1982年、私は'82優生保護法改悪阻止連絡会(略称は阻止連。現在 は「SOSHIREN女(わたし)のからだから」と改名) のメンバーだった米津さんと、女性解放合同事務所「ジョキ」で出逢う。米津さん34歳、私は20歳。
この作品にはポリオに感染し、脚に障害を抱えた米津さんの幼少期から20代半ばまでの、想い、葛藤、たたかいが描かれている。「青春の記」と言えるような作品だ。
20歳でウーマンリブのおんなたちと出逢った私は、自分自身が若いときに抱いていた葛藤や想いを投影しながらページをめくった。私自身も14歳から心身の不調に苦しみつつ(後にPTSDとわかり障害認定される)、女性運動に関わってきた。私もまた障害をもったおんなである立場から、私の「雑感」を伝えたい。
圧巻だったのは、リブ新宿センターでの、短くも凝縮した日々の描写。田中美津さんと米津さんの関わりや、障害者解放運動との対峙。そしてモナ・リザ展に対する抗議、逮捕、裁判に至る経緯と米津さんの葛藤が率直に描かれている。
私がウーマンリブに出逢えたのは、優生保護法改悪阻止運動がきっかけ。だが女性障害者の介助ボランティアをしていた私は、「優生保護法から経済条項をなくすという改悪案が通れば、障害者差別はより強化される」という立ち位置だった。
しかし、「優生保護法改悪を阻止する学生の会」を立ち上げ、勉強会を重ねるうち、女性解放運動に目覚める。そして「産む産まないは女が決める」という改悪阻止運動に全身全霊で関わっていく。阻止連と学生の会共催でハンストも決行し、改悪案の上程を阻止することができた。
この作品を読み終えたとき、ウーマンリブのリブは、liberation…「解放」なのだが、リブ… live、まさに「生きる、生きている、生き延びる」という意味でもあるのではないかと思った。
70年代リブを生ききったおんなたちは、私の人生の最も困難なとき、ときに叱咤しながらも、私の生き延びる力を信頼してくれた。米津さんからも多大なるご支援を受けた。
すべての抑圧をはねのけて、心もからだも魂も解放されて、生きたい!
20歳から変わらない私の叫びは、米津さんたちから継承したウーマンリブ魂の結晶だ。
『凛として灯る』を読み終えたとき、私の初の単著『介護労働を生きる』に「生きる」と命名したのは、ウーマンリブの素地があったからだと気づいた。
いま私は米津さんはじめ、「ジョキ」で出逢ったおんなたちと4年前に再会し、彼女たちとともに優生保護法の裁判闘争に関わっている。そして、リブのおんなたちから注がれた愛――シスターフッドが、人生のなかで、どれほど、かけがえがない賜であったことか……そのことに深く感謝している。
装丁は私の著書の装丁もしてくれた女性たち。絵も色もとてもシンプルで、美しい。