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野口俊彦氏インタビュー・1

20220521 聞き手:立岩真也 

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野口 俊彦  ◇自立生活センター・立川 
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築

◆野口 俊彦 i2022a インタビュー・1 2022/05/21 聞き手:立岩真也 於:自立生活センター・立川事務所(東京都・立川市)(本頁)
◇野口 俊彦 i2022b インタビュー・2 2022/05/21 聞き手:立岩真也 於:自立生活センター・立川事務所(東京都・立川市))


◇文字起こし:ココペリ121 20220521野口俊明
〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。


■始まる前に

立岩:〔黛正さん〕ちょっと謎の人じゃないですか。

奥山葉月:謎ですね。

野口:昔はすごいTシャツ着てた。

立岩:そう、「天皇制反対」とかいうTシャツ着ててさ、なんだこのおっさんは?、みたいな。だけどね、こないだたまたま、たとえばDPI〔日本会議〕の今事務局長やってる、佐藤さん?

奥山:佐藤さんがあれだよね、黛先生がいた病院にいたんだよね?

立岩:そうなんですよ、それは聞くまでぜんぜん知らなくて、はまぐみ学園っていう障害者の施設ですね。そこに、あの人なんか、黛さんって新潟大学の医学部だったみたいで、でそのころ、医学部生のころから通ってたんだって。で、へえーと思って。で、その施設の絡みでぼくは知ってる人が何人かクロスしてるっていうか、佐藤さんもそうだし黛さんもそうだし。あと本間康二さんっていうぼくの、ぼく佐渡なんですよ、佐渡島っていうところの出身なんですけど、そこの人で。昔『月刊障害者問題』っていうミニコミ紙をやって、今東京なんですけどね、ポリオの人で。

野口:お名前だけは聞いたことがありますね。

立岩:一人で雑誌っていうか新聞作ってて、で十何年作って、今やってないですけど。その人もそこにいたっていう。「へえー」とか思って。

奥山:そうなんですね。私佐渡まで行きましたよ、遊びに。

立岩:黛さんとこに?

奥山:黛先生に、「遊んでー」って言って。めっちゃ遠かったです。

立岩:そうでしょ?

奥山:新潟からが遠かった。船乗って、またそっから車で先生のとこまで行くのが遠かった。

立岩:そうなんですよ。だから、新潟港から両津っていう港に着くんです。私の実家はそのへんにあって。

奥山:そうなんですね。

立岩:小木っていうのは島のもう一方の端なの。で、直江津っていう新潟のむこっかわの港からは小木港っての、そっからだったら近いですけど。両津港ったら大変なんですよ。私、黛さんからいっぺん、小木のじいちゃんばあちゃんの前でしゃべってくれって言われて、それだけは勘弁つって、それちょっと私、そんな難しいことはできませんつって、それは私一生、今までもらった一大の難題でしたね。お断りしましたけど。
 というので明日、今日のもう夜に黛さんわざわざ佐渡から出てきてくれてて、で、夜酒飲んで、朝もう一回聞いて、というのを。

奥山:そうなんですね。それはそれは熱い夜になりそうで。

立岩:ぼく最初っからあの人と会った時、なんか飲まされたっつうか、飲んだんですよね。でもそれなんで飲んだのかってはっきりしてなくて、みたいな。

野口:黛さんあんまりお酒飲むイメージないんですけどね。

立岩:そうですか。

野口:飲みます?

立岩:いや、ぼくは飲んだ。それはでも嘘かもしれないですよね。

一同:(笑)

立岩:あの風体っていうか、それの何かが何かとくっついて、なんか飲んだっていう、それは嘘かもしれない。

野口:お茶がありますんで、どうぞ。

奥山:すいません、じゃあお邪魔しちゃって。よくメール等では拝見しておりますが、はい。よろしくお願いします。
 では私、1階でお仕事しておりますので。もし終わってまだカワサキくんいたら、カワサキくんも紹介してあげて。今ね利用者さん対応してるから。

野口:はい。

A:すいません。お邪魔しました。



立岩:これからはその、とくに何をっていうわけでもないんですよ。とにかく、人間ほっとくといろんなこと忘れちゃうから、なんか。

野口:私も昔のこと忘れてますよ。

立岩:ぼくにしてもその、やっぱり立川で、CIL立川、立ち上がってからじゃないですか。で、機関誌とか見ると、野口さんがその前から在障会のことで長いこと活動されて、それでっていうところあたりはわかるんだけど、その前とか、ぜんぜん存じあげてなくて。その幼少の話を聞いてどうすんの? っていう気もぼく自身しないでもないんですけど、でもやっぱり聞いとくとちがうもんだなっていうか、いや面白いもんだなと思っていて。

野口:あんまり昔の話はないんです。

立岩:いや、覚えてる限りで。ぼくも本当に覚え悪くて、自分のことなんにも覚えてないんですけど。覚えてる限りのことをと思っていて。
 もともと野口さん、東京は東京でいいんですか? [00:05:02]

野口:立川なんですね。

立岩:そうですよね。立川ローカルっていうか、地元立川っていう。

野口:地元から出たことがないんですね。

立岩:ずーっと立川ってこと?

野口:はい。

立岩:ああそうですか。駅からいったら南口っていうか北口っていうか。

野口:だいたい住んでたのは、駅でいうと北側なんですけど、国立の境のほう。

立岩:国立との境のほう。

野口:はいはい。

立岩:じゃあちょっと東寄り。

野口:いや南か、南で国立の境のほう。

立岩:南で国立の境。町名でいうと、

野口:羽衣町っていう。

立岩:羽衣町か。あれ立川、最初立ち上げた時、羽衣町とかに事務所なかったでしたっけ?

野口:そう、私の部屋で。

立岩:そうですよね。

野口:ええ、CIL立ち上げて、半年ぐらいやってましたかね。

立岩:それがいちばん最初の最初か。1991年の、

野口:91年の、ええ。

立岩:それが一番で、そのあと肉屋さんの奥のほうにある

野口:肉屋の裏ですよ。

立岩:肉屋の裏。

野口:ここですよね、場所は。ちょうど表通りに肉屋さんがあって。

立岩:そう、表通りに肉屋さんがあって、なんかコロッケのにおいがするみたいな、そういうところ。それが二番目か。

野口:それがこの場所で、その肉屋さんが建て替えて、肉屋さんがっていうか、そこの土地を持ってる人が…、土地を借りてる人か、が建ててくれて。その時には高橋さんとかが交渉して、おれもあそこに入れたらっていうので、もう30年くらい前になりますかね、このビルを建ててもらって、二階はだから車いす用で、今の大家さんのほうで作ってもらったっていう経過がありますね。

立岩:じゃあもう建てる時からもう「建てたら入るよ」っていうそういう話で、二階の仕様もそういうふうにしてもらってっていう。ああそういうことか。僕は野口さんところにおうかがいしたことはないはずなんですけど、肉屋の裏はなんか覚えてますね。

野口:そうですね(笑)。あそこで5年ぐらいやったかなあって。

立岩:そうか、そのいつかか。なんか肉の匂いっていうかコロッケの匂いっていうかね、それがしたっていうの、

野口:ねずみとかいろいろ、ゴキブリとかいて。

立岩:断片的に覚えてますね。

野口:ええ、ものすごいスロープを作って。

立岩:そうかそうか、一軒家、そうかそうか。同じ土地をね、地主さんというか土地を持ってるかたが、そんなことがあったってことか。

野口:正確にいうと土地を借りてる人ですね。

立岩:借りてる人か。借地ってことですかね。

野口:借地で、はい。

立岩:借地の上の権利を持ってる人がっていう。ああなるほど。そういう事情はちょっと知りませんでした。



立岩:で、野口さんそれで、立川でずっと立川だけど、51年◇の生まれですか?

野口:あそうですね。昭和26年。

立岩:51年、何月何日?

野口:7月10日◇。

立岩:10日。51年。このごろ、ここもうそういうインタビューとか5年ぐらい断続的にやってるんですけど、51、2、3っていうあたりの生まれの人けっこう多くて。

野口:そうなんですね、同じような年代の人がいるんですか。

立岩:そうです、ぼくより少し、ぼくは60年なんですけど、それより7、8ぐらい上の人で、やっぱり、その70年代のいちばん最初の障害者運動ではないけど、それに学生のころ関わったとか、何かそういうきっかけがあったとかっていうような人がだいたい50年代の前半ぐらいかな。
 で、ぼくは野口さん、筋ジストロフィーは、それは間違いなく、それはそうですよね?

野口:あの、診断名はそうですけど、お医者さんから「進行しないんだ、珍しいね」とか言われて。

立岩:いや、それはときどきほかの人とも話してて。進行しないっていうか、

野口:30代までは進行したんですけどね。

立岩:あそうなんですか。

野口:40代ごろからあんまり変わらなくなってしまった。

立岩:ぼくが知ってる野口さんってぜんぜん変わんないから、

野口:たぶんそうだと思いますね。

立岩:その変わらなさって、なんか尋常じゃない、

野口:(笑)

立岩:ずっとそれは思ってきて。デュシェンヌ型って言われたんですか?

野口:デュシェンヌではないですね。

立岩:ではなくて、

野口:あの二十歳ごろ発病したので。

立岩:じゃあけっこう遅い発病のタイプですね。

野口:遠位型って今言われてますけど。

立岩:「遠い」の「くらい」って書いて「遠位型」っていうやつですね。[00:10:02]

野口:そうですね。

立岩:誰かなんか、昨日がせをつかまされた。「それはないよ、ありえないよ」ってぼくは言ったんですけど。あそっか、じゃあ遠位型の、ミオパチーとかいうじゃないですか。

野口:いや、そうではない。

立岩:そうじゃなくて。

野口:だから、最初遠位型って言われて、で、最近は肢帯型って、つきへんの枝っていうか、と「おび」の、

立岩:そういうふうに言われ…、ああそうか。

野口:だから、そこはたぶんごちゃまぜな人が入ってくる型だと思うんですけどね。

立岩:ぼく、もしかするとお聞きおよびかもしれませんけど、この間(かん)、このもう3、4年、もっとかな、5年ぐらいかな、筋ジストロフィーの人で国立療養所にずっといて、その人たちが施設を出るとか、施設の暮らしをするっていうので、そういうことに関わっていて、けっこう筋ジスの人に話聞く機会、あとSMA(エスエムエー)ですね、多くて、面白いっつーか、だったんですけど、そういう人たちってだいたい、SMAだともう1歳、2歳とか、デュシェンヌ型の筋ジスの人だと五つとか、そんなんでっていう話を、

野口:診断されて。

立岩:診断されて、そのあとああなってこうなって国療と、それの付属の養護学校みたいな。
 そうか、じゃあ二十歳まではいうたらなんともなかった感じなんですか?

野口:なんともなかったと言われれば、ちょっと体が弱かったとか運動が苦手になってきたな、っていうのはありますけど。最初に病院に行って診断されたのが二十歳前後ですね。

立岩:じゃあそれまでは、普通のというか、地元の小・中・高みたいな感じだったんですか?

野口:地元の小・中を出て、高校はだから工業高校。もう親父が死んでたので、働こうと思ってそっち行って。だから18で就職してっていう。

立岩:じゃあもう二十歳の時は発症してたってことですか?

野口:そうですね。だから、仕事をして、

立岩:就職してたってことだ。工業高校って、東京にはいっぱいあると思いますけど、町的にはどこにあった高校だったんですか?

野口:小金井の小金井工業高等学校っていう。今は夜間部しか残ってないんですけどね。

立岩:そうですか。小金井か。電車で?

野口:武蔵小金井ですね。

立岩:武蔵小金井で降りて。

野口:ええ。

立岩:それで三年間電車通学して、

野口:も、したし。仕事始めた時はもう八重洲のそのタイプライターの会社に入ったので、東京まで通勤してたんですよね。

立岩:タイプライターは何、つくる会社ってこと?

野口:つくる会社。の、そのメンテナンスのほうをやってたんですね。

立岩:なるほど。今はタイプライターさすがに流行んないですけど。

野口:もうその会社潰れちゃったと。

立岩:タイプライターのメーカーって何社かあるじゃないですか。何だっけ、覚えてないけど。

野口:私が入ったのは日本タイプライターっていう。あとほかに東和タイプライターとか、いくつかあったと思う。

立岩:じゃ18で、お父さんいなくなられたってこともあって就職なさって、八重洲?

野口:そう、八重洲ですね、東京駅の。

立岩:じゃあ東京まで。

野口:昔の町名で言うと宝町っていうとこ。

立岩:そのことも、ぜんぜん実はまったく今日まで知らなくて、

野口:ええ、あんまり人にはしゃべってないですね。

立岩:普段しゃべってるぶんにはそういうね、そこまで昔の話なんかめったにしないですね。いや、でもするもんだなと思って。するもんっていうか聞くもんだなと思って。さっき話に出た本間〔康二〕さんっていう、はまぐみ学園っていう新潟の施設にしばらくいたっていう人は、なんと〔インタビューの〕当日にわかったんですけど、ぼくの小学校と同じ小学校に、ポリオの人なんですけどね、一年生の時だけいたっていうのを知って、「えー! そんな人初めてだ」と思って。だからっていうわけでもないですけど、でもなんか、一度は聞いておくもんだなと。そういうんでうかがったしだいなんですけど。
 じゃあそういうタイプライターの修理とかをする仕事をしてる間(かん)に、なんか体の調子がおかしいみたいな感じだったんですか?

野口:はい、やっぱみんなと同じで歩き方が変になってきたとか、手に力がなくなってきたりとかして、周りの人からも「ちょっと変だよ。病院行ったほうがいいよ」とか言われて行ってみたんですけどね。[00:15:09]

立岩:どこの病院、どこのっていうか、覚えてらっしゃいますか?

野口:最初行ったのは武蔵野日赤。それで、いくつか転々として、その武蔵野日赤ではちゃんと筋ジスっていう判断…、診断受けたんですけどね。で、ほかの人の紹介で、都立の神経病院のほうで最終的に診てもらって、ことは長く続きましたね。

立岩:じゃあ武蔵野日赤でも神経病院でも、くだった診断は筋ジスだっていう、それは言われた。

野口:そうですね。ええ。

立岩:そうだったのか、じゃあ二十歳まではそんな感じだったんですね。で、そのあとその仕事なりなんなりってのはどう変わってくわけですか?

野口:だから23ぐらい、22、3かな? で歩けなくなってきて。で、けっきょく仕事場行けなくなったので、で退職になって、そっから年金もらったりして家で生活か、引きこもってたみたいな感じで。

立岩:じゃあ70年代の前半なかばあたりが、会社辞めて自宅に。

野口:そうですね、半ばくらいですね。

立岩:お母さんはご存命?

野口:えっとね、もう5年ぐらい前に亡くなって。99で亡くなったかな。

立岩:長生きされたんですね。じゃあその立川のご実家でっていうのは、お母さんと一緒みたいな。

野口:ずっとそうですね。だからぜんぜん何もしてなかったんで、母親の介助を受けて。最後のほうは寝返りもできなくなって、24時間介助受けたっていう。

立岩:それは最初はっていうか、もう長くお母さんがっていう感じだったんですか?

野口:ああそうですね、23ぐらいで家に引きこもるようになって、25過ぎあたりから夜動けなくなって、寝返りがうてなくなって、夜はだから母親はとなりの部屋で寝てるみたいな。

立岩:それが76、5、6、7の時くる。でもそういう人生やってるぶんには、たとえばこの間(かん)聞いてきた、筋ジスで、もう小学校の時から養護学校で小・中・高ときてって、逆にその、逆にっていうか、そこの、たとえばぼくが聞いたのが兵庫のほうの国療にいたけど、そうすっと先輩とかがなんか地域で活動したり運動したりしてて、なるほどみたいな。それに引き込まれたりみたいな、そういう人もぽつぽついたりして、「ああそういうのってあんだな」と思ったんですけど。今おうかがいするかぎりでは、そのそういう障害者の地域活動とか障害者運動とかの接点てなさそうな感じがするんですけど。

野口:ぜんぜんなかったですよね。だから学校もそういう人いなかったし。

立岩:なさそうですよね。会社も関係ないっちゃ関係ないですもんね。じゃあ、そのお母さんと二人暮らしされてたころっていうのは、ほぼそういう知識もないし、接点も何もないって感じだったんですか?

野口:そうですね、7、8年ずっと家で。友だちがたまに遊びに来てたから、ドライブに連れてってくれるとか、そんな感じで。あんまり外に出る勇気もなかったので。

立岩:その友達ってのはたとえば高校時代の友だちとか?

野口:そう高校ですね。ずっと長く、うん、付き合ってくれて。うん。

立岩:そういう人がときどき訪ねてきて、そういうときにちょっと外出するみたいな。

野口:ま、そうですね。

立岩:それでそうすると、それで20代後半もそんな感じだと、なんか30とかになっちゃうじゃないですか。

野口:うんそう、なってたんですね。

立岩:ぼくがその、すでに立川で活動してる野口さんなんですよ。その20代ずっとそうやって過ごしてたっていう野口さんとはこう重ならないっていうか、その間に何があったのかなと思うんですけど。

野口:だんだんだから障害が重くなって、ヘルパーを入れるようになったんですね。もとをいうとですね、母親が自転車で転んで手を折っちゃって。[00:20:03]

立岩:自転車? で転んで、はいはい。

野口:買い物とかの帰りで。たぶんずっと私の介助やってて、けっこう疲れて朦朧としてた感じで。だからその時の母親も、車にぶつかったことは覚えてるけどそのあとは覚えてないんだ、みたいな。それで手折って帰ってきてみたいな。その状態を、都立の神経病院のケースワーカーか何かにいったんですね。その時神経病院から訪問医療を受けてたので。で、そっから、神経病院のケースワーカーから立川市のほうに話がいって、立川市のケースワーカーが来たりして、母親が大変なぶんをヘルパー派遣しましょうっていう話で来てもらうようになったんです。

立岩:それはいわゆる当時の家庭奉仕員とか、

野口:いや、あの、じゃなくって、当時立川市のヘルパーたちはしっかりしていて、やっぱあの市の職員として。

立岩:自治体のあれですね。職員がっていうそういう時代のやつですね。

野口:ええ、そういうのを守っていこうって、

立岩:公務員ヘルパーですね。

野口:だからその時ってのは、それで私の入浴とかいろいろやってくれるようになってて、ちょうどそのころにケースワーカーがだんだん訪問してきて、「そろそろ生活の限界だね」みたいなことを言って、「箱根療養所かなんか見学に行きませんか」ってのが言われたんですね。

立岩:ああ。じゃあ箱根療養所に入る可能性もあったってことですか。

野口:そうですね、どっかに入る可能性があった。そこで私が行くって言えば。ただその母親と二人暮らしだったのと、あんまりそっから離れたくないっていう、友だちの思いがあって。だからそれはけっきょく見学も行かなかったんですけどね。

立岩:箱根までは行かなかった。

野口:で、当時入ってたヘルパーが、ちょうど高橋修さんが立川で一人暮らしを始めてヘルパーさん使って、こういう人がいるよっていう話を教えてくれた。

立岩:へえー、そういうことか。その箱根療養所に行くとか行かないとかっていう話が…。でその立川市のヘルパーを使いだしたのが、何年だとか何歳だったとかってご記憶はございますか?

野口:記憶はちょっとない。

立岩:20代だったのかな? 30になってたのかね。いいんです、そんなに大したことではない。ちなみにどのぐらいの頻度というか、たとえば週に何回とか。

野口:最初は週一か、ぐらいでだったな。だんだん回数増やして、一日2時間を週3ぐらい。

立岩:一日2時間を週3。

野口:うん、来てくれた、うん。

立岩:じゃあ当時の相場としてはけっこう、

野口:手厚く対応してもらったっていう。

立岩:そうですね。神経病院は、訪問してきたっていうような感じだったんですか? その20代後半、神経病院との関係はずっと続いてたわけですね。

野口:続いていて、けっきょく自分で行けなくなっちゃってるから、神経病院のほうで訪問医療制度があって、それを受けてて、月1回ぐらい来てくれてたわけですね。

立岩:それは医師・看護師両方?

野口:そうですね。

立岩:なんかセットで来るみたいな感じだったんですか?

野口:そう、基本的にはお医者さんが来るっていうのに看護師さんがついてきた。

立岩:それでそんな話で、そのヘルパー使うっていうのもそっちの神経病院の知恵というか、提供した情報みたいな。

野口:だからけっきょく立川市のほうにSOS(エスオーエス)がいったんでしょうね。

立岩:で、使ってはいたけれどもでも、でもっていう、それでも厳しいよねっていう話のなかで、「箱根行く?」みたいな話になったのかな。

野口:いや、その…、

立岩:だいたいその「箱根もあるよ」というその情報というか、それは誰、どこから言われた、

野口:あの、市のケースワーカー。[00:25:01]

立岩:市? 立川市のね。

野口:ケースワーカーがたまに訪問にきていてっていう、様子を見ていて。あとヘルパーさんが入ってたので、ヘルパーさんのほうからいろいろ情報は入ったりして。やっぱりもうあの家はもう生活が限界だから、みたいな。そういう話で入っていったんだと思いますけどね。

立岩:でもそれは見学までいかなかったくらいの感じだった。ちょうどその、たとえばちょっとあとぐらいっていうか、その時期みたいなことですかね、その「高橋さんが」っていうのは。「高橋さんが立川でこうやって暮らしてるよ」っていう、

野口:そのちょっとあとぐらいですかね。だから、高橋さんと出会ったのは、何でしたっけ、日本福祉党でしたっけ? 八代英太さんの。

立岩:八代が自民党に入る前ってことですね。

野口:前の、党を立ち上げてっていう。あの八代さんと仲良くしてもらって。高橋さんが。立川のエレベーター設置運動の延長で「中央線大点検やろう」って言っていて。で、大点検の日にち準備してたら、突然八代英太さんが自民党に入っちゃって★、その話が流れちゃって。それでも、「立川のメンバーでやろうよ」っていうみたいなところで。その後はだから、一緒に活動した、始めたっていうころですね。

★八代が自民党に移ったのは1984年。https://ja.wikipedia.org/wiki/八代英太

立岩:ぼく今、高橋さんの年表っていうのを、ぼくが作った年表を見たけど、それだと、あかつきコロニーで仕事して。で、武蔵村山でそのアパート借りたのは81年なんだって。で、立川市のアパートに転居したのが83年なんで、らしいんですよ。その立川の人から聞いた話っていうのは、「高橋さんという人が立川でなんかヘルパーっていうか、他人介護入れて暮らしてるって人がいるよ」って、「立川でそういう人いるよ」って聞いたんですか? 野口さんが聞いた時。

野口:そうですね。立川でいるって。

立岩:じゃあもうすでに立川に、

野口:暮らして、そのヘルパーさんもそこに入ってたりしたので。高橋さんとこへ。

立岩:あそうか。じゃあ83年にはなってたってことですね。ということは、野口さんだいたい32とか、そのぐらいかな。

野口:そのぐらい。

立岩:エレベーターの話っつうのは、そうか81年なんだって。立川市にエレベーターの設置を要求する、ってのは81年なんだそうです。でそれ今、そのぼく八代が関わって抜けたって話自体さっきはじめて、今初めて聞いたんですけど、それは立川市にその会ができた時は福祉党も一緒にやってたっていう、そういう感じなんですかね?

野口:そこらへんちょっとあの、最初のころはわかってないですけど。だんだん仲良くなったんですよね。

立岩:八代さんと高橋さんが。

野口:うん。

立岩:それちょっとこっちで調べてみますわ。その、八代さんが自民党にかわったっていう、そっちに行った。で、「じゃあ立川は立川だけでやるしかないよね」っていう、そういう話か。

野口:そうですね。ちょうどその日に初めていろいろ運動に参加したっていう記憶がありますね。

立岩:野口さんが。それは高橋さんに会った最初でもあったの?

野口:そう最初ですね。

立岩:高橋修に会った最初の時でもあり、エレベーターの運動に関わった最初でもある。

野口:ええ。

立岩:それはどういうこう、ビラまきだったり集会だったりいろいろあるじゃないですか。どういう機会だったかっていうの、覚えてらっしゃいますか?

野口:だからあの、ヘルパーさんからこういう高橋さんがいるよ、っていう話を聞いていて、高橋さんつてで、連絡とって高橋さんと会おうと思ってたんですけど、なかなかタイミング合わず会えなくて、けっきょく当時高橋さんのボランティアやってた人が、国立の三井〔絹子〕さんのグループで、なんかイベントあるから行かないかって言われて、たしか絹子さんのお話を聞くようなイベントに行ったのが、その高橋さんとは会ってないけどそういうきっかけで。[00:30:12]

立岩:それがまずあったと。三井絹子さんがなんかがしゃべるのでから行ったのが一回あって。で、高橋さんに会ったのはそのあとってことですか?

野口:本人にあったのはそのあとですね。その、だから中央線点検の時が初めてぐらいの、ぐらいだったかな。で、その八代さんとの、いろいろとうまくいかないっていうことで、何度目かの胃潰瘍になってまた入院しちゃって、みたいな。

立岩:高橋さんが?

野口:さんが、うん。

立岩:そうか、じゃあ消化器系のことは、もうすでにそういう時も、

野口:そうですね、2回目ぐらいの胃潰瘍だったのかな、なんか…。

立岩:それで、実際にその点検する行動みたいな、いろんな場所行ってこう段差を見るとか、そういうような活動に行ったら高橋さんがいたみたいな感じだったんですか?

野口:いたっていうか高橋さんが呼びかけて、それでやってるっていうのは知ってたので。

立岩:知ってて、そこに自分も行ってみた。

野口:行って、最初ビラまきから参加したのかなあ。でみんな乗り込み行動しようって話になって、で中央線で担がれて、ええ。

立岩:中央線の電車に、

野口:担がれて乗っかって、

立岩:実際に乗るぞっていう、そういうことなのね。

野口:ええ。あれは電車、十何年ぶりに乗ったかって、そんな感じでしたね。

立岩:そっか。もう高校生の時と、しばらく東京の会社勤めてた時からそんな、そうですよね、乗れなくなってたっていうか、乗らなくなってたってことでしょ。

野口:うん、友だちがね車で迎えに来てくれたりとか、だからいろいろ遊びに行ったのは車が多いので。

立岩:外出したりするときは車でだった。

野口:うんうん。

立岩:それが、そっか、中央線みんなでっていうか、何人かで乗るぞっていうので。
 もうなんでもいいですけどその当時のことで、その高橋さんのことであったり、その他関係者というか、その場の感じであったり、何かこう記憶に残ってることっていうか、何かありますか?

野口:記憶に残ってるのはやっぱりいちばん、高橋さんの、JRと、当時国鉄との東京駅の交渉ですよね。東京駅まで行って、ちょうど新幹線の切符売り場の前で段差があって、「入れねえじゃねえかよ!」みたいなね。それでそこで座り込み始めて、みたいな。

立岩:それは何、当時の野口さんからするとちょっとびっくり感というか、はあった?

野口:びっくりでもなかったですけどね、すごいなっていう、気持ちがあって。私も座り込もうかどうかって悩んでたのを覚えてます。

立岩:で、けっきょくどうしたんですか?

野口:けっきょく、周りでほかの人と同じように見てた。

立岩:座り込んだのは何人かいたっていう記憶?

野口:いや、一人だけです。高橋さんだけだよね。

立岩:高橋さんだけ座り込んで。そっかそのスタイルはもうそのころから変わんなかった、終生そうだったって感じなんですかね。

野口:高橋さんに教えてもらったのは、「交渉は人数じゃないよ」って。うん。あの人は一人で切り拓いていく人なので。人が多くいると、逆に交渉ってのはテーマが曖昧になったりとか、話がまとまらない、散漫になったりしてくるので。

立岩:うんうん、そうかもしれないですね。いや、ぼく高橋さんに生前5回ぐらいインタビューさせてもらったんですけど、ぼく自身が5回じゃなくて、ぼく自身がやったのは3回ですけど。その、交渉する、闘争するって時に、やっぱ、「今日は何とってくるんだ」ちゅうのをはっきりさせなきゃいけないんだと、漫然とやったってだめなんだぜ、ってことはけっこうおっしゃってましたね。

野口:そうですね、目標を設定して。あと、けっこうお金の話が多かったんで計算機持って。それで相手のね、行政担当者の机でね、計算機見せながら「このぐらいの金なら出せるだろ」みたいな。

立岩:ぼくも最初のころというか一貫した印象そういうとこあって、何かこう町工場の社長さんみたいなね。[00:35:06]

野口:(笑)

立岩:ずうたいもちょっとこうでっぷりしてるじゃないですか。で貫禄があるし、声でかいし、計算機持ってるし。だからなんか、そういう意味での親しみもあるし、迫力っていうかね、貫禄っていうか。

野口:そうですね、迫力はすごかったですよね。

立岩:じゃあわりと高橋さん来てからこう入ってくみたいな、

野口:そう、だからずっと、そのあとはほとんど高橋さんと一緒で行動しててみたいな。



立岩:で、交通のことはそれからもずーっと続くわけでしょうけども、それプラスということで言うと、その80年代から91年のCIL立川の設立までというか、その期間っていうのはどんな、自分自身の、野口さんご自身の生活も含めてどんなふうにして過ぎていったんですかね。

野口:だからちょうどそのころ、高橋さんとか、かたつむりの会のみんながやってるようなのを見て、けっきょく人手が必要だから、だからボランティア探さなきゃいけない、っていうので自分で駅前でチラシ配ったりとか、大学行ったりとか、ずっとそういうチラシ配りとかやっていたのと、やっぱり高橋…、まちづくり、エレベーター、交通問題のほかに、やっぱりそのあと高橋さんのテーマっていうのは介護保障をテーマにしてたので、介護保障で新田さんとか、荒木さんとか、在障会、【ぜっとう】(00:36:55)在障会でした、に参加していて、そのイベントのなかでいろいろ、荒木さんとか新田さんが話し合うのをなんか聞いてた。

立岩:野口さん自身の介護・介助の体制っていうのは、最初お母さんだけで、お母さんけがされたこともあって立川市のヘルパー入ってっていうことで、そこまで聞いたんですけど、そのあと80年代から、80年代移ってくなかでどんな具合になっていくんですか?

野口:ちょうどそのころ、高橋さんの友だちがけっこう気にして、「おい何してる?」とかって「飲みに行こうよ」みたいな、そういうの来てくれたりして、けっこうその人とは仲良くしてもらった記憶があって、でそのみんなから「野口くんも自分で探さないとだめだよ」って言われて、でチラシ作りとかビラまきとか一緒にやってもらったりとかして探し始めたっていうのが。それでだんだん人が来るようになって、ええ、介助やってもらえるようになったので。
 でも家が小さかったんですね。ふた部屋ぐらいの、居間と寝室っていうか、木造の小さな家だったので、これじゃあヘルパーさんいつも、親が気ばっかつかってお茶出しにきたりとか。だから一つ別に生活できるように、庭があったんで庭に小さい一間(ひとま)の部屋を、プレハブみたいなの作ってもらって、そこで生活を始めようっていうので。でそこに作ったあとに友だちとかそういう介助を入れるようになったのと、で高橋さんのグループで当時「障害を考える会」っていう、石川治江★さんとか、あとそこでいうと、あいださんっていう人が東京都の職員でいたかな? うん。あと大沢豊★さん? たちが「みんなの居場所を作ろうよ」っていうので古い家を一軒借りて、そこで「いろりん」★っていう名前をつけて。

立岩:そこが「いろりん」っていうのになったってこと?

野口:ええ、みんながお金出しあって、その家を維持していったと。ちょうどそのころに、プレハブの家が建つ前ぐらいまでは、そこに夜行って泊まってたりとか。

立岩:それは野口さんがいろりん行って、っていうことね。

野口:うん。

立岩:大沢さんってそこの職員っていうか、ぼくなんか「大沢さん、いろりん」っていうなんか、つながってるんですけど。[00:40:08]

野口:そうなんですね。考える会、障害を考える会の仲間たちのなかで、一人重度の自閉の知的のかたがいて、で二十歳ごろ、18だったかな、になって、けっきょく当時の通所系は受け入れてくんなかったので、で在宅に引きこもっちゃって親が大変になってって話で。じゃあみんなでいろりんがあいてるからいろりんで支えましょう、みたいなことでお金出し合ってその場所を来てもらうっていうふうになった時に、たしかその時にちょうど大沢さんが決意して仕事を辞めて、いろりんの専従で、それをみんなでお金出し合って、うん、始めたってのがきっかけですね。

立岩:はあ、そっか。もしかしてもしかすると、ちょっとおうかがいしたことあったような気が今ちょっとだけしてきた。嘘かな。そっか、そんなふう…。
 ぼく、二日前に益留さんに話聞いた時に、大沢さん、宇都宮さんって、

野口:うっくんですね。

立岩:骨形成不全の人の話になってね、話聞いてたら、ぼくはてっきりその宇都宮さんが東京にやって来て、で立川に大沢さんがいて、で知り合ったのかと思ったらそうじゃなくて、なんか宇都宮さんが四国から東京に出てくる過程でどっかの海の船の上かなんかで出会って、それがきっかけだったって聞いて、「へえー、そんなことあんだなあ」と思ってちょっと。

野口:益留さんが。

立岩:が、その大沢さんのそのエピソード、大沢さんと宇都宮さんが出会った時のエピソードをそうしゃべってて、「へえー」って。

野口:そう。そこまで聞いたことないんですけど。

立岩:それはただびっくりしたって、それ以上でも以下でもないんですけど。ちなみについでだから…、ついでだからって何かな、野口さんは宇都宮さんにじかにお会いしたことはあるんですか?

野口:一回くらいあるかな。ストレッチャー乗っててこっちに来た時ぐらいに。大沢さんなんか介助よくやってましたよね。

立岩:うん、そういうんで、「東京に来たら連絡しろ」って大沢さん言ったらしいんですけど、そしたらほんとに連絡があったと。

野口:(笑)

立岩:それで大沢さんも、大沢さんもずっと立川の人なんですかね?

野口:よくわかんない。あの、知り合ったころはこっちのアパートに住んでました。そっか、結婚してたか住んでたか、うん。

立岩:で、大沢さんが…、宇都宮さんが中野のほうにお住まいだったということで。で大沢さんは、その中野のほうにも出入りしてたっていう話を聞いて、「へえー」って思って、それも「へえー」だったんですけどね。
 あそっか、じゃあけっこう80年代はボランティアを、その介護保障の運動のことも勉強というか話聞いたりしながらも、そういう人を集めるみたいな。ビラを。ビラ、たとえばここ立川じゃないですか、国立だとやっぱ一橋に行って、みたいな話はぼくも何度か聞きましたけど、野口さんなんかだとビラってどこでまくの?

野口:公民館でチラシ貼ったりとか、あと駅前で配るのと、やっぱりその、かたつむり系が配ってたのがだいたい大学、一橋とか、あと小金井の学芸大ですか。ああいうとこに配りにいって。高橋さんなんかも、「入学式のとき朝一番で行こうぜ」みたいな、いって行ったことありますよね。

立岩:学芸か、そうかそうか。うちの大学院を修了した天畠とぼくと、荒井裕樹さんって、今二松学舎で教員やってるのと三人でしゃべったんですけど★、荒井さんも学芸の出身ではあるな。だからと言ってぜんぜん関係ないですけどね。
 学芸大ね、そうでしょうね、ありうるでしょうね。それでけっこうその人は集まったっていうかゲットできたんですか?

野口:当時はだから少ないけど来てくれたので。最大いた時は周りに50人ぐらい。で、ローテーション組んで、やってましたね。[00:45:07]

立岩:それは、その時期によってだいぶ違うでしょうけど、少なくとも当初はボランティアベースだったんですか?

野口:ほとんどボランティアベースで、で当時は新田さん★とかのとこの関係で、あと村田さん★か、東久留米の、あのへんの関係で介護保障をようするにやっているセクトのほうで、解放…、解放じゃないや、何だっけ、あれは、

立岩:どこだろう? 解放派、

野口:ではなくて、雄辿寮? 大学、学芸の雄辿寮の…、ど忘れしちゃったな。あの、

立岩:第四インターとか?

野口:第四インターですね。うん、あの、うん。

立岩:学芸の寮にその連中がいたってこと?

野口:そうですね。だから、カベさんとか。

立岩:おれカベさん会ったことあるなあ。カベさん、4トロなんですか?

野口:そうですね、あれの中心でしたね。あと荒木さんと一緒に練馬の介護人派遣センター立ち上げた、誰だっけ、彼は、ウスバくんか。

立岩:はいはい、ウスバさんね。ああいらっしゃいましたね。

野口:まだやってると思うんですけどね。あとは、だから村田さんとこに入ったササキくんとか、あとキタザワくん。

立岩:キタザワさんっていうかたもいらっしゃいましたね。

野口:今も、うん。

立岩:長いですよ、あの人たちね。

野口:そうですよね、もう。

立岩:あの人たちはむしろ野口さんなんかよりちょっと上…、同じような年代かな? 学生運動やってきて、卒業しても、党派に関係した人もしない人もいたんでしょうけど、そういう言うたら学生運動流れっていうか。

野口:そうですよね。そこで、

立岩:セクトの運動にも関わった人もいるっていう。

野口:うんうん。介助やりながら、そこに来たボランティアたちに広げていこうみたいな。だからほとんど、あそこの人たちが考えたのは、専従体制みたいな。日中ぼくたちが専従でやるから、夜間とか学生に対してはボランティアで支援者っていうかたちで、ぼくたちに、あの、もらうお金をカンパしてくれ、みたいな考え方でそんなことをやってましたね。

立岩:そうですね。専従の人が二人とか、一人にそのぐらいいて、でその人は他人介護料なりなんなり、それで、

野口:それこそ全身性…、脳性麻痺者介護人派遣事業ですね。

立岩:で、プラスそれ以外の部分はボランティアでっていう、そういう体制を、

野口:でやってたんですね。

立岩:そうですよね。でぼくはたとえば高橋さんから聞いたのは、もうそれでっきゃないかなとは思ったが、うーん、けっきょくその専従の人との関係っていうかが難しくってさ、みたいな。

野口:そうですね、ずっと悩んでましたね、介助者、うん、専従の人と。けっきょくそういう人たちは、自分たちの考えてる運動を広げてほしいと思うから、高橋さんもこういうふうに動いてほしいとか、こうやってほしいみたいな、そういう意味合いの期待が大きかったんでしょうね。

立岩:それは専従の人からの期待と、高橋さん自身が思ってることがずれるみたいなことですね。

野口:そうね。だから、けっきょくほら、あの当時は介護者会議とかなんかやっていて、月一回集まりましょうみたいな。するとその専従の人たちが集まってきて、「こうするべきだ、こうあるべき」みたいな、そんな話を言われたから。

立岩:それでなんかもう体が悪くなるくらい消耗した、みたいな話は聞いたことあるんですけど。

野口:ありますよね。

立岩:何…、具体的にはどういう論点というか、ところでこう意見というか話が分かれいったんでしょうかねえ。専従の人たちはこっち、右行こうと思った、でもたとえば高橋さんはっていう、どこに具体的な争点っていうか、ずれがあったのかなっていうのはわかんないとこあるんですけど、何か覚えてらっしゃることって、[00:50:04]

野口:そこがあんまりちょっと覚えて…。ただ当時の、うん、基本的には介護料運動? 全身性介護人派遣事業とか脳性麻痺介護人派遣事業のほかに他人介護加算とか、うん。で、あの、【区・市で埋め合わせをもらって】(00:50:23)みたいな、うん。でも基本的に高橋さんが思ったのは、やっぱり人の保障が大切だね、っていうことをけっこう言っていて。立川市との交渉でも、お金よりはちゃんとヘルパーを、男性ヘルパーを雇ってちゃんとおれのとこを保障しろみたいな、そういう言い方をして、けっきょく行政はそれで対応できないから「すいません、このお金で我慢してください」みたいな、そういうやりとりを続けてきましたよね。

立岩:そっか、そっか。それは、ある意味そうですよね、利用者にとってみればお金が最終的な目標でもなんでもなくて、実際に人がくれなきゃどうしようもないわけだっていう。だから専従介護の人にとってみればそのお金を自分がもらってっていうか、で生活するわけだから、そこはちょっと確かに利用者っていうか、の人の思いと専従の人の思いずれるときありますよね。

野口:はい。その、あとは介護費用のお金の使い方とか、みたいなとこを少し曖昧にしていたい部分があって。

立岩:それは専従の人たちがってこと?

野口:いや、高橋さんが。

立岩:それは何、たとえば専従の人に全部渡すとかじゃなくてっていう。

野口:そう、エレベーター運動始めたころも、脳性麻痺者介護人派遣事業とか、少ないですけどもらっていて、それをもらって、介護費用ではなくて、みんなと一緒に飲みに行こうぜ、みたいな、そういうお金に使ってたりとかなんかして。

立岩:ああ。そうか、そういう高橋さんなりと、その専従で、そのお金で暮らしながら社会運動みたいなことを思ってる人たちと、やっぱちょっと方向が違う。

野口:ずれがちょっとあったんでしょうね。

立岩:うん、それはありそうだな。なるほど。
 で、野口さん自身は、そのいろりんに行ったり、学生のボランティア50人集めたり、おおむね、その自分の生活自体はどんなふうに、だんだん回すようになってくるんですか?

野口:だから、そういう学生運動の専従はけっきょく来なかったですけど、介護やってくれるなかで何人か「おれが専従やるよ」って言ってくれる人がいて。昼間の部分やってもらったりして、なんとか介助をつけながらやってきたっていう感じで。で、やっぱ介護っていうのは一人で集めても、けっきょく24時間なら24時間埋まればそれ以上もらっても、来てもらってもね、やってもらうわけいかないし。ほかにもけっきょく当時ほとんど学生だから、みんなすぐ辞めてったりとか、夏休みにお休みになったりとか、そういうのずっと経験していて、当時介助を共有化しようよっていう話を高橋さんとか含めていろんな、当時三多摩自立生活センターだっけ、がそういうことをやり始めていて、それでかたつむりと考え方が分かれて、三多摩自立生活センターでやっていきましょう、というところで何回か話し合いをやったりとかしてたんですけど。

立岩:ぼくさ、『CIL.Sニュース』っていうのかな、あるんですよ、全部持ってて、だからどうってことないんですけど。かたつむり、なんとなくわかるんです、その三多摩というか高橋さん、野口さんたちと、かたつむりのノリっていうかがずれるっていうか、ちがうっていうのは、なんとなくはわかるんですけど、野口さん的にはどういうまとめというか、どういうことだったのかな、ていうのはあるんですか? [00:54:42]

野口:高橋さんなりはそういうボランティアとの生活っていうのは賛成だったんだけど、三多摩自立生活センターのほうはやっぱ重度の人たちがいっぱいいて、あんまりあの、介助者が全部はまかないきれなくて、集めるのを少し手抜くと人がいなくなったりとかして。けっきょくほら、そうするとほかの連れてくるヘルパーさん、介助者にね声かけたりして、けっきょくいい人の取り合いみたいな、障害者仲間同士でやり始めていて、その時あの、かたつむりの家とかはやっぱりその自分たちでちゃんと部屋を持って、自立した人来いよっていう感じで、で自分たちの責任で集めて生活するんだよ、って言ってたんだけど、最終的に障害の重い人がきた時に、もうあの高橋さんのほうはこれ以上、今のメンバーに介助の数じゃ受け入れられないんじゃないか、みたいなことを言っていて、そのへんでかたつむりと意見が分かれた、って感じの話は聞いたことありますけどね。ちょうど誰だったかな、太田武二さんがこっち来た時の話だと思うんですけどね。

立岩:確かに太田さん、ぼくも長く、思い出深い人ですけど。

野口:あそうですね、『生の技法』のかた。

立岩:そう、写真載ってるんですよ。そうなんですよ、思い出深いおじさんでしたけど。
 確かにそれ重いですよね、時間が必要ですよね。で、その時に、その三井さんたち、その事情はわかるんです、三多摩のほうのねあれも、重い人いっぱいいて、けどヘルパーが限られてるから、じゃあ実際回んないよねっていうのは、それはその通りだと思うんですけど、そういう状況に対して何? かたつむりはどういう態度というか、だったってことですかね?

野口:そこはちょっとあんまりあの当時の付き合いがないのでよくわからないんですけどね。基本的には自分たちで探せっていうところですよね。

立岩:一人ひとりが苦労して努力して、自分で探してこいと。

野口:だからかたつむりの家を経験して、そこで自分で生活しながら、あとはかたつむりを追い出されて、どっかでアパート借りて、それでもう自分で探しながらやるっていう。

立岩:そうだね。それってけっこうのちのちまで、そういう違いって、やっぱり介護保障協議会とかにずっと介護組合から分かれるとなっていくときも持ち越されてきたのかなって、とちょっとそういう思いがあって。つまり、やっぱりそんなに人ひと、自分でビラまいて集めてきて、そこまでできる障害者ばかりじゃないから、やっぱりその、組織を作って、仕組みを作って暮らせる人を多くしようっていう、そういう流れが一方にあって。で、おとついはぼく大野さんにもインタビューしてきたんですけど、大野さん、いちばんそういうところの合理主義っていうか、「もうそれでいくしかない!」って割り切ったらもうどこまでもやるぞっていう感じと、いや、そういうシステムだ組織だ何だかんだで、そういう生活したら生活のための資源を用意してあげるよ、っていうノリじゃなくて、自分で頑張って作っていくという。でそれを家庭的にというか、三井一家みたいな感じで、手伝うけどさ、っていうノリっていうのと、それがずーっとなんか尾をひくのかなというところはぼくはちょっと思ってますね。
 そうなんですよ、昨日実はその天畠の本の出版記念のイベントがあった時に、木村英子さんも、

野口:絹子さんの子分みたいな。

立岩:そう。ぼく二十歳ぐらいに会ってるんだ、あの人に。家から出たてのちゃきちゃきの、でもなんか何もまだわかんないけどつっぱってるみたいな。そのころにインタビューしてて。それから30年経ったら国会議員になっててびっくりしました(笑)。

野口:ああ(笑)、ずっと絹子さんの後ろついて歩いてました。

立岩:そうそう、絹子さんは神様みたいな感じでね。でも確かに赤窄さん、今の木村さんとか三井さんとかに、今ぼくはこの何年間かでインタビューしてだと、山之内さんって宮崎のYAH!DO(ヤッド)か、自立生活センターやってる人がやっぱり、今は宮崎でやってるんだけど、しばらくかたつむりで三井一家のお世話になって、やっぱりそういう…何て言うの、しごかれたっていう話をしてて、「ああ、そうか」って。それもそれでわかるよなと思いました。
 じゃあ野口さん自身もそんなにそのかたつむりの人たちと付き合いが深くあった、で喧嘩もせざるをえなくてってことでも、そんな近い距離ではなかったみたいな感じですか? [01:00:31]

野口:そうそう、だからもう高橋さんが距離をとりはじめて、で考え方が変わって、三多摩自立生活センターで別路線行こうよ、って言ったころからようするに私が参加したんで。かたつむりとは直接のやり取りってのはなかったんですね。

立岩:なるほど。で、その三多摩で一人一人がやったってそんなにうまくいかないから寄りあってっていうか、その上で、もっともだと思うわけですよね。だけど実際にはなかなか、介助者の人が沢山いるわけでもないなかで新たに入ってくるともっと大変になるよ、っていうのもその通りじゃないですか。

野口:そうですよね。

立岩:それが、どういうふうに自立生活センター・立川まで流れていくんですかね? いったんその三多摩自立生活センターは、ちょっと始めたけど無理っていうんでいったんこうおしまいになって、っていうそういう流れだったんですかね?


UP:20220821 REV:20220823
野口 俊彦  ◇自立生活センター・立川  ◇声の記録(インタビュー記録他)  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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