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高木俊介氏インタビュー

20221219 聞き手:篠原史生・舘澤謙蔵・立岩真也 於: 高木クリニック

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高木 俊介氏インタビュー
2022/12/19 聞き手: 篠原史生・舘澤謙蔵・立岩真也 於: 高木クリニック(約90分)

高木 俊介 i2022 インタビュー 2022/12/19 聞き手: 篠原史生・舘澤謙蔵・立岩真也 於: 高木クリニック


舘澤:〔学会大会〕お疲れさまでした。

高木:いえいえ。

舘澤:あのシンポジウム(第55回日本病院地域精神医学会総会)でたしか、Kさんと。

高木:Kさんね、Kさんのね。

舘澤:Kさんと高木さんとで話していただいて。高木さんはよく言われる「精神病院なくなるべきや」と、「なくなったほうがいい」っていう話。

高木:なくさなきゃっていうか、「勧めない」と。

舘澤:一方でKさんは、地域にも精神科病院みたいなところがいっぱいある」と。具体的に言ってたのが、たしか訪問看護ステーションで大きくなったようなところであったりとか、あと最近グループホームとかも増えてきて、まさに「地域なんだけども病院のような施設」はもういっぱいできたっていう話もありました。話がそこからだいぶ飛ぶんですけど、これ前回のインタビューで聞いてたんですけど、1980年代に高木さんが、同じく病地学会で事務局をやられてた時がある。

高木:そうそう、86年か7年。何年だったかな、京都でまずあって、それで大阪で次やったんですよ。京都、富山だったかな? 大阪の前か。京都のぶんについてはぼくはほとんど知らない。

舘澤:高木さんが関わってらっしゃったのは大阪と富山の大会ですか?

高木:いや富山の大会の…金沢だったか富山だったかでやって、前の大会長にいろいろ引継ぎをしてもらいに行った覚えだけはあるんです。何年だ? 84年から光愛に行って3年ぐらい、87年から88年くらい。まあ大阪大会見ればわかります。

舘澤:高木さんが光愛に行かれたのって、

高木:84年。

舘澤:84年ですよね。入職されてすぐにそういう学会の仕事を。

高木:そう、2、3年で。「もうむちゃな話や」言うたら、「そんなものできるわけないだろう」と思うのに、「あんたならできまっせ」って院長から。今から考えると院長の親心だよね。なんかこう、「いろいろ顔見世する舞台を作ってやるわ」って感じだった。「失敗したらどうするんだ」だけど、事務局長。そこでいろんな人と知り合ったよね。

舘澤:たしかそういう話ありましたね。中核派の人とのお付き合いみたいな。

高木:それは病院でね。病地学会、学会のほうは、大阪全体で「大阪地域精神医療を考える会」っていうのがもうすでにそのころあったの。それをやってるのが光愛病院と泉州病院が中心だったんです。で、光愛病院と泉州病院の稲垣先生って人と、その光愛の貴島院長と医局が中心で、まず始まってるところがあって。で、光愛のまわりの新阿武山病院とかいろんな病院を巻き込んで。なぜその新阿武山病院という病院巻き込んだかっていうと、そこはアルコールの病院で、今道裕之。ってね、大阪のアルコール医療の天皇って言われた人が院長をやってて、それが光愛の院長と同級生でお互い仲良くて。満田学派っていう。大阪のアルコール医療っていうのはそのころすごく先進的だったんですね、すごい地域を大事にするということで。その地域の大阪の精神保健相談員からもう今道さんっていうのは、尊敬の的だったんだよ。藍野病院でやってたんですよね。で、その今道さんが、地域の保健相談員とか保健所とか福祉事務所の人、あのTさんもそう、Tさんもその時会った。タニグチさんとか熱心な、ほんと熱心な地域の人がいて。
 アルコール医療っていうのはそのころね、ちょうどそのころ「久里浜法式」いうて、「どん底を見たうえじゃないと医療にはつなぎません」いうのがだんだん主流になってきたのね。関西はそれとぜんぜん別で、「やっぱり生活みなきゃいけないじゃないか」いうことで、もう地域の保健師さんなんかはもう、酔っぱらってくだまいてて酩酊状態の人んとこでも根気よく訪問をしてたんだ。まあ言ってみれば、「あなたをこのまま死なせない」みたいなことをメッセージとして伝えていってて。今でいうハームリダクション的なこともやってて、考え方のなかにな。そういう地域の人たちを、もっと精神にも目を向けてもらおうということでその地域の精神医療を考える会っていうのを巻き込んで。その時いちばんテーマだったのはやっぱり解放化、病院の。開放化。ぼくはもう精神科医になった時には開放化運動が真っ盛り。ぼくが光愛行ってももうテーマは「どうやって開放するか」という。

舘澤:80年代の光愛病院はまだ開放にはなってなかった?

高木:開放したばっかりだったの。ぼくがちょうど行った時に4つ病棟があって、一つは古くから解放だったんだけど、一つ重症な人の病棟を開放化する、ちょうどさなかだったんですよね。で、その地域精神医療を考える会っていうのが学会の開催を請け負って、もう少しこの地域の人をみようと。その会で請け負ったんです。そのなかで事務局長いうのをやらされて。

舘澤:Aさんとかその時か。

篠原:大阪地域精神医療を考える会っていつからあるんですか?

高木:いつからかなあ? ぼくがもう来た時にはかなり大きくなってたから。いろんな人を巻き込んで。だから70年代の終わりからじゃなかろうか。会報があるわ。ぼくもうちを探したらどっかに古いのがあると思うんだ。若書きの文章もけっこういっぱい載せてる。ぼくも京都にはそういうのがあってないかな? 探し出してきてどっかにあればもう立命に寄付しちゃってもいいぐらいだ。

立岩:京大の精神科の学生なり何なりと光愛病院とのつながりっていうか。京大出た人たちが何個かっていううちの一つだったみたいな感じですか?

高木:一つだったんだけど、ぼくが行った時は全員府立医大だったと思う。全精連の関係じゃないかな。全国精神科医連合の…星野、渡辺、小川、みんな府立医大だね。それから一人、荒川ちゅうのがどこやったかな? 大阪医大かなんかや。荒川さんちゅうのがいきなりパレスチナに行っちゃったんだよね。ちゅうことで。いきなりパレスチナに行っちゃったんでぽこーんと空いて、で、いきなり「来てくれ」言われて行ったのが光愛病院なんだけど。

舘澤:来てくれって言われたのは京大から? 光愛病院から言われた?

高木:光愛病院から、まあ京大に…。星野が光愛病院の中ではいちばん外向けの外交の役割してた、星野征光。名前は聞いたことあるかもしんない? いちばん若くして精神神経学会の理事の役割をやってたっていうな。もう運動のために理事をやったような。

立岩:ぼくその http://www.arsvi.com/a/gift.htm 星野さんから資料をいただいたことがある。

高木:うん。もう資料魔。

立岩:『精神医学』か、学会誌ってか学術誌の合本したやつとか、そういうのをごそっと。星野さんから。

高木:そうだと思う。ものすごい資料持ってて、つねにこんなかばんでいっつも資料をこうやって(笑)。「なんでそんなん持ってんねん、星野さん」って、「これを持ってないと不安で不安で」って。

立岩:その雑誌の中にたしか「アルコール精神なんとか」っていう学術誌の合本されたやつもたしかりましたね。書庫にあるよ。

立岩:関西アルコール学会っていうのが。関西と関東で別れてる。

舘澤:関アル学会って昔やってましたね。

高木:関アル学会と久里浜を中心とした東京都でよくけんかしてるいう話を聞かされたよね。それで、その星野さんがいろんな人脈があるから。いちばんつながりがあったのがタハラさん、そこで開業してた。タハラさんなんだけど、タハラさんを通じてぼくに声がかかったんやな。で、3年。その学会がいつだったか…。80…90年にはなってないよね、80何年か。ほとんどぼくにとってはいきなりやらされて、「こいつこんな若くて事務局長としてやれるんだろうか」ってみんなに見られながら。でもほとんどはね、もうその地元の地域精神医療を考える会っていうのがきちんとまとまってたから、もうそこがぜんぶやってくれてぼくは飾りもんだったけどな。事務局長が飾りもんというひどい学会(笑)。そこで大阪の保健所の人たちや福祉の人たちとすごい顔がつながって。その1年ぐらいかけてずーっと会議してたから、どんな学会にするかっちゅうの。それをやるなかでつながった人たちがぼくのところに患者さんを送ってきたり、一緒に訪問したりしてるうち仲良くなって、ほんで「どんどん地域に出なさい」いうて、保健所の嘱託医とかに引っ張られて行ったんですね、それをきっかけに。おそらくそのころの話はあなたのところでしてると思うから。「初めて保健所に行ったら自転車の鍵と地図だけ置いてあった」みたいな。

舘澤:あ、そうなんですか。

高木:それ言ってなかった?

舘澤:そんなことは。へー。

高木:ほんともう、みんな訪問してたから、そのころ。保健師から精神保健相談員も。そのときあんまり相談員と保健師の区別もなく。大阪は府のほうの管轄の、だから高槻市とか吹田市とか、そういう府のほうは精神保健相談員をちゃんと二人そろえてた。その二人が、自分も動くけどけっこうみんな熱心で、保健師さんもちゃんと指導してたんだ。もう保健師とほとんど平等で、みんながそれぞれ自分だけで自分の地域を回ってて、その中で難しいケースとか大変な人だけを保健相談員が行ってた。すごい活発だった。で、なんとか入院させずにっちゅう。

篠原:私個人的に生活臨床をちょっと調べてたことがあって、今のその保健師とか相談員の話を聞いて思い出したんですけど、生活臨床っていうもの自体は1960年代のなかごろからじょじょに地域精神学会を通して全国に知られていってというのがあり、1970年前後で生活療法と同時に批判を受け、表向きではもうしゅっと消えていくように見えるんだけど、だけどその生活臨床を言ってた群馬を中心とした人たちは続けていっていたと思うんですよね。

高木:関東はとくにそうやな。関西はね、おそらくその息はあんまりかかってないと思う。

篠原:そうなんですね。石神文子さんっていうかたが大阪の相談員でいらっしゃって、一回インタビュー行ったことがあって。そのかたの話を聞いてると、そのかたは生活臨床けっこう勉強して関わっていたと、その全盛期の時は。で、今聞きかかったのは、80年代のその地域の保健師とか相談員たちの動きっていうのは、あまりその中では生活臨床がどうとかその話はなかった。

高木:なかったよね。むしろ生活臨床は保健師さん、精神保健相談員レベルだと、一度否定されたものだからやっぱり管理的になると思ってたと思うんだ。「中沢の精神保健100か条」とかがあって。それとやっぱり病院。「地域で生活はするけど病気は病院で治しましょうね」だったんでね。そこは大阪の相談員たちは超えてたね。ちゅうのはね、ぼくの見方なんだけど、これはやっぱりみんな「今道天皇」つって、アルコール医療ですごく指導されてたんですよ。だからね、入院っちゅうのはほんの一部だけ。生活のなかで。で、入院で病気が治るわけじゃないよっちゅうのはみんなわかってる。 だからね、ちょうどその80年代その時の精神保健相談員さんたちがぼくにいろいろ教えてくれたんだけど、教育してもらったんだけど、そのなかでいちばん印象的だったのは、そのころ24時間救急に応じる電話持ってるわけよ。「夜に自分にSOSの電話がかけてこれて、コンビニでめしが買えれば、地域生活は誰でもできます」っちゅう。[00:15:19]

一同:ふーん。

高木:それはそうだなあと思わされちゃったね。でも誰が24時間電話持つんだよって。でも持ってたんだから、あの時代はね。自分の範囲の保健所のデイケアに来る人たち、週一回の集まりに来る人たちが対象だったと思うんだけど。

篠原:そのころはだからやっぱり、保健所だとか相談員とかがその地域の精神障害ある人のケアっていうのはいちばん知っている、把握していて、それをそれこそ精神科医に伝えるというか。

高木:ぼくはちょうど若いし。

篠原:実態はこうなんだぞっていうのをっていう。

高木:若いしぼくには伝えやすかったんだと思う。ご指導いただいてたわけ、ずっと。
 だからもう、一日かけて入院の説得をするんだけど、本にも書いてるように最終的にはもう時間切れになって、もう明日には家を追い出されちゃうんで。納得しない人を強制的に連れて行くときに相談員さんが泣きだしちゃうんだよ。「あなたにこんなことをしたくなかった」って、タクシーの中でね。

舘澤:光愛で働いていらっしゃる時に高木さんが影響を受けた人っていうのはどういう方がたになるんですか? ケースワーカーの話とかはちらっとあったり、保健師さんの話もあるけど。

高木:ぼくいちばん影響っていう、今に至る影響はその精神保健相談員さんたちだね。彼女たち、ぼくが影響されたのがYさんとかね。あと、宅間の池田小事件の直後に池田に作業所作ったYさん。もうすっげ―元気な。その彼女のなんかは、やっぱりアルコール医療ではやっぱり患者が主体的に自分の病気も知って、医療をうまく利用していくんだと。なんで分裂病にはそれができないんだと。それは病気の説明をされてないからだつって、まずは分裂病いう病名を伝えましょう! 言いだして。そんなことできるわけないだろって思って。「分裂病言われただけで自殺するかもしれんよ」つったら、「そんなことないですよ」つって、自分の保健所のデイケアに来てるぼくの患者に「先生、あの人に分裂病と伝えときましたよ」とかって言うんで。そういうことをやりながらけっきょくその人たちが退院促進事業を作っちゃうんだよね、90年代になってから。その彼女ら彼ら精神保健相談員、80年代に活躍した人たちがある程度地位も得て実践もやるなかで作ったのが退院促進事業だった。それを大阪で何年かやって、それが全国に認められて厚生労働省が事業として取り上げたのね。
 だからね、厚生労働省が事業として取り上げたのはもう95年以降だったと思う、たしか。保健師法の改正95年だったかな。あれでそういう実践を知ってる人たちがもうみんな指導するだけの役割になっちゃって。引退もするし。保健所の機能が一気に落ちてるね。もうその時の人たちは今のことを嘆いてるわ、すごくね。保健所が病院を紹介する場所になっちゃってる。

篠原:精神科医として働き始めたのが1984年ごろ? 

高木:83年に京大卒業して、1年間研修医をやってて。研修医やってっていうのは遊んでたようなもんだけど。で、84年、宇都宮病院事件をきっかけに光愛へ行く。これはもう大学でおったらあかんと思って光愛病院にちょうど入ったんです。

篠原:ちょっと気になってるのが、1980年前後って国際障害者年があり、その当時の書かれてるものを読んでいると、いわゆる精神病、精神疾患っていうものが「病気」としての面と「障害」という面があるんだってみたいなことはそれこそ岡上和雄さんとかがそのころ盛んに言ってて。あとは、

高木:蜂谷さん。

篠原:そう、蜂谷さんですね。蜂谷さんがいちばん有名かもしれないですけど、言って。で、じょじょにそこからそういう認識があたりまえになっていったっていうのが、書かれてるものを見るとそう見えるんですけど、当時のその1980年代ころの空気というか精神科医たちの認識とか、それ以外の専門職と言われる人たち、パラメディカルと言われてた人たちの認識とか、一般の人たちの認識っていうのはどんな認識だったんでしょうか? その当時は。

高木:どうだろ。ただね、精神障害は…名前だけが精神障害の、ちょうどDSM-IIIっていうのが出た時に名前が「精神障害」になったんですよ。disorder(ディスオーダー)を「障害」にしたんだけど、本来の障害者の障害ってdisability(ディサビリティー)じゃないですか。その時学会がちゃんと考えて「障害」にしたかってぜんぜんそんなことなくて、あれはもうDSMの裏話があって、DSM-IIIを最初に…、あれDSM-IIIもdisorderっていうのを精神科ぜんぶに広げるいうことが画期的だったね。それをスピッツァーっていう人が日本に来て講演して、日本でもそれを訳すいうことになった時に、長崎大の中根さんちゅうのが座長かなんかで、その時にスピッツァーに訳を考えろ言われて、苦しまぎれに「障害」と出したんです。でもDSM-IIIが扱ってるのはメンタルヘルス全般のことだから、べつに障害者じゃないもんもいっぱい入ってるんですよね。日本語でいうdisabilityじゃない人もいっぱいいるわけですよ。なのにその全体を、disorderを「障害」と日本語で同じ「障害」に訳したもんだから、もうわけわかんなくなっちゃったのね。だから精神障害という言葉、日本語のdisorderという訳語の「障害」になじんだ医者にとっては、disabilityの「障害」となぜ一緒なんだってわけわかんないわけですよ。しっくりずっときてなかったはず。それで、「障害者ではない精神障害がいくらでもあるやないか」っていう議論がしょっちゅうあったし。それとやっぱり、医療への期待を。医学は手放せないし。だからやっぱり、いくら名前が障害者になったし障害者基本法もできたとはいえ、精神障害がふくまれてなかったじゃないですか。精神障害がふくまれたのが90年代でしょ?

舘澤:障害者基本法が1955年かなんかの時にようやく精神…障害。

高木:「三障害」と言われるようになったのは? あの精神保健福祉法? ちゃうでしょ? そのあとでしょ? あ、精神保健法ができて精神保健福祉法が三障害のあとでできたのか。ちょっとごめん、そのへんはみなさんのほうが詳しい。

舘澤:1987年に精神保健法で、1990年代に精神保健福祉法と障害者基本法。

高木:同時だった?

舘澤:ちょっと何年か…。

高木:あのとき、三障害にふくまれたいうことは家族会にとってはものすごい大きなことで、ものすごい希望だったの。医者にとってはわけわからない。

篠原:そうか、じゃあ80年代のその蜂谷さんとかがそういうふうに言いだしたそのころ、ちょうどそのころにすぐに何かそれが劇的に認識が変わったっていう感覚はなかった。

高木:まだまだその精神医療のなかでは「これは医療の範囲だよ」っちゅう。それはもうずーっともう、いまだに根深いよな。福祉の人の中にも「これは治療してもらえ」っていう範囲が、精神障害なんてすごい広いじゃないですか。でもその障害論を、障害者っていうことをきちんと考えれば、障害部分のほうが大きくて医療の役割は小さくなっていかんといかんはずだよね。だって、障害の支援をしたら病気良くなるんだもん。それがぼくが『ACT‐K(アクト・ケー)の挑戦』★に書いたこと。[00:25:25]
★高木 俊介 20080625 『ACT‐Kの挑戦――ACTがひらく精神医療・福祉の未来』,批評社,Psycho Critique 5,148p.

舘澤:80年代っていうと、家族会とかすごい頑張ってたじゃないですか。いろんなものができてきて、で、90年代に制度化されていくような。なんかすごい80年代ってぼくらから、今の実践してる現場の者からするとすごいちょっと…。

高木:制度化されてきたけど、80年代は制度に乗らないことばっかりだったわけよ。だから作業所が、家族会が作ったやつがひじょうに貧乏で、ほんまに袋貼りを100枚して10円とか、そんなことしかやれてなかったんやな。それから、グループホームなんていうのも制度としてはないから、病院や福祉が協力して「アパート退院」という。

舘澤:そう、今でも言うてるけど、アパート退院ってそのころ。そうですよね。光愛に高木さんいらっしゃったころっていうのは、その地域の保健師さんとか一緒に活動されてるわけですけど、高木さんがよくおっしゃる先生呼称の話ですけど、その時はみんなやっぱり「高木先生」っていう、

高木:うん、先生先生。

舘澤:やっぱり「先生」なんですね。

高木:先生呼称廃止は、ぼくがこれやりだしてから。

舘澤:なかなかやっぱりその、医療、とくに精神科病院の中のヒエラルキーってそんなに変わってないじゃないですか。だからそれは、ぼくなんかでもふだん働いてて、高木さんは「高木さん」って言えるけど、自分が働いてるたとえば病院の医者になかなか「さん」で呼べないよっていうのが。なんか…ねえ。

高木:それも医療のヒエラルキーの象徴だよね。ヒエラルキーをみなさんが支えてるんや。だって、医者が無能だっちゅうのは精神病院いたらよくわかるっしょ?

舘澤:(笑) そんな公言はできないですけどでも。でも精神障害のかたっていうのはやっぱり生活障害とか、医学モデルだけでは何ともならないので、

高木:何ともならないし、じっさいには医学モデルが担ってる部分ってほんと少ないと思う、考えれば考えるほど。ただ、ほんとにその鎮静という意味で、本来なら医学生活支援でやらなきゃいけないことを、そちらが医学にふってきとるわけ。鎮静というのは本来医学じゃないわな。本来は鎮静でしかないものを、抗精神病薬とか、抗幻覚・妄想とか言っとるわけよ。鎮静して幻覚を訴える元気もなくなった人たちのことを「薬で良くなった」と言ってしまう。それはもうぼくは、医学と福祉の共犯関係だと。

舘澤:確かに。「困ったら先生」って、生活の本来問題、しづらさの問題を先生のほうに何とかしてほしいとかっていうのはよくありそうですよね。

高木:ぼくが病院にいるころはもう病院がそれで、たとえば閉鎖病棟なんて朝行って鍵開けるやん?何がいちばんストレスかって、鍵開けた時に看護師さんの眼がぶわっと来て、「昨日の晩これありました!」「あれもありました!」って報告がいっぱい来るわけよ(笑)。「先生、何とかしてください」なわけ。そのさらに前はもっとひどくて、それ言う前に看護師が勝手に薬どばどば。研修医時代とかに当直に行ってたころは、朝起きるまで起こしてはくれないわけよ、ぜったい。朝起きたら前の晩に出した薬の処方を書かされんの。そういうのがあたりまえだったのかな。光愛病院なんかもそうだったんだけど、ぼくが行ったころには「そういうことはやめましょう」と。「医者がちゃんと起きるから」言うんだけど、なかなかそんなことでも通じないのね。夜中に医者を起こすのは看護の恥だと思ってるから。[00:30:25]

舘澤:さっき生活臨床の話したけども、生活療法批判ってあったじゃないですか。光愛病院はどうなんかなと思ったし、いわくら病院の前の院長はSさんで、その前にTさんっていう院長がいて、卜部さんってすごくいろいろ書いたものを残していらっしゃるかたで、けっこう生活療法のことを書いてて批判してたりとかしてるんです。

高木:そやね、生活療法批判は小澤勲も書いてる。洛南のさ。小澤勲がいちばんのぼくらのなかの理論派。で、金沢学会のころから共闘会議作って、そん中で反精神医学の本も書いてる。生活臨床批判つったらもう彼がいちばん。それは何かっていうと、生活臨床そのものの、つまり障害支援のための一対一関係のなかの批判じゃなくて、もちろん生活臨床のなかにはそういう面もあるわけよ、ただそれが実践されるときに病院での管理に結びついてるわけだな。管理と使役労働。それに病院の中でどんどん結びつく。結びつけるのにちょうどいい議論なんだよな。そこが批判される。批判されたほうにしてみりゃ「そんな理論じゃないや」と言いたかったとは思うんだけど、でも現実そういうふうにどんどん使われてる。

篠原:それは1980年代に入職されてから、病院のその管理、それこそ看護の体制とかを見ていたなかで、その生活療法批判とかっていうのは、じっさいにその現場で何か受け止められた変化があったっていうものなんですか?

高木:ぼくが行ったころにはもうすでにそれは終わってたと思う。それで、話だけはいろいろ聞かされた。ほかの病院ではまだ終わってなかったと思うな。少なくとも光愛・いわくらでは終わってて、たとえばぼくが行った数年前まではやっぱり食事になると当番があって、食堂の台拭きから何から、そういうきちんと…、それから配膳から何からそういうことはぜんぶ患者の役割で。ましなところではその役割したときにタバコがもらえたり、多少の金銭がもらえたり。だから生活療法の中ではトークン療法つって、病院の中で商品と引き換えれる病院内通貨みたいなのを作ってたところもあるよね。そういうものを貯めていって、「あなたはよく働きました」みたいな。それはもう病院の使役にちがいないからそういうことはやめよういうのがあって。烏山病院問題の時にひじょうに大きかったのな。その烏山病院問題が大きく取り上げられて、それが一つの生活療法批判の頂点にあったから、見よう見真似で関西…いわくらも光愛もやったっていう感じ。

篠原:その後入職された時には、もうそれは、

高木:もうなかったです。

篠原:変えていこうっていう動きのなかで、もう、

高木:いちおうね、やっぱり「入院生活は患者へのサービスだ。患者を働かせるのはおかしいだろう。だから配膳なんかでも手が足りなければ職員がする」と。

篠原:そのころ病院の労働組合とかの活動って、そういうのって何か関わってらっしゃらない?

高木:関わってた。なんかもう強制的に労働組合入ったから。いちばんそのへん詳しいのは、このあたりではAくんで。光愛では彼がずっと委員長やってきてて。光愛の労組はぼくは比較的ましだとは思うんだけど、いろいろやってたよ。光愛の場合は在日の人が職員にも多かった。だから指紋押捺反対運動にまで労組が関わってたね。ほんで、「職員の生活がよくならんかぎり、その職員が世話する患者の生活もよくならん」とか。で、「労組も医療内容に関わるべきだ」ちゅうのもやってた。ただそれがどこまで実現したかっていうのは。もうだから、労組がいろいろ…。たとえば光愛の場合、ぼくが行ったころはまだ電気ショックなんかやってて、「電気ショック療法はけしからんよ」は労働組合も言ったりしてたよね。なぜか。なんで、ぼくは「なんで労働組合はそういうことするんか、忙しいのに」とか。

舘澤:80年代もやってたんですね。光愛でやってたんですね。

高木:ぼくもやりました、だから。うつの人とか、対象者をきちんとやれば確かに効くけど、雰囲気としては「困ったらES(電気ショック)」「もうこれ以上やる手がなくなったら何でもかんでも電気ショック」っていうのがあって。で、ぼくはもう困ったと、困ったしもうみんなが疲れてしもうて、職員が、Aくんなんかもう途方に暮れとる時に、「よし電気ショックだ」っちゅったらね、奮起するわけよ。「高木に電気ショックをさせない計画を立てよう」って(笑)。見てたらそれでがんばって保護室から出しちゃったりしてるから「こりゃいいや」と思って、「やるぞ! 電気ショック」なんて言ってたけど。Aくんたちにとってはそれはもう組合活動と同じようなもんだね。病棟の中での医療活動もちゃんと組合員が主体的にやろうって。でももうくたびれちゃったと思う、そこまでやってたら。

舘澤:Aさんって、いわくらの労組にもずっと来てましたよね。

篠原:ぼくもAさんの印象は、労働組合の活動でのAさんしか知らない。看護師としてのAさんは今初めて。

高木:ぼくもいわくらでのお付き合いは医局での付き合いじゃなくて、労働組合の付き合いだった。

篠原:それはもう光愛にいらっしゃった時にはつながって、

高木:そうそうそう。光愛といわくらの労組と精労協っちゅうのがあって。それの飲み会が毎年1回ぐらい盛大にあったんだな、その時は。合宿して。

篠原:その時は京都精労協ですか?

高木:京都精労協もあったし、全国精労協もあった。

舘澤:京都精労協ってあったんですか?

篠原:京都精労協は全国精労協より先にあったはずで。

高木:ぼくの時はもう全国精労協ってあったな。それでなんか岐阜の病院闘争にまで行ったよ、駆り出されて。

篠原:岐阜とかじゃなかったかな。

舘澤:岐阜の病院。

篠原:岐阜病院ですね。

高木:なんかね、岐阜の。忘れたけど。

篠原:ストをやるのに応援に。

高木:そうか、ストの応援だった。もう忘れたけどあのころにぎやかな年代だったな。

篠原:光愛にいらっしゃったのは何年までですか?

高木:92年。

■京大

立岩:ぼくもそこちょっとおうかがいしたくて。京大に戻るわけですよね?

高木:戻るというか、ぼくは「京大に行くよ」っちゅってたんだけど、「京大戻れ」って。

立岩:それはどういういきさつであったり、動機であったんですか?

高木:京大のほうがね、ちょうどぼくが戻る時の前に病棟の建て替えがあったんですよ。それまで分棟式で小さな病棟で少人数の患者でやってたんだけど、その病棟を男子病棟・女子病棟の二つだけにする。で、大学病院として70床という、そのころおそらく日本の大学病院ではありえない病床数だったんで、病棟管理ちゅうことがすごく問題になってくるわけよ。で、そのころぼくより先にいたのが浜垣、丸井、岡江。で、もう一人の誰かが辞めたんだ。その4人が病棟、それぞれ男子病棟・女子病棟で4人でやってたんだけど、それが一つ空いて、病棟管理…管理というか病棟運営だな、病棟運営がちゃんとできる人を戻ってほしいっちゅう話になった。ほんで呼ばれたわけよ。それともう同時にね、ちょうど大学院大学を、大学院大学になって大学院も再開せざるをえない状況になってたんだな。それまで大学院。再開すればとうぜん教授派の人たちも入ってくるから、そうなったときに評議会運動を守ろうと思ったら自分たちも学問的な力もつけて勉強もせにゃいかんと。簡単に言うたら。「学問的な力」いうたらものすごい偉そうやけど、もう少し勉強するやつを連れてこいやっていうことで。ちょうどぼくが光愛にいたころから論文書いたりしてたから、「あいつならいけるだろう」みたいなわけ。

立岩:ということはその時期は、病棟の管理というか運営に関して言えば、教授会とかそっちじゃなくて、

高木:評議会。

立岩:評議会が公的な力というか、それを持ってたっていう。

高木:うん、病棟運営は持ってた。病棟改築の中心になったのも教授じゃなくて松本雅彦だったからね。

舘澤:え? 松本雅彦、松本先生はその当時京大の。

高木:講師だった。

立岩:名前としてわかるのは、松本とか岡江〔晃〕とか、そのへん。ああいう人たちが京大行って。

高木:そうですね。ぼくがいた時はちょうど川合仁がいて。でも川合仁は仙人みたいに引っ込んでたね。それからハタダとかナクラとか、そのへんはもう評議会運動以前から京大にいた人たちで。ものすごくアンビバレンツやったね、京大評議会運動に関しては。自分たちの研究ができなくなっちゃったっていうところと、やっぱり京大にいるには評議会に従わなきゃいけないみたいな、すごいアンビバレンツなところがあった。でも臨床はまじめにやってましたね。あと岡江、丸井ね。

舘澤:岡江っていうのはまだ今ご存命のほうの岡江先生ですか?

高木:じゃなくて。

舘澤:洛南の院長のほうの。

高木:岡江。ご存命のほうは「いい人、岡江」や(笑)。ほんまもんの悪やな。ええ意味での、力のある悪党や。あいつはすごかったわほんま。ほんとにああいうやつがいないと運動とかいうのはできないから。

立岩:その病棟改築というか改組というか、それはどういう道をたどるんですか? 京大のほうの。

高木:京大のほうは病棟を改築して二つの男子病棟・女子病棟になって。で、岡江・マルイなんか力のあるやつがぼくの前におって、そん時には「大学病院だけどもあらゆる患者をとる」と。だから中毒の人も、薬物中毒の人もいて、24時間患者をとるってやってたんです。大学病院でどうやって看護をそこまでっていうんやけど、それは悪の岡江と力のマルイで、看護の中でぶーぶー言うやつとかを抑え込んでたね。岡江なんかはもうスキャンダルをつかんでは悪いやつをつぶしていく(笑)。それと、病院自体がそうやって病棟が二つにまとまったことを機会に、病院自体もなんか精神科に理解を示したのか、いい看護を送ってくるようになったんです。それまではもう危険手当目当ての老人ばっかりで、しかもやっぱりどこの総合病院でもある程度そうなんだけど、病院で厄介者になった看護師を送る場所が精神医科なんだよな。だからぼくがはじめ京大に戻った時も、婦長とかがすごい良かったね。精神科婦長とかね。今でも付き合いがある。だから看護とそこは一緒にやってたね。それがどうなったかというと、やっぱりね、ハマガキ出て、ぼくが出て、ヨシオカ入ったけどヨシオカも出て、岡江が洛南に行って…ってやってると後継者が育たなかったんですね。だから病棟運営がものすごい粗雑になって、ぼくが外で見るかぎり粗雑だったし、もう京大の臨床力自体がどんどん落ちていってたな。一つは、ぼくが出る時に評議会は幕を閉じたんだ。

篠原:それは何年ですか?

高木: 2002年。大政奉還ですよ。だってそれまではぼくが人事権を握ってて。握っててっていうか、人事権を評議会の中で分け持って教授から奪ってたんだ。だけども大学院も再開して10年はなって大学院大学いうことになったから、精神科医局って意味がなくなるわけですよ。組織上はじっさいに精神科の病棟があるところに行く医者は精神科医局にいるけど、その医局の組織っていうのはもっと上の大学院の「脳何とか系」いうて、まったく別組織になってるわけ。脳情報科学系だったかな。だからそういう大きな枠組みのなかの精神科の一つになっちゃってて、医局として決められることはなくなってきたんですよ。だから評議会として医局をとっててもあんまり意味がなくなった。[00:45:22]

篠原:より上位の決定権が。組織として、仕組みとしてもう組み込まれた。

高木:そうそうそう。大学院がその上にあるわけ。広がってあるわけですよ。そこらへんがちょっとイメージしづらいと思うんだけど、じっさいに精神科という科があるわけだから医者はみんなそこの科でやってる科に属してんだけども、その人の身分ちゅうのは「何とか系の何とかかんとか」になるわけや。もうそのころには、その前の教授木村敏なんかはすごい人気あって。ここにいたるとぼくの悪口になっちゃうからならんようにするけども、悪い人たちじゃないんだ、けっしてな。だけどもその木村敏のような、学問が大好きだから、評議会の時もこっそりと木村敏の勉強会に出てたりするような人たちがわっと。ほんであんまりその、やっぱりね、ほんと彼悪い人じゃないんだけど、臨床に対するセンスがなかったり興味がなかったりするわけ。もう哲学書ばっかり読んでるような。とかもう、発達障害なら発達障害に興味あるけど、おまえのほうが発達障害だろうなあちゅうような人たちとか。そういう人たちがもう臨床で揉まれなくてもよくなってんだろうな。制度が変わっちゃってるから。で、もうどんどん臨床力落ちるし、これじゃあしゃあないっちゅうことで。もう評議会をこれ以上やったところで先はないだろうし、自分の人生がそもそもなくなるじゃんと思って、もう病名変更も終わったし、「出ます」っていうことで。もうぼくが出たらあと引き継ぐ人いないから、教授に「人事権をお返しします」って言った。

舘澤:それが大政奉還。

高木:大政奉還や。

立岩:その評議会解散と大政奉還と高木さんが京大から辞めるって、同時期じゃないですか。

高木:同時期いうか、もう辞めること覚悟で大政奉還したわけですよ。

立岩:もう辞めることを決めてその評議会をっていう、そういうことですね。

高木:そうですね。もうぼくが辞めたらあと誰もいないだろうと思うのと、ぼくは自分としてもこのまま大学病院でやることに何の意味も感じなかった。教授には、お世辞か知らんけどだいぶ引きとめられたけどね。だからまあ、能のない教授だったから、おそらくぼくがいなくなったら人事をできないというのがあったと思うね。じっさいにはね、みんなそれぞれ自分の欲望に従って動くから大丈夫なんだけど。

舘澤:その時の教授ってのは、木村敏?

高木:ハヤシっていうの。この人も人はいい。その前は三好功峰っていう老人精神医学。

立岩:少しわかった。その大学院大学の話と評議会の機能が落ちてく、力が落ちてくっていう、高木さん書いてあるんだけど、その感じがいまいちよくわかんない。

高木:100年史★に書いたやつ? 100年史にはもう当てつけのように書いてある。
★京都大学精神医学教室編 2003 『精神医学京都学派の100年』,ナカニシヤ出版

立岩:いまいちわかんなくて。まだ完全にわかってる感じはないんですけど、でもだいぶ「そういうことだったのかな」ってのはわかりました。

高木:もう臨床力はどんどん落ちてきたんですよね。だからもうそのあと、今はもうほんとに京大って箸にも棒にもかからん、力は、臨床。まあどこもそうなってるけどね、今。大学…いわくら病院にしたって。ぼくは「病院は短期間避難場所としてあればいいんだ」っちゅうのが精神病院解体論の、だったけど、今はもう病院は何のためにあるんだかわかんないよね。ほんとに大変な病状が悪いときに病状治してくれないし、休めばいいときに休ましてくれないし。これはもう精神医療全体、精神医学全体の力が落ちてきたわけだから。まず若い医者が病気すら診れないんやな。DSM-IIIとかそういうものに当てはめて、薬なんかも大雑把に鎮静させることしかほんとはしてないのを。診てないから。で、新しい薬がつぎつぎ出るから、今の若い精神科医って薬のそれぞれの特性をほんとに身に染みてわかってるって思えない。とにかく新しく出た薬をなんか使ってみて。

舘澤:高木さんはやっぱり薬自分で飲んだりとかされてたんですか?

高木:ぼくはそれはしてない。してる人もいたけど。中井久夫さんがしてるということでみんないっしょうけんめいしてたけど、おれはそんなことしてる暇なかったもん。月曜日病院出れなかったら大変だろうと、というのを言い訳にしながら、もう一つ言い訳で、もう一つは不遜だけど「これだけ患者さん診てたら自分で飲まなくてもわかるよ」って思ってたし、それはそんなに外れてないだろうと。



立岩:2002年に評議会解散込みで大学出て、それから20年は経ってるわけですよ。

高木:そっから2年は遊んだんですよ。

立岩:何して遊んだんですか?

高木:もうずーっと本読むか旅行するかしてたね。

立岩:医者稼業っていうのは2年間ぜんぜんしなかった?

高木:ウエノ診療所でバイトはしてたの。ウエノ診療所で最初は週2してたかな。でも医者って週2すればちゃんと稼げるんだよね。医者ってこんなんだと思ってさ。

舘澤:そのころからウエノに行かれたんですか?

高木:ウエノへ行ったのは93年。ウエノができた次の年か。京大に行ったのが92でしょ。ほんで93にウエノ診療所ができた時に誘われたって。すごかったもんね、その時ウエノ診療所って。精神科のクリニックなのにシャンデリアがあるつって。吹き抜けがあるっつって。こんな豪華なところで患者さん診れるってすごいことやろなって思って。まあじっさいすごかったよね、その時。最初はまだ全国、精神科診療所はほんと少なかったから、しかも統合失調症中心にやろうなんていうのは、それまでの浜田晋さんのとことか大阪のいくつかのとことかしかなかって。しかもデイケアができたばっかりだよね、デイケアもやるつって。もう全国から見学いっぱい来てたね。

篠原:診療所はそしたら今のお話だと、90年代以降に増えていったなっていう印象ですか?

高木:そうそうそう。だからウエノ先生がやり始めてしばらくしてからとつぜんブームになって。95年以降だよね、きっと。それは何がきっかけなのかな? 診療報酬…デイケアだ、やっぱデイケアだ。診療所にデイケアができるよっていうのは聞いた覚えがある。

舘澤:90年代はいわくら病院もどんどん先生が抜けていって。

高木:そのころだから、デイケアもあるような、精神医療の人を診る診療所だったじゃないですか。90年代の終りぐらいから2000年から増えだしたのはもう神経症圏って言われる人たちを診る、うつ病を診るとかね、ビルの一室で。それからがうなぎのぼりやな。今はそのデイケアもあって精神病の人を診ようとした診療所がそれ以上に伸びなくて、じゃあこれからどうやって維持するんだって必死な時代に今なってる。広げ過ぎちゃって維持できなくなってきたのね。

立岩:もとに戻して、ウエノさんところでバイトっていうか、勤めながら2年間は過ごしてた。そのあとどうなるんですか?

高木:そのあとすぐここを開業した。2年間で、最初とにかくいやだったんですよ、もう精神科やるのが。光愛病院のいわゆる単科の精神病院で、しかもまだ80年代の大部屋でけんかばっかりやって。病気を診てんだかけんかみてんだか、看護の暴力を抑えようとしてんだか、わけわからん。それなりに臨床おもしろかったけど、そういうのをやって、京大病院に来て、大学病院もそんな似たようなもんで、看護の暴力もあるし。そこへもってきて評議会のごたごたじゃないですか。で、「もう精神科改革運動は終ったな」って思ったから。で、「何をくよくよ 川端柳 水の流れを 見て暮らす」なんつってやってたわけよ(笑)。で、「見るべきほどのことは見つ」って年賀状に書いて送ったら、神戸のがそれを、『平家物語』の平知盛が自害する前の辞世だっつうの知ってて慌てて電話かけて来てくれたの。「まだやることはあるはずだ」って。(笑)

舘澤:それ2年間、

高木:ほぼ2年遊んでた時にね。だいたいぼくのその読書の、哲学とか社会学とかの知識っていうのはその時に仕入れた。大学行こうと思ってたの。もちろん教授とかじゃなく、教えるほうじゃなくて勉強しに入り直そうかなと思ってた。だからあんたが入ったのわからんわけじゃない。

立岩:たまーにいるよ。今もでも精神科医、ここ大学院来て博士号取ってっていうのいるよ。児童精神医学のね。あ、二人いるわ、精神科医、大学院出た。一人は精神分析のほうですよね。

高木:精神分析の人はとくにそうやね。一回どっかで大学に入り直したりしてな。でもまあその決心もつかずに。ただ遊んでるのがおもしろかったしね。まあ裏の話にはほんとにその、そんな勉強の話が表だけど、裏はさ、時間たっぷりあるから女の子と遊びまくれるんですよ。1年半ぐらいしてかな、ちょうど2003年の暮れぐらいにACT(アクト)っていうのが日本に紹介されたんですよ。ほんで、厚生労働省がACTの試行事業を日本でやるからっちゅうことをしたのを上野先生が見つけてきて。「おまえいつまでもばかみたいに遊んどらんと、こういうことをやってみろ」とか言われて、「あ、これならおもしろそうだ」と思って。

立岩:そういう順番なのか。厚労省のどっかにそれが書いてあったのを上野先生が見っけて。

高木:そうそう、厚生労働省の精神医療…検討会みたいなのがずーっとあるやない? あれの中の地域検討の中にACTっていうのがあって、ACTを試行事業として市川でやるからっちゅうので。ほんで、「お! これは」と思って市川の準備室に見学に行って。そしたらやっぱりその時にはすげーこう熱意のあるコメディカルのきらきらしたやつらがいっぱいいて。飲んで遊んでるうちにね、「自分もやらなきゃなあ」って。でもおれきらいじゃん、厚生労働省とか。「おまえら雇おうとしてるけど、ぜったい梯子外されるよ」つって。「ぼくはぜったい自分の力で金稼げるような方法を見つける!」ちゅうて。で、いろいろ調べてたら…いろいろやったんだ、その時。川合仁のとこにね、その時開業してたウエノのおっさんとこに開業してる人たちをいっぱい集めて。で、「あんたらのところでやれなくなった人を訪問するから、毎月10万円診療費としておれにくれ」つって。そしたら最初みんな「いいね!」っちゅうんだけど、いざ「じゃあ」って具体的な話になったら誰も「うん」って言わないんだよ(笑)。で、調べてたらちょうど老人医療が、老人の在宅がちょっと出かけたころだな。で、精神科では誰も言ってないけど、ほかの医療の雑誌なんかもぜんぶ調べたら「これからは在宅医療の時代だ」みたいになってて。制度としてはまだなかったんだけど、みんながんばって朝から晩までやる人はやってたみたいで。たとえば患者に来られちゃ困るから、うちもその時の話で、こうやっていつも鍵が閉まってて看板出してないんだ。来られたときに医者がいないって言われたら、そんなん訴えられるじゃんね。だからだめなんだけど、そのころの内科医はドアロックのあるマンションの何階かの自分の部屋のドアにだけ「診察日」って掲げてるとかな。ほかにはぜったい教えない。

立岩:来ないようにね。

高木:うん。とか、診察時間が朝の6時半から7時半とかね(笑)。そういう工夫をして、患者がとにかく来ないようにしていっしょうけんめい訪問してたらしい。 そこまでしてやるんだったら、しかも「これから在宅医療が大事だ」とか「老人が増える」言ってんだから、これは制度としてぜったいどっかでできるだろうと。それまでの我慢だと思ってはじめた。

立岩:それって経営的っていうか、診療報酬もらうぶんにはそれはそれで何とかなるもんなんですか?

高木:往診料っていうのはあったわけ。往診ができた。一人の患者さんを毎週行ってたな、その時は。毎週行けばそれだけでも880円かける4になるから、3万円ぐらいなった、一人。で、自立支援医療使えば大丈夫だった人たちだから。それにそのころは精神療法つけることできたから、一人の患者さんで4万円ぐらい単価出たね。何とかかんとか。そりゃもう患者さんの数は増やせなかったわ。毎週行かなきゃそうならないから。だけど幸いなことにね、訪問看護ステーションはもうすでに内科ではもともとできてたんですよ。で、訪問看護ステーションは看護師が自分の力で稼げるようになる。もう、「これだ!」と。そこにいわくら病院でずっとやってたIっていう、いわくらの開放化をやる時にウエノ先生とがんばった看護師さんが来てくれて、なんとかやれた。で、次に大迫が来て。3年ぐらい経ってからかな、やっぱり予想通り在宅医療っちゅうのが制度になって、往診じゃなくて定期的訪問をすれば往診料にプラス管理料っていうのがつくんですね。それが大きいですね。そっからでも逆に訪問医療がむっちゃくちゃ増えちゃったわけですね。むっちゃくちゃ増えるなかで、同じアパートに患者みんな集めて、そこに行って1日50人とか訪問するとかいうのが出ちゃって、値段もちょっとずつ下げられて。

立岩:それおもしろいね。〔研究〕やんない? 訪問医療が医療としてっていうか、商売としてというか、そこそこぎりぎり成り立ってやってた時代から制度化されて、ある種バブルっていうか大きくなって、で、またこう締められて。

高木:内科のほうはね、苦労してるからね。

立岩:そのテーマっておもしろい気がするな。そこをちゃんと調べるっていうのは。

高木:精神はね、そんな訪問行ってる人そんないないし。それとね、これ内科とのいちばんの差は、内科医さんは認知症老人いくらでもおるわけよ、地域に。認知症じゃなくても訪問の必要な人が。だから自分の周りだけでじゅうぶん成り立つんですね。精神科は訪問が必要な患者さんがまだみんな病院の中じゃん。だからさ、ぼくが経営的に自分のクリニックを何人か雇っても成り立たそうと思ったら、患者の数を増やすには、やっぱり山科から、右京から、岩倉から、東寺のあたりまでぜんぶ行かなきゃいけないわけよ。そしたら移動時間だけでも大変。[01:04:19]

篠原:始める時にどっか見学に行ったりとか、じっさいにもうすでにやった人たちでこういう人に話聞きに行ったりとか、そういうことはあったんですか?

高木:ないね。もうぜんぶ自分で考えて。あとは本とか雑誌で見る在宅医療の人どうやってるかとか。一度だけあの人に聞いたよな、早川一光に。早川一光もずっとラジオによく出てたから、ずっと。聞いたらね、「そりゃええなあ」言われて。「京都はな、うなぎの寝床だから、そこに訪問行って…いちばん最初はね、往診とかいって行くとぜったいに窓、扉を開けてくれない家はハンセン病やったんや」って。で、「自分の時代は、自分がわらじ医者として訪問してもぜったいに家の中見せてくれない人は結核だった」って。「今は精神科の患者さんがいますよなあ」つって。そしたらほんとにいた。なかなか入れてくれない、家の奥のほうに閉じ込められてて。

篠原:ラジオ出てらっしゃったのって期間長かったんですか?

立岩:早川さん、すっごい長い。早川さんはレギュラーの番組を持ってたっていうことですよね。

高木:そのレギュラーのラジオの朝の番組に医療相談として。精神科的な相談があまりに多いからいうて、

篠原:いつから?

高木:いつかな? ウエノ診療所行ってるころだからだいぶ長い。

篠原:90年代?

高木:90年代。

立岩:高木さんがその番組のそこのとこのパートを担当してたっていうこと?

高木:パートというか、精神科的相談が来るとぼくにお鉢が回ってくる。

篠原:なるほど。じゃあ必ず毎週毎週じゃないが、ときおり声がかかり、

高木:そうそう。「精神科の相談がありました」つって。

篠原:精神科担当みたいな感じでちょいちょい出ていた。それが何年ぐらい続いた?

高木:覚てないけどなあ。それが朝が早いんだ。

立岩:そうそう。6時ぐらいやってんだ。ほいでね、なんか早川さんのファンみたいな人がいてさ、なんか大阪のほうから自転車こいでくる、70ぐらいの人が。おじいちゃん、おばあちゃんが座って待ってんだ。なんか早川ファンクラブみたいな早起きクラブみたいな。

高木:ほんでそこでなんか、「ぼけない体操」とかってやるわけじゃないか。精神科の相談のときはぼくもそれ行って、ぼけない体操を朝から(笑)。なんでおれが朝の6時からこれに付き合わないかんのやっちゅう(笑)。

篠原:それは開業した時はもう行ってなかった?

高木:もう開業してからは行ってない。もうかんにんつって。

篠原:開業する前の段階までだから京大にいたころ。そこにつながるんですね、なるほど。

舘澤:それは何か記録に残ってるんですか? その高木さんが、

高木:ラジオに出て? KBSに聞かなきゃわかんないなあ。

篠原:音源はあるんじゃないですか。

高木:早川さんが死んじゃったからねえ。早川さんがまだ生きてれば、もうやっぱり早川さんを立てるそのファンで、自分は早川さんを出すためのプロデューサーみたいなんがいて。

立岩:そうそう。たぶん毎週やって、1000回やったか、それを目指すみたいな。1000回を目標にやってるみたいな感じだったと思う。それでやっぱり入れ込んでるディレクターみたいなのがいて、だからそれをうまく見つければ、あの番組、長寿番組の(笑)。

篠原:けどその番組自体があれですよね、研究対象に。

立岩:研究対象になるよ。

篠原:なりえますよね。だってそんだけやってたんなら、そんだけ変遷ぜったいあるじゃないですか。そのときどきの。

舘澤:KBSの知り合いがいたら。

高木:早川さんはあの時代の人だから「認知症は体操で防ごう」とか言ってがんばっとったけど、じっさいには認知症の会の家族とも関わっとるしね。やっぱり草分けだからね、往診の。京都の在宅医療の。

立岩:娘の一人が西沢いづみってさ、うちの、ここの大学院出て本書いた人ですよ。長男は何とか医科大学、福島かなんかだったけど、医者ではないんだな。だけど今立命館、地域医療何とか、研究センターみたいなのにいるよ。そりゃちょっとあまりにエピソードやけど。でもさっきずっとおっしゃってたそのACTのお話もふくめてその経緯であるとか、それからその在宅医療、精神のほうの訪問っていうのがどういうふうに成り立ってきて、どういう経緯かっていうのはじゅうぶん。そりゃ誰かほんまにちゃんと調べてほしいわ。

舘澤:その制度的なとこを、

立岩:舘澤さんそれしいな。

舘澤:ぼくがやっていいですか?

篠原:舘澤さんしないんならやりますし、やるんならやってください。

舘澤:高木さん、たしか1年前にインタビューさしてもらった時に、ACTの研究をしてるっていって、誰やったかな? 福井の、

高木:福井のこんちゃん。(01:10:48)

舘澤:そのかたもACTの研究されてて、どういう研究をされてるんですかね? 看護の人ですか?

高木:ACTの訪問看護の質的研究や言うてました。ちょろっとインタビュー受けて。ぼくもインタビューこの前された。まだしつこくやってる。

舘澤:質的研究ですか。それはどんなことをインタビュー?

高木:もうありとあらゆることインタビューされた。基本はやっぱり患者さんと、利用者さんとどう関わってるのかっちゅう。医療内容やな。

舘澤:臨床的なほうなんですね。でもちょっと制度的なところ誰かがちゃんと書いといたほうがいいですよね。

立岩:ぜったいそれはしといたほうがいいよ。

高木:ACTと名乗ってるところがいろんなやり方してるから、制度としてのACTがないんだね。ふつうに、診療所に来れなくなった人を診療所から訪問してるだけっていうのはけっこうもう増えてきたと思うんだけど。ウエノ診療所もやってるし。この前は日本評論社から青木藍さんちゅう医者が本出したよね。書評書いて今日送ったばっかりなんだけど。クボタクリニックっていう東京の錦糸町にある大きな精神科クリニックあるんよ。ものすごい大規模にやってる。そこが、「やっぱりこれからはアウトリーチだ! 訪問だ!」つって医者を雇って行かせてるんだけど。

舘澤:アウトリーチ学会っていうの、ね?

篠原:もともとはACTのやつですよね。アウトリーチネットワークでしたっけ?

高木:やってますよ。

舘澤:あれなんかはけっこうみなさん盛況やった感じがしたけど。オンラインのね。おもしろかった。

高木:今、アウトリーチいうだけでもやっぱりみんな興味あるからね。とくに訪問看護ステーションが増えたからな。内容はひどいのが多いけど。

舘澤:そうなんです、そうなんです、それ聞きたかったんですけど、むちゃくちゃ増えてるじゃないですか、この何年間か。訪看も。前は訪問看護を頼むっていったときにすごい苦労したんですよね。基本的に精神科の病院も訪問看護をやってるとこ多いじゃないですか。いわくら病院でも訪問看護ステーション三つか四つぐらい作ってるけど、でもそこに頼まんでもいいぐらい地域にいっぱい訪問の看護ステーションがある。

高木:すごい、いちばん儲かるからね。ちょっとぼくお金のことわからんから聞くけど、彼所長やから。精神科のあれ資格があるんだよね? 精神科訪問看護。研修に行って。だから訪問看護ステーションの上に精神科医の専門分野があるな。それの加算があるよな?

舘澤:加算があるんですか?

篠原:そうですね、精神科訪問看護は。そうですね、義務研修と。

高木:それで訪問看護ステーション自体がそういう研修受けた人をちゃんと雇っていれば、精神科訪問看護としての加算があるんだ。

所長:それはちょっと…。

高木:加算があんねん。

舘澤:ふーん。ぼくの知識では加算のことは知らなかったんやけど、誰でも行けるわけじゃなくて、精神科の経験のある、

高木:行ってもいいんだけどね。行ってもいいけど。

舘澤:行ってもいい。そうか、点数がちがう。

高木:うん。精神科訪問看護いうのはほかの訪問看護より儲かるはずなんだよ。だから今、精神科を名乗る訪問看護ステーションがすごい増えてて、ふつうの一般科しかやってなかったとこも「精神も行きます」「精神も行きます」つって。

舘澤:だいぶ行ってくれるようになって。

高木:行ってくれるけど内容はひどいよ。

舘澤:そうですね。

高木:行かす必要ないと思うんだ。ヘルパーでいいじゃんって。

立岩:舘澤さん、阿部あかねは知ってんだっけ?

舘澤:はい。阿部さんはいわくら病院にも来られています、毎年。実習指導で。

立岩:彼女が訪問看護をいわくらでやってたって、だいぶ前やと思うよ。

舘澤:院生のころですよね。

立岩:うん。その古い話、今どきの儲かる訪問看護の前の訪問看護の話とか聞きたかったら、阿部あかねとかに聞いて。今、佛大の看護の教授なんだけど、あのへんに聞いてみるっていうのもおもしろいかもしれない。いずれにしろ、その訪問看護であるとか、精神のほうの訪問医療、それはほんま誰かちゃんと書いてほしいわ。

高木:精神科の訪問看護の変わり目になったのがね、何年ぐらいかな、10年ぐらい前なんだけど、「二人訪問」っつうのができるようになってん。複数訪問。それは精神科をいっしょうけんめいやった訪問看護のためじゃなくて、一般科の看護師が精神科を行けるためにするように。つまり、「精神科は怖い」っていう偏見のために広まらないんだと厚生労働省の研究班で、Kさんにがいっしょうけんめい言うて。

舘澤:看護の人?

高木:そう。ほんで複数訪問認めさしたんや。もうそっからや、変わったのは。短時間訪問ももしかしたらそれ関係あるかもしれない。ぼくが覚えてるのは、ぼくもいっしょの研究会で意見求められてるから、ぼくが二人で行くようなことをしたら、そりゃもう力関係が、臨床の力関係が崩れるし、それに一般科の人たちが二人で行ったところで、精神科の経験ない人が二人で行ったところでいい看護できるわけないじゃんいうので反対したんですよ。でも説得されちゃったんですよ、その時に。

立岩:そのへんのさ、いつ厚労省の話題になったとかって、議事録的なものとか探せばあるはずやろ。そんなのぜんぶ調べて。役所はこういうふうに思ってた、看護協会はこんな感じやった、高木さんはこんな感じで、ごちゃごちゃごちゃごちゃなって、ああなってこうなってって。

高木:看護協会のその作戦な。Kさんは自分は精神科の看護師やから「精神科の訪問看護を少しでも広げたい!」という思いがあったと思うんだけど、看護協会としては、精神科を行きたくない、でも行くとしたら二人が条件です。でも、ぼくはこれ、けっきょく看護協会が得しちゃったっちゅうのは、これはぼくの見方なんですけど、じっさいには行ってみたら精神科の患者ほどやりやすい、おとしやすい人はいなかったというのは一般科の見方だった。何もしなくてもよかった。だから行け行けになっちゃったんですよ。

立岩:それはあると思うわ。ある意味ね。

高木:と、思います。だから、ほんと何もしない。

立岩:精神のてさ、ぼくらの業界、訪問看護は評判悪いですよ。

高木:典型的に悪名高いのはあそこだな。それからもう一つはね、犬のペットを。グループホームにわんちゃん・にゃんちゃんのペットを置いて、そこで保健所からわんちゃん・なんちゃん引き取って、動物愛護。

舘澤:グループホームのW?

高木:もうほとんど犬猫の奴隷にさせられてるよな。あそこはね、ちゃんと経営者のことをずーっと調べていったらね、福祉業界でもうまっ黒なやつや。だから宣伝もひどいよ。看護を募集してんのに風俗の宣伝かいなこれは、みたいな。風俗の求人募集みたいな。

舘澤:できた時はけっこうちらし撒かれましたよ。で、一回みんな見に行こうやって。

高木:ホームページもね、えぐいもん。そりゃ確かに事業としてやるのはいいかもしれんけど、これを対人支援のセンスの人はやらんだろう、絶対にね。それでDもう創業者は売り払って、会社を売り払って大儲けして。で、今Dはなんでこんだけ大きな会社に買われるかいうたら、それこそ精神科の資格を持った訪問看護ステーション、のどから手が出るほど欲しいわけよ。同じ認知症みにいっても精神科の訪問看護ステーションの資格取ってるだけでちがうからね。で、今看護師不足のなかで大変だよ。だからもうそこの看護ステーション、ぼくはもう今はきっと作ってどっかに買い取ってもらおうと思ってるやつもいると思う。Dが成功したから。週3回を必ず訪問を義務付けるってね。何があろうとしんどかろうと週3回来るんで。

立岩:そういうえぐい話を研究してほしいな、ぼくは。えぐいやつ。

高木:本人と話ができないから、その患者たちは。もう血圧測るだけであとは家族からいっしょうけんめい話聞いてたりとか。家族としてはね、ぼくは最初のころに家族会の人から聞いたのは、とにかく自分たちがちょっと一息でも抜きたいから看護に来てもらいたいんやと。なのに親がいないときには来ないつってんだ。D、行くときは必ず親にいてくださいつって。

高木:だからもう今ぐちゃぐちゃな時代になってる。この前、精神科治療学に「これからどんどんアウトリーチ広げにゃいかん。アウトリーチが精神医療を変えれるか」というテーマで書け言われたんで、「アウトリーチがこんなに増えてるのになぜ精神医療が変わらないんだ」というテーマに変えて書いたけどね。内容がひどいもん、アウトリーチは。もうもとはぼくはやっぱり精神病院だと思うな。精神病院ですべての精神医療への考え方、精神疾患への関わり方いうのを精神病院でしか学べないこの状況のなかで、そこで学んだ人たちが「精神をやる」っつって出てきてるから。これ、この前のMさんが…ほら。

舘澤:Kさんですか?

高木:Kさん。Kさんまじめにやってるけど、いくらまじめにやっても精神病院からの人がどんどん地域に出てくるかぎり無理よっちゅう話。あなたも精神病院だったかな、ごめんな。

舘澤:いやいや。

高木:でもな、精神病院での垢をはっきり拭い落として。

舘澤:それが意外とできないでしょうけど。篠原さんだってそうやんね? 精神病院で働いて、で、訪看ね。

篠原:そうです、そうです。いわくらみたいな。

高木:看護もそうやし、医者がとくにそうやね。精神病院でしか初期研修ができないような仕組みや。それがあたり前だと。今うちに来てるの二人の非常勤は、研修医時代に精神科になりたかったんだけど、楽しみにして精神科に行ったら、病院見て絶望しちゃって。「これはもう精神科医は自分はやれない」つって、そんでずーっと内科でやってた人がたまたまぼくのとこ知って来てくれるようになって。「おもしろいです、精神科」って言ってくれとんやけど。

舘澤:非常勤で来られてるんですか?

高木:うん。今日もほんとは話しに来いよ、聞きに来いよ、って言ったんだけど、今日はなんかレクリエーションに行ってる感じなんだ。なんか精神病院があるかぎりだめだろう、変わらないだろうと。それを変えれる、精神病院で教育されて出てくる人を変えれる力を地域が持てばいいんだけど、いかんせんその地域が精神病院頼りだから、悪循環だよね。当事者の力を信じればいいのかと思うけど、アルコール医療の人たちは「自分たちは怒っちゃいけない」言うとるし、精神病の人たちはみんな自民党が好きだし。どうしたらいいんだろ。



篠原:少し話を戻って。2002年に京大出て、2年間は本読みつつ過ごしていて、たまたまなのか上野先生からACTの存在を聞き、そこで「あ、これだ」と思われたという話だったんですけど、その「あ、これだ」と思うまでの土壌というかはとうぜんあったんだと思うんですけど、それはいつごろから自覚されてますか?

高木:いちばんの土壌は最初に言った、ぼくの場合は精神病院に勤めたけど、地域の人にひっぱり出されて地域を引きずり回されたんだ。

舘澤:光愛病院時代のこと。

篠原:京大辞める時点では、明確に「次、じゃあ訪問を」とか、そこまではない。

高木:ぜんぜんない。だって知らないんだもん、そういう制度があるっちゅうことを。精神科で医者が訪問するなんて、ときどき往診することはぼくもあったけど、それで事業を成り立たせるなんて誰も考えてなかったもん。

立岩:高木さんの書いた本でけっこう覚えてるのってそこだよね。ちゃんと「訪問で稼げるよ」っていうか、「診療所成立するんですよ」っていうことをご本に書かれていて、そこがけっこうポイントやって。

高木:在宅医療の制度やね、大きいのは。

舘澤:上野先生すごいですね。「これいいんじゃないか?」って高木さんに勧められたその、すごいですね。ちゃんとその国のやつとか見てはるんですね。

高木:まあ話題にはなった、精神科で。ぼくが遊び呆けてて知らなかっただけ。

立岩:そこもちょっと掘り出せばさ、その役所の文書であったり、専門誌の特集であったり、そういうのは探したら出てくると思うんだけど。

高木:目玉だったんだよ。今出てこないけど、ぼくもどっかにその文章書いてんだよ。これにあったっていうの、どっかに書いた。

舘澤:介護保険後ですよね? 2000年、

高木:介護保険後。

立岩:そうだね、ちょっとあとだね。

高木:医療はさ、介護保険に置いていかれないように必死ちゅう面もあるんだよ。在宅診療の制度ができたのも介護保険のあとだもん。介護保険を追っかけて、しかも医師会なんかの立場からしたら、介護保険にいかに食われないようにして医療に囲い込むかっちゅう。大きい。そもそもおかしいでしょ? 介護保険の最初に医者が診断書書かなきゃいけないっちゅうのは。あれでも相当食い込むのにね、あったんだよ。そこの歴史も誰かちゃんと書いてほしいけど、おそらく介護保険を純粋にやりたかった人たちのどっかには書いてあると思う。

立岩:そこも調べたらわかるよな。ACTの発祥とか導入とか、その普及というか。そこらへんのものも役所? 専門誌? そのへんばーっとあたってみれば出てきますよ。それで論文一本書けるだろ? 訪問の話で書けるだろ。で、もう一本書いたら舘澤さん博論書ける。

高木:書き始めると楽しいで。

舘澤:調べていくの楽しいですけどね。

篠原:ぼくが知ってるのは教科書に載ってる概論的な訪看の歴史ぐらいです。

高木:ほんと小さいとこ見ても、そうやっていろんなもの力関係のなかですべて動いてるから。精神医療関係全体はもうその力関係の中に入り込むのほとんど失敗してんねん。日精協だけがこうずるずるっと入り込んでね。

立岩:よし。ぼくはテーマ2本ぐらい書ける。2かける2でもう2本。ほんまにでも知りたいよ。看護の人ってそういう力関係とかそうことあんまやらないじゃない? 書かないじゃない? なんか。実際には力関係で動いてる、確かなことで。それをちゃんと書き出すのは大切よ。

高木:看護の人も、看護師さんいうのはやっぱり、どうしても大学に行ったり勉強したりっていうときに「第二の医者」になりたがってんのよ。それでじっさいに看護の上の人たちが動いてるのはその力関係のどろどろの中でだから。もう上昇志向の人が多いんだって。すげー多い。

立岩:末安〔民生〕さんのインタビューってあれどうなったの?

舘澤:昨日、返ってきましたよ。

立岩:誰から? 末安さんから?

舘澤:末安さんから。で、末安さんと吉浜さん。

篠原:うん、けっきょく二人になりましたね。

舘澤:返ってきたんや、あれ。昨日か一昨日ようやく。

立岩:すばらしい。1年ぐらい経ってない?

舘澤:いやもっと経ってる。(笑)

立岩:去年の夏とかやろ?

篠原:去年の夏です。

立岩:そやろ。1年半やん。

舘澤:返ってきたので、ようやく掲載できるあれになりますんで。お二人とももう校正したって言ってはったし。

立岩:やっぱり日精看の動きであるとか日看協とか、その二つだってたぶん同じではない。なんかちがうはずだ。それでその末安さんなら末安さん、あの人ボスはボスだけど人生いろいろあったみたい。国会議員の秘書とかしてたの聞いた? その話。

舘澤:聞きました。

篠原:こないだのだけどインタビューはほんとなんか入り口にようやく立てたみたいなこと言われてませんでした?

立岩:どこまで聞いたの?

篠原:そんなに…、

舘澤:沖縄の。

篠原:沖縄から出て来て、

舘澤:まだ資格がその、

篠原:まだぜんぜんですよ。さて始めましょうかのスタート地点に立ったぐらいで時間切れになった印象が、前回。

舘澤:松沢病院の、

篠原:そうですね、松沢行って。

立岩:もう一回聞きなよ。

舘澤:またしようと言ってもうそのままになったっていう。

高木:そこらへんの発展をやっていくとして、ちょっと10分ぐらい休憩させて。後半は飲み食いしながら聞いてくれる?

舘澤:はい。

高木:そうするとまた崩れてくるかもしんないけど。

立岩:ここまではキープやから大丈夫。ちゃんと成果がもう。もうこれでオッケーですよ。ひとまずオッケー。 [01:34:46]

(以降、他愛のない雑談が続く)