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死生学と生存学――対話・1 記録

2009/09/06 於:東京大学(本郷)


死生学と生存学――対話・1 English

◇主催
・東京大学グローバルCOEプログラム「死生学の展開と組織化」
 http://l.u-tokyo.ac.jp/shiseigaku/
立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点
◇日時:2009年9月6日・日曜日 13:00〜17:30
◇場所:東京大学・本郷キャンパス 医学部・鉄門記念講堂(医学部教育研究棟14階)


 *以下は、現在のところ、開会の挨拶と第1部の記録だけです。続きについては、公表の形態も含め、これから検討する予定です。またここに掲載されている開会の挨拶と第1部の記録についても、島薗さんと清水さんの校閲はこれからですので、引用などはお控えください。(2009.12.2 立岩)
 *いくつか増えました。

開会の挨拶+第1部  第2部  第3部  第4部  討議・質疑応答 


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福間] おはようございます。時間になりましたので、今からシンポジウム「死生学と生存学」を始めたいと思います。最初の開会の挨拶を島薗先生にお願いしたいと思います。

■開会の挨拶

■■第1部

立岩 真也 「論点と論点はあるが通過されるという現況について」 資料

清水 哲郎 「治療の差し控えと中止の臨床倫理」

 立岩さんがちゃんと14分で終わっちゃったので、私は15分で終わらせたいと思います。私は申し上げたいことは、この3点です。立岩さんのおっしゃったように、15分で私の考えていることのエッセンスを全部語るということは、エッセンスだとしても無理です。それなりに論理構成があるので、ですから今日は今日のこれからの話に関係がありそうなことだけを取り上げます。
 この企画をする途中で、最初に私が立命館の方たちとお話をしたときに、生存学には死という言葉がない。死生学には死という言葉がある。その死という言葉を入れるか入れないか。先程の障・老・病・異と仰って、死という言葉は異という言葉に変わっているわけですね。その違いというのはどれ程のものなのか。それはある種のアプローチの違いであって、結局は同じだね、一緒に仲良くやろうよという話になるのか。やっぱりあんたらと俺たちとは違う、不倶戴天の敵だという話になるのか、あるいはその中間なのか。どちらでもなく何かある種の異和感とかここは違うねというふうに思いながらも、しかし共同して相当の部分で一緒にやっていく、あるいは連帯していくというようなそういう関係なのではないかと、私は思っていますけれども、一番その違いがあるのかないのかという形で対話を進めるのが面白いのではないかというふうに思っておりました。
 ちょうど今日は第3部でみなさんのお手元の資料のプログラムをご覧になると、お分かりだと思いますけれども、第3部で現場からの提起ということで東京側からは救急医療の現場でおられる医師の鈴木医師から、また立命館の方からはALSの家族としてあるいはそのサポーターとして活動しておられる川口さんからの話があって、特に川口さんはどうも私をいじめたいと思っているらしい。まず、いじめられるためには、私がどこがいじめられるのかということを定義しなければいけない。主にこの第3部を念頭において、私の話をします。現況というわけですから、第1部は。
 現況というのは現実はこうだ。立岩さんの話の場合は、別に立岩さんが打倒目標ということじゃないですけれども、現況で清水はこう考えていると言っとくと、川口さんもいじめやすいんじゃないかと。私ももしかしたら返り討ちにできるかもしれないということであります。いま立岩さんの話にも関係する話が出てきたと思いますけれども、私は益と害のアセスメントに基づく相対的に好い道の選択以外に、いかなる原理的提言もない。何か難しそうな言い方をしたかもしれませんが、要するに生きるということは絶対だとかね。死を自ら選ぶということはあり得ないというようなことがもしあるとして、しかしそれは原理的なことなのではなくて、個別の状況の中で益と害というものをその進むべき道、この道を進んだらこういう良いところ悪いところがある。しかし、別の道に行ったらこういう良いところ悪いところがある。それをちゃんとアセスメントをした上で、結論として出てくる。やっぱりこの道を行くのが我々としてはよいというそういうあり方は、基本であるけれども、それに先立って絶対に生は守らなければならないとか、要は死を選択するということは、あったっていいじゃないかいうような抽象的な話をしてもしょうがないというようなことが言いたいのかもしれません。
 2番目、差し控えと中止の間には、倫理的差異がない。これはしばしば例えばマスコミに西洋では治療、例えば生命維持を開始しないでおく、差し控えておくというのとやっているのを中止するというのの間では、西洋の倫理では欧米の倫理では、倫理的な差がないのだとなっていきます。なにか日本はそういうことを分かっていなくて遅れているみたいな感じで言及する論者が時にいますけれども、時に間違えて差し控えと中止の間が差がないじゃなくて、やるとやらないとの間の差がないというコメントになったりしたことがありましたけれども、この論は不適切だということを申します。これはちゃんと本当は言わなきゃいけない。今まで言っていないので、ちゃんと言わなきゃならないのですが、ほとんど結論的なことを言うだけになってしまうかもしれません。
 第3に、これは先程立岩さんが共同ということについて私の考えていることに言及されましたが、私はですからたぶん打倒目標になるんだと思って、共同決定が大事だともう1度繰り返します。

 もう何分か経ゃったので、3つのうちそれぞれについて3分か4分で終わらせなきゃいけないというとんでもない状況になりますが、差し控えと中止ということ、ものによっては栄養補給をすればもう少し保てるかもしれないけれども、この方の場合に栄養補給しないでおこう。人工呼吸器をつけるつけない。つけないでおく。そうすると、呼吸が不全になってきますから死に至るというような選択、既に付けたけれどもどこかで人工呼吸器を外すというようなそういうことを問題にしようとしているということです。
 それで、日本の現状では、日本でなくても、やらない・始めないということには、抵抗は少ない場合でもやっているものを中止するということには抵抗を感じる向きがあります。それはよくご存知ですよね。それに対して論者が欧米の倫理ではその間に差はないんですとかしたり顔で言うわけです。そういうのが現状であります。私はこの現状についてやるやらないということもですね、やっているのをやめることについても理由ですね、それは、一つは患者さんにとって、患者さんとその周辺の人にとってどちらがより良いかよりましか、あるいはより良いかという益と害のアセスメント、それが要であって、それ以外に何か先立つ、こういうことをしてはいけないというふうなことはないのかということを言おうとしています。
 その考えの下にあるのは、益と害のアセスメントということについてこれも名前だけしか言うことができないのですが、相応性論(proportionality)という考え方で対応しようというのが私の立場です。Proportionalityという考え方は、例えば相手が悪性であれば悪性であるほど、こちらは強い対応をすることが許される、あるいは相手の程度に応じて必要最低限の対応までが許されるというような考え方として紹介されていますが、それの内容をよく精査していくと、結局、候補となる、今自分たちの前にある候補となっている選択肢のそれぞれについて良いところ悪いところを枚挙して、どれがどちらのほうがよりましかということを比べる、そして一番ましなのを選ぶ。そういう考え方に他ならないということ、それが核心だということです。
 ここで意図とか何とかという話は、でもそういうことを言うと、それは先程名前が挙がったピーター・シンガー何かと変わらないじゃないかという話になるので、そうではないんだということを付け加えているというのと確かにproportionalityという考え方は、そのある状況ですね、比べてみてこの人の場合は例えば安楽死させたほうがいいということに、ひょっとして状況によってなることがないとは言えない。なった場合には、安楽死も許されるというような主張を伴いますので、リスクはあるわけです。どこかで歯止め、例えば命を絶つということはいかなる場合でも許されないというような歯止めはかけないという立場です。
 しかし、例えばWHOが1990年に緩和ケアに関する報告書を出しまして、その中でWHOは安楽死については反対をしている。その場合、安楽死に反対する理由というのは、その何か人の命を積極的に絶つということは悪いことだから反対するというのではなくて、緩和ケアで十分にその人の苦しみは現在のところ解消できる。耐えられるぐらいまでには解消できる。だから死を選んだほうがよりよいというようなケースは、現在はないという緩和ケアの指針を示している。つまりproportionalityという考え方に乗っかって、現況を調べる。現況を見渡して、今は今や既に安楽死を選ばなきゃならないというケースはないという宣言として安楽死は必要ない。安楽死に対して自分たちは反対することを宣言していますが、そのような形でproportionalityという考え方を取るということも、それは決して死を容認するとか、そういうようなことに現実の結果としてなるわけじゃない。実践的にはそういうことはない状況が望ましいとして、見ていくということを含んでいるというような話になります。
 差し控えと中止の差ということについて、以前私は、例えばこの辺ですね。現在生命維持をしています、その生命維持をやめますというような中止ということがある場合に、それは決して死を選択するということではなくて支えているのを引くのであって、その引いた結果、その人自身が持っている生命力というか自然の状況ですね。それが顕わになって、死に至るけれども、それは決して死なせようとして死なせることではないようなことを言っておりました。それに対する多少の訂正となるでしょう。
 こういうような、今私が申し上げたような理論ではですね、現実に何もしない場合、あるいはその人自身が持っている例えば自発的に呼吸ができるとかできないとか、十分な呼吸をする力があるとかないとかというようなこととそれからそれに対してどういう生命維持をするのかしないのかということを比べて、良いとか悪いとか言っているわけですね。しかしその理論というのは、私はそういうものの考え方がそもそも間違っているじゃないのかというふうに、今は言いたいわけです。そうではなくて現在こういう状況にあると言えば、呼吸器をつけないでいる方が、呼吸がだんだん苦しくなってきて、呼吸器をつけなければこれ以上は生きていられなくなってきたという事情と、既に呼吸器をつけている方について、それはあるところで外すとか外さないとかということを考えるという状況とは
、そもそも出発点になっている状況が違いますから、出発点になっている状況というのを考慮から外して倫理的に差がないとか何とかという話というのは、私にとってはナンセンスだと言うことと、時間があればもう少し詳しく言いたいことになると思います。それがこの辺に書いてあることなのでどうぞお読みください。そもそも差し控えと中止が理論的に同じかどうかということを論じてもあまり意味がないと思っているということです。
 最後に意思決定プロセス共同決定論ですが、厚労省2007年の終末期医療決定プロセスに関するガイドラインでは、医療ケアチームが患者家族と対応しながら、合意を目指すというようなことが謳われていて、一緒に考えていくということですね。患者のじゃなくて家族の話すときにも家族は患者にとって何が最善か、患者が何を望んでいるのかということを医療チームとの間で話し合ってくれているというようなことが言われています。私は患者にとっての最善だけではなくて、家族にとっての最善ということも併せ考える必要があるということをここで付け加えたいし、患者に意思確認ができる、患者にまだ対応能力があるときにも家族も一緒になってこれからどうするかを考えていくというのが、出発点であるというふうに付け加えたいです。私の考えている意思決定プロセスについての指針に合わせると、こんな感じになりますけれども、今日は話さないでおきます。
 家族は当事者であるということは、今まで何回も言ってきました。だから患者の療養生活を支えるケアの担い手であり、担い手である以上意思決定に参加する必要がある。ただし、他方患者と非常に近い関係にあるだけに、道の◆倫理・医の倫理というのは、ここで話している時間がもうなくなっちゃいましたが、道と◆倫理に傾いて、かえって患者の意思を尊重することを軽視するというようなマイナスもあるわけですが、それらのことは次のような仕方で考えていけばいいだろう。家族とか患者ということで書いてあることをご参照下さい。
 家族に耐えられない負担を負わせるような選択肢ではバランスを崩しますから、そもそもそれは家族が決定に参加する参加しないの問題じゃなくて、社会的なサポートを充実して家族が一緒に参加して患者のために一番よい道、それは同時に家族のためにも一番よい道と、そうであるような意思決定のプロセスを目指すべきであるというようなことを申し上げています。ということで最後のところも本当は申し上げたいところですけれども、時間が過ぎてしまいましたので、以上にしておきます。分からなかった。何を言っているのかということは、討議のときにご質問下さい。以上です。どうもありがとうございました。

[福間] 討議の方に移りたいと思います。ご質問のある方は。


■■第2部

■■第3部

■■第4部

■■討議・質疑応答





文字化担当:樋口 也寸志
UP:20091202 REV:1230
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