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『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

Weber, Max 1904/05 Die protestantische Ethik und der >>Geist<< des Kapitalismus.
=198901 大塚 久雄 訳,岩波文庫,412+24p. ISBN:4-00-342093-4800



Last Update:20100914

Weber, Max 1904/05 Die protestantische Ethik und der >>Geist<< des Kapitalismus. =198901 大塚 久雄 訳,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(改訳),岩波文庫,412+24p. ISBN:4-00-342093-4 \800 [amazon]

■内容・言及

・この本の紹介の作成:T(立命館大学政策科学部2回生)

はじめに

この本は、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(ウェーバーとするものもある)が、資本主義の成立と、宗教のかかわりについて考察したものである。原版は1920年に刊行されている。ここで取上げられているのは、資本主義、とりわけ合理主義に基づく近代資本主義が、特に宗教改革後のプロテスタンティズムの盛んだった地域において特に発展しているという事実を重視し、これらプロテスタンティズム的教えと資本主義がいかに関連しているのかを考察している。

第1章 問題

1. 信仰と社会層分化

マックス・ヴェーバーは「近代的資本所有や企業家、または上層の熟練労働者層、特に技術的あるいは商人的訓練のもとに教育された従業者たちについてみても、彼らが著しくプロテスタント的色彩を帯びている」 という点に注目する。より実利的な教育をうける高等学校に進学ある割合が、カトリックに比べてプロテスタントの方が格段に高く、カトリックの方が資本主義的な営利に携わることが少ないという。マックス・ヴェーバーはこれらの事実は、「故郷や両親の家庭の宗教的雰囲気によって制約された教育の方向が、職業の選択とその後における職業上の運命を決定している。」 と考えた。
上述したような考え方から見ると、プロテスタンティズムは宗教的制約から離れ、世俗化しているようにも思える。しかし、ルターやカルヴァンを中心とした宗教革命は、教会(換言すれば宗教)の支配を否定したわけではない。「従来とは別の形態での支配に変えただけであり、しかも従来の形態による宗教の支配がきわめて楽な、・(中略)・・多くの場合いほとんど形式に過ぎないものだったのに反して、新しくもたらされたものは、およそ考えうるかぎり家庭生活と公的生活の全体にわたって恐ろしく厳しく、また厄介な規律を要求するものだった」 という点である。事実、プロテスタント(とりわけカルヴァン派)の非現世的で禁欲的生活は、多くの市民にとって容易に受け入れるのが困難なほど厳しいものであったのである。しかし、事実これらの禁欲的プロテスタンティズム信仰が厚い地域ほど、資本主義がより高度に発達していく。ここでマックスヴェーバーは、「相反するような「禁欲的信仰」と「資本主義的営利活動」は対立するものではなくて、むしろ逆に、相互に内面的な親和関係にあると考えるべきではないか、」 とする。

2. 資本主義の精神

この項でヴェーバーは資本主義的精神を端的に表すものとしてベンジャミン・フランクリンの小話を挙げる。ここでフランクリンは「時間は貨幣」「貨幣は増殖し子を産む」などの言い回しで、節約や勤勉を説く。ヴェーバーはこの「吝嗇の哲学」の「信用のできる立派な人物という理想、とりわけ自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという思想」 に注目する。この説教の内容は「独自の『倫理』であり、これに違反することは愚鈍というだけでなく、一種の義務違反とされ」 たのである。この一種原理的な貨幣獲得のための努力は、利己的営利や享楽の追求とは一線を画するものであり、純粋に自己目的とされることにより、「営利は人生の目的とされ、人間が物質的生活の欲求を満たすための手段とは考えられていない」 という点がそれまでの、貨幣の獲得という結果のみに重きをおいているものとは異なっている。ヴェーバーはこれらの考えを「近代資本主義のエートス」 と考えたのである。さらにこのエートスが社会のシステムの中に組み込まれていったことが近代合理的資本主義の形成に深く関与したとして重要視し、このエートスを「資本主義の精神」と位置付ける。

ヴェーバーはこれらエートスの存在が、それまで存在したような貨幣を中心とした経済的な活動=古代、中世における資本主義との大きな違いであるとしている。事実、古代バビロニアや中国、インドなどにおいて貨幣を中心とした経済体制は存在しており、そこでは更に貪欲で、徹底的な貨幣獲得の活動が行われていたことを思っても、「貨幣獲得の『衝動』の強弱は資本主義とそれ以前の差があるわけではない」 。

労働を単なる貨幣獲得活動とはせず、倫理的な一種の義務とし、労働によって神の栄光を増すという資本主義的精神を表出させるには、労働そのものにある一定の価値を付加させる必要があった。一種天職(Beruf)とも言うべき概念の出現はこのような流れから見たとき、当然の帰結と言えるのかもしれない。

しかし、これら「資本主義的精神」を持つ企業家にとって、現実の経済活動は伝統主義的なものであった。そういった意味で資本主義的精神にとって対抗すべき最大の敵は「伝統主義」とでも言うものであった。

3. ルッターの天職概念

職業を意味するドイツ語であるBerufは「ある宗教的な―神から与えられた使命 (Aufgabe) という―観念がともにこめられて」 いるとされる。さらにこれら天職思想は宗教改革の産物であったとしている。宗教改革の主要な人物であったルターは「各人の具体的な職業は神の導きによって与えられたものであり、この具体的な地位を満たせと言うのが神の特別の命令だ」 と考えた。この思想が資本主義的天職概念に結びつき、資本主義の発達に大きく影響したというのである。

しかし、これら多くの改革者の目的は、社会思想の植付けでも社会改革でもなく、純粋に魂の救済であった事を忘れてはならない。このように当人の意図したレベルとは違う結果を生み出すことがあることも忘れてはならないことであろう。

第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理

1. 世俗内禁欲の宗教的諸基盤

資本主義精神においてとりわけ大きな影響を与えたものとして、当時ヨーロッパで最も進んだ文明国であった、オランダ、イギリス、フランスなどにおいて政治的、文化的争点となっていたカルヴィニズムが挙げられる。カルヴィニズムの教えの特徴としては予定説がある。予定説とは「人は神によって生まれる以前から救われる者とそうでない者を分けられており、それは人がいかなる行動を行なっても知ることも逃れる事もできないものである」とする思想である。カルヴァンは「人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在するのであって、あらゆる出来事は−・・・−ひたすらいと高き神の自己栄花の手段そして意味を持つに過ぎない。」 とし、さらには「(救われるものとそうでないもの)を知ることすら出来ない」 としている。これら現在の私たちから見ると非常に悲壮な教えの中で、人々はより一層内面的孤立化が進み、これらの孤立化は、個人的活動においてより合理的な行為を推し進めることとなり、職業的分業が進んだとヴェーバーは考察する。

カルヴァンの予定説と先述したルターの天職概念は、程度の差こそあれ、プロテスタンティズムの多くに見られた特徴であり、これら二つが結びついた結果、資本主義のエートスの出現に大きな役割を果たした。

カルヴィニズムにとり、自分は救われているか否かの点が内面における大きな疑問として残ることは想像に難くない。とりわけこれら内面の苦悩に向き合うことを大きなテーマであった牧会派においては、「自分は選ばれているのだとあくまでも考える」 ことであり「自己確信のないことは信仰の不足の結果」 (救いの確証)とし、それらの確信を得るための最も優れた手段としての職業労働が推奨された。つまり「職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救われているとの確信が得られる」 とした。カルヴァン派は自らの手で「自分の救いを―正確には救いの確信を・・・―造りだす」 のであり、さらにそれらはカトリックで認められていたような"善行の積み重ね"によるものではなく、常に神の栄光を増すために、一種非人間的な生活を求めたのである。その結果としてカルヴィニズムは個人による善行の積み重ねを排し、組織的で合理的な神の栄光の体現化を求めるこことなる。

カトリックに置いて宗教的禁欲生活は、修道士などに見られるように一種世俗から離れた特別なものであり、「自然なもの」としての生活を超えた善行によって神の救いを得ようとするものであった。それがプロテスタンティズムにおいては「「救いの確証」を基盤とし、恩恵の地位(選ばれし者としての)を保持するために生活を方法的に統御し、・・・神の意思にあわせて全存在を合理的に形成する」 ことを求めた。これら合理性は禁欲的プロテスタンティズムの転職概念が生み出した産物であったと見ることができる。

感想 カルヴィニズムと儒教の差異性と資本主義

ヴェーバーの論に立つと、この"組織的で合理的な職業の推進"がとりわけヨーロッパにおいて、資本主義が高度に発展した要因の一つということが可能であろう。先述したが、アジアや他の地域においても資本主義的な世界は存在した。例えばアジアにおいては中国を中心に高度な資本主義的な経済社会が形成されていた。しかし、アジアおける資本主義派ヨーロッパほどの組織的で合理的なものでなかったと考えられる。結果として、その後の世界経済を牛耳ったヨーロッパ的資本主義とは大きく異なる点が多い。その原因としては、プロテスタンティズムと儒教の思想の違いが考えられる。儒教的思想においては、人格や理性に基づく一種"道"思想が存在していた。換言すれば、テンニースの言うゲマインシャフト的な要素を重視したものと見ることができるのではないだろうか。結果として、現在国際的に批判されているような家父長制度やイエ社会の構築に向かったと見ることができる。対してプロテスタンティズム、特にカルヴィニズムは、基本的に他者に対する信頼を否定している。それは家族や血縁というものに関しても同様である。ヨーロッパ型資本主義の特徴を高度に組織化され、合理的な判断に基づく功利主義にあるとしてみると、ゲセルシャフト的な要素があると見ることもできる。その点に置いて、カルヴィニズムが推進したほどの徹底的な合理化、組織化が起こらなかったと見ることも可能であろう。

ヴェーバーのこの論文が、世界に与えた影響は大きかったといわれる。経済の発展と宗教的エートスを結びつけた宗教社会学の基本書とも言われているが、自分自身に置き換えてみたとき、発展を一種の義務とし、"天職"を求めているのを私自身に感じることが多い。それらの考えを自己実現という形で私は良く口にするが、成長し続ける事を一種の義務とし、自らの選択の幅を狭め「存在することそのものの価値」を貶めていることがあるのかもしれない。

以上:T 以下:立岩

◇立岩 真也 1997 『私的所有論』 第6章

◇立岩 真也 2001/06/25 「停滞する資本主義のために――の準備」,栗原・佐藤・小森・吉見編[2001:99-124]→2006 『 』

「食べるものを自らが働いて得なくてはならないなら、私たちは働く。しかし、働く範囲はその必要を越えることがない。[…]しかし、その生産することが私の価値につながっているならば、私の価値は高い方がよいのだから、そのためにその活動にいそしむことになる。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という高名な本に記述されているのはこの装置の一つである。ウェーバーが記したのは、神さまのためになることをしたから褒美に何かしてもらえるという関係――この関係では、稼いだ分食べて満足したらおしまいというのと同じで、神さまが言うことを聞いてくれたらそれで終わりになる――と異なるあり方だった。私が、自発的に、生産することにおいて、(救いに予定されている)私が表示されるのである。これは定常状態からの離陸、成長を可能にする。何かに対して主体になることによって、私が主体であるようになる。このことは同時に、その私がこの仕掛けの作用圏内に入ってしまっている、これに従属しているということであり、また何かに対して主体であることによってのみ自らが主体となれるということによって、つまりその何かは自らの存在の価値の必要条件になることによって、実は、その私はその何かに対しても従属しているということである。さらにこうした構造をもつ仕掛けは、プロテスタントの一部の特殊な教義にだけあるのではない。」

■引用

世俗的職業の内部における義務の遂行を、およそ道徳的実践のもちうる最高の内容として重要視したことがそれだ。これこそが、その必然の結果として世俗的日常労働に宗教的意義を認める思想を生み、そうした意味での天職(Beruf)という概念を最初に作り出したのだった。(p. 109)

→神は、各人の生活上の地位から生じる世俗内的義務の遂行をすることで喜ぶ。(神から与えられた召命)

修道院に見られる生活は、神に義とされるためにはまったく無価値というだけでなく、現世の義務から逃れようとする利己的な愛の欠如の産物だ、とルッターは考えた。(p. 110)
世俗の職業生活にこのような道徳的性格をあたえたということが宗教改革の、したがってとくにルッターの業績のうちで、後代への影響がもっとも大きかったものの一つだということは、実際疑問の余地がなく、もはや常識だと言って良い。(p. 114)
ルッターが本書にいう意味での―あるいはまた、その他のいかなる意味においても―「資本主義精神」 と内面的に親和関係をもっていたなどと言うことはもちろんできない。(p. 115)
宗教改革のなしえたこと…カトリック教徒の見解とは対照的に、世俗内の職業として編制された労働に対して道徳的重視の度合いや宗教的褒賞をいちじるしく強めた。(p. 117)
ルッターは聖書から彼の天職思想を導き出したと考えたが、聖書はそれ自体として見ると、典拠となりうる個所は全体としてむしろ伝統主義の方に有利だ。(p. 117)

ルッターの場合、天職概念は結局伝統主義を脱するに至らなかった。(p. 125)

=トマス・アクイナス流の伝統主義だった。=身分相応の生活に満足せよ。

ルッターおよびルッター派教会の世俗的職業に対する態度からは、天職の思想を直接的に導き出すことができない。(p. 128? 11-17)
われわれもまず、様々な形態のプロテスタンティズムのうち、その生活実践と宗教的出発点との関連がルッター派の場合よりも一層確かめやすいものをとって、それを観察する方がよいように思われる。(pp. 128-129)
カトリック信徒とルッター派信徒に共通するカルヴィニズムへの嫌悪は、カルヴィニズムの倫理的特性のうちにもその深い根をもっている。(p. 129)
倫理的な改革綱領などといったものは決して中心問題となっていなかった。彼らは決して「倫理的文化」を目標とする団体の創設者でもなかったし、また人道主義的な社会改革運動やそうした理想文化の代表者でもなかった。彼らの生涯と事業の中心は魂の救済であり、それ以外にはなかった。(pp. 133-134)
宗教改革の文化的影響の多くが改革者たちの事業から生じた、予期されない、いや全然意図されなかった結果であり、しばしば彼ら自身の念頭にあったものとは遥かにかけはなれた、あるいはむしろ正反対のものだった。(p. 134)

☆ウェーバーのいいたいこと☆
経済制度としての資本主義は宗教改革の産物だということではなく…。

問題の「精神」の質的形成と全世界にわたる量的拡大のうえに宗教の影響がはたして、また、どの程度に与って力があったかということ、および資本主義を基盤とする文化のどのような具体的側面がそうした宗教の影響に帰着するのかということだけなのだ。(pp. 135-136)。
→さしあたっては
特定の形態の宗教的信仰と天職倫理との間に、はたして、なんらかの「選択的親和関係」が認められるか、また認められるとすれば、それはどの点でか、ということを究明していくよりほかない。(p. 136)

ウェーバー研究会での発言メモ:

金儲けは否定的=カトリック ルッタ=仕事は意味がある=神に救われる

資本主義の精神がなくても資本主義がなりたつ。しかし、ウェーバーがいいたいのは、資本主義の因果関係ではなく、資本主義の精神の萌芽である。

資本主義の精神とは、お金の量を増量させることによって、個人が神に救われているという証拠にするという精神である。お金のマネージメントも神に託されているということである。

世俗内の仕事に意義を与えたのがルッター。ルッターの書いたテクストに資本主義の精神が読み込めるわけではない。

ゾンバルトはウェーバーの考えなかった資本主義における消費という考えだった。ゾンバルトの「貴族に関する消費」のアンチテーゼとしてプロ倫は提出された。

ウェーバーがいいたいのは、近代的な合理主義な変革の文化に関して大きな力としてプロ倫である。つまり生活態度の合理化から現世の合理化という流れになった。

ルター派とカルヴァン派の断絶というが、連続性は本当にないのか? 改革派の中でもルーター派だけが公認された。つまりカルヴァンがスイスから追い出された。連続性はある。

トマス・ミュンツァーは農民主義の人でそれをルターが否定した。

ルッターは身分秩序を前提にした神の意志。カルヴァンは、金儲けのチャンスがあるならどんどん儲けなさいという神の意志だった。

◇Weber,Max http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/weber.htm


■目次

訳者序文
文庫版への序
著者序言

第1章 問題
 1 信仰と社会層文化
 2 資本主義の「精神」
 3 ルッターの天職観念‐研究の課題
第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理
 1 世俗内的禁欲の宗教的諸基礎
 2 禁欲と資本主義精神

訳者解説
主要索引

■言及


UP: 20040209 REV: 20091019 中田 喜一,20100912
社会学 sociology  ◇  ◇身体×世界:関連書籍 1980'  ◇2003年度受講者作成ファイル  ◇2003年度受講者宛eMAILs 
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