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小野 久さんへのインタビュー

2022/06/01 聞き手:田場 太基 場所:ZOOM

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last update: 20220610

■インタビュー概要

小野久さんへのインタビュー
実施日:2022年6月1日水曜日 10:00-11:00 於:Zoom
話し手:小野 久(在宅障害者支援ネットワーク 事務局)
聞き手: 田場 太基

■本文

田場
宜しくお願いします。まず、在宅障害者支援ネットワークでしたっけ?小野さんが関わっているもの。これが、何年に設立されてとかって、いうのはあったりしますか。

小野
2000年の3月ですね、設立が。

田場
ありがとうございます。2000年の3月に。これ、正式名称は、

小野
在宅障害者支援ネットワーク

田場
これは、大分県でやられる事業なのか、それとも、大分市とか別府市とか、そういったものなんでしょうか。

小野
一応、大分県全域を対象にしてると。そういうスタートです。

田場
2000年3月に、その、在宅障害者支援ネットワークが立ち上がって。あの、前もお伺いしたかもしれないんですけれども、立ち上げるきっかけというか、何かしらというのをお伺いしてもいいですか。

小野
1998年に、大分市でですね。心中事件がふたつ起きるんですね。ひとつは、おばあさんがお孫さんと一緒に心中をはかって。おふたりとも亡くなられたんですけれども。もうひとつは、お母さんが重度障害の息子さんと一緒に死のうとして。で、息子さんが亡くなられて、お母さんが生き残られるという物事があったんです。それで、生き残ったお母さんが殺人罪に問われて。その後、裁判の弁護を徳田弁護士が担当したんですね。徳田弁護士のもとに、「お母さんは悪くないよと、頑張って息子さんを育ててきて、でも、その結果このようなことになったのも、お母さんの刑を軽くして下さい」という、そういう署名が、徳田弁護士のもとに届いんたんですね。それを前にして、徳田弁護士が、「このような問題を私たち市民が考えなきゃいけない」と、「お母さん命、刑の問題だけにしてはいけないんじゃないか。亡くなった子供さんのことも考えなきゃいけないし、お母さんと子供さん、親子がそういうかたちで孤立して。非常に、辛い思いをして地域で暮らしてたのに、そのときには、何も理解したり、助けたりすることができずに、裁判になって刑を軽くというのは、ちょっと違うんじゃないか」と。そう考えて、周りに呼びかけて、シンポジウムを7回開いたと。そのなかでですね、市民の問題として考えるべきだし、取り組むべきだと声がおきてですね。つくられたのが、在宅障害者支援ネットワークなんですよね。私は、その7回目に参加をして、たまたまそのとき、自分自身の時間があったので、事務局を担当することになったということです。

田場
そうだったんですね、ありがとうございます。この、シンポジウムみたいなものって開かれたと思うんですけれども。その後に、在宅障害者支援ネットワークの事務局になられて。これまでの活動みたいなのって、どういったものがありましたか。

小野
まず、最初は、困った人、そういうふうに息詰まった人が、いつでも気軽に相談できる場所が必要なんじゃないかということで、相談窓口、それを開いたんですね。相談も、最初のうちは、年間数十件、増えた段階でも、百数十件くらいだったんですね。だから、相談窓口で待ってるだけではなかなか、十分な対応にはならないんじゃないか。それもできない人が多いんじゃないかということで。今度は、積極的に情報を伝えようということで、「安心して暮らせるガイドブック」のようなのをつくって。県内の色んなところに配布したんですね。それをするなかで、配っただけでもなかなか、それをしっかり読んで使いこなせることも難しいというそういう声も出てですね。結局、やっぱり、それぞれの地域に、障害のある人とか、家族とか、それから福祉関係者とかですね。市民の人たちとか。そういう人たちの「つながり」、ネットワークが必要なんじゃないかというふうに。その積み上げをしていくなかで、考えが進んできたんですね。地域のネットワークをつくろうということで取り組んだのが、「福祉フォーラム」という取り組みで。

田場
はい、はい、そうだったんですね。

小野
そうなんです。地域で実行委員会を呼びかけたんですよね。県内を6つの地域に分けて。県の県域でもあるんですけれども、その地域ごとに色んなツテをたどって。障害のある方とか、福祉の関係の人とか、そういうふうな人たちに声をかけて。「それぞれの地域で福祉フォーラムを開きませんか?」という呼びかけをして。実行委員会をつくったら、それぞれの地域で、15人とかですね。多いところは、30人くらいの実行委員会ができたんです。そして、それが、2002年ですかね、最初のつながりが。

田場
フォーラムが、2002年。

小野
そうです。別府は、別杵速見国東(べっきはやみくにさき)ということで。福祉フォーラム別杵速見国東実行委員会。福祉フォーラムというのを開いたんですね。あと、日田とか佐伯とか宇佐とか大分市とか、そういうところで、6ヶ所の福祉フォーラムを開催したんです。それは、当初は、続けようということじゃなくて、とにかく開こうということで開いたんですけど。それぞれの実行委員会の人たちが、フォーラム自体を開いて、市民の人がだいたい百数十人から多いところは、250人くらい参加したんですね。それ自体もとても良かったんだけど、それと同じくらいというか、それ以上に、当事者の人とかですね、福祉関係者とか、地域の人とか、色んな人が、行政なんかも含めてなんですけど、実行委員会というかたちで集まって、色々経験したこと、自分に思っていることを、それを話したり、聞いてもらったりですね。そういうことをした。実行委員会の集まりがとても良かったんだという、そういう話になったんですね。だから、それを続けたいという話が出てきて、全ての地域がそれを続けようということになったんです。

田場
はい、この6つの地域ですよね?

小野
そうです。フォーラムも続けて開こうということになって。それが、ずっと続いてきて。大分市なんかは、3回くらい開いて、そこで終わったんですけども。別府の場合、県南とかですね、20年くらい続いてきて。別府いちばん、当事者の方が積極的に参加してくれてですね。フォーラム自体が当事者中心の集まりになっていったということもあって。とても、貴重な場所になったと思うんですけども。他の地域も別府のような当事者参加というのがそんなに多くはなかったんですけど、色んな関係のある人が知り合いになって、情報共有して。話あうこともできたし、行動することもできたということで、かなり、意味のある(フォーラムの)取り組みになったというふうに思いますね。

田場
そうだったんですね。ありがとうございます。このフォーラムを2002年に開き始めたときって、どういったことが話し合われていたんですか。

小野9:56
あの、フォーラムを始めた、きっかけをつくったのが、在宅障害者支援ネットワークでありまして。在宅障害者支援ネットワークにも、当事者の方、ご家族の方、(1998 大分市心中事件の)裁判を中心的に進められた徳田弁護士、それから、宇佐の方で「あゆみの会」というのがですね。

田場
あゆみの会、はい、はい、はい。

小野
障害のある人もない人も一緒に歩こうという、共に生きることができる地域をつくろうという「あゆみの会」というのがあって。ヨリムラさん、ヨリムラトヨコさんというが代表しているんですけど。その方も、在宅障害者支援ネットワークの世話人ということで一緒に参加されてて。最初から、相談窓口、ガイドブック、フォーラムというかたちで取り組みを一緒につくってきたんですね。その中心に、当事者の声、それから家族の声ですね。そうした人たちの声をしっかり聞いて、共有するという。それを基本にしながら、やっていこうということがあって。それが フォーラムにも受け継がれたし。フォーラムもやってみて、そのことをとても大事なんだということを確認しながら、また、その先の取り組みをつくっていったということになると思うんです。

田場
そうだったんですね、ありがとうございます。けっこう、幅が広いなと思ってて。あゆみの会だったり6つの地域だったり。そうですね。このフォーラムが2002年に立ち上がったっていう話なんですけども、2002年、別府で、自立支援センターおおいたが立ち上がったっていうのも何かしら結びつくものってあったりしますか。この、米倉さんがすごい積極的に活動していたと思うんですけども。何かしら情報とか覚えてることってあったりしますか。

小野
そうですね。別府の取り組みというのは、フォーラムやる前から、当事者の方が積極的に動いてきたという基盤がやっぱりあると思うんです。それは、さっき言われた太陽の家との関係もあると思うし。それから、太陽の家に対する批判というかですね、太陽の家では十分ではない部分を感じてた当事者の方もいらっしゃったというふうに思います。だから、太陽の家自体の意義というのもとても大きいと思うんですけど。その枠にはまりきれなくて。やはり、地域で自由に生きたいというかですね。米倉さんとかマルコさんっていう方々が、自立支援センターおおいたを始めたと思うんですけども。

田場13:20
この、マルコさんっていう方って、コーポマルコって、昔、障害当事者たちが集まって、僕たち、私たちで一人暮らしの練習してみようという場所だったとこですよね?

小野
そうです。太陽の家のすぐ前にあって、マルコハウスっていうんですね。

田場
 面白いですね。
小野
自立支援センターおおいたもスタートしたときは、そこにあったんです。マルコハウスに。やはり、単純に支援されることだけじゃなくて、自分たち自身が色んなことをやっていこう思った人たちが集まって。介護事業とかも含めてですね。取り組みを始めちゃったんですね。そういう方々と、それからもうひとつ、障大協、障害者の生活と権利を守る大分県協議会、全国組織で、障全協というのがあるんですけど。その大分の組織、団体をやってた大林さんっていう方がいるんですね。大林マサタカさん。今、西別府病院に入院されているんですけれど。大林さんが在宅ネットの世話人として参加されていたんです。だから、大林さんは別府の住民だったので、別府の福祉フォーラムも担当されたんですよね。大林さんが米倉さんと知り合いで、米倉さんも声をかけて、米倉さんも別府の福祉フォーラムに参加されて。っていうのが、米倉さん、マルコさん等ですね。大林さんは、障害者運動っていう発想があって。障害者が、特に行政に対してしっかり要求をして、自分たちの制度とかですね、生きられる場所をつくっていこう。そういう発想で、やってきたんですね。だから、けっこう、行政とは対立するような。その、障害者運動のひとつの流れだとは思うんですけども。そういう運動をやってきた方(大林さん)なんです。タイプが全く違う障害当事者の方が、フォーラムに入って。一緒にやってという。それに、福祉関係者も入ったり、行政の方も参加されてたりとかですね。そういうかたちができたんですよね。

田場
そうだったんですね、ありがとうございます。この行政とかとの対立ってあったりすると思うんですけども。小野さんが覚えている範囲で、この対立というか、意見交換というか、何か心に残っているものってあったりしますか。

小野
福祉フォーラムは、行政と対立する立場は取らなかったんですよね。こういう制度が障害者に必要なんだとか、法律が必要なんだとか。みんなそれを受け入れなきゃいけないとか、自治体がそれを受け入れなきゃいけないとか、そういう発想での取り組みには、フォーラムはしなかった。地域で色んな立場の市民の人が集まって、その人たちのことを一緒に考えて。自分たちのできることを自分たちでやっていくし、それから市民に呼びかけていく。そういうような、発想でやったんです。だから、行政に対しても、対立するというよりも、行政も一緒に輪の中に入って、話し合って、知り合いになってですね。まず、声を聞いて理解するというところからいきましょうというか、そういう感じでやったんで。対立の場面っていうのは、意見の違いはあったんだけれども、言い合うとかですね。要求してこれをやっていきませんというような、そういう場面はなかったんですよね。

田場
そうだったんですね。ありがとうございます。この、2002年に福祉フォーラムも結成されて、動いていたと思うんですけど。先ほど、大林さんのお話が出てきたと思うんですけども、その方っていうのは、元々、地域で暮らしていて、西別府病院に入られた?
小野
そうです。(大林正孝さんは)元々は、活動家で。障害のことだけに限らず、色んな社会的な運動をされてきた、或いは。政治的なことをされてきたかなと思うんですよね。その方が20代後半で、筋ジストロフィーを発症して。当時は、歩けていたんだけど、だんだん歩けなくなっていって、車椅子になって。障害者の運動、当事者としての運動を、大分の中心的な立場になっていくわけですよね。2000年の在宅障害者支援ネットワークを設立した時点では、別府の地域に暮らしてて。車椅子で色んなところに出歩いて。そして、フォーラム、福祉フォーラムとか、在宅障害者支援ネットワークの活動にも参加をしてたと。そういうかたちでしたね。

田場
そうだったんですね、ありがとうございます。この西別府病院っていうのも、筋ジストロフィーだったり何かしらの難病を背負った方々たちが、治療をされる場所だとは思うんですけども。あの、元々は、地域で暮らしていたんだけれども、病状というか、重症というか、そういった身体への負担が重くなり始めて、西別府病院に入られた当事者の方って、けっこう、いたりするんでしょうか。

小野
子供のときから入ってる方がかなり多いと思うんですよね。芦刈さんもね、10歳くらいですからね。大人になって入って、暮らしてる方が、どれくらいいるのかはわからないんですけどね。ただ、大林さんは入院されているんですけど。コロナが流行って、面会ができなくなったわけですね。とても辛いということで、退院して地域で暮らしたいという願いを強く持ってて。そういう取り組みをずっとされているわけですよね。

田場
ありがとうございます。この、いわゆる、重度の障害のある方々たちの自立生活っていうのを、自立支援センターおおいたの方で特化してやられているっていうのをお伺いしたんですけれども、フォーラムのなかで、障害のある方々たちの自立生活だったり、社会参加だったり。(フォーラムで)活動して20年でしょうか。この20年を通して、ここが変わってきたなと思う部分はあったりしますか。小野さん目線でというか。

小野
20年前は、地域で暮らしてる方、数はやっぱり少なかったと思うんですけどね。徐々に増えてきているかなと感じはあります。でも、大分・別府以外で暮らすというのが、なかなか大変でですね。

田場
そうなんですね。

小野
ええ。中津とか佐伯とかですね。日田とかもあると思うんですけど。地域では、ひとり、ふたりというかたちで増えていってるのかなという感じですね。それを、自立支援センターおおいたが、別府にありますけど。自立支援センターおおいたが、別府以外の地域に出て行って支援をしているというところはありますよね。

田場
そうなんですね。はい、はい、はい。でも、まだ行き届いていない方々たちっていうのもいるのも現状ですよね。

小野
結局、やっぱり、行政からすると、重度の障害の人が地域で暮らすっていうのを、元々、深く関わってこなかったんですよね。ただ、それを理解してもらうことは大変で。当事者の方が1回訴えただけで、「いいですよ、できますよ」とは、中々ならない。自立支援センターおおいたとか、これまで切り開いてきた人たちが支援するかたちで、地域に入っていって。一緒に話しながら、実現していくという。そういうかたちをつくっていってると、思いますね。

田場
わかりました。ありがとうございます。先ほど小野さんのお話のなかで気になったところなんですけど。太陽の家って、障害者の就労だったり、スポーツだったり、評価、賞賛を受けていると思うんですけども。太陽の家のやり方というか、反対される方々って、多少なりいました?

小野
反対というか、全面的な反対ということはないと思いますね。ある程度切り開いてきた、評価されてきたと思うんですけども。ひとつの法人なんでですね。法人の枠のなかというか、枠のなかの暮らしに満足できないという人たちもいると、ある程度いると思うんですよね。だから、そういう人たちが自分で切り開こうというかたちで、外に出て。例えば、パチンコしたいとか酒を飲みたいとか、あるわけですね。それをできるように。簡単にできるようにはならないと思うんですけど、車椅子で行って。(店の中に)入れるように。そういう取り組みを20年以上前から、積み上げてきて、今のようなことに繋がってると思いますね。

田場
そうなんですね。この、障害当事者の方々がまちに出るということを率先したのが、米倉さんもそのひとりであるというのを『車いすの暴れん坊』という本を読んで、知ることができたんですけども。米倉さんだったり、そういった動く、活動をする人たちのインパクトって、「ここまで、やるのか」「あー、ここまでできのか」みたいな、小野さん自身の感情、思いみたいなのってあったりしますか。車椅子に飲み屋に、せっせと入るみたいな。何か印象深いものってあったりしますか。
小野
フォーラムが始まってすぐ、米倉さんのこう枠にとらわれない。「自由に生きるんだ」と。それをやっぱり、許さないような空気は当然あったんですけど。それをこう、パワーでこじ開けていくというか、押しのけていくというか。そういう迫力を感じたというのがあって。それを、別府大学の篠藤先生。篠藤先生が、一緒に夜のまちに飲み歩いて。ひとつずつ、飲み屋さんにですね、行って、「入れない」とかですね。だんだんと、「障害のある人も一緒に入れるような場所が必要なんや」、「そうしなきゃいけないんだ」というような空気をジワジワとですね。別府の夜のまちを歩いて広げていったという話を聞いたことがあって。僕は、全然飲めないんだけど、すごいなと思ったりですね。やはり、介護事業を始めたときにですね、支援をされている人が自分の経験を活かして、支援をする。これがやっぱり、より良い支援に?がるんだという話を米倉さんはそうされていたので。それも、「やっぱりそうだな」とそういう話がやっぱりなかったんですけどね。(米倉さんが)みんなに伝えるというのをやってる姿を見て、それもすごいなと。常に目を開かされるような感情はありましたね。

田場
面白い話ですね。はい、はい。そういった、まちを歩くのに対して、フォーラムとして何かやられていたことはありますか?例えば、一緒にまち歩き探検みたいな。

小野
フォーラムとしてどうだったか、はっきりは覚えていないんですけど、踏切の調査とかですね。
グレートバリアフリー探検隊みたいなのをですね、米倉さんたちがやってて。そういうものに参加したりとか。全てをフォーラムでやるというよりかは、それぞれの所属、団体。色んなとこがありますよね。自立支援センターおおいたもあるし、ぐっとらいふ大分もあるし、それから、障大協もあるし。それぞれのところで、色んなことをやると。フォーラムっていうのは、それをまとめるんじゃなくて。そういう人たちが連携できる場みたいな。そういう違いがあったのかなという気がしますね。

田場
ありがとうございます。別府以外の地域の、他のフォーラムで、「この取り組みはユニークだな」みたいな、そういったものってあったりしますか。例えば、日出だったらこうみたいな。

小野
特徴はそれぞれありますね。わりと福祉関係の方で、それぞれの職場で積極的な人が、(福祉フォーラムの)実行委員会に積極的に参加すると。自分の職場、所属している法人の枠を超えて、色々な人間関係、情報を繋ぐようなかたちが(フォーラム)でつくられると。そして、それに行政の方もつながって。そんな感じができるという方向が、けっこう、あったなと感じるんですけどね。


田場
ありがとうございます。大変興味深いです。では、今日は、この辺でとめさせて頂きたいと思います。どうもありがとうございました。

小野
ありがとうございました。失礼します。
UP:20220610
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