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哲学・倫理学からの応答1

福間 聡(東京大学) 2009/09/06
COE死生学+生存学シンポジウム「死生学と生存学――対話・1」 於:東京大学


  第4部は哲学と倫理学からの応答ということで、私、福間と堀田先生の発表になります。
  プログラムに書いてあるように、ここまでに提出されたのを展開する応答ということですが、個別の応答というのは僕にはとてもできず、おそらく次の堀田さんがやってくれるのではないかと思っています。このイベントの運営をしているということが私の応答だと思っていただければ、幸いです。
  清水先生はもちろん、立岩先生を私は昔から見知っていまして――清水先生は東北大での教官、立岩さんはその東北大に集中講義に2001年に来られました――1997年に立岩さんの『私的所有論』という本が出たのですが、清水先生の『医療現場に臨む哲学』も同年に出版されました。97年に出版された、後に生命倫理に大きな影響を及ぼすことになる二人の作者が、一方は死生学となり、他方が生存学となったわけです。そのようなわけで、1997年というのはなかなかのエポックメーキングな年だったのじゃないかなと思います。
  今日私がここでお話ししたいのは、「死は恐ろしい」という言明・判断は真であるのか、というテーマについてです。時間の関係上、大雑把な議論になるとおもいますがご了承ください。
   日本で哲学というと、やはり大陸系の哲学が主流で、フランスやドイツの哲学の流派である現象学とか実存主義、構造主義とか批判理論がメジャーなのですが、今日は英語圏の哲学・倫理学の観点から死の問題について考えてゆきたいと思っています。
  英語圏の規範倫理学・社会哲学に基づいた、死生学に対する一つのアプローチとして私は、「社会正義と善き死」というテーマに取り組んでいます。この背景として、「社会疫学」という学問分野があるのですが、そこでは「平等な社会、社会正義が実現されている社会はそこで暮らしている人々の健康にとっても良い影響を与える」というテーゼが研究されています。たとえば最近の研究では、一人当たりのGDPでいえば豊かな国であるとしても、その国において人々の間に大きな格差がある場合、たとえ一人当たりのGDPは低いとしても社会格差が小さい方の国の方が人々の平均寿命が長い、という研究データが提出されています。こうした研究を踏まえて、社会正義が人々に健康(善き生)という帰結をもたらすのであれば、同時に善き死ももたらすのではないのか、という問題を検討したのが、「社会正義と善き生死」という論文です(『死生学研究』第10号)。
  次に、メタ倫理学・分析哲学的なアプローチに基づいて死生学の問題を考察した論文が、「「死者に鞭打つ」ことは可能か」という論文です。これは死後の危害(posthumous harm)ついて書いた論文です。今日の発表と関わるのですが、私たちは死者を冒涜すること、たとえば死者の悪口を言うとか、死者のことについてまったく根拠のない噂を流すということに関して、なすべきではないと考えていると思うのですが、なぜ死者に対してそういった誹謗中傷を行うことはいけないと私たちは考えているのでしょうか。
  一つの理由としては――もちろん遺族感情に対する配慮というものもあるとは思うのですが――そういう誹謗中傷を行うことによって、亡くなった死者自体にも危害が与えられるからだ、という考えが我々の直観としてあると思います。では死者は、死後の出来事によって危害を被ることがあるのかということを哲学的に分析した論文が、死生学に関する私の2つ目の論文です(『死生学研究』第12号)。
  今日考えてみたいのは、私たちにとって死が恐ろしいことが、死を遠ざける原因になっていたり、また死に関心を抱いたりする1つの要因となっていると思うのですが、死は恐ろしいという判断や言明は真であるか、本当に死は恐ろしいのかということについて、大陸系の現象学とか実存主義といった哲学のアプローチではなく、英語圏で行われているメタ倫理学・分析哲学といったアプローチから今日は考えてみたいと思います。
  メタ倫理学・分析哲学にあっては、この問題に対して2つのアプローチが可能となっています。1つが意味的アプローチと呼ばれるもので、もう1つが存在論的アプローチと呼ばれるものです。これらは後に指摘するように相互に関連しています。まず意味論的アプローチにあっては、「死は恐ろしい」という判断を私たちは行ったり、下したりしているという点に注目します――もちろん、「死は恐ろしいなあ」とことばに出したり、そういった判断を他人に向かって日常的にする人はあまりいないと思うのですが。では、この「死は恐ろしい」という判断は真偽を問うことが可能なものであるのか、本当に死は恐ろしいということが言えるのかどうなのか、という問題を意味論的なアプローチでは考察しています。
  他方存在論的アプローチにあっては、死は私たちに何らかの危害をもたらすから、私たちは死に対して恐怖を抱いているのではないのか、という点に注目します。ではなぜ私たちは死は危害をもたらすと考えているのか、またその危害を被る主体はいったい誰であるのか、という問題を存在論的なアプローチでは考察しています。
  分析哲学の一つのアプローチにあっては、「死は恐ろしい」という判断が真であるためには、「恐ろしい」ということばに対応する事実というものがこの世界の中に存在していることが必要であると考えられています。たとえば、「この図形は四角だ」、または「あの生き物は猫だ」という判断が真である、真理であるためには四角とか猫という言葉が指示している事実が、この世界の中に存在しているということが必要となるわけです。「この図形は四角だ」といった仕方で世界を描写している我々の判断と世界が一致していることによって、その判断は真となる。このように分析哲学では考えられています。
  ではこの「恐ろしい」ということばは何らかの事実を指示または記述していることばであるのでしょうか、恐ろしさという事実は世界の中に存在しているのでしょうか。それとも「恐ろしい」とは、単に私たちの感情の表明であって、そのような事実などは存在しないのでしょうか。
  たとえば、「この本は面白い」と判断して友人にその本を貸したりすることがあると思うのですが、ではこの面白いという事実が実際にそこに――その本の中か、その文章の中か、あるいは行間の中に――あるのかというと定かではない。「その本は面白い」と述べることによって、通常私たちは「この本は読んだ方がいいよ」とか、「この本は読んでもためになるよ」、「寝る前に読むとよく眠れるよ」といった指示や推薦を表現していると思うのですが、そうなると「面白い」ということばは何らかの事実を――これは四角だとか猫だとかといったことを――描写しているのではなくて、「面白い」ということばを用いることで今自分(話者)が持っているその本に対する肯定的な感情や態度を表明していると考えられます――楽しいときに「ワー」とか「ヤッホー」といった声を出すことによって自分の愉快な感情を表明するのと同じような仕方で。こうした意味において私たちは「面白い」ということばを発していると思うのですが、それとパラレルな仕方で、「恐ろしい」ということばについても考えることができます。「死は恐ろしい」という判断は、「死は嫌だなぁ」といった我々のたんなる感情(否定的感情)を表明しているものにすぎないのではないか、と。

  もし前者(「恐ろしい」について記述主義)が正しく、何らかの事実が存在している、「恐ろしい」という言葉に対応する事実があるとするならば、それはいったいどういった事実なのかということが次に問題になります。
  たとえば机とか猫とか四角形といった事実と同じような事実、これらは「自然的事実」と呼ばれるのですが、そうした事実として「恐ろしい」に対応する事実というものが存在するのか。また「科学的事実」と同じような仕方で、私たちにおいて普遍的な合意が得られる事実であるのか。猫とか机にあっては、文化によってある生物を猫と呼んだり、呼ばなかったり、ある家具を机と呼んだり、呼ばなかったりする場合もあるわけですが、科学事実というのはどんな文化であっても、普遍的な合意が得られる事実として存在していると考えられています。ではこのような事実として恐ろしいという事実は存在するのでしょうか。
  あるいは、恐ろしいという事実などは存在しないのかもしれません。「恐ろしい」とは「面白い」ということばの使い方と同じように、私たちの死に対する単なる嫌な(否定的な)感情を表明しているだけに過ぎないのだとすると、私たちが抱いている死の恐怖は「非認知的」なものとなってしまいます。簡単にいいますと、死の恐怖というものは、それに関する知識を得ることはできないものである、と。「面白さ」に関して――お笑い学というのがあるのかもしれないのですが――どういった仕方で話したり行動したりすればみんなが笑ってくれるとか、こういった文章を書けば必ずみんなが面白いと感じてくれるといったフォーマット(知識)を私たちは有していないと思います。そうしたフォーマットを作成しようとしてみてもできない。それはなぜかというと、「面白い」ということに対応する事実が存在し、その事実を適切に表現できていれば面白いのだ、といった仕方で私たちは「面白さ」を説明できないからです。
  もしこうした「面白い」ということばと同じ種類のことば、「恐ろしい」ということばが私たちによって使われているとするならば、それは非認知的な言語運用であり、それについて理性的に議論することが不可能なものとなってしまいます。確かに実際は、何が「面白い」のかということに関して議論することもあるとは思うのですが、それはあくまでも「私はこれが面白い、君はそういうことを面白いと思うのか」といった仕方で、単なる「趣味」の問題とか単なる個人の今まで文化的に培われてきた「感性」の問題として「何が面白いのか」ということは語られており、「面白さ」についての理性的な議論はできないのではないでしょうか。それゆえ、もし「恐ろしさ」が「面白さ」と同じ種類のことばであるとするならば、死に対する恐怖、恐ろしさも理性的に議論することはできないものとなってしまいます。
  「恐ろしい」は事実を指示していることばであるとするならば、それはいったいどのような事実を指しているのかという問題が生じ、他方「恐ろしい」は話者の感情や態度を表明するためのことばであって、事実を指示してはいないとなると、私たちは「死の恐ろしさ」について理性的に議論することは不可能だという問題が生じてくるわけです。どちらの立場が正しいのでしょうか。
  死生学という「学問」を東大や他の大学でも行っていますし、私たちは理性的な仕方で死生の問題や死に対する恐怖について議論していると思われます。とするならば、やはり何らかの事実を「恐ろしさ」ということばは指示しているのではないかと考えたい、と私は思うわけです。
  では「恐ろしい」はどういった事実を指示しているのかと考えてみますと、私たちは「恐ろしい」ということばで〈私たちに危害が及ぶ事態〉を指してはいないだろうか。すなわち、危害という(自然的)事実に恐ろしいという現象が付随(supervene)していると私たちは考えていないだろうか、ということが一つ言えるわけです。たとえば、私たちは道徳的な言語として「善い」とか「悪い」ということばを使いますが、これは善い事実そのもの、悪い事実そのものが存在し、それを指示するためにそのことばを使用しているわけではありません。電車の中でお年寄りに席を譲るという行為は、物理的に見れば〈自分が座っていた席に年長者を座らせる〉という行為ですが、そういった物理的な事実が存在している事態にあっては、「善さ」という事態が現象していると認識することから、善さというものはそうした物理的な出来事から現象していると見て、私たちはそういった行為を「善い」と名付けるわけです。それと同じような仕方で私たちは「恐ろしい」ということばを用いているのではないのか。すなわち「恐ろしい事実そのもの」は存在しないのですが、危害が存在することによって、その危害という事実から恐ろしさという事態が現象していると認識することによって、危害が存在するという事実を私たちは「恐ろしい」と名付けているのではないのか。こうしたことが言えるのではないかと思います。
  ここまでの結論ですが、「「死は恐ろしい」という判断が真であるのは、死が私たちに危害を与える場合であり、その場合に限られる」ということになります。それゆえ、もしも死が私たちに危害を与えるならば、死は恐ろしいという判断は真だということになるのですが、話はここで終わらず、次に存在論的な問題が浮かび上がって来ます。すなわち、死は私たちに危害を与えるので恐ろしいと私たちは判断しているとすると、ではこの「死による危害」を受ける主体は誰であるのか、という存在論的な問題が生じてきます。

  私の死は私という主体の終わりであるとすると、死の時点にあっては危害を受ける主体が存在しないことになるという問題が出てくるわけです。つまり、危害というものが存在するためには〈危害を経験できる主体〉が必要ですが、死は主体の終わりであるので、死による危害を受ける主体、私そのものが私の死の時点にあっては存在していないわけですね。となると、私の死は私に危害をもたらさないことになり、死は私にとって恐怖の対象ではない、ということになります。私の死というのは私にとっては危害を与えるものではないので、そうであるならば私の死は私にとって恐怖の対象ではない、という結論が出てきてしまうわけです。
  でも実際にそうなのでしょうか。経験できないことは恐怖の対象にはならず、それゆえ死に対する恐怖はやはり不合理なものなのでしょうか。死というのは主体の終わりですから、私の死は私に危害を及ぼすことはない、それゆえ死を恐れる必要はないのでしょうか。これは「エピキュロスのテーゼ」と呼ばれる論証です。死は主体の終わりであり、私の死は私にとって恐怖の対象ではない。このことが正しいとするならば、死に関して私たちが危害を受けるとして恐れていることとは一体何なのか。これが問題になるわけです。
  この問題について私の回答を示すことによってこの発表を締めくくりたいと思います。
  死は私たち(死ぬ本人)に危害を与えないので、「恐ろしさ」の適切な対象ではありません。では私たちが「死」として恐れている対象とはいったい何なのかというと、それは死それ自体ではなくて、死に臨んでいる状態、生の終末を私たちは恐れているのではないのでしょうか。生の終末にあって、自分がどういう状態にあるのか、生の終末において私たちは苦しまないだろうかということを私たちは恐れている。「死の恐怖」ということで実際恐怖の対象となっているのはdeathでなくdyingの方ではないのか、ということを本日の発表の結論として導くことができると思います。そして死生学と生存学の接点の一つの接点が、dyingというものをどのように理解するかというところにあるのではないのかということが、メタ倫理学あるいは分析哲学のアプローチから一つ言えることではないのかと思います。この結論をもちまして「哲学・倫理学からの応答1」の発表を終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。


UP:20100218 REV:
福間 聡  ◇「死生学と生存学――対話・1」  ◇生存学創成拠点・催・2009  ◇死生学  ◇  ◇安楽死・尊厳死 2009

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