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討議1

立岩 真也清水 哲郎 2009/09/06
COE死生学+生存学シンポジウム「死生学と生存学――対話・1」 於:東京大学


討議

[立岩] 企画する側として、私も清水さんも話そうとすることを話せば長くなるのはわかっていながら、全体の時間を考えるとこの最初のパートは短くせざるをえず、清水さんには急がせてしまいました。すみません。いくらかでも議論できればと。
 3つ話があったじゃないですか。1つ目からいきますけれども、原理的に生の方が死よりも望ましいとは言わないというか言えないということに関して言えば、実は私もそれは認めてよいだろうと思っています。その上で、清水さんはどっちがあらかじめ良いというふうに決まってはいないとこから出発しよう。それに私も同意する。ここまでよろしいと思っています。そうすると、比較したときに死の方が生よりも良い場合もあり得るということで、それも理由いかにということです。そうした場合、清水さんが想定する生よりも死の方が望ましい場合もあるという場合とその理由というのはどういうことなのかというところから始めたいと思いますが、よろしいでしょうか。

[清水] その話をするときには、何を基準にして良い悪いを決めるかということについて議論しなければならない。何を基準にするか。その時にもし全く個人主義的な立場を取ってしまったら、みんなそれぞれ勝手に自分には自分の善悪の基準がある。例えば、ある患者さんが自分にとっては、死んだとか良いんだというふうに自分では判断している。もしそれがそれぞれの個人が自分にとって何が一番いいのかというのを個人が決めるということになっちゃったらという立場をもし取ったら、みんなそれぞれ勝手に文句を言いだしてそれでおしまいになると思いますが、私はそれはそうではないだろうと思うわけです。
 だからある種の公共的なというか、みんなで共通のこの我々の社会では◆飛ぶような考え方ということです。例えば、例えばですよ。相当厳しい障害があったって、その障害を持ちながらも生きていけるような社会を我々は作るべきだし、そういう社会を整えつつある現状である以上、あなたはもう死にたいと言っているけれども、生きた方がいいというような共通の価値観を我々は形成しつつあるのではないか、あるいは形成しなければならないというのが、一方であります。プラス、しかしそれでもあくまでもその各個々人が自分の場合はこうだということを言い続けた場合に、そこでその個々人の価値観、個々人の価値的な判断を我々みんなはどういうふうに受け入れるのか、それとも強制的にマイナスを言うけれども、我々の社会はそうはなっていないのだから、言っているべきだと言って強制的に生かすのか。そこのところが判断の分かれ目ということかな。ということになっているだろう。

[立岩] 今の話って2つポイントがあったと思うのですよ。まず、理由を問わずに本人がそう言っているのだからそれはオーケーにするという話はしないということでした。そうすると次に、理由が問題になります。それがさらに二つに分かれます。まず一つに、今の話だと例えば公共的な決定とか、みんながそういうような話なら納得するとかしないとか、そういう、ある種の決定の手続きみたいなもの、手続きというか決定のなされた方、みんながそれに納得したりしなかったりするというのがポイントなのか、それとも、そうではなくて、もう一つ、別の原理、測定や判断の基準があるのか。こうした点はどうなのでしょう?
 そして、それでもなお本人がいるときには、もう一度話が本人の方に返されるのか。それは、例えばたんにその人はずっと言い続けるからかということなのか。それとも、やっぱりある種の理屈が働いていて、その人が言っていることはそれなりに説得力があるのか、納得できるのかそういうことにおいてオーケーと言わざるを得ないという話でしょうかね。

[清水] そこは、実はその話がまだあんまりあちこちで言っていない。我々の中には◆道の倫理と医の倫理が併存しているという話を1時間しゃべらないと、説明ができないことがあるのですけれども、例えば今の公共的にはこうだけれども、個人がそれじゃ嫌だと言っている場合には、例えば宗教的な理由で輸血を拒否しているという例がわかりやすく、身近にあるわけでね。その場合には我々はこの人には輸血をしてでも生きるのがいいというふうに思っているわけですけれども、それは医療者たちがみんなその人たちと宗教的な信念を同じにする医療者が選ぶわけですけれども、本人が自分が宗教的な理由に基づいて輸血は拒否するという、それを強制するわけにはいかないなというような、あの感覚ですね。それがあるんじゃないか。もう一つは、例えば修行中のお坊さんが自分は修行の方を今の自分の体に見つかった悪性の腫瘍を治療することよりも優先する。自分にとって修行するということの方が人生の中で大事なこと、そのためにやっても自分としては本望であることを仰っているときにそれについてそれを、我々はというかどうか分からない、私だったらそれを認めるということになる。そんなような感じです。

[立岩] この話はほんとうに長くなると思うのだけれども、私自身も、例えば宗教的な政治的な信念であるとかによって死が結果するような行ないを敢えて引き受ける、そういったことの全部を否定できないのではないかなという気はしています。ただですね、この本で私が書いたことは、死を早めることを選んでしまう人たちにおける死の理由というのは、そういった、高級かどうか分かりませんけれども、そういった水準には存在していない。まずはもっと卑俗なというか、自分が生きてしまったら、これこれこういうことが起こってしまう、それを考えると、今のうちに死んでおこうかな。そんなこともある。そういった、例えば家族が大変だ、そういった理由で死ぬということを「はいそうですか」というふうに認められるかと言えば、それはそうではない。そういう意味では私の死の権利を否定することではなくて、こういう理由で死ぬ必要はない。こういう理由で死ななきゃいけないというのはおかしい。そういうことを結局言うべきだろう。そういう立ち位置なのだろうと思います。プラス・マイナスを勘案してという清水さんの主張はわかったとして、私には、死ぬことのプラスというか生きることのマイナスというものが、具体的になんだかよくわからない。もちろんそれは具体的に存在します。しかしそれはなくしていくべきだし、なくすことができるというふうに考えるわけです。すると両方を測ってという話は、あまりか、ほとんどか、しなくてよいということになります。

[清水] わかりました。その点について私は日本の現在の状況の中で我々はどう思うかということと日本のような経済的な余力がない国があったとしてその中でどういうふうに判断するのか。当然状況が違いますから、例えば日本の中で、ある患者さんが我々から見てまだいろいろ社会的成功率をサポートして、そして得た意味のある生活をこれからも送っていけるだろうという時に、もう嫌だとかもう家族にこれ以上迷惑をかけられないとか言ったときには、それはそうじゃないんだ。もっとこういうような形で生きていく意味がある制度ができるということを提示するという努力は必要だろう。そのためにも共同の意思決定、コミュニケーションというプロセスを経なければいけないだろうというふうに伺っております。ただそれはもしそういうような社会的なサポートをする程の社会的な力のない場所で、そういう国でそういうことが起こった場合に同じ状況の患者さんについてもその患者さんが自分としては遅れて生命維持を終わりにしたいですね。そういうことを認めざるを得ないような文化がある状況だってあるかもしれないということは、付け加えておきます。

[立岩] ある種の絶対的な資源の制約というか、客観的な条件の制約の下で、場合によっては救命の優先順位をつけなければいけないというがあることは、私もそれは認めてよい。認めざるを得ないだろう。ただ、絶対的な制約というものがいわゆる途上国を含めて、現に存在するのか、あるいはそうでないのかということは一考の余地があって、私はそうではないというふうに言い得る余地があると考えているということを申し上げます。
 清水さんのポイントは3点なんですよね。共同決定の話はたぶん時間的に無理だと思うし、あとで話が出ると思うから、それは今パスしましょう。2つ目の話なんですけれども、始めないこととやめることの間の違いがあるかについて。それは私も少し清水さんの議論に即して書いてますけれども、僕も違いがないとは思わない。場合によっては、すごく大きな違いがある場合がある。例えば始めないという場合には、死というのはそれも時と場合によりますけれども、ゆっくりやっていくということがあるんじゃないか。ただ、やめてしまったらすぐに死んじゃうということがあります。死の切迫性というかそういうものがずいぶん違うと思うし、その差異が人にもたらすものは大きい。そういう意味で不開始と停止というのは、大きな違いがある場合もある。
 だけれども、時と場合によってはほとんど同じである場合もあるということを私の本に書いたつもりなんだけれども、清水さんが以前書かれた『臨床現場に臨む哲学 II』でのロジックと、今お考えになっている不開始と停止、不作為と作為との差異のあるなしについてのロジックを少し違えたとさっきおっしゃったと聞こえたのだけれども、もう1回、というか時間がなくて途中になった思うので、その差異の一番基本的なところをどこに今置かれているのか。
 例えば、ナチュラルな生存の状態みたいなものを基準にして、そうした場合に不開始と停止が違うだろうというロジックは今は採用されていないと思うのですね。私はそう聞こえました。とすると、代わりにどういうものが両者を分け隔てる基準であるのかが大きなポイントになる。それをお聞かせ願えませんでしょうか。

[清水] 結局そのproportionalityというかこの道を選んだとき、どういう良いこと悪いことがあり、どちらの道を選ぶかが良いことがあり、悪いことがあるかというその考察に尽きる。それを抜きにして、差し控えを中止ということを抽象的に言ってもしようがない。そういう考えです。これは立命館に対して言っているのではなくて、別の人から言われたことに返そうということなので、立岩さんに特別に突っ込んでもらわなくてもいいのだけれど。

[立岩] 今の話、一般論としてはそういうことだとしか言いようがないのですけれども、それはたんにケースバイケース、ケースバイケースということじゃないですよね。そこに存在するプラス・マイナスを比較考慮しなければいけない。そうした場合には、違いが出てくることもある。それはもちろんおっしゃる通りだけれども、今の時点で一般論にできないのだとしても、やっぱりそのやめてしまうことと始めないことの間のよくある限界、よくあるからよく考慮しなければいけない大きな差異というものをどこに見込んでいらっしゃるのかなあ。

[清水] だからどこから何を現状として認めた上で、どこから出発するかですが、ナチュラルにはその人にどういう力が、例えば呼吸する力が残っているかどうかですね。支えないと生命的に生きていけないような状態かどうかというようなそういう話じゃなくて、いま現にどういう状態で生きているのかというところから出発して、方向転換をするのかしないのかということが、差し控えと中止の間には違いが生じることが多い理由だと。

[立岩] 今の話は結局まだよく分からなかった。

[清水] むしろ立岩さんはどうだとおっしゃってた?

[立岩] 少なくともさっき言ったように違う場合があるということは認めるわけです。例えばその死ということの重みとか切迫さとか、そういうことにおいては、随分不開始と停止は違うだろう。それは考慮しなければいけないと私は思います。ただ、その不開始というのと停止というのが、事実上同じ効果をもたらすということもまたありますよね。
 今挿管なら挿管しなければ、呼吸困難で3分後に死ぬという場合と、挿管して呼吸器を付けていたのだけれども、それを抜いたらやっぱり3分後に死ぬという場面があります。こうした場面について、私は、この両者、することとしないことが違うという見方をする立場には立ちません。
 もう一つ言わなければいけないことは、さっき清水さんが誰が敵なのかということを言ったわけで、そのことに関係があります。つまり、今ヨーロッパやアメリカでよくなされているというのは、次のようなものなんです。
 「治療・処置をしないことについてはそいうこともあってよいかなと思っていらっしゃいますよね皆さん。ではそういうことにしましょう。でも、死のために何か積極的なことする、例えば呼吸器を外すとか、薬を盛るとか、これも実は同じなんですよね。ですから両方問題ないのです、やってよいのです。」
 こういうロジックなんですよ。同じだから、両方○、かまわないというわけです。それに対して清水さんは、どっちかいうと○の場合と×の場合があるんだよというふうに話を持っていく。では私はどうかということですが、それは清水さんを引き合いに出している、もとは『現代思想』に載った文章に書いていることなんですが、さっき私が言ったような例に即していえば、たしかに両者が基本的には変わらない場合があることを認める。その上で、片方が×なら、もう片方も×だとも言えるのだと。そのように考えています。ちょっと分かりにくいところがあると思うので、後でまた議論に補足したいと思います。

[清水] そこのところでだからもし違いがあるとすると、そこで死を早めるという効果だけ取り上げて、良い悪いじゃなくてなぜ死を早めるということもあるけれども、しかし同時にこういうこともあるということを枚挙しないと、私としては良いとか悪いとかという話にはできないだろう。という違いがあるということだと思います。

[立岩] プラス・マイナスの全体を見なければいけないことであるとすれば、それはそうかもしれないと。ただ、私としてはそのマイナスというのがよくわからないというのが一つですね。そして、繰り返しになりますが、先程の呼吸器を付けるということと外すということに関して、もちろんその死の選択性とかその予期可能性とか確実性とかそういった意味で違いがある場面があることは認めるけれども、しかしそれ以外の場合に関して言えば、ほとんどシチュエーションとしては同じだという場合があるということを、私は言いたいわけです。

[清水] それは僕も認めるんですよ。だから付けないという選択はしやすいけれども、外すという選択はしにくいという話じゃなくて、例えば付けないと仰っている患者さんに対して、付けた場合にこういうような可能性があるよということが実際に提示できるならば、そういう状況では大いに提示して本人が決めたことだからとか始めているというのじゃなくて、周りの者としてこういうふうにサポートしてくれたらいい。続けてほしいというその説得と外したいと言う人がいたときにまだ社会的エスコートを充実させれば、こうこうこう言うならば、可能性があなたにはあるよということがもしあれば、それを説得する。その時の説得する側が説得するか話し合う側の思いというのは、違うわけじゃないんじゃないか。立岩さんが言っていることとあまり変わらない。

[立岩] 時間が過ぎたと思います。もう1回復習すると、世の中では付けないことは○だけれども、外すということは×だというふうに言われています。それは認められているという話はある。そうすると、それに対してある種のロジックで考えてみた場合に付けないことと外すことは同じであると、そこそこ説得的に言えるわけです。そうすると、ある種の人々は何と言うかというと、付けなくてもいい、付けないことは認められているわけだから、外すことは認められるはずだ。どっちにしてもオーケーだと言うわけですけれども、それに対して私は同じであるということは、一部認めてもいいけれども、それだったらむしろ外すということも×だし、付けないということも×だと、ロジカルには言える。そういうふうに考えたらどうだろうということを今後の本で書いています。というところだけとりあえず確認しておいて、この論点は後半にも関わると思いますので、いったんここまでで閉じておいて、後で再開することにしたいと思います。よろしいでしょうか。とりあえず以上で次に行ってもらいたいと思います。


UP:20100523 REV:
立岩 真也  ◇清水 哲郎  ◇「死生学と生存学――対話・1」  ◇生存学創成拠点・催・2009  ◇死生学  ◇  ◇安楽死・尊厳死 2009

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