◇最首 悟 i2022a インタビュー・1 2022/10/13 聞き手:立岩真也・丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
◇最首 悟 i2022b インタビュー・2 2022/10/13 聞き手:立岩真也・丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
◇最首 悟 i2022c インタビュー・3 2022/10/13 聞き手:立岩真也・丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 【rmk18-2】20221013最首悟_157分
最首:鶴見和子なんてひでえよ。
そんなことが始まっちゃったんだよ。三つ同時に始まったので、それで***(01:28:23)はじめてたりして、けっこう忙しくなりましたね。
駿台もしっちゃかめっちゃかなんですよ。ひどかったのは、駿台入って論文科ってのを、駿台としては私一人で、あとは國學院の教授が一人、それはすぐ辞めちゃって私一人で論文科ってのを支えたあたりからなんか、忙しいのなんの。それはバブルってのもあるんでしょうけども。それで信じられないことを、丹波も自分で河合塾の経験があるからわかってるけど、論文200枚添削指導がある。それを締め切り厳守だっていうのに、明日締め切りって時に「できません」って持ってくるやつがいたりしてね、ほんと200枚ぐらい一晩でこなすっていうことをやってね。それはインチキもほんとにインチキなことで通ってたんですよ、論文だってね。
立岩:予備校でいくら稼いでっていう話を延々と丹波さんと電車の中でしてきたんですけど。この頃子どもが数が少なくなってとか、もうオンラインで講師いらなくなったりとか、そういう話を。[01:30:09]
最首:隆盛期ってのはすごかったよね。ほんとにもう、私なんか毎晩、毎晩というかキャバレーでの接待とかね。あの頃が予備校の華でしたね。新宿のムーラン・ルージュなんてのに行って大騒ぎしてさ。みんな駿台持ちでね。飲んでばっかりいましたよ。
立岩:僕も実は予備校で稼がせてもらったっていうか。
最首:ほんと!
立岩:一家を支えてたくちなんですけども。私んとこは最首さんとこみたいに4人も子どもはいませんでしたけど(笑)。予備校で10年近くかなあ、食ってましたね☆。っていう話をしてきたんですよ。
☆立岩 真也 2014/08/01 「悪文」,『群像』69-8(2014-8):200-201
最首:そうですか。
立岩:それで僕も、最初月給もらったとこは千葉大だけど、講師は辞めてましたけど問題作ったりとかやってたんだよねみたいな話をしてて。でもそれは言ってみれば、千葉大に言わない限りは知らない。知らないからそのままっていうんで、僕もずっとやるつもりもなかったし。だけど最首さんはちょっと有名じゃないですか。だから東大にいるっていうことも人は知ってるし、駿台行きゃ駿台で知ってるじゃないですか。そのへん東大は見て見ぬ振りする感じでずっと通してたって感じですか?
最首:それは私の一つの反逆でね。「アルバイトはいけません」なんていうので、あえて駿台だってのを隠さないでね。それをずっと東大当局は我慢してきたわけね。で、ついに『朝日新聞』で6回連載の私の自叙伝みたいなのが、今編集員なんだけど、藤岡さんっていう女性記者がやって。それでそこの中に「駿台で」ってのを堂々と書いちゃったもんだから、さすがにこれは見過ごしできないっていうのが1994年なんだよね。だからけっこう稼いだよね。それで、「さすがにこれは辞めてくれないか?」って話でね、「辞めませんよ」って話したら、「助手の給料を1階級上げるから。助手の給料を加算するから、東大をやめてくれませんか?」っていう話になって、それで手を打ったわけね。
立岩:辞めるまでのあいだ一級加算するからやがて辞めてくれ、そういう話ですか?
最首:違う。すぐ辞めてくれって言った。1994年の1月。
立岩:じゃあその加算ってのは何? 退職金の加算みたいなものですか?
最首:1993年の秋から冬ごろ、6回連載の朝日新聞の6回連載が始まって、それで1994年の1月に辞めてくれませんかっていうことを。1階級給料上げるからね。
立岩:それは端的に言えば退職金が上がるっていう話ですか?
最首:そうそう、退職金の。なんと10万円だよ、今だってもう。
立岩:え?
最首:一月10万円だよ。和光なんて4年間いてちゃんと4万円くれてんのにさ、助手27年勤めて今、10万円だからね。
丹波:年金のことですか?
最首:年金。文部省の年金。
立岩:年金って、月々の年金ってこと?
最首:そうそう。10万円ってのは、1階級上げてくれたのがちゃんと加算されてるんだろうからね。
立岩:上げた結果、10万円。
最首:94年の1月にその話があって、3月に定年前の、1年前、2年前に辞めたのかな。57、8、9か。つまり、定年前なんですよ、辞めたのが。94年の3月に辞めて。それまで大学はずっと我慢してきたわけよ、私が駿台の講師やってるのを。[01:35:25]
立岩:すると94年まで一気にいきますけど、まあ今日はその手前ぐらい、77とか、その6年、***(01:35:39)77とか。そのあとのことはなんとなくわかります。
最首:そうですね、だいぶ書き残しました。
立岩:けっこう書かれてるじゃないですか、そのあとのことは。
最首:その前がね、書いてないのでね。
立岩:空白って言えるかどうかわかんないんですけど、その5年分ぐらいですか、6、5、4、3、2、みたいな、そのへんのことってなんだったんだろうみたいな。漠然としたうかがいかたになるんですけど。
最首:そこらへんのことは少し。立岩さんに。これお持ちでしょうけどまた持ってってください。
立岩:これ「新」ってのが出たんですか?☆ これの新しくないほうは持ってます。
☆最首 悟 20180709 『新・明日もまた今日のごとく』,くんぷる,272p. ISBN-10:4875511779 ISBN-13:978-4875511779 [amazon]/[kinokuniya] ※
最首:よかったよかった。これ付録あげますね。付録の紙があった。その「太ったさんま」ってのがいい。
立岩:いいですね。カプカプの人が描いた絵ってことですか?
最首:さんまがそんな太っちゃうってのはすごいよなあ。
立岩:今年さんまはやばいですよ。こんなですよ、イトヨリみたいな。こういうさんまだったらいいですね。
最首:これにちょっと書いた。やっぱりね、どうしようもない。つまり、ギリギリちゃんと、ちょっと真面目ふうにして戻るかっていうことと、やっぱりやくざのほうがいいていうのと、そこらへんに追い込まれてくるわけね。星子の生まれる前。生まれたあとはもう忙しくて、大学でなんかやるなんていうことは本題から離れちゃったらね。でもそれまでは大学にっていうのは大事だったわけね、やっぱり。
ただね、一つは大学に残って何をするのか。「残る」って言えば残れるんですけど、生物をやるのかね。それもやりたいことはいっぱいあるんだけども、それがなんか俺の「本業か?」みたいなことがあって、その悩みなんですよね。だからそこで、生物離れるとじゃあなんになるっていうと、教養・素養ってのはないわけですよ。つまり社会学とかね、哲学なんてとんでもないし。それで、思想っていうのはまあいいと。なんだっていいんだから。でも思想ってのもルールに乗っ取らないとね、まずいんで。それで査読なんてのがあるからね、絶対そんなの嫌だっていうんで。そこらへんの悩みってのは…。残るってのは決断が大事なんだけど、さて決断すれば残れる、だけど残ったあと何するかってのがまたわかんなくてね。そこが吉本のまた影響なんですよね。いろいろと「自立する」みたいなことがずっと関わっちゃうので。
立岩:ちょっとこの間、関係ないっちゃないけどあるっちゃあるようなものを僕も書いてて☆。吉本さんの話と最首さんの話があって、それでそんなようなことをボソッと言ったら、丹波さんが「あるよ」って言って、その吉本をめぐる対談? の原稿☆もらって。でもまだ飲み込めてはいなくて。要するになんだったんだ? ってのはよくわかってないんですけど。
☆立岩真也 2022/12/20 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房
☆★
丹波:『情況』の時の。
立岩:そうか、『情況』のやつですね。
最首:この間も、ずっとツイッターで***(01:41:27)ばっかり書いたんだけどね、吉本の「大衆の原像を日々取り込む」ってのはなんなんだっていうのがずっとあってね。ついに結論は、「吉本もわかってなかったんだ」っていうことなんですよ。「大衆の原像とは俺のことか」っていう感じになって。つまり、吉本自身のことかっていう。「でもさすがにまずいなってんで親鸞にいった」っていうようなことをこの間ツイッターに2回書いたんですけどね。『最後の親鸞』みたいなことで。それ書いてるうちに立岩さんが、吉本の評価できるのは一つだけだっていうのが、なんか親鸞関係だったですよね☆。
立岩:そうですね。それはそう思ってるんです、実際にね。それはそれでいいんですけど、でもいいんですけどっていうか、「大衆の原像」って確かに厄介っていうか危ないっていうか、「誰のこと?」っていうのはおっしゃる通りで。
最首:私は親鸞を、たぶん野次馬的に言うと「吉本はついに原像と言ったってわかんないけどやっぱり親鸞かな、みたいに思ったんじゃないか」ってことを書いたのね。
立岩:それは一つの線として確実にあると思うんですよね。ただ一方で、そこらへんにいる普通のおじさんっていうか、なおかつ今最首さん言ったけど「自分」みたいな、吉本自身であってっていう、そういうとこもありますよね。そこんところで、何を原像って言うかによって話がぜんぜん変わってきてるんですよ。っていうこともあって、そこはちょっと考えたくはあるなとは思って。
最首:私の書いてる時の早い時期のが、河合塾の『半生の思想』なんですよ。あれは4年間ぐらい温めて、マキノの奥さんの熱意でついに出たんだけども、そこらへんが半僧半俗とかね、要するに半生(はんなま)の世界なんですけども。それを書いたの、やっぱり混沌としてますけどね。要するにやっぱり、純っていうことになれない、いつも二股かけてるみたいなね。左目と右目で違うとこ見てるとか、そういうような立ち位置みたいなのを、結局書いて表現してることになると思うんですけど。
立岩:僕は今回、12月にはちくまから一つ出るんですけどl、その本文というよりは注のほうで親鸞、吉本は親鸞の書いたところを持ってきて、ちょっと後ろのほうにくっつけたへんな本を出してもらうんですけど、それはそれで。これはね、最首さんと一回慶應の高草木さんとこに呼んでもらって、なんか二人一緒に講義するみたいな不思議なことをやった時に、☆[01:45:19]
☆立岩 真也 2009/06/12 「対論」(最首悟との対論),高草木編[2009:225-231]*.
最首:木で鼻を括ったような言い方をしたんだよな。
立岩:そうですか? そうかなあ。
最首:(笑)
立岩:だけどその時に、最首さんが考えなきゃいけないと思ってることというような話をして。その時にもう一回、吉本なら吉本の、50年代とかに書いたキリスト教と仏教と、それから「殺して食う」っていう話ですよ。で、今回僕が今度書く本は、食べる話っていうか、食べるために殺す話っていうか、そういう話なんですけども。それはそれで一応もう書いちゃって校正中にもなってるんで、もうそれはそれでもう終わりというかなんですけど。
二つあって一つはね、それとはかなり別の話で、その時に最首さんが「考えなきゃいけないと思ってんだよね」って言った、その「まあ、人は殺して生きてるよね」っていう話の続きっていうか、それはどういうふうに続きましたかっていうちょっと抽象的っていうか、深い話と。
最首:なるほどね、私は木で鼻を括ったような立岩さんの一言が出発点になってる。つまり、「命なんてわかんないって言えば終わりだよ」っていう言い方なんだよな。
丹波:確かに。
立岩:まあ、それで始まってますよね、話がね。
丹波:確かに。思い出しました、今。よく先生覚えてましたね。「以上、終わり」っていう言い方。(笑)☆
☆★
最首:それ。「以上、終わり」。それが私のけっこうな出発点になりましてね、また。だから立岩さんのことも、「あの野郎。木で鼻を括ったような言い方しやがって」といつも思ってんだけど、出発点、「わかんない」っていうことを言っちゃえばいいんだっていうことなんですよね。それで立岩さんのあれを見てると、延々となんだかわかんないこと書いてるからさ。諦めないからね。
立岩:そんなにわかんないこと書いてないですよ。わかることを書いてるだけで。でもあの時にしゃべって本にしてもらった話は一つのもとになって。
今度出す本って、要するになんだろう、今「ビーガン」って肉食わない人たちって一定いて、一定の勢力を持ってるっていうか。で、なんか「正しい人たち」だと自認してるというか、っていう人たちで。で、それの思想的なバックボーンとして、たとえばピーター・シンガーっていう人が出てくるんですけど、彼の話っていうのはわりと単純な話で、「利口な動物は利口なので殺しちゃいけないけど、利口じゃない人間は利口じゃないので殺してもいい」っていう類の話なんだけど、でも草食主義というか反肉食主義を詰めるとそういう話にもなっちゃってる。それでいいのかつったら私はいいと思わないんですよ。そこの話をどういうふうにじゃあ持ってくのかっていう話を書いて、それでそこのところの後ろのほうが吉本とかの話なんで、で、「そういえばその話最首さんとしたよな」と思って注のところちょっとくっつけたってのが今度の話なんですよね。
それはまあ、あと二月ぐらいで出るのでまた差し上げて。今日三つも重たい荷物を、お土産いただきましたので差し上げますけど。それは私はそれなりに一年か二年か考えて書いたので、まあそれはいいんですけど。
僕ね、それとはかなり違う話なんだけど、やっぱり70年頃に吉本にバカにされるじゃないですか。それでまあ、『情況』のやつちょっと読んで、ある種の単純な誤解っていうか、そういうこともあってさっていうのが頭のほうに。それは理解できた、了解できたんですけど、でもあの時期に吉本がうけたけど、そのうけた理由もわかるけど、なんかちょっとずるいなっていう感じも、私は吉本にはしてて。それはやっぱり、体制に批判的であるしかない人たちの批判の根拠というか、ある種の党派性というか、そういうものもまただめなんで、で、「こっちもだめだけど、こっちもだめでこっちがいいってのはお前らそういうこと言ってるけど、こっちもだめだしあっちもだめなんだから、じゃあ次どうなんの?」って、それで話が続いたりってことの。そこで立場決め、「どっちもだめだよね、終わり」っていうふうにして終わりたかったっていうか、われわれのっていうかな、それの心象っていうかメンタリティに合う部分があって、ある時期あの人はうけたのかなって気がする。それはそれでわかるんだけど、でもやっぱりずるいよねっていう感じがちょっとしてね。それで、そりゃどっちもだめなのはわかってんだけども、でもある状況下では、どっちもだめなのはわかった上で相対的なましなほうにつかざるをえないし、相対的にましになるように戦わざるを得ないんだというふうに最首さんも言ってるように思えて。そうするとね、吉本が言ってるなんかもっともらしい話も「いや、そうでもねえのかな」みたいなことを、二人のというか、書いたものっていうか、バカにしたりされたりみたいな、読んで思ったんですけどね。どうなんですかね? どうなんですかねって言われても困ると思うんだけど。ちょっとそれは思って。[01:52:07]
最首:ただ、この頃私の最首塾で主にやってんのは、「閉じる」っていうのと「開く」っていうので、それで「閉じちゃった世界」「閉じた世界」でこそ一見すると論理の鋭さみたいなものは出てくるけども、論理なんてものは一体なんの価値があるのかしら、みたいなね、そういうのが「開いた世界の」ほうにあって。その「開いた世界」っていうのにどういうふうに人はいるのかっていうのが興味なんですよね。それで、「開いた世界」っていうのが関係主義ですのでね。なんか今年はね、けっこうそのことなんかをやってて、こんなの丹波、あったよね? こんなの。最首塾の。ここらへんもそうなんで、なんか今テーブルの上にあったのを立岩さん来るっていうんで整理してたらこんなのが出てきて。こんなのね、要するに、差し上げます。ただ引用だけの文章ですけど。
立岩:ありがとうございます。これは大庭さんのユーチューブでしゃべってますよね★。僕その2回は。大庭さんと僕、あの彼が専修でやってた研究会に何回かしか出てないんですけど出たことがあって。大庭さんって僕、嫌いじゃないっていうか、なんですよ。亡くなっちゃったってこともあって。
だけどね、僕それでなんだろうな、そりゃその「生命わかりません、終わり」っていうそれは僕は言いましたよ、確かに。言いましたし、そう思ってますけど、でもね、なんだろうな、言えることもあるだろって思ってるわけですよ。こっからここまでの範囲の中であればとかね。っていう意味でいうと、なんか最首さんって、こっからここまでのあいだだったらわりと確実に言えることをわざと開いちゃってわかんないことにしちゃう癖があんのかなってちょっと思ってて。
で、大庭さんの話って僕、『所有という神話』って昔読みましたけど、そんなに難しい本じゃないっていうか、わりとシンプルなことが書いてある。正しいことも言ってるし批判可能なとこも言ってる。そういう意味で言えば、開いていって戻ってこれないような話じゃないような気もするんですよ。そこんところの議論っていうか話をどういうふうにおさめるかというか、っていうところのやり方みたいなのが、たとえば僕の感じとはちょっと違うなっていうのは思ってる。そんなに大庭さん、開いちゃって戻ってこれないみたいな話はしてないんじゃないかなって思う、それは大庭さんの例なんですけど、わりと最首さんそういうとこあるなと思うんですよね。
最首:なるほどね。たぶんね、「開く」っていうことのとどのつまりみたいなところは、開くにはほんとにないとなったらね、一体何やってんだっていうことになるし。やっぱりとどのつまりっていうのは、あるのかないのかなんで、そこらへんの話ですよね。その「開く」っていうことの中で、その際限のない中でこれだけ人が生きてきたってことが、どういうふうに生きてきたっていうことが、すごい興味がありますよね。閉じた世界っていうのはやっぱり破壊もあるし、創造もあるし、大変忙しくて活気があって、破滅があって、ドラマティックでいいんだけどもね。開くっていうところは本当ののっぺらぼうになる可能性があるのでね。で、そののっぺらぼうという中で人はどのようにあがくかっていうことの立場っていうかな。それは閉じた世界で闘い、競争を闘い続ける活気のある世界とはだいぶ違うのでね。
ただやっぱり、歳のせいもあるんだろうけども、そういう「絶えざる闘争」っていうのやっぱり性に合わなくなってきますね。
立岩:いや、絶えざる闘争は私もあんまり性に合わないんですよ。(笑) 合わない。
だけどそのたとえば、べつに大庭さんの話をしたいわけじゃないんですけど、この世にある処分可能なっていうか、移動可能なっていうか、そういうものをどういうふうに配置するかっていうルールっていうことだけで考えていけば、僕は答えは出ると思っていて。僕は、なんで最首さんこういうふうに言うのかなと思いながら、一番その、今考えなきゃいけない一番大切なことは、知的所有のことですっていうのを書いてくれたことがあって、「あ、いいじゃん」と思って。じゃあ俺も、俺もじゃなくて俺はそこ考えるよって。それはそこの範囲だけで言えば答えは出るような気がするんですよね。僕は思う。
最首:これあげる。これもあげる。
立岩:なに? タウンニュース?
丹波:もう一部ありますか?
最首:あるよ。
立岩:丹波さん収集家だから、全部集めないと気が済まない。
丹波:気が済まないんです。
立岩:という、僕そんな感じなんですよ。だから、生命全部とか人間全部とかって、それはわかんないしわかんなくてもいいと思うんですけど、たとえばその知的所有、所有っていうのをどのぐらいのところで落とし所を考えるのかっていうぐらいの問いであれば、答えは出る。私の問い方であったり書き方って基本そうなってるんですよね。だから、もう大まかに全部見ればそれは、常に開いてるとか行ってきて戻ってこれなかったりしてるっていうのが世界の実相だっていう感覚は僕もありますれけども。ただ、娑婆っていうか形而下の世界をどういうふうにやっていく、処理っていうか、回していくかっていう、小さいっていうかそのぐらいの問いだったらなんとかなるっていうのが。私は社会学やってるっていうせいもあんだけど、そういう問い方ですよね。僕はね。そこはたぶん、最首さんのなんかトポロジックなっていうか、ものの持ってきかたっていうのと、ある意味逆に向いてるっていうか。こう広くなってるっていうのがわかった上で、「こっからここまでの話だったらできるよ」っていうような、僕は言い方はするんですけどね。それが「どっちもだめで、だめだからなんかげんてん」みたいな言い方を吉本なら吉本もするんだけど、だけどそこの時に最首さんはやっぱり68、9年ぐらいの時に、それはそうかもしれないけど、この時点でやっぱり「どっちもだめだからどっちも行かない、終わり」じゃなくて、「こっちもだめよりこっちのほうが多少ましだからこっちはやるよ」っていうのを言い続けてる感じがするんですよね。それは最首さんのほうがっていうか、最首さんたちのほうが正しいというか。っていうのはあの時期のなんか。だから、「最首さん、そんなしょげなくていいよ」みたいな、そういう感じを僕は68、9年のやりとりというか、一方通行な宣告みたいなものから思うことかなと思いまして。[02:01:46]
最首:ただね、やっぱり開いた世界っていうのの、その開いた世界に生きるってどういうふうなんだろうっていうのが。やっぱりその典型的なモデルみたいなんを、なんかうちの奥さんみたいな。
立岩:奥さんはそんな感じなんですか。(笑)
最首:***(02:02:08)から駒場の夜間高校。女中奉公で出てきて、夜間高校で【図学】(02:02:17)の応援して、それでなんとなく一緒になったっていう、それで星子を普通に育ててるわけですよね。開いた世界って、つまり始まりとか終わりとか根拠とかね、なんか「自分がここを根拠として生きてる」なんてことがない世界っていうのは本当にあるんだなあっていう感じもするんですよ。ほんとに変な…変なっていうかね。つまり、信心とかないしね。「女は三界に家なし」ってのは思ってんだろうけども。しかし女ってのはすげえなって感じが。
立岩:「女ってのは」とは僕はあえて言いませんけど。(笑)
最首:(笑)
立岩:でも、そういう世界っていうか、あるんだろうなっていうか現にあるんだろうなってのは思ってて。
最首;石牟礼さんもそこらへんでずっと入ってくるんですけどね。
立岩:そういう世界をいわば肯定するっていうことと、なんか娑婆にあるいろんな、お金を右から左にやると左から右にやるとかっていう話は、僕は整合すると思っていて。人はそうやってぼやーというかぼわーんと生きているために、所有なら所有のルールを「まあ、このへんの落とし所でいこうや」みたいな。僕の世界観っていうか話の持っていきかたはそんな感じですね。だいたいね。
あの話、なんか覚えてます? その『情況』、吉本話の落ちっていうか。最首さんのやつって。最初の頃は書いてあることよくわかって。ある種の誤解があるとか、それはその通りだと思ったんですけど。ちょっとうち帰ってもう一回読んでみますけど。
■雑談[02:05:03]
立岩:いやー、初めてで。こんな感じなんだ。
丹波:先ほど見てた、先生の最終講義の時に、石川正一さんですか? ずっと書いてますね。ビデオがあって、『情況』に、最終講義って講義録が。パロディー最終講義、東大のですね、そこで「闘争と学問」の流れとか。ビデオの中にはペンダントを最首先生が持っているシーンが出てくるんで。
立岩:そのビデオってのはどこにあるの?
丹波:僕は持ってますし、もしよろしければ複写して。あれってユーチューブとかにアップしちゃまずいんですかね。
立岩:ユーチューブにアップしちゃっていいでしょうよ。
丹波:でも先生以外のところでなんか、パーティーのところも撮っちゃってて、いろんな。
最首:いろんな人が出てきてるね。
丹波:蓮實重彦とか写ってませんでしたっけ? 要は、会場を写してて一番前に座ってんのが学部長とかなんで。
最首:でんと座ってんの。蓮實とその取り巻きがいるんだよな。
丹波:ほんとは。でもなんか貴重ですよね。
立岩:そういうところをとりあえずカットしても、メインの最首さんが一人でしゃべってる部分は公開してよ。
丹波:先生は嫌じゃないんですか?
最首:ぜんぜん嫌じゃないけど。
丹波:って答えるに決まってるんですけど。
最首:立岩さんにちょっと見てもらったらいいよ。3グループぐらいが撮ってるんですけどね。それ一つはね、私も持ってると思うんだけど。
丹波:それは同じものだと思います。複写させてもらったんで。その中で石川さんの話とか。あと、横田・横塚さんの話だって言ってます。90何年ですか? 東大のあの時。95年? 先生お辞めになったの。
最首:94年。
丹波:94年の時点でもう「横田、横塚さんのものです」って。「会って衝撃を受けました」って語ってんだね。記録として正しいんだ。
立岩:それもちょっと補うというか、プラスで。昨日もそういう話たんですけど、今なんかめんどくさいんですよ、いろんなものを公開するっていうことが。それはそれなりに理由があって、わかるはわかるんです、その理屈はね。だけどそれ言ってたらなんかやっぱりやだなって思って。できるだけ私としてはそこを緩くしたいというか、思ってるんですよね。
最首:立岩さんの資料の中にも入れてもらうといいわな、そのビデオね。
立岩:やりますよ。今はほんとに何十人、全部で600ぐらいかな、いろんな人のしゃべったやつを文字化した記録と、しゃべってるとか画像であったり録音の記録まんまのやつと、両方のやつと。それを並べて、その記録をみんな読めたり聞けたり見れたりしたいなと思って。今回東京に来たのもその一環でもあるんですけども。その最終講義もどきっていうのは、ぜひ。
最首:今、立岩さんの立場はどうなんってんの? 大学はどうなってんですか?
立岩:大学は僕は立命館大学が20年目って感じです。
最首:まだ籍はあるわけ?
立岩:まだありますね。
最首:まだあるんだ。
立岩:今62で、65が一つの定年で。あとなんか特任なんとかっていうのをやるとあとプラス5年。
最首:今62歳?
立岩:62です。
最首:若いんだー。
立岩:あー、そうですか?
最首:立岩さんというと70ぐらいと思ってたけど。
立岩:たまにそういうこと言う人がいますね。30ぐらいで書いた時に、最初の共著の本を書いた時ね。実物を見て「なんかもっと年取った人が書いたのかと」みたいなことを言われたことがある。なんでかちょっと理由がよくわかんないんですけど。そうです、だから今しばらく。
自分が書きたいことを書くぶんには大学に所属してる必要ってあんまりないんですよ。むしろ余計な仕事が降りかかんないので、むしろ仕事辞めたいぐらいなんですけど。ただ、人の記録をとったり、それをアーカイブしてみてもらったりするのはやっぱり個人の力だけじゃできないので。人もいるしお金もいるし、ものを置く場所もいるので、こうなるとちょっと大学とは縁を切らないほうがいいっていう、そういう感じなんですよね。だから今回のその最首さんのやつも、今日のやつもね、ちょっとやばいとこは、やばすぎるとこは自由に取っていただいて、基本公開したいと思いますし。でもそれは、僕らができるのって限界があるじゃないですか。どんなに頑張っても。そういう時に、たとえば最首さんが東大で最後にしゃべった時の記録とか、そういうよそ様が作ったものもこちらから経由で見れるようにするっていうのを、なるたけたくさんやりたいと思ってますので、よろしくです。その中じゃあ、最首さん同じ世代の中ではようやってるなと。ユーチューブ20いくつももうあるし。なんかこう評価に値するなと、それは思ってるんですけど。(笑)
最首:こんなはずはなかったんですけどね。でもね、75でお酒をやめてから、けっこうこう…今もちょっと閉塞性慢性気管支炎ってのがひどいんですけども、まだ死ぬ気がないのでね。今年9月に86になったんですけども、60ぐらいのとき何やってたかなあというと、酒ばっかり飲んでたような感じです。(笑)
立岩:いや、僕は毎日今でも飲んでるんですけど、75でやめたのはなんか理由があるんですか?
最首:やっぱりご託宣でね。「もう一生分飲んだでしょ」って言われて。(笑)
立岩:言われて、「はい」って言ったんですか?
最首:「はい」って言って2、3年かかったけど。
丹波:ちょっとずつ減らしていきましたよね?
最首:もう「井佐美」☆で最後。いさみ、まだ一升ちゃんととってあるんだけどね。あれをふた開けるかどうかなの。
☆→https://www.honkakushochu.or.jp/kuramoto/525/
立岩:私、仮に75でその境地に達するかっていうと、僕は無理な気がします。かなり確信的に無理な気がして。
最首:それでね、なんだか不思議なことにツイッターはけっこう続くしね。今度朝、あそこの不動橋っていうとこの子どもたちの登校の時に立つんですよ。立ち番みたいに立ってるのね。
立岩:町会長だと聞きましたけど。
最首:そうそう、町内会長。
立岩:黄色い旗とか持って? それはない?
最首:何も持たないでただ立って「おはようございます」って挨拶をするだけなんだけどね。それがね、今三人で立ってんだけども、皆勤は私だけなのよ。毎日立ってんのは。始めて2年目に入ってね、休まないってのが。
立岩:じゃあ子どもたちにも有名人ですね。
ちょっと酒飲みとしては聞きたいんだけど、その75でやめて、体の感じが良くなったっていうことですか?
最首:よくなったっていうわけでもないけど、規則正しい生活になったのと、意識が途切れなくなったというかね。(笑) お酒飲んでる時っていうのの一番の目的は、意識が途切れることにあるんですよね。何してたかほんとにわかんない時があったんです。それはなくなったんです。
立岩:僕も30代ぐらいまではそういうのあったんですよ。「覚えてません」みたいな。それが、酒飲みながらあんまりそういうふうになんなくて、依然として飲み続けてるって、それだけの話なんですけど。べつに正当化するつもりも何もないんですが、飲んでますね。そうか、86か。最首さんは何月何日生まれですか?
最首:1936年の9月14日。
立岩:じゃあもう86になりたてというか。
最首:なりたてなんですよ。40歳の時が星子なので、星子が46歳になりましてね。それでまた、いつまで生きるやら。
立岩:そう。みんな子どもたちが、当たり前ですけど大きくなって。山田真さんのところのお嬢さんというか、こないだ2年ぐらい前かな? 山田さんところにやっぱりインタビューに行ったんですよ☆。そしたらいらして。やっぱり娘さんと三人でしゃべったんですけど、やっぱりじゅうぶん大きくなって。当たり前ですよね。みんな大人になって…っていうのありましたね。
さっき、全国連絡会のことおしゃってたけど、その立役者の一人でもある北村小夜さん、97とかですよ。
:生存学創成拠点
☆山田 真 i2019 インタビュー 2019/05/03 聞き手:立岩 真也 於:東京・山田氏宅
最首:すごい。小夜さんのエネルギーもすごいね。[02:15:04]
立岩:小夜さん、すごいですよ。こないだうちの大学院生が小夜さんのとこ行ってインタビュー始めたら話終わらなくなって、一日9時間しゃべったっていうんですよ。
最首:(笑)
立岩:それはちょっとって。「もう本人がしゃべって止まんなかったんです」って言ってましたね。あと僕はあの人得だと思うのは、僕は最初に会った時からおばあさんみたいで。だから逆に年取らないっていう。最初っからおばあさんだからいつまで経っても同じっていうのあって、あれはあれでいいのかなって思って。
だからやっぱりあれだけ長く生きた人とか、やっぱりいろいろあった人は聞き応えあるっていうか。
最首:立岩さんのその高草木のときのことじゃないけども、「わかんない」っていうのに落ち着くとほんとになんかこう…いいというかね。「わかんない」っていうのはいいなあって。
立岩:わかんないのはいいんですけどね。あとちょっと繰り返しになるからまあいいや。
最首:私の今の実感でね、「わかんない」ってのはいい。ほんとになんかいい感じなんだなあ。それで、「わかんない」っていうのと「希望」っていうのがくっつくっていうのが、ほんとにいいなと思って。なんか「希望」なんていうことを。中也の「なんの目的もない僕ながら、希望が胸に湧いてきた」ってのがどうもこびりついててね。子どもが死んだときの詩の一節ですけども。なんかその「希望」ってのと、私の場合は「わかんない」っていうところにドボンとこうはまり込んだというか、落ち着いたというか。それと「希望」っていうのがくっついているのでね、なんかおかしいんですよ。それですごくそれが心地いいんですよ。だからそれまでの吉本に取り憑かれてる頃、ずっと取り憑かれてきたときのなんか絶望感とか、ほんとに嫌気がさすというか、倦怠感じゃない、嫌悪感か、そういうような。嫌悪感って、何に対しての嫌悪感っていうとまあ生きてること自体ですけども。そういうのがなくなっちゃったんですよね。それでなんかね、「わかんない」っていう、ドボンとほんとにはまっちゃったという感じのことが、「希望」とつないでるって。「希望」ってのは、希望って言葉は中身はわかんないけども、わかんない希望、なんかあるんですよね。
97年なんですけど、今度最首塾200年で朗読してくれて。私の詩を、エセ的な偽の詩みたいなのを読んでくれた弥保さんっていう人がね、
丹波:岡崎弥保さん。
最首:それの中で、要するに「霧の中にいてなんかピカリピカリ光る」みたいなのを書いたんですけども、「霧の中にいてピカリピカリ光る」って、そういうのを言葉にすると「わかんない」「希望」っていう、なんか二つの言葉みたいなんですよね。それで二者性なんてのも言い出したのと。80歳になってからですけど。そういうのとなんか連動しているような感じで。
立岩:200回っていうのは、いつから始めて200回なんですか? 最首塾200回ってことなんでしょ?
丹波:最初の、95年でしたか?
立岩:95年が初回?
最首:初回から200回ですね。[02:20:00]
最首:つまり、94年に大学辞めたときです。
立岩:そうか、94年が辞めた次の年っていう感じですかね。
最首:そのあたりですかね。
丹波:そうですね。
最首:不知火グループですけどね。
丹波:94年10月。
立岩:じゃあ辞めた年の秋っていう感じかな。その昨日丹波さんを呼んでというか、高円寺あたりの知り合いというか、五人で飲んでたんですけど、そこのうちの川口っていうのがうちの大学院出て中野あたりに住んでるんですけど、僕を最初に見たっていうか知ったのは、僕が最首塾で高円寺に呼んでいただいたときのことでっていうそういうつながりの人で。「そういえばあのとき」みたいな話をちょっとしてました。僕はそこに丹波さんがいたってこともわかってなくて、昨日彼のところに行く道すがら、高円寺の環七のとこあたりで、「あのへんの上がったとこでしゃべったんだけど」つったら、「そこに僕いました」って丹波さんに言われて。
丹波:2002年の10月。
立岩:だそうです。というので、最首塾縁の。そのあと彼女が大学院来て、本書いたりして。うるさかったね、だけど。熊が人を喰う話を延々としてて。
丹波:あとは、エベレストに登る。
立岩:うるせえお前らっていう感じだったんですけど。そんなんで、ちょっと最首塾に縁のある、たまたま同じところに、高円寺に五人のうち三人いましたっていう、そういう会でした。それだけですけど。
そうか200回か。200回のそのリストみたいなのってあるんですか?
丹波:あります。ホームページにアップしてるんですけど。
最首:100回記念は「霧が光る」っていう題名でパンフレットみたいなの作ったんですよね。
丹波:作ったんですよね、立派なものを。
■雑談[02:23:22]まで
最首:これ、立岩さんにあげようと思って。水田ふうさんっていうのがいてね。死んじゃったんですけども。
立岩:水田ふうっていうのはどういう人ですか?
丹波:お連れさんが有名なアナーキスト活動家で。死刑反対かなんかやってたんでしたっけ。
最首:その反対のシンポジウムなんですけどね。それがきっかけで東京へ出て来て、最首塾なんかも何回か来てくれたんですけど。死んじゃってね、水田ふうも。それがなんか、なんとも言えないのになってて。よくまあ作ったもんだと思うんですけど。
立岩:ありがとうございます。いただきます。
■(探している助手共闘の資料が見つからない)
[02:30:17]
立岩:ほんとに突然お願いして、バタバタと来て。ありがとうございました。
最首:らちもない話ですけど。立岩さん、頑張ってください。62歳ならまだまだだもんね。
立岩:もうしばらく頑張れると思うので。
最首:私はなんだかだらだらだらだら続けて。続けてる中でね、やっぱりその開いてるということの中での二者性みたいなのをもう少し表現できたらと思うんだけども。
立岩:僕はもっとずっと形而下の(笑)、せこい社会の話を基本せこく続けていこうっていうのが私の目論見でございます。そのへんは分業して。(笑)
丹波:東大のモリモトさんたちと交わした契約書とかって先生お持ちなんですか?
最首:ないない、そんなのは。
丹波:なんかその閲覧の関する、
立岩:その話か。
最首:何もない。
丹波:たとえば僕とかだったらまだ経緯知ってるし見せてくれるけど、これから若い人が行く時に見せてもらえないとか、なんか戦前のものみたいな感じで出されたりしたら、先生の意思に…。これからそういうの増えるんじゃないかなと。戦後史研究で。と思って。
最首:じゃあそこらへんのとこやっとかなくちゃいけないね。
丹波:遺言を残しておかないと。すいません、余談を話しちゃいました。
立岩:ほんと。紙もどこにってのもあるけど、パソコンに入れたものとかも放っておくと誰も何がどこにあるかわかんなくなったりするじゃない? それからネット上にあるものとか。みんなそれぞれ強みと弱みがあって、消えてなくなりかたとか消えてなくなる度合い、容易さの種類が違うっていう。デジタルメディアのほうがかえって脆弱というか、フィルムのほうがまだいいっていう話もいっぱいあったりとか。なんかそういう、ものの集めかたみたいな、保存の仕方みたいなことも、ここにいる若い衆に研究してもらって。あるものを。
次までに助手共闘探しといてください。べつに私は急ぎませんけど。
丹波:ほんとにあったんですよ。お見せしたくて一人でさっきから眺めてたんですけど。
立岩:そういうことってままあるよね。必ずまた出てくるから大丈夫ですよ。
最首:そうか。なくなっちゃったのか。
丹波:なくなってはないと思いますけど(笑)。先生、上持って行ったんじゃないですか? [02:33:50]
(以降データ保存の話など)
1:◇最首 悟 i2022a インタビュー・1 2022/10/13 聞き手:立岩真也・丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
2:◇最首 悟 i2022b インタビュー・2 2022/10/13 聞き手:立岩真也・丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
3(本頁):◇最首 悟 i2022c インタビュー・3 2022/10/13 聞き手:立岩真也・丹波博紀 於:横浜・最首氏宅