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「ブックマンさんインタビューA」

話し手:Bookman, Mark さん/聞き手:兵頭 卓磨さん 20211223 出版社(ex:青土社),オンライン(Zoom)にてインタビュー.

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last update: 20220203


■インタビュー本文

※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)
タイムレコードは[hh:mm:ss]としています。
漢字のわからない人名はカタカナ表記にしています。



兵頭:ありがとうございます。ここまで、アメリカのことをちょっとお尋ねしてみたんですけど。ちょっとここからまた、ブックまんさんご自身のライフストーリーにちょっと戻っていきたいと思うんですけど。幼少期からですね、心理学とか哲学に関心を持たれたっていう話があったと思うんですけど、具体的には真言密教でしたっけ?

ブックマン:ああ、よく覚えてますね。はい。

兵頭:その真言密教に関してご関心を持たれてたっていうのをお聞きしたことがあるんで、そのあたりもう少し具体的にお聞きできますかね。

ブックマン:できますよ。えっと、自分は上智大学に留学したときに、ひとりの神父さん、カトリックの神父さまが、その神父さまの活動をやると同時に、真言密教のお坊さんとしても働いていたんですね。フランス人で非常におもしろいかたでしたけれども。いちおうそのかたが日本の哲学という授業を教えてたんですが、その授業の中でみんなが、空海の書いた『即身成仏義』という論文の英訳を読む機会があって。そこで自分も真言密教に大変関心を持つようになってきました。ちなみに自分は、さっき言った日米教育委員会の3回目の留学は仏教哲学を勉強するために来日したんですけれども、最初的に高野山大学のほうに留学したはずですね。高野山はやっぱり空海が創立された真言密教のベースというか、そういうところなんですけれども、いちおうそこに行こうと思ったら、やっぱり山の上にあるところなので、車いす利用者としてはなかなか無理でしょう。そういうイメージがあるんですね。結局、その奨学金がおりたから、高野山大学に留学したんですけれども、結局、奨学金が出たんですが、出たといっても、住まいを用意してもらうのがなかなか大変でした。ので、そっち側が一生懸命、「じゃあ家とか部屋とかを作ったらどう?」という提案があったんですけれども、その22歳の僕が「いやー、そんな迷惑をかけたくないから、一番近いところに行こう」と思ったんですね。つまり、高野山さんから京都のどこかの大学に行こうと思ったんです。なので、そこはだめでしたら、京大とか同志社とか立命館とか、いろんなところにお願いしたんですけれども。そのときは2014年でしたね。それで、合理的配慮はまだ義務づけなかったし、障害差別解消法もまだ実施してなかったので、べつに受ける必要もなかったんですね。順番、順番で、すべてからお断したんですよ。みんなはたぶん、一生懸命頑張ろうと言っても、その設備、まあ配慮はなかなかないので、あまりうまくいかなかったから、結局、自分の知ってた東京のほうに行こうと決めたんですね。
 それでその真言密教の話も、自分の何か障害学への***(01:16:44)の流れにも大変な役割だったんですね。[01:16:28]

兵頭:なるほどですね。ありがとうございます。
 今、留学を何度か経験されたとお話があったと思うんですけど、最初に日本に来られたときに早稲田に留学されたと思うんですけど、なぜ早稲田だったんですかね?

ブックマン:それは自分の決めたことではないですね。そのとき、これはちょっと面白い話になると思うんですけど、自分が17歳でしたね。その時、アメリカもまずアメリカの学術制度は日本に比べていろんな相違点があると思うんですけど、一つはアメリカの学年が9月から始まるんですね。9月から始めて、4月に終わるんですよ。その4月から9月まではだいたい夏休みになるんですけれども、その夏休みの中で、自分はほんとはギターを学びたかったんですね。音楽で。実はずっと、小さい頃からピアノを弾いていますが、いちおうそのときにギターを初めたかったんです。それを両親に聞いたら、二つの選択肢があって、一つは夏休みに塾に行くこと。学ぶことね。それはべつに音楽じゃなくて、数学とか、大学に入学できるように、総合授業に行くことで。もう一つは、バイトをやる。つまり、自分のやりたかった音楽はべつに選択肢でもない。ということで、それは自分は何か、やっぱり17歳のかなりわがままの子どもとして、「じゃあ一番違うところに逃げたいなあ」と思って、両親に聞かずに、ある奨学金に申し込んで、【できたので】(01:19:20)その、たしか5月に早稲田に…。5月にやっぱり日本に留学することになりましたけれども、その2か月前、両親に文部省から急に連絡が来て、「その息子さんの障害に関して聞きたいなあ」という連絡があったんですね。そのあと、やっぱり父親との話があったんですけれども。ちょっと何だろう、自分のことを説明した上で、両親が「まあ、行っていいよ」と言われて、日本に行くことに決めましたけれども。その奨学金プログラムは自分の大学の所属とホストファミリーのかたちで行くことになりましたけれども、すべてが【そっち側に】(01:20:09)設置してもらえたので、自分はあまり選択肢がなかったんです。[01:20:15]
 まあよく覚えているのは、早稲田大学に行ったことありますでしょうか? やっぱり高田馬場駅からかなりきついピッチの坂を登る必要があるんですね。そのときはまだ歩けたんだけど、やっぱり脚の筋肉が弱くて、その坂を登る大変さをよく覚えています。それぐらいですね、その留学だと。さっき言ったように、やっぱりカラオケとか、ほんとに学校に行くことより、その日本文化に触れるかたちでたくさんのまあ劇場に行ったりとか、そういうかなり短期の留学でしたね。
 あ、ちなみに留学の長さは何も言わなかったですね、僕が。その早稲田大学の留学は、2か月ぐらいの滞在でしたね。上智大は半年。東洋大学にいたのは、たしか10か月ぐらい。と、今、博士論文の話に戻ると、まだそれに関して何も説明してないんですけど、いちおうその博士論文を書くために2018年、東大所属でまた日本に戻って、今でもその滞在が続いてますので、この3年ずっと日本ですね。

兵頭:ああ、なるほど。ありがとうございます。
 あとでその、今現在の東大に所属を置かれるようになった経緯なんかちょっとあとでお聞きしたいと思うんですけど。まずその、今早稲田で学ぶようになった経緯っていうのをお話いただいたと思うんですけど、ということは、その早稲田におられるときに車いすの状態になられたってことですかね?

ブックマン:早稲田大学はまだ歩けたんですね。早稲田は17歳でしたね。車いすになったのは20歳です。

兵頭:となると、これはどちらにいらっしゃるときになったんですか?

ブックマン:上智大学です。

兵頭:上智ですか。なるほど。上智のときに車いすの状態になられたってことですかね。

ブックマン:そうです。それで、早稲田大に行ったバーとか、その同じところに行こうと思ったんですけれども、上智大に入学したときに車いすでいたからこそ、ひとつの段差さえあれば行かなくなっちゃいましたとか、そういう経験があったんですね。第2回目の留学が。

兵頭:うん、なるほどですね。先ほどもおっしゃってましたよね。今までは歩行ができていたので自由に動けていたけれども、車いすになったことで行けなくなったっていうところがあって、それが不便だったということをおっしゃったと思うんですけどね。

ブックマン:はい。

兵頭:でその、上智のときにそういうふうに車いすの状態になったっていうことなんですけど、具体的に上智のときはどういった配慮が学内の中であったんですかね?

ブックマン:あ、ごめんなさい、上智大学の中で?

兵頭:の配慮ですね。あの学校の中で、

ブックマン:その配慮というのは、まず…。その交流プログラムには自分の寮を代わりに探してもらったんですね。それで部屋を見つけて、その部屋からキャンパスまでのルートも調べてもらいました。キャンパスに入ってから教室内の机の高さの調整と、そのとき自分の手の動きが悪かったため、なかなか書くことができないから、やっぱり日本語の授業を取ろうと思ったんですけど、漢字を書く必要になって、自分がそれができないから、その話と…、先生との交渉もある程度は手伝いもらいましたね。結局、書く必要もなかったんですけれども、その代わりに試験のかたちで漢字の知識を証明するように、ほかの宿題を出してもらいました。はい、そんな感じですね。[01:25:23]

兵頭:ありがとうございました。それは障害学生支援室っていう組織のかたがやられたんですね?

ブックマン:えーっと、自分の知ってる限り、そのときその障害者支援室なんかはなかったですね。やっぱりそれは、障害差別解消法を実施する前の話でしたので、べつに義務でもなかったんですね。たしかそのとき、自分の知ってる限り、その大学の本部の中でも障害に関する担当者も誰もいなかったため、その交流プログラムと先生は直接交渉になりましたね。自分もやっぱり、自分の障害に関して直接その先生と話し合いになりましたので、あまり支援側に、その担当者なんか話だけでもなかったです、個人的に。あと、交流プログラムとかに話すときも、そういう人の存在に関して何も言わなかったので、たぶんいなかったんでしょうと思うんですね。

兵頭:なるほどですね。ありがとうございます。じゃあ、そういった配慮がなされたことによって改善されたことでですね、生活はある程度はスムーズに行ったってことですかね?

ブックマン:そうですね。これはね、ある程度その留学のためのプログラムでしたので、留学の経験はそれぞれでしたけれども、その留学の限界はどこであるかという話になりまして。たとえば、もし自分はコンビニに行ったり、スーパーに行ったり。それは学生としての生活を認めてもらえるのか。電車のルートを調べてもらったときに、部屋からキャンパスに行くことはもちろん調べてもらったんですけれども、もし自分はほかの学生との遊びで、べつのところに行きたかったら、調べ…、それは誰の役割になるのか。大学がそれを調べるべきなのか、自分がそれを調べるべきなのか。やっぱり主(おも)にはキャンパスと自分の部屋でなければ何もやってもらわなかったので、自分がそういう意味で少しでもスムーズな留学の現場から別のところに行くと、すぐにバリアにぶつかりますね。なので、それに気づいたら、ちょっとぐらい何か「自分は障害者である」と人生初めて認識されたんですね。アメリカのほうで自分は車いす利用者だといっても、小さい頃から配慮を受けたし、家族と一緒に住んだ経験もあったし、基本、自分の環境はすぐに改善してもらったので、あんまり自分は障害者としてなかなか考えなかったですね。ただ、日本に来てからバリアにぶつかって、やっぱり自分は障害者である、そのアイデンティティを認識しました。その経験があったから、やっぱり日本の障害者団体、障害学の世界に関わられている方々との連携を取りましたね。やっぱりそのバリアを乗り越えるため、知識を持っている方々に聞く必要になったので。とくに第3回目の留学、その日米教育委員会の東洋の留学で。やっぱり住まいの話はさっき言ったんですけれども、やっぱりアパートを見つけるまではかなり時間がかかってしまったんですね。3か月でしたね。その3か月以内、やっぱりずっとホテルでした。でもホテルですと、やっぱりバリアフリー、ホテルの客室の数が非常に少なくて。今でも【一般】(01:30:12)にもなってないですね、東京都内で言えば。すべての部屋が、客室の割合として。それで、部屋を探すのが大変でしたし、見つけたのもだいたい3日間の滞在になってから別の部屋に移動する必要になったので、なかなか安定な生活ができなかったんですね、そのとき。
 結局、「戸山サンライズ」という、日本で…名前なんっていったっけ? まあ、ひとつの障害福祉団体が作られた障害者専用施設のところに移行したんですけれども、その中でもやっぱり部屋を何回もかわる必要になったんですけれども。いちおうそこに泊まったときに、やっぱり障害者団体との関係があるからこそ、たくさんの専門家が来て、行ったり来たりしましたけれども、そのときに立命館大学の長瀬先生と一緒にやって。長瀬先生が自分の、結局、自分のアパートを代わりに探してもらって見つけました。
 それで、やっぱりその、自分は日本に留学してからバリアにぶつかって、自分の障害者としてのアイデンティティを感じられて、ほかの障害の世界に入ってるかたとの連携があって、その知識をもってやっと生活ができるようになりました。そんな感じでしたね。[01:32:28]

兵頭:なるほどですね。非常にありがとうございました。実体験をもとにお話をいただいて、ほんとありがとうございます。
 障害学っていう学問に、最初は知らなかったけど出会ったということなんですけれども。その出会った頃にいったんまたアメリカに帰国されたんですかね?

ブックマン:そうです。自分が少しずつ少しずつ宗教学の世界から障害学のほうの世界に移ったんですけれども、日米教育委員会の奨学金のときはやっぱり思想学、仏教思想学のために来日したので、せっかくしたからこそ、最後までその仏教思想学を勉強しようと思ったんですね。最初的に、【契機】(01:33:24)になったのが、なぜ…。まあ行った理由はその仏教思想の記号論なんですけど、べつに体はほぼ関係なくて、その留学経験の中でお寺、現場に入れなかったため、「お寺にはなぜ入れないんでしょう?」という疑問で研究をし始めたんですね。その研究をするために一時帰国してペンシルベニア大学に行ったんですけれども。最初的に、やっぱり宗教と障害との関係について何か書こうと思ったんですね。関心をもってたのは、真言密教、空海で。やっぱりそれは中世の話ですので、最初的に中世の仏教と障害との関係について何か書こうと思ったんですね。でもある程度作文を書いて、今でもそれはこれから出版する予定なんですけど。いちおうそういう研究が周りの方々がほぼ理解できなかったんですね。なぜかというと、現在の障害者の様子に関しては何もわかってないから。昔はともかく、現在がわからない。それに気づいたら、じゃあ現在の状況について何かを書くべきだろうと思うようになりまして、その書き方に関してやっぱり知識を深めたいと思ったから、授業をとりました。そんな感じでしたけれども、なんか一瞬で宗教学から障害学のほうに移ったわけでもなく、少しずつ少しずつその研究課題も変わるとともに、現在障害学の疑問に関心を持つようになってきました。[01:35:47]

兵頭:それが、ペンシルバニア大学での出来事ですかね?

ブックマン:そうですね。ペンシルバニア大学のほうではもちろん、日本の障害学に関して教えている先生なんかいないですね。英語の学術世界では基本、数人しかいないからさ、その専門家だと。でもそこでやったのは、「日本の法律」「日本のジェンダー問題」「日本の宗教」「日本のポップカルチャー」など、たくさんの日本研究ができたから、自分の障害の個人的な経験と、これからも、さっき言った集めた資料、それはペン大で学んだ研究方法を含めてすべて合わせて、その新しい研究ができるだろうと思ったんですね。なので、ペン大で、たとえばジェンダー研究を勉強したんですけれども、そのジェンダーの場合はやっぱりそれはどっちかというと、理論的には障害学といろんな合わせているところがありまして。やっぱり差別の経験、マイノリティのアイデンティティ、連帯感の***(01:37:19)とか、いろんな同じような問題が出てきます。ポップカルチャー研究、アニメ・漫画を研究することもやっぱりその中の【アイヌの表象】(01:37:37)とか、マイノリティの【表象】(01:37:40)が出てくるといっても、やっぱり、もし障害者は直接出なかったといっても、自分はその事例を探して同じような理論を使いながら自分の研究もできるんじゃないかと。そういうふうに、ペン大で学んだことを障害専用、自分の障害に関する知識をその上に加えて研究ができるようになりましたね。

兵頭:ありがとうございます。じゃあ、その障害学をより深く研究することができたのは、このペンシルバニア大学での出来事だったってことですね。

ブックマン:そういうことですね。

兵頭:ありがとうございます。そのペンシルバニアでの博士論文の執筆っていうのが、この『日本における障害者運動の150年史』っていうタイトルで出されたってことですかね?

ブックマン:そういうことです。

兵頭:なるほど。これを執筆されて、また奨学金を利用して日本に戻ってこられる。

ブックマン:そうですね。18年に国際交流基金という奨学金で来日したんですね。

兵頭:そのときに所属されたのが東洋大学ですか?

ブックマン:そのときは東大でしたね。

兵頭:東大ですか。なるほどですね。スライドの中で東洋大学っていう大学が出てきたと思うんですけど、この東洋大学との関わりはどういった感じだったんですか? [01:39:35]

ブックマン:あ、ごめんなさい。それはさっき言った、日米教育委員会の第3回目の留学で来たんですね。日米教育委員会はさっき言ったように、高野山大学はだめでしたので、京都のいろんな大学に申し込んだんですけど、そこはすべてお断りして、東京のほうに移ろうと思ったんですけど、結局、東京の中の所属になったのは東洋大学でしたね。そこは仏教系大学ですし、西洋と東洋の哲学の勉強をした方がその大学の創立者なので。井上円了というかたなんですけど。いちおうそういう比較哲学の研究で有名で、自分のそのときに研究した課題と直接関係があったため、そこでその所属を認めてもらえました。
 それプラス、そのときはわかんなかったんですけれども、やっぱりそのライフデザイン学科の中で二人の有名なバリアフリーの建築家がいましたね。川内美彦さんと高橋儀平さん。二人ともかなり有名なんですけれども。そのときは出会えなかったんですけれども、いちおう同じ大学の所属があったため、ちゃんとその、バリアフリー支援室が作られて、そこで支援が受けられるようになりましたね。それで、その時は知らなかったんですけど、今回の留学、つまり東大に行ってから、またその二人との話し合いが出て、「ああ、東洋大学でもこういう立派な先生がいるだろう」と。かなりびっくりしたことなんですけど。とにかく、18年からその二人との話し合いにもなって、一緒にプロジェクトをやる経験もあるんですけど。

兵頭:ああ、そうなんですね。実は私も高橋儀平さんと川内美彦さん、つながりができましてですね。

ブックマン:ああ、そうですか。

ブックマン:メールでやり取りしかできてなくて直接お会いしたこともないし、Zoom(ズーム)もしたことないんですけれども、何らかのかたちでもっと深く関わりを持てたらなと思っているんですけれども。何せね、お忙しいですから。

ブックマン:確かに。あと、たしか二人とも2年前退職したので。

兵頭:そうですよね。

ブックマン:はい。ところで、自分は東洋に所属したときに、やっぱり仏教思想が専門でしたので、その二人とあんまり直接話する経験はなかったとさっき言ったんですけれども、自分の担当教諭はその東洋大学の学長さんでしたね。竹村牧男いうかたですけど。その学長さんの弟子というか、その担当の学生としてはかなりね、何て言えばいいんでしょう…。もし何かの問題に、バリアにぶつかったら、すぐに先生にそれを言って、その解決方法もかなりなんか素早いペースでびっくりするほど解決してもらいましたので、そういう話も含めなきゃ。やっぱり自分はとてもラッキーで、たくさんの奨学金を得るきっかけにもなったし、その奨学金があったから、かなり偉い方々との連携にもなって、たくさんの勉強できるチャンスがそこから生まれたんですね。それはとても恵まれたところなんですけど。やっぱりもしそういう機会がなければ、そういう先生との話し合いができなければ、自分の経験がまったく違うかたちにもなったかもしれないですね。

兵頭:やっぱりそういうところを考えると、人との出会いっていうのはね、すごく大事だし。それによって自分の人生が変わりますからね。

ブックマン:そうです。

兵頭:じゃあ今現在は東大におられるとのことなんですけど、東大に所属することになった経緯っていうのはどういったものなんですかね? [01:44:05]

ブックマン:自分の知ってる限り、やっぱり日本ですと、障害学というのは、その有名なプログラムとしてはやっぱり立命館大学の立岩先生のところと、東大の福島先生、熊谷先生が入ってる先端研、その2つしか思い出せなかったんですね。両方とも関係があったんですね。さっき言ったように、長瀬先生に第3回目の留学のときに大変お世話になりまして、アパートを代わりに探してもらいましたから。実際、東大に行く前に立命館に行こうと思ったんですね、所属としては。ただ、もうそんなときに、やっぱり自分はそのとき24時間介護のたくさんの福祉用具を部屋に設置する必要があったんですね。とくに気になったのが介護用ベッドですけど、自分がもともと立命館大学の外国人向けの寮があるそうですね。そこに引っ越ししようという話だったんですけど、結局その、寮をおさめてるかたが、自分の介護用ベッドを設置する依頼【を断られた】(01:45:46)んですね。合理的配慮という***(01:46:00)で交渉ができたかもしれないんですけど、最初の段階でそういうなんか、基本…、何だろう、その大事さがわかるはずの配慮を断わられると、やっぱりこれからどんなバリアにぶつかるだろうという、ちょっと不安があって。結局その話は、長瀬先生と話したら、まあやっぱり東大のほうがいいんじゃないかという話になりまして。同じ第3回目の留学で、つまり長瀬先生と出会ったとき、福島先生にも会ったので、福島先生に連絡したら、「もちろん喜んで受けさせてもらいます」と言われたので、自分がその意味で東大所属なりましたね。
 東大に来てから、最初的に先端研の研究員みたいな身分。何でしたっけ、自分の身分。はっきり覚えてないけど。いちおうそういうあんまり正式な学生でもない客員研究員みたいな身分で入って、18年から今年の6月まで、その身分を持ちながら、博士論文の研究を自分でやりましたけど。さっき言ったように、その研究の資料はやっぱり国立国会図書館とかに行ったりして、新聞記事、歴史的な活動家の資料、政府の記録とか、すべて集めてそれを分析するかたちになりましたので、実際あんまり大学に行く必要はなかったんですね。ただ、その所属を持ちながら研究ができて。
 最近どのような活動をしてるかというと、やっぱり演説したり交流したり、あとはコンサルもやってますが。この博士論文の研究をやりながら、たくさんのレッスンを学んだので、そのレッスンを使いながら、つまりその知識を使いながらコンサルをやってますけど。その話にいくと、やっぱりちょっと博士論文の内容について話す必要になるので、とりあえずちょっと遠慮します。かなり長い話になるから。もし聞きたければ、それは別のものですけど。とにかくそんな感じですね。

兵頭:わかりました。ありがとうございます。ここまでのところで、その東大で今現在研究されるまでの経緯っていうのはお尋ねしてお答えいただいたので、ありがとうございます。
 今その、東大の話がありましたけど、来年度以降のなんかシラバスが完成したみたいな感じで拝見したんですけど、授業も担当されるんですか?

ブックマン:そうです。自分が来年4月から「インクルーシブな社会に向けてー障害学への入門」という授業を教えるつもりです。[01:50:00]

兵頭:うんうん、なるほどですね。それは初めての試みですか、ブックマンさんにとって。

ブックマン:そうですね。やっぱり今まで客員研究員みたいな身分を持ってたから授業をすることは禁止だということでしたけれども、今年6月から今のポストドクトラルフェロー、まず今年4月博士号を取得して、6月からその新しい身分になったため教えることができるようになりました。アメリカのほうで博士課程の中でも教えることができたので、英語で同じような授業をしていた経験があるんですけれども、今回は初めて日本語で障害学に関して授業を教える機会になります。大変楽しみです。やっぱり今までいろんな、自分の博士論文をべースとして発表したりとか演説したりとか、TED Talks(テッド・トーク)をやったりとかそういう経験はあるんですけど、今回の授業は初めてですね。

兵頭:今その「楽しみ」という言葉がありましたけど、モチベーションもそうしたら高まりますね。その長年の研究の成果を発揮する、別のかたちで発揮するということなので。私もぜひ受けてみたいんですけど。(笑)

ブックマン:あー、よかったらぜひぜひ!

兵頭:そうですよね。ありがとうございます。
 じゃあ、ここまでその研究、今のポジションまでの経緯をお尋ねしたんですけれども、ブックマンさんご自身の、個人で活動されていることに関してちょっと話題を移して行きたいかなと思うんですけど。以前もお尋ねしたんですけど、バリアフリーマップのような、地図ですかね? それを撮影するような団体を持ってるっていうようにお聞きしたんですけど、その組織が作られるまでの経緯、それで今の現在の活動の内容なんかも教えてもらってよろしいですかね?

ブックマン:もちろんです。ちょっと待って。このパワポにもそれを作ったかはっきり覚えてない。ちょっと待ってください。

兵頭:最後のこのスライドの写真もそうですか?

ブックマン:ないな。ちょっと待ってください。別のパワポでそれが…。これか。ちょっと画面を。これですね。この画面を共有しながらスライドを説明すると何とかそれが調整できますので。
 そのさっき言った、電子地図を作るプロジェクトなんですけれども、これはペンシルベニア大学のほうで創立したプロジェクトの一つなんですけれども、基本、自分が日本にいた経験を考えた上で、やっぱり大学に行ってもどのようなバリアにぶつかるのかはほんとに人によって変わります。自分は大型電動車いすを利用したから、そのバリアフリートイレとかに行ってもなかなか便座を使えなかった経験もあったし、バリアフリーの半数が部屋とかに入っても、入ったらもう、何だろう? その机の高さに合わせずに、あまりドアの幅に合わせずに、いろんな合わせてないところがあったので、バリアフリーだといっても誰のためにどのようにバリアフリーにしようという考えがあって、その基準に関して大変関心を持つようになってきましたから、もちろん自分は車いす利用者の面からそういうバリアフリーの問題を考えたんですけれども、もちろん他の多様性がありまして。障害の中でも視覚障害者、聴覚障害者のニーズもありまして。障害はともかく、ジェンダーの問題、人種の問題、宗教の問題とか、いろんな要素がありまして。たとえば、今、祈り室の必要のあるかたとか、ノージェンダートイレとか、まあアクセシビリティというのは幅広い意味でみんながそれぞれの多様性で使える場所、使えない場所があるだろうと思って、その使える場所と使えない場所の特徴をわかるように、その情報を集めてみんなに配る、共有するかたちの地図を作ろうと思ったんですね。誰もがその電子地図を作る活動に参加できるようなかたちで、携帯アプリとかネット、オンラインで誰もが情報を手に入れられるアプリを作ろうと思ったんです。これはたしか17年に考えたんですね。つまり、東大に行く前でしたけども。[01:56:09]
 そのアプリを作ったんですけれども、基本、誰もがテキスト、文字、画像、録音などのかたちでそれぞれのアクセシビリティの経験について話すことができる。情報共有することができます。たとえば、もしあるビルの。だいたい基本のバリアフリー地図は、「このビルの中でこういうエレベーターがある」「このビルの中で、この車いす専用ドアがある」とか、それぐらいの情報しか書いてないので、みんながそれぞれの言葉で詳しくまで説明できるようなかたちで、その地図作りアプリの入力のあり方を作ったんですね。たとえば、ドアの幅の広さは【自分の車いすに合わせて生活するとこういうルート】(01:57:10)とか、みんながそれぞれの好みで情報を加えて、みんなで地図を作ろうというプロジェクトでしたね。
 最初的に考えたのは、たんにみんながその知識を武器になって、お互いに誰にも役立つ地図を作ろうと思ったんですけど、その地図作り活動をやりながら、たくさんの学んだことがあるんですけれども。もともと想像したのは、この画面で見えるように、誰もがそれぞれの必要になる特徴を、あるところで検索して、たとえば祈り室とか、ノージェンダートイレとか、エレベーターのあるところとか、それをフォローする、アプリに入れて、すぐにその一番使いやすいところを示す、そういうかたちで想像したんですけれども。結局、こういう地図を作ろうと思ったら、そのキャンパスのかたちというか、そのビルの改善は永遠に続いて、そのある日の情報はその翌日に無効になりますね。いつも変化していく必要があるので、みんなが一瞬一瞬で情報が見れるといっても、べつにその担当者がいないから、見るといってもほんとに同じ時にすべての情報を入れるのが無理でしょうと気づいたので、結局、バリアフリー地図を作ることとしてはかなり意味なかったんですね。どっちかっていうと。まあでも、そのかたちで使えないといっても、その入力の活動は大変価値があると。みんながグループに分かれて、たとえばこの画面で見ると、3人のグループに分けたんですけれども、その3人でキャンパスのまわりを歩きながら、それぞれの多様性を持って、バリアと入れるところを説明することになりましたけれども。たとえばこれで、自分は車いすユーザーとしてこのドアが入れなかったと周りの方々に説明したんですけど、その時までその二人が車いすの面から世界が見えなくて一切考えなかったんですけど、みんなで一緒に地図を作る活動をし始めてから、自分の意見を聞いて、「ああ、もちろん入れないでしょ?」、このところだけではなく、その二人はそれぞれの家に帰ってからも、それぞれのところに自分の車いすが入れたかどうか。つまり、この地図作りの活動ができたうえで、そのバリアに関する考え方が変わっていって、その新しい意識を持って、大学だけでなく別のところにもバリアの存在を改めて考える機会になりましたね。
 それで、これに気づいたらやっぱりその地図作り活動の中で気づいたことを、その情報を集めて、授業をしていたんですね、アメリカのほうで。今でもそういう授業を、向うでひとりのプロジェクトに関わっているかたが教えてるようですね。自分はたまにゲスト講義として入っています。いちおうそういうプロジェクト。
 今やっぱりコロナの影響で、日本で同じプロジェクトはなかなかできないですけれども、日本でも同じようなアプリがあるんですね。有名なのはBmaps(ビーマップス)とかWheelog!(ウィーログ)とか、いろんなのがあるんですけれども、そのアプリだけではなく、そのアプリを教える道具として使ったら、うまくいけるんじゃないかという考えがあるから。自分も、さっき話した来年4月から教えるつもりでいる授業の話に戻りますけれども、これと同じような活動がオンラインでもできるかなと思いまして。ちょっと実験としてやってみたいなと思うんですけど。いちおう今のところはそんな感じですね。[02:03:14]

兵頭:はい、ありがとうございます。すごく興味のあるですね、活動されてるなと感心しているんですけど。ちなみにこのアプリっていうのは日本語版は開発されているんですかね?

ブックマン:あ、まだです。

兵頭:これからですかね?

ブックマン:そうです。やっぱりもともとオリパラのために日本語版を作ろうと思ったんですけど、コロナがあったから、結局それがなかなか使えなくなりましたけれども。たしか兵頭さんが自分のTED Talks見たっけ? ***(02:03:54)。自分は18年でしたっけ、いや、18年、19年、はっきり覚えてないんだけど、TED Talksはやってたんですね。パラリンピックと電子地図アプリ作りの関係について。そんな時に考えたのは、やっぱりオリパラの前にこのアプリを使って、そのどのバリアがあるかを一度確認して、オリパラの開催中に海外から来る選手、その家族が同じアプリを使って、それぞれの海外の基準で作られた支援技術、その車いすなどの経験、そのバリア、たぶん日本のバリア基準に合わせないところがいろいろあると思うから、そこから日本が新しいインクルーシブのかたちが学べるでしょうと思ったので、オリンピック開催中にその情報を集めて、オリピックが終わったらその情報を新しい基準として使って、また改善ができるでしょうと思ったんですね。ただ、コロナがあったため、その最初の段階もできなかったんです。残念ながら。
 でも、やっぱりこれからもたくさんのチャンスがあると思って。海外は【事例として】(02:05:41)、なんか海外のかたの意見を聞かせるんだったら、2025年の大阪でワールド・エクスポが開催されるから。これからたくさんのチャンスがあると思うんですけど。とにかくそういうかたちでした。[02:06:33]

兵頭:うん、なるほどですね。じゃあ、あれですかね。来年以降そのプロジェクトも、4月以降ですか? オンラインとかでって話がありましたけど、そういった場所に私も参加させていただくとかは可能なんですか?

ブックマン:もちろんです。

兵頭:遠隔ですけど大丈夫なんですかね?

ブックマン:うん、いいですよ。やっぱり自分の、さっき言ったことはね、そのバリアフリー地図は、あるところを地図にすることより、その地図作り活動の中でわかる個性というか。そのバリアの理解、把握のあり方に関しては、その情報をシェアすることは大事ですので、遠隔でもそれは関係ないんじゃないかと思って。たんにこれを見たら、自分にとってはこれは、ある地図を見たら「これは使える」「使えない」という情報さえ共有できれば、みんなに役立つだろうと思うから。

兵頭:なるほどですね。あれですかね。今現在、そのブックマンさんが所属されているその団体とかのメーリングリストとか、グループのサイトっていうのがあるんですかね?

ブックマン:(笑) かなりぜんぜん更新してないサイトがあるんですけど、ちょっと待って。英語ですが、ちょっと待って。あるよ。リンク送ります。

兵頭:そういったところで、ぜひ情報交換させていただけたら、私自身の今後の研究にもなっていくので、助かるかなと思うところもあるんですけど。

ブックマン:これですね。あと、さっき言った、なんかそのプロジェクトの概要、使いわけとか、すべてがそこで英語で書いてありますが、DeepL(ディープ・エル)とかを使ってもらうと、たぶん日本語訳にできると思うから。ああ、これですね。

(チャット機能でURL共有)

兵頭:これが今おっしゃったプロジェクトのサイトですかね?

ブックマン:そうです。

兵頭:うん、なるほど。はい。
 これを通じて何か情報が発信されたりとか、イベントの情報が出たりもするんですか?

ブックマン:そうです。たしかその「メニュー」の4番目に「イベント」が書いてあるんですけど。

兵頭:はい。

ブックマン:そこで、前回やったのは18年の11月でしたけれども、いちおうそこで新しいイベントとか作ったらそこで情報を発信する予定なんです。それか、今やっぱり所属も変わったし身分も変わったので、もしかしてこのプロジェクトは東大のほうで作り直すということにもなるかなと最近思いましたので。もしあれだったら新しいサイトを作ることになりますけど。その話は実際これから、東大のバリアフリー支援室の方々との相談がある予定で。その結果次第、新しいサイトを作るかどうかを決める予定です。はい。とにかく新しい情報が出たら、自分からもメール送りますので。[02:10:32]

兵頭:わかりました。ぜひ、すごく興味がありますので、一緒に活動させていただけたら嬉しいかなと思いますので。

ブックマン:こちらこそ、よろしくお願いします。

兵頭:その時はよろしくお願いしますね。はい。
 では、お時間もずいぶん長くなってしまったんですけど、最後にですね、今現在もブックマンさんが障害当事者としての視点も持ちながら研究を続けられているんですけれども、これまでの研究生活を振り返って、今現在ご自身の抱えておられる課題っていうのはどういったものかっていうことと、これからの抱負、楽しみにしていることでありますとか頑張りたいことも含めてですね、お二つお話いただきたいんですけれども。[02:23:59]

ブックマン:はい。やっぱり博士論文は、自分の日本に来てからのバリアにぶつかった経験を、その原因をわかるため、150年の歴史を書いたんですね。その歴史を書いたおかげで各分野のたくさんの学んだことあるんですけれども、それは、大きな【列に分かれると】(02:24:33)。一つは、日本の歴史を知るため、やっぱり障害を勉強する必要があるんですね。第2次世界大戦の中で、やっぱり傷痍軍人は福祉を得るため、視覚障害者がたくさんのプロジェクトをやって、そこで日本の政府が戦争でいろんなところに勝つことができたとか。今だと、高齢化社会問題があるから、その問題を解決するため、障害者のアクセシビリティの活動を事例として扱って、たくさんの新しいプロジェクトをやったりとか。基本、日本の歴史をわかるために障害を勉強することになるんですね。それプラス、日本の歴史の上で、障害に関するアクセシビリティの政策、その結果、つまり日本の改善のあり方とかが、日本だけの話ではなく、海外にも送ったことにもなりますので。やっぱり日本の点字、日本で生まれた点字ブロックはアメリカでも設置したりとか、そういう経緯があるからこそ、日本の歴史をわかるため障害を勉強するという***(02:26:33)はこの最初の本でしたね。自分の経験をわかるためと言ったんですけれども、その研究が出た上でそれをしていたんです。
 これからのプロジェクトは、その国内の歴史をどのように世界の歴史に影響を与えたのかというテーマで何か書こうと思うんです。たとえば博士論文、まあ今書いてる本の内容自体についてはほぼ何も言わなかったんですけれども、一つ二つの事例から考えると、日本の最初の身体障害者福祉法は1949年に設置したんですけれども、その法律を作る委員会は20人で、その20人の中で障害当事者としては5人しかいなかったんですね。その5人は全員が視覚障害者でした。いろんな理由があったんですけれども、視覚障害者だけが参加できたことで、その法律の内容はもちろん、視覚障害者とその数人のかたが知り合ったほかの障害を持ってる経験に基づいてその法律を作ったから、その主な法律の下でできた配慮が、その視覚障害者配慮になりますね。どっちかというと。それでたくさんの研究費がその視覚障害者のための日常生活がもっとやりやすくなるように、その研修費がその方向に与えて、点字ブロックがその研究費を使いながら作ったんですね。その点字ブロックがまたアメリカに渡ったことで、アメリカの視覚障害者の活動に、日常生活に大変影響を与えて、その影響を与えた上でやっぱりそっち側の視覚障害者がまたそれぞれの新しいバリアフリーの技術とかを作って、またそれは日本に送ったというサイクルがあるんですね。
 もう一つの事例から考えると、日本が最近、介護人材不足の問題もありまして、これが社会問題もありまして、この障害者にヘルパーを派遣するのがなかなか大変になりましたので、介護ロボットを導入していますが、その介護ロボットが日本だけではなく海外にも、たとえばドイツとかで同じ高齢化社会問題がある国にあれを送って、その高齢化社会問題をある程度解決できた上で、その高齢者の家族がある程度そのロボットの力を使って、それぞれの好きな生活ができるようになりましたので、その生活の上で生まれた支援技術はまた、その経済的な動きとか、いろんな影響が社会に与えて、それがまた日本に影響があると。同じようなサイクルがあるんですね。
 それで、自分の次のプロジェクトは国内の歴史を踏まえた上で海外との関係とまた、その海外で開発する国家と日本との関係について、何かを書きたいと思うんです。その中でほんとに、***(02:30:51)したいのは…、第2回目の質問ですけど。やっぱりその研究ができるため、たくさんの国々に行く必要があるんですね。ドイツの様子をわかるためにドイツに行く、アメリカにその日本の支援ルーツをどのようにアメリカ社会に影響を与える、それをわかるためまたアメリカに行く必要になるとか。だからこれからたくさんの旅行ができるかな。その旅行の中でもしバリアにぶつかったら、やっぱりそれも研究課題になりまして。自分のできることとできないこと、また電子地図の話に戻りますけど、そこも使えるかなと思いまして。基本、自分のすべての日常生活はその研究課題になるかなと思いますけど。いちおうそれは、このコロナの影響でずっと東京にいますが、これから海外に行けることでしたら、そういういろんなところに行って、それを、まあ、楽しむことが、それ自体が楽しみにしています。[02:32:11]

兵頭:はい、ありがとうございます。はい、それじゃあですね、今日長々とお時間をいただきまして、ほんとありがとうございました。貴重なお話をいただいて、感謝申し上げます。

ブックマン:はい、もちろんです。こちらこそ。

兵頭:で、えっと。本日のインタビューの中で触れられなかったその、博士論文の執筆の過程でのあれこれといったところは、またお時間を見つけておうかがいできればと思うんですけども、よろしいでしょうか?

ブックマン:もちろんです。

兵頭:はい。じゃあそれはまた別の機会ということでよろしくお願いいたします。
 繰り返しになるんですけれども、今日の内容はですね、今後私の研究にもちょっとぜひ活用させていただきたいと思いまして。何らかのかたちで論文として一つ創り上げるっていうことも視野に入れながらやっていきたいと思いますので、そのデータの活用に関してですね、ご理解いただきたいと思うんですけどもよろしいでしょうか?

ブックマン:はい、大丈夫です。

兵頭:わかりました。じゃあ論文がもし完成したりとかですね、あとはホームページの掲載っていうことになれば、事前に確認をまた取らせていただきたいと思いますので。

ブックマン:はい、その時にはよろしくお願いします。

兵頭:よろしくお願いします。はい、それでは本日はすみません、長い間ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

ブックマン:お願いします。

兵頭:はい、失礼いたします。

ブックマン:はい、失礼します。

[02:33:52]音声終了


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*作成:岩ア 弘泰
UP: 20220203 REV:
兵頭 卓磨 生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
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