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佐藤静氏・江頭英至氏インタビュー 2

2022/10/13 聞き手:立岩 真也

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◇佐藤 静・江頭 英至 i2022a インタビュー・1 2022/10/13 聞き手:立岩真也 於:東京・神保町
◆佐藤 静・江頭 英至 i2022b インタビュー・2 2022/10/13 聞き手:立岩真也 於:東京・神保町 (本頁)
 ※2つに分けたインタビュー記録の2です。

金井 康治・金井闘争  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 【rmk18-1】20221013佐藤静・江頭英至_126分


佐藤:そうそうそう。
 そのあと「サニーレタスの会」っていうの作っていろいろやってたんですけど、たいしょう〔斉藤龍一郎〕のところにそのサニーレタスの…。たいしょう、ほら、いろんな人の面倒見をしてたので、サニーレタスの会の資料がいっぱい残ってましたね。だからきっとたいしょうがムスケル☆とかやってたんじゃないかと思う。部落解放同盟の足立のところとか、たいしょうの書店とかで印刷ができたりしたんで、そういうのの資料なんかをたいしょうが作ってたんじゃないのかなっていう感じだった。
☆「ムスケル」 日本俗語辞典 http://zokugo-dict.com/33mu/muskel.htm ここでは印刷作業のこと。


立岩:この三人はそんなに歳変わんないとか感じで。だけど、斉藤さんは5つぐらい上でしょ?

佐藤:でもたいしょうもずるずる大学にいたじゃない? 私がいた時まだ卒業してなかったかなあ。

江頭:してなかった。

佐藤:それで9月卒業だったんですよ。卒業させたい人がいて、9月に卒業したみたいな。で、たいしょうのことを〔高橋〕秀年が「どうせ卒業したんだ、おまえは」みたいな感じでなんかよくつっついてましたけど。

立岩:東大の場合だと77年っていうのが「東大百年」っていうんで、「反百年祭」っていうのがあって文学部でそういう動きがあったり、占拠した学生がいた文学部長室から火が出たりとか、いろいろあったんですよね☆。そういう時期でもあったんだけど、学校の中でのごちゃごちゃごちゃごちゃしたことと、金井さんなら金井さんの話っていうのの。
 斉藤さんは、たいしょうはどういう入(はい)り方で会員に入るの?
☆→東京大学やその周りでの

佐藤:福祉研だと思う。たいしょうが作った福祉研に、イチマルさんっていう人とたいしょうと秀年と、その3人が最初福祉研のメンバーだったんじゃないかな?

江頭:コウヅキくんって。

佐藤:あー、ベンコロ。コウヅキくんはそれで、福田会にずっと行ってたじゃない。

江頭:そうだっけな。

佐藤:福田会にほとんど就職したみたいになって、彼が中退しちゃって姫路に帰った。

立岩:大学にいたけど大学途中で辞めちゃったってこと?

佐藤:そう。それでほとんど福田会の人みたいになって。彼はなんか福田会と波長が合ったのか、ほとんど福田会の職員みたいにして、そのまんまだった。

立岩:じゃあ福祉研っていうのはむちゃくちゃ前からあったわけではなくて、作っちゃえっていう感じで、斉藤さんとあのへんが三人で作っちゃったみたいな。そういうことなんだ。

佐藤:そうだと思う、最初。イチマルさんとか。

江頭:たいしょうの書いてるもの読んでも、誰かに誘われて入ったみたいなのは秀年の話しか出てこないもんね。[00:55:04]

佐藤:だと思う。たいしょうはなんか一時、あの百年のあとで、出火事件があったあとに、実家に帰ったんじゃないのかな。休学してだか。

立岩:なんかそういうこと言ってたな。

佐藤:それだけど、で、その間(かん)に、帰ってる間に免許取ったりしたんじゃないかな、車の。

立岩:それもなんか言ってた。

佐藤:それで、「牛ばっかり相手にしてたけど、だんだん牛ばっかり相手にしてんのもいやんなってきたから、ちょっと東京戻ろうかな」って、人恋しくなって戻ってきたみたいな感じの言い方をしてた気がするな。「牛ばっか見てても」って言って。「疲れて牛に会いにいったけど、牛ばっか見てても」みたいなので戻ってきて。それで、彼は現役で入ったけど、たしか理Uだったけど途中で教育学部かなんかに行って、それで秋に卒業してるっていう感じですよね。

江頭:たいしょうは一人だけやっぱり上だったんですよ。あとは***(00:56:31)くんでしょ。で、秀年と私のほかにもう一人早稲田の、

佐藤:オオキ?

江頭:がいて。その下にユミちゃんだよね。

佐藤:そうそうそう。あと、その運動のなかで、部落解放同盟で都連で夜ちらしを刷って朝撒いてたんですよ。だからそのちらしを運ぶのに人が必要だっていって秀年がオルグして連れてきたのが、ミヤなんですよ。バイクの免許持ってるから、バイク持ってるからっていって。で、闘争の途中から、スキーに行くはずだったのに、スキーのキャンセル料をだれかが払って来てもらう、みたいな感じで関わってきたかなと思うんですけど。
 それとあとは、その運動のなかで、私がもともと高校時代からつながってる人の関連で国立音大の学生が関わったりとか。だからみんなほんと個人参加ですよね。

立岩:そうなんだね。たぶん金井さんとこはほんとにそんな感じで、てんでばらばらにっていうか。いうのと、大学によっては自治会とかが、日共〔日本共産党〕とそうでないほうに割れてるようなところだと、それはある種の争点になってっていうのと、両方あったんでしょうね。
 駒場は民青が強かったので、行っても負けるっていうか、そんな感じだったんだけど。私の場合は、文学部行って、文学部は民青じゃないほうが強かったので、やっぱり養護学校義務化反対みたいな決議を、学友会っていうんですけど、あげるみたいな、そんな感じだった。でも実際に金井さんとこにっていうのはもうほんとに、たぶん個人でそういう経緯があったりとかっていうのが。顔出しっていったりってことなのかなあ。

江頭:党派でまとまりで来てたって、明大ぐらいじゃない?

佐藤:明治ぐらいじゃない?

立岩:明治は来てた?

佐藤:来てた。明治は農学部とかも来てたし。顔が浮かぶわ、何人か。

立岩:それは党派関係あんの? 解放とか関係あるの?

佐藤:農学部は解放派じゃなかったと思うんだけど、どうなの?

江頭:農学部は個人だったかもしれない。農学部は個人だよ。党派の人だっただろうと思われるけど、個人で来てたんだよね。

佐藤:あと、そのころ明大の中心のメンバーだった人は「二世協」〔全国被爆二世団体連絡協議会〕の人、被爆二世の人で。だから、そういう意味ではなんか「調子が悪いときがあるんだ」みたいな感じで言ってたから、「ああ、そういうことなんだ」っていうふうに思ったのをリアルに思い出しますけどね。[00:59:50]

立岩:関係ないっちゃ関係ないんだけど、全障連の第二回の大会っていうのが明治大学なんですよ。その時の大会の招聘というか、明大の自治会の委員長やったのが広島〔幹也〕さんっていう新潟の出身の人で。ぼくは新潟、佐渡の出身なんですけど、この5月かな、新潟行って、新潟の運動家つうか、そういう人たちに話聞くっていう、ほんとたまたまなんですね、そしたらその広島さんっていうのがいて。で、明大だけど、じゃあ解放派なのかなと思った。でもそうではなくて、そこらへんは意外とごちゃごちゃしてたのかなと思って。たぶん党派関係してたとすると、広島さんに関していえばブントだったみたいなんだけど。そうか、でも明治はそれでもわりと。☆
山口 和紀 2022 「障害者運動のために施設職員になるという道――広島幹也の闘いを追う」,『遡航』4
http://aru.official.jp/m/SOKOU004.htm

江頭:年代はどれくらいの人ですか?

立岩:77、8とか。76が結成集会か? 全障連。だから77とかかな。
 っていうことはあって、どういう絡みでそんな…。その人たぶん金井には関わったりしてないんですよ。ただ、だんだんそういうことに関心をもって、で、新潟に帰って、新潟の福祉法人っていうのかな、そういうところで働いて。わりと若くして亡くなっちゃったりするんですけどね。というようなことがあって。それはほんと傍流の話なんだけど。そっか、明大からは、

佐藤:けっこう何人も来てた。でもいつだったかな、農学部の子が駒寮に逃げ込んで秀年がかくまったって話をなんか思い出したわ、今。

立岩:どっかの党派に追われてたってことですか?

佐藤:うん。

江頭:わかんない、そこは。うちうちでってこともあるから。

佐藤:そうね。あのころうちうちでいろいろあったからね。

立岩:なかのなかでっていうね。

佐藤:うちうちでいろいろあったからね。

江頭:学費反対運動を慶応でやってたなかに、もう党派離れちゃったけど、明大の党派とは派が違う人たちがいて「気をつけろ」って。「学内のこととか聞かれたりして、いろいろ話さないほうがいいよ」って。「変なふうにレッテル貼られちゃって困ったことになるかもしれないから気をつけなよ」っていうふうな話とかもあったりしてね。ややこしい。

立岩:それで78、79、80になって、それで83ぐらいまである種ひっぱられるっていうか、持ち越されるっていうか、継続するっていうか、そういう流れではあったんですよね。

佐藤:そうですね。で、私たちはそういうなかで、座り込みもいいんだけど、こればっかりやっててもしょうがないよねっていう話になってって。やっぱり花畑の地域で何かやっていかないといつまでたってもだめなんじゃないかっていうことがあって、花畑で土曜日に「子ども会」っていうのを始めたんですよ。で、子ども会を始めたんだけど、だけど私たちは子ども会はもうやるわけだから、たとえば座り込みをやってる間も花畑で子ども会をやるっていうふうになると、「おまえたちは間違ってる」みたいな話になってさ。「座り込みに来い」みたいなこともあったり。

江頭:具体的に***(01:04:10)、集会だよね。土曜日にやった集会。全国的な集会を土曜日にうつっていうんで、その時は子ども会をやらずにそっちにみんなで来いっていう話。ただ、子ども会に集まってた子たちっていうのは、必ずしも運動に全面的に賛同してっていうかたちじゃない子たちもいたわけなんですよ。だから、そういう子たちも含めて連れてくっていうのはどんなもんだろうっていうような。

立岩:で、それどうなったんですか?

佐藤:けっこうそのあとずーっと大変ですよ。

江頭:結果がだからけっきょく、やっぱり「金井康治くんだけの子ども会じゃないんだ」っていうスタンスで。集会には何人かは行ったのかなあ。[01:05:04]

佐藤:集会に行った人と、

江頭:学生のうち何人かは行ったけれども、

佐藤:子ども会はやるよっていうふうにやってた。

立岩:子ども会は子ども会でやめないでやってるっていう。

佐藤:やった。だから、それはおかしいって話はずっとされてて。あとそうこうするうちに、たいしょうが何を思ったか花畑に住むって話になって。池袋に住んでたのにとつぜん花畑に引っ越したんですよ。それこそ花畑って、足立の竹の塚からまわって花畑あがるんですけど、その花畑のさらに奥みたいなとこに【花保】(01:05:47)っていうところがあんのかな? ちがうなあ。とにかくなんかね、花畑よりさらに奥地みたいな、団地よりもさらに奥みたいなところのアパートに引っ越したんだよね。

江頭:【保木間】(01:06:03)?

佐藤:ちがう。花畑。そこを事務所に使いながら。子ども会の会議もたいしょうんちのアパートでやるようになって。なんか、たいしょうはたいしょうで「足立で何かやっていこう」っていう決意で引っ越したんだよね、きっとね。それで彼は、そこに引っ越してしばらく経ってから解放同盟の東京都連で働き始めるんじゃなかったかな。

江頭:コンタクトレンズ。

佐藤:先だと思う。コンタクトレンズ屋が先で、大学卒業してから本郷三丁目にあるコンタクトレンズ屋にしばらく働いて…。ちがう、保険屋はどっち? 先?

江頭:保険屋が先かな?

立岩:そのへんのことはぜんぜん知らないや。

佐藤:保険屋が先で。たいしょうは保険屋に自分の知り合い全員入れさせて、それでなんか売り上げがいいっていって、辞めるみたいなことやって。

江頭:遺品のなかに出てきたね、保険屋の資料がなんかね。

佐藤:とにかくその金井闘争に東京都連の部落解放同盟の人たちが関わってたから、それでなんか、私、フジサワさんに「斉藤くんどうだろうね」って言われたから、「すごくいいと思いますよ」って言って。それでなんか、解放同盟に勤め始めた。

立岩:解放書店ね、それは知ってたけど保険屋とかは知らなかったな。

佐藤:保険屋。なんとか生命っていうさ、日本生命とかあんな大きいとこじゃない、もっと小さい保険屋にも勤めてた。ほんとはたいしょうね、【下谷】(01:07:35)郵便局か何かも受けたんだけどね、とうぜん落とされて。「郵便屋だめだったな」って言ってた。あのころはまだ郵便局って、第四インターとかがあっちこっちで活動盛んなころで。第四インターだけじゃない革マルがいたりとかもしたから、ちょっとなかなか就職難しい時代だったかもしれないね。

立岩:田無で益留さんっていうのがいるんだけど、それの兄貴が郵便局員で、みたいな。彼からいろいろ、当時脳性麻痺の人を紹介されたりとかしてっていうのを聞いて、「えー、そんなことがあったんだ」って☆。だからどうって話じゃないんですけど。
 で、だらだら引き延ばされたりいろいろしながら、ある種の政治決着っていうか、それになるまでに…。でももうそのころには、まじめな学生である佐藤さんは学校出た?
益留 俊樹 i2022a インタビュー・1 2022/05/19 聞き手:立岩真也 於:東京都田無市・自立生活企画事務所

佐藤:学校卒業して、そのあと私、二日市さんの秘書になったから。二日市さんはやっぱり康ちゃんには並々ならぬ入れ込み方をしてたんですよ。やっぱり二日市さんも学校に行きたかったのに行かれなかった。要するに、軍事教練できない人はいくら勉強はできても行かれなかった。彼はね、男ばかり5人兄弟かなんかなんですよ、たしか。そのなかの一人なんですよ。みんな男の兄弟が学校行くなかで自分だけが行かれなかったっていうのがやっぱり、すごい屈辱とともにみたいなのがあって。それでもう何がなんでも康ちゃんを応援したかったっていうのもあるんですよ。大賀さんとかは、二日市さんがそこまでっていうのはすごい感動して、世田谷の砧から、あんな昔はすごい交通事情が悪かったのに、それこそタクシーか何かで何時間かけてでも区役所前に来たりとかね、そんなこともあったし。あと、子ども会で合宿やった時にも二日市さんが子どもたちとなんかいろいろしたいって言って、子ども会に来てみんなの前で、なんか「翻訳のおじさん」みたいなんで話をしてくれたりとかね。そんなこともあったんですよ。[01:10:02]

立岩:二日市さんの秘書っていうのはどのぐらいやったんですか?

佐藤:小一年(こいちねん)ですね。

立岩:ぼくは砧の二日市さんのお宅に、86年とか、「障害者の10年研究会」っていうのが立ち上って、…小さい研究会があって、それは北村小夜さんとか石毛えい子さんとか、『福祉労働』の人たちですよね。で、二日市さんがいちばん偉いっていうか。二日市さんちでやったんですよ。石川憲彦さんとかも来て。
 じゃあその前にはもう辞めてるっていうか。

佐藤:そうそうそう。二日市さんの秘書になる前ぐらいに大賀さんに声かけられて、もう今はなんですけど、「なにわ」っていう大阪の職員寄宿舎みたいなのが市ヶ谷加賀町にあったんですよ。そこで全障連の人とか、渡辺鋭気さんっていうそのとき『社会新報』の記者をやってた、

立岩:最初の『福祉労働』の編集長ですね。

佐藤:とかが集まって勉強会をやってたんですよ。そこに私に参加するようにって言われて、で、参加してたんですよ。そこは、要するに「障害連と全障連をなんとか一つにしよう」っていって、で、彼らの構想は「障害者解放同盟をつくるんだ」っていうのがあったんですよ、要するに。二日市さんと全障連の楠さんとが「その気になったら障害者解放同盟ができるんだ」っていうようなかたちで。やっぱり金井闘争で見えてきた人のつながりのなかで障害者解放同盟をつくろうっていうのは、けっこう気運としては高まってたような気がします。

立岩:高まった。だけど実現しないわけじゃないですか。それはなんか聞いてるとか知ってることってありますか?
 ぼくは、さっき言った障害者の10年研究会って、ぼくもなんか若造っていうかオブザーバーっていうかで参加、ときどきさせてもらって、その時の記憶は、二日市さんの車いすを大賀さんがこうやってやってるっていう。いう意味でいえば、大賀さんは全障連じゃないですか、二日市さんは障害連で。だからありえなくはないなって確かに思うんだけど、実現はしないわけですよね。

江頭:どうなんだろ? 金井闘争的にいえば、共産党系の労組が敵対してきた。金井側からいえば「敵対的な行動」をとったっていうののあたりってどうなんだろ。

佐藤:要するに、足立って日本共産党が、教組も強いし職員組合もそうだし、それで部落解放同盟足立支部の中でその共産党、足立支部の中でもいろんな対立があったりして。共産党と部落解放同盟と、あとあのころ八鹿高校事件とかもあったりして、そういうすごい政治的背景がほんとにあの運動の円形をかたちづくっていって。そこに「ただ学校に行きたい」「障害があるけど学校に行きたい」っていうことがいろんなかたちに意味づけされて、それに関わってる人たちが部落解放同盟だったり、それから障害者だったり、いろいろするわけだけど、ある人にとってはそれは非常に暴力集団だったりとか、そういうかたちでの評価をどんどんされてって。難しかった、難しくなったっていう。

江頭:だからけっきょく足立の教員の労組の中から反対。

佐藤:そうそうそう。「ぜったいに認めない」みたいなのが出たりとか。

江頭:金井闘争から見える背景でいうと、やっぱりなかなかそこらへんは。合流することに必ずしも賛成してないっていうような。お互いのなかにあったんじゃないかなあって。

佐藤:ああいう暴力集団に応援されてる人たちは…だから、「本人の気持ちじゃない」とかね、「踊らされてるだけだ」とか、「本人はそう思ってない」とかいうような宣伝をされたりとか。ひろしが「非国民」って言われたりとかさ。保育園だか遊んでる時だかに「『国民』って言われたけど国民ってなあに?」とかって言って、「国民じゃなくて非国民だ」っていうような話になって、けっこうそんなこと言ってたり、律子さんも髪の毛染めに美容院に行ったら何か言われたとか、みたいなのがあったりとか。けっこうやっぱり、どんどん地域の中ではもう軋轢が出てきてたよね。[01:15:08]

江頭:やっぱりほんとに、康治が弟たちと一緒に学校に行きたいっていう思いがあって始まった運動で、そういうところに共鳴してきた人たちから見ると、そこにやっぱりいろんな政治的な意味が乗っかっちゃってきてっていうところですね。それはね。そういうの見ててほんとに私は政治嫌いになりました(笑)。

立岩:時と場合によってはっていうか。わりとすんなり、すっといったかもしれないですよね。だけど、そういう対立構造っていうかが。

佐藤:だから何ていうの、役者がそろってるっていうか。ふつうね、そんなトイレに入ったぐらいで逮捕する? って思うけど逮捕しちゃったし。その時の弁護士が大谷恭子さんと、大谷さんほとんどまだ弁護士になったばっかりぐらいで、大谷さんって司法修習生の時にお子さん二人産んでて、6月の20何日に逮捕されたんですけど、私初対面で会った時に大谷さん来た時に「なんてグラマーな人だろう」って思ったぐらいで。「なんだ、授乳中だったのか」みたいな感じなんですけど。で、大谷さんがそこに弁護士として来たり、あともう一人の弁護士がキオイさんっていう弁護士だったりして。彼も東大が除籍だか中退だかっていう人で。だからみんななんか、矢沢さんも昔マル生だったとかでキオイさんとなんとかでとか、ニシカベさんもマル生だったとか、久しぶりに会ってみたらそういう人たちが、かつての運動していた人たちもいたし、あとは地域で労働組合とかに入ってて私たちを見ている人たちっていうのもいたし、何かいろんなかたちでの政治的評価っていうのをどんどんどんどんされてったっていう。

立岩:たとえば、障害連って基本的には社会党系だと思うんですけど、だからってべつに、実際には二つは合流しなくてってだけっちゃだけなんで、いろいろ理由を詮索したってしょうがないんだけど。ちょっとムードがちがうのかな?

佐藤:あと、障害連の二日市さんのあとに宮尾〔修〕さん。

立岩:宮尾修?

佐藤:宮尾さんも来てましたよ、金井闘争には。で、若い太田さん?

立岩:修平さん。

佐藤:とかも来てたし。

立岩:そこは一緒にやってたとこあるんだな。

佐藤:だからそれでけっこうその太田さんとか。

江頭:修平ってそうだった?

佐藤:障害連の人じゃないの? 彼は総評に勤めてたでしょ? 旧総評よ。

立岩:障害連ですよ。今でもそうですけど。

佐藤:太田さんとかも来てたし、そういう意味ではやっぱりあの運動がひとつの何かになって、人をどんどんどんどん引き寄せてくみたいなことがあって。だから日比谷公会堂を満員にするぐらいの集会がうてて、「すごいよねえ」ってなんか言われるような。「今どきあんな人集める運動ないよ、ほかに」って言われたぐらいで。

立岩:大きくもなり、であるがゆえに難しくもなりっていうか。

佐藤:だと思いますね、ほんとに。ほんとにみんな「康ちゃんの思いが私の思い」みたいになっちゃうし。

立岩:ひとしきり終わったあとって、なんかわりと個々人に引き継がれていくみたいな、そこから離れる人ももちろんとうぜんいるわけでしょうけれども。

佐藤:でもそこから、お父さんの邦次さんは離婚するっていうかたちでいなくなりとか、けっこうあちこちが離婚するってかたちでいなくなりとか。

江頭:学生的な立場でいえばやっぱり就職とか。けれども私はそのなかずるずると介護地獄にはまりました。5人ぐらいかけもちみたいな状態になって。[01:20:15]

立岩:5人の介護してたってこと?

江頭:入れ替わり。つぎつぎつぎつぎ連絡されれば。

佐藤:昔はあんな黒電話っていうか家電しかなかったのに、よく連絡がついたもんだと思うよね。

立岩:おれも電話かけさせられたよ。勝又、なんか知らないけど、なんか東大が好きなのかな? 駒場にもよく来てたし、そのあと本郷の偽学生っていうか、もぐるって、西方って本郷の近く、赤門の近くかなんかにアパート借りて。最終的に私が見つけてっていうか。ぼくもそこにしばらく介助には行ってましたけど。
 介助自体はどうってことなかったんですけど、要するに電話かけさせられましたね。

佐藤:いついつ入れないかとかね、シフトの空きができると誰か探さなきゃいけないっていうのはありましたよね。

江頭:慶応は一学年を2回しかできないという。表・裏(おもて・うら)っていうのがあって、ずるずるといれないっていうシステムで。単位が取りきれなくて放校になって。

立岩:中退?

江頭:放校になっとります。

立岩:放校っていうんですか?

江頭:まあ、中退ですね。退学届けを出してっていうことじゃなくて。

立岩:けっきょく何年まで?

江頭:3年間はいましたね。

立岩:入った年から含めて3年間?

江頭:はい。

立岩:上がれないってことか。

江頭:そうです、そうです。

立岩:卒業とかの手前のところで、2年生になれないとか3年生になれないとか、そういうことか。

江頭:はい。

立岩:さっきおっしゃってた、そのあとすぐっていうか、

江頭:だから私はそのころね、そういうふうに辞めた人たちの常はほら、自治労の人たちを見てて、公務員試験を受けるっていうのが一つの。たとえば私、特別区の試験を受けたんですけれども、上級とかでも年齢制限だけで、学歴とかって関係ないんですよね。だから途中で辞めたけれども、上級試験受けたら、受験勉強みたいなのは得意だったもんだから受かっちゃうっていう、そういうのが何人かいたけどね。

佐藤:あとあれだよね、オオイくんなんか。

江頭:オオイくんはちゃんと卒業してるわけ。

佐藤:そうそう。横浜市役所の中区の、

江頭:子ども会一緒にやってたメンバー。

佐藤:だから彼はケースワーカーになって中区の保護課長もやって、最後は旭区か何かの課長で終わったのかな。

江頭:福祉事務所長ね。

佐藤:そう、福祉事務所長になって。なんか厚生労働大臣表彰とか受けてたよ。彼は横田〔弘〕さんの介護をやってたんですよ、ずっと横浜で。彼が横浜市立大学だったんだけど、その横浜市立大学から横田さんの関りで来てたんかねえ?

江頭:わかんない。

佐藤:おそらく。じゃないかなあと思う。

立岩:その後の人生さまざまではあるけれども、江頭さん、けっきょく、

江頭:私は特別区の職員をやっていました。7年前まで。

佐藤:もう7年も経つ?

江頭:7年も経つ。

立岩:特別区って。[01:24:36]

江頭:23区のですね。具体的な区でいうと目黒区なんですけれども、最終的に。はじめは福祉じゃなかったんですけども、いわゆる障害者の通所施設の事務をやったり、あとは高齢者のケースワーカーとかもいろいろ職を転々とするなかでやったりはしたんですけれども。あんまりだから、障害者との関りでお金をもらいたくないなあっていうような思いっていうのはあって。なんで、犬塚さんの介助者っていうのはずっと週一でその間もやっていて。それもだから、うちの母親がわりと若い段階でパーキンソン、パーキンソンだけじゃなくて精神疾患、認知症ほか認知症の枠にとどまんないような精神疾患が激しくあったんで、施設、ショートスティとか入れてもすぐ戻されちゃうっていうような状況だったんで、特養とかも難しそうだなと思って親の介護に専念しながら。いろんなかたちで介護に関わりながら。
 目黒区っていうのは今、地域包括センターってあるじゃないですか。そういうのをやる前に、社事大の大橋先生なんかが提唱する「地域で地区ごとに事務所をたてて福祉をやっていく」っていう。それは高齢者だけじゃなくて、障害者のことも含めてあらゆることをワンストップで、身近なところの事務所でやるっていうようなことをやってたんですけれども、地域包括ができたとたんにそれやめて。地域包括だったら金が出るからっていうかたちで切り替える。それが私はやっぱり気に入らなくって。包括って言いながら障害者のことやってたのを切り捨てるって、ぜんぜん包括じゃないじゃないっていうところで、ちょっと自分の区との方針と自分の気持ちっていうか、軋轢ができまして、けっこういろいろ書いたりして、世に出したりとかってして。
 ただやっぱりそういうとこらへんの理念的なことを含んだっていうのはやっぱりなかなか労働運動になじまないっていうか。うちのところなんかだとやっぱり日本共産党が主流派で、ほかに社会党系の人とか、若干新左翼もいたんですけど、やっぱりそういうところに響かなくて、一人で悶々としなきゃいけないっていうなのがあって。もうじゃあ福祉しばらくやめようと思ってしばらく違う部署に回ってたんですけども、やっぱりこのままでいいのかなっていう思いがあって。
 大学を辞めたあとに、やっぱり藤沢由知っていう、町田で自立生活してるのがいるんですけれども、彼も通して「今、福祉施設やってるとこあるんだよ」って、「時間があるなら行ったら?」っていうような感じで。彼が施設に入っていて、そこを拠点にしながらアパート探すみたいなのをやってた過程があって行ってるうち、「おまえやることなんだったら少し手伝え」って言って。いろんな廃材とかもらってきて施設を建てるっていうようなこととかを、就職する前にやっていたとこなんです。
 ただなんかやっぱり、うちは母子家庭だったんですけれども、そこで働くってなったらもう金額的にっていうようなことでの折り合いがなかなか難しいなっていうのがあって、ふつうに公務員になったんですけどね。そういうなかで、働いてからもそことはいろんなかたちで、ボランティアっていうようなかたちで入ったり、賛助会の事務をやったりとかってなかたちでずっと続いてたんですけれど、ちょうどもう子どもたちも成人したしっていうのもあって、ちょっと思い通りに生きてみよっかなあっていうんで、こちらに移ったんですよ。

立岩:それが何年? 共働学舎に☆。
☆ 近日中に共働学舎にでのインタビュー公開予定。

江頭:3年経って、84年とかですね。だから83年からですね、関わり始めたのは。

立岩:関わりだしたのはね。それで公務員辞めてっていうのはいつ?

江頭:7年前、55になる前なんですよね。ということは7年。[01:30:12]

立岩:じゃあ勤め上げたということじゃなくて、そういう軋轢というか。そのなかで、

江頭:軋轢もそうだし、ちょうど早期退職の割り増しが出るタイミングでもあったんで。これはタイミングかと思って。

立岩:そういう人もおれば、みたいな。

江頭:大学も***(01:30:29)だから、ちょうど学生の運動でいうとその勝共連合が、原理研が青学の自治会をかわきりにどんどんどんどんいろんなとこに入ってくるっていう時期で。学費が収まったら、こんどだから陣取り合戦みたいなことがあるんですね。それってやりたい運動じゃないなっていうふうな気持ちもあって。学内でいろいろそういうことをやってる人たちもいたんだけど、「そういうこともやることとしたらあるんじゃない?」っていうような声もかかったんですけど、ちょっとやりたいことと違うなっていうふうな感じで。大学から、介護のこともそうですけど、離れていったかなってふうに思ってます。



立岩:秀年は死んじゃったわけだけどさ、斉藤〔龍一郎〕さんとの付き合いとか関わりとかそういうのって、そのあとっていうかつづいたりしたもんなんですか?

佐藤:ずっと。うちはたいしょうはだいたい月に一回は来てごはん食べてたんで、だからなんかたいしょう死んでからは、ちゃんと人が来るためのごはんを作る感じじゃなくなってますね。届けたりもしてたしね、食べられなくなってから。私が作って。だからぜんぜん食べられなくて一時げそげそになった時に、スープみたいなものなら食べられるとかっていう感じでポトフみたいなものを届けたりとか。

江頭:私はたいしょうは、犬塚さんの介護があったんで、ちょっと入れないときに代わってとか。たいしょうが体調崩してた時とか、「たいしょうこんな感じだけど入れない?」っていうような感じが誰かから来てみたいな感じで。っていうのがありつつ、秀年が亡くなったあとに子ども会のメンバーで山中湖に4月は集まるっていうことを。

佐藤:いまだに集まってるんで。去年は市野川さんも来て。日帰りだったけど来て、みたいな感じ。

江頭:たいしょうもずっとそこには来てたし。それぞれ持ち場は違うけれども、こんなことやってるあんなことやってるっていうのを交換する場で。なかなか自分で抱えてて解決しきれないようなことは「どう思う?」みたいな感じで。たいしょうからは生存学話も、障害学会の話とかっていうのもずっと「こういうことやってる」っていうような話で聞いてて。たいしょう的には「関われ」っていう気持ちもあったんだろうけれども、それを無理強いするでもなく。「こんなことやってんだよ」っていう話をずっと聞いてたんで。

立岩:私も何やかんやでうちの研究所とかやるときに、なんかちょっとアフリカのこともやんなきゃなっていうのは思ってたこともあって、ちょっと関わってもらったりとか、それは続いてたんですよね。

江頭:もうほんとに、『生の技法』が出た時には「読め」「読め」っていう話は。

佐藤:そうそう。読んでほしい本は黙って置いてくって感じでしたよ。

江頭:「必読だ」って話を。すごく推して。読みましたし、目黒なんかでは「柿のたね」とかが読書会をあれでやってて、それに参加したりとかもしてました。[01:35:11]

立岩:本が出る前に付き合いないんですよね、斉藤さん個人と。斉藤さんが何かで読んでくれて、連絡かなんかくれて。そのころもうアフリカに関わるようになってって。アフリカはアフリカのことで大切だと思ってたんで、どっちかというとそっちのほうで。アフリカ日本協議会とうちの大学の研究の結びつきみたいなことで、かな。
 秀年は学校に、駒場にいたんで、知ってましたけど、斉藤さんはほんとに学校出てからですね、付き合いは。何年か前かな、2017? そんなすぐ亡くなっちゃうとは思わないからさ。その時は、さっきちょっと言った、その東大の火事になったりいろんなことがあって。駒場って、慶応もそうだったと思うけど、2年駒場にいたら基本本郷に行くんで人が途切れるんですよね。そうすると3年ぐらいしか違わないんだけど、「名前は聞いたことあるけど顔見たことない」みたいな、そういうこともあって。そんなに何年も経ってないのに火事の時期のこととか知らないなあとわれながら思って、「斉藤さん、何か覚えてること言ってよ」って、それでしゃべってもらったんで☆。その時わりと斉藤さんの個人史っていうか、保険をやってたとか、そういう話はぜんぜんすっ飛ばしてっていうか短くしちゃって聞いたんで、今日初めて聞いたような話もありますね。
斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所

佐藤:だから私はずっとたいしょうとは…。私、いったん日本から離れてた時期はうちの家具なんかたいしょうに預かってもらったりしてたし、わざわざ30万も航空券かかったけど遊びに来てくれたし。

立岩:1年二日市さんとこで秘書をやるじゃないですか? そのあとの人生って、おおまかにっていうか、どんな感じ?

佐藤:1年もやってないけど、そのあと自治労が何とかかんとかとかいう話もあったけど、ぜんぜん関係ない仕事をして。それでぜんぜん関係ない仕事をして、それで30ぐらいの時に結婚してっていうか、海外に行くことになったから結婚してっていうか。私はミヤと結婚してるので、それでウィーンに行って、ウィーンにたいしょうが遊びに来てくれてとか。江頭くんが麻の着物を送ってくれたりとか、

江頭:そうそう。うちも同じ年に6月生まれの、9月だっけ? 娘がいるんですけど、私たち。それぞれ子どもが同じ歳なんで。

佐藤:着物を送ってくれたりのりを送ってくれたりとかしてとかっていうのがあって。たいしょうはそんなんで、ずっと。で、日本に帰ってきて、そのころ私、たいしょうにお金預けて、漫画の本? 『モーニング』か何だか忘れちゃったけど、ミヤが読みたい漫画の本を何か月かに一回送ってもらってて。今はきっとそんなことしなくてもあると思うんだけど、送ってもらってて。とかそんなんで、いろいろ。あとときどき「誰々がどうしたよ」っていうのがFAXで。アオキチハヤが死んだっていうのを私はウィーンで聞いたんですけど。とか、そんな感じかなあ。
 だからたいしょうとは、ずっとそうやって。日本に帰ってきてからもずっと。前は週に1回ぐらいは来てたかな。ごはん食べて。だいたい昔はよく、ごはん食べると寝ちゃって泊ってくみたいな。だいたい土曜日に来て泊って、日曜日にうちの子どもにせがまれて公園遊びに行ってとか。そういう感じの人でしたよ。

江頭:そういうつながりがあるんで、この前のたいしょうの、送ることがほんとに。そういうのがあっての。

佐藤:だからうちの娘たちは「もう誰も相談する人がいなくなりました」って言ってて。そういう人としてたいしょうはいたので。

江頭:だから山中湖…。だからそういう意味では私らも次の代がいるわけでして。山中湖にはもう子どもが小さい時から子連れで***(01:40:04)って。

佐藤:そうそう、行ってたから。

江頭:たいしょうはみんなそれぞれの子どものこと気にしててくれて。うちの子も娘が大学に入った時に、たいしょうから「おめでとう」っていう連絡が来て。「え、何で知ってるの?」って、娘とひそかに当時、ミクシーで連絡を取り合っていたと。いろんなとこにこまめだけども、運動とかだけじゃなくて、そういうところの。ほんとに運動とかっていうこととは関係ない人間関係とかでもこまめにいろいろやってた。

佐藤:まめな人だったからね。

江頭:そうやってその、山中湖の。子どもたちは早く2階に行って。ロッジを借りるんですけれども、部屋がいっぱいあって、そこで子どもたちは子どもたちだけで集まって、「うちの親たちはどうもふつうと違うらしい」みたいな情報交換をして。次のジェネレーションもジェネレーション同士で連絡を取り合って。

佐藤:年に一回しか会わないわりには、なんとかく、なんかね。ときどき会ったりしたり。

江頭:***(01:42:10)のライブに行ったりして。

立岩:確かに「うちの親ちょっと変な親みたいなんだけど」って話、ほかじゃなかなかできないね。

江頭:なんか思ってる、そう思ってることを照合し合ってるみたいな。

佐藤:そんな感じで。年に一回ずっとそうやって会い続けてきたから。もう何年続いてる?
 一時期中断したのは、最初は飯能で。秀年のお墓が多摩の飯能のほうにあったんで、飯能でやってたんですけど、飯能って旅館なんですけど、最初は子どもとかいなかったから大人だけだったんでよかったんだけど、けっこう値段が高いんですよ、割烹旅館みたいなとこで。そいで朝はたたき起こされるし。それでだんだんもう。あと子どもが生まれたりとか。子どもが生まれる前に場所を変えようっていって「もう飯能じゃなくて山中湖に行こうよ」っていう話になって探したら、その一棟建てのアメリカの大きなベッドルームが4こか5こかあるようなコテージみたいなのが一泊何万で借りられるってことになったので、それで継続できることになった感じで。あの場所があるからやれてるっていうのはあると思うんですけど。

江頭:場所もそうだし、子ども会の経験っていうか。それこそ子どもが小さいときとかのあの対応とかって、もう誰が何を言わなくても、誰かが料理を作ってて、自分の子どもはほかの人がみるみたいな。役割分担が非常にスムーズにナチュラルに。

佐藤:そう。だからなんかたいしょうは寝てばっかりいて、飲んで食べて寝ちゃうんだけど、朝は誰よりも早く起きて雑に洗いものしてるみたいなのがあって。ひたすら洗いものするみたいなのがあってとか、みんなそこそこ働いて。

江頭:男もちゃんと料理ができます。

佐藤:とかっていうので、一泊二日っていうのをずっとやってきたんですね。だからほんとにその、金井闘争っていうのを今考えると、家族を支えるっていうか、家族を支えなかったら運動できなかったので、それをきっと支えてきたのはやっぱり私たち一人ひとりの気持ちなのかなっていうのは、話していて思いますね。

江頭:私なんかやっぱり、そのあと康治との関係は全障連の大会で顔を合わすとかっていうぐらいになっちゃってました。その当時の康治の気持ちはちゃんと受け止めたつもりだけど、そのあと生きていくのに大変だったことあるんだろなっていうところがやっぱり共有できてないんだろなっていうところは。[01:44:50]
 ただだからその、私は***(01:44:51}史のなかで、金井就学闘争何を残したかなあっていうのをここちょっと2週間ぐらい考えたときに、「あ、これだ」と思ったのは、今現在町田市に住んでるんですけども、保育園ではやっぱりちゃんと統合保育ができていて。っていうのはあるんですけれども、就学前検診、私はやっぱり「受けない」っていう話になったときにやっぱり保母さんたちは「え?」って。「おたくの娘さんはべつに発達上問題がないから大丈夫ですよ」たって、「いやいや、そうじゃないんです。一緒の場で育ってほしいんです」っていうような話になったときに、娘のクラスは障害を持った子って言われる子はいなかったけど、そのあと2年後にこんどうちの息子の時には、やっぱり一緒にいたんです。で、ある時保育園の行事で保育園に行った時に、手の離せない保母さんがうちの息子に「ちょっと誰々ちゃんのことをみてて」って言われたら、その子が息子の前に来てちょこんって座って。多動って言われる子だったんだけれどもおとなしくしてるのを、落ち着いて安心した様子でいるのを見て、「ああ、これだよなあ」って、「こういうのを自分が求めてたんだよなあ」って。
 そういう場を見た時に…それが金井闘争との因果関係っていうのはないかもしれないけれど、「こういうことをしたかったんだよなあ」って。「ああ、できてる」っていうので安心して。こんど2年前、上の子の時には説得にまわった園長も保母さんも、息子の時にはもうぜんぜん説得とかってこともぜんぜんなく。「あ、そうですか」っていう感じで。で、就学前検診と学校の見学っていうのがセットで行なわれてたんですよ、その保育園では。だけれども、下の息子の時には、行けない子もいるから検診は検診、学校の見学は見学って分けてくれて実施されてるっていうのを見て、「あ、ちゃんと園長にも担任の先生とかにも言ってることが響いたんだ」って。だからほんとに些細なことだけども、自分のなかで就学闘争に関わったことでの成果っていうかな、そういうことを考えた時にそれが浮かんだんですよねえ。

立岩:同じような歳だから、子どもたちもけっこう大きくなってるでしょう?

佐藤:32。

江頭:上が32。32の30ですね、二人。

佐藤:私は32と26。

立岩:うちも32だわ。

佐藤:90年生まれ。

立岩:上は90年生まれ三人同じってことですか。あらま。だからどうってことじゃないですけど。

江頭:たいしょうとか市野川くんが、乙武くんの『五体不満足』が出た時に「金井闘争が! 就学運動の成果がここにある!」みたいなふうな反応をしたのが、ちょっと。「え? そうなのかなあ?」って。「ほんとにそれだけのインパクトがあったのかな?」っていうのはずっとわだかまりがあって。そのあとやっぱり関わった人たち、子育ての過程で「障害を持った子と自分たちの子、一緒になったことがあった?」っていう話を聞くんだけども、やっぱり聞かないんですよね。狭い範囲なんですけれども。
 だから、そこまでのことだったのかな? っていうね、確かにそれは意義はあったと思います、自分のなかで意義があったから、そういう人たちが世の中には何人もいるんだと思いますけれども。とくに親たちのなかには影響はあったんだろうなと思うんだけども。[01:50:19]

立岩:今うちの院生〔竹村文子〕で、院生つってももう50代か。自分の子どもがダウン症で、それで高校進学のことでさ。京都なんだけど、いろいろあって。腹も立ってるし、いろいろあって、そのことで書きたいって来て、なかなか苦労してるんだけど。やっぱりそのあとそうですよね、高校進学の話が90年代に出てきて。今日は最首さんにちょっと話聞いてきたんだけど、最首さんにべつに教育の話を聞きたかったわけじゃないんで別の話だったんですけど。
 北村小夜さんに、竹村さんっていううちのその50代の院生が、去年かな、わざわざ北村さんちに行って話聞いて。そしたらなんか、同じこと最首さんにも言ったけど、9時間しゃべったんだって。一日中。北村さん97かなんかでしょ、すっげーなって話。たんにふつうにすごいですけど。やっぱり金井闘争もそこそこ長かったけど、その高校進学のことも込みでいうと、けっこういろんなことがあって。東京で金井のことをと思ったけど、大阪は大阪でまたちょっと違うタイプの。豊中とか。良し悪しべつにっていうか、最終的には良し悪しつけなきゃいけないのかもしれないけど、それなりの、金井も含めた歴史ってのがあって。それはちゃんとみんなまとめ…。あんまりなんか書いてないんですよ、実は。「金井闘争がこうなってこうなって、ここまででいったん決着しました」っていう話はあるけれども、もっとこういろいろあったわけじゃないですか、世の中にね。それはまだちゃんと書けてないっていうか。とこありますね。私らそれが商売っていうか仕事なので、各地…。
 金井闘争はまだ書かれたほうだと思うけど、ほかにいろいろあるわけじゃないですか。そんなに楽しい話ばっかでもないしさ。けっこう悲しい話も含めてあるじゃないですか。
 やっぱり高校とかになって、じゃあ高校、じゃあ大学どうなんだとかさ、けっこう理屈としてもややこしい話でもあるんですよね。だからそこをちょっとこれから、ですね。

佐藤:あとやっぱり「障害者と親の関係」っていうのはあって。カワハラさん? 康ちゃんのころに、一緒に同じぐらいの感じでやってた未熟児網膜症の人かな。お父さんが大学の教員だったのかな。すっごい大事に育てちゃって、けっきょく親元から離れられない。学校に行くことができたりとかそういうことができても、けっきょくその選択そのものが本人というよりは親が選んだことで、だからそれは彼女の人生なんだけど、なかなか親と離れられない。とかっていうとこでの難しさがあるのかなあみたいなことを。どの子も。普通学校へ全国連絡会のいちばん最初の事務局をやった小竹雅子さんと何年か前に会った時に、カワハラさんは親戚? 夫のフクダさんのお母さんの違うお兄さんなのかな? そういうこともあって、「いやー、やっぱね、なかなか子どもが手放せないのよ」っていう話を聞いて。だからやっぱりなかなか、就学闘争だけじゃなくてその後の人生ってのはやっぱりなかなか大変だなあっていうのを、違う意味でね、思ったんですけどね。
 あと、私そんなにぜんぜん知らない話なんですけど、大谷恭子さんとはすごい今も一緒に運動やってるからしょっちゅう会ってるんですけど、和希くん、川アの。世田谷の小学校に行って普通学級に通えた光菅さんも、ほんとにお母さんが、もう和希くんが亡くなってそりゃとうぜんなんだけど、だからほんとにその…。みんな障害児運動、就学運動をやる親って、すごい子どもに対して一生懸命じゃないですか。だからそれがほんとに、成長してくにしたがって難しいことってあるのかなって。逆にとても子どもの人生に関心があるぶんっていうのをね、カワハラさんのお話とか聞いてね。[01:55:46]

立岩:ありますよね、それは。ある種思い入れがないと運動自体始められないけど、そうやってこんななってぴったしっていうか、強すぎると、こんどは親が離れなかったり子どもが離れなかったり両方いて。実際にある話ですよね。じゃあどうしましょうっていうのは。

佐藤:だから康ちゃんはほんとに足立にいるのが息苦しくなって足立を出たんだろうなって思うんですよ。私たちは就職したりだの何だので離れていったけど彼は足立に住んでたし、もともといた人たちっていうのは足立に住んでるわけだから、10歳の康ちゃんを知ってた人たちが20何歳になっても彼を知ってるわけで。そういうなかでの息苦しさってのはきっとあって、足立から北区に移って。
 彼の最後の介護をしてた人たちがなんか文章を作るっていうのは、康ちゃんのお葬式の時に言ってたんだけど。

立岩:けっこう飲んでたんだよなっていう話は間接的に聞いたりしましたけどね。脳性麻痺の人って飲む人多いけどね。

佐藤:飲むとね、ちょうどいい感じになるんだと思うんです、緊張がとれて。
 だから、八木下さんからいつか電話がかかってきて、「おまえは知ってるか?」って言うから「何を?」って言ったら、「康治が入院しても、入院した先で介助者が酒飲ませてるんだ!」とか言って。「おまえどうすんだ!」って、電話かかってきて言われましたけどね。

立岩:八木下さん、その70年代の終わりぐらいの話で今日聞いたような事情ってのがあって、ほぼ初めて知ったんですけど。たとえば東大闘争、68、69、70とか、その時の「闘争と学問」っていう講座を、大学当局のカリキュラムとは別にそういうのをやるんですよ。それに八木下さんが来るんですけど、その時の事情ってどうだったのかみたいなことを知りたくて。で、その最首さんにも伺ったんたけど、具体的には覚えてないっていうか。本人、たぶん最首さん自身はそこに深関わりしたけじゃなくてっていう感じなんで、よくわかんなかったですけどね。

佐藤:八木下さんって、けっきょく四十何歳の時に中学校に、小学校だかに行ったんですよ、一回。あれはけっこうそれなりに取り上げられたんじゃないですかね。それとあと、埼玉で運動をやってる人たちのなかで、春日部の耳鼻科、【谷中】(01:58:51)さん。【谷中】さんっていうのは東大の人でしょ? たしか☆。
☆「埼玉障害者市民ネットワーク」の事務局は谷中耳鼻科内に。http://www.arsvi.com/o/sss1.htm

立岩:その関係があんのかなあ?

佐藤:その関係じゃないかと私は思うんだけど。

立岩:ありえますね。今埼玉の運動のこと調べてる院生〔増田洋介〕がいるんですよ。ちょっとそのへんもあたってもらって。

佐藤:埼玉はね、何だっけ。ずーっと通信出してますよね。

立岩:『わらじ』ですね。

佐藤:そうそうそう、『わらじ』。

立岩:すごいよね。あの雑誌は私はほめてんだ☆。読んでおもしろいからさ。
☆立岩 真也 2001/12/01 「つたわってくる・つたわっていくことのおもしろさ――一人の読者から」,『ノーマライゼーション 障害者の福祉』21-12(2001-12):9-12

佐藤:わらじとあと『柿のたね』と。すごい二大双璧ですよね。『わらじ』は、『わらじ』やってた谷中〔浩志〕さん? とかがやっぱり八木下さんと親しくて、だと思うなあ。

立岩:埼玉ローカルにはまずそうですよ、それからも続いてきて。だからそうか、それと東大がつながるってのはありうる。ちょっと調べてもらいます。埼玉運動おたくの増田さんに。

佐藤:埼玉も独特ですよね。見沼たんぼでなんかやってる人たちもいるでしょ。

立岩:それも一つ本になったんですけどね。若い人がこないだ本にして☆。それはそれでおもしろい話で、障害の話だけじゃなくて、それこそ田んぼとかの話も含めて。だからもう、やることいっぱいあるんですよ、ぼくらはぼくらなりに。うしろについて拾ってく仕事だけですけど、それだけでも、拾ってかなきゃいけない仕事いっぱいあって。今日は途中までですけど、そんな話をうかがえて。

佐藤:すいません、なんか話が。もうちょっと復習しとくはずだったんですけど。

立岩:いやいやいや。たぶんそういうことも含めて、また別の人であったり、同じ話を別の人が聞くっていうことも含めて、塗り重ねるっていうか。と、いいこともうちょっとあんのかなと思うので、またうかがいたいなと。

佐藤:あと律子さんが今、どの子も普通学校へ連絡全国会の代表幹事をやってる。

立岩:そうなんですってね。

佐藤:ここ何年もやってるんですよ。だからそこがやっぱり律子さんの、「やっぱり私は運動からたくさんのものをもらったから運動に返していくんだ」っていうふうに言ってるところは、なかなか大したもんで。私は律子さんとも今だに。さすがにコロナになったんでちょっと会えなくはなってんですけど、けっこう付き合いはあって。こないだはちょうど、自分の誕生日の日に、80歳の誕生日の日に、彼女バイオリン習ってて、バイオリンの発表会だったんですよ。で、私がなんかお花も送ったんですけど、そしたらちょうど弦楽何重奏だったのかな? そしたらそこでみんながハッピー・バースデーをひいてくれたとかって言って。恥ずかしいけど嬉しかったって言ってましたけど。

立岩:80か。そうか。でもそうですよね、そういうことですよね。最首〔悟〕さんも86になったとか言ってましたけど、今日☆。

佐藤:だから最首さん、一時期がんでもう死ぬかもしれないっていう噂があったんだけど、ぜんぜんね。

立岩:元気だよ。

佐藤:お元気ですよね。

立岩:元気でした。もう86で。

佐藤:そう。みんな元気だよね。八木下さんだって何だかんだいって元気だったよね。私けっこうね、高齢者施設に入ってから会いにいきましたけど、だいぶやっぱりあれだよね、だめだなっていう感じだった、なんか。

立岩:最期はっていうか、後年はなかなか厳しい、だめだめな感じだったって、知ってる人は言いますね。

佐藤:そうそう。すぐお金の話するんですよ。なんか「おごってやる」とか言いながら。そんな感じだったんですけど。
 でも八木下さんもお母さんにそれこそ大事にされた息子だったんで、それであそこまでになったっていうのもあるんですよ。あとやっぱり、親に金があったから。だから「あなたお金あるんだったらさ」って、「ちょっとお金残していきなさいよ」って言ったんだけど、すっごい警戒されましたよ、ほんとに。

江頭・立岩:(笑)

立岩:なるほど。そうだね。

佐藤:「あーたさ、ちょっと金残しなさいよ」ってすっごい言ったのに。

立岩:八木下さんは、なんか、いちばんシビアなとこからなんとかっていうタイプの人ではないよね。やっぱりちょっと「いいとこ」っていうんじゃないんだけど、それなりに余裕っていうか、あって。

佐藤:そうなのよほんと。調子のいい男っていうか。まあでも勘がいいっていうかさ。だからそういう意味では私、八木下さんともずいぶん親しく付き合ったし。お葬式の時ほかの用事があったから行かなかったんですけど、「もう生きてる間にじゅうぶん付き合ったから、もう葬式行かなくていいのよ」って言ったらね、律子さんが「あんた、いいこと言うわね」って言ってた。

立岩:(笑) そっか。そういうこう、必ずしもほめたもんではない側面も含めてね。やっぱりでも、ある種の先駆であったのは確かだから。だから、さっきの増田さんが調べてるんですけど、けっこう埼玉のあれこれを調べて。たぶん書いてくれると思いますよ☆。
☆ まずは以下。
増田 洋介 「資料 八木下浩一 略歴と引用集(その1)」 ,『遡航』4→http://aru.official.jp/m/SOKOU004.htm

佐藤:***(02:04:28)はけっこう。

立岩:そうか、それは言われてみるとそうだな。ちょっとそのへんにあたりつけて調べてみます。
 これってお借りしていいんですか?

佐藤:いいですよ。なんかもっとあとね、市野川さんが一通り持ってったよね。でも市野川さんも忙しいから。

立岩:そう、ばたばたしてると思うんだよね。私もそうだけど、資料をやんなきゃやんなきゃって思うんだけど、やりだすと手間かかるんだ、あれ。

佐藤:昔みたいにさ、ちょっと学生使ってっていうほどのんびりの時代じゃないですからね。

立岩:そうですね。そりゃそうなんですよ。だからそこのところをどうするか含めて。


[02:05:10]音声終了
〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。


UP:20221125 REV:20221126, 20230202
金井 康治・金井闘争  ◇斉藤 龍一郎  ◇声の記録  ◇WHO 
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