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野口俊彦氏インタビュー・2

20220521 聞き手:立岩真也 

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野口 俊彦  ◇自立生活センター・立川 
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築

◇文字起こし:ココペリ121 20220521野口俊明
〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。

 ※以下の2つに分けた記録の2です。1は↓
◇野口 俊彦 i2022a インタビュー・1 2022/05/21 聞き手:立岩真也 於:自立生活センター・立川事務所(東京都・立川市)
◆野口 俊彦 i2022b インタビュー・2 2022/05/21 聞き手:立岩真也 於:自立生活センター・立川事務所(東京都・立川市))(本頁)



立岩:それが、どういうふうに自立生活センター・立川まで流れていくんですかね? その三多摩自立生活センター★は、始めたけど〔1983年発足〕無理っていうんでいったんおしまいになって、っていうそういう流れだったんですかね?

野口:うんそう、介護を共有化しようかとか、いろいろ話をしてたんだけど、やっぱりそれなりに自分で介助者集めて生活してる人たちっての、やっぱ介助者との付き合い方の理念とか考え方ってのがあって、そういうのはあんまりちょっと、はっきりとかない人についてはほんとに共有できるのか、っていう内部的な話があって、そうでないその始めた人たちと、始めたっていうかそういう人たちと、高橋さんとは今度意見が分かれちゃって。で、そういう人たちから高橋さんが、「いったんもうやめてください」みたいな、代表かなんかやめてくださいって言われて。でその言われた日に、「帰りに車ぶつけちゃったよ」みたいな、ショックで。ええ、言ってましたよね。

立岩:そうか。どっちもわかるっちゃどっちもわかるけど、高橋さん、ショックつうか、それはつらいですね。

野口:ありえないと思ったんでしょうね。集まって会議出たらね、とつぜん糾弾されて。

立岩:で、それでショックで車ぶつけたりして。俺、その車ぶつけた話は初めて聞きましたけど。で、そこから仕切り直しっていうか、やっぱなんかちがうやり方じゃなきゃ、でいくかなって思い直したんですかね? 野口さん、高橋さんとはどういう…。

野口:だからあのけっきょく三多摩自立生活センターで共有できなかったということで、いったんそこの活動は中止になって、でどうするかっていうところで、ちょうど活動が終わる時点ぐらいで、高橋さんがエレベーターの会で一緒だった石川治江さんと、やわらぎを一緒に始めたっていう。で、けっきょく有償介助っていうか、時間でお金を払うみたいな考え方としては路線を進んでいったっていうね、高橋さんの経過がありますけどね。

立岩:実際にその一時期石川さんと一緒にやってた時期もあるんですかね。

野口:ありますね。

立岩:「やわらぎ」でいいんだよね? ひらがなで「やわらぎ」ですよね★。

★ 1987 ケア・センター「やわらぎ」設立。代表に就任。

野口:やわらぎです、ええ。

立岩:でも、実際にそのやわらぎに関わりながら、でも91年には自立生活センター立川を作る、始めるわけじゃないですか、そのへんのことで覚えてることとか、あるいは野口さんの関わりというか、何か覚えてること。

野口:高橋さんがけっきょくやわらぎで石川さん★と関わりあってやってたけど、やっぱりその、やわらぎのグループが健常者グループで、それで高橋さんの考えとかなりすれ違ったんだと思いますね。で、けっきょくね、高橋さんはやわらぎには展望が見られなくなっちゃって、だんだん抜けてきて。で、当時あの三多摩自立生活センターで、当時私と疎遠になってたけど、私のほうに「立川で自立生活センターを始めようぜ」ってなんか高橋さんのほうから声かけて。[01:05:17]

★cf.石川 治江・浅野 史郎 2021/05/15 「今、障害福祉を考える」
 https://youtu.be/-ebNXvBPJ1U

立岩:高橋さんから野口さんに、そんなんやろうと思ってる、手伝って…、一緒にやんないか、みたいな、そういう話があった?

野口:あったの。

立岩:それは電話か何か?

野口:あれ何だったかな。でも在障会とかでときどき会ってたので。

立岩:在障会では会ってるもんね。

野口:だからそういう話のなかであったんだと思いますし。高橋さんがヒューマンケア★行ってたりもしてたし。

立岩:うん、そうみたいだね。そうか在障会★は続いてるから、そういう機会に高橋さんと話したりとか。その時は野口さんは、「まあありかな」と思ったってことですかね?

野口:そうですね、もう進む道がないのと、

立岩:ほかにないから。

野口:うん、うん。たぶん高橋さんとやってもそんなに長く続かないだろ、と思いながらもやってみようと思ったんですね。

立岩:じゃあこれしか残らないみたいなイメージですかね?

野口:今のなかの選択では、うん。

立岩:じゃあ一緒にやってもいいかなっていうってことになり、で始めた。金もないし何もないし、いっちゃん最初の最初は野口さんのご自宅が事務所になって、そういうことか。

野口:そう、それでその、それと高橋さんのとこにいて専従でやってた人がそこの職員の位置づけになったりとかして。

立岩:そうか、その当時の専従の人でCIL立川の職員になったって人もいたってことですよね。

野口:いましたね。

立岩:そうか。そのあとのことは知ってる、一部分はぼくもしばらくそのね、運営委員とか、

野口:そうですね、やってもらった。

立岩:させていただいたりしたので、なんか覚えてますけど。ぼくは最初の数年はよくわかってないんですけど、そのあとそれこそここで会議やりましたよね。運営委員会で出していただいたころの90年代前半なかばぐらいに関しては、すごく上げ潮っていうか、いろんなことを新たに始めたりなんかしてなんかっていう、ある意味順調に発展っていうか成長してきたっていうことは一つその当時も思ってたんですけど、野口さんはその90年代、自分の家を事務所に使ってっていうあたりからの流れっていうのは、どういうふうにとらえられていますか?

野口:その自分たちでようするに介助を使ってるとか、障害者、当事者のようするに運動をやってるとかも含めて、その当時はヒューマンケア協会でピアカウンセリングとか介護サービスとかで東京都の何でしたっけ? 地域福祉振興事業でしたっけ? あの助成金が、中西さんが初めてピアカウンセリングをとったりとかして持ってきたのがあって、で91年始めたころに、もうすぐにそれの申請を出そうというので申請を出して、で、自立生活プログラムが通ったのがちょうどこっちに移ってくる秋ころだったかな。それからお金をもらってってみたいな。で、翌年の4月に介助サービスの補助金をもらってコーディネーターに給料払えるようになったりとかして。

立岩:そうですよね、90年代になって初めてできた、でしばらくあった制度をいちばん最初に使って展開してきた団体って感じですよね、立川はね。

野口:そうですね、八王子、立川、町田★でしたっけ。HANDS(ハンズ)★もあったもんね。

立岩:そうだね、四つ。大きいとこでいうと四つか。ぼく今回東京くる時とか、おとつい大野さんと話(はなし)したりして、94年なんですけど、自立生活問題研究会って一時期あったじゃないですか。[01:10:13]

野口:はい、自問研です、はい。

立岩:その時にぼくと、今考えるとちょっと不思議って不思議でもないんですけど、ぼくと大野さんと野口さんと益留さんの連名の、「自立生活センターがやってくためにどういう公的な助成の仕組みがあるのか」みたいな。それ実質ぼく原稿担当したのぼくだったりしたんですけど、当時そういうことやってたんだなと思って。でもそうですよね、そういうことを提案し、実際にお金を最初にとって試しにやってみて、うまくいったからもっとくれっていうような、そういうサイクルに乗せてくっていうの、90年代の前半ありましたよね。

野口:うん、だから80年代後半から、高橋さん、誘われて私も行ったんだけど、共同連、斎藤縣三さん★とか共同連グループと非常に仲良くなってって。

立岩:そうですね、共同連の大会立川でやったり。

野口:92年だったかな、3年だったかな、うん。そのまえ全障連大会やったんですけどね。共同連やって全障連やったんだ。

立岩:それはちょっと高橋さんの自慢話で聞いたことありますね。大変ですよね、そんな毎年全国大会って。

★ 199109共同連大会を立川で開催。19921122全障連大会を立川で開催。

野口:あそう、だから共同連の斎藤縣三さんなんか、「先に全障連やってたらぼくたちの大会はなかったね」みたいな、「やらなかったぞ」みたいな。「先にやってよかった」とか言ってさ。

立岩:うん。ぼく自身もその90年代の半ばぐらいにしばらく立川に通わせていただいたりして、今、それちょっと回顧とは違うことで言うと、その当時そういう自立プログラムであったり、そういうことに対してなにがしかのお金をだす枠組みってのがあったのが、むしろこの10年、20年という時間を通った時にそこはなんかだんだん先細ってきちゃって、けっきょく今日本の自立生活センターって介護派遣の事業でしかお金が入らないみたいな仕組みになっちゃってるなっていう。それでなんとかやりくりできるところはそれでもいいけど、やっぱりちっちゃいとことかはなかなか難しいじゃないですか。そこはけっこう、あの時に一時期もう立川なんかが中心になって作ってた枠組みが、2000年越えて支援費やら何やらでいろんながたがたしたことがあるなかで、なんとなくこう細っていって、今の、今は今なりに難しい状況をつくってるのかなってぼくは思ったりしてますよね。

野口:そうですよね。だからどんなかたちで打開できるかっていうの、これからの課題だと思うんですよね。

立岩:そうなんですよね。そこたぶんぼくも、けっこういろんな人と会う時にその話をしてるんだけどね、やっぱりその、今相談支援とかいってもさ、けっきょく紙一枚なんぼっていうものでしかなくて、実際には地域生活・地域移行にかかるコストとかぜんぜん賄えないわけじゃないですか。それを、それはそれで直接の介護派遣・介護サービス以外にちゃんとそういうことを担える団体についてはお金を払うっていう、90年代にできかかった仕組みをやっぱりもう一回ちゃんと作り直すっていうか、っていうのが必要なんじゃないかな、とぼくは思ったりしてますね。

野口:ああそうですよね、だんだんと制度が、充実した面もあるけど難しくなった面もあって、地域移行、相談支援とか、定着支援とか、ああいう制度を全部使いこなせる自立生活センターなんてほとんど少ないですもんね。手間ばっか多くてやりたがらないっていう。

立岩:だからそこを変えないと…、ぼくはほんとに今、とくにここ10年、20年ぐらいの細かいこと、具体的な制度のことわかってないんですけど、そこのところを変えないと難しいなってのは思ってて。90年代はそういうことをいろいろ試してみたりしてたなっていうのは思って、ずいぶん働かせられました。

野口:(笑)そうですよね、いろいろ頼んで。

立岩:高橋さんにいろいろ報告書書かされたり、さっきの連名の文章も実質ぼく書いたんですけど、でもあそうか、4人の連名かと思ってちょっと面白かったですね。で、あと圓山里子。[01:15:05]

野口:そうですね、あとCIL・立川だと、蔵本★。

立岩:ああそう。圓山さんはね数年前に、あの人いちおう研究の、なんで会ったことあるんですけど、最近ちょっと連絡がつかないんだけど。っていうか、野口さんたち圓山さんとかとやりとりってここ数年あります?

野口:ありますよ。今も最近、今月いっぱいまでここのまだ理事をやってもらっているので。

立岩:そうなんですか。

野口:はい。だからオンラインで参加してもらったりなんかしてますし。一時は川越のほうへいってたんですけど、また新潟に戻っちゃって。

立岩:新潟に戻ってる。今、現在?

野口:はい。

立岩:ほんとですか。ちょっとなんか連絡…、いやあの、そうか、わかりました。今度ね、今日の夜から明日新潟なんで、圓山さんにご挨拶というか連絡とりたいなと思ってたんですけど、ぼくが知ってるアドレスはどうももう使えなくなってるみたいで。そうか、圓山さんじゃあ新潟にいるし、立川とも連絡ある…。あとでちょっとメールのアドレス聞いて帰ろう。圓山さんじゃあお元気にはしてらっしゃるんですね。

野口:そうですね。

立岩:そうなんですよ、圓山さんが新潟の出身で、高橋さんが新潟の長岡の出身で、ぼくは佐渡だから、CIL立川内、新潟、

野口:黛先生と。

立岩:そう、黛さんもそうだし。新潟県人会だとか言ってやってましたけどね。それと、クラモトくんと、クラモトさんって四国行ったとかいう話はほんとなんですか?

野口:四国は実家じゃないですか?

立岩:今何なさってる?

野口:今どっかの財団系の外国人ヘルパーの研修とか、そういうことを担ってみたいなことを噂で聞きましたけどね。

立岩:噂で聞いた。じゃあ東京とかにいるのかな?

野口:いると思いますよね。

立岩:クラモトコウジでよかったでしたっけ?

野口:そうです。名前はもうクラモトに戻って。一時こいわいと。

立岩:そうだよね、結婚ということですよね。こうじって親孝行の「孝」に政治の「治」でいいんだっけ?

野口:そうだったかな? ちょっと覚えてない。そのあとけっきょくね、その人と別れて、DPIのふくしまさんでしたっけ? と結婚してっていうの。

立岩:ふうーん。そうなんですか。それはぜんぜん知らなかった。

野口:だからDPIで聞くとたぶんわかると思いますよね。

立岩:DPIに問い合わせればわかるか。

野口:ふくしま関係…さんの感じでつながってると思う。

立岩:じゃあそれちょっと聞いてみよ。そうですね、クラモトさん、圓山さんあたりといろいろ。とくにぼくっていうよりは一番働いたっていうか働かされたのが圓山さんだった。

野口:そうですよね、いろいろとケアマネジメントのモデル事業やったりとか、書いてくれとかよく頼んだ。

立岩:そうそう。***(01:18:33)どういうモデルでやるかとか。90…、そうね、95年、6年とかそういう話であって、でケアマネジメントどうなんだという話で、じゃあ、つって中西さんなんかが音頭取りになってイギリス行ったんですよ。

野口:そう、立岩さん一緒に行ってますよね。

立岩:そうなんですよ、ぼく高橋さんと同室でしたから、風呂の介助とかやってましたけど。あれ調べたら97年の9月だったらしいんですね。

野口:行ったのが。

立岩:ロンドン行ったのが。でその時にダイアナ妃が死んで、ちょうどみたいなことがあった。それで戻ってきて、そしたらその翌々年99年の明けというか、はじめにはもう高橋さん急死。

野口:2月の27日ですよね。

立岩:なさっちゃったから、「えー」って感じでした。
 その30年なり40年なりの話を2時間で聞くっていうのはもともと無理のある話なんで。ぼくとしてはもうほぼこのへんまで聞けりゃあ十分なんですけど。でもそのあとも組織としてはずっと活動継続しつつ、いろいろあったのはあったじゃないですか。で、野口さんのほうはHAT(ハット)のほうであったり、いろいろとのところでリーダーやりながら、そのあとの、でもそのあとのってすごい長いですよね、99年に亡くなってからだってもう23年とかになるから。22年とかになりますもんね。[01:20:27]



野口:そうですね、もうなりますよね。

立岩:むちゃくちゃ長い話をまとめてもしょうがない感じだと思うんだけど、野口さんにとってその、高橋さんがいなくなっちゃってあとの21、22年、23年に、で、それなりに思うっていうかまとめるっていうか、そこはどうですかね、野口さんにとってそのあと世紀が変わって、それこそね、ここまで時間が経ってきたわけだけれども。

野口:そうなんですよね。高橋さんがいたころにちょうど介護保険が始まろうっていう時代だったのが、高橋さんがその時いなくなっちゃって。で2003年の支援費制度、が、制度、どういうふうに自分たちに合わせていくかみたいな。で、高橋さんがした介護保障運動が全国に広がったので、JIL(ジル)も含めてね、政府と対抗してこうっていう考え方のなかでずっとやってきたっていうふうに思っていて。やっぱり介護保障ってやっぱ大切だから、そこは守っていきたいな、ってのはずっと思ってやってきたし。あとエレベーター運動の続きでまちづくりっていうのも大切なので、まちづくりとかいろいろ、今はDPIの佐藤聡さんですか、頑張ってやってるけど、そういうのね、東京もお手伝いします。

立岩:そうですね。アクセシビリティのことはDPI熱心ですよね。基本いいことだと思ってるんですけど、わりとほんとにね、そこの領域熱心じゃないですか。それって野口さん、なんでだっていうか、大切だから大切、っていうことかもしんないけど、なんだと…。やっぱりそれだけ車いすの人多くて、実際にそこに関心があるっていうことなのかな? でもそれが、それこそ立川のエレベーターの運動が今に続いてるっていうところもあるならそれでいいと思うんですけどね。

野口:だからやっぱその、移動の自由みたいな、そういう権利みたいなってのは、たぶん下のほうでみんな意識してんだろうと思っていて。今のJRとかの対応なんかで非常にみんな悲しい思いをさせられてるから。やっぱりそれを変えていきたいと思うのはみんな同じ気持ちだと思うし。

立岩:そうですよね。

野口:で、アクセシビリティっていったら、あんまりイデオロギーってのはないから、連帯してつながれるっていう強さはあると思うのね。

立岩:そうですね。それはそうですね、誰にとってもいるものはいるっていう、わかりやすい話ではありますよね。いやあでも立川の駅も変わったよね。

野口:ああだいぶ変わって、みんな駅降りたらぜんぜんわからなくなっちゃう。

立岩:すごいことになってますね。だから今日もどうなるかなと思ったけど。いや、ここの来る道ってわかりやすいじゃないですか。おっきい道をずーっといってこう曲がればこっち側にあるから。ああそういえばここに印鑑屋さんあったな、とか思いながら今日歩いてたんですけど。それは迷わなかったんですけど、ほんとに駅の、のぼって、JRの中央線の駅全体がもうみんな、ぼくは三鷹に長いこと住んでましたけど三鷹の駅も変わりましたし。

野口:デッキができてね。

立岩:もうすごい変わりましたよね。あとその、駅、アクセスのほうはそれはそうだとして、一昨日もぜんぜん意見のちがう人に、ぼくはなるたけ聞く役に徹して話聞いてきたんだけど。高橋さんも、威勢がいい人生もあり、悩み多い人生でもあったんだと思うんだけど、やっぱり介護保障の運動も、要求者組合★が最初からあって、で協議会★とっていうので分かれてっていうことが、やっぱり高橋さんの亡くなるちょっと前ぐらいから顕在化して、それも今にいたる感じでしょうけど。そこの間(かん)の流れに関して野口さんが覚えてらっしゃることであるとか、見てて思うこととかってありますか? [01:25:15]

野口:要求者組合の分裂することって、当時こっちのほうで地元でやってたので、なかの議論の流れっての見てないんですけどね。要求者組合のほう、介護保障協議会のほうに出てた人っていうのは、やっぱ実際介護保障っていうのは税金のお金だからちゃんとしっかり使って、自分たちはその介護保障の権利があるからそれを勝ち取っていこう、っていう流れのほうの人たちが介護保障協議会に行ったのかなと思って。

立岩:そうですね。で、そこは透明性っていうのキープしながら、全国どこでも、力のある人もない人も使えるそういう制度にっていうことだったと思って、ぼくは基本そっちでいいと今でも思ってますけどね。他方でもっと一人ひとりが頑張ってそういう、頑張る頑張らせるっていうその徒弟制度っていうか、そういうののなかで苦労して獲得していくもので、で納得したものである以上は自由にというかね、そんなに透明性とか細かいこと言わんと、っていう流れがかたつむりから始まって、組合の、にいたる過程だけど、そのなかでもやっぱりおとつい聞いた話ってのはやっぱり、けっこうやっぱりそこのなかでもいろいろあってっていう話は聞いて、なるほどなるほどと思って、で録音したんですけどね。
 そうか、そうだよね。どっちかっていうと野口さんは立川の拠点を守るっていうか、で野口さんあれですよね、高橋さんがそういうところ行って出張っていくっていうか。

野口:そうですね、ずっと後半はそうでしたよね。全国運動の先頭に立って。

立岩:がちゃがちゃがちゃがちゃやるのと、お留守番ではないけど、立川を守るっていう分業みたいな感じだったのかなと思って。ぼく今度、去年、おととし出した本に書きましたけど、「ときどきうまくいく男二人組」っていうのが障害者運動にはいくつかあったという話を書いてて。一つは福島の、

野口:白石さんと、橋本さん。

立岩:白石さんと、橋本さんのペアなんですけど。ときどきあってきたなと思って。最初に思いつくのは立川なんですけどね、あと福島と。あとさっきちょっと名前を出した宮崎にもけっこういい感じの男二人組がいて★。

★永山 昌彦 i2018 インタビュー 2018/09/28 聞き手:立岩真也 於:宮崎市・障害者自立応援センターYAH!DOみやざき事務所 ※
山之内 俊夫 i2018 インタビュー 2018/09/26 聞き手:立岩真也 於:宮崎市・障害者自立応援センターYAH!DOみやざき事務所 ※

野口:そうだったんですか。

立岩:両方ともインタビューさしていただきましたけどね。


立岩:今は弁護士の藤岡さんとこのネットワークに関しては、代表を、共同代表か、を橋本さんに後任に、

野口:いったん降ろさしてもらってっていう。

立岩:それはあの、ちょうど今度藤岡さん★ところが、それが11月かな? に、

野口:10周年ですね。

立岩:10周年のイベントをやるという相談をおとついZoom(ズーム)でやって、で、ぼくそこのイベント、台湾の弁護士と韓国の弁護士となんか三か国でやるっていうんで、それの司会みたいなことを頼まれて。それでその式次第というか、ちょっと段取りの話を藤岡さんと大野さんとぼくで相談したんですけどね。そちらはいったんひかれるという話はその時っていうか、その前後にうかがったんですけど。今その野口さんが、今というか21世紀になっての間、HAT(ハット)はずっと、今HATのほうは最初がどういう役職が最初っていうか、

野口:だから96年にHATができた時は事務局長、で理事長は高橋さんがやってて。高橋さんが99年亡くなった時に私が理事長になったのかな。[01:30:10]

立岩:たしかそうだったと思います。

野口:で、野上さんとバトンタッチしたのは、その数年やってた記憶があるんだけど。CILの理事長と幹の理事長と交代こうたいみたいな。

立岩:そういえば野上さんってお元気でいらっしゃるんですか?

野口:ちょっと今、歳とってきて、体が弱くなって、今足をちょっと痛めて。でも気持ちとかはね、元気ですよ。ちゃんと、今、足を打撲したんだけど、治ればまた出てきてくれると思うので。

立岩:じゃあHATのほうは、役はときどき交代したりしながら、経営というか関わりっていうのはずっと続けてらっしゃるってことでいいんですか?

野口:そうですね。

立岩:どうですか? HATの事業そのものというか、に関しては。ぼくが知ってる範囲では、かなり大きな規模というか、経営規模だったように。

野口:始めたころはね、けっこう大きかったんで、今はだいたい年間3億円ぐらいの規模、3億3千万くらいか。でも当時にくらべると、HATがずば抜けてた時代から、八王子が入ってきてとか、CIL府中が入ってきてとか、そういうとこの規模ってのやっぱ、同じぐらいとか以上の規模を今、

立岩:そうですね。確かに、最初の年商というか売上というか、3億とか4億とか言われると「おおー」って思いましたけど、今、老舗でそれなりに活動が活発なとこだと、3億、4億っていう年商はありますよね。

野口:普通だと思いますね。10億ぐらい行くとこもあると思いますよね。

立岩:ぼくは今京都でしょう。でJCIL(ジェイシーアイエル)、日本自立生活センターが京都ですけど、あそこのそういう売上というか、なんだと思いますね。

野口:だから運動がしっかりしてるとこ、障害者の人の自立支援をできるとこがやっぱ伸びてきてましたよね。

立岩:じゃあHATはHATで、そんなに拡大路線ってわけじゃないけど、それはずっと続いてるって感じですよね。なんかこう利用者であるとか、あるいは働き手であるとか、そういうことに関して何か当初の時と、からの変化とかそういうのって感じることありますか?

野口:両方ともそうですけどね、その創世期とか、介護保障運動・自立生活運動とか、っていうなんか思いを背負ってやってるっていう雰囲気よりは、そこでもうそういう制度という事業ができて、そこでしっかり事業を回してくんだ、っていうような、とか、ちゃんとサービスとして使うんだって人たちがだいぶ増えて。うん。

立岩:その利用者の層、たとえば年齢であるとか障害の種別であるとか、なんかそういうのでなんか変化っていうのはありますか?

野口:HATでいうと利用者層の変化っていうのは、あの、重度の行動障害のかたとか、行動援護の領域の部分がちゃんと増えてきたりとかして。

立岩:じゃあけっこうそういうのもやって、そういうのもっていうか、行動障害の人のガイドヘルパー的なこともやってるってことですか?

野口:そうですね、昔から高橋さんの時代から知的のかたと、うん。

立岩:それはそうですね。

野口:みんな仲間っていう意識があったんで。

立岩:それはそうですね、言ってましたね、というか実際やってましたよね。精神・知的どうする、どうやっていこうかっていう話はずっとしてましたよね。じゃあHATの利用っていうか仕事の一部でもそれはずっとやってきたけど、ちょっと増えてるかな、みたいな感じですかね?

野口:そうですね、やっと手がつけられて、少し軌道のっかてるかなっていう感じだった。やっぱコロナで外出とかが少なくなったんで、ちょっと。

立岩:あそっか。ぼく京都でときどきなんかそこらへん歩いてると、JCIL★のヘルパーが行動障害っぽい人と一緒に京都の街歩いてるの見かけます。

野口:昔なんかぜんぜん見なかったですもんね。

立岩:そうだね。それは変化かもしれないですね。

野口:車いすの人も立川にはほとんど見なかったし。

立岩:じゃHATはそんな感じなんだ。立川はなんかもう建物自体はほんと変わってないなあと思って。ちょっと壁とかはちょっと古くなったかなってぐらいの感じですけど。その、立川のほうは、ほんとに消耗するとか大変な時期っていうか、こないだあったじゃないですか、ヘルパーのことであるとか。[01:35:25]

野口:そうですね、あれはHATのほうですね。

立岩:で、そういういろんなことも含めてというか、野口さん自身は今の自立生活センター立川のことをどう見てらっしゃるのかなっていう。

野口:だから自立生活運動としての自立生活センター立川っていうのは、依然として気持ちは持ってきてるけど、けっきょくその自立生活センターやってて、高橋さんの時代から含めて委託とか行政の補助とかいっぱいもらうようになってて、それがもう20年、30年って続くようになってて、一時期あった精神障害者地域支援センターパティオ、パティオちょっと分裂してしまったんですよね。解散して。で今はあの、さっき奥山さん★が中心になって生活介護えんぱわを一回立ち上げてってみたいな。

立岩:そうか、それあったなあ。それは何、パティオが割れちゃったというか分かれちゃったっていうのは、何か野口さんのまとめっていうか、どういうことだったっていうふうに理解されてますか? ていうか、事実関係自体もよく知らないんですけどね、ぼくはね。

野口:なかで中心になってる職員の人が、ようするに給与体系とかやっぱ不満がずっとあっていて、それと自立生活運動とはちょっとちがうスタンス? だからあの自分たちのケースワーカーとしてのスタンスっていうの、が、よく自立生活センターにはなじんでいなかったのかなと思って。

立岩:なるほどね。どっちかっていうとそこの活動をしきってた人たちのノリっていうかと、CILのノリっていうか、スタンスがちがうかったってことですね。

野口:そうですね、だからその彼女たちが、その【地域生活支援センターパティオ】(01:37:43)は精神保健福祉士持ってないとできないんで、そういう人たちが抜けてくと、じゃあ残った人で頑張ろうってわけにはいかなかったんで。

立岩:そうか、そうですね。それは何、けっきょく分かれて独自にどっかでやってるっていう感じなのかな?

野口:個人として立川のなかでの精神の人たちの支援、グループホームやったりとか、計画相談やったりとかしてますよね、今。で、立川市はパティオがなくなったあとに社会福祉協議会の一つ、委託を出して、そこで精神の人たちの相談をできる体制を作りましたってのはやった。

立岩:なるほどなるほど。じゃあ当時、自立生活センター立川のなかでやった人は出て、でその人は個人っていうかでいろいろやってると。立川市はそれの枠とはちがうほうの一つを作ってやってる。そういうふうに整理というか、収集というか、ということ、

野口:そうですね。

立岩:なるほど。あと、その部分はそうだとして、ほか、ほんとにぼくも、何だろう、いつがきっかけだったのかな。ぼくはあの、95年まで三鷹に住んでたんで、85年から95年まで三鷹に住んでたから、立川来るの楽勝だったんですよ。でほんとに90年に子どもが生まれたりして、子どもづれでなんか、高島屋でしたっけ、ビアガーデンっていうか、立川のイベントで夏祭りみたいな感じで、っていう記憶もありますし。それでわりと、立川とにかく来やすかったし、来れば必ずくろしおに行って。

野口:高橋さん飲むの大好きだったので。[01:40:00]

立岩:御用達でしたよね。であそこで飲んで。それでも三鷹に帰れたからね。中央線遅くまでやってるし。

野口:理事会が終わったあと…、運営委員会が終わったあと、

立岩:理事会のあと必ずくろしおだったんですよね。だからわりと気軽に来れたんですけど、そのあと95年に勤め先が信州大学になって、で松本に行って、松本も中央線いちおう通ってるので、八王子まで行ってなんかしたりすると、いちおうその日のうちに帰れたりとか。帰れなかったら体験室に泊まらせてもらうとか、そういうのでしばらくは松本にいた時も立川のことには関わらせていただいたんですけど。あとは京都になっちゃったからということもあって。

野口:千葉大もいましたよね?

立岩:そうなんですよ。千葉大、85年から95年に三鷹に住んでた間の、93、94っていうのが千葉大なんです。

野口:あそうなんですね。千葉の学生が来たことは覚えてます★。

立岩:そうなんですよ。

野口:高橋さんの話聞いて感激してってさ。

立岩:そうなんですよ。93年、94年と、ぼく千葉大の助手で。でその時の社会学科の3年生っていうのの社会調査実習っていう単位があって、授業があって、それの現場監督みたいな、そういう引率の先生みたいなそういう仕事で。で立川と町田と八王子と、みんなを行かせて。今でもその報告書、紙のやつは全部売り切れちゃったんだけど、ホームページには載ってて。座談会みたいなので「立川の思い出」みたいな話があって、「ああー」とか。でもそこには名前は出てこないですけどね。イニシャルなんですけど。「ああ、あの人すごかったですね」と、あって、それは覚えてます。ほんとあの時お世話になりました。でもすごいいい経験だったんじゃないかなあ、学生にとってね★。でその時に、その調査一緒だった3年生ってのが、の一人が寺本くん★っていう、今でもあの、

野口:寺本さん。そうだったんすか。

立岩:寺本晃久、ぼくの最初の学生なんですよ。

野口:そういう流れがあったの。

立岩:そういう流れなんですよ。そういう流れで、一年目に寺本くん。彼はけっきょく都立大の博士課程までいったけど、学者にはならずに、けっきょくこのへんでずーっとやってて。でもちょっとまだ付き合いはあって、元気にやってるなと思う。
 土屋葉さんってのはご存知ないですよね? それは学者なんですけど、それは2年目で、2年間千葉で。その時にお世話になりました。みんなでも「こんなに違うんですね」って言ってました。町田とか行くとみんな紳士で、おとなしいっていうか。「だけど立川は違いますね」みたいな。「立川はすごいですね」みたいなこと言ってましたね、あの時はね。

野口:やくざの親分みたいですもんね。

立岩:そうそうそうそう。

野口:度量がおっきいというか、話がうまいし。

立岩:そうだねえ。そうなんですよ。今の、今、ほんとにそういう意味で、京都に行っちゃって、ということでもう理事なりも辞めさしていただいて、で、そのさっきのHAT、自立支援立川、両方の間というか、それこそ、「益留なんでそんなにいつまでも絡んでるんだ」って思ってましたよね。あのへんの最後の終わらせ方というか終わり方も見届けすに、ぼくはそこから離れて久しいんだけど、今の体制っていうのは、自立支援立川のほうっていうのはどういう体制で。

野口:ちょっと待って。あの、イノセくんこっちに呼んでくんない? その本持ってって。

B:うん、了解です。

立岩:体制っていうのは、って誰が運営してるかっていう?

立岩:そうです、代表。今でも代表は事務局長っていう、その仕組み自体は変わってないんですか?

野口:変わってないですよね。ただずっと理事長は奥山さんがずっとやっていて。[01:45:04]

立岩:奥山さんが理事長。

野口:で、事務局長は置いてなかったんですね。

立岩:なるほど。

野口:一時期野上さんが理事長やって、奥山さんが事務局長やってた時代があって。で野上さんがひいて、奥山さんが理事長兼、事務局長両方の役割を、スーパーウーマンみたいなもんですよね、やってるっていうのね。

立岩:今現在そんな感じですか。

野口:で、この一年ちょっと、大きな問題が出てきて。

[01:45:38]文字起こし作業省略[01:49:45]

立岩:その、ちょっとそういう、ちょっと録音はいちおうしたけど、テープは起こさない話は置いとい…。そういうほらちょっと生臭い話は別としても、どこでもやっぱりその、次の世代っていうかさ、組織の若返りっていうか、若返らせながら維持していくかって、どこも悩ましいと思いますけど、立川はどんな感じですか? 今。[01:50:13]

野口:だから今やってる人たちは、こういうピアカウンセラーとかピアサポートの仕事が好きでやってくれてるっていうのが一番いいとこですね。ただあの、非常に能力の高い人たちなので、いっぱい仕事を受けちゃって、ほとんど休みがとれないみたいな。どうしたら仕事を軽減できるかっていうのが。

立岩:くれまつさんもぼくが最初にお会いした時はすごい若い、何歳だったのかは知りませんけど、若かったけど、それからだと20年くらい経ってるからね。

野口:そうですよね。

立岩:そろそろベテランじゃないですか。

野口:超ベテランになりますよね。

立岩:そうすると、したらやっぱり、いやあもうほんとそれも97年とか8年とか? 野口さんと高橋さんと話してる時に次の世代をどうやって引っ張ってくるか、みたいな話、そのころももうすでにあったじゃないですか、20年前のね。それは今もそうだと思うんですけど。その、たとえば、ほんとに二十歳とかさ、そういうほんとの若い人たちをどう、運動にってこともあるだろうし、組織にってことも両方あると思うんですけど、そのへんは何かお感じになってる、あるいはお考えになってることってのはありますか?

野口:あの、今ほら、昔は自立生活センターしか障害を持つ人たちは働けなかったけど、今は障害者雇用とか、いろいろ言われるのって、身体の障害の重い人たちなら企業も大歓迎してくれるみたいな。行政もね、そういう***(01:52:09)とか、なかなかそこに入ってこようっていう人たちよりは、なるたけ企業で働いて、それなりに生活を自立させていこうって人たちが今多いんだと思いますよね。

立岩:そうだよね。ある意味いいことですけどね。ある意味っていうか基本いいことですけどね。

野口:だからこういう自立生活センターの人たち、こてこての障害者と関わり合ってみようとか、ほんとあの、自分なりの支援っていうの、考えてみようというところまでなかなか行き着かないですよね、そういう経験がない。

立岩:そうですよね。

野口:だから自立生活プログラムとかね、そういうところで一緒にね、手伝ってくれるような人がいれば。
 あと、若い人たちを育てていくっていうと、待遇面を良くしないとできないっていう。私や高橋さんはほら生活保護やりながらCIL運営してたから。やっと給料がもらえるようになって、みたいな。

立岩:そうですね。それも立川だけに限らずね、全国の抱えてるっていうか考えてることなんでしょうけど。じゃあもう、ほぼ、細かいことでいうと聞きたいこといっぱいあるんですけど、それはきりがないのでおいてて。もう随分な時間もとっていただきましたが、立川の状況はなかなか苦い話も含めてお聞きしましたけど。一つは、JILに限んなくてもいいですけど、障害者の運動っていうか組織っていうか、DPIであったりJILであったり、野口さんに見えてるっていうか野口さんが関わってるところの現状? と、それから、これからどうしてくの? っていうのをどうお考えなのかっていうことと、それと別でもいいしつなげてもいいですけど、政策、広い意味での障害者の政策であるとか、の今後みたいなことをどうお考えになってるのかっていうの、いかがでしょう? [01:54:36]

野口:私と高橋さんは自力で切り込んでいって、なぎ倒して取ってくるみたいな、そういう時代だったけど、今ちばんどうすべきかっていうことで、いちばんやっぱり核になるのが、国連の障害者権利条約とか、ああいうの日本が批准してくれて、19条の自立生活とか、ああいうところをちゃんとこれから勝ち取っていくっていうことが一番大切かなと思ってて。アメリカのそういうとこの運動なんか見てても、アメリカでもそういう自立生活に向けた判決っていうのが出てて、オルムステッド判決でしたっけ? そういうとこちゃんと活用している自立生活センターは、障害者の人が***(01:55:32)でも自立してるみたいな。やっぱそういう制度的な堅実性みたいなところ、ちゃんと日本のなかで確立していかないと。やっぱりそういう人、やっぱり障害者が沢山いるわけだから、拾ってくってのはやっぱりそういうとこだと思うので、そこんとこやっていきたいなとは思ってますけどね。
 昔はエレベーター作るだったでもね、命がけで、体はって作んなきゃ、やんなきゃできなかったというような。でも今バリアフリー法とかできて、だんだんとね広がってきたし。ただ無人駅の問題とかいろいろね、出てくるけどね。そういうとこやっぱ佐藤聡さんとかいろいろ含めて、対応してこうっていうふうにやってるから。これからのほうが制度を変えてくとか、障害者の権利を勝ち取るっていうときには、一つのいい時代を迎えてるかなと思うんですけどね。そこにほかの自立生活センターはどう頑張って乗れるかとか、手伝えるかってことも。自分の問題としてやっていけるかっていうとこも、JIL★の課題かなとは思いますね。

立岩:なんか、JILも長いこと見てきたと思いますけど、なんか長老でもない、なんかよくわかんないですけど、言いたいことっていうか、なんか、

野口:私はあんまりJILには関わりあってないので。でもJILは大切な団体だから、ちゃんとJILとして育てていきたいと思ってるし、けっこうJILはちゃんと人のみんなの声を拾ってるなと思うんですけどね。でもお金がないっていう問題もね一部あるので。

立岩:さっきね、あったから。介護派遣を手広く、おっきくやってないとお金がないってのは、全国的にそうですよね。そこたぶんおっきな課題だと思うんですよね。

野口:DPIもね、ずっと数年前まで赤字が続いて、みたいな。

立岩:DPIはね、そんな事業をやるような組織ではもともとないから、財政的には厳しいっていうか、難しいですよね。

野口:やっぱりほかの自立生活センターが支援出さなければいけないと思うので、ちゃんと事業をやってる自立生活センターがお金を出そうよっていう。

立岩:そうですね。でその、ぼくたぶんここから10年ぐらいちょっと見通して、介護派遣の事業の収入の一部でなんとか回してくっていう仕組みから、本来CILの仕事であってきた相談とかプログラムとか、そこにちゃんとお金がつくような仕組みにだんだん、もう一回90年代の頭に立川で、このへんで会議して、どういう仕組みでお金もらってやってくかっていう話をもう一回ちゃんとして、それを厚労省も含めて伝えていくのが一つの課題かなってのはぼくもちょっと、ぼくは思ってるんです。

野口:そうですね。だからこのへんだと、日野の秋山さんとか、町田の堤さんとか、ああいう人たちがピアカウンセラーとか計画相談とか含めて、ああいうところでそういうものを大切に育てていきたいと思っているので、いい核になってもらってるとは思ってんですけどね。

立岩:うん。そこが一つかな。
 あの、今だいたい2時間ぐらいうかがったんですよ。ありがとうございます。でも、今日開口一番申し上げましたけど、なんか、ぼくでも最初っからそういう印象があって、いつ行っても野口さんは同じっていう。それちょっと安心な感じ? も含めて、なんかね、ちゃんとしてるしね。ときどきネクタイとかしてるじゃないですか。

野口:そうそう、中西さんの影響かなって(笑)。[02:00:02]

立岩:なんか、こうちゃんとした服着てるってのも変ですけど、ねえこうやって、姿勢がいいじゃないですか。まっすぐなってる、座ってるから。で、それってぼくも何十年間も変わんなくて、いつ行っても野口さんそんな感じっていうの、なんかちょっと安心ていうのかな、そういうのがあって、で基本、だいぶあきましたけど、ほんとにお久しぶりにお会いして、基本変わらなかったなって。

野口:そう言ってくれると嬉しいですね。

立岩:たぶんだんだんしんどいとこもあると思いますけど、でも少なくとも今はお元気そうで安心しました。安心しましたっていうか嬉しかったです。でも変わってなかった。けっこう変わってるとこもあるじゃない、事務所が転々と、

野口:だんだん大きくなったりとか。

立岩:こないだ、二日前大野さんの、

野口:ああ小平の。

立岩:うん、そう小平、花小金井の、初めて行きましたよ。

野口:大事務所ですよね。

立岩:4階建で、なんか。

野口:エレベーター2機が大型でって。

立岩:病院のなんか手術のね、ベッドも運べるぐらいのでっかいエレベーターで、4階ぜんぶあって。なんか「へえー」と思って帰ってきましたけど。あそこもあそこで…。でも、いやぼくね、やっぱ野口さんもぜんぜん知らなかったです、やっぱり。二十歳ぐらいまでの、20代、30代の野口さん、ぜんぜん今日お話しうかがうまで知らなかったし。でも大野くんって高知の人だって知ってたけど、なんで高知の人が東京に来たのかね、みたいな、そういうことも、

野口:私も知らないしさ。

立岩:不思議に思ってたんですけど、でもあとでわかりました。今度それを紙にしてホームページに載っけますから見てください。大野★の謎が解けると思います。そんな感じですね。
 何かあの、そういえばなんかちょっと話さなかったとか、なんかそういうおまけみたいなのがあればおうかがいしますし、今日また黛さんとかと会いますけど、なんかあれば。

野口:いや、2時間話しましたので、だいぶもう立岩さんもいろいろ知ってて聞いてくれるので楽でしたよね。

立岩:そうですね、立川いちばん付き合い長かったし。そうなんですよ。
 ぼくもあと何年か大学院やって、ですね。福島、それこそ白石さんとか橋本さんのことも含めてそれは2年前に本一冊作って、新潟のやつはべつに本作ろうとかいう野心、野望は何もないんですけど。でもそれなりにいろんなとこでいろんなことしてきた人の話を聞くっていうのは必要だと思っていて、最初お話しした話なんですけど。で、ただぼくは今研究所の所長みたいなこともやっているので、なかなか時間取れなくて。だけどけっこうちょっと今回野望がかなったっていうか。コロナもあってほんとに3年くらいかな、ぜんぜん東京来れなくて。でもなんとなく、ようやく来れるようになったなと思ってた時に、聞いときたいという二人に今回、野口さんと大野くんに話が聞けたので、ぼくはもうだいたいいいかなと。あとはもう、うち障害者運動オタクみたいな変な、っていうか、大学院生★が、ぽつぽつ入ってきたりしているので、そういう人にあとは聞き取り調査とか任せて、ってなことで思ってるんですけどね。

野口:そうだ一つ、あの障害学会、でやってるイベントに参加して、会費を払わなきゃいけないんだけど、なかなかうまく入れなくて、どうやったら、

立岩:そうですか。やり方あるんだけど、今、深田耕一郎さん★っていうのが事務局長やってくれてて。

野口:新田さんの話を書いた。

立岩:そうそう、新田さんの話で本書いた。今、そうです、女子栄養大学っていうとこに勤めてるのが事務局長になってる。
 そうですね、今日はこやまさんに新しい名刺をいただいて…。あとこの記録を、いったん文字にしてもらいます。さっきのちょっとお金に関わるやばい話はちょっと置いといて、そういう書き足しであったり削りだったりっていうのはいつでも、やってくださるならやってくださってもいいし、とりあえずまんまでいい、やばいところ以外はまんまでっていうならそれで。で、その文字化したものをお送りしますので、それを見てただいて、基本はホームページにアップさせてもらってっていうような段取りになります。[02:05:47]

(謝礼、新書について、名刺交換等)

[02:08:14]
野口:だんだんあの、ここの運営…理事も降りることになって。

立岩:そうですか。

野口:ええ、ただのボランティアだけになっちゃいますけど。

立岩:ボランティアとして協力というか、助言というか。

野口:そうですね。[02:08:30]

(以降、雑談等)

[02:11:52]音声終了


UP:20220821 REV:20220828
野口 俊彦  ◇自立生活センター・立川  ◇声の記録(インタビュー記録他)  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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