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哲学・倫理学からの応答2

堀田 義太郎(立命館大学) 2009/09/06
COE死生学+生存学シンポジウム「死生学と生存学――対話・1」 於:東京大学


  こんにちは。堀田義太郎と申します。立命館大学で研究員をしております。「哲学・倫理学からの応答」となっていますけれども、私も直接的な応答という形にはならないと思います。ただ、非常に短い時間ですけれども、申し上げたいいくつかの要素は、おそらく何らかの形でかなり中核的な部分に関わってくるのではないかと考えておりますので、自分なりにつながっているかなと思っているところを申し上げたいと思います。ドラフトを配布できずに申し訳ないのですが、パワーポイントに沿って進めさせていただきたいと思います。
  「ある治療拒否擁護論とその批判」というタイトルですが、「ある」というのは「一つの」というような意味で見ていただければと思います。その「ある治療拒否擁護論」として、古いものですけれども、1991年に新聞に出されたインタビュー記事を取り上げます。それは、短いからこそ逆に治療拒否擁護論の1つのタイプを端的に示していて、その中には私たち今日の議論でも、とりわけおそらく第1部に関わるだろうと思うのですが、考えるべき要素が含まれているのではないかと思っています。
  それは、1991年3月12日の朝日新聞「家庭」欄に掲載された尊厳死協会の理事(当時)の廣瀬勝世氏のインタビューです。全文を複写してお渡しできず申し訳ありませんけども、生存学のホームページ、http://www.arsvi.com/d/et-dc.htm というページを見ていただきましたら、全文掲載しています。短いですけれども、非常に興味深い記事ですので、是非見ていただければと思います。治療拒否擁護論の一形態としてこれを取り上げたいと思いますが、その中にはいくつかの要素がありまして、その要素を取り出してその連関というものを見ていきたい。そこにどういうつながりがあって、それが何をステップしてしまっているのか。ステップしてはならない何かをステップしていると、私は考えているわけですけれども、それは何なのか。そういうことを通して、コメントに入らせていただきたいと思います。
  その要素というのは、大きく分けて4つ。1つ目としては無駄な治療をやめるのは自然の死であるという言い方。2つ目として、家族に迷惑をかけないように死ぬのは良いことだという言い方。3つ目と4つ目というのは、ほぼ重なるわけですけれども、周囲は本人の拒否の決定に介入すべきではない。あるいは本人の人生観に基づく決定を尊重すべきである要素です。これらについて簡単に一つずつみていきたいと思います。
  まず1つ目として無駄な治療をやめるのが自然の死だということ。これは引用にあるように、パワーポイントの青い文字の部分が引用ですけれども、この91年の段階で、廣瀬氏はこう述べています。つまり、かつては医者あるいは家族というのは治療をやめるということはよくないという時代だったけれども――91年と言いますと、ちょうど昭和天皇の崩御の直後、直後といってもちょっと間はありますが、だったりします――それを例に挙げながら、現在では脳死の問題などもあり、あるいは昭和天皇の事例もあり、人々が無駄な治療をしてほしくないと本音で言えるようになった時代である、と言う。そして「尊厳ある死とは?」というインタビュアーの問いに答えて、平安な自然の死である、そして、いくら治療しても、時期が来れば死ぬのはわかっているのに、ただ引き延ばすのは不自然である、という言い方で説明されています。無駄な治療をやめるのが自然な死である、という主張です。
  2つ目は、「家族の人生を狂わす迷惑をかけたくない。それが愛情のけじめではないか」、そういう言い方です。このインタビューでもこのまま表現されています。この廣瀬氏はもともと精神科医だったそうで、女子刑務所に行って、カウンセリングをすることがあったようです。その中で廣瀬さん自身が聞き取った殺人事件のケースで、病弱な娘が年老いた親の世話をしきれずに殺すケースというのがあった。これを例にあげながら、尊厳死協会の従来の主張というのは、3行ほど飛ばしますけれども、家族の人生を狂わすような迷惑のかけたくない。それが愛情のけじめではないかという言い方をしています。
  3つ目と4つ目は重なるのですが、周囲が生かそうとするのはナンセンスであるという言い方です。先程のような言い方は、今ではほとんど言われない非常に露骨な言い方であると思うのですけれども、やはりインタビュアーはこの点を察知していて、そういう言い方自体がある種のプレッシャーになるのではないか、ということで、「事前指示書を家族の手前書かざるを得ないという心配はないでしょうか」と聞いています。それに対して廣瀬氏は、「ないとは言えない。それは遺言書と同じである。Living will(事前指示)というのは、いつでも撤回できるというのをPRした方がいいかもしれない。しかし、強調点はそれよりも家族に反対されているということにある。「こんなに皆が世話をしているのに、なぜそんなことをいうのか」という反対がある。それらはナンセンスである」、というふうに答えています。
  4つ目に、本人の人生観に基づく決定を尊重すべきである、つまり、この問題は一人一人がそれぞれの人生観・宗教観などによって決めることで、答えは一つではない、ということが言われています。死は誰一人として避けられず、「Living will」は死に方ではなく、自分が最後までどういう人生を送りたいかという生き方を考えることなのだ、と主張されています。

  これらの主張、特に最後の主張は、これだけ見ると別に何も問題がないようにもちろん見える。これだけだったら、誰でも言うことであったりするわけですが、これらの主張の関係性が重要です。もちろん、この議論の中では関係性が明確な形で提示されているわけではありませんが、次のような関係になっている。これは既に多くの方が指摘していることであり、繰り返しにはなりますが、あらためて確認しておきたいと思います。
  まず、「無駄な治療をやめることが自然な死である」という言い方に関して。自然な死期を引き延ばして生かし続けるのは無駄だという主張は、明らかにある種の人々に限定した話であるということです。なぜそう言えるのかというと、全ての治療は不自然で無駄であるとは言われていないからです。例えば、インフルエンザであったり、盲腸ですとか、そういったものの治療、これも「不自然だ」と言って放置しておくこともできるわけですが、それらについて「無駄だ」とは当然ながら言っていないわけです。
  次の矢印ですが、「私はそれは無駄だと思う」として本人が決めたらそれは全てよいと言われているのかというと、そうも言われていない。本人が決めれば全て許容すべきだ、とは言わない。しかしながら、最終的には本人が決めることだ、と言われてもいる。その間に何があるのかについて、注意する必要があります。じっさい、本人が全て決めることで、たとえば健康な人が、借金あるいは「いじめ」を苦にして自殺未遂をして遺書がある。そこに「死にたい」と書かれているとする。本人がはっきりと治療拒否の事前指示をしているから、救急救命はしなくてよい、とそこまで言うなら、私は筋が通っていると思います。私はそういう議論がもしあるならば、それはそれで筋が通っているということは認めたいのですが、そういうふうに言っている人はいないし、多くの人々はそうは言わない。じっさいに問題になっているのは、やはりある種の状態、特定の状態の人に限定されている。そのような人が生き続ける治療をするのは「不自然」であり、あるいは「無駄」である、しかも治療するか否かは「本人が決める」、そういう言い方になっている。
  そしてそれは「家族に迷惑をかける」状態である、という形になっているわけです。ここに一つの前提、議論の構造と前提と書きましたが、一つの前提というのは誰が生き続けるのが不自然で無駄なのか、それはある種の状態、家族に迷惑をかける状態、世話が必要な状態、そういう人が生き続けるのが不自然で無駄であるという前提が暗黙に入っている。明示をされていないけれども入っている。
  もう一つ、これは明らかですけれども、「家族に迷惑をかけない、それが愛のけじめである」という言い方をしています。ここで前提になっているのは、世話が必要な人は、家族に負担をかけなければ生きられない。そういう社会状況が前提になっている。これが二つ目の前提です。ここで、家族に過度な負担がかかる状況というのが本人に圧力をかけている可能性が考慮されていない。さらに、むしろそれどころか逆に、家族の負担に遠慮して死ぬことがよいこととして、「愛のけじめである」という形で推奨されている。そう言いながら、周囲は生かす方法で介入すべきではない、本人の人生観に基づく決定を尊重すべきだ、という形で結ばれているわけです。
  この廣瀬氏の話はたしかに極端な言い方を含んでいますので、違和感を持ちやすい話ではあると思うのですが、はっきりと「家族に迷惑をかけない。それが愛のけじめ」とは言わないまでも、現在に至るまで、これと構造と前提を共有した議論が治療拒否擁護論の中にはあります。それは、周囲への社会的支援の不足の現状、そして家族の負担に遠慮して生をあきらめることを強いられる可能性に言及だけはするが、他方で、治療拒否の選択に対する周囲の介入が、つまり治療拒否の選択への介入がことさらに取り沙汰される。しかも、それがしばしば「日本的」な特殊性という形で言及され、それに対して自己決定を尊重する「欧米」が対置される。そして最後に、本人の価値観に基づく自己決定の尊重が重要だという結論で終わる。こうしたかたちの議論は、おそらくどこかで聞いたことがあるのではないかと思いますが、実際このような構造をもつ議論はしばしば現在でも見られるわけです。それに対して、では批判の論点としては何があるのか。これは、私は批判する立場に立つわけですけれども、いくつかあります。
  もちろん、十分な批判であるかどうかは皆様に判断していただきたいのですが、一つはやはり、生きるために、生存するために様々なサポートが必要である状態、そういう人の「生活の質」と言ってもよいし「生活状況」と言ってもよいのですが、それらは周囲の世話の質量あるいはサポート状況に大きく依存しているという事実です。これらも自明と言えば自明ですけれども、ケアが必要な人に対して、家族以外の質量的に充実した支援がないと、当人も家族も過酷な状態に置かれる。たとえば、この廣瀬氏の話のなかでは、病弱の娘が老いた母親を介護して、その介護疲れで殺すケースが典型的な事例として挙げられているわけです。その状況では、本人の決定・選択に圧力がかかる。周囲の状況によって生をあきらめざるを得ない場合でもあり、ここを私たちは問題にすべきであると思います。
  これに対していくつかの方向性もあるわけですが、たとえば、生きるための選択をより容易にするサポートを充実させつつ、同時に死に向かう決定も許容していく、というのは中立的な方向性だと言えるかどうかが次に問題になる。
  「生きるための選択を容易にするサポートはもちろん充実しましょう。同時に、しかし死にたいと言う人もいるのだから、その人たちの決定も認めましょう」という議論。たとえば今日話題になった例では、サポート体制・支援を充実させつつ、人工呼吸機の取り外しなどを認めていきましょう、というのが中立的だという議論。表面的・形式的には中立的と言えるかもしれない。しかし、やはり私たちはここでもおそらく、決定の帰結に応じて考える必要があるだろう。つまり、2つの選択の先には生と死がある。
  おそらく私たちは、もちろん「死」がそれ自体恐れるに足るものであるかどうか、それについては先程の福間さんの議論でもっと考えるべきではあると思うわけですけれども、しかしやはり私たちは生きていたらまだ何かあるだろうと思っているし、死んだらそれで終わりだろう。そして、「死にたい」という人の背景に何か特別な事情があるのではないか、もしそれを周囲が解消できるならば解消した方がよい、と思っているわけです。生に対する積極的なアプローチと、人を死に追いやるような介入のどちらを、私たちは「よい」とみなすか。これはおそらく非常に常識的なところで、当然、生を後押しする方だろう。そうすると、やはり現状として生きるための選択を容易にするためのサポートが充実していない中では、死にたいという主張について、周囲に言わせられていると言える面がありうる。こういうメタファーが適切かどうかは分かりませんけれども、「本当死にたいと思っていないのにそう言わされてしまっている」ということを「偽陽性」と書きましたが、それを避けるために、「本当に死にたいのにそれは本心ではない」として止められる「偽陽性」を許容する。そういうある種の非対称な対応というのは仕方がないだろう。つまり、生きるという選択にネガティブな圧力がかからないような状況を実現させつつ、その実現までは死の決定を規制しておく。これを私たちは合理的に理解可能だろうし、受け入れやすいのではないかと思います。
  非常に速口で申し訳ないのですけれども、この批判にはもちろん前提があります。念頭に置いているケースもいくつかのものに限られているわけですけれども、これはおそらく最初のところで「益と害」という清水先生のお話ですと「益」と「害」の中身に何を数え入れるのか、あるいは福間さんのお話だと「危害」の内実、その危害には精神的苦痛は含まれるのかどうか、ということにも絡むかと思います。益と害についてまず、物理的・生理学的なものと精神的なものを分ける。生命倫理・医療倫理の枠組みで、大雑把ですがやはり概ね正しいだろうと思うものとして、「医学的適応」というものと本人の「自己決定」を項目として独立させて、医療侵襲の条件として一方が重ければ一方が軽くて済むという形の計算があります。もちろん微妙な場合があるとしても、やはり「生理学的利益」と「自己決定に要求される真正性」との重みづけが重要だろう、という前提があります。
  つまり、生理学的利益が多大であり、明白である。医学的観点から見てですが、たとえば苦痛がないとか害がないとかですね、そして生理学的状態を改善する可能性が非常に高い場合、当然ですけれども、治療の開始継続というのは合理的であり、本人がその時点で主張・自己決定をしていなくても、「推定同意」として私たちは治療した方がよいと考えている。他方で、医学的な意味での利益が非常に大きいものに関しては、不開始の自己決定については、やはりその理由が厳しく問われるだろうし、医師にはむしろ治療する方向で説得することが認められると考えている。
  逆に、生理学的利益がゼロあるいはマイナスで、典型的には「美容整形」とか「性別適合手術」ですが、精神的なもの心理的なものが原因で身体には悪影響しかないもの、そういったものに関しては、医療侵襲の条件として本人の自己決定に課される重みが増してくるだろうと。じっさい、これらの処置の開始継続の決定については、周囲に圧力がないかどうか、意思が持続的であるかどうか、意思が強固かどうかが、場合によってはカウンセリングの機会も使って吟味されるわけです。医者が、たとえば「あなたは美容整形をした方がいいですよ」と診断することは、もともとあり得ないわけですけれども、そういう方向で誘導することはあってはならないとされている。それを私たちはやはり合理的だと思っているわけです。
  こうした生理学的でフィジカルな利益がゼロあるいはマイナスのものに関しては、たとえば生体間臓器提供とか美容整形手術でもよいのですが、本人が一言「嫌だ」と言えば、当然ですけれども、「何故嫌なのか? さっきは「やる」と言ったのに、考え直しなさい」などというふうに医者は言わないし、むしろ言ってはならない。つまり単に一言「嫌だ」と言えば、その理由ですとか背景、その意思の強固さというのは問われない。
  私たちはやはり生理学的利益と社会的・心理的な利益をいったん区別した上で、考える必要があるのではないか。実際に生理学的利益が本当に微妙な場合、やってもやらなくてもどちらでも同じような場合、そういった場合にはもちろん変わってくるわけですが、それにしても、やはりすでに生理学的利益の重みを評価している。
  おそらく、利益/不利益というところで、生理学的利益が明白な治療と言えば、ALS患者あるいは筋ジストロフィーの患者に対する人工呼吸治療です。他方、同じ人工呼吸治療でも利益/不利益の判断が困難なケースももちろんあります。たとえば、末期癌で気管周囲の癒着が進んでいて、気管切開手術自体のリスクが非常に高い場合、しかも肺の機能も低下していて、手術しても呼吸困難に陥るかもしれない人のケース。この人の場合、手術しなければ数時間内あるいは場合によっては持って1日だろう。仮に手術に成功して、人工呼吸器をつけたら、1週間あるいは場合によっては1ヶ月もつかもしれないけれども、しかしリスクが高い。そういう患者に対して、人工呼吸器を装着する手術をするかしないか。これは、私はもし本人の指示があるならばそれに従うべきだろう、と思います。一方には利益はあるかもしれないけれども、その可能性が低いし侵襲性も高い。そういう非常に微妙なケースに関しては、本人の決定が最優先されるべきだと言えるかもしれません。しかし、そうではないもの、生理学的利益が大きいものについては、その決定を取り巻く様々な周辺状況を、とりわけその中でも周囲が何かして解消できるようなファクターが本人の決定に圧力をかけている可能性がある場合、その場合には私たちはやはりそれをまず先に解消すべきだろうと思っていると思う。
  パワーポイントには書いておりませんけれども、周囲が何とかできるならば、できる部分についてはまずはすべきというのが正解だろう、と申し上げました。これは第2部の話題にも関わると思うのですが、確かに難しい問題もあるかもしれない。つまり周囲が何とかできる、何か努力して改善できるとして、何かをすれば簡単にどうにかなるような要素と、なかなか「改善」になりにくい要素が、心理的な苦悩の中に混在している場合もある。例えば、これは実際に現場にいる方とか、ケアの経験のある方はお分かりになると思いますし、想像していただけば誰でもお分かりになると思うのですが、排泄を他人に世話されたくない、それは「尊厳を傷付ける」と言う人がいる。それは、周囲がどうにかできるのかできないのか。
  しかし、そこも私たちは細かく見ていく必要がありまして、当然ですけれども、排泄のケアの中にもやり方がいくつかある。たとえば、常時おむつをして、薬でコントロールするというやり方、そういうやり方が嫌なのか。あるいは排泄を他者に世話されること自体が嫌なのか。これはやはり細かくみていく必要があるわけです。その辺りが曖昧にされてしまっている。そこを細かく見ていくためには、生理学的利益と心理的・社会的な要因というものを一つ一つのケースに即して、具体的に比較衡量して吟味していくことが必要だろうと思います。
  何の応答にもなっておりませんで恐縮ですが、私の報告は以上です。

cf.

■廣瀬 勝世 19910312 「「尊厳ある死」を選ぶとは」、日本尊厳死協会常任理事・廣瀬勝世さん、朝日新聞(家庭面:ゴ問ゴ答)

1 世論調査の結果をどう見ますか。
  妥当だと思いますね。むだな治療はしてほしくないと、本音でいえるようになった。
  教会では尊厳死を宣言し、書面に残します。「私の病気が現在の医学で不治の状態であり、すでに死期が迫っていると診断された場合には、いたずらに死期を引き延ばすための延命措置は一切お断りします」「ただし、私の苦痛をやわらげる処置は最大限に実施してください。そのためにたとえば麻薬などの作用で死ぬ時期が早まったとしても、いっこうにかまいません」「私が数カ月以上にわたって、いわゆる植物状態に陥った時は、一切の生命維持装置をとりやめて下さい。この三項目です。
  私が入会した一九八二年当時は会員は千人足らずで、安楽死協会といっていたころなので冷たいといわれた。医者は治療をやめるべきではない、家族はそんなことを望むべきでない、という時代です。この二、三年、会員は急増して二月末で一万三千四百一五人に。昭和天皇の病気で、多くの人が延命や現代の医療について考えたと思う。そして脳死問題は、尊厳死に密接に結びついてきていますね。

2 女性の会員が多いそうですね。
  全体の六五%強が女性で、六十歳前後の方が多いですね。世界中、女が多い。そこにこの問題の大きなテーマがある。男性は母親や奥さんに守られているから、自分は世話をしてもらえると思っている。私は戦前から女性犯罪の精神医学的研究をし、女子刑務所を訪ねて殺人罪の受刑者と話してきました。病弱な娘が年老いた親の世話をしきれずに殺すケースがありました。当時は30代の娘に60代の母親、いまはもっと高齢化しているけれど、結局、自分の親、夫の親、そして夫、と最期までをみとるのは、一般的にやはり女性です。
  尊厳死協会も従来は、植物状態の場合、医者や家族の側からの見方が主でした。私は逆に、自分がそうなったらどうしてほしいか、私は家族の人生を狂わすような迷惑はかけたくない。それが愛情のけじめではないか、と。女性の共感を呼んだようですね。最近は夫婦会員が増えました。昔と違って夫婦でつきつめた話もするようになった。子どもが少なくなったことも影響しているでしょう。

3 尊厳ある死とは?
  結局、平安な「自然」の死なんですよ。いくら治療をしても時期が来れば死ぬのがわかっているのに、ただ引き延ばすのは不自然でしょう。医師や家族が何とか助けたいと手を尽くすことは同じ医者として理解できます。でもいつまでもというのは反対です。
  ある内科の“権威”が、十年近く植物状態だそうです。お弟子さんも偉い医者ばかりで、大変な治療をし、だれも延命装置をはずせない。「あの人が決めた」といわれるからだれも手を出せない。その人本来の姿とかけ離れたみじめな死に方は、その人の尊厳をそこなっていると思います。外国では、苦しんでいる人を死なせる積極的な安楽死を尊厳死としている団体もあるが、日本では終末期医療における消極的な安楽死までです。

4 自分はそこまで考えたくはないが、家族の手前、書かざるをえない、というような心配は。
  ないとはいえません。遺言書もそうですからね。リビング・ウイルはいつでも撤回できるということをもっとPRした方がいいかもしれません。それよりも家族に反対されている人がいます。「こんなに皆が世話しているのに、なぜそんなことをいうのか」と。ナンセンスです。この問題は、それぞれの人生観、宗教観などによることで、答えは一つではない。

5 「書面にまでしなくても」という考え方もあります。
  記録に残すのが一番と思います。日本医師会の調査で医師の九〇%近くがリビング・ウイルを認めていて、ある公立病院ではコピーしてベッドに張ったりカルテに添付している。医師の側も変わってきた。書いていない場合、家族は延命装置をはずすかと尋ねられたら悩むでしょうし、医師もはずしにくいと思う。
  「死」はだれ一人として避けられません。リビング・ウイルとは、死に方ではなく、自分が最後までどういう人生を送りたいか、という生き方を考えることなのです。

  聞き手 生井久美子
  写真 渡辺剛士


UP:20100218 REV:
堀田 義太郎  ◇「死生学と生存学――対話・1」  ◇生存学創成拠点・催・2009  ◇死生学  ◇  ◇安楽死・尊厳死 2009

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