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「ただ生きて存(あ)る命がリスペクトされる未来を創りたい」

大谷 いづみ(立命館大学教授・生存学研究所副所長)

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last update: 20230310


大谷 いづみ 20220617 「ただ生きて存(あ)る命がリスペクトされる未来を創りたい」,ハピネットファントム・スタジオ編 『「PLAN 75」映画パンフレット』12-13

■本文

津久井やまゆり園障害者殺傷事件を坊佛させる冒頭の衝撃的なシーン。<プラン75>の施設から逃れ、山あいに沈む夕陽を見つめて「りんごの木の下で」を口ずさむラストシーンの角谷ミチ。いささかのカタルシスも保証せぬまま、目を逸らすことを許さない作品の力に圧倒されながら、本作『PLAN 75』を観た第一印象は、拭うことのできない既視感であった。
 生命倫理の諸問題を高校の授業でとりあげて10年を過ぎた頃、定期試験で課した小論文に「老人や重度障害者が社会のために自ら"尊厳死"を選ぶよう支援し導く社会が進化した社会(<進化した社会>に傍点「・」)である」という一文を見いだした。ある生命倫理学者が「老い衰えた人は愛する家族のために自己決定によって死ぬ義務がある」とする論考を発表して物議をかもしていた頃のことだ。───そして合点した。本作は、四半世紀前のいち高校生が書き付けた進化した社会(<進化した社会>に傍点「・」)を描いているのだ。そればかりか、その社会は数年後の架空の未来ではなく、すでに起きている現実ではないかと、私たちに問いかける。

本作に登場する高齢者たちは、角谷ミチを筆頭に、みな慎ましい。ホテル清掃4人組の娯楽は公営施設でのカラオケ。岡部幸夫はトンネルやダム等、全国の建設現場を渡り歩いてきた不器用で実直な人間だ。激動の戦中・戦後を生き抜き、高度経済成長を底辺で支えてきた人々である。国の施策に沿って貧しい高齢者を制度<プラン75>に勧誘する岡部ヒロムもまた、20年ぶりに再会した伯父を訪ねる心優しい若者である。コールセンターで働く成宮瑶子は「ばれなきゃいいんです」とミチと外で会う柔軟さを持っている。遺体や遺品を処理するマリアも含めて、誰もが現在の日本社会のそこここに生きる「小さき人々」だ。

本作にちりばめられたモチーフは、あちこちで見聞きするものばかりだ。役所で<プラン75>を担当するヒロムが公園のベンチの肘掛けを業者と検討する場面は、コロナ禍にみまわれた2020年末、渋谷区のバス停で殴殺された女性を想い起こさせずにはおかない。路上生活を送っていた彼女は、家族とも友人とも連絡を絶ち、生活保護を申請することもなく、深夜のバス停のわずかな庇(ひさし)と明かりを頼りに仮眠を得た奥行き20センチのベンチで殺害された。そして件の場面から私たちは思い知らされる。バス停や公園のベンチのあの肘掛けが何のためにあるかを。
 <プラン75>の宣伝文句は、いまや聞き慣れた文言であふれている。高齢者の寂しさや不安・迷いに寄り添って(<寄り添って>に傍点「・」)「死の自己決定」に誘い、翻意せぬようその遂行までのサポートがマニュアル化されている。ミチらが茶飲み話で語る民間サービスの豪華なプラチナプランはスイスへの「自殺」ツーリズムを彷彿させる。スイスに行かずとも、いつでも誰にでも「死の自己決定」を保証するとは、つまり、こういうことだ。元気なうちはしっかり働き、老いたら家族や社会の迷惑にならずに身の程をわきまえて自ら慎ましく死んでいくよう、小金をもっていたら家族に囲まれた死の演出も用意して、死ぬまで寄り添って(<寄り添って>に傍点「・」)くれる。

たまさかの偶然がかきなって死を免れたミチは二度目の「選択」をする。ミチの行く末に何が待っているかはわからない。ヒロムがこの先どうなるかもわからない。<プラン75>で在留資格を得ているマリアの行く末はなおさらわからない。
 だが、ラストシーンで、夕陽を眺めながらミチが歌う「りんごの木の下で」は、明日の再会を約束する歌だ。その先に私は、ミチと若者たちとの再会を見たい。ミチが<プラン75>によって夢見たであろう亡き夫との天国での再会ではなく、<プラン75>下の社会で現に生きている誰か───たとえば、ミチの声を美しいと言い、最後のコールで「いつでも中止することができます」と繰り返した瑶子との再会を。あるいは、ミチを<プラン75>に導く一方で、弔いのために伯父の遺体をマリアの助けを借りて運び出していったヒロムとの再会を。それは、「この世」で生きている若者とともに「未来」を創るための再会である。

早川千絵監督は、本作は「経済的合理性を優先し、人の痛みへの想像力を欠く昨今の社会に対する憤りに突き動かされて」生まれたという。だから、だろう。本作の登場人物に対する早川監督のまなざしは優しい。高齢者施設を襲撃して猟銃自殺する冒頭の若者に対してきえも。犯行後の彼がつぶやいた言葉を、政治家や著名人は恥じることなく声高に発してきたし、その差別的な発言によって強化された自己決定=自己責任論は、それが前提とする「自由な選択」とは裏腹に、不寛容と同一化の空気を熟成させてきた。「迷惑をかけること」「迷惑な存在になること」を恐れて「助けて」と言えない社会では、命の価値が経済的生産性の多寡で測られ、生産性の低い老若男女は<異物>としてはじき出される。
 本作では高齢者の貧困に焦点を当てているが、就職氷河期以降の世代は、就職難や非正規雇用化、派遣切り等、不安定な雇用環境のただ中にあり、それが病や障害とむすびつくことも稀ではない。他方で、ヒロムや瑶子、マリアと、ミチや幸夫との相互的な関わりとその変容には、経済的基盤の脆弱性の拡大という、世代や属性、国境を超えて共通するその寄る辺なさと同時に、そこに灯る希望をも見いだすことができる。伴走型支援を実践するNPO法人「抱樸」の奥田知志(東八幡キリスト教会牧師、「『助けて』と言える社会」を合い言葉に多彩な事業を展開)のもとで路上生活者の支援に取り組みながら、支援者と被支援者の別を超えて変容を遂げていく若者たちは、その実例である。

国家社会の経済的合理性という観点からいえば、本作が描く「年齢による生死の線引き」が明示しなかった「病・障害」いう線引きによる死の強制は、歴史的な事実でもある。
 本作は、高齢者の存在を抹消することで「高齢者問題の解決」を遂行する架空の社会を描いているが、ナチス政権下のドイツでは、戦争のどさくさにまぎれて、法を制定することなく、30万に及ぶドイツ同胞の心身障害者やアルコール依存症、高齢者、難病者を組織的に虐殺した「安楽死」政策が実行され、その任にあたった人々は東欧に派遣されて、ユダヤ人の存在をまるごと抹消する「ユダヤ人問題の解決」に従事した。詳細は『見捨てられる<いのち>を考える』(晶文社)の拙稿にゆずるとして、だからこそ、第二次世界大戦後の「死ぬ権利」法制化運動は「自己決定」を強調し、「安楽死」という言葉を避け、「尊厳死」や「死の援助」への言い換えに腐心してきた。日本尊厳死協会への改称はその象徴である。

法や制度をつくるのも使うのも人間だ。人がその実現を阻み、人がその実現を担う。人は真空の実験室で生きているのではないから、愛も尊厳も、そして正義も、その歴史的・社会的文脈によって人を生かしもするし、人を死に追い詰めもする。時には破壊と破滅への水路を開きさえすることを、私たちは今、ウクライナ侵攻で目の当たりにしている。破壊と破滅の高揚の後には、廃虚とともに、移しい数の遺骸と心身に傷を負った夥しい「小さき人々」が残される。
 だからこそ、存在をまるごと抹消するような「問題の解決」ではなく、老いや病や障害や、さまざまな異なりを持つ多様な存在とともに在る社会、ただ生きて存(あ)る命がリスペクトされる社会、それを「綺麗事」と排することのない社会を担う一員であり続けたい。
 ───絶望はしない。どのような破壊と破滅の廃虚からも、人は立ち上がって未来を創ってきた。それもまた、決して「絵空事」ではない。


※映画パンフレット販売元の(株)ハピネットファントム・スタジオのご厚意により、全文掲載の許諾を得ています


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*作成:中井 良平
UP: 20230308 REV:20230310, 12
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