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会津泉氏インタビュー・3

2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom

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会津 泉 i2022a インタビュー・1 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom
会津 泉 i2022b インタビュー・2 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom
会津 泉 i2022c インタビュー・3 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom
会津 泉 i2022d インタビュー・4 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom

東京大学やその周りでの 解放連続シンポジウム『闘争と学問』
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 【rmk19】会津泉_最首悟_川本隆史インタビュー(20221021)_156分



丹波:ちなみに、闘争と学問の最終回っていつになるんですか? このA4のいただいたデータの最後の178回が終わりなんでしょうか?

会津:わかんない(笑)。まず記憶がないのと記録がないので、そこは正直わからないというのがいちばん正しいお答えだと思います。

丹波:178回が最後のほうであることは事実なんでしょうか?

会津:そうですよ。で、折原さんの授業復帰の日付は4月からですか? それより前に終わってると思いますけど。逆にいうと、彼は彼である種のシンボリックな存在なので、授業拒否をしてる人がいて、その授業のかわりにオルタナティブで講座をやるというのが一つの大きなモチベーションだったわけです。そうすると、授業を始めちゃった人がオルタナティブと両方やるっていうのは非常にあれで。たぶん、折原さんはあのころの議論との関係でいうと、ぼくも含めて折原批判をしてた人と一緒にやるということを、彼もようやらんかったんではないか。わたし的にもあんまり受け入れる気はなかった可能性はあるし、全体にもそういう。それから西村さんが北海道に行ったのはいつかっていうことともちょっと関連するかもしれませんけども。
 あと、知ってるとすると、熊本さんは連絡ついてます?

丹波:最近、松井隆志さんという武蔵大の教員がインタビューしたのを知ってまして☆★、連絡はしようはありますが。

会津:熊本さんはわりと折原さんのすぐ横にいた人なんで、議論の時もだいたい近い話をしてたような。これも印象ですけど。熊本さんが記録を持ってる可能性はありますね。

川本:折原さんの『東大闘争総括』っていうのの書評会を何年前かやったんですけど、その時の発起人の一人が熊本さんで。***(01:13:12)さんと。

会津:だってこの本だって。共著の『東大闘争と原発事故』☆。
☆折原 浩・熊本 一規・三宅 弘・清水 靖久 20130815 『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』,緑風出版,304p. ISBN-10:4846113167 ISBN-13:978-4846113162 [amazon][kinokuniya] ※

川本:うん。そのあとに折原さんの単著の『東大闘争総括』☆っていうの。
☆折原 浩 20190118 『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』,未来社,335p.ISBN-10: 4624400682 ISBN-13: 978-4624400682 2800+ [amazon][kinokuniya] ※

会津:あれ買ったけどね、なんかなかなか読む気がしなくて読んでない。

川本:なんか文学闘争のすごい詳しい***(01:13:18)をなさって。
 ちょうど八木下さんの話が出たついでに、さっきお見せした『理想』のからちょっと今画面の共有でお見せします☆。
 これがさっき表紙だけ見せて。「なぜ30歳で小学校に行くのか」っていうのが八木下さんのインタビューなんですけど、もちろん註がいろいろついていて、それから就学闘争の話があって、最初にですね、註の16。「連続シンポジウムでの障害者と教育を契機に八木下さんを囲む会が作られた。月に一度集会がもたれている。連絡先が進学相談室」って。これ1972年の4月号なんですけど、実際は年明けです。原稿はその前に入ってるかもしんないですけど、そういうかたちですね。
 それからもっとおもしろいのが、おもしろいって言っちゃ…貴重なのが、註の22に西村先生の名前が出てて、資料として「夜学通信の12号」の、以下。それから八木下さん自身が、これが今でいうレジュメになるのかもしんないけど、「東大連続シンポに向けて」っていう文章が、もちろんビラ、ガリきりだったのかもしれませんけど、このつぎの上の段の最後まで引用されてます。これはけっこう貴重な。
☆八木下浩一・名取弘文 19720401 「なぜ30歳で小学校に行くのか」,『理想』467: 46-61

会津:今見えたのでいうと、今の註の最後に府中の話も黄色く線。

川本:そうそう、府中も出てます。ぼくもこれで府中の話知ったんだ。[01:15:05]

会津:その『理想』、ぼくも持ってたかな。

川本:これ、ちょっと始まる前にうしろの「アジビラ集」っていうのをちょっと見せたんですれけども、横国(よこごく)の【いちおう「研究所」ってありましたけど】(01:15:39)、学生が集まって、

会津:これ、何年に出たやつ?

川本:72年4月号。

会津:4月号でね。それ、八木下さんのあれ聞き取ってる名取弘文ってのは、藤沢の【ちょうごしょう】(01:16:03)の先生。

川本:そうですよね。あとで本も書かれてますよね。

会津:ちょっと不思議な、調子のいい人だったんだけど。連続シンポのうしろから2番目の177回ってのは名取さんです☆。

川本:この教育の特集号はいわくつきで。『理想』って、ぼくはその前はいわゆる哲学雑誌で、***(01:16:23)で、それこそニーチェとかキルケゴールとかって特集で***(01:16:14)してたんですよ。この号だけすごい跳ねててというか、こういうビラまで載せたのでこの担当編集者がくびになったんですよ。『理想』っていう、昭和のはじめから続いてる思想雑誌の老舗の看板を汚しちゃってるじゃないのとか。就労闘争やったりね。ちょっとした事件になったきっかけの特集号なんです。

会津:それはそうなるだろうってことを覚悟して出したんじゃないの?

川本:覚悟してたのかなあ?

会津:わりとそういうふうに受け取る側でだいたいわかるわけじゃない、どこまでがいいとかって。

川本:そうですよ、そうです。ぼくほんとその時リアルタイムで読んでて感動したんですけど、編集後記、もちろんペンネームなんだけど、編集後記、けっこう読ませるエディターもいるんだけどだいたい企画の趣旨をだらだら書くのが、ここはね、「何のために編集後記を書くのかわからなくなる」と。「今号のように編集の意図がほぼ実現できたと思えるときはそうです。読んでもらえれば何も言うことはないという感じ。ですから、無理に空白を埋めることをやめます。ご了解ください」って。この空白も含めて、非常に。ちょうどぼく久保田くんたちと一緒に学費値上げ闘争で、進学が、無期限ストの時だったんですけど、これを読んでですね、いろいろもの思いにふけったその特集号。その中に【中尾】(01:17:40)さんが、八木下さん…。

会津:実は川本さんはニワさんがらみで2013年にぼくはメールもらってて。お返事もして、「携帯の番号教えてね」つったまんま返事が来なくて終わってるんですよね。

川本:すいません。

会津:それがどうこうってことじゃないんだけど、兄貴と会ったとかっていうこととかは書かれてて。ただし、今までのでいうと、その連続シンポジウムというのがちゃんと書かれた文献ってありますか?

丹波:それが、ない。ぼくよりも川本先生とか、最首先生に聞くのはあれかもしれませんけど、あるんですか? 川本さんは見たこと…。

川本:エピソード的なのはね、それこそ折原さんのちょっとしたメモとかはあるけど、ぼくもやっぱり大学入って授業より先にシンポジウムに行ったっていうようなことは書き散らしてるけど、まとまったドキュメントっていうか、記録はないよね。いくつかビラとかは残ってんでしょうけれど。

会津:最首さん、そこ何か知ってます?

最首:今聞いててね、やっぱりね、この時期のそのシンポの記憶がいろいろなんか、そんな関わってない…。というのは、けっきょく天沢退二郎と長谷川宏と三人で全国行脚してたわけね。いろんな大学行ってアジってたわけよ。そういう時期なのでね、そっちのほうが。またその記憶もあんまりないんだけどね(笑)、もうね、北海道から九州まで行ってんですよ。だからほとんど東京…大学にはいないような感じなんだな。

会津:だからぼくはね、連続シンポジウムってある意味ではいくつかの性格があって、東大闘争がもう潰されて、かといって火を消したくない。本郷で宇井さんが自主講座始めたから、[01:20:13]

川本:公害原論ね。

会津:そっちがちょっと早くて、こっちでもやってやろうよ、みたいなことがあったんではないかとまず推測してます。最首さんも駒場共闘かもしれないですけど、駒場共闘の連中が少し入ってきた。テラヤマとかそのへんがそうで。だから彼らにしてみると、主戦場終わってて、言い方は悪いけど「しょうがいなからやる」というか。というあれと、西村・折原のほうが、いわば職務のカウンター…西村さんは執行部は批判してるけど、べつに授業拒否したり職務拒否してるわけではないので。だけど自主的にやることには非常にモチベーションあったし、折原さんはやっぱり授業的なのをやりたかったんじゃないのかなと。自分のウェーバー論を議論する場がほしかったっていうのがあって。ぼくなんかはある意味で第二世代か第三世代かわかんない、そこ支えたのが熊本さんとかね、折原さんに比較的近かったり。久保田は常連ではあったけど、あんまり運営にはかんでなかったような気がして。彼はどっちかというと水俣病のほうに、「東京 告発する会」とかたしかやってたから。
 ただ、ぼくらが伝習館の東京で出してた雑誌に久保田が書いたりしてるんですよ。だから人的交流はそんなに濃くはなくても、あるいは影響っていうのはお互いにあった可能性はあります。それからその次がぼくとか、さっきのヤマグチ、岩立あたりから、伝習館、TDQをやったメンバーがある程度までやってて、ただし西村・折原、また折原さんが腰砕けになって(笑)、こちら、むしろ自分たちでTDQと称して。伝習館の本部とも実は途中からいろいろあったりして。あるいは茅嶋たちとけんかしたり。ずいぶんいろいろあるんですけど。
 だからそういう意味で、その連続シンポそのものが中心になるっていうところにだんだんならなくなってきた。だからその、折原さんとの議論ってのがあるんですが、そのエネルギーのむかいどころというのと、参加者にとって、ほかの人たちが「じゃあ代わりにやるよ」っていうとこまでの人がいなかったのかなあという。

最首:そうですね。わたくしのほうからいうと、シンポジウムってのはだいたいあんまり性分に合わないんだよね。それで、テラヤマなんていうのはまったくその代表みたいに、とにかく暴れなきゃだめなんだよな。だから私なんかは全国の大学まわって酔っぱらって3時間ぐらい連続…。島根大学なんかね、酔っぱらって3時間ぐらい話したんだ。そん時はその島根大学は警官導入とかいって緊迫してるなかでね、私は3時間ぐらいしゃべったんだけどさ、どうせ酔っぱらってんだよ。そういうのが好きで。テラヤマなんかは株主総会の檀上で暴れたのが一生の思い出なんじゃないかな、あいつは。そういう暴れ…シンポジウムなんてほんとなんか抹香臭いじゃない。その代表が折原さんなんで、折原さんを泣かすことが私の趣味みたいになっちゃってさ。折原さん泣くんだもんな。

会津:泣く(笑)。

最首:会津なんかはやっぱり非常に若いしね、やっぱりその理論的なところの目配りもあって、シンポジウムもやっぱり中で支えたんだと思うけども。なんかその、たぶんぼくはもう折原さんが関わってること自体があんまりもうおもしろくないんだよね(笑)。そりゃそうだ、助教授だもんな。こっちは助手だもんな。

会津:(笑)。西村さんも助教授じゃない。

最首:西村さん、助教授っていってもかわいそうでね。

会津:彼はね。

最首:だって、学生のアルバイトの世話と、警察に学生をもらいに行くのとが仕事なんだからさ。初期はね。

川本:なんか最初は職員あつかいで採用。

最首:そうなんですよ、もう。だからね、まったく関係ないんだよな。

会津:矢内原忠雄の直弟子ですから。あそこ、仕事得たのは矢内原さんで。間違いなく。で、矢内原っていうのはやっぱり東大の中でも権威があったわけでしょ? 総長になるいきさつと、戦後は反戦ってことも含めて。だからそういう意味では近親者人事でもあるわけだけどね。で、西村さんも食うとこなかったはずだから。[01:25:05]

最首:私たちにとっては矢内原三原則をどう破るか。そしたら西村さんは、三原則の守る守護者だからな。(笑)

会津:よく一緒にやってられましたよね。

最首:それが不思議なんだよな。なんで西村さんとずっと続いたのかと思ってね。(笑)

会津:最首さんはかなり西村先生を尊敬されてたように見えます。今でもわりと。

最首:はい、それで立岩さんに話したけど、そのはじまりがWUSなんだよね☆★。?山政道の。WUSの民主主義教育? 民主教育とかなんとかので西村さんともなんか関わってて、それでWUSの活動にも私、派遣されてね。駒場からね。駒場の学生の代表みたいにして私行くわけよ。

会津:WUSって何ですか?

最首:WUSって、世界教育なんとかっていう協会なんだよ。?山政道の。
 私は北大の音威子府の演習林の2週間のセミナーに参加したんですよ。駒場から二人でね。

立岩:その話、こないだうかがいました。ぼくそのころから、その60年代の前半から二人の間に一定の付き合いがあったっていうのは、ぜんぜん、うかがうまで知らなくて。そのへんの話をこないだ聞いた話の最初のほうでしていただきました。それからしばらく親交はなくて、また68、9年の騒動あとでまたっていう。その中間はちょっと空いてたっていうように最首さんはお話しなさった。

最首:そうですね。立岩さんには話しましたけど、わたしは学友会の議長をやってましてね。学友会は自治会からすると右翼なんですよ。もともと学友会っていうのは、教官と学生の懇談会なわけで、それでもう「学校の手先」みたいに自治会からは思われてて。で、私がなって自治会と関係をつけたりなんかするっていうことが始まるけど、その関連で西村さんともう接触が。

川本:学友会って、ぼくなんかの時はサークル連合かと思ってたら、ちゃんと教官とのあれだったんですね。

最首:そうなんですよ。サークル連合ではないんです。

立岩:そうなんですよ。その話も最首さんの話に出て。ぼくらのイメージだと駒場の学友会ってサークル連合で、学友会館っていうのが生協の奥のほうにあって、そこに留年してるなんか古い人たちがたまってて、みたいなイメージだったんだけど、60年代あたまの学友会の機関誌であるとか、それに最首さんが書かれてる挨拶とか、もうちょっと折り目正しい感じするんだよ☆★。

川本・最首:(笑)

立岩:それね、丹波さんからコピーしたのをまたもらったりして、そのうち文字起こししちゃおうかなと思って。

会津:さっきのあれにからむと、最首塾ってぼく何やってるか知らないんですけど、最首塾では連続シンポの話というのがテーマになったことはない? エピソードにはなっても。でしょ?

最首:あんまり最首塾は関係ないなあ。

会津:関係ないんですね。

川本:思い出がよみがえったんで、ついでに。
 これはぼくが残してるシンポの数少ないレジュメなんですけど、折原さんが「マックス・ウェーバーと学園闘争」、あとで本になるやつだけど、それの第1回で「ウェーバー研究」ってので。これ、西村先生ももちろん、私にとってはほんとにオールスターでみなさん出られていて。ウェーバーをとにかく読み直すっていうんで。で、その時に前振りか何かでちょうど「東大の病理」みたいなのを丸山眞男に謹呈したら、「あんたみたいなのが」っていうはがきの返事が来たっていう話を聞いたんですよ。[01:29:56]
 この時に折原さんが、「こういうウェーバー読み直しをやりたいので、ほんとはここに来てる会津くんのような人たちと一緒に読みたいんだ」っていうふうに、ちょっと記憶があれなんだけど、そういうふうに言うわけ。
 で、なら会津さんがすぐに指名されたというよりかは、とにかく立ち上がって、ここには東大生がもう何人もいるわけだから、その東大生の人たちはなんで東大で学んでんですか? とか、なんでまだいるんですか? みたいな、ちょっと詰問のような問いを向けられて。私はもう答えに窮して手もあげないで黙ってたんですけど。そういう会ですね、この連続シンポ。
 でもさっき話聞いてて、ただたんに1回目だから会津さんが出たってだけじゃなくて、折原さんのウェーバー研究をちゃんとフォローなさって、しかもそれをこうやって内在的に折原さんの授業再開の論理というか非論理というか、それを批判されたっていうのを聞いてちょっと感心しました。
 その折原批判をなさった回っていうのは、たぶんでしょうけど、公開じゃないんですよね?

会津:それは実行委員会で四号館の部屋ですから、内輪だけ。

川本:内輪か。その記録が。もう一回読んでみたいなあ。

最首:こういうのを見るとね、まずこういうの…これだから折原さんが私はいやなんだけども、会津なんかはちゃんと関わるっていうんで。私はやっぱり、大学に行かないで、つまり「あいつはとうぜん東大に入ってくるだろうに、東大けっぽった」、それが第一ね。ところが「会津はまじめだ」って言うのでね、そこらへんが。私は非まじめなので、会津のまじめさをかってたんだよね。偉い若者だなあと思ってて。

会津:今最首さんは、非まじめって言わなかった?

最首:非まじめ(笑)。

会津:非まじめだよね。それはすごい覚えてますよ。不まじめではなくて非まじめなんだっていうね。
 最首さんがなんかシンポジウムしゃべってたのは、老子なんですよね。孟老の老子の思想か何かを言ってて。だからその、「無為に暮らすことに意味ある?」みたいなことを言われてたじゃないですか。それを非常に覚えてて。やっぱりそれと結びつけてたような気があるのは、生産性の論理の批判。「優位に暮らして世の中に役に立つものを作るという論理が、そのままかどうかわかりませんけど、諸悪の根源に近いんだ」ということはなんか言われてたような気がして。だから、「怠惰にだらだらしてること、何もしないことだって意味はあるんだ」と、「開き直っていいんだ」というようなところはだから折原とは違うみたいな。
 ぼくは共感はしてて、ぼくも大学行かないと決めてたわけ。ただ、行かないということだけで、そのカウンターというか、「じゃあどうするの」ってのがないとけっこうつらいんですよ。いろんな意味で。最首さん知ってると思うけど、柳川で武田桂二郎に怒られ、筑豊で上野英信にも嫌味というか「働いたら?」みたいなこと言われたりしたんで、そういう…。そりゃとうぜんそりゃそうだと思いますけども、ただ大学行かなかったのを含めて、なんか最初のうちは大学拒否とか言ってたんだけど、だんだんその【とうがかえて】(01:33:53)、行く積極的な理由がない、何のために行ってるのかよくわからない、かといって言われてることが大学に行く理由とは思えない。行かないっていうのはじゃあ何にもしないのかっていうね、その中途半端なとこにそのシンポジウムがあって。
 最首さんが言われたのはまだぼく高校にいる時だったと思うんですけど、居心地悪くはなかったですよね、西村さんも非常に親しく、

最首:私がいちばん覚えてるのは、学習院の哲学共闘が来て、その関係で彼らが組み立てたシンポジウムってのもあったりしてね。

川本:202とは別にですか?

最首:ううん、この【シンポジウム】(01:34:20)の中で。その一つがね、「一週間後ぐらいに世界が崩壊するとなったら今どうするんだ」ってね、これはいろいろとおもしろかったですよ。どうするか、ほんとどうするかっていうとね…。やっぱりそういう議論が私は好きだったわけね(笑)。だってもう要するに、何言ったってしょうがねえじゃねえかっていう、とにかくどうやって暴れるかとか、じーっと沈黙して石みたいになるのか、そこらへんのところで。ただ、「勉強する」なんてぜったい出てこないからね(笑)。そこらへんの議論が闘争、このシンポジウムの中心になればと思ってんのに、ウェーバーじゃしょうがねえじゃねえか! なんだなあ。[01:35:48]

丹波:今の学習院の哲学共闘のは106回に出てきますね☆。
☆ 解放連続シンポジウム『闘争と学問』 106、1971/2/6、'69〜'70学習院大哲学科共闘闘争報告、(学習院大哲学科共闘)

会津:今覚えてたのは、その「ウェーバーと学園闘争」の、ぼく1回目見つかんないんだけど、第2回目、135回ってのは自分のノートとけっこう書き込んだレジュメもあるんですけど、これちょっとコピーとったらまっ黒になっちゃったんでもう一回取り直す…今回使えないとあれなんで、あとで必要なら送りますけども。
 今回もう一つ聞きたかったのは、立岩さんのアーカイブ、あれはどういう収集ポリシーというか。こちらがどこまでお渡しして意味があんのかないのかってのがあんだけど、そこはどうなんですか?

立岩:お金と人の制約があるので、何でもかんでもは無理なんですけど、でもそこのなかで「大切だ、おもしろい」って思ったものはできるだけ入力して公開したいなっていうのは思ってます。
 ですから、まずこんどの「闘争と学問」とかそのシンポジウムってことで言えば、その第1回から、最終回がいつかわかんないって話もありますけど、「1、2、3、4でどういうテーマで誰が」っていう、そういう一覧みたいなものはまず作りたいなっていうのは思ってます。
 それについてのしかじか、みなさんが書かれたものとかあるのであれば、それをぜんぶ画像とか文字にするのは難しいかもしれないけど、とりあえず手元に置いて、これに関係する資料はあるよっていうのを知らせるとか。そんなんでぼちぼちやっていきたいなと思っております。

会津:なるほど。っていうのはですね、たぶん2010年から11年にかけて、持ってた資料のかなりを捨てたんですね。捨てざるをえなくなって。小学校のころからそのころまでの、仕事の時までの。どうしてもってんだけ残しといて、それが今たぶん段ボールに。シンポジウムとか高校で騒いでた時に書いてたビラとかはぜんぶあるんですけど。で、一度兄貴の紹介で立教大の共生社会研究センター、あそこのなんか女性が来て見てったんだけど、その時に残念ながらビラのたぐいはもう収拾できないって。だからかなり持ってたのをほぼ泣く泣く捨てたんですよね。
 いちおう、だから刊行物、つまり活字じゃなくてガリ版になってたり、それからこれは、ぼくその時に個人の、ぼくのノスタルジーというかで残しててもしょうがないなと。世の中的な、公的っていうか社会的に意義があると思われるものはなるべくとっておこうと。その判断基準ってのがものすごく難しいわけですけどね。刊行物でいうと、たとえば伝習館のやつなんかはわりとあれ、その前のあれを引き継いでんですね、共生センター。ミニコミなんとかだっけ? 埼玉の。そこが持てなくなったのを引き取って管理してるっていうふうに聞いていたんで。

立岩:そうです。埼玉大学にもとあったものが立教に移ったっていうふうに☆。
☆立教大学共生社会研究センター https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rcccs/

会津:そうそう、そこがかなりある程度整理されてて。そうすると、ぼくが持ってたんだけど、バックナンバーでないのだけ持ってくっていうかたちで、いくつかはお渡ししてる。ぜんぶでもう段ボール1個にもならなくて「減らなかったなあ」と。もう死ぬほどの資料を、半年かけてぜんぶ見て捨てたのね。***(01:40:00)たんで。終わったのがたぶん3月の9日とか。で、11日に地震が来んですよね。それでそっちの活動をまたいろいろやってたんですけど。
 で、今チャットにお送りしたのが、私が第2回の時にとったメモです。折原さんのだから、まじめにちゃんと、今の最首さんの話じゃないけど、まじめに聞いてこんなふうにしましたという。こんな感じでやってたわけですよ。[01:40:42]

川本:第2回ね。

会津:これはだいたい彼のレジュメを、とか話を聞きかじって写してただけのような気がするんですけど、こういうのもあんまりは残ってないと思います。だいたいいくと…「このあとは、もめたのだ。ジャーン!」と。で、「おなかがすいて…」。

川本:(笑) これはだから、あれだよ。会津さんがもましたんじゃない? 「私なんで東大いるんだ」って。

会津:いや、よく覚えてない。

立岩:こういうのは、たとえば会津さんがいいっておっしゃってくださるんであれば、まずはいただいて、捨てないで、っていうのは思います。それから、人手とがかけられれば画像にして。これはちょっと味があるので、かえってコンピューターで入力しちゃうよりも画像のほうが見栄えがするっていうかいい感じだと思うので、PDFでとっときたいですね。
 これはほんとに、ご本人がオッケーって言ってくださればどこに出してもいいものだと思うので。基本的に毎回リストと、リストに紐づけるっていうか、関係させるかたちでそのときどきのメモであったりっていう感じですかね。
 ぼくら今、ひと月に一回じゃないですけど、年に数回、一回段ボール15〜6とか、いちばん多いときは100箱ぐらいもらいものがあって、今もうすぐキャパいっぱいになるので、大学当局になんとか拡げてくれって交渉していて。なんとかするというか、なんとかなると思ってるんですけど。というわけで、捨てるのはもったいないっていう、そういう感じです。

会津:余談になりますけど、ぼくはさっきの「情報社会ってやつがどうできたか」というの、日本のね、あれっていうのを文献を自分で持ってたやつを、さっきのその発達障害のやつを助手にして、こうやって今ごらんになれるように。これグーグルドライブに。うちにあるのをぜんぶスキャンしてPDFにして、彼愛媛にいんで、送って。こういう書誌情報みたいなのを書かして。わりと素人、ぼくも素人なんでやってるんですけどね。問題はこういう新聞とかね、あって。この著作権、クリアランスどうすんだってのを突っ込まれればね、あれなんですけど。これはデータの一覧ですけど現物も別のファイルにあって、ここの連番で引けばぜんぶどれでも出てくるようになってて。ただ、使いこなしてるわけじゃないんですけど。
 だから、自分が書いた記事でも版権っていうのは出版社が持ってたりすると、公開したらいちゃもんがつく危険性があるわけですよね。ほんとに裁判するかどうかってのはぼくは疑問なんですけど。Wikipedia(ウィキペディア)的に言えばほんとは集合的にやってけば…。今はぼくはグーグルドライブにやってるだけなんですけど、ちゃんとやって…。
 で、ぼくはいずれ今のやつも公開するつもりでいるんですけど、その時に限定で研究者の調査用に使う、アンド、明らかに公益的なことに使うみたいなのを入れといて。訴訟しにくくするように。されるかもしれないけど、まあ99パーセント訴えないと思ってんですよ、この程度では。積極的に著作権侵害してるわけじゃないから。だけど形式的に文句言うやつはいるし、大学事務とかそういうのうるさいじゃないですか。

立岩:そうなんですよ。メディアの側はむしろ言ってこないと思います。ぼく、何十年もこういうことやってきましたけど、ほぼ一回もないぐらいですね。ただ、大学の法務コンプライアンス室とかにいっちゃうと、そっちはもうだめって言わざるをえないっていうか、言ってくるんですよね。で、話がめんどくさいことになって。そういう状況です。

会津:言わない、ないしは聞かないっていうので。逆にやっぱり資料はどれが必要になるかわかんないわけですよね。

立岩:わかんないんです。それをより分けるっていう作業は膨大な作業になる。ほんとはやったほうがいいんですけど、でも捨てるよりはあったほうがいいっていうのはぼくの感じで、「ただとっとくだけじゃしょうがない」っていうのはごもっともなんだが、でもまず捨てないことっていうのは大切かな。[01:45:08]

会津:まず捨てなくて。今ようやく、だから情報化社会のところはさっきNTTからのお金が出たので、一人分の助手を雇ってても何とかなるんで、ときどきやらしてるんですけどね。
 今実は、そんなにめちゃくちゃお金がかかるわけではないんですよね。外注したら大変ですけどね。というのはあって。だから今の、手元にいろいろあるのどうしようかな。
 ただ、自分の時間もかかるんですよね、これ。整理してくと。もう山のようにあるので。だからそこがどうかなという。
 だからそれが今日ので。シンポジウムの顛末…。最首さんが、八木下さんと横田・横塚どっちが先だったかみたいな話がひとつ、ぽろっとあったのがきっかけでしょ? ぼく買ってちゃんと読んでないけど、八木下さんの本が出てますよね。


UP:20221127 REV:
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