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「ハンセン病患者の生活戦略ーー日本と韓国におけるハンセン病患者の脱施設化」

吉田 幸恵

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last: update: 20240922

吉田 幸恵 2024/10/25-26 「ハンセン病患者の生活戦略ーー日本と韓国におけるハンセン病患者の脱施設化」, 障害学国際セミナー2024, 於:台北(台湾)
障害学国際セミナー2024障害学国際セミナー
障害学立岩真也

吉田 幸恵 2024/10/25-26 「ハンセン病患者の生活戦略ーー日本と韓国におけるハンセン病患者の脱施設化」

吉田幸恵

背景

本研究の目的は、日本と韓国におけるハンセン病患者の脱施設化の歴史を考察することである。これまでハンセン病患者は、国の政策によって強制的に隔離されてきた。方法は違えど、これは世界共通の「常識」であった。しかし、同じアジア地域であり、植民地という関係性であった日本と韓国では隔離の方法が時代とともに変化してきた。今回は、この過程をたどり、日本で一定度の評価を得た、韓国の脱施設化事業である「定着村事業」の現在について紹介したい。

日本

1907年に「癩予防に関スル件」(1907年法)が公布された。この法律は、放浪するハンセン病患者を隔離・収容することを主目的としたもので、ここからハンセン病患者の隔離政策が本格的に始まった。1909年には全国の療養所で強制収容が始まり、その後1931年に「癩予防法」(1931年法)に改正された。 らい予防法は、強制入所、退所制限、療養所長の秩序維持権限を規定し、療養所中心の医療を行うことを目的とした。実際、健康診断で医師から感染を広げる恐れがあると診断された患者は療養所に収容され、そこで余生を過ごすことが多かった。 癩予防法は1953年にらい予防法として改正され、同年の国際ハンセン病会議での報告により、ハンセン病が極めて弱い感染症であることが知られていたにもかかわらず、強制隔離、強制消毒、外出禁止などの条文が残された。1940年代に入ると、欧米諸国では特効薬プロミンの使用が普及し、開放外来治療(通院治療)に移行した。日本でも1948年に日本ハンセン病学会でプロミンの有効性が確認されたが、有効性を示す論文は軽視された。それどころか、治療を受けられずに彷徨う「彷徨えるハンセン病患者」を一掃するため、隔離が優先された。1980年代には人権回復に立ち向かう隔離された入所者の姿を報道され、広くこの問題が知られるようになった。そのようななか1988年に、隔離施設に通じる長島大橋が開通した。1995年、ようやく厚生省は「らい予防法見直し検討会」を設置し、法の廃止に踏み出した。この際、隔離政策による人権侵害に対して国家の謝罪と賠償をすべきだとの声も挙がったが、結局は法の廃止だけが決定され、1996年にらい予防法が廃止された。

韓国

韓国で本格的なハンセン病対策が始まったのは1910年、医師として来韓したアメリカ人宣教師が釜山ハンセン病病院を設立したのがきっかけだった。同じ頃、日本では1907年に「らい予防法」が施行され、国策としてハンセン病対策が始まった。当時、韓国は日本の植民地であったため、その影響を受け、1913年に「癩患者取締ニ関スル件」が公布された。すでに3,000人のハンセン病患者がおり、全員を収容する施設がなかったため、感染の可能性を減らすために、ハンセン病患者は在宅で治療し、ハンセン病でない患者は救助することを定めた。朝鮮人の同化政策を進めていた朝鮮総督府にとって、外国人宣教師は日本人の影響を妨げる要因とみなされており、朝鮮総督府が外国人をハンセン病制圧計画に関与させるべきではないという姿勢であったことがうかがえる。1935年には、「朝鮮癩予防令」が朝鮮総督府より発令された。どの施設にも収容されず、差別・偏見により家にもいることができなくなり各地を転々としていた、「浮浪らい者」は日本と同様に韓国でも問題となっており、この法により全国各地に散らばっていたハンセン病者たちは施設収容されることになった。この朝鮮癩予防令は1954年に廃止され、伝染病予防法のなかで、伝染力が低いと規定された第三種伝染病として扱われるようになった。90年間にわたる隔離政策を規定した法律を施行し、「隔離・収容」を推進していた日本と異なり、韓国では1960年代以降地域での自立生活を目指した「定着村事業」を推進していた。「定着村事業」とは政府が土地や家屋や職業を与え、施設ではなく社会で生活できるようにするための施策である。このように日本の植民地統治下ではじまった韓国のハンセン病対策は、比較的早い段階で日本とは違う道を辿ることになった。

韓国と日本の相違点

1960年頃からWHOは、ハンセン病を「外来治療で治し得る伝染病」であるとし、世界各国に入院が必要な場合以外、一般病院の外来で治療が受けられるようにすべきであると各国政府に勧告した。韓国政府はこれに従い、1963年に「伝染病予防法」を改正した。そして定着村事業がすすめられるようになった。この「定着村事業」は、朝鮮癩予防令の廃止とともに、「強制隔離されていた人たちを自立させる良策」である、と日本のハンセン病者をはじめとする関係者から評価されることが多い。なお、日本ではWHOの勧告を無視し、以前施設への隔離収容が続けられていた時代である。 しかし、日本においても定着村と似た試みは存在していた。「癩村」と呼ばれる自然発生的に形成されたハンセン病者の生活地区であり、1919年頃には全国に26ヶ所存在していたことが確認されている。1886年、群馬県草津町においてハンセン病者が一般の温泉客に混じって形見の狭い思いをするよりも、「湯の沢の別天地に自由の療養を営む方の得策なるを論じた」ことにより、ハンセン病者の「自由療養地」構想が唱えられるようになった。そこから生まれたのが「湯之沢部落」である。湯之沢部落は他の癩村と違い、出入りの自由や個々の患者の自由な経済活動が保障されていた点で韓国の定着村と類似していたともいえる。しかしながら、湯之沢部落は援助していた聖バルバナミッションの撤退により、1942年に解散となった。日本では韓国よりも早い時期に「ハンセン病者たちが自由に生活できる土地」を作る試みがあったが、その形成に失敗した。それは政府が介入しているか否かというところも大きい。

現在の定着村

日本での「定着村事業」の評価の高さの理由は、日本で約90年間続いた「らい予防法」により法律でハンセン病患者隔離されてきたからだ。しかし、実は韓国の「定住村」事業は1980年代から国の援助がなく、患者は自力で生活してきた。にもかかわらず、世間からの差別的な視線は変わらず、特に養鶏・養豚に力を入れて生計を立てていた。 それから数十年が経ち、全国の村は縮小し、入植者たちは高齢になったが、定着村を終の住処として生きていくはずだった。しかし、現在さらなる問題が起きている。政府は現在、かつての定着村を公園にする計画を立てているのだ。実際、2024年現在で全国の定着村の約7割はすでに公園化され、そこに住んでいた患者たちは近くに建設されたアパートに移っている。しかし、一部の患者たちが拒否したため、公園化されていない集落もある。長年病いと偏見に耐えて、なんとか生計を立てて暮らしてきたハンセン病患者にまた試練が襲ってきている状況である。日本から「羨望の眼差し」を浴びていた、韓国の脱施設化を目指した政策だったが、脱施設とは、単に施設を出ればいいということではなくて、その後どのような生活を送ることができるのか、患者たちが望む生活を送るためにどのようなサポートが必要か等を考えることである。一定度評価を受けた定着村事業はせっかくその土地に根付いた患者たちを追い出すという終焉を迎えようとしている。今後は韓国政府が最終的に定着村に住む患者たちの補償等をどうしているかといった点に注目しながら調査を継続する予定である。
*作成:中井 良平 
UP: 20240920 REV: 20240922
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