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『悲劇の誕生』

Nietzsche, Friedlich 1872 Die Geburt der Tragodie.
=19660616 秋山英夫訳,岩波書店,265p

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last update: 20180223

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Nietzsche, Friedlich 1872 Die Geburt der Tragodie.=19660616 秋山英夫 訳 『悲劇の誕生』,岩波書店,265p ISBN-10: 4003363914 ISBN-13: 978-4003363911 900+ [amazon][kinokuniya] p

■内容

ニーチェ(1844‐1900)の処女作。ギリシャ文明の明朗さや力強さの底に「強さのペシミズム」を見たニーチェは、ギリシャ悲劇の成立とその盛衰を、アポロ的とディオニュソス的という対立概念によって説いた。そしてワーグナーの楽劇を、現代ドイツ精神の復興、「悲劇の再生」として謳歌する。この書でニーチェは、早くも論理の世界を超えた詩人の顔をのぞかせる。

■目次

自己批評の試み(1886)

◇音楽の精髄からの悲劇の誕生(1870‐71)
リヒャルト・ワーグナーにあてた序言(1871)
アポロ的夢幻とディオニュソス的陶酔
ディオニュソス的ギリシア人
アポロ的文化の基底
アポロ的・ディオニュソス的なギリシア文化の推移
抒情詩人の解釈
詩と音楽との関係
悲劇合唱団の起源
サチュロスと演劇の根源現象
ソフォクレスとアイスキュロス
悲劇の秘教
悲劇の死とエウリピデス
エウリピデスの美的ソクラテス主義
ソクラテスの主知的傾向
ソクラテスとプラトン
理論的人間と悲劇的認識
音楽と悲劇的神話
理論的世界観の芸術的現象
アレクサンドリア的文化
楽天主義的オペラ文化と悲劇の再生
現代文化の様相
ワーグナーの楽劇
芸術としての音楽的悲劇と美的聴衆
ドイツ神話の再生
音楽の不協和音
不協和音の人間化

訳注
解説

■引用

「夢を見ている人が夢のまっただ中で、その幻想(イリュージョン)をこわさないで、「これは夢なんだが、この夢の先を見てやろう!」と自分に呼びかける場合を想像してみると、われわれは夢の世界を観照するということ自体が深い内面的な快感を持っているのだと結論せざるをえない。他面われわれは、そういう観照の内面的な快感を味わいながら、夢を見ることができるためには、白昼の現実とその怖ろしい厚かましさとをすっかり忘れている必要があるわけだ。以上のような現象は、夢解きの神アポロの導きによって、ほぼ次のように解釈してさしつかえないと思う。生は醒めている半分と夢見ている半分とから成っているが、醒めている時のほうがわれわれには比較にならぬくらいすぐれた、重要な、値打ちのある、生きがいのある半分と思われている。いな、生きるとは、この醒めた半分だけを生きることだとさえ思われているくらいなのだ。このことがわれわれにどんな確かなことだと思われているにしても、それでも私はたいへん逆説めくが、夢の価値をちょうどその正反対に評価することを主張したいと思う。われわれの本体のあの神秘的な根底――その現象がわれわれである――にとっては、夢が逆に評価されるといいたいのだ。というのは、私は自然の本体に、あの(p. 49)二つの猛烈な芸術衝動を認める者であり、この芸術衝動には、仮象に対する熱烈なあこがれ、仮象によって救済されたいという自然の心からの憧憬をみてみる者なのだが、そのことを認めれば認めるほど、私はどうしても次のような形而上学的仮説を立てざるをえないからである。すなわち、真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾にみちた者として、自分をたえず救済するために、同時に恍惚たる幻影(ヴィジョン)、快感にみちた仮象を必要とするという仮説である。仮象のうちに完全にとらえられており、また仮象から成り立っているわれわれ人間は、この根源的一者のつくり出した仮象を、真実には存在しないもの、すなわち、時間・空間・因果律のうちにおける持続的な生成として、ことばをかえていれば、経験的な現実(レアリテート)として感ぜざるをえない仕組みになっている。だからわれわれが、実は仮象にすぎないわれわれ自身に「現実性」から一瞬、目をそらし、われわれの経験的存在を、世界そのものの存在と同様、それぞれの瞬間において生み出された根源的一者の表象としてとらえるならば、夢は今や仮象の仮象と認められざるをえず、従って仮象を求める根源的欲求の、いっそう高次の満足と見なさなければならぬのである。(p. 50)」

「ところで民謡はわれわれには真先に、世界を写す音楽の鏡、根源のメロディーだと考えられる。このメロディーが今や対応する夢の現象を求め、歌詞という詩のうちにこれを表現すると考えら(p. 65)れるのである。だからメロディーこそ最初の、そして普遍的なものなのだ。それだからこそまた、この最初の普遍的なものは、いろいろな歌詞によって、さまざまに対象化されうるのである。民衆の素朴な評価においても、メロディーのほうがはるかに重要視されており、不可欠なものと考えられている。メロディーが自分のふところから詩を生み出すのであり、しかもそれをつねに新たにくりかえしてやまない。民謡が同じメロディーでいくつかの詩節を歌う形式をとっていることも、それ以外の意味ではない。(p. 66)」

「悲劇の原始的形体であった舞台のない合唱団そのものと、理想的観客の例の合唱団とは両立しない。観客という概念をもとにして、「観客それ自身」が、その本来の形式だというような種類(ジャンル)の芸術とは、いったいどういう芸術だろう。演劇のない観客などというのは矛盾概念だ。悲劇の起源は、合唱団にあらわされている民衆の倫理的知性を買いかぶってみたところで、また演劇のない観客といったような概念を持ち出してみたところで、どちらも説明になっていないと思われる。こういう浅薄な見方ではとうてい触れてみることができないほど、この問題は奥深いものがあるというのが、われわれの見解である。(p. 74)」

「芸術の根源的過程について学者ふうにひねくって見てみるひとには、われわれがここで悲劇合唱団を説明するために唱える芸術の根源現象は、ほとんど耳ざわりにきこえるかもしれない。しかし、何がきまりきったことだといっても、詩人が詩人になるのは、自分の目の前で生き生きと行動するいろんな人物に彼がとりかこまれ、それらの人物の内面の本質を彼が見ぬくためだということ以上に、きまりきった話はないのである。近代人の天分には、近代人特有の弱さがあるところから、われわれはとかく美的根源現象を、あまりに複雑に、また抽象的に考えがちである。真(p. 83)の詩人にとっては、比喩は修辞的な形容ではなく、概念に代って、実際にありありと浮かぶ代理的な心象(イメージ)なのである。彼にとって性格とは、個々の特徴をよせ集めて構成した全体というようなものではなくて、彼の目の前で厚かましいほどに生き生きと動いているひとりの人物なのだ。この人物が画家の頭に描き出される同様な人物像と違う点といえば、ただそれがたえず行きつづけ、行動をつづけるということだけだ。ホメロスがすべての詩人にまさって、はるかに目に見えるような描写をするのは、何によってであるか?彼がそれだけ多く目で見るからである。われわれが詩についてひどく抽象的な談義をたたかわすのは、われわれがみな通例まずい詩人であるからにすぎない。根本のところ美的現象は単純である。たえず生き生きとしたたわむれを見、つすねに精霊の群れにとりかこまれて生きる能力を持ちさえすれば、ひとは詩人になれるのだ。自分自身の姿こころを変えて、他人の姿こころから語ろうという衝動を感じさえすれば、ひとは劇作家になれるのである。(p. 84)」

「そうだ、この神話〔『コロノスのエディプス』〕がわれわれの耳にささやこうとしているらしいことは、知恵というもの、ほからなぬディオニュソス的知恵こそは、自然にさからう悪逆であり、その知識によって自然を破滅の淵につきおとす者は、自分の身にも自然の解体を経験しなければならぬということなのだ。「知恵の切先(きっさき)は賢者にさしむけられる。知恵は自然に対する犯罪なのだ。」このような恐ろしい命題を、この神話はわれわれに叫びかけている。だが、ギリシアの詩人は、この神話の崇高で恐ろしいメムノンの柱に日の光のように触れる。すると神話は不意に鳴りはじめるのだ――ソフォクレルの旋律(メロディー)で!(p. 93)」

「つまり神話に対する感情が死滅して、そのかわりに歴史的基礎に対する宗教の要求があらわれるとき、その宗教は死滅するのが常なのだ。このまさに死にたえようとしている神話を、今わしづかみにしたのは、新たに生れたディオニュソス的音楽の精霊であった。神話はいま一度、この精霊の手のなかで、かつて見せたこともにない色あいを見せ、ある形而上学的神話はくず折れ、そのおお葉は枯れる。そしてまもなく、古代の嘲笑的なルキアノスたちが、風のまにまに運びさられ、色あせてしぼんでしまった花をひっつかむことになる。神話がその最も深い内容、その最も表現にとんだ形式に行きついたのは、悲劇によってであった。いま一度、それは傷ついた英雄のように立ちあがる。その目には、死にゆく者の知恵にみちた安らかさとともに、残された力のすべてが、最後の力強いかがやきを放って燃えるのである。(p. 104)」

「ところで自然法則などといった個別的認識は、身のほどを知らぬ傲慢とはいわぬまでも、ばか正直の産物だが、こういう個別的認識とならんで、もちろん、ソクラテスという人物においてはじめて世にあらわれた一つの意味深い妄想的観念がある。――思惟は因果律という導きの糸をたよりに、存在のもっとも奥深い深淵にまで行きつくということ、思惟は存在を認識できるばかりか、訂正することさえできるという、あの不動の信念である。この崇高な形而上学的妄想は、本能として科学にそえられており、科学はまたしてもまたしてもその限界に導くものであるが、この限界において科学は芸術に転ぜざるをえないのである。もともと、芸術こそ以上のかたくりのめざすところであったのである。(p. 142)」

「ところで、例の強力な妄想の拍車を受けて、まっしぐらに先を急ぐ科学は、科学なりの限界に行きつき、そこで、論理の本質にかくされていた科学の楽天主義は挫折を見るのである。なぜなら、科学の円周には、きりのないほどたくさんの点があり、この円の測定がいつ完全に終るのか、まったく見当もつかないというのに、高貴で天分のある人間は、その生涯の半ばにも達しないうちに、しかも不可避的に、そのような円周の限界点につきあたり、そこでどうにも解明できないものと目をつきあわせることになるからだ。論理がこの限界のところでとぐろを巻き、ついには自分のしっぽにかみつくさまを、ここで見て戦慄するとき――新しい形式の認識、悲劇的認識が躍り出てくる。これは、その恐ろしさに耐えぬくためだけにも、まして身を守り、その傷をいやすためには、どうしても芸術を必要とする認識なのだ。(p. 145)」

「ショーペンハウアー「……音楽の普遍的なことばに合わされたこうして個々の人生の姿は、決して全面的な必然性をもって音楽と結びついているものでもなければ、音楽に対応しているものでもない。これらの人生の姿の音楽に対する関係は、任意の実例が普遍的概念に対して持つような関係にすぎない。つまりこれらの形象は、音楽が単なる形式の普遍性において表現していることを、現実の限定性において表現するものなのである。なぜならメロディーは普遍的概念と同様に、いわば現実の一つの抽象だからである。つまり現実は、すなわち個々の事物の世界は、概念の普遍性に対しても、メロディーの普遍性に対しても、具象的なもの・特殊で個別的なもの・個々の場合を提供するにすぎないのである。ところで概念の普遍性とメロディーの普遍性は、ある点で対立したところがある。概念というものはさしずめ直感から抽象された形式にすぎない。概念はいわば事物のはぎとられた外側の殻をふくんでいるにすぎず、従ってまったく文字どおり抽象物なのである。これに対し音楽は、あらゆる形式に先立つもっとも内面の核心、いいかえれば事物の心臓を与えるものなのだ。この関係はスコラ哲学者の用語を使えば、実にうまく言いあらわせるだろう。すなわち、概(p. 152)念はuniversalia post rem(事物以後の普遍)であるけれども、音楽はuniversalia ante rem(事物以前の普遍)をあらわすものであり、現実はuniversalia in re(事物の中の普遍)をあらわすものであるといえよう。――しかし一般に作曲と具象的描写のあいだに、ある関係が成りたちうるということは、すでに述べたように、両者がともに世界の同一の内的本質のまったく違った表現にすぎないということにもとづくのである。さて個々の場合について、このような関係が現実に存在する場合、つまり作曲家が、ある事件の核心をなす意思活動を、音楽の普遍的なことばで言いあらわすことができた場合、その場合には歌のメロディーや歌劇の音楽は表現力にとむことになる。しかし作曲家が両者のあいだに類比を見出すといっても、それは彼の理性に意識されないで、世界の本質の直接の認識から発したものでなければならず、意識的な意図をもって概念によって媒介された模倣であってはならないのである。そうでなければ、音楽は内的本質、意志そのものをあらわすことなく、本来模写的なすべての音楽がやっているように、その現象は不十分に模倣するにとどまるのである。」――(p. 153)」

「つまり、デュオ(p. 153)ニュソス的芸術は、アポロ的な芸術の力に対して、二様の作用を及ぼすのが普通である。第一は音楽がデュオニュソス的普遍性を比喩の形で目に見えるように刺激するということであり、第二は、音楽が比喩的形象にその最高の意味を発揮させるということである。この事実は、それ自体理解しやすいことで、少し深く観察してみれば決して近づけぬというものではない。私はこの事実から、神話、すなわちもっとも意味の深い実例を生む力が音楽にあるという結論を引き出すのである。しかも音楽が生み出す神話は、ほかならぬ悲劇的神話なのだ。すなわち、デュオニュソス的認識について比喩で語る神話にほかならない。(p. 154)」

「ところでソクラテス的文化はすでに二つの面から動揺をきたしている。第一は、自分がどこへ落ちてゆくかということが、やっとわかりかけてきたため、その行く末に恐怖をいだくようになったためであり、第二は、自分の基礎が永遠に妥当するということに対して、もう自分でも昔のような素朴な信頼感と確信が持てなくなったためである。こうしてソクラテス的文化は、その立場に絶対誤りがないという不可謬性の王笏を、ふるえる手でかろうじて支えているだけなのだ。こう落ちぶれてしまってから、この立場の思惟が舞踏場に姿をあらわしたとなると、まことにうら悲しい場面となるのだ。つまり、あこがれに胸をふくらませながら、次から次と新しい相手にかけよって腕をまわそうとするのだが、急にまた、メフィストフェレスが誘惑的な吸血女(ラーミエ)につき放したように、ぎょっとして相手から手を引くことになるからだ。実際これこそ、誰もが近代文化の根源的苦悩として語るのを常とするあの「破綻」の目じるしである。すなわち、理論的人間は自分の行く末にしりごみして、不満をいだきながらも、生存の恐ろしい氷河に身をゆだねる勇気を持たず、ただおろおろと岸辺を右往左往するばかりなのだ。彼は清濁あわせのむことを知ら(p. 170)ない。事物に当然ともなう残虐性をもふくめて、ありのままに全体を受けいれようとはしないのだ。楽天主義的な見方のために、彼はこれほどまでに軟弱になってしまったのだ。そのうえ彼は、科学の原理の上に築かれている文化が非論理的になりはじめるとき、つまり当然そこへ落ちつくという帰結を恐れて逃げはじめるとき、その文化は滅びるにきまっているということを感じている。われわれの芸術派この一般的な苦境をあらわしているのだ。生産的だったあらゆる偉大な時期や人物によりかかって、これを模倣してみれもはじまらない。近代人を慰めようと、それこそ「世界文学」のすべてをそのまわりに集めて、あらゆる時代の芸術様式や芸術家のまんなかに彼を置き、まるでアダムが動物たちに名を与えたように、それらのものを命名させようとしてもむだなのだ。彼が結局、永遠に空腹であることにはかわりなく、いつまでたっても彼は気力もなければ実力もない「批評家」にとどまるのであり、つきつめた話、図書館員・校訂者のたぐいて、書物の塵と誤植のためにみじめにも失明するアレクサンドリア的人間の域を脱することはありえないのである。(p. 171)」

「音楽こそ世界の本来の理念なのであって、ドラマはこの理念の反映にとどまるのであり、その個別的な影絵にすぎないのである。メロディーの曲線と生き生きした人間のあいだに見られるあの一致、ハーモニーともろもろの性格間の関係との照応は、音楽的悲劇を見る場合にわれわれの思いこむのとは反対の意味で真実なのだ。たとえわれわれがどんな鮮明に人間を活躍させたり、それに生命を吹きこんだり、内面から照らし出したりしても、その人物が現象にすぎないことは変わらぬのであって、そこから真の実在へ、世界の心(p. 199)臓へ通じる橋は存在しないのである。ところが音楽というものは、この心臓から語るものなのだ。そして、同じ音楽のそばを、ある種の無数の現象が通りすぎることはあっても、それは決してこの音楽の本質を汲みつくすものでなく、いつでもただその外面化された写しにすぎないであろう。(p. 200)」

「どのような文化も、神話を欠く場合、その健全な創造的自然力を失うのであって、われわれの視野が神話で限られている場合に初めて、文化の動き全体が一つの統一体にまとまるのである。空想とアポロ的夢幻のいっさいの力も、神話によって初めて無選択な彷徨から救われる。神話の諸形態が、気付かれないが、至るところに存在する魔神的な見張人になっていて初めて、その保護のもとに若い魂が成長し、その合図によって成年者は自分の人生と戦いの意味を解くのである。国家でさえも、神話的基礎以上に強力な不問律を知らない。神話的基礎こそ、国家が宗教と関連を持つこと、国家が神話的表象の中から成長してきたことを裏づけるものなのだ。(p. 210)」


■書評・紹介


■言及



*作成:岡田 清鷹
UP:20091018 REV: 20180223
哲学  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK 
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