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論点と論点はあるが通過されるという現況について

立岩 真也 2009/09/06
COE死生学+生存学シンポジウム「死生学と生存学――対話・1」 於:東京大学


 □HPに掲載しておいた資料

  こんにちは。立岩です。最初に話すことになりますけれども、中身の話はできるだけ時間を空かせて、後半の方というか私の後の方にいろいろしてもらって、議論できればとに思います。私はできるだけ手短に話の中身というよりは、外枠の話というか、横の話というか、そんなことをお話ししたいと思います。
  今島薗さんから紹介がありましたけれども、私たちは立命館大学のグローバルCOEということで「生存学」というものをやっていることになっています。とにかく看板を作れと言われて、苦し紛れに何か短い言葉で考えたときに「生存学」ということになっただけって言えば、なっただけでもあるんですけれども、ただそれなりにやらなきゃならないと思うことはやっているつもりです。
  大学院がもとになっています。その私たちの大学院というのは「先端総合学術研究科」というところなんですけれども、2003年にできたのかな。ですからまだ歴史が浅いのです。これから話をする大谷いづみさんは今我々の同僚というか教員としてこのCOEに関わってくれている人でもあるのですが、その大学院の第1期生でもあります。それから後でまた話をしてくれる川口さんはたしか2期生だったと思います。そうやって新たに始まった大学院をやっているわけですけれども、私も含めていろんな教員がいることもあるのでしょうか、病であるとか、障害であるとか、老いであるとか、あるいは性的な差異といったもの、そういったものに関わって生きてもきたし、そしてものを考えたいという人が思いのほかたくさん集まって、それだったら、なにか看板を掲げて、一緒にやっていくことができるのじゃないかということで、COEにも応募するということで、始まった。そういうものです。
  そして「障老病異と共に暮らす世界へ」という副題になっています。「しょうろうびょうし」というのは普通は「生」まれるところから始まるのですけれども、ここでは障は障害の「障」ということになっていて、異は、死の方は死生学におまかせということでしょうか、「異」なるという言葉で、「障・老・病・異」というふうに言っているんですけれども、そんなことをやっています。
  そして、身体の異なりあるいは身体の変化ということに関して、ものを調べたり、考えたりするということは、いかような、どのようなあり方であっても、とりあえずはかまわないというふうに一方では思っています。そして、なんらの実践的なというかあるいは規範的なというかものを提示することなく、しかしなにか学問的にというか、精緻であったり、体系立ったりしていて、なにか美しいものが書かれる。そういったアプローチというのも、もしそういうことできる人がいるのであれば、歓迎だし、かまわない。そしてまた私なら私なりにものを考えてきて、言いたいことはある。それと異なっても、もちろんそれもかまわない、歓迎という感じで、やってはいるのです。
  ただですね、やっぱりこの世で、この社会においてその身体を異なりというものに関わりながら、関わらせられながら、生きていくことの難しさというものが過去から現在に至って存在してしまっている。とすれば、そこの中でどうやって生き抜いていくのか、あるいは生きていくことを生きやすくしていくのか。そういうことに関わる様々を調べたり、考えたりする。そんな目論見を持ってやっている。そういう企画だということがまず一つです。
  そういう学問というのは、学問でなくてもかまわないのですけれども、あると言えばたくさんあったのでしょう。ですけれども、例えば私から見たときにまだまだやらなきゃいけないこと、やってもいいこと、やったら面白いことがたくさんあるような気がして、そういうことをはじからというか、一人一人がやりたいところからやったらいいだろう。という気持ちでやっています。
  今日、受付のところに置いてもらったこれがパンフレットになっています。それから、「生存学」で検索してもらうと、先頭の方に我々のホームページが出てきたりすると思いますから、それをご覧下さい。それから既に様々な成果物といいますか、そういったものが出ていて、今日作って下さったパンフレットにも出ていますけれども、『生存学』という雑誌を今年発行しました。これはお金を払わないと買えないものですけれども、やはり受付にあります。
  それから「センター報告」と我々は言っていますけれども、これまでに8冊の報告書を出しています。これは手にとって持って帰っていただくことができます。若干今日持ってまいりましたので、どうぞ。そういったものの案内というかチラシというかそういったものが今回作ってもらった資料集にあります。そんな感じでそこの中でどういったことが考えられたり、議論されたりしているのかという話を、おいおい今日の中でできればいいなと思っています。

  さてそんなことに関わっている私は、死生学とか死を考えるということはどういうことなのか、今のところわかっていない。それってどうなのよというのが、未だに私にはよくわからないところがある。
  死生学というのは、もとはというか日本に最初に入ってきたときには「サナトロジー」という言葉の訳語として入ってきたのだろうと思います。サナトロジーですから、普通に訳せば「死学」ということになるんだと思うのですけれども、そこはなんとなく日本人的なというか灰色の工夫というか、そんなことがあって「死生学」というのが80年代位に出てきている。ただ、今回の東大の方の死生学は、英語で言うと「death and life studies」というふうになっています。ということは、おそらくというかおそらくではなく、それとまた違うことをやろうとしている。けれども、そこでは何ができるのだろうかということは、僕はそもそもその死ということ、どういうふうに捉えたらいいのかというか何の言いようがあるのかというところが、わからない人間なので、今日何かいろいろ聞いたりして、話を伺ったりして、何か言えることがあったらなあと思っています。
  では、我々にとってというよりはむしろ私にとってということになりますけれども、死の問題がどんな問題としてあるのかと言えば、生の中にある。死を決めるというか死のうと思うとか、死にたいと思うということは、当たり前ですけれども、人の生の中にある。そしてそれはその社会というか世界の中に、生きている世界の中に存在するわけです。そのことをどう考えるのかというのは、実はそこそこ以前からの私が気になっていることではありました。
  そのことに関しては、今これから話に出るかもしれませんけれども、いろんな法律を作ろうとか学会でガイドラインを作ろうとかという動きがここ数年けっこう行なわれるようになって、そういうことを受けてやっぱりものを考えて、言っとかなきゃいけないこともあるだろうなと思って、そして考えてきたところがあります。
  これは、今日たくさん持ってきたのですけれども、去年『良い死』という本を出してもらいました。それからもう一つ『唯の生』という本を出してもらいました。最初の方の本では、今死ぬことというのが自分が決めることとして、そして自然なこととして、そしてまた他人を慮った時に考えられたり、そしてなされたりする。そしてまた、何かしらの資源の有限性という観念のもとで肯定的に語られるわけだけども、そういうことでよいのだろうかという、そういう問題意識というか気持ちで書いてみたものです。
  私の結論は、その各々に鑑みてみても、死を早くすることということは肯定されないだろう。それをきちっと言えていけるはずだという、そういうことになっています。ただ、どうしたらそういう話になるのか、その中身を話そうとすると、たぶん一日・二日かかるだろう話になってしまうので、後でいろんな人から論点が出たらそこで議論するとかお答えするという形で、すべて端折らせてしまわざるを得ません。
  もう一つの『唯の生』という本は、いくつかのことが書いてありますけれども、一つには私と同じようなことと言ったらいいのか、似たようなことと言ったらいいのか、ものを考えている人たちあるいはたいぶ違うぞと思う人たち、そういう人たちの議論を考えてみる。そういった側面があります。一つにはピーター・シンガーであるとかヘルガー・クーゼであるとか、どうしてこの話がこうなっちゃうのだろうという、そうなるはずがないのにという、そこのところを考えてみたら、こうなりましたところもあります。
  また何かしら私と共通の方角を向いてはいるのだけれども、ものを言っていく時にこういう言い方でよいのだろうかということを考えている。例えば、小松美彦がいますけれども、彼は、私の死、自己決定される死というものに対して、死の共同性ということを言うのだけれども、この、死を私が決めるということに関して、なにかしらすんなりと受け入れられないものがあるとして、その時に共同性という言い方でいいのだろうか、私にはそうは思えなかった。そこのところを言ってみようとした。随分前に書いたものの再録ではありますが。あるいは、これからお話しになる清水哲郎さんの議論に関してもだいぶ同じところはあるのだけれども、違うところもある。これも一つには共同的な決定とかに関わる部分ではありますけれども、だったら少し文句を言ってみよう。そういうようなことを2冊の本に書いてみたわけです。

  その中身はここではお話しできないことを申し上げました。最後にというか、最初の短い話の中の最後です。今我々はどういうところにいるのかという時に、考えていけば、考えるべき論点として現れてくるし、現れてこざるを得ない、そういう論点、争点というものがですね、なにかスルーされて次の話に行ってしまっている。そういう感がぬぐえないのです。
  つまり、なにか知らないけれども、この件に関してはどうやらこういうことになっている。「こういうことになっている」の、「こういうこと」がよく分からないけれども、その上でそれを臨床の場で応用する、実用化していく、あるいはその応用に向けて教育ということをやっていく。そういう流れのようになっているような気がします。具体的にどういうふうにどうなのかという話は、後で時間があったら話をいたしますけれども、そういうことになる。バイオエシックスというかたちでパッケージ化されたものですね。何かよく分からないか分かっているのか分からないのですけれども、とりあえずそれを受け入れた上で、それをいかにその場で使っていくかというそういう場面に移行してしまおうと。それでいいんだというふうになっているように思われてならない。
  そしてそれは、私が考えるに、随分危なっかしい話だなあと思えるのです。ですから、すくなくともこの件に関して言えば、死について決めるとか決めないことを考えるということについて言えば、我々の思考というのは、もう話は終わってしまった、だからそれを応用し、応用するために教育をしよう、そういう場面にいるのではないだろうかというふうに思うわけです。全般としてはそういうことになっている。
  だとすれば、それに対してそうではないはずだと、こういうふうなことが決まったかのようにされているけれども、しかしこういうふうにやっぱり違うだろうということを、私は私なりに、あるいは別の人は別の人なりに言っている。そういった仕事というものがもう一つ、もう一つというかこの話に関してはあるのだろうと思っています。今日の場合は、そういうことに関わる議論もまたなされるような場となってくれればなあと思っています。というところで、だいたい9分から始めたと思うのですけれども、今14分経ったところで、とりあえずこの話を終わらせていただきます。後で様々な中身に立ち入ったホットな議論ができればいいなと思っています。以上です。


UP:20100218 REV:
立岩 真也  ◇「死生学と生存学――対話・1」  ◇生存学創成拠点・催・2009  ◇死生学  ◇  ◇安楽死・尊厳死 2009

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