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長沖 暁子氏インタビュー

20220301 聞き手:田中 恵美子

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◆長沖 暁子 i2022 インタビュー 2022/03/01 聞き手:田中 恵美子 於:オンライン(Webex)
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築

◇文字起こし:ココペリ121 20220301長沖氏_130分 https://www.kokopelli121.com/
※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
 聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)としています。


■コロナの時

田中:今日まずね、コロナのことを聞くっていうのがちょっと最初のお題になってまして。どうですか? コロナになってからの生活って。長沖さん今はもう

長沖:定年退職してもうすぐ3年になるところなんです。で、非常勤の授業もリモートになって、ほとんど家に閉じこもってます。

田中:じゃあちょうどっていうのはあれだけど、コロナの前にご退職されてるから、

長沖:そうなんです。

田中:大学のごたごたに巻き込まれず?

長沖:そうそう(笑)。

田中:ちょうど良かった。

長沖:あの、非常勤講師1年目は学校に通ってたんだけど、2年目・3年目はリモートになって。コロナが少し落ち着いてからは、教室定員の半分の人数だったら、教室でやってもいいってことになったんですが、ジェンダー論の授業は履修者数が多いので、300人とかとってたりするので、600人教室ないから、もうずっとリモートのままです(笑)。

田中:え、じゃあもう、変な話、リモートで、突然Zoom(ズーム)とかね出てきて、Webex(ウェブエックス)…、

長沖:そうそうそう、最初はもうほんとに、どうすればいいんでしょうみたいな。

田中:ねえ、そっかそっか。じゃあやっぱり大変な時期は経験されてるんですね?

長沖:まあでもね、一コマだったから。現職の頃は7コマぐらい持ってたので、7コマあったらやれないって思いましたね。

田中:いや、一コマも十分大変ですよ。その人数で。

長沖:もうだから、録画したものを流すっていうタイプにしてしまったので。

田中:オンデマンドってやつですね。

長沖:まあでもその授業を作るまでがけっこう大変でね。慣れないので。

田中:そうですよ、録画って意外と。なんか、撮り直さなきゃみたいなのもあったりしません?

長沖:します。それからもう一つは、1年目はとくに学生の質問がいっぱい来て。

田中:えー。

長沖:2年目になって、学生も落ち着いて、普通の授業と変わんなくなったけど、1年目はなんか細かいことまでみんな質問してきて。そうすると質問に文章で返すじゃないですか? 言葉だったらちょっといいかげんでも…(笑)、文章で返すとなるときちっとしてなきゃいけないので。嘘ついちゃいけないなみたいな感じで、その答えを書くために調べたりして。というので、1年目はほんとに、大変でしたね。



田中:非常勤は何年まで、いつまでできるんですか?

長沖:今年の春までなんです。慶応は定年退職から3年間は非常勤やってオーケーってなってるんですけども。

田中:じゃあこの3月でおしまいですか?

長沖:もう、もうないです。だから完全に無職になります。

田中:あ、そうなんですね。むしろでもゆっくりできて、なんて(笑)。[00:04:34]

長沖:でも、えっと…私にとって…基本的に外に出て動くのが好き、好きっていうかそういうふうに生きてきたのが、突然家の中に閉じこもるようなことになって。用事があればもちろん出いくんですけども、用事そのものがどんどん減ってきて。たとえば仕事以外の会議も、今までだったら会ってやってたのがZoomでの会議になっちゃうとか、それから「柿のたね」という目黒でやってる活動でバザーみたいなのを今までずっとやってたのが、それもいっさい中止になるとか。で、何もやることなくなったら時間があって何かやるかっていうと、かえってやらないということがわかり(笑)。忙しいほうが、「忙しい合間にいろんなことをやる」っていう意欲があったんだけど、全部のこう…何ていうかな、活動量が全部落ちた、みたいな感じはあるので。
 私はワクチンを受けないと思っているので、そのぶんの私の、何ていうの? 私自身の注意もあるし、母が90代なんですけど、一人暮らしの母のところに毎週通っているので、母に感染させちゃいけないというのもあり、「自分で自分を抑制する」みたいなことが、私にとってはとても…。自分を解放するためにずっとこう、いろんなことをやってきみたいなことがあるにもかかわらず、自分を自分が抑制するっていう時代に生きるってどういうことなんだろう、っていうのが、もうちょっと落ち着いたら、まとめられるといいなと思っているんですが。

田中:なるほど。またべつのベクトルで生きるっていうことを考えなきゃいけなくなったってことですもんね。

長沖:でね、戦争も起きちゃうし。ほんとに。なんか、「今までつくってきたものは何だったんだろうか」っていうのと、私ミニコミに書いたりもしたんだけど、医学史の授業で「感染病は克服した」って習ったんですよ(笑)。

田中:あれ? (笑)

長沖:医学史の世界では「もう感染病っていうのは克服した病であって、たとえば、がんだとか、それから慢性病みたいなのと精神病、それが今の課題だ」みたいな感じで、科学史の中で「この時期は感染症の時代」「この時期は何の時代」っていうのでいえば「感染症の時代は終わった」って習ったはずだな? と思いながら(笑)。

田中:おかしい。終わってなーい。

長沖:だからそういう意味では、科学史も書き換えられていくんだろうなあという気がしていますね。はい、そんな感じです。

田中:そうか。じゃあ…。まあでもほんと、うん。まあこれ、長沖さんだけじゃなく、すべての人にとっての価値観の転換でしたからね、大きく。ほんと、そして戦争。今のなんか国連の様子とか、安保理の、安保理事会の様子とか見てても、なんか歴史の、

長沖:そうなんですよね。

田中:なんか日本がこう椅子たたいて出てくみたいなところがロシアに変わってるだけ、みたいな感じに見えて。もうなんか始まったのがもっとこうならないか心配ですね。

長沖:私もともと生物学だったので、たとえば温暖化の話とか地球環境の問題から、戦争の問題から、民主主義から、感染症から、もうすべてが、すべてがほんとになんかこう転換期が来ちゃってるっていう感じがしますよね。環境の話だってほんとにもう、世界中で洪水や大雪や大雨が降ってて、それも毎日じゃないですか、ニュースでも。あまり報道されないけどね。今オーストラリアでね、すごい洪水が起きてて。

田中:そうなんですか。

長沖:うん、街も…。クイーンズランド州ですごい大洪水になってて。とかね。そんなもん大したニュースじゃなくなってきたんですよ。そこらじゅうで(笑)。

田中:日常茶飯事になってきちゃった。

長沖:マチュピチュでもなんか、下の町がもう洪水でだめになったとこがいっぱい出てきてて、なんか…。



田中:そうそう、だから長沖さん、だから最初生物学でいらっしゃるのに、とつぜん経済の教員のほうになってますよね。

長沖:あ、あのね、慶応は縦割りなんです。なので、経済学部の生物学の助手として雇われてます。経済学部に。えっと、英語から、何しろ昔でいう「教養の教員」から「専門の教員」まで全部いて。[00:10:03]

田中:あー、すごいなんかじゃあもう、ばっちり分かれてるんですね。それぞれの学部にいわゆるその、

長沖:全部の教員がいるんです。だけども実際の授業は、三田と日吉とあって三田が専門で日吉は教養、みたいなかたちでいるので、日吉の教員はほかの学部も教えています。でも所属は経済学という。

田中:なるほど。じゃあ経済学部って言いながらほかの学部の学生も教えつつ、生物を教えておられたんですか? 今ジェンダー論っておっしゃたけど。

長沖:基本的にいうと生物と女性学とジェンダー論と(笑)。

田中:すごい。ちょっと専門としてはかなり「幅広」って感じなんですけど。

長沖:まあある時期から生物の研究はそんなしなくなって、科学と社会との関係みたいな感じのことを、いちおう、やっていたっていうかたちですね。

田中:そのへんはじゃあ変な話、大学卒業まではどっぷり生物だったっていうことでいいんですか? 理解としては。

長沖:勉強としては生物です。

田中:そうそう、そうですね。ただ、じゃあそうすると女性、いわゆるそのジェンダー論みたいなところはライフワーク的な感じで、別立てで、

長沖:私が大学生の時がちょうど、72年から74年に優生保護法の改定案っていうのが国会に上程されてた時期だったんですよ。「胎児条項を入れる」っていうのと、「適正年齢に女性を妊娠させる」っていうのと、それから「経済的理由をなくす」っていうこの3つが入った法案が72年に国会に上程されて。73年に大学に入ったら、「婦人問題研究会(婦問研)」っていうのがビラを撒いてて。だから、「中絶禁止法を止めろ」みたいなちらしを撒いてるころに大学に入ったので。それで、婦問研の人たちと交流ができて。1974年に審議未了で廃案になるんですね、それが。で、私、その場にいたんですよ。

田中:傍聴に行っておられたってことですか?

長沖:いや、傍聴には入れてないんですけども、あのころは「社労委」、社会労働委員会で審議されていて。議員面会所には生長の家がいて、障害者がいて、女がいて、っていう、こう…わーっと人が集まっていて。そこに社会党の田中寿美子さんが、『男性と女性』を翻訳した田中寿美子さんが、やってきて「今廃案になりました!」と報告して、みたいなところにいたんです。それでそのあと、国会議事堂の裏側の道をフランスデモをしたとか。
 で、そのころに優生保護法と出会って。当時その面会所に障害者の人たちもいて、それこそ「女は障害者を中絶するのか」みたいな議論が行なわれているところにいた、という感じですね。

田中:大学生としての。

長沖:大学生ですね。

田中:なるほど。すごいな…。だからそういう意味でいうと、生物と、生物っていうか、その何か、と、その社会科学の出会いの場所にちょうどその優生保護っていうのはありますもんね。

長沖:まあ、その科学と社会とが、ほんとに。だっていちおう優生学も科学だったので、ね?

田中:そうですよねえ。生物としての人間をどういうふうに優生…、優れたものにするかっていうそっから来てるとすれば、もうかなり、[00:15:07]

長沖:基本はね、ダーウィンの進化論から派生しているものなので。

田中:そうですよね。そうか。確かにそう言われたら、非常に接点はあるのに、なんか別のものとして、科学としては違うものとして考えちゃうけど、そうですね。
 で、そうすると、大学を卒業されるときは、でもまあいちおうその生物の学位をお取りになられて。そのあと大学院にはとくに行かれてないんですか?

長沖:そうなんです。たまたま4年生卒業のときに、私の指導教官だった人が慶応に行くということになって、その人に「助手も採用してるみたいだけど行く?」みたいな話になって、「はい」って言って、もう。

田中:すごい。

長沖:当時その慶応の自然科学の助手っていうのは、そういう意味では女の子を雇ってすぐに辞めてもらいたい職種としてあったんですよ。

田中:なるほど。結婚退職するっていうか。

長沖:自然科学の助手って、「上に進んでくための助手」と「ほんとのお手伝いの助手」とあって、当時雇う側は「お手伝いの助手」と思っていたと思うんですけれども、でも少なくとも私が就職したころには、ほとんどみんな「辞めない助手」になってました。

田中:うーん、なるほどね。でも大学出て、それ以外の仕事だとやっぱりなかなか厳しい時代ですよね。だから、一般企業とかってぜんぜんこう何ていうか、仕事らしい仕事がない、

長沖:ちょうど私が卒業した77年の頃は遺伝子組み換えブームだったんです。なので、けっこう企業にも就職ありました。

田中:あ、そうなんだ。生物は逆にあったんだ。

長沖:ちょうど。入学したころは第一次エコロジーブームだったんですよ。で、大学入って最初の自己紹介みたいなときに「生態学やりたいです」っていう人が山ほどいて、でも卒業した時期は遺伝子工学ブームみたいな。

田中:なるほどー。

長沖:都立大の生物って15人ぐらいなので、

田中:じゃあ女性も何人? 15〜6人の中の1人、2人ぐらいですか?

長沖:いやいや、女は多かったです。生物学科は女性が多かったので。半分ちかく。3分の1は越えてましたね。半分弱で3分の1以上っていう。

田中:じゃあ今よりもむしろ理系女子多かったみたいな?

長沖:いや。えっと、都立大って理学部と工学部があって、工学部は私と同期入学の女性は一人です。理学部はけっこう女性がいた。理学部は全体で3分の1ぐらい女でしたね。数学や物理、地理は少なめだけど、生物と化学はけっこう女がいる。でも工学部は「ひとりで大変」とか思ってましたね。

田中:工学部。なるほど。でもまあ、そうすると、今より…。今はなんか理系女子すごい少ない少ないって言うけど、そんなに昔から少なすぎたわけでもなかったのかな? 分野によるんでしょうけどね。[00:20:13]

長沖:うん、分野によると思いますね。生物はけっこう女、前からいますね。

田中:でまあ、みなさんいろいろなところに就職はできて。

長沖:ただ、やっぱり大学院に行くところに行くと、圧倒的に女性が行く率は低かったですね、都立でも。

田中:なるほど。まあ「大学まで」っていう感じなんですかね、学歴としては。で、そのあと就職して。まあ、企業に行ったらちょっとそこはわからないけど、助手さんの場合も含めて、たぶん「結婚したら退職するもの」みたいなイメージがありつつ就職してくみたいな。

長沖:だから、学校の教師になった人たちはずっと教師つづけるんですね。だから、教師があのころ、生物卒業した女の中では、まあ研究者っていう道ももちろんあったけども、いちばん生かせる職種だったかな。あと薬品会社に勤めるの、

田中:研究職みたいな感じで?

長沖:うん。ただなんか、やっぱりそんな…やっぱり企業はまだ当時女の人が生き残るのはやっぱり難しかったみたいですよね。完璧に仕事辞めてるという感じではないけれども、その仕事は辞めるみたいなのは、けっこうね。

田中:うんうん。なるほど。じゃあ長沖さんの場合はその指導教授について慶応に行ったという。

長沖:そうですね。

田中:最初のころはやっぱりその教授のお世話ではないけど、教授まわりを一緒にやってくみたいな感じですか?

長沖:いや、磯野直秀という人なんですけど、それなりに思想をもっているすごい人なんですが、そこらへんはもうほんとに感謝してるのは、彼はほんとに自由にやらしてくれたので。彼は学園紛争のときに「助手共闘」に入っていて、高木仁三郎はもうそのとき助手じゃなかったらしいけど、まあ何人か有名な都立の中の学生運動側についたグループの一人だったんで。そのあとも、たとえば有吉佐和子の『複合汚染』の資料集めは彼がやってたし。そういう、環境に関することに関心が移ってやり始めて、そのあと遺伝子工学が始まったころに遺伝子工学の危険性みたいなことを説くような活動をずっとやってたんですよ。で、都立にいるかぎり多分万年助手で、慶応でやっとその教える側の教員になれるみたいな人で。都立って講座制なので、一人の教員につくっていうよりは、私は発生学講座の4年生になって。そのとき教授がたまたま留学していたので、彼が指導教官になったっていう。

田中:じゃあ、偶然の巡り合わせみたいなところもあるんですね。

長沖:そうです。「長沖さんって頑固だからなって磯野さんが言ってきたわよ」みたいな話を都立の他の助手から聞いたりしたけど、強圧的に何かするってタイプの人ではなかった。[00:25:03]

田中:なるほど。じゃあその、自由にやらせてもらったっていうのは具体的にどんな感じなんですか? 仕事としては。

長沖:あの、慶応ってあれなのは、文化系の学生も実験が必修なんですよ。だから、生物学っていう授業をとると講義と実習がセットになってて、1週おきに講義・実習・講義・実習…なので、もう1年目からだから実験をやるっていうのが仕事としてはあったんですね。で、それ以外はほんとに、最初のころは卒研でやってた…私発生学なので、ウニの。その当時はウニの卵の中にあるアミノ酸を調べてたんですけども、そのうち、日本って北から南までいろんな種類のウニがいるので、いろんなウニの種類の比較みたいなことをはじめて。最初のころはそれが受精して、そのアミノ酸がどう変わってくかみたいな話だったんだけど、そうじゃなくて、いろんな種類のウニがどう違うかみたいなことを研究する、みたいな。だから、いろんなところ行って、ウニ採取してきてそれをこう記録する。そんなことをやってたんですけど。
 そのうちちょうど、83年に体外受精が始まって。発生学だったので、私がある程度こう、どんな技術かっていうことが理解できたので、で、その新しく始まった技術の、最初はなんか解説をするみたいな感じで、その女性たちの運動の中で、その技術がどういう意味を持つかとか、その技術がどう使われてくかみたいなこととか、実際に何が行なわれてるかみたいなことを解説したりっていうようなことを始めた感じですね。

田中:じゃあ70年代に学生として出会った女性運動とはずーっとつながりつづけながら?

長沖:ずっとではないんですよ。

田中:そうなんですか。

長沖:70年代にウーマンリブに出会って、そのあと女性の運動って機会均等法みたいな流れになってくるじゃないですか。男女雇用機会均等法ができたんだけど、じっくり見れば違っていたんだろうけれども、その当時の運動が、何て言うんだろ…上昇志向っぽく見えて、私は嫌みたいな感じになって、それから離れていました。で、82年にまた優生保護法の改正案が国会に上程されるかもしれないっていうときに、こんどは経済的理由の削除だけだったんですけど、そのときにSOSHIREN(そしれん)に入ってまた女の運動に戻るみたいな感じです。

田中:あー、なるほど。具体的にいうと、77年に大学を卒業されたんでしたっけ?

長沖:はい。

田中:そのころは、じゃあもう大学卒業とともにちょっと距離を置くみたいな感じだったんですか?



長沖:えっとだから、大学のときはその婦問研っていうところに後半所属していたので婦問研の中でやってましたけど、それでその当時…だから優生保護法のことをやっていたら、地域から働きかけがあって。都立大って目黒にあるんですよ。目黒でいちばん最初に起きた問題は、そのころは私関わってないんですけれども、保育園に障害を持った子どもが入ろうと思ったら、それを拒否するっていうのがあって、その保育園に入れるみたいな運動があったんですよ。そこから始まって、「目黒教育を考える会」っていうのができてきて、で、目黒教育を考える会の人たちから、大学生にもオファーが来て。無着くんとそこで出会うんですけど、無着くんがもう小学校の…何年生だったかしら? 計算すればわかるんですけど、高学年になっていて。それまで学校のプールをお母さんが付き添っていたんだけども、男の子の更衣室にお母さんが入るにはちょっとっていう歳になったので、都立大の大学生でプールの付き添いやってくれる人いないかみたいな話が来て。私と同じクラスだった男の子が付き添いになったんですよ。それでたまに連れて来るんですよ、大学に。で、大学に来て、そこらじゅうの水道を全部ばーっと開けて、じゃーってやってるの、無着くんが。[00:31:40]

田中:まじですか、すごいな。大学に連れてきちゃうっていうのがすごいな。

長沖:無着くんは都立大から、歩いて10分とかそのぐらいのとこに住んでいたので、たまに連れてきて大学で遊んでたり。そのころに出会っています。そのあと、その目黒教育を考える会の人たちが「子ども会をやりたい」っていうことになって。で、たぶん大学卒業したぐらいのころから、毎週土曜日子ども会を始めるっていうことになったんですね。それは、健常者と障害者の子どもたちが一緒に遊べる場をつくろうということで子ども会をやり始めて、それに参加するようになって。だから、77年ぐらいから82年まではずっとそういう、目黒教育を考える会の活動をやって、っていう感じです。

田中:ああ、なるほど。
 ちょっと話が戻っちゃうかもしれないですけど、長沖さんは大学生になって、その大学に入るために近くに住んで、目黒区に住んだっていう理解でいいですか?

長沖:いえ。そのころは親のとこから通ってました、都立大に。

田中:あー、なるほど。じゃあ近かったわけじゃないんですね。今は、

長沖:近かったです。都立大の駅から電車でいくつだ? 3つとかそれぐらいの。

田中:ああ、じゃあ近いことは近い。

長沖:うん。に、親の家があり。それで。

田中:まあでも大学までは実家から通ってたと。

長沖:うん、いちおう世田谷区です。となりの世田谷区に住んでました、そのとき。

田中:なるほど。まあでも大学にじゃあ通ってくるところで、その無着さんには学友を通して知り合うと。で、その学校の支援っていうところからだんだん子ども会の活動ができたところに、ボランティアで関わるようになったと。

長沖:そうです。

田中:うーん。なんか、期せずしてその話になりましたけど(笑)。じゃあそのときにもわりと、女性運動とも、まあちょっと前に出会ってるけど、大学時代がすごい、なんていうか、大きな価値観の転換というか、長沖さんのその先の人生を決めるような出会いがけっこうあったって感じですね。[00:34:50]

長沖:まあそうです。私単純なんで、優生保護法のいろんな問いかけの中で、障害を持ってる人たちが女の運動に対して、「女は障害を持った子どもだったら中絶するのか!」みたいな、そういう問いかけだったわけじゃないですか、ちょうど胎児条項も出ていたし。「いやいやいや」って。「現状では無理っすよね」みたいな感じで。それはだから、障害を持った子どもがきちっと、その、「親が障害をもった子どもを持っても、ちゃんと社会が支えられるような社会ができなきゃ、そりゃ無理でしょ」というので、そういう社会がつくれないかなっていうのがあったって話ですね。

田中:なるほど。で、その目の前に、走る障害者も出てきて。それを支えることはやっぱりある意味つながってますもんね、その彼を、

長沖:そういう地域をつくれないか、みたいな。けっこうあの当時、そういう70年代のリブの人でそういう活動を始めた人たちってけっこういるんですよね。障害者の問題に関わってくみたいなことをやってた人たちはいっぱいいるんで、かなり誤解がある。

田中:ああ、そうなんですね。



長沖:リブってもともと、社会活動の中でもすごく小さなグループの中で自分たちの思いを共有してくみたいなのが基本のベースにある運動なので、だからそれぞれの地域の中でそうやって、「どういう社会を作っていくか」「コミュニティーを作っていくか」みたいな活動を始めた人たちっていうのがいっぱいいるんですよね。

田中:なるほど。だからじゃあ自分の問題になってきてるわけですよね、その障害のある人がいる社会を作るっていうところに。
 それが大学生ぐらいからで、そして仕事として慶応に行きつつ、週末に子どもたちと遊ぶみたいなこともやりながら、80年代、82年になってまた、こんどSOSHIRENのほうに。

長沖:優生保護法が出てきたぞ、みたいな。

田中:こりゃまずいっていうんで、やっぱそっちのほうにもコミットしていくと。

長沖:SOSHIRENは最初「‘82優生保護法改悪阻止連絡会」という、最終的に100個ぐらいグループが集まるみたいな連絡会だったんですけども、そこで出した、「優生保護法改悪の狙いは何か」というときに、「まずそれは優生思想の強化である」っていうのを出すっていうのが、その「優生保護法の中で経済的理由の中絶をなくすっていうことは優生思想の強化である」っていうのを打ちだせたっていうのはすごく大きかったと思うんですよ。で、そこからけっきょく国会に上程されなかったので、そのままSOSHIRENっていうのは今も続いていて、今年40周年なんです。40周年でいろんなイベントやってるので、こんど見ていただけると。

田中:ぜひ。はい、ぜひぜひ。そうか。SOSHIRENを立ち上げようっていう動きは最初どんな感じで始まったんですか?

長沖:最初から関わってはいないんですけど。82年の6月には「マザーテレサの顔をしたヒットラーを撃て」みたいな集会が開かれてるんですけど、その前の段階から、優生保護法のそんな動きがあるということに対して、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」、1974年からあるグループですね、それから、刑法のことをやってた女性グループがあり、とか、そういうところが、なんかちょっと動きがある、怪しい、これはなんか動かなきゃみたいな感じで集会を開いたり、【シール】(00:39:55)パンフレットを作ったりみたいなことが始まっていて。夏ごろに都立大の婦問研関係の私の先輩と後輩と私の3人で「これは動かねば」という感じで、そのSOSHIRENの立ち上げ前のミーティングとかに参加するようになったっていう。[00:40:34]

田中:なるほど。それでそういったことを、じゃあ大学ではこんど学生に話していくみたいな感じでジェンダー論になっていくんですか?

長沖:ジェンダー論始めたのは2000年ぐらいからなんですけど(笑)。「ジェンダー論」っていう授業を立ち上げて、今年で言えばリプロダクティブ・ライツの話をして、避妊の話をして、中絶の話をして、強制不妊手術の話をして、生殖技術と優生学みたいな話をしてるので、5回ぐらい。5回ぐらいそういうことをやってます。

田中:5回。すごい盛りだくさんの5回ですね、それ。一個ずつで何回もできそうな感じだけど(笑)。
 そうか、でも2000年ってことは、じゃあまあしばらくその、学生に伝えるっていうよりは、運動のほう、

長沖:そういう意味では、私結局20年助手やったんですよ。で、その前の段階で私が昇格審査を出したときに、助手から准教授を出したときに、「お前はそういう対象者じゃない」って蹴飛ばされて、とかいうのがあったんですよ。

田中:大学の中の人事として。

長沖:うん。で、そこで今はまあちょっと…最近は公にしてますけど、その前にセクハラがあって。入試の採点終わったあとにこうちょっと「お疲れさん」みたいな感じで、10人ぐらいで飲みに行ったんですよ。で、そのときにたまたま私の隣に座った教授が触ったので、私、引っ叩いたんです。

田中:さすが。

長沖:1回目は口頭で注意して、2回目も口頭で注意して、3回目に触った時にぱーん! って叩いて。飲み屋中がしーんってなるぐらいになったんですよ。それで、私そんなこと根に持つと思ってなかったんだけど、私が最初に昇格審査を出したときに彼が人事委員長だったんです。で、彼が定年になるまで私はそのままで。その次の人事委員長が、それまで助手のまんまでいろんな役職やったんですが、「こんだけ経済学部に貢献している人が何で助手のままなんだ?」って、上げてくれたんだけど。

田中:うーん、いやあ…その…。でもそういう人にかぎって根に持つんですよね。

長沖:あのね、なんかこう「剛毅な人」みたいなイメージで思われている人だったし、どちらかと言えばまあ思想的にも「左っぽい人」って思われてる人だったし。

田中:うわー、すごい誤解か(笑)。

長沖:(笑)。いわゆる、おやじだったんですね。で、肩抱いてきたりとか膝の上に手を置いてきたり程度だったんですが、今まではそんなことやっても誰も文句は言わなかったんだと思うんです。でも私は「やめてください」と言って手をこうやって返し、「触らないでください」って言って、3回目についつい。べつにね、叩こうと思ってたわけじゃ。つい反射的に手が出たわけです。

田中:いや、それは非常に正しい行動。体が非常に正しく動いたということですよね。

長沖:うん、そうなんですよ。その時に、きれいに音がはまってしまったんですよ。あの何だ、きれいに音が出るときと出ないときあるじゃないですか。その時なんか、痛いよりも音がきれいだったんですね。パーンと音がして。

田中:それでみんながちょうど静かになったりなんかしたりして。聞こえちゃう。パーン。

長沖:パーンって、みんながシーンってした。私たちのグループだけじゃなく、ほかの人たちもシーン。何が起きてるのかって(笑)。

田中:それはよっぽど響いちゃったんですね、これは。あらー。

長沖:で、私が次の日に学校行ったらみんなに、「叩いたんだって?」って言われたってことは、あっちも言われてるはずなんです。「長沖さんに叩かれた」っていうようなことを。ねえ。で、嫌だったわけでしょ。私自身はそれですっきりしてたので後悔もしてないし。

田中:嫌だったんでしょうね。そういう人こそプライドが高すぎるぐらい高いから、きっと。何なんでしょうね、それ、ちょっと。それがじゃあそうすると、長沖さんが助手を始められて、4年、5年ぐらい経ってってぐらいですか?

長沖:うん、ちょっと正確には。80年代の前半だと思います。そのときいたメンバーを考えると、80年代の前半だったんだろうな。でもそれがあったおかげで、慶応で私にそういうことをする人はいなくなりました(笑)。

田中:(笑)。大事なことです。大事なことです。

長沖:だいぶ変わったと思いますけど、私が勤めたとき、経済学部に女の教員って3人ぐらいしかいなかったんですよ。その、私たちみたいな助手は、物理と化学と生物は女3人助手というのはいたんですけども、それ以外の教員で…4人か、私が勤めたとき、女性の教員って4人しかいなくて。英語の先生1人と、経済学部に戦後まもなく大学に最初に入った世代の女性が3人。

田中:全体としては何人なんですか? 大学。

長沖:経済学部は100を超えるぐらいの数で。そんだけしかいなかったので。そのあとどんどん女性が増えていって、まず日吉に女性が増えて、それから三田も。三田はある時期までは慶応の経済学出身しか採用しなかったんですよ。で、ある時期から他の大学出身者を採用するようになって。そしたら女性がどんどん増えていった。ということは、慶応の出身者の女性たちを育てられなかったってことなんですよね、彼らが。

田中:そうですね。なるほど。

長沖:ぜったいに有能な女性たちいっぱいいたと思うんだけど。私が知っている1年のころから付き合いがあって「この子はもうすごい優秀で」と思ってた女の子もけっきょく大学院行かなかったので。それは90年代ぐらいのできごとですけども。やっぱりその、慶応の大学院の中に、やっぱりどこか女性を排除するような無意識的なシステムってあったんだろうとは思いますね。

田中:なるほど。そうですね。女性で大学院行くっていうのはやっぱりまだハードルがだいぶ高かったのはありますよね、全体的にね。

長沖:慶応って文学部の中に心理学科があるんですけど、まあ文学部って言っても動物実験とかやってほとんど理学部だなと思うようなことをやってる人たちが多い心理学なんですけども。私より上の世代の人に話を聞いたときに、まずは大学院に行くときに「まー、結婚してやめるんだから、それまで勉強するのもいいかな」って入れてもらったんだって。で、そのあとかなり遅くなってからなんですけども教員になったときに、「女と同僚になるとは思ってなかった」って上の人に言われたそうだから。大学ってそういうとこなんですよ。

田中:うんうん、まあそうかもしれないですね。なるほど、そうか。

長沖:21世紀になってやっぱりほんとに大学、かなり変わりましたけどね。

田中:そうかもしれないですね。私は大学っても女子大にいるので、ずっと。だからやっぱりちょっと違うんだと思うんですよね、そのあたりはね。

長沖:そうですね。

田中:だからまあ、ある意味特殊なところに私のほうがいたっていう感じなのかなって気がします。一般的な大学はみんなそうなのかなって。アカデミアンなところのほうがやっぱり男女格差があって。

長沖:だから、女子大の意味って、そこにあるような気がしていて。女子校も含めて。男がいないぶん女の能力が開発されるんですよ。女子高校から来た女の子たちが慶応に来て、もうびっくりするっていうのは、自分たち女しかいないから、机運ぶのだって、文化祭のときに大きな看板作るんだって全部自分たちでやってきたから何だってできるんだけど、慶応来たら「それは男の仕事だからやっちゃいけない」って言われてびっくりしたとか言って。女の子から規制されるんだって。何かものを運ぼうとすると「それは男の仕事だから女がやるべきことじゃない」みたいなことを女の子から言われてびっくりしましたって。[00:55:06]

田中:そうね。確かにそうですね。女の子のほうがまた女の仕事と男の仕事を分けてるかもしれないですね。両方の問題。

長沖:だから、そうやって、女の子が自分たちができることができなくされちゃうっていうのは、共学校でなおかつ意識的に女の子にもいろんなことチャレンジさせないと、女の子自身にジェンダーをしみこませていくみたいなところがありますね。

田中:そうですよね、率先して何かやるとかそういうの、自分から抑えちゃうというか。役職とかそういうのも含めて。副はやるけどトップはやらない、とかね。

長沖:そうそうそう。

田中:そういうのをわざわざ自分から仕掛けちゃうときありますもんね、女の子のほうがね。

長沖:だから、「女子校卒業して、女子大卒業して、アメリカ留学して帰ってきた」みたいな女の人のほうがぜんぜんそういう壁がなくて。そういう教員がいたりするじゃないですか? もうその人たち、「何なの? それ」みたいな感じ(笑)。ずーっと慶応で育ってるとそうはいかない。

田中:そうなんですね。
 さっきのその無着さんのところに戻ると、子ども会の活動っていうのはじゃあずっと、大学生から。



長沖:いや、大学卒業してからですね、子ども会が始まったのは。それまでには、たとえば「遠足に行きたいからついてきて」とか、そういう感じのお誘いだったので、そういうのにはついて行ったりしたことがあります。それから、当時「がっこの会」っていうのが。あそこ、国立小児病院。世田谷にある今、えっと…、

田中:ああ、成育医療センターですか?

長沖:成育医療センター。あそこの心理判定員で渡部淳さんっていう人がいたんですけど、彼らを中心に…何ていう本だったっけな?

田中:がっこの会って聞いたことあるような気がしますね。

長沖:渡部淳さん。「知能公害」★だったかな?を書いていて、「がっこの会」っていうのを活動してたんですよ。がっこの会っていうところで各地の教育を考える会が、連携をとってて、合同で夏に合宿に行くみたいなのがあって。渡部淳さんこの2019年に亡くなられてるんですけども。
★渡部 淳 編 19730901 『知能公害』,現代書館,反教育シリーズXI,204p. ISBN-10: 476841110X ISBN-13: 978-4768411100 600 [amazon] ※ d,

田中:渡部淳さん。心理職の人ですね。

長沖:うん。彼は病院で子どもを判定している側だったんですよ。でも、彼が「子どもたちを普通学級に入れなきゃ」っていうことを言い始めて。それで運動がどんどん広がっていくっていう。
 それで、無着さんのお母さんの無着麗子さんも渡部淳さんに感化されて(?)、「普通学級に入れる」ってなった。

田中:なるほど。

長沖:だから、目黒で普通学級に入った、そういう意味では重度の障害を持った人では第一号じゃないかと、邦彦が。それを仕掛けたのがその渡部淳さんで。全国でそうやって「普通学級に入っていこう」っていう子がいっぱいでてきて。邦彦が小学校入ったの何年だろ? 1963年生まれで、それで1年就学猶予してるから、1970年入学ですね。そうか、私が大学に入ったのが73年で、あのころ小学校の高学年になってたのか。

田中:なるほど。

長沖:ほかにも子ども会に来てた障害を持ってた子たちっていうのはけっこういたんだけども、今も付き合いがあるのは邦彦とTさんの二人ですね。日常的な付き合いがある子は。あと、そうか、MさんもYさんもいるか。

田中:みんな近くに住んでるんですか? 目黒?

長沖:みんな目黒区にいて。目黒区そんな大きな区じゃないんですよね。世田谷区と比べたら3分の1ぐらいの大きさでしょうかね。もっと小っちゃいかな。

田中:無着さん以外のTさんとかMさんとかYさんは、親と暮らしてるんですか?

長沖:邦彦よりも下の世代なんですが、Tさんは今ひとりでアパート暮らしです。で、MさんとYさんは親と一緒に暮らしてます。Tさんがつい最近お誕生日で、「いくつになんの?」つったら「50」って言ってたから。Tさんは50歳。で、だからMさんとYさんも40代。

田中:ぼちぼち親と一緒っていうのも厳しくなりそうですけどね。

長沖:うん。なかなか難しいなと思う。Yさんは家を出るというのは結婚するときって決めてるみたい。

田中:でもまあそういういろんなかたとまだ付き合いはありと。

長沖:そうですね。

田中:大学卒業してからだと、仕事もありながら。まあ大学だとやっぱりちょっと自由時間もあるっていう感じですか? それで週末がね、一緒に過ごしてきて。
 でも「無着さんと暮らす」っていうのはやっぱりある種の決断があったんじゃないかと思うんですけど、そのへんはどうなんですか?

長沖:邦彦が高校卒業して、もう工房しか行くところがなくなってきたんですよね。それで地域とのつながりが必要だとなって、「柿のたね」っていう、リサイクルをベースにして誰もが自由に出入りできるたまり場を作ろうということで、1986年に柿のたねっていうのを作るんです。86年なので、邦彦は20代前半ぐらいの時期かな。
その柿のたねができる前、ひろば保育所っていう共同保育所を作るっていうのにも私関わってたんですけども、目黒区内で。その共同保育所もさっきの話とつながってるんですけど、ちゃんとした共同保育所がないと私がもし障害持った子どもを持ったとして働けないぞ、みたいなのがあって関わったんですが。その共同保育所で月に1回無着くんが泊まる日みたいなのを作って、そこに泊まったりはしていたんですよね。で、柿のたねができて。[01:04:30]
 最初に一緒に暮らし始めたのって1995年なんです。だから柿のたねができて10年ぐらい経ってるんですけども。私はアパートの更新の時期で。それから、もう亡くなっちゃったんですけど、梅根さんっていう男性が、親が転勤でたまたま川アに来たから一緒に住んでたんだけど、また転勤でいなくなるので、住むとこなくなるみたいな話になり、というのがあり。で、邦彦もそのころ、うーん、何だろ。けっこう荒れてて。私は家を出る必要があるんじゃないかっていうことをずっと親と話をしてて。柿のたねができてから10年ぐらい親と。お母さんは、「私が目の黒いうちは私の手元で」みたいな感じがあったんだけど、お母さんもお父さんも邦彦より長生きできるわけじゃないから、「目の黒いうちに邦彦が自立してるところを見てから死んだほうがよくない?」みたいな話をしてたっていうのが一つ。
 もう一つはなんか…男の人たちと話してもわりとつたわらないんだけど。私がすごくひっかかっていたのは、基本的に女っていうのも庇護の対象であり、子どものころは父親の支配下であり、そこから夫の支配下になって初めて家を出る、でもそこでも夫の支配下であり、っていうようなそういう人生をずっと過ごしてきた中で、女が自立していくっていうか、一人で立てるってのはとても重要なことだって、私はそこがすごく重要だと思っていて。私、高校生ぐらいから「早く家を出たい」ってずっと思ってたんだけど。たまたま大学がすごく近かったので。関東以外の大学を受けようっていう構想もあったんですが、結局近いところを受けてしまったので。まあ、大学生の間は家を出るっていうのは、ちょっと難しくて。父とはしょっちゅう交渉してたんですけど、父は「あかん」っていう感じでなかなかそうはいかずっていうのがあって、家を出たのは就職してからなんですけども。
 障害者もそうで、親の庇護のもとでずっと生かされてる、そのことに対して私はシンパシーがあるんですよね。早く親の庇護から出ないと、本人っていうものが、何ていうんだろう、本人のやりたいこと、本人の自分の意思ってのは発揮されないんだろうっていうのがあったので、ずっと「家を出したほうがいいよね」って話はずっとしてたんですけども。あの、彼がちょうど30ぐらい。30? ちょっと待ってよ。記録を見ないとすぐ忘れる。63年だから、ちょうど30なったくらいですよね、30なったぐらいのころから話はしてたんだけども、

田中:63年。86年から話をし始めたって感じですか?

長沖:86年は「柿のたね」ができて。だから自立みたいなことを話したのはもう90年代入ってから。まあ、「30になるし」みたいなことだったろうと思うんですけど。ただ、彼が一人でアパート借りるってのはかなり難しいことであって、ですよね。

田中:そりゃそうですね。今でも大変ですから。

長沖:うん、そうだと思っていて。で、そんなときにたまたま梅根さんが、私たちウメちゃんって呼んでる、ウメちゃんがなんか家を探してるっていう話が。私も切れてるしって。櫻原さんと、櫻原さんの彼女と、「じゃあちょっと一軒家探してみようか」みたいな話になり、で、私が仲良くしていた不動産屋さんがいて、彼が「こんな家があるけど」みたいな話で一軒家を借りてやってみようかみたいな話になったんですよね。[01:10:21]
 まあ無着さんの場合は、やっぱりこう、何て言うの…グループホームも向かないし。まあかなり個性的なので。グループホームだったらグループホーム壊しちゃうだろうし(笑)。まあそんなかたちのものもあるんじゃないかなっていう話で、やってみたんですよ。どうなるかわかんないけど一回やってみようと思って。で、まだシェアハウスってのはそんなに日本の中では定着してない時期だったので、最初、オウムだって思われて警察に通報されたりしてたらしいです(笑)。だけどその不動産屋さんがちゃんとした人で、「この人はこういう人だからそんなことありません」みたいな感じでちゃんとやってくれていたので、直接私たちのとこには来なかったでけども、まあそういう通報があったり、近所から「うるさい」とかそういうのはあったんだけど、うまく、そのときはいってたと思うんですけど、ウメちゃんがくも膜下出血で突然倒れて。30代で倒れてしまい。だからその家で亡くなって。そのあと別の人が住んでみたいなのがあり。でもある日突然なんか、家の持ち主が「この家壊すから」と言われて引っ越して。で、次の家にメンバーも変わって住んで。そしたら次の家も「出てけ」みたいな話があったので、めんどくさいなと思って、家作っちゃえばいいかと思って、2001年に現在の家をつくって。で、もう20年経ちますね、この家で。
 その間変わったことっていうのは、最初の時期は完璧にボランティアなんですよ。私たちの関係って。だから、そういう意味ではある意味で対等なメンバーの中に一人彼がいるという。だから「健常者が多い中に彼が一人いる」っていう関係だったんですけど、今ね、いろいろ出入りがあって、今、邦彦と私と2人だけなんですよ、ここで生活している人は。今まで、女は私も入れて3人、男は7、8人無着さんと一緒に暮らした人はいるんだけども。最初にここに引っ越してきた時は、5人住んでたのが今は2人。彼がヘルパーを入れて、私は一人でいる、みたいな感じになってるんですが。
 あの、何ていうんだろ、表現が難しいんだけど、ある時期からヘルパーが日常的につくようになったわけじゃないですか。それまでは制度としてなかったけどヘルパーが制度化されて、彼の社会性っていうのが逆に奪われているような気がしてるんですよ。やっぱりヘルパーとの一対一の関係っていうのが彼にもたらす安心感と閉塞感みたいな、安心感と閉塞感って親と変わらないのではないか、せっかく家を出て一人になって自立したはずが、ヘルパーに依存した生活を送ってるんじゃないかみたいなのが私の中にちょっとあって。もう一つは私との関係で言えば、私と彼が一対一にはなれなくて、背後にヘルパーがついた邦彦と私が対峙するみたいな。[01:15:50]

田中:そうか、最初とはやっぱりそこがちょっと違いますね。

長沖:うん、かなり違うんで、何だろうな、私が思っているような関係ではないな、と思ったり、いろいろ考えているところです。

長沖:今まで障害者の人たちと近くで、親和的に活動していた人たちがみんな事業所に行っちゃうんですよ。たとえばDPI女性障害者ネットワークの初期のメンバーはSOSHIRENとも一緒に活動したり、北京行ったりとかいろんなことをやってたんですけど、その人たちがみんな事業所にわっと入ってしまい、だから北京が1995年ですよね。そのあと、各地で事業所ができて、みんな事業所に入って、事業所の運営は運営でとっても大変なことなんですよね。それはわかるんだけど、みーんな事業所に取られちゃったみたいな感じがあって、私は。
 だから、今邦彦と関わる人たちの多くもやっぱり事業所の人になってるんですよ。で、障害者の生活をボランタリーに支える人たちがどんどん減っている。若い世代で障害者の生活に関心持つ人って、みんな事業所に流れているような気がして、障害者の生活自体は基本的に支えられるようになったけれども、なんか背景が薄くなってるような、地域の中で障害者が生きていくために、は、もう一つ別の仕掛けがないといけないんじゃないかっていう感じが私はしています。

田中:なるほどねえ。難しいですね、そこはねえ。

長沖:だからそうじゃない流れも別のかたちで作っていかないと、何かある意味で親の庇護のもとから事業所の庇護のもとに移動しただけじゃんみたいな感じに私はしてしまうんですよ。

田中:けっきょく関係性が広がらないってことですかね? [01:24:44]

長沖:そうですね。だから社会の中にいる感じがしない。ほんとに難しいとこだと思うし、ないものねだりなんだろうなと思ったりはするけれども。

田中:そうですねえ。とくに障害のある人だけでなく、かもしれないですよね。いわゆる私たちも含めて、なんか仕事と家の往復みたいな感じにやっぱりなってたり、で地域のつながりって、子育てしてるときに持ってても、それもだんだん希薄になっていくし。うん、だから、そういう中でやっぱりこういろんなものが、へたするとどんどん狭まってくっていうか、ましてや障害のある人は自分で意識してってこともできないわけだから、よけい年齢を経るごとにどんどんこう世界観って新しくならなくなるんじゃないですかね。それがやっぱりあるでしょうね。そこがどうやっていくのかっていうのは、何か障害のない人の世界の広がりとも関連して、やっぱり狭くなっていく。

長沖:うん、私が働いてた時代よりも、今働いてる人たちのほうが時間が圧倒的にないんですよ。それは大学の中で私が働いてきてもそうだった、どんどん時間が減ってきてる。もっと昔のほうが時間はあったなって思うし、それって大学教員でもノルマ増えてるんですよね。で企業で働いてる人の話聞くともっともっとこうなんか拘束時間が増えているっていう感じがするので、あの、労働者が働いて、余暇に何かをするという時間が本当に減っている感じはする。で、減れば、何か地域とのつながりとか、そんなことに時間を使うんじゃなくて、自分のために使うみたいになってくるじゃないですか。ね。トレーニングするだとか、ね、習い事するとか、余った時間を使うのはそこ、そっちになっちゃうと、どんどんなんかつながりが減っていくなっていう感じはしますよね。

もう一つ思ってるのは、だから一人暮らしの女が、老後も自分の意思をこうちゃんと、えっと、何ていうの、貫き通せるかみたいなことを考えているグループで、いろいろやってみようっていうので、とりあえず法務局に行こう。みんなで、遺言書を出しに。ってまあ、そこでどんな問題起きるかっていう。法務局に今届けられるようになったんですよ、遺言が。前は…、

田中:あれですか? 公正証書にするってことですか?

長沖:だから公正証書にしないと前は無理だったんですよ。で、今法務局が預かってくれるようなシステムが去年からできたんですよ。

田中:あー、公正証書じゃなくてもってことです。

長沖:そう。だから自筆のやつを法務局に預けに行ってみる? っていうの明日やってみるんですけども。

田中:ほう。それは何か予約していくってことなんですね。

長沖:予約するんです。だからいろんなことをやってみて…、やってみると、で、そこで何が起きるかっていうの、まあ試してみるためにやってるんですけど。
 で、えっと、思っているのか、お金の問題で、えっと、歳取った人もそうだし、無着くんでもそうだと思ってるのは、あの、えっと、自分がそれを管理できなかったときに、誰がどうやって管理するのかってかなりおっきなことなんです。まあね、だから認知症になった人も。だから公的なその個人の資産を管理する場所って作らなきゃいけないんだろうと私は思っていて。で、それをちょっと遊歩に、この前会った時相談して。で、そのあとコロナになっちゃったからぜんぜん動けてなくて、いろんな人とそれを話すことができてないんですけども、そういうのはひとつ作んなきゃいけないなと思ってるんですよ。
 で、今だから、それ、あのその、別の一人暮らしの女たちのところの、「女助会(じょじょかい)」つってるんですけど、女が助ける会って、自助と掛け合わせて女助会って、女を助ける会っていう、女助会でも、そういう書類を作ろうとしてたりするんですよ。で、誰にどういうかたちで管理してほしいんかっていう、その、えっと、生前事務委託っていう、そういうもんを作ってみようとか、そういうこともやっているんですが。あの、障害者に関してもそれはぴしりと作んなきゃいけなくて、やっぱりえっと、まあ親だったきょうだいだったり、でまあ無着さんのように事務所だったりみたいなこう、やっぱりお金持ってる人が守る立場になるじゃないですか。でそれを、そうじゃなくて、どういうシステム作っていくかっていうことは今考えていることですね。[01:36:16]

田中:成年後見制度じゃやっぱり厳しいですか? 任意後見とかでも。

長沖:だから、私は任意後見の書類も作り始めています。任意後見であるべきで。うん。だから、でも無着くんの場合は、今やってももう成年後見になっちゃうじゃないですか。

田中:そうですね。

長沖:だから、

田中:でも成年後見でもいちおう、

長沖:今いちばん私おっきいと思ってるのは、成年後見制度も、やっぱ、彼が自分で判断できないっていう認定をしてしまうことになっちゃうので、ね。選挙はできる、

田中:できます。

長沖:選挙はできるようになったんだよね。

田中:はい、できるようになりました。

長沖:うん、だから、

田中:任意後見…。まあ、でも成年後見でもたぶん後見人の推薦ができるから、任意後見に近いかたちで「この人におねがいしたい」っていうのはやれなくはないと思うんですよね、たぶん裁判所でね。ただ成年後見制度自体がやっぱりある程度その、当たり前だけど、でも月いくらかね、やっぱりかかってくるから。そのへんとの兼ね合いですよね。だから、まあやるほうからすればそれは無給ではやれないっていうのもあるから、どうしてもかかりますけどね。またでもそれとは別の仕組みが必要っていうふうにお考えっていうか、考えたほうがいいですか?

長沖:あの、だから、日常のお金の管理って成年後見とは別になってくるじゃないですか。

田中:まあそうですね。大きいお金が成年後見でやって、日常の管理はやっぱりでもヘルパー事業所がやるほうが便利はいいですよね。

長沖:だからそれも、だから生活費としてまあ月、5万では安すぎるかもしれないけど、5万でも事業所に預けてっていうかたちはオーケーだと思うんですよ。全体の管理まで事業所がやってるってのはやっぱりおかしなことで。

田中:今はそうですね。それはやっぱり成年後見制度なのかなっていう気はしますけど。成年後見制度めっちゃ嫌われてんですよね、障害のある人には。

長沖:うん。やっぱり基本はこの人は、やっぱり禁治産者と同じようなニュアンスはやっぱりあって。もう一つは、かなり、まあまあそら老人のほうで問題になってるのは、その、後見人の意向が強すぎて、自由に使えない。たとえば旅行いくのもだめだとかね、そういうのがいろいろ問題出てきて。だから今、なんか信託制度みたいなところにどんどん流れていってるわけじゃないですか。
 なんかそれは、障害者だけの話じゃなくって、一人暮らしの人たち。ほんとは一人暮らしじゃなくてもいいんだけど、家族がいても自分は自立したと思ってる人達も含めてなんだけど、の全体で考えられる【co(コ)】(01:39:46)システムみたいなのを作れればいいのかなと思います。

田中:まあ制度的な問題もあるかもしれないし、なる人の、なんかなった人の問題もありますよね。今おっしゃってたような、「旅行はだめ」とか「何とかはだめ」とか言えちゃうっていうふうに思ってる、その後見人の何ていうか育成っていうかね、そういうその人自身の課題っていうか。[01:40:12]

長沖:管理者になっちゃうんですよね。

田中:そうそう。でも確かに、もう通帳も、基本的にはその人が全部握るから、言いたいこと言えるっていうのは確かですよね。あでもそうですね、今後の課題っていうのはそこですよね、いちばん最後。

長沖:だから、あの、市民後見なんかは、ある程度社会福祉…、

田中:協議会。

長沖:協議会あたりが、こうなんか元締めみたいな感じで市民後見やって、それの民間版を作りたい、という意味です。基本でいうと。法律に則ったかたちでなく、そういうのが、そういうシステムが作れたらいいなと。

田中:そうすると今あるそのたとえば法人後見、さっき言った社会福祉協議会なんかとは、やっぱりどこが違うんですか? そうすると。どこがいいところなんですか?

長沖:それ、基本的に私それ、やってみなけりゃわかんないからと思って。やってみて、なんか問題がなければ社会福祉法人に任せればいいんだけど。うん。基本わりと、そういうことを考え…。自分たちでやってみないとわかんないじゃない、ってのが私の基本なんで。だから、たまたまそういうこう、シェアハウス的なものを作ってみようと思ったのは、自分たちでやってみなきゃわかんないからで。

田中:なるほど、その精神ですね。

長沖:基本的には自分でやってみたい。やってみないと今の制度に乗っかるんじゃなくて、自分で新しいの作ったほうが、で作って、なんかそっちのほうが良ければ、今ある制度もそっちに変わってくるだろうし、それから逆にあの、あ、これ間違ってたよねつったら、今ある制度を使えばいいし。

田中:開拓精神ですね、長沖さんの。

長沖:いやいやいや(笑)。

田中:新しいものをつくりだしていこうという意欲というか、すごい。まあ無着さんとの生活のとこはちょっとじゃあ、これから何かどうなっていくかというのは、

長沖:うん、ちょっと、

田中:うん、まあ考え中みたいな。

長沖:今考え中ですね(笑)。

田中:なるほどー。ちょっとそのあたりは今後の課題ですかね。

長沖:うん。

田中:まあでも女性運動のほうも…。もうそろそろ終わりにしますけど。だいぶ…、ごめんなさい、長くなっちゃって。でもすごい動いてきましたよね、それこそやっておられるあの、セーフ・アボーションの会とかも、ね。

長沖:そうです。

田中:だいぶ薬もなんとかなりそうだし、まあ値段が高いとかいろいろあるけど。

長沖:それこそ海外だったら無料の中絶薬が、日本で10万円で売るとか言ってるし、医者は。

田中:あほらしくて話になんないですよね、あの人たち。

長沖:うーん、ほんとに。なんか、障害者の問題もそうだし、女性の問題もそうだし、日本、ほんとにすごく、遅れてる。だから、弱者の権利ってやっぱり認められてない国であって、いつまで経っても男社会のまま。10代の子で、中絶したいけどお金がないって子たちほんとに山ほどいて、でけっきょくそういう子たちが子どもを産んで、自分で子どもを産んで、その子が死んじゃったり、殺しちゃったりで、罪を受けてるわけじゃない。10代で10万だすってやっぱり大変なことだよね。

田中:あー、もうほんと出せないですよね。

長沖:うん、まあ私たち高校生のころもなんか、カンパしてみたいな話とかあったけど、無料で受けられる国だったらこの犯罪者たちいなかったじゃないって、ね。[01:55:15]

田中:ほんとですよねえ、ほんとに。

長沖:で、そういうふうになっちゃう子たちのなかに、そういう意味では知的のボーダーラインの子たちけっこういるんですよね。

田中:うーん、いますよねえ。

長沖:あの、北海道で一人、就労支援施設で子どもを殺しちゃった。

田中:ああ、はいはい。トイレの。

長沖:うん、トイレでね。彼女の場合は明確に障害あるって思われてる人なんだけども。たとえば羽田で子どもを産んで、なんかっていう女の子も、ボーダーラインの子らしいですね。

田中:やっぱボーダーだったんですか。

長沖:もう一つはやっぱり、子どものころに暴力受けてたりする子たちって、男の人に言いよられたときに、何かそこでこう頼っちゃうみたいなところあったり、相談受けてる人とかに聞くと、中絶もできないし産むこともできないし、みたいな話って、いっぱい来るみたいだから。

田中:そうですね。ほんとに。まあ、あとさっきやっぱりおっしゃったみたいに、産み…。ね、障害があっても地域で暮らせるみたいなところだとやっぱり…。産んで…、まあたとえ何かあって産んでも、一人でも育てられるんだったら、べつにいいと思うんですけど、そこがぜんぜん整わないから。

長沖:そうですよねえ。それはもうみんな、みんなですよね。障害あってもなくても。ね、子ども産んでも働けるんだったら何とか収入も手に入るし、夫に、男に逃げられようが何しようが、産んで育てればいいんだけど、ほんとにシングルマザーになれない社会だから。

田中:そう、そうですよね。だから、なんか経済的な理由で産めないっていう中には、産みたいけど産めないって人がいっぱいね、いて、たぶん一人でも、こんな変な男に養ってもらわないでも一人でも育てられるわってならばね、べつにもうさっさと産むんだけど、っていう人もいっぱいいるのかなと思うと、やっぱそこをなんかね、ほんとに変えていかないと。

長沖:だから、日本ではできちゃった結婚がやたら多いわけじゃない。妊娠した時に、産もうと思ったら結婚するしかないってね、選択肢としては。でけっきょくその、男は稼いでこなかったり暴力ふるったりいろんなことがあったりするわけだから、女が一人でちゃんと産んで育てられるような社会がぜんぜん気持ちが楽。

田中:そうですよね。ほんとに、そのへんをなんとかしないと。何か、出生率どうのこうのとか言ってんのはお前たちに対する仕返しだー! って言いたくなるけど(笑)。

長沖:いやいや、ぜったい産めないですよ。産みたいと思えるとこじゃないと。

長沖:もう一つだけなんか、

田中:はい、もちろん。

長沖:言っとくと、私もう一つやらなきゃいけないことに、当事者の声を、ちゃんと伝えていくっていうことが必要だと思っています。
フィンレージの会って不妊の自助グループがある。『不妊』っていう本を翻訳したんですよ。これが91年に出て、そのあと日本の当事者からお手紙とかいただいて、それで自助グループを作った。当事者の、当事者の気持ちわかんなければ技術に対して何も言えないだろうっていうのがあって。
そこから派生して、『AIDで生まれるということ』っていう本を当事者の人たちと出してます。精子提供で生まれた人たちの当事者と一緒に。やっぱり当事者が当事者の声をきちっと出して、それを社会に伝えてくっていうのは必要なことだと思っています。日本で出自を知る権利、生殖医療で生まれていく人の出自を知る権利っていうのが問題になった時期から、AID関係者のインタビューをして、生まれてきた当事者もインタビューしてるんですが、その人たちが自分たちのグループを作ってくっていうようなところの動きに関わったりもして。


*頁作成:中井 良平
UP:20220715 REV:20220731
声の記録(インタビュー記録他)  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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