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山田悠平さんインタビュー

20220125 聞き手:伊東香純 於:timepiece cafe(京都市河原町)

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◇山田悠平 i2022 インタビュー 2022/01/25 聞き手:伊東香純 於:timepiece cafe(京都市河原町)
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:相良真央(一般社団法人精神障害当事者会ポルケ)

伊東:では、さっそく山田さんのインタビューを始めていきたいと思います。

山田:はい。

伊東:時系列的な感じで、どんな感じで運動に関わり始めたのかというところから、お聞きしていきたいなという感じなんですけど、最初はどんなところから入っていった感じですかね。

山田:そうですね、運動というのをどう考えるかはあるんですけど、もともと精神疾患を患いだしたのが20歳とか21歳ぐらいで、そこからどうにかこうにか大学を6年かけて卒業して、その後にまあ行くとこなくて、もともと東京の大田区っていうところで生まれ育ったんですけど、そこのエリアの生活支援センターといって、精神障害の人の居場所みたいな施設が大田にもあってですね。そこに通うようになったんです。

伊東:うんうん。大学出てすぐに。

山田:そうですね。

伊東:ほうなるほど。

山田:特に就職するところとか、その後のことは決まってなかったんです。で、そんなにまだ体調の安定もしてなかったので。その後も入退院をしながらという感じだったんですけど、生活支援センターに通っている人たちと、いわゆるピアサポート的な取り組みをすることになったんです。ちょうどそれが、この前伊東さんも会ってくれた、梅井さんっていう、お姉さんいたじゃないですか。

[02:22]

伊東:ああ、梅井さん、はいはい。

山田:はい、梅井さんっていう。彼女がその時そこの職員さんされていて。

伊東:ああなるほど。

山田:梅井さん覚えてないらしいんだけど、梅井さんがけっこう気を利かしてくれて。そういう取り組みがあるんだよとか資料を教えてくれたりとか、そういう取り組みに関心ある人、施設の中でちょっと紹介してくれたりしたんです。なんかできるとこからやってみようみたいな感じになったんです。そこで仲良かったような人たちでもあったので、はじめはそれこそなんか3、4人ぐらいから集まって。生活支援センターには交流的なスペースのほかに、相談室みたいなところがあって、当事者だけで集まって改めて、最近思うこととか、語り合ったりとかから始まりました。そこの施設ではもうひとつ大きな出会いをいただいたんです。そこの生活支援センターのご紹介で、NPOの中間支援って呼ばれる分野があるんですけど、それは簡単に言うとほかのNPOを応援するみたいな役割が、中間支援っていうんですけど、そこの中間支援施設の、お掃除のアルバイトをするっていう機会をいただいたんです。お掃除といっても1か月に1回共用スペースを掃除するみたいな感じで、そこでまあ、はじめはただ、体調ならしに掃除に行くみたいな感じだったんですけど、1年ぐらいした後だったかな、その地域のイベントを手伝うようになりました。いわゆるアルバイト、有償ボランティア的な感じで、そこで働くようにもなったんです。それこそ障害者スポーツだとか、若者支援とか、街づくりとか、いろんな地域のNPOの取り組みを知る機会をいただきました。そのさっき話したようなピアサポートみたいなことも、なんかもうちょっと自分としてできないかなと思って。そういった活動を応援する助成制度みたいなものがあるって知ったんです。ちょっと勉強しながらできないかなみたいなことで、当時の上司に相談をして、助成申請をちょっと手伝ってもらったりしながら、ただ集まってダベるっていうところから、取り組みとして、勉強会をしたりだとか、どこかに見学に行ったりとかね。そういうことにちょっとつながってったみたいなところが、けっこうはじめのはじめな感じだったんです。

伊東:その上司っていうのはNPO中間支援の方ですか。

山田:そうですね。いわゆるまあ中間支援のお仕事、色々あると思うんですけど、そういう、助成とか、ファンドレーシングっていうとかっこいいですけど、そういう要素もあって。そういうところとか、あとは、いわゆる事務的なサポートっていうか。そういうことも経験させてもらって。けっこうその辺が今につながってくるようなところでもあるんですけどね。

伊東:なるほど。そのNPOの上司の方に手伝ってもらってだんだんグループになっていった人たちと、最初の生活支援センターでグループになってた人たちは重なる感じですか。

山田:そうですね。まさにその延長だったので、グループとしては、その社会福祉協議会の助成とかいただいて、そういう取り組み自体が、大田の中でも当時珍しくて、社会福祉協議会の職員さんとか、生活支援センター以外の人たちとのつながるを機会いただいて。それで、けっこうみなさん前向きにとらえてくれました。「頑張ってね」みたいな感じで。いろんな形で、応援はしてくれてたんですけど。たしか発足して1年以内ぐらいで、私はそこの中で一番歳が若かったんですが、副代表みたいな感じで役割があったんです。代表の人が、自立支援協議会といって、そういった各地域で会議体があるんですけど、そこの部会委員とかもしてくれて、発展的な兆しが見えてきた感じでもありました。

伊東:その最初のグループって何人ぐらいのグループだったんですか。

[08:10]

山田:そうですね。いわゆる運営的な人は、どのぐらいいたんだろう。でも、4、5人、ぐらいだったのかな。でもこう、いわゆるそのイベントに来てくれるみたいな人を入れればもうちょっといたのかな。

伊東:それはそのセンターで集まって、センターの相談室で?

山田:そうですね。そこで、交流的な企画をしたりとか。会議みたいなことをしたりとか。そんな感じでしたね。

伊東:じゃあその次あたりの話をしますか。

山田:うん。そこ自体がまあ、とは言いつつもあんまりうまくいかなかったんですよ。

伊東:ああなるほど。

山田:はっきり言うと。人間関係然り、体調のこともあったりして。で、やめますっていう形で自分からちょっと引いてしまったんですけど。

伊東:そうなんだ。どのぐらいいたんですか。その支援センターグループには。

山田:そうですね。たぶん2年ぐらいだったかな。2年ちょいぐらいで。そこ自体も、その年ぐらいになくなっちゃったんですよ。グループとしても。

伊東:そうかそうか。なるほど。

山田:その過程の中でやっぱり、まあいろんなことも言われたし、自分としてもグループで活動するって大変だなとか。逆にそのグループっていう中で、何かを始めるって大切なこともあるんだなとか。ある意味学ぶこともあったんです。あとまあ、ある意味みんな個性的でもあるので、その辺をどういう風に、いいとこ出し合ってグループとして動くかみたいな、なんか、よく分かんなくなっちゃったんですよね。でまあ、疲れちゃったのもあって、やめてしまった、っていう感じだったんですよね。

伊東:それから障害平等研修ですか。

山田:いや、そこはちょっとまたあって、さっきちょっと話した中間支援の人たちの地域のいろんなつながりの中で、むしろ障害福祉の職員やってる人たちとか、そういう人とも出会うんですけれども。大田障害者連絡会という、クロスディスアビリティの大田のネットワークみたいなのがあってですね。よく分かんないままに誘われて、よく分かんないままに行っていたら、いつのまにか副代表やってくださいみたいになって。もともとその団体自体が1995年ぐらいからある団体で、どっちかっていうと、もともとある日本のその伝統的な障害者団体とはちょっと違う亜流のグループで。この辺はちょっとまた後で、聞いてもらえればいいけど、日本身体障害者連合会っていう、もともと傷痍軍人の人たちのグループとはちょっとちがう派閥のような、どっちかっていうと、グループでもあったんですよ。ただ、そんなことよく分かんないじゃないですか。

伊東:そうですね。

山田:で、そこに入って、大田区の区議会議員の人とかと懇談するとか、あと学習会みたいなことをして。で、時代的には自立支援法から、総合福祉法になるかなんないかみたいなせめぎ合いの状況で、いろんな意味で盛り上がりもあった時代だと思います。もうちょっとその後か。でもまあいろんな、それこそ条約の批准の前でもあったりとかっていうタイミングですね。

伊東:懇談とか学習会とかってどんなことやるんですか。

山田:そうですね、やっぱり、まだまだ当時は骨格提言をちゃんと履行しようみたいな動きがあって。で、ちょうど僕はまだ関わる前だったのか、そういった骨格提言とか、そこを見越してやっぱ制度改革を進めようみたいな動きがあって。でも、一方で、なかなかそういう方向にならずに、一方で地域の中では自立支援法のサービスが使いにくいだとか、いろんな歪みの問題抱えてて、それを、きょうされんだとか、日本障害者協議会の方に講師をお願いしていたんですよね、今思うとね。正直言うと、何を話してるかなっていうことは何となく自分としても理解はできていたつもりでしたけども、それが地域の中で何で必要なのかとか、それを活用してなにか具体的な経験を作れてるかとかは、ちょっとまだよく分かんなかったんですよ。正直言うと。

伊東:それでよく行きましたね。

山田:まあそうですよね。

伊東:難しそうな話に一気になったので。政策とか。

山田:そうですね。でもまあ、たぶんそういう話自体は、あんまり、抵抗感はない人だったと思うので。あとまあ、さっきの話にちょっと戻るんですけど、そこは、身体障害の人とか、支援職の人とか家族の人とか、けっこう立場を超えてやっているグループでもあったのですが、精神障害の人はあんまりいなかったのかな。それぞれの立場のグループの動きも、大事なんじゃないかなみたいなのは、思ってて。ほんと、良くも悪くもとりあえずやるみたいな感じはあったと思います。

伊東:その集まりってけっこう頻繁にあったんですか。

山田:そうですね、少なくともひと月に1回ペースで会議があったりだとか、そういう学習活動みたいなのだとかも、年に多い時は3、4回とかだし、その打ち合わせの過程の中で、先輩たちが話している議論を聞いて、ああそういうことが起きてるんだなとか、そういうことも、知れたみたいな感じで。で、その立場で、自立支援協議会に自分も関わるようになったりもあったの。まだまだ体調の面もあったんですけどね。まあそんな感じで、やってたんですね。

伊東:基本的にはそこは大田の人ばっかりが集まってる。

山田:そうですね。たまにこう、大田とか目黒とか品川といって、近くの人たちと一緒に福祉フォーラム城南といって、東京の中でも、ブロック的な言い方があるんですけど、そういう形で大規模になったりとか、そういうのもあったんですけどね。でもやっていく過程で、さっきちらっとおっしゃった、障害平等研修っていう、もともとイギリスの、ロンドンオリンピックの時に、イギリスの障害者団体の人たちが中心につくった社会モデルの研修を広めようみたいな、ムーブメントがあったようなんです。それの普及啓発を各国で担ってた久野さんっていうJICAの職員の人が、日本に帰ってこられて、NPO法人をつくったんです。たしか地域単位で初めて研修紹介の企画みたいなのを大田区で開催して、大田障害者連絡会の人たちとも企画をしたりして。それでその時に久野さんだったり、たしか曽田さんともご縁をいただいて。

伊東:けっこう長いお付き合いだったんですね、曽田さんと山田さんって。

山田:そうですね、そう考えるとそうですね。曽田さんはなんか、すごいなあと思ってずっと。向こうはどう思ってたか分かんないですけど、なんかそういう感じです。

伊東:その久野さんがNPOをつくられたのが大田だったってことですか。

山田:そうですね、そのあとも結果的にNPO法人を作られて、そこのお手伝いなんかも、冒頭話した中間支援のNPOの立場でもちょっと関わることもあって。その紹介セミナーの翌年ぐらいに、国内の養成研修が始まって、大田から、もう一人仲間と一緒に参加をしたんですけど、その時にDPIの人たちだとか、いわゆる全国区で活動をしてるような人たちと出会うんですよ。

[20:45]

伊東:なるほど、なんかだんだんつながってきました。それっていつぐらい、年代的にいつぐらいなんですか。自立支援法が総合支援法になって。

山田:そうですね、たぶん14年15年ぐらいかな、もしかしたら。差別解消法が、成立して、だと思いますね。

伊東:なるほど。そのDPIとか最初に知って、どんな感じだと思いましたか。

山田:ぶっちゃけDPIとか詳しく知らなかったんですよ。

伊東:そうですよね。

山田:今も事務局長されている佐藤さんが当時も事務局長をされてたのかな。DPIの他の職員の人も含めて数人来てて、自分もNPOの職員なわけですよ、中間支援の。「あなたもNPO職員やってるんだ」みたいに言われて、「そうなんです」ぐらいのコメントしかできない感じだったので。彼らもともと運動やってて、社会モデルっていうことも、もちろんその自分たちの活動の中身としても、きっと培ってきてやってるところだったと思うんですけど。私には、そういった社会モデルっていう考え方を自分事としてどう理解するかとか、どう伝えていくかとかそういった部分では、勉強になったんですよ。あとはあの、この界隈だと天畠さんとか。今も交流がある人で言うと、佐藤さんっていう。

伊東:DPIの佐藤さんではなく?

山田:DPIの人たちとも交流あるんですけど、ドラムをたたいている全盲の友人の佐藤さんという人もいて。

伊東:分かった。

山田:そうですね。安田さんもそうだし、

伊東:安田さんは?

山田:立命の。

伊東:ああはい。安田真之さん。

山田:そうそう。視覚障害の人が多かったですね。

伊東:そうですね、そう考えると。

山田:JICAにいる福地さんもいたかな。常さんっていう女性の人とか。

伊東:ふうん。そういう方たちにみんなその障害平等研修で出会ったと。

山田:そうですね。

伊東:すごい、交流の場だったんですね。

山田:うん、そういう要素もありましたね。なのでなんか、そういう意味で言うと、ほんとにいい機会をいただいたわけで。でまあ、障害平等研修の養成研修が終わって、少しだけ職員的なこともちょっとしていたこともあって、それこそさっき言った、安田さんの地元の熊本で障害平等研修の紹介セミナーみたいなのを開いてくれて、そこでちょっと一緒にファシリテーターのお手伝いをして。障害平等研修をDETって言うんですけど、そこの理事の人を、長瀬さんもされてました。

伊東:そうなんだ。

山田:それで、たしか長瀬さんも一緒に来てくれたんじゃないかな、熊本。

伊東:ちょっと戻っちゃうんですけど、最初の研修ってどれぐらいの長さあるんですか。

山田:たぶん、週末を、2日間、都合4回か5回ぐらいです。その間にこうなんか、宿題みたいなのもあったので、けっこう、僕なんかはよく分からなかったので、勉強になったんだと思います。

伊東:けっこうハードですね。週末4、5回っていうと。

[25:56]

山田:途中が空いてたりもあって。なんか定期的にやっていきましょうみたいなのもあったりして、そこで大田の人にちょっと、模擬的に参加者になってもらったりもやってましたね。

伊東:その研修ってなんかこう、コース以外にも仲良くなる場みたいなのもあったりするんですか。一緒にごはん食べたりとか。

山田:そうですね。実験的な、実験っていうと怒られちゃうんですけど、その延長でどうやってやろうかみたいなディスカッションだとか、終わった後に食事会みたいなのもやってましたね。

伊東:なるほど。安田さんとかの流れで熊本にも行って。

山田:当時は基本的な研修の型みたいなのがあって、そこにアレンジっていうことではないんだけど、自分の持ち味みたいなのを出していこうみたいな。それも一長一短があったみたいらしいんですけど、そういう話し合いをするのも楽しくて。熊本行かしてもらって、そんとき今ポルケで理事もしてくれてるんだけど、相良真央さんだとか、山田裕一君とか。あの辺とまあ、出会うわけですよ。

伊東:けっこうそこのご縁も長かったんですね。それは知らなかった。

山田:ご縁の延長でご縁いただいてみたいな感じで。なんか熊本ではDETの研修で寸劇みたいなのをして、ある意味今考えると、恐れ知らずだったんですけど、DPIの議長をされている人で熊本の平野さんにも一緒に出ていただきました。平野さんが精神障害者に差別をするみたいな。こっちで台本を書いて。そのちょっと前にあったんですけど、差別案件で。インターネットカフェで手帳を落としちゃったかもっていう人がいて、その問い合わせから入店拒否にあったっていう事例があって。それをモチーフにして、寸劇をしたんです。で、平野みどりっていうみどりにかけて、東京だと精神障害の手帳の色が緑なんですよ、カバーが。それでなんか、あんまり会場にはウケなかったけど、そういうのもちょっと入れたりして。で、「何が問題ですか?」みたいななげかけをしてワークショップとして良かったかはあれなんですけど。そういう感じでまあ、いわゆる疾病的な意味でのとらえどころじゃなくて、障害当事者の投げかけのもとに社会的な文脈で障害を考えようっていう試みでした。滔々と座学でやるっていうよりは、ワークショップしながら考えて。発見型学習って言ってましたけど。そういう研修なんです。全体として。でもその寸劇をしたときに泣いちゃった子がいたんですよ。

伊東:ほう、なんで?

山田:なんか自分が差別をされるかもしれないと思うと、悲しかったって。

伊東:ああなるほど。

[30:10]

山田:それがなんか、熊本の当事者団体の今も代表をしている女性なんですけど。泣いてたから「大丈夫ですか」って声をかけて、会場の外にお連れしたんですけど、後で言われたのが、けっこうアイドル的な存在らしいんですよ。なんか東京から来た良からぬ男が、自分たちのアイドルに手を出すかもしれないみたいなことで、警戒をされたみたいな。

伊東:ははは。せっかく優しくしてあげたのに。

山田:その辺がその山田裕一さんたちとの出会いですね。

伊東:そうなんだ。その頃には山田裕一さんたちの団体はもうあったんですか。

山田:そうですね。リルビットさんと言って、発達障害の人たちの当事者団体があって。

伊東:そうなんだ。平等研修に参加されてた?

山田:そうなんですよね。たぶん立命館つながりで、山田さんも、たぶん当時客員研究員でしたっけ、されていて。相良さんも障害学会とか、発表されていたのもあって、それでたぶん来てくれたんじゃないかな。

伊東:へえ。なんか濃いですね、熊本の思い出は。何日ぐらいあったんですか。

山田:研修自体はたぶん1日だったんですけど。

伊東:それにしてはすごいですね。

山田:それ終わった後とかちょっと、彼らがやってる交流会とか行かしてもらったりだとか。いい機会をいただきましたね。

伊東:へえ、すごい。いろんな方にそのあたりに出会ってるんですね。

山田:うん。そう考えるとラッキーなんですよね。

伊東:たしかにそうですね。

[32:10]

山田:なんか大田でよく分かんないままやってたところから、いろいろ機会いただいて、社会モデルのことだとかもそうですし、全国区で活動されてる人たちと、つながる機会をいただいたりだとか。熊本にも行かしてもらったりとか。ほかでも、いわゆるこう同じ、同期っていう風にあんまり言わないんですけど、一緒に学んだ人たちと、会社で障害平等研修やる機会をいただいたりして。

伊東:会社とかでやるんですか。

山田:会社もありましたね。

伊東:会社というのは普通の一般の企業っていうことですか。

山田:一般、あのリタリコさんていう。当時も一部上場だったのかな。就労支援の全国的な展開されてるとこですけど。

伊東:あ、なるほど。

山田:福地さんという、視覚障害のある人が、役員の人と仲が良くて、そのご縁で研修やったりだとか。

[33:45]

伊東:そういう研修って、お給料みたいなのって出るんですか。

山田:ああ、たぶん出てたと思いますね。でもある意味過渡期だったので、内容面然り。いろいろその都度その都度確認しながらみたいな感じで。で、ある段階でなんかあんまり研修構成の内容をいじくるのをやめようみたいな感じになったんですよ。それでまあ、障害当事者として、ファシリテート的な役割を担うわけですけど、なんか立ち位置みたいなのがちょっと分かんなくなっちゃって。内容的にやっぱり身体障害のコンテンツが多いんですよ。バリアフリーという意味でも、そんな感じなんですよね。それに対して自分の精神障害の立場で、何を伝えるかだとか。別に障害種別の問題じゃないんだよっていう立ち位置を含めて、なんかあんまり、しっくりいかなかったんですよね。それで、そういう研修をやるっていうところからは離れていって。たぶんほぼ同じタイミングで、中間支援のお仕事も、辞めるんですよ。

伊東:中間支援のお仕事は、毎日っていうんですかね、決まった日に行くみたいな、けっこうサラリーマン的な感じ?

山田:そうですね。そんなに何時から何時までみたいなはっきりとしたものはなかったんですけど、だいたい、10時ぐらいから。夜会議が多いんですよね。なんでかっていうと、他の団体さんとの会議が多いので、他の団体さんの人はだいたい、他の仕事をしてて、夜の時間で打ち合わせをしたりとかっていう感じだったので。そうすると例えば終わるのが、会議が7時から始まって、9時とか。

[36:45]

伊東:けっこう大変ですね。

山田:そう、でもそれはね僕の中で普通だったので、大田障害者連絡会とかも、基本はそんな感じ、みんな仕事終わってとか、7時から集まって9時までやって。でもあんまりやっぱそれがあんまり普通じゃないみたいだね。

伊東:ハードですね。中間支援をこの時期に辞めた?

山田:そうですね、辞めて。で、これはなんかあんまり言いづらいけど、けっこうもらってた金額が、時間数に見合ってなかったんですよ。アルバイトっていうとそのいわゆる最低賃金みたいな想像されたかもしれないですけど、そこからは縁遠くて。まぁ、有償ボランティアっという感じだったんでけど。

伊東:ああそうなんだ。

山田:うん。たぶん、一回ある時時給計算したんですよね。で、当時、妻と結婚してなかったんだけど、言われたんですよ。「それはおかしいよ」って。で、そうなんだと思って。で、なんか僕って考えないじゃないですか。おかしいっていわれるとおかしいって思っちゃって、法人としてもそれ以上お金も出せるような状況でもなかったのと、あと違うとこでなんか頑張って、みたいなテンションでもあったんで、それで辞めた感じですね。でも、そういういろんな活動の中で、会議の記録を作ったりとか、会計報告をまとめたりだとか、今にほんとにつながるようなことをけっこう、スキル的にも学べたとこはあって。誰かが詳しく教えてくれたっていう感じでもなかったんですけど、工夫しながら実践で自分なりにやってって感じかな。

伊東:辞めて、しばらくは?

山田:辞めて、で、結局また中間支援的なところに行ったんですよ。それが公設民営の大田の施設だったんですよね。なのでまあ、もともと小学校の跡地を活用したような施設がありまして。そこで都合3年ぐらいいたんですね。

伊東:それがこらぼ?

山田:そうですね、こらぼ大森というとこで。よくご存知ですね。

伊東:はい、そこに決めた理由ってなんかありますか。何で知ったんですか、こらぼ。

[40:40]

山田:もともと仕事の延長で知ってたんですよ、こらぼのことは。なんか職員が空いてるみたいなことがあって。仕事を辞めるとは言ったけど別に次を何も決めてなかったんですよ。なので、とりあえずやるかなみたいな感じでやったみたいな。それまでも、こらぼで会議をしてたこともあったんですよね、たぶん。そこで打ち合わせをしたりしてたので。若者支援みたいなことをやってる人が当時、ちょうど上司だったんですけど。

伊東:こらぼのですか?

山田:そうですね。その人も知ってたし。

伊東:そうなんだ。じゃあお互い何となく安心だったんですね。

山田:うーん、まあそうですね。

伊東:あの山田さんだって。

山田:そうですね。でもまあ、表向きには自分の障害のこととかってあんまり言わなかったので、いわゆる障害者雇用とかではなかったんですよね。

伊東:うんうん。こらぼ大森って何年ぐらいの団体なんですか。

山田:こらぼ大森は施設なんですけど、どのぐらいなんだろう。でもその時で、10年ぐらいだったかな。できあがって10年は経ってないか。どっちかっていうとまあ、そのエリアの町会自治会の会長さんと、NPOの人たちが理事に入ってできた団体ですね。

伊東:山田さんの同僚に当たるような人ってどれぐらいいたんですか、人数的に。

山田:うーんでもどうなんだろう、その上司も途中でやめちゃったんですけど、でもまあ3、4人ぐらいいたんじゃないかな。

[43:26]

山田:なんか私は協働支援員という役割だったんですけど、それをやってた人はたぶん3人ぐらいです。あとはその貸し館の職員さんとかは、10人とかいたのかな。

伊東:ポルケはまだ出てこないですね?

[44:05]

山田:ポルケはまだですね。病者集団がその途中にあったのかな、関わりとしては。どのぐらいだったのかな。たぶん、その障害平等研修のたぶん前だったと思うんですけど、あの中野区で、アドボケーター養成講座みたいなものを、山本眞理さんが開いてくれてて。そこにたぶん初めて行ったのがきっかけで。まあ、もともと眞理さんが大田にいらっしゃったらしいんですよ。

伊東:そうなんですか。それより前に?

[45:37]

山田:それより前に。で僕がその大田障害者連絡会に入るぐらいの時にはもういなかったんですけど、まあいろいろ語り草にはなってて。

伊東:いたっていうのは住んでいらっしゃったってことですか。

山田:住んでいて、そこで活動もされてたんですよ。障害者団体にいたかどうかまでは分からないけど、自立支援法できるかできないかの時には、大田っていう枠組みでも、学習会で講師をしてたりとか、あったみたいで。なので、山本眞理さんっていう、すごい人がいたんだよみたいなことはなんか、いろんな人からは聞いてた。いつか行ってみたいなって感じではあったんですよ。

伊東:なるほど。

山田:そういう、養成講座みたいなのを、たぶん枠組みで言うと、権利主張センター中野っていう――関口さんが代表なのかな――そこで開催されてて。それきっかけに、会員になったような記憶がありますね。

[46:48]

伊東:その権利主張センターの?

山田:いやいや、病者集団。

伊東:あ、そうなんだ。どう思いましたか、最初。そのアドボケーター養成講座で。

山田:うーん、そうね、どう思ったんだろうね。でもけっこう具体的な話を話してくれたのを覚えてて、そういう時にあなただったらどうするかみたいな。とか、たぶんその時だったと思うんですけど、いわゆる移動支援とか、障害福祉のサービスを、精神障害の人も使うんだよとか。使えるんだよとか。なんかそういう、当時の僕には新鮮なことを教えてくれたんだと思います。あと、もともとの医療っていう枠組みについて。精神科医療っていうとらえ方。なんか当時、モヤモヤっとしながら思ってたところを、ああそうだよなっていう風に、言葉をいただいたというところもあって。団体の実態はよく分かんなかったんですけど。まあなんかいいなあと思ってみたいな、そんな感じでしたけど。

伊東:眞理さんとの交流はその頃けっこうあったんですか。

山田:そうは言ってもそんなになかったですね。

伊東:アドボケーター養成講座って一回きりのイベントみたいな感じ?

山田:基本そうだったと思います。

伊東:運営委員になるのはもうちょっとあとですか。

[49:33]

山田:運営委員になるのはそうだと思う。伊東さんに韓国で会ったじゃないですか。あの時はたぶん運営委員じゃなかったと思うんだよね俺。あのTCIに、TCIが何かも分からずに誘われて。

伊東:眞理さんに?

山田:うん。で、前々からなんか名前が出てくる桐原なる人とか、立命館の人とかも来るよみたいな感じで、あ、そうなんですかみたいな感じで。で、こっちとすると、きっかけは真理さんがFacebookかなんかに書いてて。

[50:33]

山田:なんか会計だとか、事務的なところをやってくれる人いないかな、みたいなこと書いてて。

伊東:病者集団のですか。

山田:たぶんそうだと思う。真面目にそれに返しちゃったんですよ。一応会員にもなってて、そういうさっきの流れもあって、お手伝いできるところもあると思いますみたいな感じで言って。で、そしたら、事務まわりの仕事ではなくて、いきなり韓国に一緒に行くみたいな感じで。で、それで行ったんですよ。

伊東:ああなるほど。

山田:で、行く時に――行く時だったっけ――DPIの助成があったんですよ。なんだっけ、忘れちゃった。若手の障害者の活動に助成を出すみたいな。三澤基金だ。それでTCIの取り組みを、あの帰ってきたら報告するみたいな。そんな内容も含めて取って。で、結果中野で報告会をして、京都では桐原さんとかみなさんに協力していただいて、立命館でやらしてもらったんですけど。

伊東:ふーんなるほど、そこにつながっていくんですね。

山田:で、桐原さんとは、その前に会ったのかな、うろ覚えなんだけど、僕の記憶だと、FGC、ファミリーグループカンファレンスの研修の時に、会ったんだと思う。

伊東:桐原さんたちに。なるほど。

山田:あの時に実は妻がたぶん一緒に行ってて、当時は結婚してなかったんですけど。そういう感じで、たぶん当日の研修グループは違ったんですけど、(桐原さんも)いたんだと思う。終わりがけに話をして、今度来るんですかみたいなそんなことがあったと思う。

伊東:韓国に?

山田:たぶんそうだったと思う。たしか。

伊東:そっから実際に、事務とか任せられたりしたんですか。

山田:で、「そういうお手伝いをするんであれば、運営委員になってください」って桐原さんに言われたんですよ。で、「分かりました」って言ったんですよ。そしたら、ええと「運営委員には、任せられません」って言われて、眞理さんに会計のこととか任してもらえなかったんですよ、たしか。

伊東:あ、じゃあ結局、最初の内はそういうことはしなかった。

山田:最初の内は、運営委員っていうのを誰がやってるとか、よく名前の出てる山本眞理さんが、いわゆる役員だと思っていたんですよね。で、桐原さんの「運営委員になってください」っていう意味もよく分かんなかったんですけど、「まあなりますよ」みたいに答えたの。眞理さんはよくわかんないけど運営委員にはなってほしくなかったみたいで。「あれ?どういうことなの」みたいな感じで、戸惑ったのを覚えています。

[55:56]

伊東:なるほど。その時が、運営委員になった時ってことですか。

山田:そうですね、インチョンに行って帰ってきてからですね。

[56:24]

伊東:ちょっと飛ぶかもしれないんですけど、今山田さん、いろんな国の会議とか出てるじゃないですか、病者集団の代表として。そういうのもやるようになったのは、それからまた更にけっこう経ってからですか。

山田:うーん、そうですね。たぶん、その病者集団が国の会議とかに出た時代って、民主党政権下なので、それから政権交代あったり。以降はあんまり関わってないと思うんですよ、国の検討会とか。むしろアリバイとして取り込まれるみたいな論調で、やってなくて。比較的最近だと思います。

伊東:ああなるほど。

山田:改めて中に関わって、中で言うこと言わなきゃみたいな。

[57:30]

伊東:なるほど。

山田:ポルケができたのが、2016年の8月なんですけど。

伊東:その経緯はぜひ聞きたいですね。

山田:なのでたぶんあれなんです、病者集団の運営委員も含めてなった後だと思うんですよ、つくったのが。

伊東:ポルケができたのが。

山田:うん、2016年っていうのは、いろんなことがあった年で、ひとつが7月に相模原の事件があったりだとか。あとは、解消法が施行されたりとか。そういう年で、よりなんか、いろいろ考える機会があったんですよ。で、一番はじめに言ったあのグループが崩壊してからは、なんかあんまり精神障害っていう単位で動くことが、そんなに意味ないかなみたいなのもあったんですけど、逆に病者集団に関わる機会をいただいて、もうちょっと身近なグループとして、大田っていう単位ではないにしても、やっていきたいなみたいな。そんな思いに駆られて。で、当時、活動ではないんですけど、バリアフリー社会人サークルcolorsっていう、グループの取り組みもしたんですけど。そこに来てた、精神の当事者何人か声かけて、それでまあ、やっていこうみたいな感じで始めたんですよ。

伊東:そのサークルはどんなきっかけで?

山田:サークル、そうですね。だいたいあの、固有名詞言わなかったんだけど、中村さんという、以前、伊東さんも来てくれた、重度知的障害の自立生活の企画で、髭ぼうぼうのおっさんいたじゃないですか。彼がちょいちょい節目節目でいろんな仕掛けをしてくれてたんですけど。最初に誘ったのは彼だったし、「DET紹介セミナーを大田でやろう」って言ったのが彼だったりとか、そういった意味で、すごい人なんですけど。彼が理事長を務める法人が、重度知的障害の人の自立生活を始めるっていう時に、3階建ての建物を借りたのかな、当時。2階は誰かに貸してて、1階は、フリースペースで、あそこでなんかイベントをやろうみたいなノリだったんですよ。イベントをすることで、自然な形で重度知的障害の人も住んでるよとか、関係性を築こうっていう、ムーブメントやっていこうみたいな感じではじまりました。ちょっとしたおふざけ的な要素から、まじめな、なんていうかトークイベントまで、ほんとちっちゃいスペースだったんですけど、そこでやってたんですよね。で、そこでまあ、今までのつながりと違う層の障害者だとか、いろんな人が来てくれて。そのうちの何人かが精神の人で、それが大きかったんですよね。

[01:01:34]

伊東:そこにカラーズの人がいたってことですか。

山田:そう、カラーズに遊びに来てるみたいな人。

伊東:カラーズと中村さんの団体は一緒じゃないですよね。

山田:そうですね、どっちかっていうとカラーズは1階のイベントの委託的な感じでやってた。結果的にはけんか別れみたいになったんですけど、そういうご縁の中で、逆に僕の友だちとかも来てくれたりとか、いつの間にか僕の友だちの人が2階に住んでたりだとか、なんかおもしろかったんです。でまあ、そんな流れもあって2016年にポルケの活動がスタートしました。

伊東:最初は何人ぐらいだったんですか。

山田:最初はでも4人ぐらいで、でもその時、前回の反省もあるので、あんまり言うと良くないかもしれないけど、なにがあっても一人ででももやっていこうみたいな、決意みたいのはあったんですよね。できることから始めました。

伊東:お話会とかですか。

[01:03:47]

山田:そうですね、はじめはその活動のウェイトは大きかったですね。でもそこの仲間が何人か、TCIの報告会を手伝ってくれたりもして。2016年の翌年度ぐらいから、本格的に――本格的でもないか――、改めて自分で助成を取ったりして、学習活動、自分たちが本当にやりたい内容をやっていこうだとか、そういう感じで進めてって。あと、中野の報告会の時に、出会いとしては東京大学の井筒さんが来てくれたんです。そこからご縁いただいた感じで。で、京都は京都で立命館でね、報告会を開催していただいてみたいな。

伊東:そうでしたね、渡口さんあの時に会ったし。

山田:徐々になんか広がりがまた生まれていったみたいな感じですね。

伊東:一応現在まで来ましたよね。

山田:16年ぐらいですね。去年ぐらいまで。

伊東:ああたしかに。じゃあもうちょっと行きますか。お話会は月一ぐらいでしたっけ。

山田:月一でやってて、この間コロナとか台風でやれない時もあったんですが、今月で60回。

伊東:へえ、すごい。

山田:うん。お話会は、はじめはそれこそ、カラーズの関係だとか、友人の友人みたいな人が多かったんですけど、インターネットにその報告書いたりもしてたので。

伊東:ふうん、その頃からですか。

山田:うん、だと思う。それで、ネットから初めてくる人も徐々に増え始めて。

伊東:よく思いつきましたね、ネットに書こうなんて。

[01:06:15]

山田:うん。なんか、やりっぱなしになるのがあんまり好きくなかったんですよね。学習会とかもそうで、書ける時はなるべく何やったかを書こうみたいなのがあって。それでまあ、その過程の中で一緒に始めた人たちが。やめちゃった人もいたんですけど、一方で関わり始めてくれた人たちが、運営的なところ担ってくれたりもあって。それでまあ、広がりもできてきて、お話会でよく上がるトピックみたいなのを、学習会のテーマにしたりだとか、あとはその行政の要望とかに反映して、単にそこで話して終わりよりは、やっぱりその話してることを発信したりもだし、それを一人の問題にしないでいこうねみたいな、スタンスは、大事にしたくて。今もそれは変わんないんですけど。そういうノリでやってます。

伊東:大田の行政とはどんな感じでつながっていったんですか。

山田:大田の行政は、それこそ大田障害者連絡会。で、自立支援協議会に入ったこともあったし。

伊東:そうかそうか。

山田:もともと運動体でもあったので、つながりはあったんですけどね。

伊東:なるほど。じゃあポルケの法人化は、どんな経緯でというか、どんな理由で?

山田:ああそうですね、法人化。ポルケも様々な取り組みの機会をいただいてみんなねっとさんの家族への差別的取扱いについての全国調査の委託事業だとか、2019年台風19号被害をきっかけにした災害の取り組みの調査事業とか。まあなんか、やることが色々増えてきたわけですよ。なんかほかにもいろいろあったと思うんですけど、その辺端折るとそんな感じで。で、まあなんか、法人化しておいた方が良いだろうみたいなそういうノリです。

伊東:なるほどね。

山田:特に企業関係とかはやっぱり言われることがあって。

伊東:ああそうなんですか。

山田:ええ。2年ぐらい前からあの、井筒さんの紹介もあって、the valuable 500っていうダボス会議で発足した、障害とビジネスに関するムーブメントがあるんですけど、日本財団からのお仕事として、そこの国内企業のインタビューみたいなことをこの間してるんです。それと平行して、企業さんに、差別解消法をテーマとした研修をする機会をいただきました。あとは国立精神・神経医療研究センターの調査みたいなのとか、やってく中で、規模感としてはやっぱり、お金の桁も違ってきたので。あと一緒にやってた副代表が、子どもが生まれるタイミングだったので。組織的な体制を作るみたいなことも考えて、一般社団法人というのを取ったんですけどね。

伊東:山田さんが、専業的になるのっていつでしたっけ。

山田:専業と言うとかっこいいですけど、どんぐらいかな。ポルケ立ち上げて、うーん、2018年ぐらいだと思います。こらぼ大森を辞めるのが。

伊東:それは、忙しすぎてっていう感じですか。

山田:なんか、何をしたいかなってやっぱ考えたんですよ。そしたら、案外時間ってなくなってくなあっていうのは思って。で、子どもも生まれたぐらいだったんですよ。

伊東:ああそうかそうか。

[01:12:07]

山田:で、たぶん普通の人だったら、子ども生まれたからお金をちゃんと得られるようにって思うと思うんですけど。

伊東:ふふ、たしかに。

[01:12:22]

山田:子ども生まれて、子どものこともあるし、こらぼの仕事もあって。で、病者集団、大障連、ポルケ、ほか諸々みたいな。だから、やりたいことをやろうと思ったんです。やりたいことをやるっていうか、今の自分が役割としてやることはこらぼじゃないなと思ったので辞めました。

伊東:でも、全然暇になんなかったですよね。それがすごいなと思って。

山田:ああそうですね。どうなんだろうね。

伊東:今は割と毎日会議とかあるって感じですか。

山田:うーん、会議、そうですね、何やってるんだろうとかってあんまり。昨日は、行政の職員研修とかやってましたね。

伊東:職員研修?

山田:東京都の障害者福祉会館っていうところの職員さんの研修とか、お手伝い。

伊東:へえ。それはポルケの代表で?

[01:14:40]

山田:そうですね。会館の利用登録っていう制度があるんですけど、精神障害があって子育てをしている人を、ピアサポートのようなグループに紹介したんです。その方は利用登録を進めたんですけど、できなかったんですよね。色々聞いてると、「昔、とある精神障害の人でなんか、悪い使い方をしてる人がいるから、利用登録をしたくない」みたいな、ことを言われたってあきらめかけていたんですけど、それおかしいぞって、なんだそれ差別じゃんって思って、いろいろ一連のことを詳しく聞かせてもらったんです。その後、僕の方で公開質問状を起草して連名で提出したのが発端でした。はじめは、よく分かんない回答が来たから、「会って話しましょう」って言って、その場でガチガチやって、都庁の課長さんにその場でごめんなさいって言ってもらって。で、やっぱり研修必要ですねって言質をとったんです。年度挟んで、コロナもあったんですけど、それで研修を迎えたわけです。昨日まさに。

伊東:大きな流れの中のひとつの研修だったんですね。大きな流れというか、昔から何かあった。

山田:そうですね。

伊東:公開質問状を出したのはいつぐらいですか。

山田:2020年の10月ぐらいでしたね。

伊東:長く闘ってるやつですね。

山田:でもけっこうどれもそんなもんですね。活動として何やってますかみたいなことで、なるべくFacebookとかホームページに書くようにしてるんですけど、書けないことってけっこうあって、そういうセンシティブな内容だとか、相談含めてですけど。それはそれとしつつ、公開できるタイミングではなるべく書くようにはしてて。昨日の研修では、はじめに登録を断られちゃった人に、メインで前でしゃべってもらったんです。彼女も「研修やって良かった」って言ってくれてたし、はじめ窓口対応で断っちゃった職員さんも、「あの時ほんとはもっと素直に自分はごめんなさいって言えば良かった」っていうことを言ってて、よかったなと思ってます。ほかの精神障害の人がトラブル起こしたから利用させませんって、まさに差別じゃないですか。みたいなことを解説交えて、改めてお伝えをしたんですね。申請した彼女の当時の気持ちとか団体の取り組みのことも最後に話してもらって、何でここで活動をしたいのかとか、どうしてこういう活動が必要なのかっていう背景とかも話してもらって。そしたらやっぱり、職員の人も顔色変わりましたよね。職員の方にはただのスペースの貸し館みたいな感じで思っている人もいる感じなんですけど、そういう場で、やるっていうことは、どういう意味なのかなとか。どんだけ重要であることとかね。そういうのもやりながらのところで、たぶん昔だったら何だよそれふざけんなよ、で終わってたとこだと思うんですけど、それをそこで終わらせないで、それを相手に伝えて、テーブルつくって、回答をちゃんと書いてもらって、研修させて、研修終わった後に「やって良かった」って言ってもらえるっていうのは、なんかひとつ、良かったなと思いましたね。自分自身としても。

伊東:すごいなと思いました。そういうのって、どういうとこから、どうやって、交渉持ったらいいとか、質問状出したらいいとかって、自分で考えてやってる感じですか。

[01:19:10]

山田:そうですね、やっぱり法律ができたっていうことを逆に活用したい感じなのと、東京都の場合だとあの、東京都差別者解消条例っていうのが、2018年にできたんですけど、そこでまあ、調整委員会といって救済的な仕組みがあるんですよ、一応。あんまり使われてないんですけど。そういうのをちょっと、頼りにしたりだとか。せっかくできた制度をちゃんと活用しなきゃなあと思って、やってますね。

伊東:子ども話でちょっと思い出したんですけど。本書かれたじゃないですか、この間。ああいうグループとはどんな感じの交流があるんですか。

山田:本ってなんだっけ。

伊東:『障害者が語る恋愛と… 』

山田:ああ、あれはですね。蔭山正子さんという。大阪の看護師の先生からお声かけいただいて。

伊東:そちらからのお声がけなんですね。

山田:あとは、神奈川の精神障害の人たちのグループがあって。

伊東:人権センターですか。

山田:それとはまたちょっと違うんですけど、横浜ピアスタッフ協会という、グループですね。そういう人たちと一緒に。恋愛とか結婚とか性愛について、なんかあれに関しては、まあいろんな考えあるんだなというのはあっていいと思います。個人的にはやっぱり、優性思想の問題とか、その辺のこともあったので、やる中でけっこう、あまり書けないとこもあったんです。たとえば、精神障害のある人で生活保護の支給されてる人が行政職員に堕胎を強く勧められたケースだとか。施設の中でやっぱり男女交際みたいなことを理由に、退所せざるを得なかった人だとか。

[01:22:00]

山田:そういう話もちょいちょい出てきてて、結局あの本に関しては取りまとめてくれた編集者のテイストが強かったので、そういうところはあまりフォーカスしきれなかったんですけど、気持ちとしてはそういう問題を掘り下げたかったんです。あとは、障害福祉サービスの中で、育児に関するメニューってあるんですよ、今。でもそれがあんまり使えてなかったりだとか。それに関しては、さっきちらっと出た、子育てのピアサポートのグループにもちょっと関わって。

伊東:そうなんですか。

山田:うん。Zoomとかで、交流会ずっと開いてて。僕はあんま最近出てないんだけど、そこの事例とかを使って、啓発的なリーフレットつくったりだとか。

伊東:ああそうなんですか、それポルケの活動ですか。

山田:「ゆらいく」っていうグループがあるんですけど、蔭山さんが一応科研費取ってくれてて、そこの一環でそういうのつくったりだとか。そういういわゆる運動的な流れがあるからこそ、より感じる課題感ってあるわけですよ。一方で、そういうサービスを知らない人もいるし、そこに敷居がある人もいて、とかまあその辺も含めて、自分事としてどう考えようかみたいなことをちょっと、なるべく一緒に考えるっていう方に関わるみたいなスタンスですね。そこはけっこう女性が中心に頑張ってて、それもとってもいいことだと思うので。これから子どもつくりたいっていう人も最近は関わってくれてて。子育てっていう部分で言うと、保健師さんの関わりが強いわけですよね。いわゆる母子保健。今はそこまでないって言われてるんですけど、やっぱ精神疾患って虐待のリスクみたいに言われてるきらいが強くて、けっこうひどい話もあるんです。ちょっと身の上相談みたいなことで、保健師にぼそっと言ったことが、ネグレクトや虐待をしているんじゃないか、ととらえられちゃって。

[01:25:00]

山田:まあひどい話では、詳しい状況も聞かずに、児童相談所に保護されちゃって、それから10年以上一緒に暮らせてない人とか、います。話変わるけど、今ヤングケアラーとか結構言われているじゃないですか。切り口としては大事なことだと思うんですけど、障害福祉サービスを使えてない問題っていうのがあるなあと思ってて、もう少しいうと行政が使わせてくれない問題もあって。公的サービスを活用して、暮らしをどうデザインするかみたいな。たぶん身体障害の領域からしたらもうちょっとベタな話だと思うんですけど、でもその辺からやっていかなきゃなって、改めて最近思ってて。病院から地域へっていう流れのことを考えると、すごく大切なことだと思うんですよ。家族と同居をしてるとサービス利用の勝手が非常に悪いんですね。あと身体介助があるかないかみたいな。細かい話なんですけど、そういう流れでやっぱり福祉事業全般で、「精神障害はお金になんない、よくわからない」みたいに、とらえられてしまうきらいもあって。引き受けてもらうまでも大変なんだけど、引き受けてもらった後に、やっぱ担い手とか事業所見つけられない問題があって。

伊東:ああなるほど。

山田:来年度やりたいなと思ってるのが、そこのゆらいくに関わってる人とか、近隣のポルケの人にも声かけて、サービスを使うっていうことを、当事者目線でちょっと語ってもらったりだとか、具体的になんか映像的な資料作りたいなと思って。あと意外に、制度が今複雑で、よく分からないっていうのもあって。別に当事者に限らずかもしれなくて、医療とか保健とか障害福祉とかって、けっこうてんでんばらばらなんですよ。それがまとまって、生活者視点で、見える化できてる資料も、あんまりないんですよね。支援者の人たちも、そういったことを知ってもらえた良いなと思うし、いろんな意味で当事者がエンパワメントになるようなものがよいなと。

伊東:今一時間半ぐらい。

山田:なんか言葉を選びますね、やっぱね。

伊東:なんか最後に何かありますか。

山田:最後ですか。ふふふ。最後って言われるとね。

伊東:これの最後です。

山田:ああなるほどね。

山田:たぶんポルケで何やってきたかっていうのはもうちょっと補足をしてもいいかなと思いました。

伊東:そうなんだ。じゃあ次回に乞うご期待。

山田:そうですね。あと、人物的な話があまりできなかったので。キーワード的には中村さんって人はけっこう改めて、キーパーソンだったなっていうのと、その辺から紐付けて話せばよりいいのかなとか。よく分かんないけど、ぼそぼそとしゃべってしまいました。

伊東:ありがとうございました。次回がありそうで楽しみにしておきます。

山田:ありがとうございました。

(音声終了)


*作成:伊東香純
UP:20220513 REV:
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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