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平野みどり氏インタビュー

2022/10/10 聞き手:権藤 眞由美

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平野 みどり i2022 インタビュー 2022/10/10 聞き手:権藤 眞由美 於:熊本市

生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/

【rmk16】平野みどり(20221010)_64分
〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。


権藤:すいません、じゃあ録音させてもらいます。文字起こしをしたあとに平野さんに見ていただいて、公開できる部分だけを公開させていただければと思います。

平野:わかりました。

権藤:ありがとうございます。11時まででしたよね。

平野:私が遅れたんで、11時10分までいいです。

権藤:ありがとうございます。
 今日お聞きしたいことが、メールにも書かせていただいてたと思うんですけれども、まずミスタードーナツに行きたいと思ったきっかけであったりとか、行ってからの生活、帰ってこられてから障害者運動に、

平野:どういうふうに入ってったか。

権藤:入っていったかみたいなのをお聞きしたいなというのと、もしそのお話しできればでいいんですけれども、31歳の時に障害者になっちゃ…、

平野:30歳になって。

権藤:「30歳」って書かれてて、そのあたりの当時のこともちょっとお話していただければ助かります。よろしくお願いします。

平野:まずどこからかな。きっかけですね。障害持ったところから話しましょうか?

権藤:はい。

平野:1988年だったんで、ちょうど私が30歳の時だったんですけど、その前から足のしびれとか、ちょっとした歩行障害、つまずいたりとかがけっこうあって。もう何年も前から。何か自分の体に変調があるっていうのはわかってたんですけど、そのころMRIっていう機器、磁気共鳴のね、あの機器がまだなかったんですね。だから関節写真、レントゲンではぜんぜん出てこない脊髄の腫瘍だったんですね。脊髄腫瘍なんですけどね、病気は。それがMRIで88年ぐらいにはやっとわかって、「これは脊髄の中に腫瘍ができていますよ」ということで。「これが悪さして歩行障害とか感覚麻痺とかが出てるんですね」っていうことで、「じゃあそれ取りましょう」ということで脊髄腫瘍は取ったんだけれども、一緒に神経まで切れてしまったんですよね。で、結果的には病院には歩いて行ったんですけど、退院するときは両下肢麻痺。
 今だったらひょっとしたら訴訟になるかもしれない。インフォームドコンセントなかった。「こういう危険性もありますけれども、こういう状況も考えられますけど手術しますか?」っていうことは一切なかった。だから私は手術受けたら脊髄の腫瘍がとれて元のようになるのかなと思ったんですけど、そうはならなかった。
 それで、うちの母も医療関係者で薬剤師をしてたので、母はなんとなくわかったのかもしれませんね。術後にどんな状況になる…状況が今あるのかっていうことは、もうこれは歩けないのかなというのはわかったと思うんですけど、でも私は手術が終わってからもだんだん回復していくものだと思ってたのね。でもだんだん状況的にはもうわかってきて、数か月後にもう先生のほうに「はっきり言ってください」っていうことで言ったら、「もう今後歩けるようになることはない」という話が出て。それで、なんとなくわかってたけど突き付けられたっていう感じですよね。
 それからはいわゆる混乱期ですけれども、私は父が早くに交通事故で亡くなって、母とおばあちゃんが育ててくれてたっていうのもあるので、だからもうこれ以上母につらい思いをさせたくないっていうものもあったので、自分…何ていうかな、なんか「立ち直らなければ」みたいなのはあったと思いますね。
 冷静に考えると両下肢動かないっていうことはすごく大きくて。歩けない、移動ができないっていうことで、ずーっと車いすで生活するっていうことなんだけれども、その移動することとかの問題が解決して自分の体と折り合いがつけば、上肢は動くし話せるし、考えることもできるから。いわゆる残存機能ですよね、それはかなり大きいなと。両下肢が動かないことと比べてもそれは大きいなと思って。で、ぼちぼちおうちのほうをバリアフリーに改造して戻ってこれるようにしたんですね。
 でね、何ていうかな…。一つすごく大きかった私の術後の経験としては、車の運転免許を持っていなかったので、両下肢麻痺でなかなか公共交通機関も利用できる状況じゃなかったので「運転免許取ったほうがいいよ」って言われて。リハの先生とかソーシャルワーカーの人たちから言われて、免許を取るということで。で、免許を取るんだったら、その当時って排気量の車を自分で改造して教習所まで持ち込んで、それで免許取んなきゃいけなかったんですよ。たとえば1000tの車持ち込んだら1000tまでの免許だったんですね。[00:05:31]

権藤:へー?

平野:うん。一般的には違うじゃないですか。で、そういう制限なしに免許取れるところが愛知県の瀬戸市にあるって聞いて。それは何かっていうと、昔は厚労省と労働省に分かれてましたよね。厚生省と労働省。労働省管轄のリハビリテーションの…っていうか、社会復帰のための自動車教習所っていうのが瀬戸市にあったんですよ。だから、ちょっと遠いけど地元を離れて2か月ぐらい生活してみるのも経験上いいのかなということで、そこで集中、そこのほうがやっぱり、熊本で教習所に車持ち込んで通うっていうのもなかなか大変なので、そこに行くことにしたんですね。
 そこは、なんとその、主に脊髄損傷の人たちの労災のおじさんたちが、名古屋だからたぶんトヨタとかその関連系が多いと思うんです。労災の人たちが、車いすの人たちが、トヨタの車の部品をつくってる授産施設だったんです。授産工場だったんですよね、その併設してあるのは。で、そのおじさんたちの日常っていうのも見るわけですよ。中でやっぱりね、車いすになったっていうことだけで地域から離れたり、家族と離れてこういうところで、通うでもなく、ずーっとそこに入って生活していくっていうことはちょっとこれは異常だなって思ったのね。で、結局おじさんたち日中は部品作ったりする仕事はしてるけど、夕方から麻雀したりお酒飲んだりしていくわけですよ。それが日常なのね。こんな生活はやっぱりぜったい嫌だと思ったから「私はぜったい地域に戻る!」っていうのはその時すっごく思って。で、地域に戻るためにはどうしたらいいかっていうことで、まずは自分のうちには戻れるけど、そのあとの社会にどう参画していくかっていうことは、その時私の課題だったんですよね。とにかくそういうこともあって、病院からいちおうリハビリを終えてうちに戻りました。
 その入院してる間もですね、障害の比較をするのはおかしいんだけど、たとえば中年の人とか高齢の人で片麻痺になるでしょうって、片麻痺になったらなかなか社会復帰っていうか大変ですよって、それよりも両下肢が麻痺っていうことだと上肢が使えるから、左も右も、これってすごくやっぱり、日常生活するうえでやりやすいですよっていう話をされてたんですよね。だから、「何だってできるよ」っていう言い方をされたし、英語を話すので海外に行ったりすることもできるよとかいう話をされてたのは頭のすみにはどっかにあったんですよね。
 で、うちに戻って英語を教える仕事とか、子どもたちに。それはちょっとアルバイト的にはしてたんですけど、そうこうしてるうちにもう病院から出て半年も経たないうちに新聞にダスキンの募集が載ってたんですよ。で、おばが「こんなの載ってるよ」って教えてくれてよくよく見たら、「あっ、これひょっとしたら病院でなんか聞いたことがあるあのプログラムかな」と思って。ミスタードーナツの海外派遣っていうの。「あ! これだ」と思って「じゃあ応募してみようかな」とか思って。もう病院から出て1年も経たないうちにそれに応募したんですよね。[00:09:27]
 応募して採用は通ったんだけれども、面接を受けに東京の戸山サンライズって、あそこに集められるんですよ。書類審査で通った人たちがですね。そこで面接を受けたり、英会話のちょっと試験を受けたりとかして決まるんだけど、そこにね、私が人生で会ったことがないような障害を持ってる人たちがたくさん集まっててびっくりするんですね、私。自分の今までの知ってた世界と違う世界があったんだとか、こんな人たちがやっぱりいるんだっていうのを知って。で、同じようにアメリカの研修に向けてライバルとしているわけですよね。それにおどろいた。私ぐらいの人もいれば、頚損の人たちもいるし、脳性麻痺の人もいる。デフの人もいたし、視覚障害者の人もいたし、知的障害の人で「お母さんが支援者でついていきます」っていう人も応募してたりして、もうすっごいたくさんいて。もうその時ね、ほんとに素直に「私こういう人たちの存在を知らなくて生きてきたんだなあ」って思って。で、「ああ、よかった。もう今回第一回目だから、ドーナッツ落ちてもまた来年受ければいいし、こういう人たちがいるっていうことを知っただけでもよかったなあ」っていうふうにその時は思って帰ったら、幸い通ったんですけどね。そんな経緯でミスタードーナツには参加したんですね。
 だから結果的には、病院から退院して1年ぐらい。アメリカに行くまで1年ぐらいあったのかな、試験受けた時点で。日本で障害者としての人生を再出発する、もうほんとに最初の段階でアメリカに行ったんですよね。これはすごくやっぱり大きかったかなと。もちろんいろんなつらい経験とか、疎外感とか差別受けたりするような経験をしてアメリカに行くっていうのももちろんよかったのかもしれないけれども、そこまであまり深くいろんなトラブルにぶつからない前にアメリカへ行って、そしてまさにADA(エーディーエー)法ができた翌年だったんですね。1990年にできたのかな? 90年に行ったんです。できたあとだったんだけど。90年から91年なので。
 だからもう、やっぱりADAの祝賀の、みんなのすごい活気? 「こんなのを実現したんだー!」みたいな、こういうのも触れることができた。ADAの設立、成立の過程を勉強することができたっていうのと、やっぱり私が障害持ってる人と出会わなかった成育歴のなかで、やっぱりこれはおかしいと。いろんな人がいるはずなのに、その人たちが一般の人たちと違う教育の場に閉じ込められているっていうか、やっぱりおかしいなと。これはおかしいと思ったんで、アメリカではその教育はどうなってるんだろう? というのを見たいということ、この二つが大きな研究テーマ。そのころはメインストリーミングっていって、今のようにインクルーシブ教育とかという言葉はなかったんですけど、メインストリーミングの状況をアメリカで見てみたいと思って行きましたね。

権藤:ミスタードーナツには、今もダスキンはついてますけど、リーダー育成研修じゃないですか? やっぱり「リーダーになりたい」とか、そういうのって、

平野:リーダーになりたいなんて思い、そういうのはまったくなかった。リーダーになる素質があるとかそういうのもまったくないし。ただ、私の今まで障害がない時のいろんな経験とかもあるじゃないですか。それも含めて障害者運動の中に入っていければいいなあとは思ってたんですね。いずれにしろ自分はアメリカでいろんなことを学んで、それを日本に持ち帰って、地域の中でそれを仲間たちと一緒に活かしていくっていうことはやっていくだろうなと。仕事はべつに何かやるかもしれないけど、それは並行してやっていくだろうなと思ったので、そのためのいろんな情報とかネットワークを作れればいいなと思ってました。
 だから、ミスタードーナツ・リーダー育成、リーダーにはぜんぜん私は…。みんな行く時から「自分はリーダーになろう」と思って行くんじゃないと思いますよ。アメリカ経験したいとか、そういうのが多いと思います。ただ、結果的に「行かせていただいた」っていうのはすごくあったので、すごいお金をかけて向こうで経験させてもらったので、それをなんとか活かしていくっていうことはもう常識、一般的な常識としてね、何かやらないといけないと思っていましたね。[00:15:57]

権藤:そうなんですね。今DPIで事務局長されてるじゃないですか。その前も県議とかもされてたので、アメリカに行く時から、そういう「リーダーになる」っていう目的意識はぜんぜん持って、

平野:ぜーんぜん。だってこの業界は素人でしたし。それこそいろんなワードから何からぜんぜん知らない状況で行っているわけで。脳性麻痺っていう言葉自体も私のボキャブラリーには30歳までなかったからですね。だから一つずつ勉強でしたね。英語も使えましたけど、障害に関する部分のワードとかっていうのも、当事者になってからいろいろ入ってくるわけじゃないですか。

権藤:そうですよね。日常的に自分に身近にあったってないですよね。
 向こうで生活されてた時は、一人暮らし?

平野:同じ同期の人で、心臓疾患を持っている女性がいたんですね。その時日本航空に勤めてた女性だったんだけど。あんまり早歩きとか長距離の歩行とかは厳しいっていう、心臓に負担があるっていうかただったんですね。その人と一緒に行動するっていうことになりました。
 ロサンゼルスはサンフランシスコとかにくらべて鉄道網もバスもなかなか充実してなかったので、そのころは。ロサンゼルスっていうのは「車がないと動けない街」みたいな。だから、免許取りたてだったんだけど、国際免許で。ダスキンからはレンタカーを借りることを許してもらって、そして彼女と一緒に行動してましたね。

権藤:車を運転してたんですね。

平野:運転してましたよ、ロサンゼルス。今考えたらぞっとするんですけど。片道6車線とかいうのありましたよ。

権藤:怖いですね。

平野:怖い。でもその時はわりとこう、まあ30年前だからですね、度胸もあったんでしょうけどね。

権藤:若いですしね。車を借りて、それで移動されてたんですね。

平野:そうですね。ロサンゼルス近郊はそれで移動してたんですよね。あと、ときどきバークレーに行ったり、ワシントンD.C.に行ったりっていうことで、研修したりはしてましたね。

権藤:その研修の生活っていうのはだいたいそのまあ、

平野:どこでかってこと?

権藤:何をしたとか。

平野:ダスキンが、ミスタードーナツが関わりを持っていたリハビリテーション病院があるんですよ。何だっけな、ロス・アミーゴス病院かな。何人かそこに行った人たちがいる。そこの職員寮に入れてもらって、そこを拠点に。その病院だけじゃなくて、病院ももちろん見るんだけど、リハビリの仕組みとかも見て。「ええ? 日本より早く告知するんだ」とかね。「もうあなたは歩けませんよ」っていうのはすぐに言うんだけど、だけどきちんとそれをフォローする、メンタルの支援をする人とか心理支援をする人とか、地域で暮らすためのノウハウを教えてくれる、そういう仕組みはあるわけですよ。日本みたいに「リハビリテーション」と言いながらも、ぜんぜん医療的リハビリであって、社会にまた入っていくためのリハビリじゃぜんぜんないのでね。

権藤:そこが生活の拠点だったんですね。

平野:ですね。それは前半で、後半はその彼女と別行動をとるんですけど。彼女は臓器移植関係の団体のほうで研修をして、私はカリフォルニア州立大学ノースリッジ校っていう、ノースリッジ大地震っていうのが私がアメリカから帰ってすぐにあったんですけど、高速とかが倒れちゃったりするね。そのノースリッジ校の障害学生支援の支援室で研修させてもらって。そこの時は大学の寮に入らせてもらったんですね。それが4か月ぐらいだったですかね。そこでは障害学生の支援の仕組みを勉強するっていうことで。

権藤:学生さんけっこう人数いらっしゃいました?

平野:いらっしゃいますね。とくに、また知らない障害の分野、発達障害とかラーニング・ディスアビリティーですよね、学習障害の人たちを支援する機器とかノウハウとかっていうのがあるっていうのを、「こういうふうにわかりにくさがある人たちがいるんだ」っていうのをその時知るわけですよ。知らないから。[00:20:23]
 だから、小学校からずーっと考えてみると「ひょっとしたらあの子はそういう障害だったのかな」と思い当たるのあるわけですよね。「ただ勉強できない子」にされてたけど、ふつうに日常生活で話するのはぜんぜん問題ないのになぜお勉強だけあんなできないのかなっていう子いたんですよね。そういう人たちへの支援っていうのが日本はまったくないんだなというのがもうその時わかった。

権藤:そうですね、まったくない時代ですものね。自助努力によって。あとはもう、

平野:わかりづらさとかね、そういうのがぜんぜん認識されてない時代の、「なんでこんなできないんだ!」バシッ! って感じで。

権藤:そうそうそう。

平野:かわいそうに。

権藤:ほんとなんかねえ…。そのころ叩く先生とかもいましたからね。

平野:いましたね。だからもうほんとにお客様状態ですよね、何もわからなくてね。

権藤:教育機関なんですけどね。

平野:あとは地元の小学校とか行ったり。最初にいた病院に入院してる子で「医療的ケアがしばらく要る子で、だけども早く学校に遅れないようにしないといけない」って地元の地域の学校に行ってる「医療的ケアの必要な、重い子どもたち」の学習の場っていうのも見ましたしね。
 あとね、もう私が行ったころは教育に関する法律がなんかできてましたよね。「全障害児教育法」かなんかあったかな。要するにインクルーシブっていうか、なければいけないっていう。で、ばんばんばんばん支援学校っていうか、養護学校を閉鎖していくわけですよね。じゃあもうないのかなと思ったら、ないわけじゃない。要するに親やその当事者がきちんと意見を言えれば当事者の意見も聞くんでしょうけれども、一般的にはまずは地域の学校。で、地域の学校でどうしても厳しいっていうふうに親とかが判断した場合は、強制的に「そっちへ行け」っていうんじゃなくて、「私の子どもはここじゃなくてこっちがいい」とかの場合のための支援学校っていうのがあるわけです。養護学校は。ぜんぶをなくしたわけじゃなかった。私が行った養護学校も通常の学校の隣にあるんですよね。だから、授業によっては一緒に交流をするとかっていうのはあったんですよね。だけど、ほんと強度行動障害の子とかもいるじゃないですか。そういう子はやっぱり支援学校のほうで、養護学校のほうで学習というか、過ごしてましたね。
 あの強度行動障害の子たちっていうかな、もうほんとにこう、何かな、もうほんとに【ここは恐れずに言うならば】(00:23:29)、人間と動物のさかいみたいな子ってやっぱりいるじゃないですか。もうあの人たちを見たときっていうのはやっぱり、またショックでしたよね。だけどできるだけその子たちを隠すんじゃなくて、地域の子たちにも「こういう子たちがいるよ」ってことがわかる環境の中でできるだけ過ごさせるっていうのがね、やっぱ大事だなと思いますね。

権藤:同じ場所にいるっていうことだけでも違いますよね。

平野:同じ、

権藤:敷地内に、

平野:敷地内にある。

権藤:アメリカではそういう障害の衝撃を受けるっていうか、知らないことの連続。

平野:そうですね。ばんばん、ばんばん衝撃くださいっていう感じだった。今まで知らないぶんいっぱい知ったというかな。短期間にね。そういうのがありましたね。

権藤:障害者の自立生活運動っていうのはそのあとに知ることになるんですか?

平野:自立生活運動は、もともと10期もやってればその前のかたたちのレポートとかで知ってるんですね。「そうか、バークレーが発祥の地なんだ」とか、エドワード・ロバーツとかマイケル・ウィンターとかいろんな人が、ジュディ・ヒューマンとかいて、とかいうのは知ってるわけですよ。そして行くわけですね。私たちの同期の中にもそのままバークレーで研修をするっていう人たちもいたんですね。同期の人たち。私の同期の人たちにもインタビューされてます? 誰か。

権藤:いや、まだ10期はどなたも。まだ始めたばっかりなので。[00:25:00]

平野:なるほどなるほど。
 重度の人たちは2、3人ぐらいいたんだけど、バークレーのほうで自立生活の勉強をしていって。私たちは基本的にロサンゼルスを拠点として、自立生活センターもロサンゼルス内のところを訪ねたりするわけですけどね、でもやっぱりときどきバークレーにも行って。車で行けるんでね。バークレーに行って、バークレーの自立生活センターでいろんなことを勉強させてもらうっていうこともやりましたね。
 だから、自立生活運動をたどるっていうのはもう1期から10期の人たちはけっこうそうだったかもしれないけど、私たちの場合は、それもやる人もいるけど、そうじゃないところを勉強するっていう人もミスタードーナツっていうのは欲しかったんじゃないかなと。ちょうどADA法ができたっていうことでね。ADA法ができるまでの経緯っていうのをいろんな人に聞くわけですね。当事者だけじゃなくて弁護士のグループとかね、人権擁護団体。DREDF (ドレドフ)っていうんですけど。

権藤:ドレドフ?

平野:D、R、E、D、F、DREDFっていう。そこの弁護士さんたちも全米にどんどん出てって、「こういう法律ができるから、みなさんぜひ実現するように地域でも取り組んでください」みたいなのを全米各地で繰り広げて。DREDFだけじゃなくていろんな団体がそういう方向で動くわけですよね。ADA実現っていうことでね。
 で、究極、ADAを実際実現するためにした政治的な行動っていうのが私はすごく印象に残ってて。つまり、その時にブッシュのパパのほうが大統領選に出て、その人は共和党でしょ。民主党は…忘れちゃった。ブキャナン? ブキャナンじゃない。あら、誰だったかな? うわー、ちょっと待って、大統領候補。ずっと覚えてたんだけどな。まあいい。民主党の大統領候補がいるわけですよ。だいたい障害者運動は共和党より民主党のほうに。人権関係だからですね。ところが障害者団体は、じゃあ民主党のほうが当選するように動くっていうことをするかっていうとそうじゃなくて、ふた手に分かれるわけです。共和党の大統領が実現しても民主党の大統領が実現してもADA法が通るように、手分けしてその陣営に入るわけです。戦略。それで結局はパパブッシュのほうが通ったので、共和党政権じゃないですか。それでも共和党政権にしっかり入っていった障害を持ってる仲間たちがいたからADA法は通るわけです。それはね、すごいなと思った。
 だから障害者運動では「この党でしかだめだ」とか「この党とつながる」とかね、それだけじゃだめです。やっぱりほんとに何か実現するためには、自分の主義主張が少し違っていてもそこの議員たちを動かしていくのはすごい大事なんだなあと。それは今、DPIの中でも実際幹部の中では共有されてる考え方で、いろんな党にはたらきかけとかネットワークを持ってるんですけどね。で、結局共和党が通ってパパブッシュのもとでADF法ができたんです。
 やっぱね、ロビー活動っていうか、やっぱり戦略的なロビー活動っていうか、それはすごい大事だなと思いましたね。「これ作ってください。うんぬん」っていうだけでなくて、実際実現するためにどうするかっていうことを考えるっていうのね。それはひょっとしたらのちのち政治の分野に入っていくことをすすめられた時に、私を後押しするのかもしれません。よく言われてたのが、アメリカで、フレーズでBe political! (ビー・ポリティカル、Be political! Be political! って「ポリティシャンになりなさい」っていう意味じゃないんですよね。「政治家になりなさい」っていう意味じゃないんですよ。「常に政治的なマインドでものごとを見なさい、行動しなさい」っていうことなんですよね。障害者運動だけでなく女性運動もそうだし、マイノリティ運動も「Be political!」っていうのが私のなんか座右の銘になってて。[00:30:11]
 だから、「政治に出ないか」って言われた時に、「Be political!って、そういえば言ってたなあ」とか思ったり。
 あとね、何かに挑戦するときに、Why not? Why not?「なんでそんなしないの?」って。ちゅうちょしてるときにWhy not?「やればいいじゃん」っていうような意味で使いますけど、Why not?精神がやっぱりアメリカはすごかったですね。
 たとえば、私は障害を持った時点で恋愛も結婚も私が考えてはいけないことだと思ってたわけですよね。やっぱり思ったんですよ。障害のない時の生活からして「障害者の人がそんなふうに考えるなんて」って。やっぱり自分自身も、障害を持ってるっていうと一般の人間よりも下なんだっていうふうにどっかで自分で思ってたと思うから「恋愛とか結婚とか考えちゃだめだ。もうそういうのはあなたたちが考えることじゃないよ」っていうような意識がどっかにあったんだと思うんですよね。で、アメリカに行って、「あなたはパートナーがいるの?」とか「ボーイフレンドがいるの?」とか聞かれたりするときね、「おおー、そんな!」とかっていうようなことを言うわけですよ。そうするとOh, why not? ですよ。で、見てみると、アメリカでは男性、女性、障害者、障害のない人もいれば同性同士がいて、すごいバラエティにとんでいるパートナーがいるじゃないですか。それを見てると、「そうなんだ」、自分をなんか自分卑下してみてたり「自分にできない」っていうふうに自分自身が決めつけてしまってるのだなあっていうのがそこでもやっぱり再認識させられて。目からうろこですよね。それからアメリカで生活していくなかで、のちのち日本に帰ってきてあたりまえに発言したり行動することのベースになってるのがアメリカの経験かなと思ってね。
 私が障害を持ってから日本に3年も4年も5年もいて、で、アメリカに行ったとすると、何というかな、日本の社会の冷たさとか差別意識とか、そういうのに向き合うときのパワーがひょっとしたら日本、削がれてるかもしれない。もういっぱい傷ついて。だけど傷つく前に行っちゃったから、「だってアメリカで見てできたことがなんで日本でできないの?」みたいな感じで戻ってきてるから。
 だから、そういう意味では「アメリカであれできたのに、なんで日本じゃできないんだろう」っていうふうになるよりも、日本はアメリカの何年か前の状況なんだと。アメリカが先を行ってる、ぜったいアメリカのようになれるはずだっていうのはあって。だから私たちが言ったりしたり、障害者運動でやったり言ったりしてることが「今は一般の人たちにわかりづらいかもしれないけど、それがあたりまえになるぞ」っていうのは常にありましたね。障害を持ってる人たちの発言や行動が、「インクルーシブな」っていうかな、いろんな人たちがあたりまえに安心して暮らせる社会の水先案内人、道しるべになってるなっていうのは常に自分の中であった。だから何を言われようが、「いや、大丈夫ですよ。あなたたちが今そんなふうに言ってるけど、きっと私たちが言ってることがあたりまえになりますよ」っていうのは常にある。

権藤:そういう社会をもう先に見てきたからっていうことですよね。

平野:うんうん、やりましたね。
 アメリカではそのADA法の勉強というか、いろんな人に話を聞いて。ADAを作るときのほんとに戦略とか思いとかに触れて戻ってきて。そして日本でも自立、まずは熊本で重度の人がヘルパーの派遣制度がなかったので、大学でボランティア募集しながら日々の生活を成り立たせてるっていう状況があって、これはやっぱり介護保険制度とかそういうのを求めていかなきゃいけないなっていう運動を仲間たちと始めたり。で、その拠点になったのがやっぱり自立生活センターだと。アメリカで全米でも各地にあった自立生活センターだったの、熊本でも作んなきゃっていうことでね。熊本でも東さんたちと一緒に作るんですけれども。
 熊本の事情はまたちょっと違ってて、私がアメリカにいる時に熊本で…。聞かれたかなあ、東さんから。りんどう荘事件っていうの。りんどう荘って知らない? 東さん言わなかった? [00:35:31]
 りんどう荘事件っていうのがあったんですよ。それは何年かな。だから1990年に露呈してるんだと思うんだけど、熊本県の県立の障害者の入所施設があったんですね。そこで、ろう者のデフの人とか知的障害の人たちの年金を職員が着服していたっていう事件が発覚したんですよ。公務員ですよね。臨時職員とはいいながら、公務員が障害者の年金を着服した。で、こんなひどい人権侵害はないっていって、東さんたちがすごい声をあげたんですよ。「こんなことは許さない!」みたいな。私はその時アメリカにいたんですけどね、その話は熊本にいる仲間から聞いてて、「それはひどいねえ」っていうことで。で、私がアメリカから帰る直前にりんどう荘事件糾弾集会みたいなのも熊本でやってるんですよ、東さんたちが。「こんなひどいことを障害者の人たちにしてるんです!」っていうことを社会に知らせるっていう意味でね。
 だから障害者運動の人権侵害の告発の大きなターニンイグポイントになってる。りんどう荘事件。そしてりんどう荘事件で問題をあきらかにするために集まった東さん含め、ボランティアで毎日生活をしていた重度の筋ジスの人とか脳性麻痺の人とかそういう人たちがその集会を実現するために、スタッフとか集まってきたんですね。その集まりを集会後もなんとか一つのグループにしていけないかなっていうなかで、私が「アメリカで自立生活センターっていうのがあるよ」って、地域の中に重度の人たちが暮らしていけるような自立生活プログラムを提供したり、介助派遣をやってるそういうようなセンターがあるよっていうのを伝えたら、「それはいい。なんか東京でもヒューマンケア協会とか何かできたっていうのはちょっと聞いてるけど」みたいな、そんな状態。それで、「じゃあ熊本でも作ろうじゃないか」ということで。町田のヒューマンネットワークはもうできてたのかな。それで、「じゃあ熊本でも何か名前いいのないかな」って。やっぱり人のネットワークができたから、やっぱり「ヒューマンネットワーク」っていうの付けたいんです。「町田ヒューマンネットワークのなんか二番煎じみたいだけど」とかって言いながらも、じゃあ町田じゃなくて熊本を後ろのほうにつけようと、「ヒューマンネットワーク熊本」っていうのができたんです。それが91年です。だから私が帰った年に。私が帰ったのが4月だったんですけど、

権藤:91年の4月。

平野:4月。それでいろんなネットワーク化というか仲間づくりをして、自立生活センターをつくりあげたのが12月です。1991年12月にヒューマンネットワーク熊本ができたんですね。

権藤:その時のメンバーっていうのは、平野さん、

平野:東さんが代表で、村上ひろしさんが事務局長で。私は事務局次長をやってたんですね。

権藤:じゃあしばらくはヒューマンで活動されてた。

平野:ただ私ね、この10月ぐらいから就職しちゃったんですよね。障害者運動をすごく理解してくれてるリハビリテーション病院の先生がいて、そこのスタッフとして働き始めたので、事務局次長としてメインで働く村上事務局長を支えるみたいな感じですかね。村上市議はその時は仕事はしてなかったんで、ヒューマンの事務局長を専念でやってたんですね。

権藤:そのリハビリテーション病院って今でもあります? [00:40:00]

平野:ありますよ。熊本機能病院っていうところ。米満弘之先生ってね、「米」に「満たされる」って漢字。弓へんに「む」って書いて「これ」って書いてるやつ。今はちょっともう、もう死にかけてとなるんですけどね。

権藤:もうお年がということですよね。

平野:そう。もう病院にずっと入ってる。

権藤:じゃあその先生とのご縁で働くことになっていったと。

平野:うんうん。その先生やっぱり変わった…なんかね、ちょっとユニークな障害者の支援をどんどんするんですよ。障害者ヒューマンの事務局も場所がないっていうことで、最初は病院の中の一室を借りて。使わせてくれてたんです。

権藤:機能病院の中に?

平野:うん。でもやっぱりみんなは街の中に住んでるから、ちょっと離れたところだからやっぱり借りようということで、いちおうそこはもう「ありがとうございました」ということで。1年弱ぐらいだったんですね。

権藤:で、しばらくこのリハビリテーション病院で働きつつ?

平野:1991年の秋から94年の秋まで、3年間勤めましたかね。ちょうど私が94年の春に結婚したんですよ。それで、病院と活動と日常生活で大変だなと思って、じゃあもう夫には悪いけど、ごはん食べさせてもらいながら障害者運動をメインにやろうかなと思って。

権藤:ならそこから結婚生活と障害者運動がメインでっていうことですね。

平野:うんうん。それを2年かな、3年ぐらいしたところで。だからその時は事務局次長としてばりばり動けてたんですね。自由にね、動けてたし。
 ただね、村上ひろしさんが選挙に出るんですよ。90ね。まずね、91年に筋ジスの友村年孝さんが出て。91年の春に出て、そして95年の春に村上さんがバトンを受けて出るんですよ。で、これ落ちちゃうんですね。95年でしょう、だから村上さんが選挙の準備をしてるのと自立生活運動の事務局長をやってるのはちょっと同時並行であって。
 それで95年に落っこって、私が「県議選に出ないか?」って補欠選挙で出馬を依頼されたのが97年の12月なんですね。私はこの時にアメリカで、ぜんぜん県議会とか1回しか、「ノンステップバスを入れてください」っていうことの陳情に行ったぐらいでぜんぜん関りはほとんどなかったんですけど、自分がその議員になるっていうことも想定してなかったから、村上さんや友村さんの選挙は応援してたけど、ぜんぜん自分としては考えてなかった。
 それもほんと、やっぱり障害者制度を改革、変えていくには基礎自治体じゃないですか、サービスっていうのは。だから基礎自治体に議員がいることは大事だと思ってたから、友村さんとか村上さんはぜったい行くべきだと思ってたんだけど、「県議って何? 県議って」とかって。国会と市町村議会の間の中間的なところで、いまいちピンとこなかったんですけど。でも、「出ろ」と言われたらやっぱりいろんなところで障害者運動も含めて発言ができるし、県全体の制度を変えていくっていうことにつながるだろうから、これ断っちゃいけないなと思ったんです。「明日までに決めてくれ」って言われたんです。出馬を依頼されて。

権藤:えっ!

平野:補欠選挙だから。

権藤:すぐに返事をしなきゃいけなかったんですね。

平野:ある議員さんが亡くなって、一つ国会に行った人の席があって。二議席空いたらもう補欠選挙しなきゃいけないって決まってて。で、亡くなったから「補欠選挙だ」ってなって、「出ませんか?」って言われて。「よかったら明日までに返事ください」とか言われて。どうするかなと思ったけど、私はやっぱりアメリカでいろんな人たちから「Be political!」って言われてきたし、何かあったときに、やらないっていうことよりも、やって何かうまくはいかなくても、やらなかったことで後悔するよりやってから後悔したほうがいいと思ったんで「私は出馬したいと思う」っていうふうに夫に言ったんですね。夫は高教組って、高等学校教職員組合で選挙の応援をしてる人たちだったから。労働組合としてね。だから今まで夫は人の選挙はぜんぶやったことがもちろんあるんだけど、自分の身内から候補が出るっていうことは想定してなかったけど「あなたが決めなさい」と。夫は、「あなたの人生だからあなたが決めなさい」って、「あなたが決めたことを応援するよ」って言ってくれて。だから夫はよかったんですけど、夫の両親が。[00:45:47]

権藤:熊本ってそういう、めっちゃ大変ですよね。

平野:だから選挙に私をかつぐ人たちが頭さげにいって。もう、うちの父と母たちは、選挙っていうと「あの人は選挙に出るために田畑(でんぱた)売ったよ」とかね、そういう話を聞いてるからもう必死になって止めようとするんだけど、私は「私の人生だから」って思って「出ます」っていうことで。そしたら選挙を応援する人たちも「負担はかけませんから」っていうことで確約されたので、出ることにしたんですよね。

権藤:ほんとね、なんか選挙に一回出るとなんかもう財産食い潰すじゃないけど、田舎のほうってやっぱそういう感覚ありましたもんね。

平野:とくに保守系はね。労働組合は違うじゃないですか。だけど補欠選挙ではもう労働組合にはおんぶにだっこで出してもらって。そのあとの選挙は自分の歳費が出るでしょう? それを選挙のために貯めていくわけですよね。だからあまり負担はかけてはないと思うんですけど。そういうかたちできましたね。

権藤:そこからもう政治の道に入って、ずっと。

平野:そうですね。まあでも「補欠選挙で通っても本選では通らないことが多いよ」みたいなことを言われたから、本選の99年の1年4か月後の選挙まではやっぱり気が気じゃないというか、まだ安住ではないっていう感じでしたよね。「1年4か月で終わるのか。もう」って思ったりね。ただね、やっぱり村上ひろしさんが99年にやはり同じ年に市議選をかかえているので、村上さんをなんとか通すためにも「県にも市にも車いすの当事者議員がいるよ!」っていうのをアピールするっていうことはすごく有効だろうなと思ったので、村上さんを通すためにも私は出なきゃと思ってたんですね。

権藤:じゃあヒューマンケアからそうやってお二人…ヒューマンネットワーク熊本からは3人が出てたってことですよね。

平野:3人?

権藤:友村さんも。

平野:そうそうそう、過去にね。一回だめで。

権藤:友村さんのことは知らなかったです。

平野:友村さん? 友村年孝さんですよ。

権藤:年孝さん。

平野:そうです。91年に1回出馬してる。

権藤:そうなんですね。

平野:当選してればいい活動されたと思うんですけどね。一回選挙をやって落選すると、彼ももう「もう限界」って落ち込んじゃったりしてたんでね。だからもう、「ぼくは次は出ないから誰かほかに」って言ってる時に、村上さんが友村さんの選挙の事務局長をしてたから、選対の選挙対策委員、だから村上さんでっていうことで、なったんですよ。
 95年の選挙もおしかったんですね。村上さんあと何十票。

権藤:そんな、僅差じゃないですか。

平野:そう。何十票だったと思う。百票までなかったんじゃないかなと思う。

権藤:一通りお聞きしたんですけれども、平野さんって大学を卒業されてすぐもう熊本に戻ってこられたんですか?

平野:そうですね。そのとき氷河期だったんでね、東京でやっぱり一浪で親元じゃないとかなり不利だったんですよ。だから地元に戻ろうと。地元で何か英語を使った仕事ができるところはないかな? っていうことで探したら、平田機工っていう会社が。あそこの海外部で。それこそ障害を持つ、手術をする前の前の年ぐらいまで勤めてたんです。

権藤:そのあと辞められてからは?

平野:英会話学校の先生をしてたんです。ジオス? 今でいう。前身は何だろう? ジオスの英会話学校。

権藤:病気になられた時は英会話の先生を。[00:50:02]

平野:そうですね。

権藤:学校の先生をされてたんですね。なら手術をしたしばらくあとは自宅でも何か教えてらしたんですね。

平野:英語をね。個人授業みたいなのを。うちに来てくれる子に教えてました。

権藤:やっぱりこの「英語ができる」って強みですね。私ぜんぜん語学できないんで、けっこうすごいなと思うんですけど。
 一通りお話していただきました。時間があるんですよね。

平野:いえいえ。

権藤:ありがとうございます。
 DPIのほうも、ほんとは夏にお話を聞きにと行こうと思ってて、

平野:そうだったんですか。

権藤:そしたらちょうどジュネーブにみなさん、

平野:私は行けなかったんですけどね。ここにいました。うちほら、今ね、議員を辞めた理由の一つは、実母の看取りがもう近まってたので。親一人じゃないですか。一人で頑張ってきたから、やっぱり母に寄り添っていたいなっていうのもあって。私が議員をやってる途中もやっぱりいっぱい呼び出しがあったり、母からの訴えとかもあったりもするんでね。で、もう、もういいかなっていうのと、熊本県議選の選挙区が熊本市全区だったから、熊本市にいる人はみんな私対象だったんだけど、1区と2区に分かれてたんですよ。で、1区に私の支持者の人たちがたくさんいるの。私が実家が1区だから。で、2区って田舎部なんですよ、保守的な。で、2区なんだ、住んでるところは。だからそれもあって、「もういい。ちょうどいいタイミングだから次の人にバトンタッチしたいなあ」と思っていろいろ動いてて。今は元先生だった人で、岩田ともこさんっていうんだけど、岩田ともこさんが私のあとに県議になってくれて。熊本県は今、岩田ともこさん一人ですよ、女性県議は。私の時もずいぶん長いこと一人だったけど。マックスで3人女性。ひどいですよ。もうおっちゃんの世界、おっちゃんの。この前のほら、甲子園でお酒飲んでたばこ吸ってた県議がいたじゃないですか。あいつらよく知ってるんだけどね。もうなんか出張で他県に行っても朝からビールですよ。議会事務局の職員に、「おう! ビール出さんか!」みたいな感じ。もうほんとアル中。恫喝するしね。

権藤:いやだなあ。

平野:あんなおっちゃんばっかりよ。

権藤:その中でやってたって。

平野:ああいう人たちが県議にいるから、私はまともなほうだなって自分でも思えたから(笑)。税金泥棒してないよね、と思って。***(00:53:08)恫喝おっちゃんたちがいっぱいいましたからね。

権藤:その中で意見を言っていくって、そうとうのなんか覚悟がないと。

平野:同じ会派、「民主県民クラブ」っていって、同じ会派の中にはわりとまともな議員も4、5人はいるんですけど、あとはひどいって。自民党系はね。

権藤:なら今はもうDPIのお仕事と、

平野:そうですね。だから県議辞めてからDPIのほうに。県議やってる時はDPIの副議長が長かったんですよ。で、なかなか会議には出れない状況があって。こっちの関係でね。だから、「ちょっと中途半端だなあ」ってなんか思いはあったんですね。で、たまたま三澤さんが亡くなっちゃったから、ジェンダーバランスのこともあり、まあ私も県議だったからっていうこともあんのかもしれないけど「平野さん、議長やってもらえませんか?」って言われて。何でもかんでも断るっていうことをしちゃいけないと思ってたから、ほんとは三澤さんのあとはちょっと荷が重いんだけど、引き受けて。
 で、引き受けて、それが2013年なんで、もう2015年には県議辞めたでしょう。で、母の看取りが…。熊本地震が2016年。母が亡くなったのが2017年なんで、仕事を辞めて母の看取りをして…ってうちにこんどは夫の両親が二人とも立て続けにがんとか難病になってしまって。今日もそうだけど、透析に迎えに行かなきゃいけないのが。あとね、透析してたり乳がんのステージ4だったりとかっていう、親の通院支援を夫と二人でやってる。夫はちなみに支援学校の教員だったんですけど、もう2年早く辞めましたよ、親の、[00:55:11]

権藤:介護のことで。

平野:なんかそんな感じです。

権藤:なら今もうなんか行ったり来たりとか。まあ今はZoom(ズーム)があるからね、そういう意味で助かるんですよね。

平野:そうなんですね。コロナの前は月に1、2回は東京行ってましたけどね、この前初めて3年ぶりに東京に行った。浦島太郎状態でしたね。

権藤:あー(笑)。浦島太郎状態。

平野:知ってるお店がなくなってたりね、いっぱいしてね。

権藤:コロナになってからだいぶ変わりましたもんね。状況がけっこうね。
送迎のお時間があられると思うので。

平野:まだ大丈夫ですけど。

権藤:どなたかミスタードーナツで一緒に行かれてたかたとか、まだ連絡とれるかたっていますか?

平野:なんかなかなかいませんね、今。どうしてるんだろうと思う。別の期の人はね、川内さんとか知りません? 9期の。

権藤:バリアフリーの、

平野:東洋大学の先生。この前退官した人。

権藤:お会いできればなと思ってます。

平野:そうですか。もう暇してるんじゃないですか? 大学辞めたから。

権藤:そうなんですね。そしたら連絡してみます。

平野:昨年退官されました。連絡先が必要だったら、LINEとかメールアドレスわかりますよ。

権藤:教えてください。ありがとうございます。
 いや、私がLINEをやってなくって。で、最初平野さんにお話をお聞きしたいと言ったら、チエさんが「LINEでお願いしたら?」って言うから、「いや、LINEやってないし。LINEではお願いできないし」って言って。「じゃあすぐ連絡つくと思うよ。みどりさんお忙しいだろうけど」ってはおっしゃってたんです。で、東先生に聞いたら、「メールアドレスこれで合ってますか?」っていったら、「合ってる、合ってる」って、「みどりちゃんとこ行くんだ」って。「みどりさんとこに、はい」って言って。

平野:東さんとどんな話をしました?

権藤:私がインタビューしたんじゃなくて、立命館の院生のかたで障害者差別解消法で博論を書いてらっしゃるかたがいるんですよ。そのかたが東さんにインタビューを申し込んだら、「もう新しい人間関係を作りたくないからインタビュー断る」って。

平野:新しい?

権藤:人間関係をね。「もう作りたくないからお断りさせていただきます」っていう返信が東さんからきたんですって、その子から話を聞いて。

平野:えらいちょっと暗いね。

権藤:そう、暗いんですよ。で、「もうお断りされちゃったからどうしようもないのかな?」っていう相談を受けたので、まあ私夏に帰るし、ちょっと東さんに連絡してみるから、

平野:体調悪い時だったんだね。だってこの前もジュネーブ行ってけっこう元気出してきましたよ。

権藤:そうそう。で、その行く時がちょうどジュネーブに行ってる時で、「ジュネーブに行くからいないよ」って言ってて、「ジュネーブ来るか?」って言うから「ジュネーブまで追っかけていけない」って。「韓国ぐらいだったら行くけど」って言いながら、ね。なんかちょっと元気なかったんですよ。

平野:でしょう、その時ね。

権藤:そう。だから心配やなあと思って。でも先生じゃないと話せない話はあるし。

平野:今はひょっとしていいかもよ。

権藤:それでその時オッケーだったんですよ。

平野:っていうのがね、私の夫の大学の時の同窓生で、教員退職して九大の大学院でインクルーシブ教育を研究してる人がいるんですよ。彼女から「東さん紹介してくれ」って言われて紹介したんですよね。そしたらその彼女が、「DPIの福岡大会の時に東さんと一緒に博多のバリアフリーをずーっと体験するために行動しました」とか、「夜は屋台でラーメン食べました」とかね。福岡高裁が赤坂という駅の近くにあって、「赤坂の駅のエレベーターつくと便利なんだけどなあ」って、その時彼が言ってたらしいんです。「って言われたことを覚えています」とか何かそういうメールを書いて東さんのほうに「話聞かせてください」っていうふうに言ったら、すごく快い返信でしたよ。「お忙しそうですから、いつでもご都合のいい時でいいですから」って言ったら、「もうぼくは…」。もう来年の3月で退官なのかな?

権藤:そうです、そうです。

平野:ですね。だから、「ぼくのほうが時間的には余裕があると思うから、あなたの都合をこっちにお知らせください」みたいな感じ。[01:00:07]

権藤:ええー。

平野:すごくなんかウエルカムな感じで(笑)。

権藤:(笑)

平野:だから、通り一辺倒のあれじゃなくて、少しちょっと工夫して。今はタイミングとしていいと思う。もう一回アプローチしてみたらいい。

権藤:そう。で、それで今回オッケーもらったんですよ。

平野:ですねえ。よかったね。

権藤:「まあいいよ」って言ってくださったので。院生のかたも「どんなかたですか?」って聞くから、「確かに偉い先生なんやけど、ふつうのおっちゃんよ」って言って。熊本のね。ぜんぜん悪気ないし、前回も立命の先生を連れてきたことがあって。で、私が学生のころからご存知なんで、「彼氏はできたか?」「結婚しないのか?」とかふつうに聞くんですよ(笑)。

平野:東さんが?

権藤:そうそうそう(笑)。
 「あんなん聞くけど、ほんとになんか娘と会話するみたいな感じだから。あの東先生がそんなこと聞いてるって思うかもしれないけど悪気はないから」って言って。で、彼女も「どんな感じですか? 九州男児」って言うから、「なんかけっこう強い口調で言ったりとか表現ってはっきりしてるけど、それも悪気ないし」って。どういうかたかわからないので、最初ならインタビュー同席っていうことでオッケーが出たんで、会いに行ったんですよ。

平野:今日?

権藤:金曜日に行ってきました。

平野:そうなんですか。よかったね。

権藤:よかったんです。その子もすっごい嬉しくって、「やっと会えましたー」って、「ありがとうございます」って言って。「東さんがわざわざ来てくれたから」ってちょっと一緒にごはんも食べて。院生、喜んでましたね。

平野:よかったねえ。

権藤:私ももうどうなるかと思いながら。まさか断るとか思ってなかったんで、東先生が。

平野:体調悪かった時です。

権藤:「なんかもうここ1年に1回ぐらいちょっと手術をしてて」っておっしゃってて。

平野:首のところの何かね、血管がこう詰まるっていうの。だからこの血管を取り出して別なところから血管持ってきて換えるみたいなね、そんな手術を3年ぐらい前にされたんですよ。

権藤:だから「ちょっとね、体調がやっぱよくないのもあって」って本人がそのインタビューの時にちょっと言われたから、ちょっと痩せた感じがしたんで、「?せたよね」って言ったら、そうやってね、「体も年に1回ぐらいちょこちょこ手術をしてて」って言ってたから、「ならやっぱり気持ちも落ちてたのかな」と思いながら。まあでもインタビューの時はけっこういろいろお話もしてくださったので院生も喜んでました。私も会えて嬉しかったし。
なかなかね、会える機会なくて。大学辞めたあとは大学に行くこともないですし。「先生***(01:02:35)こんど大阪来たら遊びに来てください」って言ったら、「行く行く」って言ってくれたんで、なんかちょっとは元気が出たかなと思いながら。それでお別れしてきました。
なんかね、いつでも会えると思うから、いつでも話聞けると思ってるとどんどん時間だけが過ぎちゃってて。

平野:そうですね。

権藤:今日もだからお話聞けてすごいよかったです。いつもありがとうございました。お忙しいなか。

平野:つまらない話で。

権藤:いや、とんでもないです。いろいろネットとかでも探して、平野さんがその当時***(01:03:07)時の話、どこかでなんかないかなと思って見てたんですけど、やっぱりちょこちょこっと部分的には出てたんですが、長いインタビューっていうのはなくって。それでちょっと引き受けていただければと思って。ありがとうございました。
 また文字起こししたらWordで送らせていただきますので、「公開したらだめ」っていうところはざっと削除してもらって大丈夫です。

平野:わかりました。大丈夫です。何も差し障ることは言ってないので大丈夫です。

権藤:ありがとうございました。

平野:はい。じゃあこれからもう帰られるんですね。

権藤:今日帰ります。

平野:新幹線?

権藤:夕方の飛行機で帰ります。

平野:ここまで遠かったね。

権藤:いえいえ、ぜんぜんぜんぜん。私の住んでるところが茨木市で、伊丹空港、

平野:茨木、はいはいはい。

権藤:そう。茨木で、

平野:近いのね。

権藤:近いんです。それまで新幹線で帰ってきてたんですけど、そう意味で近いので。ただ熊本はね、空港までがちょっとね、あれだから。でもバスが出てる。

平野:ここからも直行バスが出てる。

権藤:なので、問題ないです。

平野:はーい。

権藤:ありがとうございました。

平野:わかりました、はーい。

[01:03:56]音声終了


UP:20221125 REV:
平野 みどり  ◇声の記録(インタビュー記録他)  ◇WHO 
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