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野瀬時貞氏インタビュー


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◇野瀬 時貞 i2022 インタビュー 2022/08/02 聞き手:坂野久美 Zoom

生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 【rmk13-2】野瀬時貞インタビュー(20220802)坂野久美_77分 zoom

坂野:今日はよろしくお願いします。野瀬さんの疾患名って伺ってもよろしいですか?

野瀬:脊椎損傷と脳性麻痺です。

坂野:それは生まれた時からですか? 

野瀬:先天性です。

坂野:小さい頃から何か医療とか介助とか、そういう支援を受けていらっしゃったのかなと思うんですけど、いつから病院に入られたのか教えていただけますか?

野瀬:病院は小学校一年生の時です。

坂野:小学校一年生の時。その頃はどのぐらい動きができたのでしょう。

野瀬:今とほぼ一緒で手脚は動かず、口でいろんなことをパソコンやったり、字を書くとき。ペンを加えたりしてやってるかんじです。

坂野:そうだったんですね。小学校一年生で入られたっていうのは、それまでは自宅ですか?

野瀬:そうです。

坂野:幼稚園とかではなくて自宅で?

野瀬:保育園は通ってました。

坂野:それは普通の保育園ですか?

野瀬:いいえ。たぶん障害者の方がたがいるところだったと思います。A園です。

坂野:そうなんですね。その頃のことは覚えていますか? 

野瀬:うっすらとしか覚えてないです。

坂野:それで小学校に入られて、筋ジス病棟、B病院併設のC養護学校ですか?

野瀬:そうですね。

坂野:そこは自宅から近かったですか?

野瀬:当時、桂(かつら)に住んでたんですけど、車で30分ぐらい。

坂野:その時は、親御さんの考えだったと思うんですけど、そういうところに入ったほうがいいんじゃないかっていうことだったんですかね?

野瀬:そうですね。当時、僕は体が弱くて。すぐに風邪ひいたり、肺炎にかかったり、医療的ケアもだいぶ多かったんで。親も仕事しなきゃいけないっていう状態だったので、また体調崩してもすぐに診てもらえる環境をっていうことを親同士で話し合って決めはったんです。

坂野:ということは、同じようなかたもいらっしゃったってことですか?

野瀬:そうです。

坂野:病棟は筋ジス病棟になるんでしょうか?

野瀬:そうですね。

坂野:そちらへ入られたときは、まだ小さいので、同じぐらいの年齢の子たちがいる部屋だったのですか?

野瀬:いや、もう最初から成人のかたがおられました。途中、子供部屋に移されたりもしたんですけど。

坂野:お部屋があんまりなかったということですかね?お部屋に、患者さんはたくさんいなかったのでしょうか?ほかの病院の話では、患者さんがたくさんいたので、小学生とか中学生とかをまとめて、成人は成人のお部屋があったりすることもあると聞いたことがあるんですけど。

野瀬:C養護学校もそんな感じだったんですけど、一番最初に看護師さんたちも状況がいまいちわかっていないっていうのがあって、ナースステーションの一番近くの部屋に。何かあったらすぐに対応できるようにっていうことだったとは思うんですけど。

坂野:なるほど。その時の様子というか、医療というか、病院でしてもらってることっていうのは? 食事だったり排泄のケアだったりですかね?

野瀬:そうですね。小1、2、3年くらいまではそんな感じでした。

坂野:それ以降はまた変わりました?

野瀬:小4のときに重度の肺炎になって、それが気管切開をするきっかけになった肺炎だったんですけど、やっぱり…そうですね…気管切開するとご存知の通り吸引が必要であったりするので、そういった医療ケアが必要になるようになりました。

坂野:今もですか?

野瀬:そうですね。

坂野:その肺炎の原因っていうのは、やっぱり嚥下の関係ですか?

野瀬:いや、飲み込み自体はそんなに問題なかったと思うんですけど、夏風邪をこじらせて、やっぱり変わったような感じだったと思うんです。

坂野:小学校4年生で。覚えてます? その時のことって。そうとう苦しかったですか? 肺炎は。

野瀬:そうですね。その頃にちょうどいろんなことが重なってしまって、わりと印象深く残ってます。

坂野:他に何があったのか、差し支えなければ。

野瀬:ちょうど母親も脳の病気で同じころに病院に通うようになって。同じ時に母親が倒れてしまって。で、お父さん一人で面倒をみることになって。で、残念な結果だけど、お母さんは助からなくて、僕だけ生き残ったっていう。弟の育児をすべて母がやっていたので、気管切開の決断であったり、家事をこれから父がしなきゃいけないってなった時に、当時お父さんもやったことがないからてんやわんやして。で、まあそうですね…お父さん自身も「気管切開なんや」みたいなところもあるし。僕も子供で「手術なんていやや」って状況で。お父さんが決断して、まあお母さんのこともあって家族全員がつらかった年だったんで、けっこう印象に残っています。

坂野:それはとっても大変ですね。聞いただけでもすごいですね。では今まではお母さんがメインでけっこうお世話をしてくれていて、病院に面会に来たりするのもお母さんということでした?

野瀬:そうですね。母が亡くなるまでは、月に2回くらいしか来たことがなくて。母が来た時は毎週家に帰ったら迎えに来てくれてたりしていたんです。

坂野:お母さん、何が原因で倒れられたんですか?

野瀬:小さい時の記憶なんではっきり覚えてないんですけど、たしか膠原病だったと。

坂野:そうなんですか。ちょっと調子が悪かったんですかね?

野瀬:おそらく。あの頃は病気のこともあって、しばらく僕の面倒を見に毎日病院に来てくれてたんです。そういうのも重なっちゃったんかなって思ってるんですけど。

坂野:そうなんですね。それで、倒れられてその後もうお母さんしばらくは病院かどこかに入られていたのですか?

野瀬:僕の横に。入院する感じでした。

坂野:同じ病院に?

野瀬:そうですね。ちょうど横に運ばれてきて。夜中にお父さんが僕の横にいて。当時挿管してたんです、しゃべれはしない。「なんでいるんやろう」って頭の中で思いながら。お父さんと夜中に目が合って、「お母さんが倒れたんだ」って説明を受けながら。

坂野:それは大変でしたね。

野瀬:そうです。

坂野:お母さんはその後病院にはどのぐらいの期間いらっしゃったんですか? 

野瀬:夏ぐらいに体調悪くなって1?2週間くらいで母が倒れたと思うんですけど、1?2週間は   
面倒をみてくれてたと思います。

坂野:お父さんはその間、お仕事とかは?

野瀬:仕事は、休職をしはったんですけど、当時弟も僕5人兄弟、弟も下にいるんですけど、まだ小さかったんで、保育園の送り迎えがあってしばらく休みはったんですけど、なんかその仕事のほうから「あんまり休まれるのは困る」みたいなことを言われて。あんまりそういった、よろしくないと思うんですけど、解雇されたかたちですね。で、しばらくして、弟の送り迎えとか、何かしらこの時間を話し合いながらケアしはったかんじです。

坂野:なるほど。弟さんはおいくつ離れてるんですか?

野瀬:今がたしか20歳なんで、僕が今年26歳なんで、6つですかね。

坂野:6つ。今でこそいろいろと制度がありますけど、その頃はお父さんが一人でやるって、あんまりね…すごいことですよね。それは大変でした。肺炎の時に一番最初はもう口からの挿管だったんですね。しばらくそれでつないで、やっぱり気管切開したほうがいいねってなって、気管切開になったんですね。

野瀬:やっぱり2?3回「抜いてみる」っていうのは。何回か状態がだいぶ落ち着いた頃があって。「
まあできるかも」という医師の判断もあって、何回か抜いてみたりしたんですけど。なかには、抜いた途端酸素が下がってしまって、そんなことを何回か繰り返して。まあちょっと挿管と言ってもずっと挿管しているわけにはいかないですから、病院から気管切開という判断になったと思います。

坂野:こわかったですね。

野瀬:そうですね。

坂野:知識もないですし、まだ昔だし。あとね、小学生ですもんね。で、今までずっとですね、付き合いが。

野瀬:そうですね。

坂野:トラブルはありませんでした?今までに。

野瀬:今までに、そうですね…。まあでも、そのお父さんは、僕が手術を拒否したが、父は強行突破して手術するという決断をしてくれたのはありがたいなと今では思ってて。というのはまあ、気管切開をしてから2回ぐらい肺炎になってるんで。気管切開をしてなかったらまた挿管することになってたと思うと。またつらさもだいぶん軽減できたし、首が思いっきり曲がってしまって呼吸が止まるっていうリスクがあって、回避の方法は呼吸器がないとたぶんありえないでしょうから、そういうリスクがあるんで。まあそういう意味からも気管切開はしてよかったなと僕は個人的に今は思っています。

坂野:そうですね。まあでも、気管切開しちゃったから、もう医療っていうのがくっついてくるかんじに。
もう必然的になっちゃいましたね。

野瀬:そうですね。

坂野:じゃあもう4年生の時からだと、気管切開してからだと行動範囲とかが狭まったりはしたんですかね? 安定は得られたかもしれないですけど。

野瀬:そうですね…。幸いなことに、学校と病院と当時はひっついてたので、急変とかの時に病棟戻れば次の看護師さんが対応してくれる状況ではあったんですけど、その、いつぐらいか病棟が移転して、学校とひっついてたのが離れ離れになっちゃって。で、学校から病棟まで歩いて5分ぐらいかかる距離になったことによって、まあ病院とかがあれから「なるべく学校には行かないでほしい」って、病院から一方的に言われて。もちろん僕も親も学校も、「そんなんあんまりや」と抗議はしたんですけど。まあ、全然聞いてもらえず、まあ、仕方がないから、病棟のなかに学習できるスペースを作ってくれると言ってもともと物置になる予定だったところを、その部屋にしてくれたのはしてくれはったんですけど、もともと物置の部屋だったからクーラーとかもなく窓もないような、廊下に面したほぼパーテーションだけでまわりの声も普通に聞こえるし。で、「クーラーつけてくれ」って言っても壁に穴開けるのが嫌やとか言われたり。まあもともと支援学校のためにと思って、今はどうかは知らないですけど、支援学校では卓球バレーっていうのをやってはったと思うんです。それが僕はめっちゃ好きやったんですけど、そんなことになって体育館に行くこともできへんし、卓球台を病院までもって来るなんてことは不可能に近いことやったし。
 また体育部っていうクラブが当時あったんですけど、まあ2?3年ぐらいだったかな、そっちに入ろうと思って。病棟にいたらそれこそ知らなかったから入ろうと思ってた、それも病院のせいで入れんくなって。なんとか部活だけは行かしてほしいみたいなことをお願いしたり。家族が来てる日だけなら行ってもいいですよみたいなことを言われて。でももちろん平日なんで、お父さんは来れるわけがなくて。
そういったところへの不安、差は急に感じるようになりました。

坂野:それって中学生ぐらいのときの話ですか?

野瀬:いや、高校1?2年の、病棟が完成されてから、病院の中のことなんで、知ってはいたんですけど、まあ普通に、まあ距離があってもいっても5分のところを先生が迎えに来て、行けるんやろうなと勝手に思ってたんですけど、みんなが引っ越すっていうちょうど1週間前に、急にそれをつきつけられて。僕たち抗議する場を与えないようにあの時言ったんかなとは思ってるんですけど。

坂野:移転する話ってぜんぜん伝わってなかったんですか? 

野瀬:いや、移転する話自体は一年前ぐらいから出てたのは出てて。でまあ、建設もそれぐらいから始まってたんで。

坂野:5分っていうと、どこの病院も多分横っていうか廊下伝いに養護学校があるところが多いかなと思うんですけど、5分っていうのはけっこうな距離なんですかね?

野瀬:まあそれは吸引とかがあった場合に。たぶんそんな、呼吸が止まるというリスクを考えて考えてほしいといわはったと思うんですけど、もともと学校の一番遠くに通っていてそこから病棟まで、吸引ってなったときも5分かかってはいたんで。

坂野:どのぐらいの割合で吸引が必要だった感じですか?

野瀬:えー、当時はそうですね…。一コマおきぐらいって感じですかね。

坂野:一コマ60分授業でした?  

野瀬:いや、僕の時、学校の校名が3回変わって、その校名が変わるたびに授業時間も変わるって言われたんですけど、最後が40分。

坂野:それで、休み時間が10分ですか? 

野瀬:10分です。

坂野:その10分の間にトイレとかいろいろ済ませないといけないということですか?

野瀬:だから吸引に関しては、ぜんぜんもうわからないから、まあ授業中にもちろん受けるのは受けるんですけど。

坂野:それで、学校までは誰が押して行ってくれるんですか?

野瀬:学校は先生が。

坂野:迎えに来るということ?

野瀬:毎朝迎えに来て。

坂野:それで、吸引ってなった時には学校の先生が病院に連れてってくれるんですか?

野瀬:そうですね。病室まで連れて行ってもらい、廊下に看護婦さんがおられたら声かけて、おられなかったらナースコールを鳴らして。

坂野:吸ってもらうってかんじで。そのあと、また戻ってくってかんじですか?

野瀬:そうですね。

坂野:それが無理って言われたってことですか?

野瀬:そうですね。

坂野:最初はよかったけど、その、移転してからはやめてって言われたってことですか?

野瀬:そうですね。

坂野:いろいろと生活がしにくくなったんですね。

野瀬:そうですね。その後、特に夏場がやばかったですけど。

坂野:夏?

野瀬:エアコンがなくって、学習スペースっていうところだったんですけど。最初は扇風機もなくて、それでせめて扇風機を置いてほしいって言ったら、なんかあの、クリップタイプの、挟む小さいやつを3台くらい持ってきはって。そんなんで足りひんやろって思いながら、学校の先生も仕方なく、学校から大きい扇風機持ってきたりはしてはったんですけど。

坂野:教えるほうも暑いんじゃないんですか?

野瀬:暑いし、あと実験とかも、病院の中ではできないんですよ。理科の実験なんで。

坂野:そうですよね。

野瀬:調理実習とかもできないし。

坂野:野瀬さんみたいに気管切開してる人が、通学してなかったってことですか?

野瀬:いや、もう一人。今もう19歳になったんかな。その子も気管切開してて。その子と一緒にもう行かんといてほしいんだって言われて。

坂野:そうなんですか。それで、二人だけっていうことになったんですか?

野瀬:で、まあ、C養護学校自体がすでに身体障害やし。生徒が僕の世代頃から徐々に減っていったっていうのもあって、なかなかマンツーマンで逆に授業ができるような状況じゃなかったんで。その、高一と高二の時に一緒にしたりしてはって。まあ、学校に行ける人も病院へ来て一緒に授業をやったりとかいうかたちを取ったりはして。

坂野:学校は病院に入院してる人ばっかりじゃなくて、外部からの生徒さんもいらっしゃったんですか?

野瀬:外から一人いはったんかな。1人とか2人とかはいはったんですけど。それこそ、大藪くんも同じ学校なんですけど、彼も家から来てたと思いますよ。

坂野:学校自体は学年で分かれて授業されてたんです? 

野瀬:そうですね。学年で分かれてました。高校からは選択授業だったんで、授業でかぶってるのがあれば一緒にやってたかんじですね。

坂野:何人ぐらいいらっしゃったんですか? 

野瀬:生徒は最大で3人ぐらい。

坂野:3人?小学生も? 

野瀬:小学生合わせて4人ですけど。

坂野:けっこう少ないんですね。

野瀬:そうですね。僕が小一の時は20?30人はいたんですけど。

坂野:どんどん減っちゃったってことですか? 

野瀬:僕が高校ぐらいの時から10人もいなかった、7?8人くらいかな、たしか。今はもう、一般校へ行くかたがだいぶ進んではいるんだけど。精神とか知的のかたはC養護学校に。今も9割がたはおられると思うんですけど。

坂野:そうなんですね。学校の先生は何人もいらっしゃったんですか?

野瀬:学校の先生は、そうですね…。まあいちおう担当、中学校からは教科別の先生に変わると思うんですけど、いちおうその教科の先生が病院まで来てくれてはったかんじ。

坂野:そうなんですね。病院のほうではパソコンとかっていうのは、自分専用の物が途中から入ってきたりしたんですか?

野瀬:そうですね。C養護学校自体がパソコン系がわりと進んでいて、僕も小一からパソコンは触ってはいたので。当時は一人一台とはいかなかったですけど。

坂野:作業棟みたいなところですか? それはみんなで使えるお部屋に置いてあるとかですか?

野瀬:いや、いちおうもう、最初に一クラス一台あって、で、中学生ぐらいやったかな、それから一人一台、触れるような環境ではありましたね。

坂野:病室のほうでのパソコンはどういうかんじで置かれていたんですか?

野瀬:病室ですか。これは僕もすごい疑問なんですけど、18歳までインターネットの使用が禁止されてて。

坂野:あ、そうなんですか。

野瀬:僕は手脚が動かないから口で書くってなると、ものすごく時間かかるし。きれいに書けないんで、何書いてるかわからないってなるんですよね。何度かパソコンを使わしてほしいっていうのをお願いして、高校くらいから、ネット使わへんのやったらいいよみたいなかんじで。ただ今の子らは小学生からスマホ持ってたりする時代だから、今でもたぶん18歳未満の子は使えてないとは思うんですけど、ネットで調べてそういうのが当たり前な時代やなって、遅れてるんじゃないかなって正直思ってはいるんですけどね。

坂野:便利だと思うんですけどね。

野瀬:そうですね。

坂野:本当、便利ですよね?

野瀬:そうですね。

坂野:そうなんですね。インターネット使えるようになったのはその後ってことですか?

野瀬:卒業する時ぐらい。「高校卒業してからね」みたいなことを言われてたんですけど、「入院中でもできる仕事を見つけて、なんとか卒業する前に使わしてほしい」っていうお願いを学校とお父さんと僕から病院にして、卒業する年の次の日ぐらいから使わしてもらえるようになりましたよ。

坂野:他にも使っていらっしゃる人、例えば大人のかたはいらっしゃったってことです?

野瀬:大人の人は、まあそこは知ってる人は全員使ってた。

坂野:一人一台持ってたんですか?

野瀬:そうですね、みなさんで自分で買われてました。

坂野:自分用に動かしやすいようにしていらっしゃったわけですよね?

野瀬:そうですね。

坂野:それにかかわる設置は誰がやってくれたんですか?

野瀬:設置は人によるとは思うし。療育指導員だったり、親に頼んだり、知り合いのお友達に頼まはる人もいましたね。

坂野:そうなんですね。そういうパソコンとか、あとそのインターネットの利用料金とかは自費なんですか?

野瀬:パソコンは病院の中にいる間は自費で。ネットは入会費がかかるんですね。たしか1?2万円くらいなぜか取られて、そこから。たしか1?2万払った記憶はあるんですけど。

坂野:一年間で?

野瀬:いや、もうそこからは払わんでもいいと。それを払ったらもう使い放題というかんじなんですけど、パソコンにしか使えない。スマホでは使えない。スマホは携帯会社の通信データパックでやるしかないという状況でしたね。

坂野:そうなんですね。じゃあ、そのインターネットつなぎ始めてからは外部との情報が入るようになったんですよね?

野瀬:まあその、お父さんがパソコンに詳しい。でまあ、病院にバレないようにっていうか、こっそり高2くらいからタブレットを使って。SIMカードさえ挿せばネットが使えるように、使ってはいたんですけど。

坂野:ばれなかったですか?

野瀬:看護師さんとか気づいてはいたんかなという気がする。まあ病院としてばれなければ見過ごせるのだと。看護師さんだけの時間帯の時にFacebookとか、したりしてましたね。

坂野:そうなんですか。看護師さんと?看護師さんですか?

野瀬:看護師さんや療育指導員が帰ったあとの時間帯、いい看護師さんにセットしてもらって。

坂野:ほかにも頼みやすい看護師さんに。ほかに同じようなことをされているかたもいらっしゃったんですか?

野瀬:ポケットWi-Fi持ち込んでしてる人がいはったりしましたね。

坂野:病院内で患者さん同士でそういう情報交換したりとか、会ってしゃべったりすることってできたんですか?

野瀬:当時は、廊下でみんな動いたりしてはったんで、その時にしゃべりかけたりして情報共有したりしてましたね。

坂野:そうなんですね。なるほど。
あと、思い返して入院生活で楽しかったことはありますか?

野瀬:楽しかったこと。病院じゃないかもしれないんですけど、19歳くらいから大藪くんが学生の時に立ち上げたボランティアサークルがあるんですけど、まあ今もいちおう残ってはいるんですけど、当時、重度訪問を外出時にまだ入院中に認められてなかった時代で。外出できるようにってことをやったり。親以外会えないっていうのもあったんで、ボランティアサークルで人を募って毎月一回外出してたのがすごいリフレッシュになりました。

坂野:なるほど。それは月にどれぐらいの回数でやってたんですか? 

野瀬:月一。多くて月二くらいです。

坂野:それはネット上でいろいろアナウンスして人を集める感じですか? 

野瀬:大藪くんが学生のときは「介護等体験」っていう名前で当時大学生が実習に来たときに人員集めて。当時その、テスト勉強のときの介助とかにうちは来てもらってたから。まあそれが大きくなってくれば、手伝ってほしいというので。まあ大学生がいる時に。でまあ、共感してくれた人が入ってくれはってっていうかんじ。その後は募集かけたりしてました。

坂野:じゃあけっこう新鮮な交流というか、そういうふうだったんですよね、きっと。病院の中ばっかりだから。野瀬さんが外で暮らしたいなって思い始めたのはなぜですか?

野瀬:やっぱり19歳くらいの時かな。なんのかんのターニングポイントだったかなと思うんですけど。当時僕、泌尿器関係にトラブルが多くて。B病院に泌尿器科がなくて。だからトラブルが起こるたびに、そのトラブルっていうのは、チューブが詰まったりっていう経験をしてたなかで、B病院と別の病院で、その別の病院っていうのがぜんぜん対応が違って。B病院では、ナースコール鳴らして20?30分待たされたりっていうのもざらにあったんですけど、その別の病院は3分くらいで来てくれはって。一個一個の介助が丁寧にやってたり。あとはまあ、その病院にずっといたいなと思ったんですけど。障害者を受け入れるような病院ではなかったから退院せざるをえなかったっていう。でまあ、その結果ボランティアさんと一緒に、大藪くんの友達のところに遊びに行ったんですけど、彼は筋ジスでたまたま24時間呼吸器を付けて24時間介護を受ける生活をしてたんです。彼のひとり暮らしの生活をみて、こんな自由な生活があるんやなっていうのを知って、やっぱり病院にいるより退院したほうが楽しいんじゃないかなっていうのをそこで思い始めたかんじです。

坂野:なんですね。そこからが大変だったんでしたっけ? 

野瀬:そうですね。病院に、退院したいですって主治医に言ったんですけど、ヒラリとかわされちゃって。でまあ、僕自身もJCILとかの存在をまったく知らなくて。大藪くんも知らなくて。言ったらまあ、彼がアメリカ行って帰ってきた時にJCILに入ったと思うんですけど、その時にJCILに相談を彼がしてくれて。そこからようやく動き出してくれたってかんじですね。

坂野:そうなんですね。退院したいと思い始めてから出るまでに何年かかったんでしたっけ? 

野瀬:2019年に退院してるんです。22歳の時だから、3年ぐらいです。

坂野:出るときは、説得するのに何が一番大変でした? 結局、気管切開しているところが一番ネックだったんですか?

野瀬:というのもあるんですけど、まあその、介助者にその医療的ケアをしてもらおうとすると、3号研修に来てもらわないといけないんですけど、病院側にお願いすると、「うちではそれはできないから」と言われて。でまあ、もちろんJCILも黙ってるわけじゃなくて、何度か説得はしたんですけど。でも一番大変だったのは、それよりも病院から定期的な脅迫文みたいなのが送られてきたりとか。というのもまあ、家の内覧とかあったんですけど、自分らもちゃんと見たいじゃないですか。でも、病院やから外出するには主治医の許可が必要になってくるんですけど、その1〜2年前から外出外泊対する規制がたいぶ厳しくなって。骨折のリスクがあるから、「折れてもいっさい知りませんよ」みたいな。「痰が詰まっても知りませんよ」とか。あと、泌尿器関係のトラブルが多かったんで、「尿のカテーテルが詰まって何かあったとしても知りませんよ」みたいなのが書かれたのを渡されて。つまり「何かあったときに責任取れませんよ」みたいなの書いたのを渡されて。でも結局外出できたのは家の内覧で、「2時間以内に帰ってきてほしい」とか言われて。その脅迫文が大変やったというか、けっこう精神的に落ちてたというか。

坂野:そうですね。

野瀬:気持ちがだいぶ落ちてたというか。

坂野:病院は、誰の名前で出されたんですか? 

野瀬:主治医の名前です。だったと思います。

坂野:主治医の先生はそういうお考えだったかもしれないんですけど、応援されるかたはいなかったんですか?応援してくれるような人が他には。

野瀬:うーんと。看護師さんの中には応援してる人もいたとは思うんですけど、暗黙のルールじゃないですけど、やっぱり看護師より医者のほうが立場が上やし、主治医が言うことは絶対にという風潮はたぶん、今でもあるとは思うんですけど。みんな先生の言うことを聞かざるをえないというか。僕も看護師に「吸引に慣れている人が見つかったから行こうと思ってるんですけど」って相談をすると、たぶん、僕の発言によって先生から何か言われる方がたぶん怖いんか知らないんですけど、その相談の内容を主治医に言っちゃったんですね。そしたら「野瀬君、聞いたけど、研修もしてないヘルパーと出るなんて、危険すぎるんだよ。」って主治医が。そしてまたそれで脅迫文渡されたりして。結局内覧行けたのも、なんか書面書かされて。もう「一切、何が起きても病院を訴えません」ていう。

坂野:「訴えません」と。

野瀬:「責任取りません、それでもいいですか?」みたいなのを書面にして。やっと家の内覧に行けたんですけど、それまでにだいぶしんどかったりして。僕自身、病院を出るまでに3号研修しておきたいというのがあって、その全員が吸引したことのあるヘルパーとは限らないから、スムーズに移行を進めるためにも、外泊したら訪問看護をお願いして、研修してから外泊しようと思ってたら、「いや、外泊なんてせずに退院してから研修するのが一般的だ」みたいな説明を病院から受けて。病院自身も地域移行のことなんて何も知らないはずなのに、知ってるかのような口振りで言い出す感じで。それもまた脅迫文みたいなのをもらって。でももちろんそこでやり合ってもよかったんですけど、退院が近かったし、そんな。まあ結局はそれもけんか別れみたいなかたちにはなっちゃってはいるんですけど、そこまでより傷を深めたくはないなと思って、今回は外泊諦めるっていうのもJCILに伝えて、何とか家帰ってすぐに往診の先生だったり訪看に来てもらえる体制を作ってもらうのが一番大変だったかなとは思います。

坂野:病院は予防線を張っているという印象ですけど、お父さんは賛成されていたんですか? 

野瀬:「子供たちがやりたいことをさせる」っていうのがお父さんの方針みたいな。大袈裟な話、「崖から飛び込むとか以外は俺は止めへん」って言って。

坂野:成人になっても親御さんが反対するっていう話はよく聞くんですけど。親御さんが止めてないのに反対されたんですね。

野瀬:そうですね。

坂野:成功するために何か働きかけてもらって、いかにリスクを減らした状態で送り出すかみたいなところに尽力いただけるといいなって感じですよね。

野瀬:そうですね。その主治医の先生もなんでか2人おられたんですけど。1人は女性の先生、その二人がどこまで本心でしゃべっているのか、誰もわからないところではあると思うんですけど。ただ、僕、退院の最後一年間、絶飲食で経管栄養だったんですけど、ごはんを食べたいっていうのはクリスマスシンポジウムのときからずっと伝えていて、クリスマスシンポで院長がその主治医、第二の主治医として患者さんの意見を尊重したいっていうのを言ってくれてはったと思うんですけど、その後にJCILとに交渉すると、もう院長の意見がクリスマスシンポとは180度変わっていて。「いや、あなたの体では到底食べれへんから」みたいなことを言い出すから、この人は二重人格なんかなと思ったくらいしゃべってはいたんですけど。退院も近かったから、そこでやり合うよりも、退院してちゃんと検査してもらって食べた方が。脅迫文が送られたこともあったので、そこでやり合う、やり合える精神状態ではなかったっていうのもあるんですけど。そうですね、ごはん食べれなくなって。その後、受診とかに関係なく友達が今も入院してるからB病院に足を運んでたんですけど、その時に主治医とすれ違って「ごはんちゃんと口から食べれてる?」って聞いてくれはったりとか。こないだも、コロナで今面会できないんですけど、受診でたまたま行った時に、その男の主治医のほうから「もう口からちゃんと食べれてる」って聞いてくれはったりしてはったんで、もしかするとその主治医クラスは病院からなんらかんら圧がかかってて、僕が食べれへんかったんじゃないかなって今は思ってはいるんですけど。

坂野:そうなんですか。変わられたんですね。

野瀬:そうですね。

坂野:声をかけられるってすごいですね。今、野瀬さんはごはんってどうしていらっしゃるんですか?

野瀬:今、地域移行してから朝飯以外は食べてるんですけど、普通に三食、口から、みなさんと同じような食事を食べてます。

坂野:そうなんですね。じゃあ病院でどのぐらいの期間経管栄養だったんです?

野瀬:地域移行してから、そんなすぐには切り替えられないんで、8ヶ月くらいは鼻に管入れたまんまで、でまあ、訪問医の先生もすごいわかってくれはって、すぐに専門家のところに紹介状を書いてくれはって。その退院した、退院が7月だったんですけど、その月末には検査を入れてくれはって。それで検査にいれてくれはって、検査して診てもらったら、「君の体は飲み込む力があるから普通に食べてもらっても問題ない」って言われて。これまではなんやったんやろうって思いました。

坂野:食べれなかった期間はどのぐらいですか?

野瀬:1年ぐらいですね。

坂野:1年。口から食べるのとそうでないのとでは味が全然違いますもんね。今はしっかり口腔ケアもされているんですね。今思えば、本当はもっと自由に暮らせたんだって感じですかね?
 
野瀬:そうですね。どうしても、おそらく、食介を減らしたかったっていうのはあると思うんですけど。僕の一歳上の先輩に、食道分離術を受けた人がいるんですけど。食道分離術ってご存知と思うんですけど、なぜか胃瘻造設すすめられてますね。誤嚥していないのになんで胃瘻造設を進められているんやろなと思ったけど。半分くらいおそらく食介が必要な人やと思うんですけど、ほんまにその食介の手間を減らし、業務を軽減したいのかなって思うぐらい厳しい環境でしたね。

坂野:なるほど。今出られてから、まだ中にいる人とは交流はあるんですか?

野瀬:大藪くんの共通の友達がまだ入院してるので、3人でたまに話したりとか、筋ジスプロジェクト主催のオンライン交流会の人が入ってきてくださったりしてるかんじですかね。

坂野:あのような交流会の時って当事者同士でしゃべってると思うんですけど、病院の関係者はそれは知っててつないでくれてる感じですか?

野瀬:どうなんですかね。いちおう毎月その案内を病院宛に郵送してはいるんですけど。知っているんではないですかね。

坂野:まあ、交流の自由はあるのでね。そのへんはどうぞって感じで、あまり言われない感じですかね。なるほど。やっぱりZoomって便利ですよね。連絡とれたりするんで。でも夜はダメとか制限はあるんですかね? 

野瀬:夜…。8時過ぎから就寝介助が始まって。眠たくもないのに電気消されちゃう。だからまあ、8時とか過ぎると難しい。

坂野:今座ってお話されていますが、病院では座らせてもらったりする機会も少なかったんですか? 

野瀬:そうですね。虐待の話が出た時があったと思うんです。その時から急に外出とか移乗の制限がめちゃめちゃ厳しくなって。そこからは、ほぼほぼ僕も乗れなくなって。

坂野:一日に一回も座らないってことですか?

野瀬:そうですね。ほんま検査とか、お風呂の時ぐらいで。そんなときしか部屋から出ることができなかったかんじです。

坂野:そうなんですね。それは厳しかったですね。

野瀬:そうですね。

坂野:じゃもう今はぜんぜん違いますね。今は何が一番違いますか?

野瀬:やっぱりほぼ毎日外に出れるし。入院中は、呼んでも2時間ぐらい待たされてた時あったんですが、今は呼んだら30秒くらいで来てくれはるのが大きな違いかなと思いますね。

坂野:パターン化されてないってことです? 決められた時間とかで全部っていうのはないってことですもんね。今、体調はどうですか? 

野瀬:体調はたぶん、過去一くらいいいと思います。

坂野:お肌のつやがいいですよね。今は病院にはどのぐらいの頻度で行かれているんですか?

野瀬:退院して3か月ぐらいで大きい病気になって、救急搬送されて。その時に行った病院はほんまにひどくて、「もう二度と行きたくないです」と今の往診の先生に伝えて。障害が進んでいる気がして受診には行ったんですけど。今ではB病院に行くことはほぼほぼゼロですね。毎週往診の先生が様子は診に来てくれて、カニューレであったり管類の交換もしてくれはったりとかするかんじですね。

坂野:週一回訪問医の先生がみえるということで、病院には行っていないということですか?

野瀬:そうですね。病院には行っていない。

坂野:それで、その救急搬送されたのはB病院なんですか?

野瀬:そうです。今も膀胱に直接尿のカテーテル入れてるんですけど、それが詰まっちゃって。ひどい頭痛に襲われて。で、なぜかB病院に搬送されて。その時にはその場に訪問の先生が来てくれはって管を替えてくれはったけど、意識レベルがぜんぜん治らんくて。搬送されて、一時は、「どうもないんやったら帰ってもいいよ」って言わはったんですけど、その主治医の人が、「一泊くらい泊まったほうがいいでしょ」って言われて、僕も意識がなんかはっきりしたりしなかったりが交互で続いて、はっきりしている時にそれ言われて、とりあえず入院して、入院した晩からもう1週間くらい意識が飛んでしまって。意識が飛んでいる時に、ちょうどB病院の主治医の人が検査してくれたみたいなんですけど、脳出血が見つかって。それで、脳外科が当時たぶん休みの日で、おらんくて、D病院に搬送しますって、D病院に入院して、2ヶ月くらい入院したかんじですね。

坂野:そこの病院は急性期の病院だったし、対応は良かったんですね。

野瀬:そうですね。

坂野:そうなんですね。じゃあ、今はもうB病院にはほとんど行ってないってことですか? 

野瀬:そうですね。ほんまは面会とか行きたいんですけど、なかなかコロナで。

坂野:あ、そうなんですか? 心配ですね。出てないわけですから、患者さんは。あと、訪問看護は週に何回ぐらい受けてるんですか?

野瀬:週3回で受けてます。

坂野:あとは24時間の重訪ですか?

野瀬:そうですね。

坂野:今もお薬って飲んでいらっしゃるんですか?

野瀬:薬は、今でも下剤と去痰剤ぐらいですね。

坂野:そういう薬、ですね。

野瀬:特に心臓が悪いとか、もう脳出血も完治してるので、何も飲んでないないです。

坂野:なるほど。今は何が一番楽しいですか?

野瀬:そうですね。外出していろんな人に会ってしゃべるとか、最近おととしの9月から僕はJCILで、活動してるんですけど、JCILに同年代が増えてきて、同年代としゃべるのが、すごい楽しいです。同級生が僕おらんくて。ここ来てから同い年がぽつぽつ増えて、同年代が増えたことが嬉しいです。

坂野:JCILには、今のご自宅からどのくらいかかるんですか?

野瀬:今の家から片道40分くらいですね。

坂野:片道40分。バスとか使うんですか?

野瀬:そうですね。地下鉄で。

坂野:地下鉄で。

野瀬:いちおうバスでも行けるのは行けるんですけど。

坂野:なるほど。平日はJCILにみえる感じで?

野瀬:そうですね。火水で今来るようにしてます。

坂野:なるほど。同じような人たちの相談に乗ったりとかされてるんですか?

野瀬:そうですね。今コロナでなかなか地域移行は難しい局面ではあるんですけど、地域移行、地域に出られたかた地域定着支援とかをさせてもらってるかんじですね。

坂野:病院のかたにあのあと会われたりとかして、そういう元気な野瀬さんを見てびっくりされるかたとかいらっしゃいませんか?

野瀬:そうですね…。あ、こんな生活ができるんやって。やっぱり知らない人がまだまだ多いので。

坂野:びっくりするでしょうね、きっと。

野瀬:そうですね。

坂野:本日はいろいろお話しいただきありがとうございました。

野瀬:ありがとうございました。


UP:20230105 REV:
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