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「マーク・ブックマンさんインタビュー@」

話し手:Bookman, Mark さん/聞き手:兵頭 卓磨さん 20211223 オンライン(Zoom)にてインタビュー.

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last update: 20220203


■インタビュー本文

※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)
タイムレコードは[hh:mm:ss]としています。
漢字のわからない人名はカタカナ表記にしています。



兵頭:それでは、よろしくお願いいたします。改めまして、立命館大学先端総合学術研究科4回生の兵頭卓磨と申します。よろしくお願いいたします。

ブックマン:お願いします。

兵頭:それではさっそくなんですけれども、まずはですね、ブックマンさんのこれまでの生い立ちといいますか。ブックマンさんがアメリカでお生まれになってから今現在研究されておられるまでの経緯というものをお話いただきたいんですけれども、よろしいでしょうか?

ブックマン:はい、もちろんです。

兵頭:お願いいたします。

ブックマン:あ、すみません。画面共有の許可をいただけますでしょうか?

兵頭:画面共有ですね、はい。

(PC環境調整)

■スタート[00:01:45]

ブックマン:私は東京大学東京カレッジのブックマン・マークと申します。今、日本および【国境を超えている】(00:02:01)障害者運動とそれに関する政策の歴史に関して研究しておりますが、その研究にいたるまでの経緯についてお話をさせていただければと思います。
 私は、アメリカのほうで生まれましたけれども、ペンシルベニア州というアメリカの、東北にあるところですが、そこで16週間ぐらい早生まれで、その時かなり緊急の手術で生まれましたけれども。早生まれという意味で自分が生まれた時からかなり筋肉の能力が弱かったという症状があったんですけれども、生まれた時に周りのお医者さんが「早生まれだからこそ、別に問題ないでしょう」「時間が経つとともに筋肉の弱さは自然に治って、たぶん3、4歳ぐらいになると筋肉の様子は良くなるでしょう」と言われたんですけど、自分がたしか6歳ぐらいの時に、その時まで筋肉が、まあある程度、筋肉の能力があった、高くなっちゃって、うまく動けるようになりましたけれども、6歳になってから、その動きがうまくいくことより、ある程度弱くなっていったという逆の動きがありました。その意味で先生と相談した上で、「たぶんこれは早生まれのせいではない」と先生がそう言われたので、いろんな検査を受けてから、進行性難病でしょうという判断が出ました。
 最初的にどの進行性難病かというと、先生自身はあまりわからなくて、たくさんの検査を受けたらなかなか判断できなかったんですけれども、結局、IV型糖原病というかなり珍しい難病の【変形】(00:05:07)の一つで判断しましたけれども、その実際、IV型糖原病という難病の場合は、基本、その主な症状が肝臓にあるんですけれども、自分の場合はあんまりそれとは関係なくて、だいたい心臓のほうにその症状が出てきましたけれども、基本、いろんな症状が。まあ、その症状が出たことで、先生がたくさんの、検査を受けたら、自分がやっぱり、さっき言ったW型糖原病の【変形】(00:06:05)をしていると判断して、結局、その時、6人しか受けてない、世界中に6人【しか受けていない】(00:06:16)難病というかなり珍しい難病として判断しましたので、基本、その治療法とか、その時に何も知らなかった。自分の場合は前例がなかった。つまり自分が初めてその病気があると判断したのは、世界中で初めてですね。[00:06:43]
 そのW型糖原病という、その病気の症状は、基本、時間が経つとともに体の筋肉がますます弱くなっていくALS(エーエルエス)、筋ジストロフィーみたいな難病ですが、自分が6歳に、さっき言ったように、その筋肉の力が弱くなっちゃいまして、10歳の時にその病気の影響で心臓にも影響を与えて弱くなったせいで、心臓移植を受けましたね。この写真はその直後ですが、その時にはまだ歩けたんですけれども、その心臓移植を受けたせいで免疫抑制剤を飲むことになりましたので、基本、自分の家の中の生活になりましたね。その時までは普通に学校に行ったり、ほかの周りの、まあいわゆる、よく言われてる、健常者みたいな子どもの生活とほぼ一緒な生活のかたちで進んだんですけども、10歳になってからその免疫抑制剤を飲んでいるため、そういう生活ができなくなっちゃいまして、家の中の生活をし始めました。
 その時にやっぱりたくさんの質問が頭の中にぐるぐる回りましたけれども、その時まで友達と外で遊んだ経験とかもあったり、なんで急に自分だけがそれができなかったのでしょうか? みんなが外で遊びながら、それを窓から見て、「なんで自分はそれができないの?」とか、そういう「自分と他人との経験」について比べる***(00:09:21)になりましたけれども、結局そこからたくさんの心理学、哲学的な疑問についてたいへん関心を持つようになって。家の中の生活でしたからこそ、かなり時間に余裕がありましたから、その哲学、心理学の本を読み始めまして。10歳の時に。「自分の存在は何なのか」とか、そのテーマに関して大変、その答えを探すように必死に頑張りましたけれども。まあその哲学的な本とかを読んだと同時に、やっぱり家の中でほぼ、本を読むこと以外には趣味を探すのがなかなか大変でしたけれども。
 やっぱりゲームやったり、テレビ観たりとか、そういう生活になりましたが、ちょうどその時期にアメリカの2001年、2年ぐらいでしたけれども、その時にやっぱり日本のアニメが初めてテレビ番組として放送されたんですね。アメリカのアニメより日本のほうが哲学につなげているところがいっぱいあると、そのときに考えたんですけれども。ちょうどその時期にたくさんのサイボーグ・アニメ、この画面が『攻殻機動隊』というアニメの画像の一つなんですけれども。いちおうそのアニメのテーマとしては、たくさんの身体、体の限界、体と技術との関係、体と環境との関係とかについていろんなテーマが出てきましたから、ちょうどその時期に自分がやっぱり哲学に関心持つようになりましたので、その意味でアニメにも大変関心を持つようになってきました。[00:11:42]
 日本のアニメについてはやっぱりある程度英語版で見れたんですけれども、その時期にほぼアニメがまだ英訳版が出てこなかったので、やっぱりアニメを観るために日本語を勉強する必要があるだろうと思ったので、中学生の時から実習であれを勉強したんですけれども、高校生になってからその、高校の…。まあそのときはやっと家の生活から普通の生活に戻ってきましたね。なぜかというと、その心臓移植の手術の、そこから時間が経つとともに、その免疫抑制剤の飲んでる量も減らしていたので、ある程度外の生活に戻れましたけれども、高校に入ってから、さっき言った流れで、ずっと日本語勉強したり哲学も勉強したりしたので、高校で幸い日本語授業、哲学授業も受ける機会があったので、両方とも取りました。そういう意味で、日本語もある程度、高校生の時にはたぶん挨拶ぐらいしか出てなかったんですけれども、いちおうもっと日本語を勉強できるように、いちおう日本に留学する必要があるだろうと思ったので、高校3年の時に、これは2008年でしたけれども、その時に日本に留学することを決めました。
 当時自分は早稲田大学のほうに留学したんですけれども、まだ歩けた時代でしたので、ある程度自分の生活はほかの健常者との生活と、それに比べてほぼ何も変わってない状況でしたけれども、基本、日本文化に触れるように、たくさんのカラオケとかに行ったり、あとなんか買い物に行ったり、そういう基本観光客みたいな生活したんですけれども。いちおうそこで日本について、もっと関心を持つようになってきて。それでやっぱり、早稲田大から【移行したら】(00:15:00)…、大学に入学することになることで、日本研究専門になりたいなという気持ちがその時から生まれました。[00:15:14]
 アメリカのほうで、ビラノバ大学という大学に所属したんですけれども、小さいカトリックの大学で、そこでさっき言ったように、日本研究専門になりましたけれども、基本…。その大学の時代ですと、いろんな生活の変わった点があったんですけれども、一つは二十歳になってから車いすになりましたね。その、歩くことから車いすになった状況。当時はやっぱり精神的にかなり負担はかかりましたけれども、今まで歩けていろんなところに行きましたが、車いすになってから、その時まで歩いてたところが行けなくなったという経験があったため、また、ずっと考えた哲学的な疑問を改めて考える機会になりましたけれども。幸い、アメリカのほうでたくさんの合理的配慮を受けて、大学のほうで哲学の授業を受けることもできましたし、日本語も勉強し続けたので、基本、そこで自分の周りの同級生とほぼ同じような授業に【参加することができた】(00:16:48)んですけれども。
 まあ、自分の登録した日本研究専門プログラムの中で留学する必要があったんですね、必修科目としては。なので、大学3年だったか2年でしたっけ、いや、3年の時にまた日本に留学したんですけれども、そのときは上智大学のほうに留学したんですけれども、上智大にいたときは、あるアメリカに設置された交流プログラムで留学したので、そちらがすべての配慮を設置してもらいました。基本、アメリカ障害法の基準で自分の住まいを代わりに探してもらった。と、その教育機関のルールとか、教室内の配慮、すべてがそちら側が代わりに設置してもらって、ある程度生活ができ…、かなり生活しやすいかたちになりましたけれども。やっぱりそれでも日本に戻って、車いすでその先の留学、早稲田大に入学したときとその同じ場所とかに行ってみると、やっぱり一つの段差とか、それがあれば車いすで入れなくなりましたし、いろんな何だろ、同じ東京なのにこういう所に行けなくなっちゃいましたとか、そういう経験が何回もあって。それでやっぱり、ある程度それは不便でしたけれども、不便だといっても、その配慮を設立してもらったおかげで、日本研究、哲学授業も無事取ることができましたので、生活の面で不便だったけれども、何とか就学できましたね、そこで。[00:19:20]
 基本、その時に、日本研究、哲学とそれに関する宗教学に関して大変関心を持っていたんですけれども、やっぱり日本に来てから哲学と言えば仏教思想とか、それに関して大変関心を持つようになってきましたけれども。その時に障害学という分野については何も知らずに、あんまりなんかその、障害学を研究することはいっさい考えなかったんですけれども、哲学、日本研究の面で進みたいと思ったんですね、その時。それで、一度アメリカに移動して、ビラノバ大学から卒業したら、またその日本研究が続けるように、やっぱりまた留学する必要があるだろうと思ったので、フルブライト奨学金、日米教育委員会の奨学金でまた日本に戻ることを決めましたけれども。この時は初めて車いすの利用者としての何かバリアにぶつかる経験が、やっと気づいたというか。
 なぜかというと、その時まではすべての配慮がある交流プログラムとか、そこに設置してもらった経験があったんですけれども、この時、その自分がすべての配慮を自分で設置する必要があって、になったんですね。つまり、自分が住まいを探すとか、大学の所属をみつけるとか、研究ができればするとか、すべては自分の役割になりましたので、やっとその車いすユーザーとしての生活の難しさを感じたんですね。住まいから考えると、自分が最初的に東京都内ではたくさんの、なんか物件のサイトでアパートを探したんですけれども、アット・ホームというサイトを探したときに、たしか24万件、東京都内では24万件くらいのアパートが出てきたんですね、検索したときに。ただ、バリアフリーという選択肢を選択すると、たしか900しかなかったんですね。その900の中で、やっぱり自分の車いす、つまりかなり大きい海外製の電動に合わせるところがなかなかなくて。たとえば、あるアパートが玄関がなかったと。つまり入れるところがあったら、そのトイレの幅の広さが合ってないとか。もしトイレの幅の広さが大丈夫でしたら、玄関があるとか。もし玄関とトレイは大丈夫でしたら、自分の車いすの高さに調整できる介護ベッドとか設置することが禁止だったとか。いろんな意味で、そのアパートが使えなかったんですね。探すのが大変だったし。あと基本そのときにも、【交通機関】(00:23:36)を使えることとか、学校まで行くこととか、教室で授業参加できることすべてがかなり大変になりましたけれども。まあ、フルブライト奨学金、日米教育委員会の奨学金で行ったので、最初的に【考えた】(00:24:00)たのはアメリカの大使館、日本のまあ文部省に手伝いをもらえるように聞こうと思ったんですけれども、結局、文部省にきたときに、答えとしては、やっぱり自分は初めて日本に留学した車いすユーザーだと言われたので。まあ、「前例がない」という意味でなかなか手伝いができないと言われたので、かなり困りましたね。
 それでも自分は仏教思想学を、まあ哲学を勉強するために来日したので、その研究をなんとかなんとか進めるように頑張りましたけれども。結局、生活の面はともかく、現場に行くと、つまり、お寺や神社に行ったらほとんどのが段差だらけで、階段だらけで、あんまり入れなかったんですね、車いすユーザーとしては。なので、生活の面であまりうまくいかなかったし、研究の面でもあまりうまくいかなかったので、じゃあ僕は何か違うことを研究すべきである証拠、その「なんでお寺に入れないか」「なんで住まいを探すのがこんなに大変だったでしょうか」それを考える機会になりまして、そこで宗教学・哲学から障害学のほうに移りましたね。[00:25:56]
 でも、そのときに自分は障害学に関してほぼ何も知らなかったので、どこからどのようにそのバリアの存在について勉強すべきなのかずっと考えたら、じゃあ自分の生活の中でどのバリアにぶつかっているかということを考えた上で、なんとかその道が探せるでしょうと思ったので。その3回目の留学の中で自分の日常生活をある程度、分析しました。たとえば、毎日ベッドから起き上がるときに介助者にお願いする必要があったので、じゃあもし介助者がいなければ自分がベッドから起き上がれないのは困るでしょう。ベッドから車いすに移ろうとしたら、もしその車いすがなければ、やっぱりまた困るでしょう、と思ったので、介助者が自分の日常生活に入ったこととともに、その車いすを作った工学者も、その手助けをもらいました。自分のベッドから車いすに移ってアパートを出ると、やっぱりそのアパートを【通れる】(00:28:04)ためのバリアフリーが必要があったので、そのバリアフリー【キッチン】(00:28:10)を設置したのは建築家で、やっぱり建築家も自分の日常生活でも大変影響を与えたと気づいたんですけれども。
 それ以外にも、電車に乗るため駅員さんにスロープを出してもらうとか、学校に行ったり、バリアフリー支援室で教室内の配慮をしてもらうとか、基本、気づいたのは、自分の日常生活の中でたくさんの専門家、他人にお願いする必要があった、頼ることになりましたけれども。自分の場合はこういう方々がいなかったときに困ったんですね。介助者があったからベッドから起き上がれますけれども、自分の車いすが壊れたときに工学者に連絡せずに、あまり新しい車いすは手に入れられなかったので、なかなか生活ができなかったんですね。もし、アパートを見つけるまではかなり時間がかかってしまったんですけれども、その建築家があまりバリアフリーの面でアパートを作ってなければ、やっぱりどれぐらいの介助者・工学者がいても、その建築家がなければ、他には意味ないんじゃないかということを気付いて。つまり、すべての専門家がいる必要があったんですけれども、それだけでなく、連携する必要があったんですね。自分の日常生活は、最初の段階から最後の段階まですべての専門家が自分を対象としてとらえて、アクセシビリティ制度をつくらなければならないという考えが日常生活から気づいたんですけれども。[00:30:11]
 結局、自分は初めて来日した車いすユーザーのひとりとしては、やっぱりみんなは、なんか外国人、かつ車いすユーザー、かつ男性、かつ自分の個性を考えた経験もなかったし、その連携のかたちはなかなか自分に対応せずにその日本のアクセシビリティ制度がつくられたので、自分がいろんな面でたくさんのところに外れたというか。まあ、バリアにぶつかったわけですね。
 基本、説明するとこんなかたちになりますけれども、やっぱりこの画面で車いすの通学、バスの画像なんですけれども、たぶんこの橋を作った建築家が、べつになんか車いすユーザーとして通れない橋を作るとは思わなかったと思うんですね。ただ、そのときに、たぶん車いすユーザーにその意見を聞かずに作ったんだろうと思うんですけれども。それか、その、車いすユーザーだけじゃなくて、その工学者に連携せずに作ったとか。基本、ほかの専門家との連携を作れないといけないということが、こういう事例から考えたこともあって、自分の日常生活もこんな感じでしたね。たとえば、もし誰でもトイレとかに入ったり、入っても、自分みたいな大きい電動に乗っているかたが使えないことがおきたんですね。自分の場合は海外製の大型電動を利用しているからこそ、トイレを使うのに、やっぱりその便座の高さがかなり低くて、自分で移動することができなかったんですね。まあやっと便座に移動することができたんですけど、車いすに戻るのか大変でしたね。あるいは、自分の車いすの大きさでも、駅員さんが、えっと、もしなんかエレベーターがまだ設置してない駅とかにいくと、じゃあその車いすを運んで階段を上ってなんとかその上まで行けるでしょうと考えた経験もあって。みんなが必死にそれを頑張っていこうと思ったんですけれども、結局自分の車いすはかなり重さがあって、それは無理でしたけれども。いちおうそういう感じですね。自分のニーズに対応せずに、そのアクセシビリティ制度を作ったことがわかったので。
 じゃあそれに気づいたらまた自分の考えた研究課題とか、その疑問がそこから生まれましたけれども、基本、気になったのは、「誰が障害やアクセシビリティを定義してる?」。もし誰でもトイレをするかたがいれば、誰がその基準決めるのか。車いすの高さに適用する必要あるんですけれども、自分みたいな大型電動車いすに適用しているのか、もし適用してないのはなぜでしょうか。誰がそれを決めるのか、一番気になったところですね。それを考えた上で、なぜそのかたがそういう力を持っている、つまりなぜそのかたがその基準を決めることができる、については大変関心を持つようになりました。もし、たとえば、自分がある所に誰かが決めた基準に合わせずに、あまりうまくいかないところがあれば、「なぜそのかたが決めたの」「なぜ自分に聞かなかったの」とか、そういう質問を考えたんですけれども。[00:34:56]
 まあそれで、結局これは自分だけの話ではなく、やっぱり誰にも影響を与えるだろうと思ったので、そのアクセシビリティ基準を定義したかったの【活動】(00:35:07)上で、それはほかの当事者の生活にどのような影響を与える? についても関心を持つようになりました。誰がこの基準が使えるのか、誰がこの基準が使えないのか。それについても大変関心を持つようになりました。最後の時にやっぱり、もしその基準から外れたかたがいれば、つまり取り残されたかたがいれば、そのかたは何をすべきでしょう。自分が海外の電動を利用した意味で、たくさんのバリアにぶつかりましたけれども、そのバリアを解消するように自分は何をすべきなのかについてやっぱり関心を持つようになりましたね。
 この4つの研究課題を考えた上で、やっぱりこれはなかなか簡単には答えることができないので、また学校に居座るだろうと思ったんですけれども。それでアメリカのペンシルベニア大学というところに博士課程に入りました。そこで、日本の障害者運動と、それに関する政策について勉強したいなと思ったんですね。でも、その勉強のあり方については、どこから始めればいいのかを迷っていましたね。さっき言ったように、やっぱり自分の日常生活の中でたくさんの専門家が入ってしまったんですね。介助者、工学者、支援室のかた、ほかにもいろんな専門があったので、どこからどのようにその障害、アクセシビリティ問題の面ですね、かなり迷ってきました。
 それで、最初の一歩としては、政治学政策科学を勉強したほうがいいなと思ったんですね。なぜかというと、やっぱりバリアフリーの基準がわからないと、さっき言った「誰がそれを決める」とか、そういう質問にはなかなか答えられないので、法律・政策を勉強する必要があるだろうと思ったんですね。ただ、すぐに気づいたのは、その基準がどっちかというと、「理想的な存在」と、ここには書いてありますが、基本、法律が…。基本、みんながこのアクセシビリティ基準に従ってくださいとか、そういう理想的なイメージがあっても、どこまで実施しているのかという質問は別のものですね。あとやっぱり、法律は法律の下で決めた基準がどのように当事者の生活に影響を与えるのかも別の質問ですね。法律だけではなかなか足りないと思ったので、やっぱり当事者の経験についても勉強することになるんだろうと思ったんですね。それで、人類学・社会学のほうもある程度勉強しましたけれども。[00:39:11]
 それで、たくさんの障害者、当事者の経験について勉強することができましたけれども。それは、何だろう…、その障害者の日常生活に関して勉強ってなんか、その知識を手に入れたといっても、やっぱりそれはその当事者だけの経験ですね。民間がどのようにその経験を把握しているのか。その問題の大きさを把握しているのか。たとえばもし自分みたいな、海外製の電動車いすを利用してるかたがいれば、ほんとにあまり関係ないレストランの店で働いているかたとかが、自分の経験をほんとにわかっているのかわかっていないのか、どのようなイメージがあるのでしょうとか考えた上で、やっぱりその当事者の経験だけを勉強するのではなかなか足りないと思ったので、メディア研究も勉強しましたね。つまりその、障害者の【表象】(00:40:43)についても勉強する必要があるだろうと思ったんです。結局、映画での【表象】(00:40:33)とかがそこから、民間のかたが障害に関する意識が、手に入れる道があると思ったので、やっぱり法律と、その【連鎖的】(00:40:54)な法律と現実的な当時者の経験と、それを理解を把握するようにそのメディアでの【表象】(00:41:05)。その3つを勉強する必要があるでしょうと思ったんですけれども、結局、その【表象】(00:41:22)、法律、民間の当事者の経験すべてが時間が経つとともに変わっていくんですね。その【表象】(00:41:29)がもしかなり差別的な偏見的なイメージから、逆にもっと何だろう…、当事者の経験に【明るい】(00:41:42)イメージへと動き出すと。なぜその変化が起こったでしょう、とかを考えた上で、やっぱりその文脈、相手をわかるため歴史を勉強する必要があるんですね。それで最後的に、法律、政策科学、人類学、社会学、メディア研究、最後に辿りついたのが歴史ですね。すべての背景をわかるため、やっぱりあれは勉強する必要がある、それが大事だねと思ったので。じゃあ自分は日本の障害者運動史とかに関して、何かを書きたいなという気がそこから生まれました。
 それで、たくさんの資料を集め始めましたけれども、最終的にその、さっき言った3つのレベルというか、上のレベルはまあ法律、政府が決めたこと、その政策記録を読む必要があると思ったので、その上から下にいくための資料を手に入れました。また、下から上に行くと、つまり当事者の経験についてはやっぱりその経験を【表象】(00:43:45)するための資料も集め始めました。その中、つまりメディア研究の面から考えると、どのように、あまり関係ないかたが、その政府記録と活動家の資料の相違点、合わせてないところを把握するためメディアの資料も手に入れましたけれど、基本、新聞記事は一番手に入れやすかったので、たくさんの新聞記事も集め始めましたね。全部の資料を集めたうえで、自分は日本における障害者運動の150年、明治時代から現代までの歴史を描くための博士論文を書きました。全部を説明するまでは、たぶんかなり時間がかかってしまうと思うんですけど、とりあえずここで一度止まって。もし、ご質問とかがあれば。[00:44:38]

兵頭:はい、ありがとうございました。大変中身の濃いお話を聞けてありがたく思っております。ありがとうございます。じゃあ今までのところをお聞きしてですね、何点か私のほうで、さらにあのお聞きしたいなというところがありますので聞かせてもらいたいんですけど。
 まずですね、いわゆる「早産」っていうかたちでお生まれになったということを一番最初お話しいただいたんですけれども、そのことを受けて、ブックマンさんがその障害を持った状態でお生まれになったということに関しての、ご両親でありますとか、ご家族の障害受容っていったところはどういった感じでしたでしょうかね。

ブックマン:まず自分の家族が障害児…、まあ最初的には自分は障害児としてなかなか認めなかったというか、考えなかったんですね。いちおう早生まれた意味で、体の筋肉があんまり動いてないということなんだけど、時間が経つとともに事前に治ることで、障害児にならないでしょうという印象がありました。それで、ほんとに心臓移植受けるまでは、あんまり…何だろう、自分は障害者として考えなかったですね。両親側が。基本、自分が健常者みたいな生活ができるように、同じ学校に通ってもらったり、通わせられたとか。そういう何だろう…、たぶんあんまり特別扱いなんか何も考えなかったでしょう、両親側が。
 ただ一つだけ加えたいんですけれども、自分は妹がいます。妹は3年年下なんですけれども、妹も同じ難病をしています。つまり、その世界中の6人の2人ですね、妹と僕が。ただ、妹の場合はまず早生まれの問題はなかったんですね。つまり順調に生まれましたけれども。それと妹の病気の進行が自分に比べては、かなり遅いペース。なぜかわからないんですけれども、自分は10歳のときに心臓移植受けて、妹の場合は24歳でしたね。なので、両親が自分の難病の進行を見たんですけれども、妹もそんなに配慮なんかをする必要がなかったため、たぶん自分も大丈夫でしょう、そういう考えがあったみたいですね。実際になってからは別の話なんですけど。

兵頭:そうなんですね。ありがとうございます。そうですか、なるほど。
 いわゆる幼少期ですよね。幼少期の頃は普通の、一般のかたと同じようなっていうところで、学校生活なんかもとくに問題はなかったってことですかね?

ブックマン:そうですね。自分が、まあ逆にかなり…、何だろう、小さいときでも大変勉強が好きだったので、学校以外にも、家帰ったら両親に「宿題を出してください」とかそういう経験があったので、そういう意味で両親がたぶん、その面で問題ないでしょうと思われたかもしれないですけど。はい。

兵頭:そうですか、ありがとうございました。
 ご自身の障害に関しては、その当時の学校の先生とかにはどういうふうに伝えられたんですかね?

ブックマン:そうですね、たしか心臓移植を受けるまでは、たしか伝えてなかったっけ。自分の知ってる限りは何も言わなかったと思うんですね。たんに自分が、えっと、何だろう…。そのときはまだ歩けたんですね。ちょっと、何だろう。その歩き方がちょっとおかしかったといっても、基本、ほかの子どもと遊ぶことができたので、べつに何だろう…、やっぱり一般人の中でも多様性があるじゃないですか。スポーツにうまいかたうまくないかたがいるから。そういう意味で自分がたんに、若干筋肉がその早生まれのせいでちょっと弱いんですけれども、べつに特別あつかいとか何もしなくていいから、まあ伝えなくていいんじゃないかと、両親は思われたんですね。[00:51:06]

兵頭:うん、なるほどですね、うん、うんうん。
 ちなみに、アメリカっていうところは障害児教育もすごく日本に比べて進んでると思うんですけど、ブックマンさんが通われていた時代っていうのは、いわゆるその特別なニーズを持つ生徒さんに対しての配慮って、具体的にどういった状況がありましたか?

ブックマン:そうですね。アメリカ障害法が設置された年にやっぱり合理的配慮義務をつけることになりましたけれども。基本…。すみません。今の日本みたいな、何だろう、合理的配慮がそのときもちょっと曖昧な概念としては、みんなの捉え方が異なりましたね。基本その学生のニーズに応じて配慮を設置するという理念で動いたはずなんですけれども、ほんとに個人個人でそのニーズに合わせる制度が作れるのか、ほんとに何だろ、その対応のかたちが変わりまして。自分の知っている限りは、もし自分がその時代に車いすとかだと、やっぱり建築的なバリアを解消してもらおうとか、そういうかたちになったはずですけれども、自分がそのときにそういう身体的なニーズがなかったため、何も設置してもらわなかったんですね。
 個人の話ですと、最初的に配慮を受けたのが心臓移植のあと1年ぐらい、いや、2年でしたっけ? 1年半ぐらい休学したんですね。やっぱり免疫抑制剤を飲んでたから、学校に行くのは感染のリスクがあったため行けなかったんですね。それで、実習でなんとか行けたんですけれども、学校に戻ってからやっぱりずっと入院と家の中の生活でしたので、筋肉の様子がかなり弱くなっちゃいまして。いろんなところへ歩けたんですけれども、もし遠いところにかなり短期の時間で行く必要があったら、スクーターとかを使うことになりましたので、それを学校側が機械を用意してもらって行くことになりました。それは2002、2003年の話ですね。たぶん自分の心臓移植前でも同じようなニーズがあったら同じような対応をしてもらえたかもしれないですね。[00:54:53]

兵頭:はい、ありがとうございます。うん、うんうん、うん。なるほどね。
 じゃあ、その教育面に関わらず医療面でもやっぱりアメリカでは、そういった障害に対する理解が進んでいるということですよね。

ブックマン:はい。どっちかというと。でもやっぱりこれも、アメリカとしても、ほんとに地域地域、人々によって、その状況が変わりますね。自分が言うのは恥ずかしいんですけれども、かなり家族はお金持ちで、かなり教育レベルの高いところに生まれ育ったので、その意味でたくさんの配慮があったんですね。もしそんなに恵まれていないところでしたら、たぶん状況は変わるかもしれないですね。

兵頭:なるほど。
 今のところで、教育面でありますとか医療面での合理的配慮の話もいただいたんですけれども、アメリカでいいますと、あのADA(エーディーエー)法が制定されていると思うんですけど。

ブックマン:はい。

兵頭:このADA法に対する国民の意識みたいなのはどんなもんなんですかね。

ブックマン:そうですね。やっぱり今でも…。なんか去年はADAの30年記念でしたけれども、その意識不足は残ってますね。たしか自分の知る限り、日本の障害差別解消法を実施した16年の翌年、つまり17年の夏には世論調査が出たんですけれども、たしか日本全国の77パーセント、民間の77パーセントがその法律の存在も知らなかったという答えが出たんですね。アメリカのその時代はたぶんそれぐらいでしたかな。自分は何もそのデータは持ってないんですけれども、自分の覚えてる個人の経験から考えると、みんながあまりわからなかったんですね、どっちかというと。たぶんその専門家以外ね。専門家だったらもちろんその法律の存在ぐらいは知ってたんですけれども、さっき言ったように合理的配慮も実施するかたちはかなり***(00:57:53)になりました、どこでも。

兵頭:なるほど。この「合理的配慮」って日本でも少しずつ話が進んでると思うんですけどね。どうなんでしょう? アメリカでのその、いわゆるソフト面、「ひとの心」っていうところに焦点を当てたときの配慮っていった実体はどんなもんなんですかね。たとえば、街の中で健常者の人が物を落としたっていうことと、車いすの人が物を落としたっていうことを事例に挙げたときに、両者は同じ事象ではあるんですけれども、たとえば障害者の人が物を落としたとか、転倒してしまったといったときに、その「助ける」っていうことに対しての国民の意識なんかっていうのは、ブックマンさんから見てどういった理解が進んでいる状況があるかとか、そのへんの、わかりますかね?

ブックマン:それは、子どもの時代の話ですか? あるいは今の様子ですか?

兵頭:そうですね。当時と今と、両方教えてもらいたいなと思うんですけど。[00:59:19]

ブックマン:わかりました。当時は、なかなか。たとえば「心のバリアフリー教育プログラム」とか、それに当たるものが何もなかったので。基本、もし、障害児と一般の子どもが同じ教室にいれば、やっぱりお互いに学ぶこととかできたんですけれども、その時代にアメリカ障害法があったといっても、基本そのインクルーシブ教育のかたちはまだなかなか定められなかったので、だいたい障害児が別の教室に行って、同じ学校なんですけれども、別の障害児専用の教室に入って、1つ、2つぐらいの授業に一般の子どもが出ていた授業に参加してもらって、お互いのニーズの話し合いぐらいは。何だろ、とくに話はなかったんですけれども、その授業を取った経験で、なんとか「こういう多様性がある」とみんなが気づいたんですね。でもその障害児のニーズも、障害を持ってない子どもに教えるのが、今でもほとんどやってないですね、向こうは。
 やっぱり、障害学を勉強したかった理由、自分はね。まずそういう分野があるとはさっぱり知らなかったし、アメリカのほうでもその障害学という分野の流れが、ベースはあるんですけれども、たぶんその一番有名な、その分野を創立されたみたいな本が出版したんですね。それは97年に出たので、そんなに歴史はないんですね、どっちかっていうと。なので、もしその専門側がそんな浅い歴史であるというと、やっぱりどこまでその知識が学術制度に入れるのか、大学レベルで授業を取れるのか、高校レベルで取れるのか、中学レベルで取れるのか、今でも少しずつ少しずつそのレッスンが教育制度に吸収されてるようですけれども、やっぱり日本はアメリカに比べてたくさんの内外圧があるため、その教育制度がわりと素早いペースで進んでいるとは思いません。
 たとえば、「心のバリアフリー教育」は、どっちかというと、2014年の障害者権利条約に批准した上で学校で教えることになりました。それは海外の影響なんですけれども、まあその圧力なんですけれども、それだけでなくやっぱり、オリパラがあったし、高齢化社会問題もあるし、いろんな意味で社会の圧力があるからこそ、そういう教育の大事さがある程度たくさんのかたが考えていますが、アメリカの場合は逆にそういう圧力がないから、あんまり何だろ、「必要性がある」といっても、みんなはそれはあまり感じていないという印象があるんですね、僕には。

兵頭:なるほどですね。じゃあ、そういったところを考えると、あまり日本と大差がないところもあると。

ブックマン:そういうことですね。

兵頭:ですね。なるほどですね。
 余談なんですけど、私、アメリカ本土には行ったことないんですけど。私、24のときかな、24のときにハワイに行ったことがありましてですね。ハワイも当然アメリカではあると思うんですけど、そのときに、自分が車いすの状態で海に出るといったときに、船に乗るんですよね。小さなボートなんですけどね。そのボートに乗るときにやっぱり移動面が大変なので、当然助けてもらわないといけないんですけれども、そういったときにですね、ガイドさんがですね、男性のガイドさん3人だったかな、もう快く担いでいいただいてですね。もう「助けるのが当たり前」というふうな雰囲気が伝わってきてですね。そこらへんがアメリカでは進んでるんかなっていうふうにまあ、感じたことはあったんですけどね。そういった「助けるのは当然」っていうことも、やっぱり個人によって差があるってことですかね?[01:05:13]

ブックマン:そうですね。たぶんそんな感じです。自分の場合はまずフィラデルフィアという大きな街の郊外に生まれ育ったんですね。その郊外は***(01:05:30)という街なんですけれども、そこはどっちかというと田舎みたい。まあ、田舎でもないんですけど、なんか千葉みたいなところ、どっちかっていうと。東京から千葉の。距離でもほぼ一緒だから。たぶんそう考えるとそんなかたちです。つまり、車がないといろんなところに行けないんですね。緑がいっぱいあって、ちょっと何か山になってみたいなところなんですけれども。いちおうそういうところで生まれたから、ほかの人数も少ない、比較的には少なくて、「お互いに助けなきゃ」って感じがそこから生まれたんですね。あまり周りの方々がいないからこそ、みんなが連帯感をそれなりにこう、うまくできないでしょうという感じがそこから生まれたんですけれども。博士課程のときにフィラデルフィア、その大きな街に引っ越したうえで、また違う区間に入ったようですね。そこはやっぱり人数が多くて、お互いに助け合う感じはなかなかなかったんですね、どっちかっていうと。たぶん、もし何か誰かにぶつかったら、その周りに大勢のかたがいれば、ほかのかたが助けるので自分は大丈夫でしょう、みんながそういうふうに考えたかもしれないですね。だから逆にそういう、たくさんの人がいるからこそ助けることができるはずなのに、あまり動いてないような気がしますね。どちらかというと。なので、ほんとに地域によって状況によって、その感じは変わるかもしれないですね。

兵頭:なるほどですね。ありがとうございます。
 ここまで、いわゆるソフト面に重点当ててお聞きしたんですけど、一方のハード面に関しては、やっぱりそれは日本と同じで、アメリカ政府から資金援助がなされて、建物の整備とかバリアフリー化っていうのは進められると思うんですけど、その資金の援助の仕組みなんかは、それも日本とあまり変わらないですかね。どういった仕組みになってます?

ブックマン:制度的にはほぼ一緒なんですけれども、やっぱりその実施のあり方は相違点がありますね。さっき言ったように、とくに最近の日本だと、やっぱりオリパラとか、高齢化社会問題とかを考えた上で新しい施設を作ると、どっかのビルとか、整備をすると、そのバリアフリーのかたちで作るのはやっぱり将来的に考えると経済もくるからこそ、みんながその政府からお金が、どれぐらいもらっても、バリアフリーは経済的にプラスと考えている方がかなりいますね。大企業とかだとそういうふうに考えているかたがかなりいるから、たくさんの何か多様性の話が、今、企業の中でもうまく動いているようですけれども、アメリカの場合はさっき言ったように、そういう圧力がないからこそ、みんなが政府からお金がもらえるといっても、それはたぶん、その整備を設置しても将来的にはあまり高齢化社会問題、障害者権利条約に批准したわけでもない。いろんな意味で圧力がないからこそ、【金を儲ける】(01:09:55)ことができなくて、面倒くさいから***(01:10:17)かたちで、作られたくないのかなっていうみたいですね、そこ。
 それと、やっぱりもし最初から何かを作ろうとたぶんまあバリアフリーのかたちで作るのがそんなに大変ではないではないというふうに考えているかたもいると思うんですけれども、アメリカはとくに大きな街の中でどっちかというと歴史的なビルがいっぱいあって、改善は、その改善に関する考え方は、新設ことに比べてかなり別の話になりまして。改善がなかなかお金かかるし、そのお金の問題が、政府のお金で解決できないからこそ、ほぼ何も変わっていない。ちなみに歴史的なビルの話になると、自分のいたペンシルヴァニア大学の中でも、それは非常に歴史がある大学で、たしかアメリカの最初の大学、何か宗教系ではない大学として創立されたんだと思うんですけれども、1700何年だっけ? とにかくその長くかなり歴史がありまして、たくさんのビルが歴史を保存するための法律で改善できないんです。そういう問題もあるんです。もしその、バリアフリーのかたちで改善したいと言ってもできないところがいっぱいあるんですね。日本でも同じよう問題あるんですね。今の時代から考えると、名古屋城のエレベーター設置する問題とか。それは一緒の。それでやっぱり、安全の面も含めていろんな問題があるんですけれども。とにかくアメリカはそんな感じですね。[01:12:20]

兵頭:そうですよね。歴史的な建造物っていうと、やっぱり保存の話が出てくるので、なかなか改善しづらいっていう問題は、やっぱアメリカと日本とはそう変わらないってことですね。

ブックマン:そういうことですね。


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*作成:岩ア 弘泰
UP: 20220203 REV:
兵頭 卓磨  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築 
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