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「『分けること』のもつ意味――英日のインクルーシブ教育の比較」

堀 智久

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last: update: 20240921

堀 智久 2024/10/25-26 「『分けること』のもつ意味――英日のインクルーシブ教育の比較」, 障害学国際セミナー2024, 於:台北(台湾)
障害学国際セミナー2024障害学国際セミナー
障害学立岩真也

堀 智久 2024/10/25-26 「『分けること』のもつ意味――英日のインクルーシブ教育の比較」

堀 智久

■研究目的

 イギリスでも日本でも、インクルーシブ教育を求める運動は、すべての子どもが地域の普通学校で学べるようにすることを求めてきました。この点で両者は、「分けること」を批判してきたという点で共通しています。  しかし、イギリスと日本のインクルーシブ教育の様子を子細に見ていくと、「分けること」のもつ意味は、かならずしも同じではないことがわかります。端的にいえば、日本の方がイギリスよりも徹底して「分けること」を忌避する態度が見られます。  本報告は、このイギリスと日本の「分けること」に対する感覚の違いが、いったいどこからくるのかについて考察するものです。具体的には、「日本人・日本文化論」として著名な中根千枝([1967]2020)の著書『タテ社会の人間関係』の議論を手がかりに、イギリスと日本のインクルーシブ教育の特徴とその違いを浮き彫りにします。これによって、両者の「分けること」に対する感覚の違いがどのようなところから生じているのかを明らかにします。

■「分けること」に対する感覚の違い

 日本の就学運動において、もっぱら批判の対象となってきたのは、子どもを障害の有無によって「分けること」でした。子どもの就学先を普通学級、特別支援学級、特別支援学校に振り分けることが差別的であると考えられてきました。  確かに、イギリスでも、1980年代以降、特別支援学校の存在を批判し、障害のある子どもが普通学校に通えるようにするための運動が盛んになります。しかし、イギリスでは、インクルーシブスクールと呼ばれているような学校でも、「分けること」は日常的に行われています。  たとえば、ある最重度の障害のある子どもを受け入れているインクルーシブスクールでは、教科学習に取り組めないほどの重い障害をもっている子どもは、多くの時間をリソース空間で過ごします。具体的には、最重度の障害があり、発達レベルでは乳幼児段階の子どもなどです。こうした子どもは、音楽や体育などの一部の科目は、健常の子どもと一緒に学びますが、英語や算数などの時間は、普通学級とは別のリソース空間で学びます。  これに対して日本では、「通級」や「取り出し指導」という、障害のある子どもが普段は普通学級で学びながらも、一部の時間帯(あるいは曜日など)は特別支援学級に移動する学習形態についても批判されてきました。なぜなら、日本の就学運動では、「障害のある子どもを健常の子どもから切り離さないで、一日中普通学級で一緒に学ぶのが本当のインクルーシブ教育である」と考えられてきたからです。  このように日本の就学運動においては、「分けること」を潔癖なまでに忌避する態度が見られます。その一方で、イギリスの教育現場では、「分けること」に対する抵抗感は、日本ほど強くないようです。むしろ、インクルーシブスクールと呼ばれるような学校であっても、「障害のある子どもの教育的ニーズにしっかりと応えることが最優先である」という点から、リソース空間が必要だと考えられています。

■「資格」と「場」

 イギリスと日本の「分けること」に対する感覚の違いは、「日本人・日本文化論」の視点からも説明することができます。たとえば、中根千枝([1967]2020)は、その著名な著書『タテ社会の人間関係』のなかで、社会集団の構成の要因として、「資格」と「場」の2つの異なる原理が設定できるといいます。  大学の現場を想定してみると、教授・大学院生・学部生・事務職員というのは「資格」であり、〇〇大学の者というのは「場」です。とくに日本人の集団意識は、きわめて「場」においたものです。たとえば、日本人が他人に対して自己紹介するとき、記者であるとかエンジニアであるというよりも、まず、〇〇社の者という言い方を好んでします。ここでは「場」、すなわち会社とか大学という枠が、社会的に集団構成、集団認識に大きな役割をもっており、個人のもつ「資格」自体は二次的な問題になってきます。

■イギリスの学校:「資格」を優先

 この中根の分析枠組みをあてはめてみると、イギリスの学校では、子ども一人ひとりの属性である「資格」が第一に考慮されています。  イギリスのインクルーシブ教育では、子どもの多様な教育的ニーズに応えることが最優先に考えられています。たとえば、英語を第一言語としない子ども、学業成績下位20%の子ども、ギフテッドやタレンテッドと呼ばれる子ども、さらに障害のある子どもなど、さまざまな子どもの教育的ニーズが想定され、それぞれの子どもに対して異なるアプローチがとられています。また、最重度の障害のある子どもの場合、多くの時間をリソース空間で過ごしますが、これは学級という「場」の共有よりも、子どもの能力や特性といった属性、つまり、「資格」に応じた対応を優先した結果だといえます。

■日本の学校:「場」を優先

 これに対して、日本のインクルーシブ教育では、生活共同体である学級という「場」の共有が最優先に考えられています。つまり、普通学級に障害のある子どもがいる場合、その子どもの教育的ニーズに応えることよりも、子ども同士の関係性をつくることがもっとも大切にされています。  日本の学校では、学級が「教育空間」としてだけではなく、「生活空間」として存在しています。たとえば、日本の学校では、教室の掃除や給食の配膳は子どもたち自身が行っています。これに対して、イギリスの学校では、掃除をするのは業者の人です。学校給食も教室で食べるのではなく、カフェテリアで食べます。配膳をする人もディナー・レディと呼ばれる大人の人です。  日本の学級は、それぞれが排他的な独立性をもち、クラス担任と子どもたちの生活共同体として存在しています。たとえば、学級では、学級会や日直、〇〇係といった、子どもの集団的な自治が大切にされています。日本の学級が「生活空間」であるということは、学級の外部に対しては閉鎖的な性格をもっていることを意味しています。

■なぜ、日本の就学運動は「分けること」を忌避するのか?

 このように「場」の共有を前提とする日本の学級空間は、学級の内側と外側で「ウチ」「ヨソ」の明確な分断をつくりだします。  学級という生活共同体は、それ自体閉ざされた世界を形成し、学級内部に対しては、「同じクラスの仲間」といった子ども同士のエモーショナルな結びつきを要請します。結果的に、学級内部に対しては「ウチの者」、学級外部に対しては「ヨソ者」という意識が強く働きます。たとえば、中根は、「ウチ」「ヨソ」の意識が強く、この感覚が先鋭化すると、まるで「ウチ」の者以外は人間ではなくなってしまうと思われるほど極端な人間のコントラストが見られるようになると述べています。つまり、日本において「分けること」は、障害のある子どもが空間的に切り離されると同時に、「ヨソ者」扱いされることを意味しています。  もちろん、「ウチ」「ヨソ」は意識の問題ですが、ここで空間的な切り離しをしないことは、とても重要な意味をもっています。中根は、先に紹介した著書のなかで、日本では個人の生活が、集団から地理的に離れて、毎日顔を見せることができないような状況におかれると、集団から疎外される結果を招きやすいが、反対に、地理的に接近し、顔を合わせるチャンスが多いと、いやおうなしに集団の中に組み入れられやすいということを述べています。このことから、日本の学校では、障害のある子どもが「ウチの者」になるためには、普通学級に在籍し、子ども同士が毎日顔を合わせる必要があるのです。

■今後の日本の就学運動のゆくえ

 しかし、2000年代以降、(多くの場合、小学校中学年以降の算数の教科を中心としたものではありますが)日本でも習熟度別・少人数指導が導入されていくように、日本の学校でも子どもの能力や特性による差異的処遇が少しずつ取り入れられるようになってきています。また、2013年に障害者差別解消法が成立し、障害のある子どもに対する学校での合理的配慮は当たり前のものになってきています。  このことは日本の学校が、子どもの能力や特性といった「資格」を考慮した空間へと変わりつつあることを意味しています。この点で、日本の就学運動もまた、今後就学先の目標となる普通学級の様子が少しずつ変わってきていることから、こうした新しい教育観や能力観を念頭においた運動へと、その主張のあり方を変えていくことになるでしょう。
*作成:中井 良平 
UP: 20240919 REV: 20240921
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