しだいで、人間は、それまでと異なる世界――二度と後戻りできない、まったく異なる世界に足を踏み入れることになる。幸いにも、私たちは今、まさにその重大な曲がり角に立っている。さまざまな出来事を経て、私たちは、そのイニシアティブを握り、生物工学の企てを多少なりともコントロールする機会を得るにいたった。すなわちそれは、オルダス・ハクスリーの小説世界の要となる手法、クローン人間創造の可能性に関してである。事実、研究室のなかで行われる生命の創造と操作は、小説のみならず現実世界においても、「すばらしい新世界」への扉を開こうとしている。
(pp194-196)
 生命倫理学者のあいだに混乱が見られた一方で、科学者たちはまったく逡巡しなかった。クローニングの企ては急速に進行した。「クローン人間を作るか否か」は、もはや非現実的な懸案事項ではない。羊、牛、マウス、豚、山羊、猫のクローニングの成功によって、今、私たちが、クローン人間作りを歓迎、あるいは黙認すべきなのかという重大な決断を迫られていることは火を見るよりも明らかだ。最近の新聞記事が信頼するに足るものだとすれば、高名な科学者や医者は、ごく近い将来、史上初のクローン人間を作る意向を示している。その動きは、すでに進行中だ。[p195>
 例によってメディアは周囲をうろつき、私たちの好奇心をくすぐりながら、浮世離れしたニュースを身近な話題に転換することによって、クローン人間誕生の可能性に対する抵抗感をやわらげようとしている。クローン羊ドリーの誕生から五年のあいだに、クローン人間に対する論調は、「オエッ」という嫌悪感から「へえ」という軽い驚き、「凄い!」という感嘆、そしてついには、「別にいいじゃない」という感想へと変わっていった。著名な生命倫理学者の後押しによって、感覚的に物事をとらえたがるメディアは、「優生学的なクローニングは、すばらしい最高最良なものだ」という主張を軽々しくあつかってきた。彼らは、「ほかに選択肢がない」と言われる不妊に悩む夫婦を救い、重い遺伝病にかかるリスクを回避し、亡くなった子供の「身がわり」を求めるといった人道主義的、同情的な理由から、クローン技術による生殖を擁護する主張にすり寄るようになり、このようなごく一部の利益のために、クローン人間作製という行為、それがもたらす忌まわしい結果を黙認させようとしている。
 だが、これはきわめて大きな賭けなので、私たちは、この重大な問題を目の前にして、決して安閑としてはいられない。部分的には既存の生殖技術の延長線上にあるとはいえ、クローン人間の作製は、それ自体が革新的な技術であり、とりわけ、最近のヒトゲノム解読計画の完了を受けて、遺伝的な「増強」と、近い将来可能になるであろう生殖細胞遺伝子の改変が組み合わさるとき、それがもたらす結果は容易に予測できる。多少、誇張に過ぎるかもしれないが、以下のような決断を迫られるようになるのはまちがいない――私たちは人間らしい人間の生殖をとどめておけるのか、赤ん坊は授かるのではなくオーダーメイドで手に入れるものになるのか、『すばらしい新世界』に描かれた、「人間をデザインする世界」に通じる道を歩むことを基本的によしとするのか。[p196>
 たしかに、クローン人間の可能性は、このような決断をくだし、生物学の行き着く先をある程度コントロールするまたとない機会を私たちに与えてくれた。クローニングは、独立した明確な技術であり、高度な技術的ノウハウと熟練を必要とするので、それにたずさわる専門家は、その世界の著名人がほとんどだ。とはいえクローニングの需要はきわめて低いので、ほとんどの人が迷うことなく反対の立場をとっている。クローニングによる生殖を禁じたからといって、科学的、医学的に重要な知識が失われることはないだろう。それにとってかわる問題の少ない万人が認める手段を利用すれば、無性生殖のクローン人間作りから期待されるもっとも重要な医学的恩恵の一部は得られるだろう。現時点では、クローン人間への商業的な関心はきわめて限られており、世界各国が、それを禁止する方向に動いている。人間後(ポスト・ヒューマン)の世界へ向かって暴走を続ける列車のブレーキに手をかけ、尊厳ある人類の未来に方向転換させるには、今が最後のチャンスかもしれない。
(p209)
 夫と妻の共通の財産である子供を通じて、男性と女性は、(単なる性的な「結合」を超えた)ある種の真の統合を達成することができる。二人の男女は、三番目の存在である子供に対して注ぐ惜しみない(つきることのない)愛情を分かち合うことによって一つになれる。両親の分身である子供は、彼らの融合が形となったものであり、単独で存在していく実体としてこの世に生を享ける。さらに、育児という二人の共同作業によって、統合は強まっていく。墓場の向こうに未来への入り口を作り、種だけでなく名前や気質や希望をも引継ぎ、親をしのぐ美徳と幸福を期待された子供たちは、超越の可能性の証である。「性」の二重性と性欲は、私たちの愛情を高みに押し上げ、外に引き出し、そして最後には、滅びゆくものの化身としての限界をある程度乗り越えるための道をつけていく。
 ハクスリーの『すばらしい新世界』が、有性生殖が消滅しクローニングにとってかわられるところからはじまるのも、「誕生」と「母親」が汚れた概念としてみなされているのも偶然ではない。無性生殖と赤ん坊の「製造」を肯定し、すべての自然な人間関係を否定するには、男女の結合の深い意味、いうなれば、人間のエロティックな憧れをも否定しなければならない。人間にとってエロスとは、一つの生きた肉体のなかにある二つの相反する願望、自身の永続性と充足に対する利己的な関心と、自身の限りある存在を超越するものへの、そのためなら自分の人生を捧げてもいいと思えるような無私の憧れ、この二つの願望の奇妙な結びつきや競争の結果なのだ。人間の願望の源を破壊した社会からは、人間にとってすばらしいことはおろか、よいことは何ひとつ生み出されないだろう。人間の願望の源は、統合と完全と神聖さを追い求める性的に補完しあう二者の意味にこそ見いだすことができるのだ。
(pp220-221)
 「完璧な子供」を創るプロジェクトの当事者は、不妊治療の専門医ではなく、もちろん優生学を推進する科学者とその擁護者である。彼らは、今のところ、生殖の自由や不妊への理解を声高に叫ぶ人々の陰に隠れていることで満足している。彼らにとって最優先すべき権利とは、いわゆる「生殖の権利」ではなく、今から四半世紀前に生物学者のベントリー・グラスが言った、「あらゆる子供が、健全な遺伝子型に基づき、健全な肉体と精神構造をもって生まれてくる権利(……)親の健全な遺産を受け継ぐ絶対的な権利」である。だがこの権利を獲得し、新たな生命に対して品質管理をするためには、人間の受精と妊娠を研究室のまばゆい光のもとで行い、将来子供となるべき卵子を受精させ、育て、剪定(せんてい)し、余計なものを取り除き、観察し、点検し、突つき、つまみ、取り上げ、注入し、検査し、評価し、格付けし、承認し、押印し、包装し、封印し、配達することになる。完璧な子供を作り出す方法は、それしかない。
 このようなシナリオは政府からの圧力がなければ成立しないのではないか、という考えはまちがっている。ヒトゲノム解読の助けを借りて、より賢く、美しく、健康で、運動神経のいい「より優れた子供」として認識される子供を作り出す、あるいは選択することが可能になれば、両親は、自分の子孫を「向上」させることができる機会に飛びつくだろう。その機会を利用しなければ、社会からは育児放棄とみなされるだろう。本来反対の立場をとるはずだった人々も、まだ見ぬわが子の身がわりに[p221>なって、すさまじいプレッシャーのもとで競い合うことになるだろう。なかには、子供が生まれ落ちた瞬間からハーバード大学に入学させる計画を立てる者も現れるだろう。それどころか、「善い」とか「より善い」ことの基準がないために、このような変化が真の向上なのかどうかさえ、誰かにもわからないだろう。
 クローニングの擁護者は私たちに、SF小説に登場する研究室内でのクローンの製造や大量コピーの生産といったシナリオを忘れさせ、不妊に悩む夫婦が自分たちの生殖の権利を行使するという気の毒なケースのみに目を向けさせようとしている。だが、クローンを一人だけ作るケースにまったく罪がないなら、クローンを大量生産することに不快感を覚えるだろうか?(同様に、その技術自体が容認しうるものなら、なぜ、それによって金儲けをする人々に文句を言うのだろうか?)いわゆるSF小説のケース――たとえば、『すばらしい新世界』――からは、私たちの前に現れるものが善意に基づいたものだという誤った認識が浮かび上がる。一見、慈悲深い人道主義に思える手法が、最終的には、人間性の崩壊につながることが暴かれるのだ。
(pp229-230)
 なかには、クローニングの実用化は、ほぼまちがいなく最小限にとどまると考えられるので、利用[p230>を解禁すべきだと主張する向きもあるが、これは近視眼的な見方である。たとえめったに利用されなかったとしても、それを許容してしまった社会は、近親相姦やカニバリズムや奴隷制を部分的にでも許容する社会と同様、以前とは異なる社会になってしまう。クローニングを許容する社会は、それを意識しようがしまいが、人間の生殖を製造に転換し、子供を私たちが意図する計画としてあつかうことを黙認し、次世代の人々を優生学的に新たにデザインすることに、否応なく同意するだろう。この社会の目の前には、「すばらしい新世界」に通じる高速道路が延びているのだ。
 だが逆にいえば、人間のクローニングによって私たちが直面する現在の危機は、またとない絶好のチャンスでもある。まったく前例のない方法によって私たちは、この技術的な企てを人間の手によってコントロールするために、英知と、思慮分別と、人間の尊厳のために、一撃を加えることができる。クローン人間の是非について考察することは、考えるだにおぞましいが、私たちが無秩序な技術革新の奴隷となり、その製品となるのか、人間の尊厳を高める方向に自らの力を導く自由な人間であり続けるのか、それを決定する機会となるのだ。
(pp261-263)
 では、もう少し進歩的、進取的な提案について考えてみよう。私の同僚であるウィラード・ゲイリンは、一九七四年の「死者の収穫(Harvesting the Dead )」(10)と題する小論のなかでこう予想している。新たな死者――もしくは完全な死の状態ではないと思われる者――の身体には潜在的な有用性が秘められていることに留意しなくてはならない。人工呼吸器の継続使用や補助循環装置によって境界線上にとどめられた人体は、見た目は損傷なく、温もりがあり、血色もよくて、以前の本人となんら変わりがないように考えられるが、脳は死んでいる。そんな患者たちから、ゲイリンは、「植物人間」のデパートから得られる、医学的価値に満ちた多くの利用法を想像した。たとえば植物状態の人間ならば、骨盤検査や挿管を行う際、研修医が恥ずかしさを感じたり、身体を傷つけたりする恐れもない。医学的実験や薬の試験利用も弊害を気にすることなく行える。血液、骨髄、皮膚を制限なく採取できる。ホルモンや抗体を製造する工場として利用できる。さらには、移植用部品として手足を切断することもできる。このように、亡くなって間もない遺体は宝の山なのだから、じゅうぶんにそして制限なく活用しない手があるだろうか?
 ゲイリンの構想はまったく現実離れしたものだとはいいきれない。このような、きびしく管理され[p262>た「飼育」の可能性については、医学界では内々に、真剣に論議されていたことである。人間を植物状態のまま維持する技術はすでに可能となっている。たしか以前、大規模な特別老人ホーム(いやむしろ、大型保育園と呼ぶべきだろうか)の全国チェーンを設立し、永久的な植物状態の患者や人工呼吸器をはずせない患者、回復不能の昏睡状態に陥っている患者などの世話と栄養補給を請け負った公の法人もあった。そういった施設はざっと一〇あり、数百の患者が存在している。ゲイリンの言う生物デパートとなることを期待されているそれらの施設はすべて、死の定義(すでに別の理由で提案されているが)を脳全体の死から、皮質や主要中枢部の死へと変えるものであり、そしてまた、価値ある資源を無駄にすまいとする意思の表れである。「冷淡すぎる」? たしかに。「有効利用」? それもまちがいない。この「すばらしい新世界」へ足を踏み出そうではないか。
 私たちは「前進」している。誰も疑念を口にすることさえない。私は三五年前からこのことについて考えをめぐらせているが、その間、私たちの社会は積年のタブーや嫌悪を克服してきた。試験管ベビー、商業的な精子バンク、代理母、いつでもできる妊娠中絶、胎児の組織検査、実験用のヒト胚製造、生体組織の特許化、性転換手術、脂肪吸引、人体ショップ、一般的になった人体パーツの取引、医者による自殺幇助、移植ドナーにするための人間を意図的に生み出すこと――羞恥心やプライバシー問題、世間に公表することなどについて社会の考え方が大きく変化したのはいうまでもない。
 しかしおそらく、そういった変化よりももっと厄介なのは、感受性や行動がすさんだことであり、想像力や、「自分自身におきかえて考える」という行為に、もはや回復できない影響を与えてしまったことだろう。生命医学プロジェクトは悲しむべき皮肉をはらんでおり、オルダス・ハクスリーは『すばらしい新世界』でそれを予見している。すなわち、私たちは途方もないエネルギーと莫大な金[p263>を使って、肉体としての生活を保持し長続きさせる。だがその過程において、肉体をもった生はその威厳と尊厳を失う。これは一言でいえば、進歩という名の悲劇といえよう。
(p337)
 また、自分以外の人のことを考えてみよう。誰かに自分の殺人者になってくれと頼んだり、命じたりするのは、尊厳のある行為だろうか? 自分で自分の生命を終わらせることができないのは悲しいことかもしれないが、それを人に要請するのは、両者の尊厳にとってプラスになりうるだろうか?安楽死の実行を頼む相手が息子や娘だったときの二重の意味を考えてみよう。おまえは、私に生き続けろと強要するほど、私を愛していないのか? おまえは、私に死んでほしいと思うほど、私を愛していないのか? 尊厳がじゅうぶんにあるのなら、愛する人にそのような義務を負わすだろうか?
 もちろん、一連の行為から、個人の感情を排することはできるだろう。安楽死を依頼するのは家族ではなく、医師にかぎればいい。だが、まったく同じ問題が生じる。医師に治療と人間らしいあつかいを求めておいて、同時に、死を技術的にもたらす役割を求めることはできるのだろうか? もちろん、これを医師でない人、つまり、技術のあるプロの安楽死実行者に頼めば、ことは完全な非人間化に堕してしまうだろう(原註12)。
(p347)
 *原註12(三三七ページ)――完全に合理的で技術的に管理された死の末路については、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』に登場する、「末期患者のためのパーク・レーン病院」の背筋が寒くなるような描写を参考されたい。〔訳註・第一四―一五章。完全に人工的に管理され、死と向き合うことなく人生を終えるようにしている病院〕
(pp350-351)
 アメリカにおける論議では、医の倫理に関するこういった事柄、あるいは関連するその他のテーマについて、ユダヤ教の律法学者はたいてい、医学の発展を喜ばしいことと考え、生――より多く、より長い、新しい生を支持する立場をとることが多い。病気の治癒、死の回避、寿命の延長などを、倫理に反しなければすべてにまさる、なかば絶対的な価値とみなす。たとえば、許される行為に制限を設ける自然法の教えを堅く守るローマ・カトリック信者のモラリストとは異なり、ユダヤ教の律法学者は、生きること、健康であることは善であり、それゆえに、そのどちらかあるいは両方に力をつくす行いはそれにまさる善であると、いささか強引に理論を展開する。
 私自身の経験に基づく例を二つあげよう。五年前、国家生命倫理諮問委員会の場で、クローン人間の倫理的問題に関する考証を求められたことがあった。そのとき、ユダヤ教的見地から意見を求められた律法学者が二人同席していたのだが、両人とも、この問題について先行きをなんら憂慮していないらしいことを知り、私はひどく驚いた。その一人、正統派ユダヤ教のラビは、生のすばらしさと「生めよ、殖えよ」という神の命(めい)を引き合いにだし、子を望む不妊夫婦のために夫か妻のクローニングを実施することは、ユダヤ教の規範に照らしあわせてもなんら問題はないと言った。もう一人の保守派ユダヤ教のラビも、いくらかの懸念材料はあるとしながらもこう述べた。「医学的研究を発展させ、不妊治療という目的に使われるのなら、クローン人間は神の計画に沿うものであり、ユダヤ教の伝統においても理解されるであろう」[p351>
 『すばらしい新世界』そのままに生殖が機械化され、異性間の生殖がやがて同性同士での繁殖にとってかわられる、それを心配したいやつにはさせておけ、というわけである。病気を治療できる、不妊カップルに子供を供給できる、それだけでもうクローン人間を合法化するにはじゅうぶんだというわけだ――これを拡大解釈すれば、身体の交換部品にするためのヒト胚を培養することや、可能ならば試験管で赤ん坊を作り出すこともまた合法となりかねない。
(pp382-383)
 私はこれまで、生物学のもつ実践面での限界への対処法については、あまり提案してこなかった。それらがよく知られているものだからであり、また、これまでの章でふれてきたからでもあるが、おもな理由は、むしろ生物学のもつ哲学的な限界に焦点を当てたかったからである。それはあまり気づかれてはいないが、より重大なものだと思う。おそらく私たちは、この「すばらしい新世界」的な生命医学テクノロジーに適応していけるだろう。よいか悪いかについてはっきりとした、優れた道徳概念に裏打ちされていなくても、なんとかやっていけるかもしれない。それでもやはり私たちは、肉体においても魂においても、二つの世界が乖離(かいり)する危険に直面している。一つは、私たちが人間として継承し享受してきた生気あふれる世界。もう一つは、現代生物学から学んだ、制限され、人工的な、生気のない、客観的に具象化された世界。
 経験的な世界と科学的真実に基づいた世界との乖離は、もちろん、古くからいわれてきた。たとえ[p383>ば、実際の経験からすれば机は固くて密だが、原子物理学によれば、机の大部分は何もない空間である。大半の人間は次のように言うだろう。「だからどうした?」岩とか机の場合、この不一致はほとんど誰の心もわずらわせない。しかし、それが生命や「人間」の生命におよんだとき、著しく混乱をまねき、トラブルの種になり、自己分裂を引きおこす――必ずそうなるだろう。
 なぜ生物学の概念やアプローチが現実の生命とこうもへだたってしまったのか、その理由を探すのに難しく考える必要はない。この乖離は、ある理由から、意図的に、意識的に行われた。客観的な自然観(および生命観)の採用は、新たな科学の実践目標と密接につながっているうえ、不可欠なことだったからだ。


Kass, Leon R, ed. 2003 Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics,New York: Dana Press(=200510, 倉持武 監訳『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』,青木書店).
(pp7-8)
 実は,バイオテクノロジーによって導かれる先行きについて考えをめぐらせているすべての者が,こうした懸念を共有しているわけではない。反対に,バイオテクノロジーが連れて行こうとしている人間の完全性の追求という方向を賞賛する者もいるのである。遺伝子工学やナノテクノロジー,向精神薬が使えるようになる,来るべき超現在界のすばらしさを何のためらいもなく予言する科学者やバイオ技術者さえいる。全米科学財団(NSF)の最近の報告書は,「現在は科学技術史上無比の時代であり,人間活動の改善が可能となった」,「この改善が精力的に進められるならば,人間の生産性と生活の質を画期的に向上させる黄金時代が到来するだろう」と高らかに宣言している (B)。バイオテクノロジーの流れに注目するある科学者は,「未来人たち,彼らがどんな人間になっているかはともかく,彼らは我われの時代を振り返って,難題が山積し,苦労が多く,不愉快な時代だったと言うだろう。……寿命が70年から80年で,恐ろしい病気で死に,実験室の外のランダムで盲目的な卵子と精子の出会いによって子どもを授かるという奇妙で原始的な時代であったと見るだろう」と書いている (C)。DNA二重らせん構造の共同発見者の1人であるジェイムズ・ワトソンは,この問題を次のような簡潔なかたちにまとめあげている。「遺伝子を付け加える方法を知ることで人間を向上させることができるなら,なぜそうしてはいけないのだろう? 」(D)。
 だがしかし,予言された内容や予言された変化はよりよい世界に役立つという確信にはあまりにも楽天的なものがあり,この葛藤のなさ加減が現実に社会的不安を増大させる要因となっているのである。誰もが次世代人間,未来社会への召喚状を歓迎しているわけではない。誰もが「エデンの園の作り[p8>直し」や「神を演ずる」というアイディアを好んでいるわけではない。そして誰もが予言された新世界が現実の世界よりもよい世界だろうと一致して考えているわけでもない。むしろ,オルダス・ハクスレー[1894‐1963]の小説『すばらしい新世界』[3]に描かれている人間性のやせ衰えた世界と似てしまうのではないかと疑う者もいるのである。ハクスレーの世界では,技術的に強化された住人は失望も後悔も知らず朗らかに生きているが,平板で,愛や憧れを欠く空虚な生活を「享受」し,求めるものはどうでもよいものばかり,愛着を持つのは薄っぺらなものばかりなのである。
(pp9-10)
 指摘しておきたいのは,もっと大きな注目が集まるべき,より直接的な倫理的問題があるということを考えるだけで,このような半未来学的予想を公的に議論することが,かえって公共的な利害に対する関心の浪費であるかのように見えてしまうかもしれないということである。貧困にあえぐ世界で,すでに利用可能となっている生物医学技術の助けが得られずエイズやマラリア,栄養失調で何百万もの人たちが次々と亡くなっているのに,バイオテクノロジーの過剰や乱用,「すばらしい新世界」の危険性を心配する場合か,ととがめる者もいることだろう。
 確かにこうした真の困難やまっとうな異論があることに間違いはないのだが,しかしこうした問題を公共的な場での議論へと開いてゆくことこそ重要なのだと信じている。というのも,この問題はバイオエシックスに関わる最も重い問題の1つだからである。これは単に安全性や有効性,手段の道徳性に関わるだけではなく,バイオテクノロジーの力を手に入れようとする目的や目標にも関わる。人間の自由や人類の発展の意味と本性に関わり,いわゆる「超人間化」の希望と同時にいわゆる非人間化の脅威に対する正面からの対決を余儀なくさせる問題である。人間《である》とはどういうことか,そして人間として《生きる》とはどういうことかに注目を強いる問題なのである。さらに付け加えたいのだが,この問題は単なる未来学的予想などというものとはまったくかけ離れている。美容外科や行動能力増強剤,気分・注意力改変剤[p10>の受容範囲の着実な増大といった現在の趨勢を見れば明らかなように,すでに「治療を超えて,完全化して幸福に」の圧力が強くなっている(E)。神経科学の急激な発展,精神疾患や心理状態に対する生物学的アプローチの拡大を見れば明らかなように,精神の働きや行動の生物学基盤に関して期待されている新しい知識は,精神作用や行動能力を変更し向上させる我われの能力を強化すると同時に,必ずやそうしたいとする欲望をも強化することになるだろう。子どもの性別選択,胚の遺伝子選択,就学前児童への行動改変剤投与,老化プロセス逆転の試みに向けるエネルギー等に関する現在の我われの意思決定が,「治療を超えて」進む次世代人間の軌道を定めることになる。公平か否かはともかく,その途上で何が「正常」であるかの概念さえ変わってしまうこともあり,不可逆的でさえあることもしばしばだが,権利を持っている者つまり前を行く者,《前衛》が後に続く者たちの道筋を決めてしまうことが非常に多いのである。
(p14)
 改造人間を生み出すという目的でこうした力や技術がこれまで発展してきたわけではなく,現在もそうした目的で発展し続けているわけではないこと,ましてや完全人間や次世代人類を生み出すことなどは念頭になかったこと,このことを強調しておきたい。それらが発展してきたのは主に病気の予防や治療,障害の克服そして苦痛の緩和という目的のためである。マシン‐ブレイン相互作用装置や埋め込み型ナノテクノロジー装置の構想も,視覚障害者に視力を,聴覚障害者に聴力を与えようとする治療努力から始まっているのである。しかし,こうした力のほとんどが「二重使用」可能であるということ,しかもこの可能性が人体「改造」への根深い衝動に後押しされ,非治療的使用法に対して開かれている巨大市場というチャンスをすでに目にしている商業的関心に突き動かされ,「優位に立つ」努力の中で競争力強化を求める多くの人たちに歓迎されているのを目の当たりにするならば,たとえこうした力の創案者たちが間違いなく「すばらしい新世界」に友好的ではなかったという事実があるとはいっても,これを頼りに心を安らげ,警戒心をまったく失ってしまうわけにはいかないことが分かる。そのような技術や力が一度実現してしまうと,それにはそれまで存在しなかったまったく新しい欲望を生み出す力が伴い,思いもかけないところまで突き進んでしまうことが非常に多いのである。
(pp231-232)
 人間のライフサイクルが変わってしまうとどのようなことになるのだろうかと考えていると,非常に重要な問題に直面する。人生には,非常に根本的であるために,科学的観点では掴まえきれないほどに広く,我われの自然的な欲望のほしいままの要求では測りきれないほどに深い,よさと意味があるのだろうかという問題である。欲求の赴くままに身を任せて,果てしなく長寿と不老の身体を追い求めたとしても,よくなるのは部分的で刹那的なものばかりで,秩序と統一を持った全体の調和は失われてしまうのではないだろうか。弱さと有限性を持つ我われの自然な命は,人生の全体に調和と生きぬくだけの意義を与えるより大きな視野を得るためのレンズの役割を果たしているが,我われはこの自然の命の輪郭と束縛から目を逸らせて,自分自身を偽っているのではないのだろうか。逆に,誕生し,成長し,年をとり,死んでいくという順次的な展開をよしとするとき,何か永遠なるもの,何かこの「時間のドラマ」を超えたもの,何かこの世での生を超えると同時にその生に目的を与えるもの,不調や衰弱,そして死を超越する品位ある存在へと我われを高めてくれるものに近づく道を,我われは発見するのではないだろうか。こうした問題を提起するのは,すぐに解答を出すためではなく,ただ,解決しなければならない桁外れに重大な問題があることを指摘するためなのである。
 変化と永続,時と永遠の間に何のつながりもなくなってしまうならば,人生は何ら目的のない単なる過程以外の何ものかでありうるのか,純粋に私的な意味しか持たない目論見以外の何ものかでありうるのかという問題は,未解決というのがせいぜいのところである。自然的な欲望は,我われ自身にしか焦点があてられていないのだから,欲望の赴くままに任せれば,技術的に可能な限り時間を延ばそうと試みるか,気ままな気晴らしに絶えず没頭し続けて,その中で時間を溶解させてしまうか,いずれかしかないだろう。オルダスハクスレーの『すばらしい新世界』に,バーナードとレーニナが町の上空をヘリコプターでホバリングしながら一番よいと思う一緒の夜のすごし[p232>方を話し合うシーンが出てくる。まったく子どもじみているレーニナは電磁ゴルフゲームはどうかと提案する。バーナードは躊躇しながら答える。「いいや,それは時間の無駄だろう。」レーニナは言い返す。「どうすればいいの? 時間て何のためにあるの?」。我われに時間が本質的なものであることを教えてくれるのは老化と死だけである。老化と死は,この世の生の進化が,永遠なるものに憧れる魂を,そして言わせてもらえるなら,究極的には時間そのものを超越することのできる永続的な意義を持つ事柄に従事する機会に憧れる魂を,生み出したことに気づけと,教えてくれるのである。
 今や人間の経験のある種の部分は医学の力によって変更したり,操作したりすることが可能になったが,こうした技術的に変更可能になった部分の意味に関する大きな問題が存在する。老化遅延が可能になると,人生における老化の意味が問われることになり,老化をどう考えたら最もよいのかその考え方が問われることになる。つまり,老化は病気なのか。老化は治療され,処置を受けるべき状態なのか。これは,我われより前の世代に属する人たちの人生はすべて,決して訪れることのない治癒を待ち続けた受難の人生,あるいは自分たちにかけられた呪いをまさに姿を変えた祝福だと愚かにも確信した受難の人生だったということを意味するのか。我われの先祖が経験し,我われの信仰や哲学が悟れと教える人間の生の有限性,これは本当に何はともあれ解消されなければならない問題なのだろうか。近い将来の実現が期待されている反老化医学は,これまで健全で健康な人間の人生と考えられてきたものを,治療が必要な状態だと見なすようにするのだろうか。つまり,十全な人間性とは何か,そして医学本来の目的とは何か,我われにはこの両者に対する問い直しが求められているということなのである。
(pp306-307)
 情熱が原動力になるのは何も否定的な感情だけではない。肯定的な感情もまた,状況に合致し,うまく機能するときがあって,充実した人間関係や活動を続けるように促し,求め愛しむよきものを堅持し,さらに増やすようにと励まし,人生に有益なものへの好みを強めてくれる。要するに,肯定的なものも否定的なものも,健全な感情は有意義で,全般的な幸福へと導いてくれるのである。普段の感情の働きが適切な人に,何があろうが‐いつでも‐幸福という気分を生み出す薬を用いることなどによって,感情が健全に働く基盤を掘り崩してしまうなら,その代償として手に入るのは,もはや適切な[p307>感情がよく生きることへと導き,促すことができなくなってしまう人生である。
 要するに,何をやっても自分は満足という気持ちを持たせる気分明朗剤,根拠がなくても自尊心を保証する気分向上剤は,真の人間的な豊かさを求める能力を低下させることになるだろう 68。完全に自己満足している人が,向上せよと駆り立てられる理由が何かあるだろうか。完全に心の平安を得ている人が,他者に思いを寄せて喪失の危険を冒したり,困難で気高いことを熱望して失望の危機に身をさらしたりする理由が何かあるだろうか。オルダス・ハクスレーの小説『すばらしい新世界』に出てくる「ソーマ」という薬の例は,薬によって引き起こされる偽りの満足のくだらなさを教えてくれる(69)。ただ副作用や薬物依存を生み出さない点が異なるが,コカインのように,ソーマは生きることから感情を,すべての外的関係から内的感覚を,現実のよい生活から幸福感を完全に切り離す。希望する力を奪われて,ハクスレーのディストピアの住人が自分の状況に嫌悪を感じず,他者への思いやりを持たないのは,主に彼らが嫌悪を感じることもできず,思いやることもできなくなっているからである。彼らは自分たちがあるがままで幸福だと思い込んでおり,自覚的に選び取り,熱心に追い求める大きな希望を持てば生まれる山あり谷ありの,より完全に人間的であるような生活を追求しようとすることは絶対にない。
 SSRIは,感じ方を現実の生き方から完全に切り離してしまうわけではない。反対に,多くの治療的な使用例を見ると,情熱的な経験にさらなる情熱的な経験の機会を生み出すという適切な役割を果たさせることで,感情と生き方を再結合させている。しかし,使用法や使用者次第で,こういった薬は,活力や熱中,自己改良への欲望が要求されるようなときに冷静さ,無気力,安易な自己満足を引き出し,情熱と活動の関係を分断してしまう可能性がある。
(pp341-343)
 バイオテクノロジーが可能にした福利に対する利用機会不平等の問題は,上で論じた不公正な優位性の問題と関連しており,また当評議会の多くのメンバーが大きな関心を払っている問題でもあるのだが,これまでの章ではほとんど議論されてこなかった。配分の正義という問題は,競争的な活動における不公正の問題よりも重要な問題だが,とりわけ,バイオテクノロジーの「向上」力を利用できる者とできない者の間に構造的格差ができてくるということになれば,この問題はさらに深刻な意味を帯びてくる。この可能性が現実のものとなって,特に,重い病気の治療のために薬を必要とするのに手に入れることができない人がいる一方で,切迫もしていないし,目的も芳しいものではないのに薬を自由に手に入れることができる者がいるということにでもなれば,すでに存在している「人生ゲーム」の「不公正」がいっそう深刻化してゆくのを間近に見なければならないということになるだろう。現在の高額医療の例にすでに多く現れているのだが,豊かで特権的な者だけが高額な増強技術の利用機会を持てるということになるならば,天に輝く星」とその他大勢の間の格差が果てしなく拡大されていくのを見ることになると考えてよい。バイオテクノロジー「貴族」の出現,これはすでに目に見えるほどになっているアメリカ社会の階層構造をさらに強化することになり,実に面倒な問題を引き起こす可能性があるのだが,こうした流れに対抗しようにも,我われの現在の生き方からすれば,それに対抗する手段となるようなものは何もない。実際,何か新しい介入策が見つからない限り,こうした流れは,我われの社会に現実に存在している富と地位の不平等,新しい技術の発展と獲得のための自由市場の維持,そして私的生活でのあらゆる選択に関する個人の無制限な自由を賞賛するリバタリアン的(自由至上主義的)態度という,アメリカ社会の諸要素の混合からの自然な帰結として,これからも止まるようなことはないだろう。
 とはいえ,持てる者と持たざる者との関係はそんなに単純なものではなく,特に,平等や相対的な暮らしぶりのことよりも現実的な福利に目を注ぐならば,両者の関係にはいっそう複雑なものがあると思えてくるのである。[p342>新しいテクノロジーが出現すると,あまり豊かでない者にとっても多大な福利をもたらすことが多い。最初はそうでないとしても,後になって,新しい技術が大量生産され,大量販売され,価格が下がってくるからである。これは,過去半世紀の間の,アメリカにおける冷蔵庫,ラジオ,自動車,洗機,テレビ,ビデオ,携帯電話,パソコン,医療の領域での抗生物質,ワクチン,多くの高価な診断治療手段の普及を考えれば分かる。確かに,最も裕福な者と最も貧乏な者との格差は広がるかもしれないが,貧乏な者を裕福な者と比較するのではなく,彼らそれぞれの過去と現在の状態とを比べてみると,より大きな福利を得る割合は貧乏な者の方が絶対的に大きいという可能性が高い。多くの点から見て,今日の平均的なアメリカ人は,ほんの2,3世紀前の君主や王子よりも健康で,長く,安全で,便利な人生を享受しているのである。
 そうであるとしても,将来の生物医学による社会階層化促進の可能性に関する懸念を無視すべきではないだろう。現在でも社会の階層化に関する懸念は深刻なのであって,世界では何百万という人たちが基礎的な健康に必要なものさえ手にすることができないでいるのに,治療を超えた目標のために金とエネルギーを費やすのは,限られた資源の配分ミスだと考える者も出始めているほどなのである。しかし,研究や開発の優先順位の決定は公共政策の重要な問題であるとしても,それは「治療を超えた」領域だけに関わることではない。優先順位の問題はただこの領域の内部だけで取り組まれるべきものではないし,ましてや解決できるものではないのである。さらに,またしてもしかし,なのだが,利用機会の不平等が解決されさえすれば,事柄そのものに関する我われの不安が取り除かれるというわけでもないのである。将来のより望ましい子どもの優生学的選択に潜む非人間化の危険性に関する議論の中で,貧しい人にはその危険に触れる平等な機会さえ拒否されることになってしまうとする強い嘆きを聞かされるのは,どう見ても逆説的なことである。「食べ物はすっかり汚染されている。しかし,なぜ私の分はこんなに少ないのだ」と言っているようなものである。ハクスレーの『すばらしい新世界』は,惨めで不透明で厳格な階級制度を描いているが,特権階級である[p343>アルファになるチャンスを与えると言われても,その世界に住むことに後込みしない者はほとんどいないだろう。エリートすら非人間化されうるし,自らを非人間化しうるのである。利用機会と配分の正義の問題は社会的に重要な問題であることに疑いはない。けれども,「治療を超えた」バイオテクノロジーの利用に関する倫理的問題として,利用機会の平等に関するものよりもはるかに根本的な問題がある。利用可能な状態で目の前に置かれた物事の善悪の問題,そして,そのような手段を通した目的の追求に関する分別の問題の方がはるかに重要なのである。
(pp344-346)
 とはいえ,自由社会に暮らす市民,さらにその中で最も力を持っている人でさえもが,たとえば,自分の仲間を通して働きかけてくる,自由や選択に対するより微妙な侵害をすでに経験しているということは,誰も否定できない。制限なしに承認され,広く使用されているものは,環境次第で,実質的な強制となることもあるのである。ほとんどの子どもが記憶向上剤や覚醒剤を服用するようになったら,自分の子どもにそれを与えないのは育児放棄だと見なされることになるかもしれない。守備担当のラインマン全員がステロイドを使っている場合,それに反対して薬物を拒否し続けようとするならば,非難されることになるかもしれない。そして,現在でもなおひどく微妙なところがあるものなのだが,美容外科,ボトックス,豊胸術のように,特定の時代の,特定の社会でだけ通用し,流行する,浅薄で画一的なことの多い「卓越性」や向上の観念を盲信して,将来現れる向上技術の多くが使われるようになる公算が高いと批判する者もいる。もし,このような恐れが現実のものとなり,そうしたかたちで個人の自由が行使されるようになるならば,それは密かに操作されたものなのだから,そこで個人が行使する自由は,個人的自由の名に値しないものになってしまうだろう(B)。
 この特殊なとも言うべき自由の減少,これを画一性あるいは同質性問題と呼ぼうと思うのだが,これには個人的な懸念の範囲を超えるものがある。大衆文化においては,それ自体これまでのコミュニケーション技術や製造・販[p345>売技術の進歩の副産物なのだが,個人がそれぞれ強制されずに何かを選択すると,全体としての社会に不利益な結果をもたらすことがありえるのである。このような大衆文化の趨勢に対して,新しい生物医学的な技術の力をひとりひとりが自己決定に基づいて治療を超える目的のために使用し始め,それが広く普及するようになれば,新しい技術の力に対する各自の自己選択は人間に最も共通な欲求に奉仕するというかたちで行われることになり,人間社会の同質化をさらに促進するのではないかと心配する評論家もいる。そのような自己選択は,人間が持っている可能性を底上げするかもしれないが,同時に天井も低くして,純粋な自由や個性,偉大さの可能性を矮小化してしまうと懸念するのである。これは,民主主義の均質化作用についてトクビルが持っていた懸念の延長上にあるものだが,テクノロジーの力にはこの均質化作用を強化し,もしかすると取り返しのつかないものにしてしまう可能性がある。
 多くの個人がバイオテクノロジーを使う「自己向上」法を選択したとしても,ひとつひとつ取り上げてみれば,どれひとつとして弁護すべきでないものはないし,少なくとも反対すべきものではない。しかし,個人的に選択される可能性が高いものの集積効果のことを考えると,上で述べたような個人的自由の矮小化という問題が,社会というレベルで見て最も重要な問題として浮かび上がってくるのである。これは経済学者が「外部不経済」と呼ぶ問題である。たとえば,使用する者の寿命に健康な30年を加えてくれる延命技術や,人を陽気にさせ,まわりの世界に悩まないですむようにしてくれる気分明朗化法の私的な選択に反対するのは難しいだろう。とはいえ,一度ならず指摘してきたように,そのような選択が広く行われるようになった場合,その社会的結果が集まって「共有地の悲劇」が生まれ,個人が獲得した利益は,誰にでも欲しいものを好きなだけとってよいと認めたことから生じる社会的な代償がひとりひとりに跳ね返ってきて,これから生まれる損害のために,無に帰してしまうのである。そして,ハクスレーが『すばらしい新世界』の中ではっきりと示しているように,短期的な欲望を満足させたり,手っ取り早い満足を生み出したりするためにバイオテクノロジーの力がいつで[p346>も即座に使えるようになるならば,人間の努力というものは性質をまったく変えてしまい,優れた人間になりたいという欲求は次第に消え去ってしまう。実際にこのようになってしまったら,望みうる最善のことは,『すばらしい新世界』に登場する遠くの島にあるような,そこではまだ高い業績をあげようという欲望がすでにまったく埋もれてしまったり,腐りきってしまったりはしていない特別区を残すということ以外にないだろう(C)。


◆McKibben, Bill, 2003, ENOUGH : Staying Human in an Engineered Age, (=20050830,山下篤子訳『人間の終焉――テクノロジーはもう十分だ!』河出書房新社).
(pp142-143)
 テクノ予言者が古代神話を読むことを期待するのは無理かもしれないが、もっと身近な情報源を参照することはできるはずだ。彪大な量のSF小説は、かつては宇宙船やジェットカーに満ちた未来像をかいま見させてくれるものだったが、いまでは、地獄がかいま見えるものになっている。未来を想像するSF作家たちが、新しいテクノロジーから生まれる可能性をすべてとりこみ、じっく[p143>り考え、創作してきた反ユートピアは、時とともにどんどん不愉快なものになってきている。ジュール・ヴェルヌは忘れよう。このジャンルをはやらせたのは、一九三二年に出たオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』、ソーマや遠心式バンブルパピーで人間性を失わされた世界、意味のかなたにある国を描いたあの作品だった。新しいテクノロジーはそれぞれ、警告的な文学を生んできた。クローニングはどうだろう? 『ブラジルから来た少年』から『モンスタードッグの生活』まで、どれを読んでもいい。サブジャンルのなかにまたサブジャンルがある――ある評論家は、人間と類人猿の混血についての「警告小説」を一九八○年代だけで四冊あげている(注136)。『スタートレック』でさえ、遺伝子操作された世界の実行可能な未来を描けなかった。最近出た小説版の『スタートレック』の一つは、エンタープライズ号の乗員として普通の人間が優位である理由を、一九九〇年代の優生学戦争の頃に場面を転じて説明している。「スターフリートの高官たちは、頭がおかしくなったのか?」と、たまらなくなったドクター・マッコイが言う。「人間の遺伝子操作は連盟の創設のときから禁止されている。それだけの理由もあるんだ」(その理由は、インドの研究所で育てられ、宇宙に解き放たれた、超人ギャングのリーダー、カーン・ヌニエン・シンにある(注137))
(pp184-185)
 それでは、貧しい人たちを助けるという点についてはどうだろうか? 「すばらしい新世界」は、病気を治療するためには必要ではなくても、ひしめきあう群衆にとっては必要かもしれない。
 この問題を深く考えるのはいろいろな意味でむずかしい。私たちは一人あたり一日五セントをアフリカの人びとの支援に費やす国に住んでいる。近いうちに私たちが、アフリカ全土に体外受精ク[p185>リニックをつくり、アフリカの人びとの胚にHIV抵抗性をもたせる遺伝子操作を目指すようになるなどと想像するのはばかげている。いつの日か、新しい「遺伝子ワクチン」が第三世界にも到達するだろう。それらはまちがいなく体細胞系のテクノロジーであり、だれもが喝采をすることになるだろう。しかし「増強」は、第三世界の貧しい人びとのほうにすぐには向かわないし、これまで検討したそのほかのテクノロジーもすべてそうである。いちばん安いロボットでさえ、インドの小作人よりも安あがりになるのは、ずっとずっと先のことである。
 したがって新テクノロジーが貧しい人びとを助けるという議論は、ハイテク未来の支持者が反対意見をたたく武器として使われてはいるが、まだ漠然とした段階にある。
(pp221-223)
 そうした現実に対して、国の法律はぺらぺらの防壁でしかないかもしれない。たとえば二〇〇一年にアメリカの連邦政府が幹細胞研究に一定の制限を設けたとき、アメリカ人科学者数名がイギリスの大学に移って研究を続行した(注10)。もし連邦議会が治療目的のヒト・クローニングを禁止すれば、アメリカの生物学者は「オーストラリアや、日本、イスラエル、一部のヨーロッパ諸国の研究施設に集団移住するだろう」と、MITの生物学者ロバート・ワインバーグは警告している(注11)。ラエル教団はバハマでオフィスを借り、独自のクローニング施設をもった。彼らと初のクローン人間づくりを競うセヴェリノ・アンティノリとパナイオティス・マイケル・ザヴォスは、複数の外国で事業をはじめたと伝えられており、ザヴォスは、「アメリカである必要はない。世界は広い」と発言している(注12)。それにこれは、最先進国とみなされている国にかぎったことではない。たとえば中国には近代的な人工授精クリニックがあるし、一人っ子政策も「よりよい」子どもを強く求める一因になっているものと思われる(注13)。
 こうした研究を国が法律で禁止すれば、「研究を地下にもぐらせることになり、監視や規制ができなくなってしまうだろう」と支持者たちは警告する(注14)。ビル・ジョイが呼びかけているナノテクノロジーの放棄は、一○○パーセント有効」でなくては意味がない、とザイベックス社のラルフ・マークルは言う。「もし有効性が九九・九九パーセントだとしたら、放棄の呼びかけに無関心な残りの○・○一パーセントの人たちというのは、まちがいなくそれを開発する人たちだ(注15)」。もし私たちが生体工学(パイオエンジニアリング)を禁止すれば、「その将来性は、無法者や、ならず者国家の思いのままになるだろ[p222>う」と、ジョージ・ギルダーは、全米ライフル協会のメンバーがこぞって共鳴しそうな言葉で釘をさしている(注16)。グレゴリー・ポールとアール・コックスは、国際マフィアがバイテク研究所を設立するだろう、と脅す。「それはマフィアが単に力と資金をもっているからだけではなく、死をまぬがれたがっている犯罪組織のボスたちが、なんとしてでも不死のテクノロジーを探し求めるにちがいないからだ(注17)」
しかし、おおかたの見方によれば、新テクノロジーを開発する見込みが高いのは暴力団ではなく、合法的な起業家である。それは大きな儲けになるという単純な理由による。クレイグ・ヴェンターがヒトゲノムの解読で一億ドルの財産を築いたのは、実例としてきわめて効果的だったらしく、クローニングと幹細胞に関係する特許の申請は、二〇〇〇年から二〇〇一年のあいだに四倍に急増している(注18)。(政界に強い影響力をもつ)大企業が大きな賭けをしているので、あるビジネス・ジャーナリストが言っているように、「ハイテクとバイテクを混ぜあわせたもの」は、「次の巨大産業」になる見込みが高い(注19)。それらを取り締まるのはむずかしいだろう。それは業界が選挙運動に貢献するという理由からでもあるが、日々の仕事が注目を集めるほどドラマティックなものにはならないからでもある。初のクローンなど、少数の決定的なものを除けば、大きな進展は段階的にやってくる、とレイ・カーツワイルは指摘する。「すべての企業がつねに技術革新をしなければならないので、進展は漸進的に起こる(注20)」。「疑いの余地はない。私たちが好もうと好むまいと、世界市場が支配的な力をもつのだ」、とシルヴァーは言っている(注21)。
 それ以外の選択肢は警察国家しかない、と彼らは主張する。ハクスリーの『すばらしい新世界』がいやならオーウェルの『一九八四年』しかないというのだ。ジョージ・ギルダーとリチャード・ヴィジランティは、放棄という政策をとるには、「ビジネスを監督、規制する大規模な体制」が必[p223>要だと書いている(注22)。たとえば人工授精クリニックを受診する患者は、胚に遺伝子操作による増強をするつもりはないことを証明するために、プライバシーを詮索されることになる(注23)。実はすでに一部の人たちが、すべての国民を対象とした「ユニヴァーサル・ゲノム・プロファイリング」というシステムを提案している。もしこれが実施されれば、私たちは、スポーツ選手がステロイド検査を受けるのと同じように、遺伝子増強をしていないことを確認するための検査を定期的に受けなくてはならなくなる(注24)。
(pp251-252)
 このリバータリアンの流れが普通の日常的な政治に適用されると、誇張した言いまわしが減って、代わりに現代の語彙のなかでもっとも気をそそられる言葉の一つ――「選択肢」が、マントラのように使われる。
 ビュッフェテーブルの列がどこまでも延々と続いているような現代の消費文化のなかで、私たちは選択肢をもっとも価値あるものと考えるようになってきた。テレビのチャンネルは五〇〇もある――だから見たい番組を選べる。スーパーマーケットには毎年二万五〇〇〇の新製品がならぶ――だから買いたいものを選べる。世界中のCDがコンピュータを介してつねにやりとりされている――だから聴きたいものを選べる。飛行機に八時間乗れば、どこにでも行ける――だから住みたい場所を選べる。地球上のあらゆる文化に接触できる――だからどんな服装をするか、どこの食べ[p252>物を食べるか、どの民族の装飾品をまねるかを選べる。それなのにどうして、自分の子どもに望むことを選んではいけないのか? 自分の娘に一八○センチの身長や、マラソンを二時間で走る運動能力や、ヤフーのメールアドレスを全部憶えられる記憶力を望むのは、数あるシリアルのなかからハニーナッツ・チェリオスを選んで食べるのと、どれほどちがうのだろうか? グレゴリー・ストックは、生殖系列操作(ジャームライン・エンジニアリング)という名称を「胚細胞選択(ジャーミナル・チョイス)テクノロジー」に変更することを提唱している(注91)。
 これらのテクノロジーの推進者は、自分たちは「優生思想」に賛成しているわけではなく、ナチスやアーリア人や政策を思わせるいかなるものにも賛成していないと世間に知らせることに多大な労力を注いでいる。ハクスリーが『すばらしい新世界』に書いた、「全世界を支配する政府」が人間の生殖を掌握するという構図とはちがって、「これらの新テクノロジーを掌握するのは、バーバラ、ダン、チェリル、マドレーン、メリッサ、カーティス、ジェニファーといった個々人やカップルであって、政府ではない」と、リー・シルヴァーは強調している(注92)。そして彼の言葉は正しい。どんなに耳を澄ましても、階段を駆けあがってくる長靴の音は聞こえないはずだ。アメリカでは連邦政府もそのほかのほとんどの政府も、この数十年間に、企業や個人の選択のじゃまにならないように、姿を消す努力をしてきた。実際、政治家が全体主義のようなふるまいをするとしたら、それはだれかが小さなアインシュタインをわが手でつくりだすのを防ごうとする場合に限られると支持者は言う。ワトソン博士も少し前に、「これからどんな家族をもつかということについて、人びとの決定を政府が指図するような事態になるはずがないと、私は信じている」と述べている(注93)。


◆Bauman, Zygmunt 200402 Wasted Lives 1st. Edition, Polity Press(=20070630, 中島道男訳『廃棄された生』昭和堂).
(「第3章 廃棄物ごとにその捨て場を──あるいはグローバリゼーションの廃棄物」)
 後知恵という有利な地点から考えてみると、近代史には分水嶺があったことがわかる。それは、植民地体制の解体や「新興国家」の急成長に伴って生まれた戦後復興、社会契約および発展の楽観論という「輝かしい三〇年」を、国境線の消去ないしは破壊、情報の洪水、激しいグローバリゼーションから成るすばらしき新世界、裕福な北の諸国に見られる消費者の饗宴、そして「一方の富、他方の貧困という光景」から生じている「世界の残りの大部分において深まりゆく絶望感と疎外感」から切り離している十年間のことである。その十年間で、人々が人生の難題に正面から立ち向かっていく際の状況はこっそりとではあるが根本的に変化を遂げ、生きるための既存の知恵を無効にし、生活戦略の徹底的な修正と分解修理を要請したのである。
(「第4章 廃棄物の文化」)
 より適切な名前がないがために「グローバリゼーションの力」と呼ばれているものの動き・変化・流れは、見たところランダムで、でたらめでまったく予測のできないものである。それらは、われわれの恒久的で信頼できる安心をこれまで形づくってきた見慣れた風景や都市の景観を、もとの面影もないほどに、そして警告もなしに、変化させてしまう。それらは人々を改造し、彼らの社会的アイデンティティを台なしにする。それらは、一日にしてわれわれを難民や「経済移民」に変えてしまうかもしれない。それらはわれわれのアイデンティティ証明を撤回し、認証されてきたアイデンティティを無効にするかもしれない。そして、それらが日々われわれに気づかせるのは、それが罰を受けることなくなされうるということだ──それらは、すでに拒否され、自分たちの生活のために走り回ったりホームを離れて生き延びるための手段を奪い合ったりすることを余儀なくされて、アイデンティティと自尊心を奪われてしまっている人々を、われわれの目の前に投棄していく。われわれの目前で彼らが経験していることは、おそらくわれわれ自身の運命の舞台げいこであると判明する、それもすぐに判明するという気がするがゆえに、われわれは彼らを憎むのである。われわれの視野から彼らを除去しよう──検挙し、収容所に監禁し、追放しよう──と精一杯努めることで、われわれはあの亡霊を追い出したいと願うのだ。これこそ、この種の恐怖を追い払うために最大限できることにほかならない。われわれにできることは、「グローバリゼーションの力」のワラ人形を燃やすことだけなのである。われわれには、積み薪に火をつける以外にうっ積した不安を消滅させる手段はないように思われるのだ。
 けれども、不安がまるごと煙となって消えるわけではないだろう──不安はたまらないほどあるし、たえず新たに供給されているのである。燃え残った残余部分は別のレヴェル──生活政治のレヴェル──へとぽつりぽつり流れ出る。そこで、消えつつある人間間の絆および解体しつつある集団の連帯から立ちのぼる同じような恐怖と混ざり合うのである。ミネルヴァのふくろうの悪名高い習慣にならって言えば、「間柄」あるいは「関係」の「ネットワーク」以上に、われわれが厳粛にあるいはおもしろそうに語れるものはない。それと言うのも、もっぱら、「実質的な中身」──親密に結びついたネットワーク、しっかりとして安全な間柄、成熟した関係──がばらばらに壊れてしまっているのも同然だからだ。最近、リチャード・セネットが、もっとも関心を集めているテクノロジーの温室であり現代版すばらしき新世界の高等な最先端であるシリコンバレーにおいて発見したように、どんな職業においても平均的な雇用期間は約八ヵ月である。そして、これこそが、地球のいたるところでうらやまれ熱心にまねられている至福の生活にほかならない。


◆天野有, 20040330, 「生命倫理の方向性を求めて――神学的倫理学からの予備的考察」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:53-77.
(pp60-61)
 たとえばピーター・シンガーは「人間的人格を理性と意志の主体として規定する」が、そうなると、彼の言う意味での「理性と意志を未だに、またはもはや、そして決して自由に用いることのできない人間は、人間的人格としてではなく、ただ人間的素材としてだけ」見られることになる。「このような人々に、(二ヵ月までの)胎児と(三ヵ月以降の)胎児、重度の身障者や病気の老人たちが含まれる」。かくして、シンガーによれば、「実際には、完壁な意味で人格であるのは、三〇〜五〇歳の間の健康な男子ということになる。それ以前には彼は教育されねばならぬ人格であり、それ以後は彼は、引退した人格だからである」。しかし、このような「人格」理解の帰結は、神学者J・モルトマンが正当にも指摘するように、「[シンガーの用いる]言葉の完全な意味での人格だけが人権への要求[p61>を持っており、それに対して人間的素材は、自然という客体のように取り扱われ得る、ということである。これによって、このラディカルなヒューマニズムは、完全な非人間性へと至る。なぜなら、それは、いわゆる『生きるに値せぬ生命』から人間的尊厳を取り去ってしまうからである」。
 しかし、ここで言う生きる能力」は、「胎児」三ヵ月以前であれそれ以降であれ)にも重度の身障者」にも「病気の老人たち」にもそうではない老人たちにも「与えられている」のである。それは、人それぞれに個性があるのと同様、その人に固有の力である。しかもそれは、まさにその都度「与えられ」る力であるがゆえに、その人自身にも「決定的な仕方では」見定めえぬ力、ましてや他者によって「固定化」されることをゆるさぬ、そういう力なのだ(この視点は、例えば、いわゆる「生きるに値せぬ生命」の、そしてそれと密接な関連のある「出生前診断」の問題性、更には、「自己決定権」の積極的意義と限界、老いることの「自然的」意味、といった生命倫理上の諸問題と深くかかわってくるであろう(*25))。この第二の視点はただちに次の第三の視点へとつながってゆく。
(p74)
 (*25) 『生命倫理事典』の「ナチズム」、「優生学」、「優生思想」、「出生前診断」、「自己決定権」、「老化」の各項参照。更に「出生前診断」については、大嶋果織「人工妊娠中絶」、神田健次編『生と死』([講座]現代キリスト教倫理1)(日本基督教団出版局、一九九九年)七七〜一〇〇頁所収、も参照。ここに、いわゆる「生きるに値せぬ生命」(もしくはクローン技術等の最先端の生命科学・技術)の問題性をすでに七〇年前に先取りしていた書物を、バルトの批評と共に紹介しておこう。「アルダス・ハクスリー[一八九四〜一九六三年、英国の小説家・評論家]による一冊のゾッとするような本がある。『素晴らしき新世界(Brave New World)』[一九三二年]がそれだ。この本は、人類の未来の或る新時代のことを描いている。この新時代には、人間の胎児の人工的な生殖と飼育が一般法則となっており、そしてそのような生殖と飼育が工場生産によって営まれる。しかも、個々の人間は、計画的に、アルファ人間、ベーター人間、ガンマー人間と段階づけられ、各階級毎に特別にその階級に見合った身体的・精神的な諸特質と諸可能性と共に、それぞれの特定の数に応じて大量生産され、そしてその後、そのようにして与えられた決定のうちに、最終的な仕方で並存しつつ存在しなければならないのである。素晴らしき新世界、だ。なぜなら、この世界では、その限界の中にいる各人は、生まれながらにして―というよりむしろ、彼がその中で[実験対象のごとくに]準備されていた容器の段階からして―きわめて快適であるにちがいないからであり、一切の真剣な競合、いやそれどころか、一切の社会的軋轢さえもが、最初から―つまりは、またもやあの容器の段階からして―排除されているのだから!もちろん、真実には、これは嫌悪すべき、実に深く神なき世界である。なぜなら、この世界には、道と将来とを喪失した人間がいるだけであろうから!」(K・バルト、KDV/4、四四九頁より)。


霜田求粟屋剛, 20040708, 「問題集 近未来想定問答 あなたならどうする?」中岡成文編『岩波 応用倫理学講義1 生命』岩波書店.
(pp201-202)
 生命の発生から誕生に至る段階すべてが母体の外で観察可能になることにより、生命の質へのコントロールは完成の域に達する。「望ましくない」質の消去または修正、「望ましい」質の選択または増強という介入が、「生産工程」の全プロセスを貫く「品質管理」として徹底される。この技術は、A・ハックスリーの近未来小説『すばらしい新世界』の中で「人工孵化器」という形ですでに描かれている[p202>が、それは政府による徹底した生殖管理の道具という反ユートピアの象徴であった。もちろん、上からの政策ではなく個々の当事者の自発的選択であれば、そのようなテクノ・ファシズムにただちにつながることはないかもしれない。しかし、生殖テクノロジーの進展に伴って浮上してきた新たな人間観、とりわけ「子の生産物=製品化」や「操作可能なコントロールの対象視」といった観点が、社会の動向と相互に影響し合うことも無視してはならないだろう。子作りが「生殖(リプロダクション)」から「創作(クリエイション)」へと変容するというこの事態を、「ついに人間が神に代わって創造の主体の地位を占めるに至った」と見るか、それとも「テクノロジーの主導する社会の設計(デザイン)に人間が組み込まれてしまう」と見るのか、おそらくここに生命操作の近未来を評価する分岐点があるのではないか。


金森修, 20051020, 『遺伝子改造』勁草書房.
(pp50-59)
 次に大著『偶然から選択へ』を取り扱う。これは四人のバイオエシックス専門家(ビュカナン、ブロック、ダニエルズ、ヴィクラー)が意を尽くして遺伝子改良の倫理的射程を吟味したものであり、この問題群にとって今後の基礎資料になるのは間違いない。意を尽くして慎重に、彼らは遺伝子改良の肯定的側面と問題点を探っていこうとする。しかも、かなり明確にその肯定的側面に肩入れをしなが[p51>ら、である。細かい字で四〇〇頁にも及ぶ大著の内容をここで逐一辿ることはしない。以下の部分では、私見も交えながらその論旨の概略を素描するに留めておく。(略)[p57>
 ところで、一定程度の範囲内での家族の自由の尊重、といっても、実はより微妙な問題もある。たとえば技術展開の果てに、もし仮に家族が、自分の子どもに協調性、辛抱強さ、従順さなどの〈社会的性質〉を遺伝子改良するなどということが、或る程度可能になったとする。それは、そもそも社会的性質に関係することなのだから、リベラルとコミュニタリアンを明確に分けるという単純な前提が瓦解するのは当然で、その企図の出所を個別事例に即してその時点時点で特定するということ自体が、きわめて困難になる。協調性のある子どもを望むのは、親がそう望むのか、社会がそう望むのか、どちらともいえないということだ。協調性を高めるということは、攻撃性を減らすということと相即的である。われわれはXYY症候群などの歴史的災禍を知っている。攻撃性を減らすなどという一見、有益な企図が、結局は人権侵害や差別に連なったという事例には事欠かない。だがそれは、XYY症[p58>候群などが「非科学的」だったからこそなので、いまの議論の前提では、一定程度の科学性は担保したうえでの話なのだから、過去の失敗を引き合いに出しても決定的な反論にはならない。協調性を高めるなどということが遺伝子操作で胚になされるというのは、まるでハクスレーの『すばらしい新世界(52)』そのものだというような気もするが、著者たちは、社会が一種の防犯思想や円滑な社会行為の繁栄を目指して、その種の営為を積極的にサポートする(たとえばその種の目的の場合、医療費を負担するなど)ことが、本当に悪いことなのかどうかは、議論の余地があるという(53)。私個人は、大枠でこの本の議論はそれなりの説得力をもつと考えているが、この部分での彼らの判断には、大きな違和感を覚えた。そんなことまでして社会を円滑に動かすよりも、いままでのように小競り合いや紛争が奔出する社会の方がまだ健全だと思う。そもそもこの主張は、価値多元性を尊重するという彼らの先の判断と齟齬(そご)する部分が大きいように思える(54)。
(p88)
 ここでホールデンが述べている、内分泌系の化学物質による性格の制御という予言は、現代のSSRIのような事例を考えれば、細部の違いを適当に無視すれば、本質的には当たったと考えて大過ない。また、彼はこの本のなかでエクトゲネシス(胎外で胎児を発生させること)の可能性についても触れているが(18)、それがハクスレー(Aldous Huxley)の『すばらしい新世界(19)』にインスピレーションを与えたというのは、いまや有名な話である。遺伝学者の予言的な構想は、文学者に多少ともディストピア的な未来を描くための創造的な糧(かて)を与えた。もっとも、そのディストピア的な未来も、論理的可能性の一端を示すものであることに変わりはなく、それに、より穏当な社会政策的バイアスをかければ、近未来の科学のなかで、実際に実現されるものになるのかもしれない。文学と科学が、互いの相乗効果によって、未曾有(みぞう)の社会像を実現可能性の領域に引き上げるのだ。
(pp159-162)
 人魚の涙で再生可能になった私の体。私そっくりの私。ドリーの誕生が全世界に衝撃を与えたとき、[p160>人は、ただちにクローン人間の可能性について思いを凝らし、多くの場合、クローン人間作成の禁止に向けた動きを見せた。クリントンの迅速な意見表明や、一九九七年六月のデンヴァ− サミットなどが記憶に新しい。各国の政府や一般市民の反応があまりに拒絶的で、忌避的なものだったので、クローン胚研究に一定の科学的価値を認め、合理主義的精神の重要性を再認識する必要を感じた何人かの知識人たちが「クローン技術と科学研究の完全性を擁護する宣言書(2)」なるものを公表しなければならなかったほどである。その宣言に署名した人のなかにはクリック(Francis Crick)やドーキンス(Richard Dawkins)のような科学者だけではなく、バーリン(Isaiah Berlin)のような哲学者もいた。また、あのホーキング(Stephen Hawking)は、これら一連の騒ぎを馬鹿げたものと見なし、通常の生殖からの誕生とクローン人間との間には本質的差異はないと考えたという(3)。
 だが、その頃の一般人の〈過剰反応〉のことをヒステリックで非科学的なものだと断定するのは、一面的判断でしかない。ドリーを作ったのは、クローン人間を作るという目的のためではない、とウィルマット(Ian Wilmut)たちがどれほど力説しようと(4)、また、クローン人間は、誰かの〈ゼロックス人間〉などではない、と多くの科学者が何度も声を荒げようと、それらの声は、「非科学的反応」をする多くの人々の心にまでは届かないことが多かった。その理由の一つは、クローン人間という言葉を聞いた途端に、どれほどそれが非科学的だといわれようが、クローンのことを自分自身の特殊な延命、または不死への道程だと考えるということが、多くの人々の心の奥底に眠っている深い願望に触れるものだったからだ。不老不死の秘技としてのクローン。本当は、そうではなく、いわば「世代違いの一卵性双生児」のようなものだといくら言われても、その科学的理性の声は、なかなか行き渡[p161>らない。
 そもそも、自分と同じような顔や外観をもつだけでなく、同じような物の考え方、同じような性格や人格、そして記憶までもが同じ内容を保存したまま、もう一人の存在が生来するという図柄は、文学的想像力を長らく刺激し続けてきた。ハクスレーの『すばらしい新世界(5)』(一九三二)でのボカノフスキー過程(Bokanovsky's processs)は、〈下層階級〉の人間を大量生産するという暗黒のイメージを象徴的に喚起する、仮想的なクローン技術だった。同一の存在が大量に生まれ、一糸乱れぬ統率下で或る特定の機能を果たすという構図。働きアリのように、ディストピアを基底から支える個性のない人間たち……。彼らは同じような知能をもち、同じように考え、同じように感じるのだ。または、アイラ・レヴィンの『ブラジルから来た少年(6)』(一九七六)。養子斡旋(あっせん)センターのシステムを巧みに利用し、ヒトラーのクローンを世界中の何人もの女性に孕ませるという設定のフィクションだ。この場合にも、それがスリラータッチの雰囲気を醸(かも)し出しているのは、ヒトラーという独裁者の細胞が、ヒトラーという人物の人格や行為を、なんらかの形で引き継いでいるからだ、という大衆的想念の後押しがあるからに他ならない(7)。映画界も、〈複製人間としてのクローン〉、または肉体全部をいわば交換可能なパーツにするような〈心理的空間の保存としてのクローン〉という大衆的欲望を、ことさらに増幅するような作品を創り上げてきた。フェアーンレイ監督の『クローン・デイ』(一九九七)、ジュネ監督の『エイリアン4』(一九九七)、スポティスウッド監督の『シックス・デイ』(二〇〇〇)などがそうだ(8)。よくテレビゲームに夢中になった子どもは、あたかも人が死んでもまた生き返るとでも思っているような行動を取る場合があるといわれるが、これらの映画では、一度死んでもまたやり直しが[p162>きく、とでも思わせるような話の設定になっている。
 このように、クローンを、その科学的規定性から解放して、大衆的イメージや文学的想像力とも連接させて見るなら、枚挙するのに苦労するくらいにいろいろなものが、すでに存在している。SF作品を渉猟すれば、まだ何冊も関連する文献を見いだすことができるだろう。繰り返すなら、クローン概念は、われわれの根源的欲望に触れるものであるだけに、純粋に科学内部に押しとどめておくのが難しい概念の一つなのだ。
(pp219-220)
 (b)この項目の後半では、いまや名高い気分調整薬のことが扱われている(p.270 sq)。いわゆるSSRI(79)。なかでもプロザックはあまりにも有名だ。もともとは抗欝剤で、効果も患者による個人差が大きい。ただここでは、治療用ではなく、普通の人が普段よりも若干〈いい感じ〉になりたいということで使う強化的な使用に焦点が当てられる。かなり長く服用を続けると、悲しみや怒りなどの否定的感情が、消え去るわけではないが穏やかになり、強迫や不安に対する感受性も減る。強迫神経症、PTSD、前月経気分障害、摂食障害などに効果を現す。また、ベストセラーになったクレーマーの『プロザックを聴く(80)』(一九九三)が書いていた、サリーのケースを想起しよう。彼女は生来引っ込み思案だったのだが、プロザックを服用するにつれ、徐々に積極的になり、四〇歳過ぎでデートを重ねて結婚したという話だ。より前向きで積極的に、より社交的で朗らかに。もしそれほど酷い(ひどい)副作用もなく、このような〈人格改善〉ができるのなら、悪いとはいえないのではなかろうか。
 それに対する報告書の倫理的分析は或る意味で古典的色調のものだ。われわれの不安や不満を、本当の幸福とはいえない代用品をあてがわれることで満足してしまう危険性とは何か、自分のアイデンティティを失いながら幸福を味わうときに支払う代価は何なのか。薬を飲まないサリーは〈本当のサリー〉なのだろうか。彼女と結婚した夫は、いったい誰と結婚したのか。もし彼女が薬をやめて〈本[p220>当のサリー〉に戻ったなら、それでも夫は愛し続けるのか。また、MDMA(81)のような薬を服用すると、まるで知らない人にも愛を告白するなどということが起こる。この場合、もちろん、その〈愛〉は本物とはいえない。他方、だからといって、抑欝症でSSRIを飲んでいる人が本当には配偶者を愛していないなどとはいえない。だが、彼らが若干違う人生を生きているというのは確かだ。また、そもそも不安や悲しみなどの〈マイナスの〉感情は、本当に必要のない、なければないに越したことはないものなのか。ちょうど飢餓感がわれわれを食べ物に向かわせるように、心の飢えは、われわれの魂に滋養を与えるようにし向ける。その最中の当人の自覚には関わらず、苦しみや悲しみが、その人の本当の人間的開花の契機にならないとも限らない。自己満足で一杯なら、上を目指す気持ちもなくなってしまう。『すばらしい新世界』で使われていたソーマは、薬による自己満足の空しさを例証している。SSRIは、或る種の使用法のなかでは、情念と行為との関係を断ち切ってしまう。そしてそれが汎用されるような環境では、自己理解の医療化が起こり、魂が身体に融解してしまう。〈心の痛み〉の医療化は、心と魂という城塞を壊す生物学的還元主義に向けた大きな一歩である。そして、その趨勢は留まるところを知らず、われわれの内的生活のもつ威厳を減らす脅威をもっている。――彼らは概略、このようにかなり否定的な評価を与えている。


森岡正博, 200703, 「生延長(life extension)の哲学と生命倫理学――主要文献の論点整理および検討」『人間科学:大阪府立大学紀要』2:65-95.
 http://www.lifestudies.org/jp/lifeextension01.htm
 生延長は、生命倫理学にとってきわめて新しい問題であると述べたが、人類にとってはけっしてそのようなことはない。各地の神話では、有限な生を宿命付けられた人間と、無限に生きることのできる神々との葛藤が描かれてきた。そして長寿や永遠の生命を得ようと試みる人間の姿も描かれてきた。生延長と不老不死は、人類にとっての大テーマだったのである。20世紀においては、SF小説の中でそれらのテーマは様々に考察された。たとえば、オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』(1932年)(3)では、クローン技術などの生命科学技術によって人間の寿命が延び、人間たちは死ぬ直前まで若さを保つことができ、死ぬときは突然死するという世界が描かれている。またジョン・ブアマンの映画『ザルドス』(1974年)(4)では、人間に無限の生が与えられた世界が登場するが、そこでは、人間は永遠の若さを与えられ、たとえ死んだとしても医療技術によって何度でも強制的に蘇生させられるのである。ハックスリーの『すばらしい新世界』は、生命倫理学において常に参照され続けてきた。生延長とあくなき若さの追求は、必ずしも人間社会を幸福にしないというその小説のトーンは、現代の議論に大きな影響を与えている。
(略)
  では、大統領レポートの内容を見ていきたい。(略)
  レポートの第4章は「不老の身体ageless bodies」と題されている。そこで議論されているのは、不老不死を追求することは倫理的に見てどうなのか、という問題である。(略)レポートは、「生延長」と「老化遅延age-retardation」を区別する。生延長とは、人間が生きている期間を長くすることである。生延長には、若いまま長生きすることも含まれるし、老いた状態で長生きすることも含まれる。これに対して老化遅延とは、老いをできるだけ先延ばしすることである。それによって生延長も結果的に達成されると考えられる(23)。
  生延長には3つの方法がある。それは(1)青年と中年の死亡数を減らすことによって、多くの人々が老年まで生きられるようにすること、(2)老年期にかかる病気や障害を減らすこと、(3)老化のプロセスに介入して、最長寿命を延長すること、の3つである。これらのうち、いまもっとも活発に議論されているのは、第3番目の直接的な老化遅延である(24)。そこには、筋肉の強化、記憶の強化、摂取カロリー制限、遺伝子操作、酸化防止、成人病治療などが含まれる(25)。
  これらを念頭に置きながら、レポートは生延長と老化遅延の倫理的問題の議論に入っていく。レポートは二つのことを指摘する。ひとつは、幸福な生延長は、「健康と若々しさが長期間続いたあとに、肉体の老化が非常に早くやってきて、引き続いて死が突然に訪れる」というかたちを取るにちがいないということである(26)。これはまさにハックスリーが『すばらしい新世界』で描いた世界そのものだ。もうひとつは、生延長と老化遅延を押し進める衝動というのは、「不死への欲望desire for immortality」に似たものであるということである(27)。生延長、老化遅延は、不死の追求へと一直線に結びついている。そう指摘したうえで、レポートは述べる。「死すべき生の良いところは、単にそれが死を導くというところにあるというよりも、むしろその本性上、われわれはいずれ死ぬということ、そしてわれわれは死すべき現実を心に刻み込みながらみずからの人生を生きる必要があるということを、われわれに絶えず教えるところにあるのである」(28)。


◆安藤馨, 20070525, 『統治と功利――功利主義リベラリズムの擁護』勁草書房.
(pp276-277)
 統治者を被治者が監視することで透明性を確保し答責性を持たせるという、一般にリベラリズムが統治権力に対して課そうとする制約の典型的表現をここに見ることは容易い。しかも、統治者の自己利益と被治者の厚生の増進がパノプティコンの構造そのものによって一致させられているならば、統治者が被治者の厚生を損なうことは困難である。統治者から被治者への監視は効率的に被治者の功利性を達成するために用いられ得るだろう。監視によって得た情報を統治者が秘密裏に自己利益のために使うことができないような構造さえ用意されるならば、監視それ自体はなんら問題ではない。例えば、治安という統治上の重大目的達成のための監視カメラ設置が被治者の「自律」を損なうかどうかなど本来的にはどうでも良いことである。問題はその監視情報が恣意的に運用されないような透明性を確保することに尽きる。
 監視による効率的欲求充足と予期の極大安定化が我々の予期スパンを短期のものにしてしまう、という問題は統治功利主義にとって実際のところまったく問題ではない。統治技術の進展と共に分割統治単位が縮小していくという見やすき道[p277>理を拒否する理由などないのだから。家族を統治単位とした時代から個人を統治単位とする時代へと移行した後に、ついには各刹那ごとの意識主体の切片を統治単位とする時代が来ることそれ自体には何らの不思議もなかろう。統治者自身の予期スパンもまた短期化するのだとしても、統治者と被治者を包み込む統治アーキテクチュアの出来が良ければ、そうした統治体制は長期にわたって存続しうるものであるだろう。必要なのは「自律的主体」の行方に関する漠然たる不安などではなく、監視という形で発達しつつある統治技術が功利主義にかなう形で用いられることを保証し、ジョージ・オーウェル(George Orwell)が『1984』で描き出して見せたようなディストピアの出来を如何に防ぐか、を考えることである。オーウェル的ディストピア自体は明らかに被治者の(そして恐らく統治者の)厚生が異常に低く、功利主義的に望ましい政体ではありえない(*5)。

 (*5) オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley)の『素晴らしき新世界 Brave New World』の方がむしろ功利主義のユートピア/ディストピアには近いだろう。だが、はっきりいって我々がそれをディストピアだと思うかどうかは多分に慣れの問題であるだろうと思う。


粟屋剛, 20070920, 「エンハンスメントに関する小論 ――能力不平等はテクノ・エンハンスメントの正当化根拠になるか」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』新曜社.
(p81)
 さて、そのようなテクノ・エンハンスメントが実際に行なわれ始めるとどうなるか。これまで高い能力は一部の優れた人々の独占物――究極の独占物――であった(独占禁止法違反ではない)が、その「能力」という武器を多くの人が獲得するなら、何が起こるであろうか。
 まず第一に、個人レベルでは、その能力を駆使して自己実現のチャンスをつかむ人が増えるだろう。誰もが社会で自己実現できるならそれはすばらしいことである(註:13)。ただし、能力獲得が必ずしも幸福と直結しないことはいうまでもない(*14)。
(pp86-87)
 (*14)高い知的能力はその持主に必ずしも幸福――真の幸福(何がそれなのかはおくとして) ――をもたらさないということを示唆する小説としてダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』(小尾芙佐訳、早川書房、一九九九〔一九五九〕年)がある。これは、著しい知恵遅れの青年が脳手術などによって天才になり、そしてまた知恵遅れに戻っていく、という物語だが、青年は天才になっても幸せではなかった。最近では、レオン・カス(編著)の『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求(大統領生命倫理評議会報告書)』(倉持武監訳、青木書店、二〇〇五年)がエンハンスメントは人間に真の幸福をもたらさないということについて述べている。ビル・マッキベンの『人間の終焉――テクノロジーは、もう十分だ!』(山下篤子訳、河出書房新社、二〇〇五年)も同様である。なお、「幸福であれ[p87>ばそれでよいのか」という問題もある。オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』(松村達雄訳、講談社、一九七四年)に登場する下層の人々は一応「幸福」だが、それは余計なことは考えないよう仕組まれているからである。


*作成:植村 要
UP:20081122 REV:20090428,20090802
生命倫理  ◇身体×世界:関連書籍 -1970'  ◇BOOK
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