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会津泉氏インタビュー・3

2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom

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会津 泉 i2022a インタビュー・1 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom
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会津 泉 i2022d インタビュー・4 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom

東京大学やその周りでの 解放連続シンポジウム『闘争と学問』
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 【rmk19】会津泉_最首悟_川本隆史インタビュー(20221021)_156分




会津:まず捨てなくて。今ようやく、だから情報化社会のところはさっきNTTからのお金が出たので、一人分の助手を雇ってても何とかなるんで、ときどきやらしてるんですけどね。
 今実は、そんなにめちゃくちゃお金がかかるわけではないんですよね。外注したら大変ですけどね。というのはあって。だから今の、手元にいろいろあるのどうしようかな。
 ただ、自分の時間もかかるんですよね、これ。整理してくと。もう山のようにあるので。だからそこがどうかなという。
 だからそれが今日ので。シンポジウムの顛末…。最首さんが、八木下さんと横田・横塚どっちが先だったかみたいな話がひとつ、ぽろっとあったのがきっかけでしょ? ぼく買ってちゃんと読んでないけど、八木下さんの本が出てますよね。

立岩:出てます。たぶんおっしゃるように、八木下さんの話と、横田・横塚、やっぱり『さようならCP』の上映? のからみで、それの宣伝というか、それで何かしゃべりにくるっていうのはありえる話で、で、八木下さんは八木下さんで関東というか東京界隈でそのころ話題というか問題になってたっていう。あと府中療育センターも、その当時東京駅のあたりでテント張ってやってたので、とうぜんちょっとそういうことに関心がある人は知ってると。「じゃあ呼んでみようか」ぐらいのわりと軽い感じっていうか、「あそこでああいうのやってる人たちがいるから呼ぼう」とか、「こっちで何かやってる人いるから呼んでみよう」とかっていう始まりだったのかな。そんなに何かこう論理的にどうこうとかいうんじゃなくて、そのときどきにっていうことだったんだろうなと思いました。
 ただ、こないだ久保田好生さんにお話うかがって「へー」って思ったのは、チッソの本社前でテント張ってる人たちと、その当時有楽町にあった都庁の前で府中療育センター闘争でテント張ってる人たちの間の距離っていうのは、けっこう近くて。その両方のテントで寝泊まりしてる人たちが、何とはなしにこう話をするというか、みたいな機会があった。だからどうっていうことでもなかったんだけれどもっていうふうに久保田さんはおっしゃってました。

会津:さっき石原明子さんとあれだったっていうのは、川本さん? 今チャットで彼女から「原稿書いてる」というのが来たんで。催促をしたらさっそくお返事が来たので、ちょっと「川本さん覚えてるよね?」ってひと言書いてやろうかと思ってんですけど。

川本:はい。どうぞ、どうぞ。

最首:ちょっと早いかもしれないけども、川本・立岩と揃ってるのでね、この会でぜひとも熊本を呼んで今日のようなお話をしてもらいたいと。あいつは私設のミニ図書館みたいなのをマンションの一室かなんかでやってんじゃないかな? やってたのかな? 水俣のことですけどね。

丹波:矢作さんではなくて?

最首:矢作か、あれは。矢作は関係あったっけなあ。

丹波:矢作さんは水俣関係でも市川のほうで資料館をやってらっしゃる。熊本さんもやってる?

最首:もうそこは混同してるかも。矢作はこっちのほうには関係してないからね、連続シンポジウムのほうは。関係してないでしょ? 関係してるのかな?

会津:名前はなんとなく記憶にあるけど。

最首:ありますか?

会津:うん、出入りはしてたけど、運営まではしてないんじゃないかな。それこそ駒場の告発する会にいたんじゃない?

丹波:そうです、そうです。

会津:【久保田】(00:49:36)もそうだから、駒場の告発…要するにあのころになるとみんな少数派ですから、寄り集まってくるところでね、シンポジウムに来たりっていうのは。ぼくはあんまり告発する会のほうに行った記憶はないけれども。ということはあると思います。

最首:そうだね、だから矢作とかさ、熊本とかも呼んで、この70年の初頭のあたりね。[01:50:03]

会津:人によってみんなやっぱり、見えてる景色って違うと思うんですよね。だからシンポジウムの終わり方にしても、さっき申し上げたのは私の解釈であって、折原さんが言ってることは折原さんの言ってることだし、どれもある一面でしかないと思うんですね。

最首:会津に聞きたいのはさ、シギさんはどういう役割をしてた?

会津:シギさんはね、シギさんともう一人女性がいましたね、そういえば。

最首:山之内萩子さん?

会津:そうそう。シギさんはよくわからないけど、いつも慎重論というか、どっちかにふれないようにしてて。彼はたぶん、連続シンポジウムってのがあること自体には非常に意味を感じてて、逆にそれが大学当局とかその他から潰されたりうまく立ちいかなくなるということを守るというか、そういうスタンスの発言が非常に多かったような。彼自身はだって授業拒否もしてなかったでしょ? だから折原とか最首とかだと飛び跳ねるほうだから。学生はもっとそうだし。というのに対して、自分のような穏健な人間でも、問い自体は大事なんだからそこの意義をもっと上手に伝わるようにしてほしいんだ、みたいなことをいつも言われていたような記憶がおぼろげながらありますね。
 山之内萩子さんはちょっと覚えてない。

最首:歴史学でね、助手共闘のほうの関係で。不知火グループで水俣に関係して本を作ってもらったりした人ですけどね、まあ粘り強い人で、もともとだんなが山之内正彦だったっけ? 東文研の助手共闘の親玉ですよ、はしり。東文研で看板を出した初めてのあれで、【清の恋歌】(01:52:30)の研究をしてた山之内さんっていう。また父親がね、東大法学部長か何かの、すごいんだけども。

会津:萩子さんはなんであそこに来てたのかっていうのは?

最首:東大助手共闘の一員としてね、そのかねあいでやっぱり闘争をつづけたいということでね。やっぱり何のかんのと言ったって「闘争と学問」というのは東大闘争を終わらせないというか、その続きというか、あがきというか、そういう立場だからね。やっぱり闘争ではあること、闘争なんですよ。だからあんまり自分を反省したりしたくないわけです(笑)、折原さんみたいに。折原さんはやっぱりかわいそうだったよね、助教授として。造反教官なんて踏み切るのはたいへんなことだったよねえ。

丹波:最首先生はどれぐらい出てたんですか? けっきょくのところは。

最首:あんまり出てないと思う(笑)。だから、留守にしてる…いない、そういうことが多いのと、おそらくあっても、その場はほかで飲むことが多かったりすることがあったりしたのかなあ。

川本:ぼく70年の最首さんのどの会…ちょっとまだアイデンティファイできないんですけど聞きに行ったときに、最首さんが「私はジャーナル屋と呼ばれてました。最ジャーナルと」、まだ活字になる前かな、「それを読ませていただきます」とかって言って、なんか***(01:54:40)。そんで***(01:54:42)を聞かられましたね。

最首:そうなんだ。私、広報官ですからね、助手共闘の。助手共闘ってのは原則として広報官を一人を出すってんで、ほかはぜんぶ覆面なんだけど、覆面のつもりでみんな名前われてんだけどね、私一人が覆面じゃないので。それでジャーナル屋になったんだ。[01:55:05]

川本:広島の高校生にも「最首悟ってなんか…」。これ最初、ペンネームかって思うぐらい。過激なこと書いてるし。

会津:立岩さんのね、アーカイブを作られてるということと、もうちょっと専門の研究というかね、今少なくともプロフィールを拝見してると、かなり身体障害とか病気とか、そちらのほうに寄ったあれが多いですよね。それでこのシンポジウムとか全共闘とかその後とかみたいなことへのご関心ってのはどこから生まれたのか、あんまりそうでもないのかみたいなのがあんまりまだぼくにはよくわかってないんですけど。

立岩:病気障害にかくべつの関心があるっていうわけではなくて、実は。ただ、うちの大学院の研究科にやってくる院生たちにそういうテーマの人がとても多いっていうのがもう十何年続いていて。だからそういう人たちに何を用意したり、どういう議論ができるかっていうようなところで、わりとそういう仕事の割合が多くなってるっていうのがその通りです。

会津:もともとは社会学?

立岩:そうです、社会学科です。

会津:社会学といっても広うござんすが。

立岩:そうですね、どっちかって社会学の中では、ほんとはそんなにこう、いろいろ社会調査やるっていったって、それもしてますけど、タイプじゃなくて。川本さんとか、じゃあ社会をどういうふうに考えたり、変えていったりするのかっていう。

川本:規範的社会理論ね。

立岩:わりとそういう関心なんですよ。だからそういう意味で言えば、その大学闘争であったりうんぬんっていうのはちゃんと結びついていて、ぼくはやっぱりその70年代の思想っていうのをどこまで受け取れるかとか、どうやって引き継げるかっていうのは、わりとまじめなところから発してるとこがあるんですよね。そしたときに、70年代だってべつに内ゲバばっかりやってたわけじゃなくて、それなりに闘争もあったし、ものも考えられたはずだと。で、ぼくも少し関わった部分もあると。その部分がほんと文字にもなってないし、引き継がれてないなっていうのはよろしくないなと思っていて。
 こないだ丹波さんに『週刊読書人』でしたっけ?☆ ぼくは70年代末で、77年かな、文学部で火事があって、その時も折原さんいろいろ言ってくださったんですけど、その時の2年ぐらいあとに学校入って、そのあといろいろって感じだったんですけどね。

会津:79年に文Vに入ってるって書いてあるから。

立岩:79年に駒場に行ってるんですよ。だから本郷、社会学科に行ったのは81年です。

会津:もうそのころに、東大闘争で何があったかみたいなとか、そういうのに興味は持ってたんですか?

立岩:持ってましたね、ある程度。ある程度っていうか。

会津:その時は先生って誰なの?

立岩:大学院の時の受け入れ教員は山本泰さんという駒場の教員の方です。本郷の社会学研究科の院生でも駒場の教員を指導教員にすることができたんです。1・2年の教養の時っていうか、駒場の時は、見田宗介さんがいて、見田宗介さんの、なんだかんだいって、自主ゼミっていうのかな、最首塾もそうかも知んないけど、大学の科目と別にやるっていうのは、折原さんにせよ最首さんにせよ見田さんにせよ、あるいは廣松〔渉〕さんなんかもそんなとこあったみたいですね。っていうので、駒場はそんな感じでした。
 本郷の社会学科での指導教員は違うんですけど、それは吉田民人さんっていう。みなさんあんまりご存知ないかたです。

会津:吉田民人? 公文俊平がめちゃ尊敬してた人です。

立岩:そうですね。公文さんとだとわりとつながりがある人ですね。吉田さん、学部の時の先生で。

会津:公文俊平って元共産党だったってのはご存知ですか? [02:00:03]

立岩:あのころの人はたいがいなんか元をたどるとそういうとこあるんだろうけど。公文俊平は何かちょっと、リアリティーとしては。経済学者という人でも、西部とかさ、いろいろ変な人たちがいるじゃないですか。

会津:あんまりそういう運動はしないタイプだったのね、で、わりと早く辞めてんだ。だけど彼、ドクターはソ連経済研究ですから。アメリカ行って、カナダとアメリカで。で、日本の共産党はだめだということは早々とわかってた、としたんだけど、まだ共産主義・社会主義、まだソ連の経済も強かったころなのでね、60年代ですから。で、向こうへ行って調べてみると、これはもうほんとにだめだということもわかって、そこで匙投げて。だけど経済学の専門家でもないし、彼は社会システム論といっても、実は経済学の教授から破門されたとかね。まったく一匹狼なんですよ。で、知ってると思うけど、青木昌彦とかね、青木さんもぼくけっこうよく知ってる。彼もブントでしょ? 姫岡玲治は最首さんは知ってたの?

最首:名前だけですよ。直接会ったこともないしね。

会津:そう。ぼくはだから、彼が偉くなっ…。

最首:姫岡って青木のことじゃないのか。

会津:そうそう、青木。

川本:活動家名ね。

会津:青木さんにもぼくは気に入られがかってたんですよ。うんとのちにね。彼とあと、今井さんね。一橋の今井賢一。みんなスタンフォードですけど。

川本:ネットワーク組織論のね。

会津:そうそう。だから、パソコン通信からインターネットっていう時には、変な話ぼくのほうが先行ってましたから、彼らに教えてあげてたり。ただ、公文はぼくよりもちょっとだけ早いんで、同じ時にアメリカから来た人の話を聞いてて「インターネットはすごい」って言ったのはぼくじゃなくて公文なんですよ。そこはちゃんと記録、それこそオーラルヒストリーやってるので。だから、それこそ黒船が来たときにどう解釈するかみたいのと、その後何をするかってのは、べつにインターネットに限らず、今ならAIとかもそうですし、ずっとあるんで。
 だからその、全共闘っていうとちょっと狭いっていうとあれですけど、やっぱりそのあとのそれこそ公害とか地球環境とかいう中のその捉え方でいうと、このへんってのはすごい大事な気がしてて。
 なんで日本がアジアの中でちゃんとうまくほかの国とやってけないのか、とかね。世界でもそうなんですけどね。公文は湾岸戦争で、若干立場は違うんですけど、日本が世界から見放されたと。いうのが、あれと村上泰亮。で、もう資本論もだめだと。共産主義はだめだっていうのは冷戦が終わったからっていうんで言ってたわけですけど、資本主義が勝ったわけじゃないと。だから、アダムスミス書き直せって言いだしたんですよ。で、ジャパノロジーもだめだし、日本の政界・官界・学会みんなだめだ、みたいなので新しい研究所つくると言いだしてて。で、世界と直接対話をしなきゃいけないと、議論を。その道具がないんで、道具何かないか? つったら「それはインターネットだよ」というふうに、向うの大先生が、インターネットのおじいさんっていう人がいるんですけど、言われて。公文はもう瞬間「これだ」と思って飛びついたわけ。ぼくは「ちょっと待ってください」みたいに、「それパソコン通信とどう違うのか」っていうんで、半年ぐらいギャップがあったんですけどね。
 そのころは、まともな学者でインターネットとか自分で触ろうとした人はほとんどいなかったのね。理系の一部だけで、文系はほとんどゼロで。だからオーラルヒストリー、「なんで先生、あんただけそこ先にぱっと来たの? ぼくより早く」って。ぼくはずいぶん嫌味を言われたの。「きみはわかんなかったね」とかって。で、その時に、今言ったようなその「世界との対話ってのをやる道具を探してたんでひらめいた」と。すでにインターネットの前にCenter for Global Communicationsっていう研究所作ってたので。だからそういう意味ではやっぱり、手前にちゃんと問題意識を持ってるかどうかっていうのは非常に大きなあれになるんだなってことはぼくは思ってるところでございます。
 なので、もうちょっと言うと、確かにアーカイブ作って過去の議論をするの大事なんだけど、それって明日からの世界にどういう関係があるのというところをやっぱり合わせて議論したい今日このごろでございまして(笑)。

立岩:ぼくもそれはそう思っていまして。前向きの話をしたいとずっと学生の時から思って、それなりにやっているつもりではあるのです。同時にやっぱり、調べて。ぼくの場合のインターネットっていうのは、グローバルにっていうのとちょっと違って、やっぱりその当時に調べていろいろ集めたデータをそのまま自分のところにただとっておいてもしょうがないからみんな見てくれないかなっていうので、本書くために集めたデータをまずアップってのが90年代の半ばぐらいで、それから30年近くになりますけど、それをやってるっていう感じです。[02:05:11]

最首:東大闘争っていう中のいろんな考えというか、その考えの一つの「ノンセクトの中のいろんな考え」っていうことを、今日のところにも関わってると思うんですけども、たとえば山本義隆っていうのはすごいやっぱり秩序派なんですよね。岩波にも書きましたけど、自分でおもしろいと思ったことはとことんやるけども、やっぱり完全に崩しちゃうとか、そういう立場じゃない。だから非常に穏当な、ある意味じゃ無思想的な立場なんですよね。ですから、根を掘っていってひっくり返す、根を掘るのは何のためかっていうときに、やっぱりもっとちゃんと事態を把握してっていうほうが多くてね。この事態、原発の事態ってのはどういうことかなんてことについてはもうほんとに長けてるけども、ひっくり返すとかね、なんかそういうようなことはない。
 それから田尾っていうのも特徴的な。セコムの田尾ですよ。それが今は飯館村にいるんだけども、もう非常に楽観的な。陽性なんですよね、田尾。

会津:田尾さんとは飯館でぼく一回会いましたよ。

最首:非常に陽性なタイプでね。「ふすまクラブ」から始まって。西村さんのふすまクラブの一員なんだ。

会津:ふすまクラブやってたの?

最首:うん。それで、そういう非常に陽性な、庶民の陽性なほうを表わしている人なんだ、いろいろ挙げていくとおもしろいけど。
 私はというと、やっぱり司馬遼太郎の「日本人は酩酊気質だ」っていうんだけども、やっぱり酩酊っていうのがすごく好きで。それを実践したりするからいけないんだけどもね。酩酊っていうのはやっぱり、その世ってのを感じられるアプローチなんですね。「その世」ってのは石牟礼道子的なその世です。やっぱりその世にどっぷりつかってて、もうこうじゃない世界っていうのを、酔っぱらうっていうことでしか近づけないような酩酊派みたいな、そういうような感じで。で、私お酒やめたら「その世」だけが残っちゃったので(笑)、その世を何とか書こう、何とか言葉にしようと思ってんだけど、石牟礼さんの絶望ってのは激しくてね。もうこの現実、日本に対する絶望っていうのにたつ「その世」ですから。
 やっぱり私たちの中にはそういう絶望感っていうのはある。東大生なんてのは、いろんな屈折しちゃった中での押し込めた絶望感ですけども、それが爆発していくときっていうのはそんな簡単には言葉にはできなくてね。その中で、やっぱりプラス的に前へ前へっていうなかで、がんばる。たとえば会津が偉いと思うは、そういうところに裸一貫で***(02:09:30)てんだからね。会津なんてのはほんとにこう、やっぱり足を地につけたほうですよね。

会津:いやいや、ぜんぜん。

最首:私たちはもともと***(02:09:50)まわってうろうろしているような浮遊感がもって、その浮遊感というのからどこへ行くかっていうときに、手段としての酩酊っていうのがあったりしてね。だけどそれ、日本人にはあるんじゃないかと思ってんですよ。そういうものがね。一年に一ぺん爆発したいっていう、そういうね。[02:10:12]

会津:いやいやいや、しょっちゅう酩酊してますよ、ぼく。石巻行ったりあれして、しすぎたりしてやばかったりいろいろあるんで、大丈夫ですよ、最首さん。昔のイメージで誤解しないでください。

会津:今ちょっと聞きながら見てたら、シンポジウム中断、終わりのころにぼくが書いたビラというかメモが二枚出てきて。自分でも覚えてないこと書いてんでちょっとあれしますけど、たぶん送れるでしょう。だいたい書き散らかしたのがいろいろとってあって。なんと、西村ヤスシの辞世の句じゃないけど、手書きのあれとか。なぜかぼくが持ってるんだなあ。

丹波:ちょっといくつか確認していいですか? 会津さんに。いくつかっていうか、ぼくが聞きたいことはあるんですが、大局的な話になっちゃうので一つ。
 先ほど立岩さんが言ってたことともからむ気がするんですが、けっきょく、たとえば折原さんの記録とか読んでても、たとえば「西村さんが企画した」「西村さんが連れてきた」とか、主語が単数形で語られることがすごい多い気がしてました。たとえば「最首さんがよく来てました」とか。でも今日のお話聞くかぎり、事務局があってちゃんとその中での議論があって、それを教員…つまり主体がどこにあるかですよね。さっき「闘争と学問は中途半端だ」ってのがあったけど、そのなかで、駆け引きのなかで、学生というかいわば若い人「が」主体になって複数形で西村さんとかが動かしていた。
 ただ、どっちがハンドル握ってたかっていうのは、それは事実関係として「西村さんが八木下さんを連れてきた」、「西村さんが横田さんを連れてきた」っていうよりも。当時の会津さん含めたいろんな人の総合的な有象無象のなかで起きたことっていうことなんですか? けっきょく。

最首:そういう意味では全共闘的だよね。「誰か」って言われると困るというようなね、ところはあると思うね。

会津:困るというよりも、問題のたて方それじゃないでしょというか。つまり、「誰かリーダーがいて」とか「責任者の誰々がそうした」っていうふうに書いていいの? ってすごく思うわけね。折原さんだってワンオブゼムだし、西村さんだってワンオブゼムだし。それは名前が残ってるか残ってないかの人も、ある意味でみんな有象無象の何ていうの、リゾームじゃないけどアメーバみたいなことを。こっちから切れば確かに折原が見えてきたり、あっちから切ると西村が見えてくるっていうふうに、今ぼくはかなりそう思うのと、とくにさっきのTDQの話なんかでいってると、もちろん一人ひとりの個性はあるんだけど、それがぶつかり合ったときに出てくるものはまた違うものだと思うんですね。なのでそこをアトリビューションというか、個人に分解して書いていくことは、あんまりぼくは。どうなの? というふうに思います。

最首:そうなんですよ。その当時の無認可保育所と似てる。っていうのは、無認可保育所がその一つなんだけども、無認可保育所の責任は誰がとるのっていうのはないんですよ。だから、責任っていうことになると、自己責任みたいにぎゅーっと狭めていくような、そういう責任概念っていうのはあったらできないこと。で、やってるとけっきょくはそこはあいまいになってるという、それが特徴なんだと思うね。
 全共闘だって「誰が責任とる」ったら困るんですよ。だから、「あいつが」とか言ってね、「最首はイデオローグだ」なんて言われたらほんとに困っちゃうよね。「そんな役割なんか!」と思うし。ところが山本義隆なんかは「最首はイデオローグ」なんて言っちゃうんだよな。それはそれで「自分とは違って、最首はいいかげん」っていうことを言いたいことの表れなんだけどさ。でもやっぱり、責任っていうことはなしの共同行動っていうのはやっぱりすごいことだと思うよ。[02:15:18]

会津:そこはさっきも出たかもしれない。きれいに整理して、それがわかりやすくて正しいというふうにしたい人ってもちろんいらっしゃるわけで。折原先生なんかその最たるものでね。だけど実際の社会の動きって、そうなんですか? って、まずぼくなんかは思うので。
 最近のあれでいけばトップダウン、ボトムアップって話がずいぶんあると思うんですけど、ボトムで動いてるものなくてトップもありえないわけで、そういう動きの全体っていうのをほんとはもうちょっと書いたりね、何か記録するときあっていいんじゃないかっていうの。なかなか難しいんですけど、
 むかしそういうことに近いこと言ってたのは伝習館の黒幕っていうか表に出てた武田桂二郎。「無名」ということにものすごいこだわってたんですね。「出すな」と。実は3.11のあとで、今遠野の市長をやってる多田一彦という、「遠野まごころネット」というとんでもないNPOを作ってはめちゃめちゃなことやってたおっちゃんがいるんですけど。仲良しで。で、現地調査をやってくれと言われて。震災の直後に社協がちゃんと機能してたかどうか、実はしてなかったんじゃないかと。で、陸前高田と大槌と気仙沼か何かをターゲットに、中立の調査…別の調査はぼくがやったんでそれを見てって言われて。でもいろいろ聞いてみると中立なんてありえなくて、「多田とまごころネットに頼まれた」って言うだけでバツだったりマルだったりするわけですから。というので、その途中で大槌の人に、「だって東京からこんなね、めし代とか足代とかかけて調査に来たらもったいない。岩手、地元に誰かいないの?」と。そしたら「いないよ」っていって。それで多田さんとかと話したときに、「だいたい学者とかいろいろ怪しいやつが多くて。みんな自分たちのためにやってるんね」とか。「それどうやって見分けんの?」と。こう、近づいてきたやつを。ったら、「売名行為してるかどうかでわかるよ」と。なるほどなと思ったわけ。何かしたときに「名前を必ず出せ」と言ってみたり、順番がこうだとか所属とかうんぬんっていうのを出したがる、ぼくもそういうとこがあったんですけど、それを強くやろうとしてる人はだいたい怪しいと。それをあんまりやろうとしない人のほうが長く付き合って安心できんだよねってんで。だからぼく、大川小に関してはほとんど名前出すのやめてるのね。

最首:名前はなしでもいいね。

会津:まただから、無名っていうのをまた美化しちゃうとね、それはそれで実態を…。だから誰かがやったことを、最首さんがやったことを「いやあれは熊本がやったんだ」っていうのは、それは違うし。わかることはちゃんと記録残したほうがいいと思うんですけど、結果についてその因果関係であったり何かを説明するときにあまりそこを強く出し過ぎると、少なくとも実態と違ってくる。だけど学問って、ぼくら学者じゃないので、学問ってのはそこを固定してかないと前には進まないみたいに思ってる人が多いので。でも今の量子力学とか見てるとね、そんなよくわからないこう雲のような話なわけですから、世界の動きそのものが。なんかね、そこはちょっと…。ぜひ議論、少なくとも議論すべき、方法論なり分析として、ことではあるかなあと。
 もちろん川本さんにしても立岩さんにしてもいろんな方法論をお持ちだと思うんで、今ぼくが言ってることが正しいとは思いませんけど。

立岩:ちょっといいですか? たとえば毎度同じ教室でやってたのかとか、毎回人の数とかも変わったんだろうけど、たとえば川本さん出た時にはこのぐらいいたとかね、少ない時はこのぐらいで多い時はこのぐらいだったとかね、どういうテーマだと人がいっぱい来たとか、そういう外枠っぽい、外形的な話ってのかな、それで何か覚えてらっしゃるかた教えてもらえるといいかなってのは一つ思いますね。

会津:基本は201でしたよね。で、何かの時におっきい部屋をとったことがあったかも。969だか7だか。あるけど、基本はもう201に固定。で、人数は少ないと20人ぐらい。多くて100人はいかないかなと。[02:20:05]
 伝習館の時の多かったかもしれないとかってのは、メディアに出てたり、ぼくはいなかったけど宇井純が来た時とか、そういう時に増えるのは容易に考えられることですけど。ただ、あんまり大勢集めようっていうモチベーションはなくて、ちゃんと議論。それから西村さんがどっかに書いてます、蚊取り線香法式っていうのをこの連続シンポのパンフレットにも書いてますけど、いきなり中心に切り込むんじゃなくて、いろんな問題をぐるぐるぐるぐる回ってるうちにだんだん見えてくるよねみたいなことがあって。よく「こういうのはこういうふうに捉えなきゃだめなんだ、ばかやろー!」みたいに言う人がいたわけですよね。正義を振りかざしたり結論を押し付けるようなやつらはあんまり好まれなかった。これはちょっと中身とは別、人数とかは別ですけど。だからやっぱりじっくりお互いに話ができるようなっていうところ。
 ぼく覚えてんのは、よくワイヤレスマイク持って歩き回ってましたけど、なるべくいろんな人にしゃべってもらうのはいつものパターンだったような気がします。

立岩:ぼくからは最後の質問に近いんですが、いろんな人たちのいろんな、そこの中には川本さんもいたし、会津さんもいた。会津さんはマイク持って回ってたのか。そういう若い人たちっていうか学生、東京大学の学生もいただろうけれども、どういう客質というか参加者っていうか、そういうので何か記憶にあることとか見知ってることってのはどうでしょう?

会津:今のパンフレットの最初のところには、「それぞれの生活の場での実践・模索を中心に討論するなかで、学生・浪人・大学受験拒否者・高校生・労働者市民と参加者・実行委員が広がり、問題にぶつかって模索が続いてる」っていう。ここに「大学受験拒否者」って書かれてるのが何ともいえないんだけど、何人かいた。っていうか大学進学拒否者だったりするんだけど。
 だからもちろん、久保田とかもそうだったと思いますけど、コアの部分には駒場にとどまって模索してる人たち、それからテーマでだんだん、公害であったり入管であったり身体障害であったり教育っていうふうにして、もちろん当事者もあるんですけどその問題に関心を持っている人で、同じテーマが連続すると「じゃあ次の教育のとこにも来よう」というふうにして、職場の同僚なり一緒に運動してる人を誘うということ、あるいは自分が運動には踏み切れないけど関心は持ってる人っていうかたちで。だから、まったくの一般の市民がとつぜん来るとかそういうことはほとんどなかったような気がします。

最首:今、蚊取り線香法式ってのが出たでしょ。あれはね、私が言って。

会津:そうだね。

最首:それで西村さんが「おー、それはいいですね」とか言って、というあれでした。

会津:そうです、そうです、ごめんなさい。でも、さっきのでいうと誰が言ってもいいのよと(笑)。そういうふうになっちゃったんだよって、そういう感じ。

川本:会津さん、何度かひかれた、伝習館支援するニュースの略語。

会津:東京伝習館救援会。

川本:TDQ。

会津:Qは救援会。

川本:「キュー」なのね。東京伝習館でTDか。それに救援の救は漢字を当てるわけね。TDQか、なるほど。クエスチョンのQかと思った。何だろうと思った。はい、わかりました。
 ついでにそれこそぼくはただ行くだけでしたけど、今にして思えば大学の教室を借りるのは誰がやってたんですか? 責任者とか。

会津:たぶん西村さんだと思う。

川本:西村さんができたのか。定期的に借りるわけですよね、もう借りてたわけですよね。

会津:たしか。どっちだったかな? ある時は曜日、毎週何曜日何時から何時って固定してたんじゃないかな。

川本:ぼくが記憶にあるのは土曜日の午後でしたね。202の。

丹波:いろいろともっとそういう質問しとけばよかったと改めて思ってますけれども、最首研の名前が出てくるけども最首先生はあんま関係ない事実とかが判明してよかったです。 [02:25:02]

会津:それなりに影響力、発言力はあったと思いますよ。最首さんはああいう言い方してるけど、折原とか西村とかに対してアンチテーゼでおっしゃってる部分もあるので。やっぱり最首さん来てる時は嬉しそうだったし。というふうにぼくには見えてたけど。

最首:まあそうです(笑)。

丹波:それでもう一つ聞きたかったのは、さっき最首先生から提案があって、矢作さんではなくて熊本一規さんを、こういう会をつづけましょうっていう提案。また立岩さんのご意見も聞いてみたいと思うところなんですけど、せっかく最首先生がそう言うのであれば、やらないわけにもいかないのかなと。そうしてくると徐々にいろんな情報が集まって、「闘争と学問」シンポのリアル…先ほど会津さんが「いろんな側面から」っていうお話がありましたけど、どうなんでしょう? 最首先生は「いいんじゃないの」って感じなんでしょうけど、最首さんの名前を出せば熊本さんは出て来てくれる感じですか? 沈黙? 沈黙(笑)。

最首:大丈夫だよ。熊本はまじめだしね、こういうとこで話したいんじゃないの? 私はね、今聞いてて、岩立さんが来てくれるといいなと。岩立さんとだいぶ文通はあったんだけど、あるところで切れてんですけどね。

会津:ちょっと聞いてみます。

最首:聞いてみて。

会津:これ今見てたら、150何回マックス・ウェーバーと学園闘争の4回目はぼくと熊本なんですよね。だから、会津が話聞いたつったら「いや、おれの話しさせろ」って言うんじゃないかな。
 あと、けっこう大事なのが福岡安則。大庭。彼とはこの前Zoomでは会ってるんですけど、ハンセン病をそうとうやって在日のオーラルをやってというので、なかなかなかなかですので。

最首:福岡いいな。

立岩:福岡さんはずいぶん前から知ってはいる人なんですよ。

会津:最首さんはトミタタケシ知ってます?

最首:知ってます。

会津:フロントの。あれ、ぼくの中学・高校の先輩。

川本:そうだよ栄光だよ。そうそう。

会津:で、こんど11月に3人でもう一人私の。全員山岳部なんですよ、一緒に山に行ったこともあって。最近ウクライナのあれで忙しいとかつってるんですけど、『日ソ戦争』っていうすごくいい本を二冊出してて。で、彼が書いた本に折原さんの話が出てくるんですよ。なので、そのうち声かけてもいいんじゃないですか。みんな頭ぼけてくるから早くしないと。

丹波:次いつやれるかっていうのはありますけど、せっかくそういう提案があったので一回で終わりにするんじゃなくて、1970年代の駒場の「ぼける前に話を聞く」というのを(笑)。立岩さん、いかがですか?

立岩:ぼくはわりと後半のほう、反百年闘争っていうのがいちおうあって、でもそれはそれだけかなと思ってて。やっぱりぼくの周りの人たちも、あまり大学のことをがーがー言ってももうどうしようもねえやっていうとこもあって、けっこういろんなところに。あんまり名前がどうとかってんじゃなくて、現場でいろいろやってたっていう友だちとかがいた時期なんですよね。そういう意味では確かに書きにくいんだけど、でもそこにおもしろさもあったわけだから、そういうところをちゃんと書きたいなとは思ってます。だからちょっとぼくは時期的にちょっとあとになるんだけど、その70年代後半から80年代ぐらいのことを知ってる人っていうのも探してるので、よろしかったらよろしくっていう感じですかね。
 こないだ丹波さんが知らせてくれた『読書人』の連載っていうの読んでおもしろかったんだけど、あれはやっぱりその「革マルが来て大変だった」とかさ、そういうわりとこの手の話で語られる語られ方で、ああ大変、ぼくの先輩も革マルと大変だったんだなっていうのがわかって勉強にはなりましたけど、でもそれとはちょっと違うとこもあったよなと。反東大とか言ってたぼくらにしてもね、やってたこととか考えてたことっていうのは。っていうんで、そういうことも書ければなっていうのは、もう一つの思いとしてぼくにはありますので、よろしく。
 とはいっても、70年代の前半というか、今日お話しになったようなところがわかってくると、それはそれでいいなと思ってますので、よろしくです。[02:30:52]

丹波:モリタギョウさんってモリタタカシって書くんでしょう、久保田田さんと東C共闘で、森田暁さんって

最首:あかつきね。

丹波:知ってますか?

最首:名前は知ってんだけどね。

会津:モリタって駒場にいた人?

丹波:そうです。

川本:まもるたんぼ?

丹波:まもるたんぼじゃない。

会津:林のほうでしょ?

最首:森林の森。森田ギョウ。

丹波:これじゃないですか?

川本:ギョウシュンウンのギョウか。いきなり教養が出てくる(笑)。

立岩:日(にち)、左に。

丹波:川本さんは覚えてますか? こっちですね。

川本:あかつきか。

丹波:あかつき。最首先生会ってたんですね。

最首:会ってた。

会津:これってあれとは違うかな、森田明美のだんなとは。

丹波:わかんないです。

会津:サイバ明美。

最首:えー?

会津:ちょっとわかんない。違うかもしれないけど、もともとサイバ明美が結婚して森田になったんで☆。
☆森田明美 https://researchmap.jp/read0044600

最首:そうだ。そうかあ。

会津:今東洋大にいる。福祉の業界ではけっこう顔のサイバ。あれはどっちかっていうとTDQの仲間です。

最首:森田明美ね。神戸の米問屋の娘だよ。

会津:ちょっとだんなかどうかはっきりわかんないけど、そういう意味では彼女もなかなか。東大生でもなかったかな?

最首:本女〔日本女子大学〕です。

会津:本女だよね。われわれのとこもしょっちゅう来てて、震災の支援とかもやってるけど、あのころのぼくらのTDQの仲間に近くて。ほぼそうでした。
 ほいで、その彼氏が森田ってのが東大の、たしか駒場の学生だったんだけど、それ暁(ぎょう)なのかどうわかんないけどその可能性はじゅうぶんあると思う。

最首:明美はね、農学部の。農学部に行ったかね、その森田ってのは。

会津:じゃあ別か。

丹波:文学部って書いてありましたけど。

最首:農学部の学生と結婚してるはずだ。

会津:その人が東Cの何かその記録を残してんの?

丹波:そのころ、久保田さんと70年入学ですかね。それで卒業が9年後だったか10年後なんで。

会津:これが森田明美のほうです。

最首:これ、私の知ってる明美だわ。これ、そうだわ。そうすると森田は農学部行ったのかなあ。

会津:わかんない。

最首:今のそうですよ、明美ですよ。

丹波:じゃあ、時間がそろそろ。ごめんなさい、こういうのは切るとき切らないと疲れるので、もう。
 じゃあとにかくまた何か。せっかくみなさまがよろしければ次の人を呼んで、こんな感じであれこれ話を聞くという会をしましょう。候補としては熊本さん、あと岩立さん、あとは福岡さん、大場さんですね、大場安則さんとか。というところで、最首先生の顔できくところで呼んでくるという。あと「会津さんが」とか言えば熊本さんは来てくれるということなので。

立岩:福岡さんだったらぼくも大丈夫だと思う。ハンセンのメーリングリストで連絡来るし。

丹波:福岡さんはあれですね、小杉亮子☆さんとの関係で最首先生んちにも来たことがありますよね。

最首:あります。東大闘争の件でね。

丹波:会津さん、ほんとに貴重な時間ありがとうございました。2時間半にもおよびましたけど。またレコーディングしたものの情報はちゃんとお送りしますのでお待ちになってください。
 どうもありがとうございました。長い時間ありがとうございます。失礼します。

[02:35:18]音声終了


〜このように表現しています〜
・タイムレコード:(hh:mm:ss)
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。


UP:20221127 REV:
東京大学やその周りでの  ◇声の記録  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
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