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最首悟氏インタビュー・2

2022/10/13 聞き手:立岩 真也・丹波 博紀

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最首 悟 i2022a インタビュー・1 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
最首 悟 i2022b インタビュー・2 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
最首 悟 i2022c インタビュー・3 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅

生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 【rmk18-2】20221013最首悟_157分




最首:闘争と学問が下火になってく頃かな、石川正一くんと出会うんですよね。私の同僚の助手で、やっぱり長男がすごい重度の障害で生まれて、それが石川左門さんとつながったのかな。彼の紹介で私が正一くんの家庭教師になるというか、遊び相手になるという役を引き受けたのね。

立岩:その最首さんの同僚っていうのは、どういう立場っていうか、どういう職というか仕事してたかただったのか。名前とか。

最首:生物教室の助手でそのあと助教授になるんだけども、埼玉大学の出身なので東大の生物教室の中でもそんなに正統派じゃなくて、暴れ派なのね。それでその子どもに障害児が生まれてきたっていうことで。

立岩:なるほど。じゃあその時点では、助手という意味ではほんとに同僚というか同輩というか。

最首:同輩なんですけども。

立岩:名前とか覚えてらっしゃいますか? 正一くんとかは筋ジストロフィーじゃないですか? その同僚のかたに生まれた障害を持ってる子どもっていうのはなんだったか覚えてますか?

最首:さあね…ほんとにわからないっていうか。

立岩:生まれた時から障害を持ってるんだったら、脳性まひかな?

最首:脳性まひとも言えない。

立岩:とも言えないような感じだった。

最首:とにかく、星子より重いんですよね。

立岩:星子さんより重いくらい。

最首:星子は途中からですけどね。生まれつきで脳性まひとも言えない。公害病みたいなのを私は思ってるけどね。

立岩:なるほど。じゃあ知的な障害もある。

最首:もうまったくあったね。

立岩:その同僚のかたのお子さんと、その石川左門、石川正一とのつながりっていうのはどうなるんですか?

最首:なんかね、そいつが正一くんと会ったんですよね。それで、「いいやつがいるから連れてくるよ」とかなんとか言ったんだと思うの。それで、ちょうど住む場所も一緒だったのね。百草園ってとこに私もいて、彼も百草園にいたんだけども、なんで一緒のとこへ引っ越したかと思うんだけど。その頃は教室では付き合うけど日常はそんな付き合うわけじゃなくってね、ただ私を紹介したってことが私にとっては大きかったよね。
 それで、石川左門さんって親父さんも反逆者なのね。それで、子どもに教えるか? って。「何十歳までの寿命だよ」って子どもに教えるかって言ったら石川左門さんは「教える」って言ったんでやめざるを得なくて、東京のそういう会を開いた、自分が長になるわけですけどね。

立岩:そうですね。全国の筋ジスの親の会みたいなものがあって、石川左門さんはそこでいろいろとぶつかって。それで、東筋協っていう東京の分派っていうか、そういうところで活動するんですよね。それはかろうじてというか、僕自身じゃないんですけどうちの関係者が左門さんに生前インタビューしたことがあって☆、多少は。あとは、石川左門さんが書かれたものがあるから多少はそのへんは知ってるんですけど、とにかく同僚のかたが自分に障害を持ってるお子さんが生まれたっていうことがあったのが、何かの縁で石川親子とつながり、その同僚のかたがさらに石川さんを最首さんに紹介して、で、最首さんは正一さんのところに行くようになった、そういう順番か。[01:05:01]
☆石川 左門 i2009 インタビュー 2009/07/19 於:東京

最首:自宅も近かったんですよ。日野ですからね。あれはいつ頃だったんだろう。

立岩:そこも調べればわかるかな。最首さん、短いエッセイかわかんないけど正一さんのこと書かれてますよね。

最首:はい、書いてます☆。
☆ 「社長に対して「水銀飲め」、「お前もこのからだになってみろ」、「私を嫁にもらってみろ」とせまって(p.322)いくけれども、そういうことが全部実現されたからといって、どうなるもんじゃあない。どうなるもんじゃあないというところの、その這いずりまわり方の中で水俣病の人たちがそれぞれの人生をおくり、その中から水俣病になってよかったという言葉も出てきた。深い言葉です。
 障害というのは、私はすべて一大事だといいましたけども、それはそういうもんなんです。どのようなことが、いろんなことが実現したとしても、障害自体どうなるもんじゃあない。そのことによって人生どうなるもんじゃあない。そのところのすれ違いが大きいのです。つまり、障害をもっていない人や行政的な立場の人の方が、あるいは一般的に物事を考える人の方は、どういうことをすれば障害をもつ人の環境が楽になって、そして、障害をもつ人の気持も少しゆるやかになるか、家族も少し気持がほぐれるのか、と考えたりパパッと言ってしまう。生活が楽になるのはいいです。ひとまずいいことです。けれど、その先は、言っちゃあいけない。というか、言うこと自体が間違っている。障害をもって明るく生きようというようなことはないです。宗教的な透明な明るさというようなものはある。筋ジストロフィーの青年たちに見られるような、私の出合った石川正一君もそうでしたが、その明るさというのは、もう、世を越えての明るさです。でも、普通私たちが言える明るさというのはそういうのじゃあない。にもかかわらずそういうことを無神経に言われたら、障害をもつ人とか、障害をもつ家族はがっくりするわけです。」
「私たちは何をめざすのか」『平成六年度障害福祉関係者研修報告書』障害福祉報告書通算第5集、三重県飯南多気福祉事務所、1995年→「星子と場」(『星子が居る』pp.301-343)pp.322-323)

立岩:それはその、2回目の「衝撃」かどうかわかんないですけど、何か出会い的な感じだったのかしらね?

最首:そうですね…。とにかく出来過ぎの子でね。「小学校5年くらいの知能指数」っていうんだけども、もう出来過ぎで。その覚悟というかね、「神様の舞台で私は踊ってるんです」というようなことを言うわけだよな。木工の額を作ったりしながら遊んでてね。「かなわんなあ」という感じはほんとにしてたねえ。

立岩:どのぐらいの頻度というか、あるいは期間というか、正一さんに、

最首:週に一回ぐらい、一年ぐらいはあったかなあ。

立岩:それはたとえば、僕らが家庭教師っていったら要するにバイトですよ。その時の最首さんの立場というか。

最首:それは、遊び相手というか話し相手というか。とにかく「相手になってくれよ」みたいな頼みだからね。ここにしまってあるかな、どっかにしまっちゃったんだけどね…ないかなあ。ペンダントもらうんですよ。それがね、石に爪で模様を彫って、爪痕の模様なんですけどね、10何個作ったっていう一つをもらったんだよ。それでね、それはなんか怖いのでね、ちゃんとしまってあるんだけどね、すごいんですよ。やっぱりどっかしまっちゃってるな。そのペンダントをもらったってのは大変なことでね。なんか正一くんのほうも、まあ親子して私になんか期待するようなところもあったのかな。要するに「なんか継いでくれる」みたいな気持ちだろうね。お母さんもクリスチャンだし、お父さんもクリスチャンで、正一くんはほんとの敬虔なクリスチャンでね。

立岩:それはそうだと思うし、左門さんもわりと筋金入りちゅうかなんていうか、そういう市民運動、のちのちもそうですけど、それはわかるんですよ。それはわかるんだけど、そのことと最首さんに「来て」っていうその流れっていうか…。

最首:わかんないよね。わかんない。

立岩:左門さんから「うちの正一のとこに遊びに来てくんないか?」みたいなことを言ったっていう記憶はありますか?

最首:んー。

立岩:正一さんは79年に亡くなられてますね。[01:10:26]

最首:けっこう生きたな。そうすると星子が生まれたあとも付き合ってるね。76年ですから。

立岩:星子さんが生まれたのが76か。

最首:だから星子が生まれる前だったのか、生まれたあとなのか…。

立岩:僕が思ってたより、間はそんなにあいてるわけじゃないんですね。

最首:ないですね。79年か。

立岩:僕は、最首さんが書いたもので覚えてるっていうか、一つが、助手共闘でいろいろあって。いろいろやったけど、これもまたあとでおうかがいしますけど、吉本隆明やらなんやらなんかいろいろ相手して、このやろっていうか、とにかくちょっとしばらくじっとしてて、ある意味空白の期間みたいなものがあったあと星子さんが生まれて、それでもう一回書きだした。自分の娘のことであったり、娘の周りのことであったり書きだして。しばらくは、少なくともものを書くとか発言するとかっていうところから遠ざかっていた期間があったんだよっていうことをお書きになってたと思うんだけど、その時は、一応なんだかんだいって完全に干されるわけじゃなく、生物学のところで仕事するようなしないような感じで、そこはそこでいながら、やっぱり対社会的であったり、ものを言うっていうのは、言えないっていうか控えてたっていうか、そういう時期があったってことですか?

最首:まあ、言えないほうでしょうね。私の長男が生まれたのが70年の1月18日。

立岩:うちの子どもと一日違いですね。ぜんぜん関係ないですけど。(笑)

最首:それで、数えてみると隔年ごとに生まれてくるわけね。その次が女の子、隔年に三女、次女が生まれて。隔年にっていうから76年。70年から76年のあいだに四人子どもが生まれたわけね。

立岩:生産性高いですね。

最首:高いんだよなあ。(笑) すごい規則正しいんだよな。それでやっぱり生活のことあるしね。書いてますけども、要するにいよいよその変化が、つまり68〜69のあと76年までの間っていうのは、食わなきゃいけないけどもべつにバイトをしてたわけではない。で、助手の給料で食うって、それは大変なのね。助手の給料はまだ、公務員の給料が上がってないんですよ、まだ。そのあとで上がってくるんだけども。だからね、生活いっぱいっていうことはあるのね。頭のほうは、どうしようっかっていうこと、つまりすれすれのところですよ。普通の助手に戻るかっていうのと、極道なところをずっと歩くかっていうののすれすれのところが生活っていうことの波に。生活の波にっていうのはおかしいな、べつに私はそこの生活に関係してないのでね。ただ、助手の給料というのはものすごい大事なわけですよ。そのへんが、ちょうど「闘争と学問」が終わって、星子が生まれて、正一くんというあたりのところにつながってて。
 それで、77年っていうのが転機だったのね。76年に星子が生まれて、77年が転機で。いよいよ金稼ぎってのが始まるわけね。それは、山本に言われたんです、義隆に言われたこともあるんですけども、駿台の生物の講師になるっていうんですけど、山本が「俺一人じゃもたないよ」みたいなね。とにかく、「最首さん、来てくれないか?」って頼まれたわけよ。駿台の。山本が駿台の講師になったのは76年の4月からなんです。ちょうど不知火海総合学術調査団が始まった年の。それで1年間やって、それはね、駿台の講師連中からも超、もうほんとの総すかん。「東大をぶっ潰す」って言ったやつが東大へ入れる学生予備校で教えんのかって。ところがもう秋には山本の人気は上がっちゃうわけ。その学生からの人気がね。[01:17:36]

立岩:予備校の中における。

最首:人気が上がっちゃう。だけども、講師との関係はもう最悪で。

立岩:駿台の講師、同僚というか。

最首:うん、駿台の講師たちね。それで、やっぱり寂しかったんでしょうよ。「最首さん、来てくれないか?」っていう頼みがあったわけ。私はいよいよもう、四人子ども抱えて、さすがに助手の給料じゃあとても…って感じなので「いいよ」って言って、行ったのね。いったのと、子どもの本の、福音館の『子どもの館』の覆面書評を始めるってことがあってね。それはまたとんでもないことで。子どもの本の書評をするっていうので。それは、ワキさんっていう人、国際関係の大学院だったワキさんっていうのが私を引っ張ったんですけどね。それと水俣調査団にかわれて、三つのことが77年に始まっちゃうわけですよ。それは転機で、ものすごい忙しくなるわけね。忙しくなるのと並行して、なんかいろいろ書く注文が来るようになってね。それをなんとかこなしていた。星子のことに関する注文なので、それを書き始めたっていう。だから77年まではけっこうのんびりしてたんですよね。

立岩:山本義隆さんとはずっと付き合いは続いてたんですか?

最首:付き合ってない。

立岩:じゃあわりと突然というか、なんかひさかたぶりに連絡があったと思ったら駿台で働かないか的な提案というか、お願いだったという感じですか? [01:20:00]

最首:山本は臨職闘争とかそういう職員闘争のほうに関わったのでね、けっこういろんなこと。それから逮捕されちゃったからね。山本とべつに付き合いはなかったんだけどね。

立岩:だけど久しぶりに連絡があって、それはそういう事情で「駿台で」って。山本さんはほんとに評判良かったんだと思いますよ。僕の同級生とかでも、駿台でやっぱり山本さんの授業に感銘というかな、影響受けてっていうのはいますね☆。
青木 健

最首:ほんとにね、やっぱり彼の明快さってのはうけたんだよね。ほんとに彼は、思想はないけど明快なんだ。
 山本のこと書かなくちゃいけなくなってね、岩波に山本のこと書いたの。なんだっけ、人物を書いていくやつ。戦後思想家。「山本は無思想だけどいつも面白がってた」っていうようなことを書いたんですけどね、ほんと無思想なんだよ。だけど明晰なんだよね。ある意味ではその思想面からはごみようなのよ。新しいこと考えらんないのね。だから彼の明晰な文章ってのはうけていろいろ本出すけど、みんなそれはそれで月並みなんだよな。原発論にしてもなんにしても。月並みに詳しく書いてくれるんだ。

立岩:僕はフォローしてないんですけど、物理学の歴史のけっこうでかい本☆とかあるじゃないですか。

最首:すごいよ、そこらへんの。すごいよな。

立岩:読んでないからなんともコメントのしようがないんですけど、そうか。

最首:もうすごいですよ。とにかくラテン語、ギリシャ語を習うんだからね。あれはすごいよね。

立岩:わりとそういう、外から降って来た的な77年だったってことですか? 山本さんからバイトやろうってのがあって。



立岩:水俣は?

最首:77年です。

立岩:それも誘われたって感じですか?

最首:それもね、聖子が生まれた76年の春にもう話があったのね。「冗談じゃねえ、そんな学術調査団なんて」って一蹴しちゃったわけ。そしたら76年の秋に石牟礼〔道子〕さんが出てきてっていう話があってね。それでよせばいいのに、石牟礼さんが私に会いたいって言うわけよ。それでよせばいいのに出かけて行っちゃったんだよ。「学士会館で会いたい」って言ってね。それはみんな、土本典昭の陰謀なんだよ。石牟礼さんに会わせるっていうのもね。

立岩:土本さんが差配して石牟礼さんを最首さんに会わせて最首さんを調査団に引っ張り込もうっていう、そういう土本さんの作戦だったっていう話ですか?

最首:そう。つまり、学術調査団がどうできたかっていうのは現代の思想グループをまとめた、そこらへんは土本さんは関係しないわけだけど。それで、水俣に通じてる土本っていうのを調査団としては非常に重用してね。しかも、運転手役を全部引き受けるなんて役をしてて。で、土本さんは土本さんなりに石牟礼さんの気持ちを慮ってるわけね。で、「最首を引っ張り込みなさい」って石牟礼さんに吹き込んだんだよね、きっとね。それで石牟礼さんに会うのも、たぶん土本さんの工作だと思うの。それでね、石牟礼さんに頼みますって言われたらね…。

立岩:それは断れないですね。

最首:断れないんだよね。行かなきゃよかったんだよな。それでその調査団は始まってるわけですよ、4月から。しかしあまりにもひどすぎるのでね、それで私は77年の春に参加するんですけどね。調査団ってのはもうほんとにひどいもんですよ。[01:25:31]

立岩:それはのちに書かれた本もありますので☆、それは読めばいいって話にもなるんだけれども、そのひどさっていう、そのへんの「え?」っていう感じはどういうことですか?
☆最首 悟 19841105 『生あるものは皆この海に染まり』,新曜社,378p. ASIN: B000J71NW8 2200 [amazon] ※/杉並378 m34. e19.
最首 悟 19910511 『水俣の海底から 「終われない水俣展」講演録』,京都・水俣病を告発する会,69p. 500円

最首:要するに現地調査があったのは東大の農学部なのね。戦後ずっといろいろ「現地調査」っていってやったのは。それはみんな上から目線の、もう高みの調査なのよ。そのまんまなんだよ。それで石牟礼さんの意図とはまったく違って、「入っていく」ってことをしないわけね。「調査団ってのは入っていったら終わりです」っていう変な理屈があったわけ。つまり客観調査を。調査は客観的じゃないのに「入り込んだら客観的じゃなくなります」ってのが東大の調査団の、いろんな現場調査団のシンプルなプリンシプルなのよ。それは意図しなくても不知火調査団にはあってね。それに早々と菊池昌典(きくちしょうてん)ってソ連派が参加してたんだけども。

立岩:菊地昌典、駒場で授業あった確か。

最首:それで、「最首さんよ、俺はもうだめだ」って言うわけね。「俺の資料全部渡すから」って言われてね、菊池昌典辞めていくわけね。そもそも水俣に来ない調査団、員とかいるし。その中でいちばんひどかったのが市井三郎だよ。ほんとにあのアル中もうどうしようもない。

立岩:アル中とは書いてなかったですけどね。(笑)☆ 市井さんのことはちゃんと文章にして批判してるじゃないですか。それは読めばわかるっていうか。
☆最首悟 19830310 「市井論文への反論」,『水俣の啓示 不知火海総合調査報告(上)』(色川大吉編・筑摩書房1983年)
 http://www.geocities.jp/saishjuku/ichii.html

最首:あんまりね、ちゃんとしてないんだよ。(笑)

立岩:必ずしもその市井さん一人ってわけじゃなくて、ほんと全体というか。

最首:鶴見和子なんてひでえよ。
 そんなことが始まっちゃったんだよ。三つ同時に始まったので、それで***(01:28:23)はじめてたりして、けっこう忙しくなりましたね。
 駿台もしっちゃかめっちゃかなんですよ。ひどかったのは、駿台入って論文科ってのを、駿台としては私一人で、あとは國學院の教授が一人、それはすぐ辞めちゃって私一人で論文科ってのを支えたあたりからなんか、忙しいのなんの。それはバブルってのもあるんでしょうけども。それで信じられないことを、丹波も自分で河合塾の経験があるからわかってるけど、論文200枚添削指導がある。それを締め切り厳守だっていうのに、明日締め切りって時に「できません」って持ってくるやつがいたりしてね、ほんと200枚ぐらい一晩でこなすっていうことをやってね。それはインチキもほんとにインチキなことで通ってたんですよ、論文だってね。


1:◇最首 悟 i2022a インタビュー・1 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
2(本頁):◇最首 悟 i2022b インタビュー・2 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
3(続き):◆最首 悟 i2022c インタビュー・3 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅

〜このように表現しています〜
・タイムレコード:(hh:mm:ss)
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。


UP:20221127 REV:
最首 悟  ◇東京大学やその周りでの  ◇声の記録  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
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