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会津泉氏インタビュー・2

2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom

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会津 泉 i2022a インタビュー・1 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom
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会津 泉 i2022c インタビュー・3 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom
会津 泉 i2022d インタビュー・4 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom

東京大学やその周りでの 解放連続シンポジウム『闘争と学問』
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 【rmk19】会津泉_最首悟_川本隆史インタビュー(20221021)_156分


「闘争と学問」

会津:シンポジウムの話になると、ぼくは高校生の時にすでに始まってたので、第1回いつ行ったかよく覚えてないんだけど、伝習館の時には行ったのは覚えてて記録もあります。いろいろ整理してない記録を今、資料をがさがさやってたら、なぜかここにファイルが出てきて。第3回の連続シンポ☆のメモがあるんですよ。「生活、学問…」、どう見てもぼくの字じゃなくて兄貴の字です。これが何十枚かのメモがあります。本人はたぶんぼくが持ってるとも知らなくて、たぶん【逗子】(00:32:24)からぼくが勝手に持ってきた、どさくさに紛れ込んじゃったのか、「お前が持ってろ」って言ったのか。たぶんそうではないと思うんですが。ここにいろいろ記録があるのと、ビラもたとえば17回のこんなのがあったりですね。コピーがいいかオリジナルがいいかはあとでちょっといろいろご相談して、共有できるものはぜんぶシェアしたいと思います。
 ぼくの場合は、連続シンポとの付き合いはかなりの部分は西村先生。もろもろいろいろ長くなりますけど、ぼくの親父を戦争中からよく知ってる矢内原忠雄の家庭集会のメンバーで、うちの親のほうがちょっと上だったのかな、というようなこともあって。うちの母親もそのメンバーだし、西村さんの奥さんの【タダコ】(00:33:36)さんもメンバーで。っていうかなり、とくに無教会の矢内原忠雄の一派の、西村さんも中心人物の一人ですし、ぼくはたしか小学校上がる前から聖書学校という、都立大であったり、今井館聖書学校ってのがあるんですけど、西村さんがそこの先生で、小・中・高とずっと毎月一回ぐらいは中学の時から行ってて。で、高校1年の時に彼がとつぜんっていうか、夏期学校と称する三泊四日ぐらいの合宿を山形県のキリスト教独立学園っていうところでやりました。そこに十何人の高校生が集まって。彼はやっぱり、大学に問題があるっていうことをもちろん感じてたわけですけど、高校生たちにもそこを伝えて何かしたかったわけですね。その無教会のお嬢さんお坊ちゃんを集めて十何人でわいわいやって。それがぼくの高1の夏休みです。
 数週間後にはもう「大学行かない」とぼくは言いだして。「こんなに現状問題がある。そのまま行くのはおかしいんじゃないか」と言って。ただ、正確に言うと大学に行かない前に「キリスト教独立学園に行きたい」と言ったのね。親は…親って母親だけだったんですけど、ノーとは言えずに。母親は私立の高校の教員で、担任してた生徒が自殺しっちゃったりとか、けっこういろいろ大変な目に遭ってたんですけど、反論はできなくて、いちおう申し込んだら拒否されましてですね。断られて。たぶんそういう、跳んだり跳ねたりしてるやつが来たら…田舎のキリスト教の学校なんですけど、ぐちゃぐちゃにされるだろうっていうのがあったらしく。そのおかげでぼくは大学に行かないということにして。ただべつに、やめて働くという選択肢もなかったので、卒業まではいました。[00:35:37]
 その間いろいろ高校で騒いだりして処分寸前まで行ってるんですけど…とかっていうのがあって。で、「大学に行かない。どうする?」っていう時のオルタナティブが、いわば「自分で勉強する」と。でも自分で勉強するってのは、一人で勉強するのも勉強にならないので、勉強できる環境なり何かっていうなかの有力な選択肢だったのは、東大駒場の「闘争と学問」。高校生の時から行ってたのである程度わかってましたけど。
 したがって、連続シンポジウムの始まりにはぼくはまったくタッチしてません。折原さんは二人名前出してましたけど、誰だっけ? ぼくはさっきのあの本も持ってたんですけど。『東大闘争と原発事故』。これに書かれてる部分ありましたよね。[00:36:37]
☆ 3、1969/12/9、生活・闘争・模索、(文学部社会学共闘)

川本:折原さんと、

会津:灰庭〔久博〕さん☆と何とかって書いてあったよね。
☆ 灰庭 久博(19530322〜19780418)
川本:灰庭くん。学生ですよね。

丹波:あとヤマモトカズキさんですかね。

会津:私の記憶では、テラヤマさんとか。最首さんテラヤマ覚えてない?

最首:覚えてる。

会津:駒場共闘? あと助手のアンドウ。ここに入ってない。折原さんはメモしてないけど、テラヤマとかアンドウとか。時期によって人の関わり方が変わってくるんであれなんですけど。熊本さんはかなりやったけど。熊本、ハエニワ。久保田は水俣病のほうが多かったので、ゲスト的に来てたという記憶があります。
 ぼくは71年に卒業して、4月からこのシンポジウム実行委員会事務局に通うようになるわけです。ほぼ毎日。そのころにヤマグチカズヒコって言ったかな? ヤマグチっていうのが、ちょっと下の名前が思い出せなくて彼に申し訳ないんだけど、駒場の近くに下宿してて。彼も大学行かないでシンポに入りびたりをしてました。もう一人、岩立京子。今名前変わってタンノ京子ってなってますけど。東大の女子学生だったんだけどなぜか入りびたりするようになってて。岩立さんがたぶん、「八木下さんを囲む会」はいちばんよく知ってると思います。彼女はそうとう。ここ数年会ってないんだけど連絡先は持ってんで、連絡してつかまえればしゃべることは可能だと思われます。
 それぞれそれぞれの理由でそこに集まってたんですけど、ぼくと三人ともたぶん、あそこの正門の横の守衛さんに西村さんが証明書みたいなのをなんか作ったかなんかで顔パスで。そこへ行くと事務局の4号館の2階の事務所、あの鍵をわれわれは借りることができました。東大の学生はできないんですけど。だから、西村さんいてもいなくても行って鍵開けて、終わると鍵戻して。「ちゃんと石油ストーブの火の始末したか?」とか言われたりしながら。というようなことをやって。
 たしかあの時毎回参加者アンケートやってたような気がするんだけど、いわば事務局のアンケートとか集計したり議論したり、次の準備したり。わりと物理的な準備。
 テーマに関しては、そのころになるともうテラヤマさんたちはいなくなって熊本は残ってて。たぶん毎週1回やったかやらないかぐらいだったと思いますが、だいたいぼくは約1年ぐらいはそこにいて、そのうち「おまえ就職しろ」というのがあっちこちから飛んできて、西村先生の紹介で彼の教え子だった印刷屋さんの社長んとこ行って、そこに入ってますね。[00:40:09]
 ついでに言うとその彼は、凸版印刷を辞めて脱サラなんだけど、空襲で右手の半分なくして。ただし東大出なので、東大の農学部から始めて、農学部プリントセンター、図書館の総合何とかサービス、東大に出入りする印刷屋さんで。ぼくは巣鴨の外のほうに入ったんですけど、のちに潰れてます、印刷屋としては。障害者が半分ぐらい、あるいは半分以上いました。厚生省のモデル事業、モデル工場になろうとして反対もあって断念するんですけど。ただそこに、龍渓書舎という今でもある出版社があります。
 これはやっぱり、反戦教員だったフナバシとタカセという二人を雇って復刻版を出してった出版社なんですけど、実はここはとんでもない出版社で。親会社に印刷代金払わないんですよ、ほとんど。で、その親会社の社員は「障害者だから」っていうことで、ふつうの半分ぐらいしか給料を出さない。で、ぼくらのほうが高かったりして。そこにいろいろ矛盾があって、そこにオイルショックとかもう大変なことになるわけですけど、いちおうそれ半分ぐらいはぼく書いてますけど。ちょっとどこにも出してないけど。
 要は、障害者を搾取して新左翼崩れが中国ものとかその他日本の南京虐殺とかの本を出すという、きわめて明確な二重構造で、まったく恥じることなくやってたんですね。いまだにあの会社が続いてるのがちょっとびっくり。しかもなんか社長、印刷屋つぶしてそっちだけ残ってるみたいで、その経緯はつい最近わかったんですけど。そこにはスモン病から聴覚障害、難聴、肢体不自由、その他いろんな障害持ってる人がいました。ぼくらやっぱりそこで働いてて、そこの格差っていうか差別っていうのをもう目の当たりにするわけですけども。それこそ最首さんもおっしゃってるように、踏みつける側にいるわけですよね。「そうじゃない側に」って、簡単にいけないわけで。それでも一緒になって賃上げ闘争とかさんざんやって。「会社をつぶすか、ぼくらが辞めるか」っていうんで辞めた、という経緯があります。

■伝習館闘争
 そのポジションからみると、連続シンポジウムっていうのはある意味では、あまりリアリティーがない。つまり、「よそで何かしてるものを持ち込んで抽象的に議論する場」だっていうふうに、今から考えると思います。
 もう一つ重要なのが、伝習館闘争と言われてたやつで。これが70年、どっちだったかな、シンポジウムで茅嶋さんがやってきて、折原さんがホストして司会して、伝習館の6月かだったかな。処分になったあとでやってんで。そこにはぼくも行って。それで、それを受けて「東京伝習館救援会」っていうのができたんですね。最初のうちは折原さんがわりと中心で。西村さんもわりと積極的にやってたんですけど、途中でさっきのヤマグチとかぼくとか何人かで、乗っ取ったんです。大人から。別の言い方をすると、教員中心の伝習館闘争、もともと生徒の主体性のほうがだいじで、茅嶋さんなんかも「自主的に考えろ」とか言って。実はあまり知られてないですけど、高校闘争が非常に盛んだったんですね。伝習館高校そのものが。何十人も。社会科の教員が三人くびになるんですけど、くびになった理由が「反戦教育をした」と言われてるんですけど、どっちが先かわからないぐらい。つまり、生徒たちがんがんやってたので「ああなったのはこの三人のせいだ」と見せしめ処分をしたと。本当にその三人の授業が生徒に影響を与えたのか、彼らが影響されたのか、よくわからないんですけど。ぼくらはそれとは別に、自分の学校もそうでしたけど、教員は敵だったわけで、教師とその教育体制をどうやって壊すか、変えるかって、これどこでも同じだと思うんですけど、つまり、そっちが踏みつけられてる側になるわけですね。
 そうすると、最首さんはあのころ助手だったから中途半端なんだけど(笑)、折原さんが授業できなくなったのは、その教員の特権にいることに対してのあれを見いだせなかったってことがあるはずなのね。あんまりはっきり言ってなかった。西村さんはやっぱりそこの反省はずっとわりとあって、もともと「進学相談室っていうのは、どうやって学生が自分で主体的に進路を選べるか、それをサポートするのが自分の仕事だ」っていうふうにおっしゃってたわけで。ぼくはよく、事務所で昼間暇なときは学生が相談やってくると「君も一緒に聞きなさいよ」とか言われてですね、東大生の悩みに付き合わされてたわけですよ。[00:44:59]
 ということで、そういう意味ではだんだんその駒場には、ほかからも、高校出たけどどこにも行かないとか、在学してるけど受験しないとかっていうので、10人ぐらい集まって。大学に行ってても居所のないやつとかっていうんで。それで東京伝習館救援会はTDQ(ディーディーキュー)と略語をつけて、ヤング、1年ぐらい経ってからかな…これは記録かなりあるんで。毎月通信を出し、季刊で雑誌を出しっていうのをそうとうやってますので、こんなに山のようになってるんですけど。
 かなり意図的に、伝習館って。つまり、水俣が公害分野のわりと象徴的な運動で、三里塚が農民闘争というふうに言われてて、あとから八木下さんを囲む会とか、やっぱり障害者差別をどうするんだと。で、教育問題というと伝習館っていうふうに、わりとそういうくくりをして。だから、ぼくは水俣はやらないで伝習館はやると。水俣は兄貴がそのころやってたし、のちにぼくのかみさんになる彼女もやってたし、等々あってですね。棲み分けでもないけど。それは大学の学校の中での全共闘その他、ぼくも高校の中でいろいろやったのが、一回ほぼみんな全滅になった時に、それぞれのテーマを選んで残党どもが残ってったのかなと。公害ももちろんその、水俣というか、大きなあれですけど。だから、全国のいろんな教育問題で闘ってる人たちが集まってくる旗印が伝習館だったわけです。そういう大会とかシンポジウムとかずいぶんやりましたので。ということがあって、のちにTDQのメンバーは神保町に事務所を借りて、毎日誰かが詰めて当番をやって連絡をいろいろしたり、毎週事務局会議をやるみたいなことで、そうとう密な集まりがあって。だんだんばらけてって最後消えていくんですけど、そういうプロセスがあったりします。
 で、連続シンポの顛末。ちょっとね、ぼく探してて。私が書いたレポートが見つからないんであれなんですけど、折原さんが書かれてることもあながち嘘ではないんですけど、ここね、あんまりはっきりしてなかった大議論、たぶん最首さん覚えてるかな? 彼が授業拒否をやめて復帰するという時のメモというか、配った文章とかあって、あとご説明もあったんだけど、はっきり言うと支離滅裂だと思ったわけです。非常に論理的に書いてあるように見えるんだけど。その前に中国に招待されて、なんかイシダさんか何かと行ったのかな。かぶれて帰ってきちゃったんですね。「文革すばらしい。毛沢東すごい」みたいな。最首さん、そこ覚えてます? あんまり覚えてない? ぼくはね、かなり鮮烈に。それまであれだけウェーバーで合理性とかといってそのロジックを大事にしてた人が、なんか一回行って帰ってきただけで完全に洗脳されたなと。

最首:そうだっけ。

会津:うん。それがそのクエスチョンの一つで。で、おそらく、それからしばらくは彼、今でいうとこのうつになってたんですね。ノイローゼ。来れなくなったりして。それはだから、中国うんぬんというよりも、東大の授業をしないことで給料泥棒をしてることへの批判もある…批判も、表立って議論でも誰かしてくれれば彼もむきになって反論したんだと思うんですけど、飼い殺しになってたと思うんですね。

最首:そうそう。居直れないんだわな。「給料泥棒でいいや」って言えなかったんだな。

会津:居直れたのが最首さんで。

最首:(笑)

会津:ぼくなんかはもうだから、微妙なとこだって。大学行かないけど1年間は親から生活費もらってたけど、「それ4年分ちょうだいよ」つったぐらいですから。「兄貴に出すのになんでぼくに出さないの?」と。1年でぼくは辞めましたけどね。兄貴は大学院まで6年ぐらいやってたと思うんです(笑)。なんですけど、折原さんやっぱりそこは、よく言えばくそまじめで、あるいは情緒的に弱かったんですね。

川本:丸山眞男が、折原さんの『東大の病理』(00:49:43)っていう本を送られて。「あんたみたいなのが駒場で教員やってんのが東大の病理だ」っていうふうに手紙書いてきてんのね(笑)☆★。[00:49:53]

会津:同病相憐れむのような気がしないでもない。(笑)
 なので、それでたぶんシンポジウムをどうするかという実行委員会があって、2回ぐらいやったかな。ぼくはその折原批判をレポートでたぶん10枚ぐらい書いたんですけど、けっこう彼のウェーバーについて書いた本とか、『危機における人間と学問』もたぶん使ったと思いますけども。けっこうぼくは彼に心酔してた部分があったので。これも探してんだけど、東大入ってしばらくして彼は自分の歴史を書いてますよね、生まれた時からの。知事の息子で生まれてうんぬんという。柏原兵三と一緒に出してる、なんとかっていう同人誌に二回連載で書いて☆★。ぼくはそれ、折原さんがもらってるから。
 で、伝習館のあれだったか、折原宅にも何回も行って泊めてもらったりね、慶子さんにごちそうになったり、ずいぶんしてるんですよ。ところが、非常に尊敬してた折原先生がだんだん。病気になったのはしょうがない。で、ぼくはたしか、病気なら病気で「もうもたないから復帰する」と、「生活のためだ」って言えばいいのにってのはすごく思ってたし、たしか言った気もすると思うんだけど、彼はやっぱりプライドが強いからそこは認められないんですよね、負けたとか。「闘い続ける」とか言ってたわけですよね。「軍門に降って負けました」ってさっさと牢屋にでもぶち込まれればいいんだけど(笑)、そういうかたではないし、東大もみなさん紳士的だから。紳士的に何ていうかね、真綿で包んでくわけじゃないですか。だからそこに彼は行って、だんだん居心地良くなったように思います。のちのあれを見てるとね。やっぱ先生になって、秩序の中で闘う。
 ぼくはだからその時に、つまるところ、彼のそのいわゆる、目的合理性と整合合理性っていうのを峻別したっていうのがヴェーバーのひとつの大きなあれだということを、たぶん『危機における人間と学問』で、ほかにもあるんでしょうけど、そうとう強く延々と書かれてたので、折原さんはそこでご自分の目的合理性と整合合理性がギャップができちゃって、うまくつじつま合わない話を始めたとぼくは思ったわけです。授業に戻る時にね。
 もう一つはやっぱり、知性を重視してたんで。これは山本義隆☆★も『知性の叛乱』って、最初は。最後まで言ってたわけじゃないですよね?

最首:うん、ほんと(笑)。

会津:だったら物理学者で最後まであれなんだけど。だから、知性とか理性とか合理性っていうのは、ぼくはやっぱり社会のある部分に過ぎないと思ってました。大事だけど。ただ、「なんでそんなに知性のほうがほかのものよりも優位なんですか?」っていう議論をした記憶があります、その時。で、かれは「主知主義」と言ったわけですね。で、ぼくは「その主知主義の根拠を合理的に説明してください」と。これは彼は答えられなかったっていう記憶はあります。記録はちょっとないんだけど。答えられるわけない…「功利だ」って言ったか言ってないかちょっと覚えてないんですけど、それはもうずっとデカルトであったりヘーゲルだってもう同じ問題がずっとあると思うんですけど、そういうところでぼくはあんだけそのすばらしい理論っていうか展開をしてても、ベースのところがご自分の生き方と議論の根本のところの説得力が足んないと思って。でもべつにそれは折原さんが悪いわけでも何でもないんであって、そんなこと答えられたらみんなもっと幸せになってると思うんですけどね。[00:54:30]
 それともう一つは、シンポジウム続かなくなったのはその論争だけではなくて、おそらく、ぼくとかヤマグチとか当時事務局を支えてた連中がもう就職して。ヤマグチは郵便局でバイトをしてたのがどこかへ就職したり、駒場から本郷へ進学する人が出るとかいうことで、昼間あそこをつづけることが難しくなってたんですね。
 もう一つは、西村さんが、これはちょっと時期がはっきりしないんだけど、息子の自殺ってのがあったんですね、ヤスシくんの。これが…じょじょに効いてきて。奥さん含めて二人ともやっぱりかなり神経をやられて、ひところ二人で伊豆のほうに入院してましたよね。短期ですけど。で、同時にやっぱりその障害者…西村さんはやっぱり八木下さんの告発を非常に重く受け止めてまして、やっぱり特権的な教員で東大にいて世の中を差別する側にまわってるってことを、どうやったらそこから変えられるかといって。中から変えられるかって思ってたけどどうも自分には無理だみたいな感じで思われたと思うんで、結果的には北海道に行かれましたね。北海道の施設に。福祉施設に。
 その前ぐらいからそうですけど、最首さん覚えてるかも知れない。ジーンズに洋服を取り換えて、ラフなかっこをするようになって、すごく楽になったって言ってたでしょ? 亡くなったヤッちゃんが「もっと親父、下に降りてこい」って言ってたって話をずいぶん。「そんな高いとこにいないで降りてくれば楽になる」っていうね。その意味がわかるようなわかんないんだって。頭の中でわかるのか生活としてわかるのかって、やっぱり後者にいかなくちゃだめだってふうに彼は言われたような気がします。
 ちなみに言うと、彼はぼくとかみさんの仲人してます、結婚する時の。だからそうとう距離的には近い人だったんで。残念ながら亡くなった時はぼくはマレーシアにいたんで、葬式とか行かれなくて。西村先生は一回その前に脳梗塞か何かで倒れて。それは北海道に行く前かな? もうだめだってなったのに奇跡的に…。ふすま外してぜんぶ家族準備してたのに生き返っちゃった時もあってですね。そっから5年ぐらいは元気だったと思うんですけど。で、北海道へ行ってずっとお元気で、帰って世田谷にあれしてというのもあって、やっぱり障害者の施設で福祉のために働くほうが自分にとっては生きがいもあるし、手応えもあると思われてたと思います。それで世田谷の授産施設に戻られて。引退されるまで管理職もされてたと思いますけど。
 その時に、八木下〔浩一〕さんとの話でちょっと覚えてないのは、横田、横塚と、八木下と、どっちが先にどうだったかっていうのはちょっと今の時点ではわかりません。ぼくのおぼろげな記憶では、先に八木下さんを呼んで話を聞いているわけですね、このシンポジウムで。それが2回あったんじゃないかな、違ったかな? 1回だけだったかな?

川本:ぼくは立看を見た記憶がありますね。八木下さんが来る時の。

会津:あのころのシンポジウムで、テーマによっては告発する側とさせる側の激論というか議論がいつもあったの、最首さん覚えてる? 「おまえらは差別してる側じゃないか!」って、夜間中学のタカノさんとか。八木下さんはそこまできつく言わないけど、かなりずけずけ言ってきたし、ほかでもやっぱり。東大に来るっていうだけで、東大じゃない人から見ると「悪の塊」みたいなとこに(笑)。個々人の問題じゃなくて。最首さんはそうでもないかもしれないけど、西村さんとかまじめだから受け止めちゃうわけですよね。

最首:そうそう。

会津:そういう構造。ぼくらも高校生だったり学生の側から見て「教師ってのはわかってないじゃないか」ってのはしょっちゅう平気で言ってましたから。
 そこにもう一人、鵜木さんって、身体障害持った東大の学生。本郷まで行った。たしかね、全共闘、駒場共闘だったか覚えてないけど。下の名前がこれに書いてないんですけど、これでいうと116回をウノキさんがしゃべってるわけです。「教育における差別の三」として☆。彼も事務局によく来てて、ぼくけっこう事務局では話をしたのも覚えてて。「自分は障害者なんだけど、東大生なんだよね」というようなことで。それ以上はあんまり詳しいことは覚えてないんですけど、そうとう…もちろん西村さんともそういう議論したりしてるので。八木下さんの問題に鵜木さんがつなげたかどうかははっきり覚えてないし、たぶん違ったんじゃないかっていう気はしますけど。[01:00:29]
 あとは、子ども病院の先生も来てましたね。国立小児病院か。「病児「とか「障害児」っていうテーマもあったし、「教育と差別」という中でも、教育のど真ん中じゃないその周辺と思われてる定時制高校、これ【オガナ】(01:00:53)さんがやってるのと、そのあとが夜間中学は、タカノさんがどこでひっかかってきたのかあんまりはっきり覚えてないけど、たぶんあの時ハットリカズコっていう、第一商業出て都立大行った、やっぱり教育と差別の問題をかなり突っ込んで、伝習館から絡んできて、たぶんタカノさんに声かけたのはハットリさんだと思います。で、ハットリカズコはたぶん10年後ぐらいに山で転落死してます。単独行らしいんで。だんながハセガワマサルっていう、ハセガワケンって書いてかしこいでハセガワマサル。これも駒場にたしか出入りしてて。ハットリカズコは家が駒場のすぐ近くだったのね。で、ハセガワが失恋してですね、大騒ぎになった時に、ハットリがけっこうカバーしにいって。といってるうちに二人仲良くなって結婚しちゃったという。ぼくとヤマグチはそのへんをけっこうよく知ってたんです。ぼくとヤマグチとハセガワとハットリ、その4人でよく食べたり。あんまり飲まなかったけど議論したりってのはしてたんですけど。そう、ハットリさんの家にも行ったな。タカノさんを呼んできたのはたぶん彼女で。そういうふうに、自分が知ってるテーマを持ち込んで、西村さんとか折原さんなんかと「いいんじゃないの」ってなると、それで「じゃあ呼んでこよう」みたいになったことはよくあったと思います。
 八木下さんの、あとでもうこれあれですよね、150回で府中療育センターやってますよね☆。府中の時誰だったかな? ちょっと名前忘れちゃったけど。とか、あとその府中は二度やってますね、「府中からの告発A」をを159回でやってるから☆。これも何となくなんですけど、その会合に横塚さんとか横田さんが乗り込んできて、八木下さんとは別にそれこそ告発をしてたんじゃないかなというようなおぼろげな記憶はあります。そっか、163回だから『さようならCP(シーピー)』の時来てるもんね。それが今回この一枚紙であとで出てきた中に書いてある162回。この時たぶん、163か、たぶん監督、彼、原一男も来てたような気がします☆。
 おぼろげの記憶でいうとそんな感じで、おおまかに言うと、その「教育と障害者」の話になるとわりと西村さんが積極的にリードしてたっていうのがあります。
 もう一つは、夜学というのを始めたってのは途中からあると思うんですけど、昼間やってたって、昼間暇な人は学生さんじゃんっていうのがあって。これたぶん、77回のムラタエイイチを呼んだ時に、かっこがかぎかっこになったのが夜学ですね。で、たしか6時からだったか忘れたけど、やってて。だから、しゃべる人もこれ教員とかっていうと、昼間仕事して終わってから来るとか、そういうのもあったし、聞く人もそう。
 そういうふうに展開するまでもそうとうかかってるわけですけども、おそらく東大の、最初はわりと中の問題から始めて、だんだん公害もそうですけど、外側の問題で人を呼んできたりするうちに「やっぱり夜やらないと」みたいなものがあって夜学になるようになって。たしかこちら、ぼくも働き始めてると昼間行かれないわけですから、それが重なってたかどうかちょっとよく覚えてないけどその可能性も…。ちょっと待ってね、ぼくは働いたのは72年からだから、直接…72年の3月からなんで、ひっかかってるかな? もう最後のほうですね。161回が72年の4月で160回が2月ですから、この間にぼくはもう働き始めてるから。というような感じですね。[01:05:25]
 もう一つは、夜学というのはシリーズで。「身体障害と教育」ってご存知ですか? 「夜学の記録」というパンフレットを出して。これが「身体障害と教育」と、夜間中学と、あと一つか二つあって。おぼろげな記録であれなんですけど、岩立さんが起こしたか、ぼくが起こしたか、一緒にやったか。西村さんがわりと積極的にこれをやって。岩立さんが第1回に【「だいなし」】(01:26:26)と称して原稿を書いてるんですよね。それが「八木下さんを囲む会」というのに派生していくわけです。彼を中心にして。連続シンポジウムではなくて、八木下さんを囲む会って。これは資料の第1回のところに書いてあるので、これもしあれでしたらあとでぜんぶ送りますけれども。余分もあるので。
 八木下さんは提案してんだな。「6月19日のシンポでの提案を受けて、八木下さんを囲む会が7月25日にできて、以後毎月一回行われてる」ということなので。「障害者と施設で働く主婦・学生・教師と毎回30人ぐらい」というので、いろんな。「第1回がヒラタくんという脳性麻痺の人の話、第2回、3回はヤマザキくん等々」っていうんで、ここにその横田さんたちが来たかどうかはあれですけど、ちょっとたぶん違ってたんじゃないかなっていう感じがします。これができてんのが12月ですから半年後ですね。第1回の八木下さんを呼んでから。その最後に「今後以下のようなものを出すのを計画してます」って、教育だけのシリーズでテーマが20個ぐらい並んでるんですけど、実際に出たのが夜間中学ともう一つだったかな、そんなにはできなかったんですけど。自分たちでテープ起こししてましたから、けっこうたいへんだった気がしますね。
 で、これ売ってましたね。カンパ100円とかで。ここ見ると連番で5450って出てますから5000部とか出てるんで。シンポジウムのあれが、ぼくの持ってる、番号が多いほうが1320番で、これもたぶん2000ぐらいは刷ってたかな。これはカンパ30円なんですけど。っていうようなことで、運営費は完全カンパでやってましたんで、そういう意味でもこういうのを出してお金を少し。印刷代にあてるぐらいでしたけど。
 それからここに、八木下くんを囲む会っていうのの第1回のメモがありまして。字を見るとおそらくぼくのかみさんの字だと思います。5、6ページあります。
 それから『朝日ジャーナル』の「自らをして毒虫とせよ」☆という、自分が障害を持ってるってことの原稿が5ページあるんですけど、ペンネームが…これが鵜木さんだと思います。「【ナギ クエヒコ】(01:09:40)東大学生 70年9月」ということで。これが「自らをして毒虫とせよ 自主講座」って書いてあるんで、彼が連続シンポでしゃべったことをもとにしてまとめたか、まとめたものをしゃべったのか、どっちが先なのかわかりません。何らかの関係はあったんじゃないかと思います。
 ぼくの記憶ではこのへんの議論になると折原さんはほとんど発言しなかったというか。あいまいですが、そういう印象があります。
 一通り今日のお話として思いついたことはとりあえずしゃべったような気がします。[01:10:30]
☆ 〔116〕、1971/4/28、教育における差別B――身体障害と教育、(鵜木)
☆ 〔150〕、1971/12/4、府中療育センターのなかから
☆ 〔159〕、1972/2/11、府中からの告発A、(府中療育センター在所生)
☆ 163、1972/4/29、映画とシンポジウム“さようならCP”、(横塚晃一横田弘
☆ http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-d75c.html
 「昔々の大昔、1970年。私が朝日ジャーナルに書いた文章の一部をお目にかけます。22歳、若くって気負いばっかりで、生硬な文章で、こっぱずかしいったらありゃしない。でもまぁ、私が書いたということは確かですから、責任は取ります。ではどうぞ。
 <以下、引用文>------------------------------
 「自らをして毒虫とせよ」 自主講座  朝日ジャーナル 1970.9.27 報告者 和 崩彦(なぎ くえびこ)」


UP:20221127 REV:
会津 泉  ◇東京大学やその周りでの  ◇声の記録  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
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