HOME >

意思表示困難な高齢者における救急医療・集中治療・延命治療

鈴木 義彦 (松戸市立病院救急部・東京大学) 2009/09/06
COE死生学+生存学シンポジウム「死生学と生存学――対話・1」 於:東京大学


  こんにちは。松戸市立病院の救急部の鈴木と申します。高尚な話というか難しい話が続いておりまして、私は何をお話すればいいのか少し困惑しております。清水先生からは実際の事例を提供すればよいというふうに言われまして、気軽に受けてしまった次第です。
  詳しいことはレジュメに書いているので、読んでいただければわかる内容なので、後ほどかいつまんでお話ししますけれども、いちおう後でたぶん一番いじめられる対象の人間かなと思いますので、自分のバックグラウンドを少し説明させていただきたいと思っております。
  私は1989年に医師になりました。竹内基準、脳死の竹内基準(厚生省科学研究費・特別研究事業『脳死に関する研究班』脳死判定基準)というのが1985年に決まって、その後脳死法案が通るまでに12・3年かかったと思うのですが(臓器の移植に関する法律 1997年成立)、私は89年に、その当時竹内先生(脳神経外科学教室教授)がおられた杏林大学の救急医学教室に入局しました。ですから、その当時は、その竹内基準が正しいかどうかということで、脳死判定というものを、臨床的脳死判定というのを山のようにさせていただきました。そして、当然研究という意味合いもありますので、無呼吸テストというのもいっぱいやっております。ただ、小松(美彦)さんがおっしゃるほど、そんなに危険なものではないように安全に十分配慮してやっていたつもりですので、(脳死判定に関しては)いろいろ言いたいことはあるのですが、とにかくそういうことをさせていただきました。
  私の立場としては、やはり脳死はかなりの部分元には戻らないだろうと思っています。(脳死が)人の死とは言いません。脳死が、人の死であるという判定はしませんけれども、元には戻らないだろうという確信は持っております。その過程でいろんな反応が出たりしているということはあるかと思うのですけれども、しっかりと(現在の脳死判定基準に沿って)診断をした場合、やはり元に戻らず、いずれ死に至るであろうという、ちょっとした信憑が、私にはあります。    
  一方で臓器移植に関しては、賛成している立場でもありません。、(私自身が、)あえて脳死の人から臓器を頂いてまで生きる必要があるのかどうかに関しては懐疑的です。また、救急医の立場としては、脳死になっている方(やその家族)の方に気持ちとしてコミットしておりますので、あえて急いで移植うんぬんという気持ちにはなりません。
  さて、今日お話しさせていただくことは、レジュメに書いてあります、今回、他の文系の方々がパワーポイントをいっぱい用意しているのに、いちばんパワーポイントが得意なはずの理系で医者の私がパワーポイントを用意して来ていないので、大変恐縮しております。
  これからディスカッションしたい、俎上にあげていただきたいと思っているのは、高齢者で自分の意思を表明できない方が、急に集中治療あるいは人工呼吸器などの高度医療を必要になった場合にその後どうするか。それをどういうふうに判断するかということを、死生学・生存学の皆様に考えていただきたいと思って、今回のレジュメに出させていただきました。と申しますのも、日本人の死亡するのは、大雑把に言って、だいたい、がんが3割、循環器系が3割、脳神経系が3割で、その他1割に満たないくらいがいろんな様々な病気で亡くなっていると解釈しています。そうすると、いろんな医療が進んでくると、結果的として、今後高齢化が進み、アルツハイマー(認知症含めて)も増え、ご自身では判断ができない中で死を迎える、あるいは死に瀕する状況を迎えるということが増えていくということは、間違いないと思います。すでに現実の問題として、我々の救命センターにおられる方の年齢はどんどん高くなってきておりまして、80歳以上の方というのも、当然多く救急で搬送されてきております。また私が松戸という所にいるのですけれども、養護老人施設がたくさんある地域で、そういった施設に都内からおひとりで移ってこられるお年寄りも増えてきております。
  そういう方々が急に脳出血あるいはその他の病気で運ばれてきた時に、施設の方は、当然治療方針を判断ができません。当然、救急車を要請するということは、基本的には救命を求めていると判断されますので、、とにかく救命をするという方向で動きます。救急医としては、それは当然という解釈であり、そういうことに関して全く問題はないと思います。
  けれども、実際問題として、その後ご家族の方がいらした後で、実はこういうことは希望していなかったというようなことも多々あります。そして、出来ればもうこんなもの(人工呼吸器)は外してほしいというふうにおっしゃるということもあります。 
  また、それまでお元気で、ご家族と一緒にいるときに、急に具合が悪くなって心肺停止とかになった場合に、やはり突然目の前で具合が悪くなられた場合に、それはそれでいいというふうには、いくらご高齢の方でもなかなか受け入れられない。そうなると、やはり救急車を呼んでしまう。呼んでしまって実際に治療が始まった後で、後悔するという方もいらっしゃいます。
  今日は、そういった事例に関して話しさせていただくのですけど、それ以外にも今後,、もっと大きな問題になってくるであろうと思われるのは、がんの患者さんだと考えています。
  がんに関しては緩和ケアとかいろんなことがあって、がんで亡くなることに関しては、がんの専門医の方々はよくお話をされているのですけど、それらの患者さん方も高齢者の方が多くなってきたのですが、他の疾患になった時にどうするかというところまでご自身であまり考えていらっしゃらない。当り前だと思うのですね。大きな病気を抱えておられて、他の病気のことまで気を回せというのは無理な話だと思います。しかし実際問題としてそういう方がいらっしゃったときにどこまで治療するかということは、がんいう病気に向かい合って、いろいろ考えていらっしゃる方々であっても、他の病気に関してはあまり考えていないということはよくあります。特に、これも(当院の)立地条件の問題として、築地と(千葉県の)柏に国立のがんセンターはあるのですけれど、その間に松戸があって、どちらかのがんセンターに行かれている患者さんがいっぱい住んでいらっしゃるということも関係あるかもしれませんが。
  いずれにしても、高齢化が進むにあたって、思わぬ時に突然ご自身で判断ができなくなる可能性が、今後ますます高くなってくると思いますので、そういったことを事前に考えておくということは、それが死生学なのか生存学なのかという難しいところは置いときまして、考えることは必要というふうに思っております。
とりあえず、事例を簡単に説明させていただきますと、両方とも84歳の女性の方です。
  一例目に提示させていただいている方は、非常に元気に暮らし、生活されておられて、84歳ですけれども、家事は全てこの方がされておられました。息子さんと息子さんのお嫁さんと同居されておられたのですけれども、仲良く家事をしているような状況だったそうです。そしてある日、突然トイレで音がして、息子さんが見に行ったところその方が倒れていた。その時にはっきりとしたことは分からないのですけれども、おそらくその時点ですでに心肺が停止していたというふうに考えられます。数分後に救急隊が来た時に、確認したところでは、心臓も呼吸も止まっていました。当院に運ばれまして、心肺蘇生を行って、いちおう心拍は再開したのですけれども、当初は自発呼吸もなくて瞳孔も散在しているような状況でした。入院後、時間の経過とともに自発呼吸も戻ってきまして、人工呼吸器から外れることはできました。ただ、脳波に関しては全く平坦で、大脳は活動していないだろうということは分かりました。
  そして、そういった経過が数日あったのですけれども、息子さんは、急変したときは、慌てて救急車を呼んでしまったけれども、よくお話を聞いてみると、お母様は、具合が悪くなったら、ポックリ逝けたらいいというようなことはおっしゃっていたそうなのです。そして、その後、娘さん、別に嫁いでいる方が来られて、なんで救急車を呼んでしまったのだというところで、少しコンフリクトが兄妹間で起きました。これは、よくあることです。
  そうする中で、結局、(患者さん)ご自身の呼吸はある。ただ人工呼吸器は外れたのですけれども、気管チューブを抜いてしまうと舌根が沈下してしまい、呼吸ができないという状況でした。実際に1回は(気管チューブを)抜いたのですけれども、うまく呼吸ができずませんでした。そのまま看取るというのは、なかなか現状ではできないので、もう一度気管チューブを入れた上で、今後は気管切開が必要だという判断になりました。しかし、その時も、以前お母様がお元気だったいろいろお話になっていたことが思い出されてくる中で、気管切開する・しないに関してご家族の意見が揺れました。数日間そんなお話をする中で、患者さんご本人が穏やかな雰囲気で、苦痛のないような状況でおられたということもあって、口から管を入れているよりは気管切開の方がいいだろうというところを徐々にご理解を頂いて、気管切開の許可を頂きました。それから2年半くらい経っているのですけれども、まだご存命でいらっしゃいますけど、目は覚めていない状況にあります。これが一例目です。
  それともう1つの事例も、84歳の女性です。しかしこちらの方は、ずいぶん認知症が進んでおられて、そのとき施設に入れられました。そういった方が施設の中で心肺停止の状況で発見されて、救急救命センターに運ばれて、心肺蘇生を受けました。この方も心臓は動き始めました。しかしこの方も同じように自発呼吸は、最初はそこそこ残っていていましたが、脳波は平坦という状況でした。
  意識が元に戻るのはかなり難しいけれども、人工呼吸器はとりあえず外れたというような状況になった時点で、当初からいらっしゃった長男の方と今後の方針をご相談しました。そして、もし今後、人工呼吸器がもう一度必要になった時に付けるか、あるいはそういった治療を差し控えるというお話をしたところ、その時は長男の方とは、差し控えるという話になり、様子を見ることになりました。そうしたところ、一晩は何とか乗り越えることはできたのですけれども、次の日の昼間、ですからちょうど呼吸器を外して24時間ちょっとくらいたったところで、やはり呼吸がかなりあやしくなってきてご家族をお呼びしたところ、長男と初めていらっしゃる長女の方がいらっしゃいました。長男さんは、やはりかなり動揺はされていておられて、昨日の時点で一日持ったらいい、もう付けなくていいと決めたけれども、まさかこんなに早く悪くなるとは思わなかったとおっしゃいました。長女の方に関しては、そんな話を聞いていないということで、やはり揉めることがあり、結局人工呼吸器をもう一度付けて最終的に気管切開を行いました。そして2ヵ月半位たったところで、人工呼吸器から離れることもなく、救命センターで亡くなられるという経過をたどりました。その間、長男さんは時々外してほしいというような意見を私に言ってきたり、長女さんは元に戻らないのかというふうなことを仰っていて、お二人に経過をご理解していただく上で、かなり難しいことがありました。
  2例あげさせていただいたのですけど、正直言うとこういったことが今の救命センターの中では日常のこととして行われていています。今、江口洋介がやっている「救急病棟24時」とか、ああいうかっこいいこともやってはいるのですけど、救急医が実際問題としてやっていることはというと、かなりの部分が、そういった高齢者の方あるいは意識のない方の今後どうするかというような問題に関しての家族間の意見調整、そして転院の調整ですね。
  今後、医療が進んでいけばいくほど、そういう方がどんどん増えていくということを考えると、ご自身の意思の決定がある方、出来る方に関してはもうとことん尊重して、どこまでもいろんな医療をいくらお金がかかろうが何しようが、やるべきだと私は思います。そのために社会がいろんなことを工夫していく方がいいと思います。ただ(ご自身で意思の決定が)できなくなったとき、どうするか(どこまで、治療していくか等)を考えておくこと、それも必要かなと思っています。
  また、事前の決定、それまでに話し合うことですけれど、完全に決めておくというところまでする必要はあるかというと、私はそこまで考えてはいません。いちいちテレビを見て、「こんな方がこういう亡くなり方をした」、あるいは「こんなに具合が悪くなって、こんなに頑張っている」云々という場面で、いちいち「自分だったらこうしたい」とその場その場で決める必要があるかと言ったら、自分の生き死ぬをその時その時に決めるなんていうこと自体、ギスギスして楽しい生活ではなですからね。その都度ナラティブとしていろんなことを語って、普通の会話として、家族の方の中に生きてその言葉が残っている。そして実際に意識がなくなってしまった時、 患者さんが残されたそういったいろんなナラティブをご家族が思い起こした時に、御兄弟とか私とか医療者は所詮他人ですから、関わることがなくて間に入るだけで、 患者さんが残されたナラティブを思い起こす中で、一番いいことを決めていけばいいのではないか。個人的には「自己決定権」という権みたいな堅苦しいことまで決めて、何かをやって事前の同意がどうしたこうしたということではなくて、もっと普通のコミュニケーションの中で決めていくべきではないかと思っております。


UP:20100218 REV:
「死生学と生存学――対話・1」  ◇生存学創成拠点・催・2009  ◇死生学  ◇  ◇安楽死・尊厳死 2009

TOP HOME (http://www.arsvi.com)