>HOME > Archive

「八柳卓史インタビューB」

話し手:八柳 卓史(やつやなぎ・たくし)/聞き手:瀬山 紀子(せやま・のりこ) 20211207(火曜日).

Tweet
last update: 20220128


■インタビュー本文

八柳:その頃、青い芝を代表して、三ツ矢さん(三ツ矢英子)って、優生保護法の問題に一時は関わっていたんだけど。阪神淡路大震災で亡くなってしまって。

瀬山:その頃というと、遊歩さんがカイロの人口会議で発言をされたのが1994年の秋ですが。

八柳:その前からだね。DPI女性ネットワークの中で、遊歩さんがカイロに行くっていうんで。それで、遊歩さんに頼んでしゃべってもらったということだったのかな。遊歩さんは、DPI女性ネットワークの会員だったと思うけれども、ほかの障害者運動なんかのいろんなところには、当時はあまり出て来ていなかったと思う。
堤愛子さんは、子宮摘出の問題とか、そういうのをずっとやってきていたから。車いす市民集会の中でも子宮摘出の問題を取り上げてきて。もちろん全障連にも来てくれていた。強制手術が行われてるってことを訴えていた。子宮摘出は、優生保護法には書かれていないので、数はカウントされていないんだけれど。集会なんかの中でそういう手術が行われてるってことを告白してくれた人がいて。まあ、自分から手術を受けると言い出したりしていたわけだけど。障害者自身が。「そういう手術を受けたい」って。毛局、そう思い込まされちゃうわけよね。「あんたはどうせ子供もできないし結婚もできないし、生理があったって面倒なんだけっていう。それは実は施設の職員の願望だったんだけどね。生理の世話は嫌だっていう。

瀬山:実際にその頃、94年のカイロの会議より前から優生保護法の問題や、優生保護法をなくそうという運動はなされてきたわけですよね。

八柳:DPI女性ネットワークの主な議題っていうのは、優生保護法の撤廃だったよね。

瀬山:そうでしたね。優生保護法撤廃が一番メインの目的に据えられていましたね。

八柳:うん。この問題については、男は裏方に徹するっていう感じだった。

瀬山:その96年の法改正の前後は、女性障害者運動ではなくて、障害者運動もやっぱり優生条項の改定には関わったんですよね?

八柳:障害者運動のなかで実際に関わったのは男は僕だけだよ。実を言うと。毛利子来さんなんかは裏で動いてくれたけど。毛利さんは、当時の宮澤(喜一)元総理につながるルートとか、いろいろな脈を持っていて。情報を持ってきてくれたんだよね。もう亡くなっちゃったけど。あと、当時は、二日市さん(二日市安)なんかも、表立ってではないけれど、事務局会議みたいなのをずっと毎月やってたわけ。会食会みたいなかたちで。
それと、当時動いていたのが、阻止連の連中とDPI女性ネットワークのメンバー。DPIとしても動いていたと言えるけど、実際は女性ネットワークのメンバーが動いていた。
僕は、全障連関東ブロックって名前で動いていて。ともかく、いろいろな活動が、不協和音を出さないように一生懸命抑える役っていうか。それを担っていたと言えるかな。
だから、樋口さん(樋口恵子)にも聞いてもらえばわかるけど、僕と樋口さんで、法改正がありそうな動きが本格化始めた時に、一生懸命、いわゆる組織外の有名人を説得して回っていた。
優生保護法に対しては有名障害者(笑)ってみんな意見持ってるわけ。
たとえば、あの時に樋口さんと行ったのは、亡くなった高橋修とかね。
そういう有名な障害者を説得したの。変なことを言われちゃ困っちゃうんだよね。理想論みたいなことを言ったりしちゃう人がいたわけよ。
新田勲のところには俺が行ったんだな。
そういう、組織とはちょっと別の「有名な障害者」のところに説得しにいって。この後、優生保護法に関してこういう人たちとこんな風に動くけどいいかって。それで、余計な不協和音を出さないでほしいって。
73年知ってる連中は、その時の恨みがあるから。「障害者だってわかったら堕ろすんだろ!?とか言ってさ、中絶自体を否定しかねない。それが何かニュースネタになってしまったりしたら、やばいなと思ったんですよ。まあ、そういう意味で、裏方に徹しました。

瀬山:法改正がありそうだっていうのは、どこからの情報で知ったんですか。

八柳:一番はじめに法改正がありそうだっていう情報を得たのは、一年前近く。最初が、その、安積遊歩さんのカイロの会議での発言で。その国際会議に、厚労省の斉藤審議官というのが行ってたらしいんだよ。で、会議の後、割とすぐに、彼との話ができるって話を、誰か議員筋かなんかから聞いて。それで、何人かで、厚労省に話し合いに行ったんですよね。その斉藤審議官に会いに行った。遊歩さんの話を聞いてどうだったかって。そしたら、その審議会が、やっぱり自分も、なくすべきだと思うと言ってきて。

瀬山:それは厚労省の審議官ですか?

八柳:そう。審議官が。部長クラスの人だけどね。だけど、この法律は、議員立法でできていることもあって、厚労省には発議権がないと。だからちょっと時間が必要だと言っていた。要するに、議員の動きを作るために時間が必要だと考えていたんだな。もちろん厚労省だから、自民党筋のほうに話を持っていくということだと思った。そこらへんの、厚労省と自民党筋の間での話は、いまいちわかんないところがあるんだけど。ただ、そのあと、実際に、自民党の中で、優生保護法はやっぱり直す、なくすべき、変えるべきだっていう議論が始まったみたいなんだよね。

瀬山:94年の9月以降の話ですね。

八柳:そう。95年ぐらいまでは裏の動きだったと思う。1995年くらいから自民党の中で見直しの動きが出てきて。何回か頓挫したんだけど、結局最終案がでて。
当時は阻止連の連中が自民党の女性議員の説得にも回っていて。その時にやっぱり、優生のことだけじゃなくて堕胎罪の問題とか、もちろんしゃべったんだろうと思うけれども。
森山眞弓とか、何人かいたんだよね、あの時、動いてくれた議員が。
それで、法改正が正案になっていったという流れだった。
ただ、最初は、「母性保護法」だって話だったんだよね。で、その「母性保護」(笑)という言葉については、阻止連の連中が、それは絶対だめだ!って言っていて。俺もおかしいなと思った、母性保護というのは。
それでなんか最終的に、母体保護法になっていった。その時の情報とかそういうのは、さっき言った宮澤元総理のコネクションがあって。毛利子来がいろいろ情報流してくれたりしていた。あとは、阻止連の連中が女性議員から情報とかを流してくれて。それで対策会議みたいなのを毎週やってたんだよ。毛利さんも入れて。でも土壇場でいろいろあったけどね。

瀬山:女性運動の側からすると、もっと抜本的見直しが必要だという意見もあったと思うのですが。

八柳:それが出るとは思っていたの。

瀬山:抜本的改正を持ち出すと、改正自体が後回しになるんじゃないか、というような議論があったりしたのでしょうか。

八柳:当時、厚労省のほうの意図が、優生思想に基づくところだけを変えたいというのがあったわけだよ。それで話が始まってるから。女性全体の話になると、今でも夫婦別姓の問題になると大騒ぎになるみたいな感じのようだけれど。なかなかものすごく自民党の中では女性の権利に関わるところは反発が大きいわけだよ。僕は、堕胎罪まで、ほんとは廃止まで行って欲しいんだけど。そこまで行かないというか。それで、へたにいじると、また、いろいろ出てくるというのはあったよね。
 たとえば日本産婦人科医会が、文言変えることについてあまり賛成してないとか。だから、まして堕胎罪が出てきちゃうと、それをなくすことには反対が大きい。本当は、堕胎罪を潰すまでいかなければいけないんだけど。
あと、中絶の条件をどうするか、みたいな議論もあったんだけど。経済的理由というのは、実際的にはもうザルだから。結局、実態としては、何でも通るようになっているわけで。だけど、それ以上文言変えると、逆に、女性の縛りになる可能性もあるっていう議論はあったんです。
だから、優生条項以外のところは、もういじれないっていう判断をせざるをえなかったっていうことだと思う。僕らがね。
女性運動の中では、それは「もっと変えたい」っていうのがあったと思う。もっと変えるっていうか、堕胎罪と優生保護法をなくしてほしいって言うかさ。堕胎罪と一緒に、優生保護法を廃止してほしいっていうことが。だけど、優生保護法を変える場合、堕胎罪があると、逆に、中絶の要件がきびしくなる可能性もでてきてしまう。それで、堕胎罪と優生保護法を抜本的に見直すとなると少し時間が短すぎるということになって。その議論をするとまたこの先10年は優生保護法をなくす、というか、優生条項をなくすということだけれど、その話がなくなっちゃうっていう気持ちはあったんですよ、僕らの中に。
 女性運動の人の中でも、そこらへんわかってたと思うんだけどなあ。つまり、革命に近かったわけで。堕胎罪までなくすという話は。ただ、もちろん、結局、堕胎罪も含めて抜本的に変えられなかったのは残念だという話はあったよ。
なので、へたにいじると当時の自民党の状況だと逆に厳しくなるということだと僕は理解して、最終的には堕胎罪の撤廃までいかないというところで妥協したんだよね。
堕胎罪そのものは、子供というのは天皇の赤子であるっていう発想だよね。「国家のための子供である」っていう。だから個人が勝手に堕したりしてはだめっていう発想がある制度ですからね。「あなたの子供じゃないよ。天皇の子供だよ」っていう発想。

瀬山:当時も、堕胎罪の問題については、障害者運動の人も、理解はしていたということですか。

八柳:ほとんどの障害者運動の人は理解してないと思う。理解していたのは、DPI女性ネットワークと僕とぐらいだと思う。だから、一番残念だったのは、青い芝の会が、最後、「完全解決以外は認めない」っていうようなことで、一緒に動けなかったこと。
この問題が動き始めた最初は、さっき言った三ツ矢さんが生きていて、彼女がこの担当になってくれていて。話ができて、進められたきたわけだけど。彼女が、震災で死んじゃったあと、青い芝の男たち、長谷川とか、松本が出てきて。彼らはやっぱり発想が党派に似てんだよね。状況をどう少しでも変えていくかっていうことよりも、絶対の正義がある。それで、国家賠償つきの完全解決じゃないと認めないというようなことをいって。
青い芝をつなぎ止めるのも僕の役目だったんで。言ってみれば、青い芝が、一番この優生保護法については、問題にしてきていたわけで。青い芝は、結成当時から、優生保護法を一番大きな課題として、問題視してきていたと思うんだよね。組織として。個人はともかく。
それで、彼らは、仲間で動く時に、この優生思想への批判というのを使ってきたわけよ。「日本では、自分たちは、いてはいけない存在になっている」と。それと、「生まれる前に、障害者だと殺してしまう、堕していい存在として、自分らはいるんだよっていうのも言っていた。自分たち障害者は産まれないでほしいって思われてるって。
時代としても、その前に「不幸な子供を産まない」運動批判とか、いろんな運動があってさ。運動っていうか行政の動きもあったりしたけど。
だから、最後にね、青い芝がね、この法改正は認めないとなって。途中まではオーケーだったんだよ。ただ、土壇場になって、ちょうど、俺が行かなかった時なんだけど。そのときの会議に青い芝の長谷川が来て、「自分たちは納得できない」と言ったらしいんだけど。ただ、その時には、もう法改正の話がほとんど決まった状態の時で。彼らは、要するに、謝罪がない限り認められないと言ったんだよね。

瀬山:優生保護法に対する謝罪ということですか。

八柳:うん。国会でのね。それがつかない限りは認められないって言い方して。
それは、気持ちとしては僕らもあったわけさ。それはさ。あったけど、それ言っちゃたら、またさ、あの時点で「国家賠償しろ」っていう話になるわけだよ。それは突き詰めると、「総理大臣がごめんなさい」と言えばよいという話ではないから。考えると、今になって、やっと、それが国家賠償の話になってきてはいるわけだけれど。
ただ、その当時は、女性で子宮摘出を受けさせられたりした人は周りにいたけれど、いわゆる強制不妊手術を受けさせられた人というのは、僕は聞いてないんだよね。だからそのときの謝罪というのは、理念的なものだったと思う。子宮摘出については、いたんだよね。全障連の猪野さん(猪野千代子)さんもそうだったけど。
鈴木利子さんもそう。自分も、何人も知ってるけど。ただ、それは、いわゆる優生保護法による優生手術じゃないんだけど。いってみれば、優生保護法をだしに、子宮摘出された仲間っていうのはいたんだよね。
ただ、青い芝はやっぱり、かなり強い男性社会で。さっき言ったように、三ツ矢さんがこの担当になってくれた時には話がすいすい進んで良かったんですよ。ところが彼女が震災で亡くなっちゃって、青い芝に実質的に担当いなくなっちゃったから。結局また、担当が、また、執行部に戻っちゃって。話が、理念的な話になっちゃったんだよね。
 男性たちは、障害者ということで当事者であるけれど。実際に、自分が、それがいいと思い込まされて子宮摘出手術を受けさせられたわけじゃないしさ。まあ、もしかすると、優生手術を受けさせられた人はいるかもしれないんだけど。少なくとも、直接被害にあったという人は、出てこなかったね。青い芝からは。三ツ矢さんは、子供がいるぐらいだから、子宮摘出は受けてないんだけど。やっぱり、女性だったから、この問題についても理念的じゃないところで話せたよね。福永君ともやり合っていたくらいだから。
全障連は、猪野さんがいたけど。本当は、女性の障害者が全面的にでれば、一番、女性運動に対してはインパクトがあるというのはあったけれど、喧嘩になってしまうのでだめだった。
でも、やっぱり、男が出ていくと、でかい面して出ていくと絶対ダメな話で。これはやっぱり、障害者でも男だからね。話がまとまらないというか。だから難しかった。女性運動と話をするのは。実際、障害者運動と女性運動が一緒にやっても、絶対にまとまらないとも言われたんだ。障害者運動の仲間から。

瀬山:青い芝のそのときの主張についてもう少し聞かせてください。

八柳:青い芝は「謝罪」を求めた。法改正で、優生保護法をなかったことにすることに反対したんだと思う。なかったことにしないってことは、ちゃんとした謝罪がつかないといけないんだと。
ところが、自分たちが主導を取ってない自民党内部での力関係の中で作られた母体保護法だったから。あの時は野党の影響力ってほとんどなかったから。だから、もう、その与党の改正案をのむかのまないかだけだったんだけど。もちろん、それはのまないって言う可能性もあったよね。
青い芝と一緒に、もっと大衆運動で、国会を取り囲んで、世論として、こう、がーって作って。青い芝の連中は、そういう運動をして、「本当に酷いことをしました」っていう状態にして、それから廃止ってかたちにしたかったんだろうけど。確かに、その気持ちはわかるんだよね。
 ただ、僕は、あのときに、ある集会で、女性運動にも関わってよく集会にきていた丸本さん(丸本百合子)が、「今でも、医学の学生に対して、優生保護法を教えているんだ」って言うんだよ。もちろん、法律があるんだからね。でも、それを聞いて、本当に、これってどうなんだよって思って。
新しく医者になる人に対して、優生思想が拡大再生産されているわけだと思ったんだ。優生保護法は、実際には、当時はもう、ほとんど実際には動いていなくて。10年の間に何件、数件っていうレベルに減っていたと思うんだけど。まあ、さっき言ったように、闇の不妊手術はあったと思うけどね。
でも、いわゆる各自治体の優生保護審議会を通してやるような優生手術は「4年間でゼロ件です」とか、なんかそういう話だったんですよ。だけど、法律はあるってことになると、医師は、それを学んでいる。実際、それは実質行われていなくても、優生保護、それは、そういうものだって思われる、そんな教育をしているんだと。
もっと言えばさ、本当に、医者がさ、障害者を「劣った人」って見ている人がけっこう多いんだよ。
実際に、仲間の、言語障害のある障害者連れて病院に行くと、もうぜんぜん相手にしてくれないっていうか。けど本人の詩集を見せたら態度がガラッと変わったとかね。こういうものを書ける人間なのかって、ようやくそれでわかるというか。
そういう人たちが多いんですよ、お医者さんって。
まあ「多い」って言っても、全部が全部じゃないけどね。
そういう日々だから、僕らの中では、そういう「医療機関による障害者迫害」みたいなものの一つの要因としてこの優生保護法の存在、この優生条項の存在があるんだよっていうことはあったんだよ。
 ただ、あの時は、大衆運動としては全然もりあがっていなくて。大阪で何回か集会やったぐらいで。大集会やったりとか、デモをやったりとかいうのはなかった。
だから、青い芝にしてみれば、自分らはぜんぜん関わりないところで、勝手に自民党の議員さんがやったっていうふうに見えたと思う。
でも、さっき言ったように、実際には、我々とも話した後に、厚労省の斉藤審議官が根回ししてくれて、法改正につながったと思うのだけれど。あとは、阻止連の人たちが、女性議員に話し込みに行ったというのはあったと思うのだけど。最初の動き出しは、厚労省の審議官のルートだったと思う。
議員で動いた人は、たぶん、宮澤総理一派のリベラル派の誰かだったと思う。そこらへんをつついて「なんとかならないか?」っていう話を、厚労省のほうからやって。たぶん、「国際会議で恥をかいた」みたいな話をして。「日本でそんな法律を今だに持ってる」っていうのはまずいということで。
実際、優生保護法に基づく手術施行件数もほとんどないので。知らなかっただろうからね、逆にね。優生保護法の闇も、子宮摘出のような闇手術が行われてる事実も、知らない連中だから。だから「実体がないんならなくしてもいいんじゃないか」って話になったんだろうと思うんだよね。
ほとんどそのへんは、僕らとしては憶測ではあるけれど。毛利子来は、もう少しは知ってたかもしれないんだけど。彼はもう死んじゃったから。実際の詳しいところはわからない。
そういう、国会対策は、毛利子来がやってたんだよね。毛利子来は、「障害児を普通学校へ全国連絡会」の役員もやってたし。「一点に絞んなきゃだめだ」みたいなことは言ってたんだよね。
その時はだから、阻止連の人たちは、苦渋だったと思うよ。女性運動からは、なんでそれだけなの?ってさ。そういう意見がでてきたよね。だけども、さっき言ったように、へたに、力関係で言うと、大衆運動も作れてなかったので、簡単にその話がなくなってしまいかねない。特に、自民党内部の動きとしては。それで、逆に、自民党筋から、堕胎罪もあるんだし、中絶をもっと強化すべきだという意見も出てきかねない。中絶自体に反対の議員もいるからね。そういう話も出てくる可能性があったわけじゃない。
そこらへんは、子来さん(毛利子来)の話しぶりから感じてた。
だから、「今回はもう優生だけで」っていうことで進めることになった。力関係で言うと、逆にもっと、中絶の選択肢を狭める方向に行く可能性もあるという状況だったんだよね。へたに言うとね。
 最後はだから、運動の力ではなかったです。
確かに、全体的には運動の力だとは思うんですけど。ある意味、世界中の障害者の。それも、日本だけじゃなくて。世界で、そういうのが廃止されていった経緯の中で、スウェーデンで謝罪を出したというのもあったと思うし。
 それで、法改正後、僕も、強制不妊手術に対する謝罪を求める会(優生手術に対する謝罪を求める会)に、よく行ってました。DPIでも、取り組んでいて、かとまき(加藤真規子)と宮本くん(宮本泰輔)とで、仙台の被害者(飯塚淳子)のところ行ったりしてくれたんですね。

瀬山:なるほど。結局でも、2018年になってようやく国賠訴訟っていう流れがあって、改めてこの問題がクローズアップして。だけど除斥期間が壁になっていて。1996年の段階で問題にできなかったことがすごく大きな壁になってしまっていて。当時から補償を求めるようなことができただろうということも言われたりしていた。今思うと、過去の障害者運動の中で、当然この問題に対してはすごくいろんな取り組みがあったとは思うのですが。一方で、いわゆる強制不妊手術を受けさせられた当事者と運動が、そんなに直接つながれてなかったっていうのはあったのかなあとは思うのですが。どうでしょうか。

八柳:被害者は、知的障害者が多かったのと、社会的にも、施設に入れられちゃって、関係が切られてる人たちとか、そういう人たちが多かったんだよ。そのなかで、最初に、名乗りでたのが、飯塚さん。
電話相談とかやったんですね。そうすると、何件かは出てきたんだけど。やっぱり、賠償求める動きにはぜんぜんつながらなかったし、飯塚さんも、すごい長い間かかって、裁判になったわけで。
子宮摘出の場合も、一応サインしちゃってる人が結構いたから。自分で選んだんだっていう気持ちもあるからだろうと思うけど。
電話相談はしたけれど、短期間で、本当に、氷山の一角だし。自分で電話かけられる状況の人ばかりでもなかったと思う。そういう、相談があることを知ること自体も難しかっただろうしね。
自分がそういう手術を受けたっていうのを、みんなに言ってないから。周りから、あなたも相談できるよ、というのも聞いてなかったろうし。で、もう圧倒的に多いのは50年代だろうから。その当時でも高齢の人とか、心臓弱い方も多いからね。亡くなっちゃってるというのもあったんだろうけど。
だから、さっき言った、大衆的な運動で盛り上がって、社会的な世論としておかしいというのを作れてなかったというのは、大きかった。廃止の時点で。でも、あの時点では、それは難しかったかもしれないね。でも、じゃあ、あのとき、大衆的な運動ができなかったからと言って、この問題を放っておいて、大衆的な運動ができたときに廃止させるというのが可能だったかどうか。また、それがいいのかどうか。
女性運動の人たちは、阻止連の人たちはそれなりに、もちろん関わってくれたけど。この問題に関心がない人たちがほとんどだったと思うし。障害者運動の中でも、理念的な問題として、自分たちはあってはならない存在っていうことが法律に書かれてるってことで問題にしていたから。実際の一人ひとりの被害者と、なんか連帯してっていうような話はあんまりでていなくて。
実際は、聴覚障害の人なんかも、結構、被害者がいるんじゃないかと思うけれど。
聴覚障害は、結婚の条件で「どちらかが断種をすること」っていうことを条件に認められたっていう人の話も聞いたことがあるし。ただ、当時は、コミュニケーションの問題があって。あんまりこう、向こうからも伝えられてなかったし。聴覚障害者自身も、自分からは話してこなかったのではないかな。
気がつくと、聴覚障害者同士で結婚した人の間には、子供ってほとんどいないねっていう状態で。本人からも、実はその時に、子供産まないことが条件にされたとかは出てこなかった。
 それは、基本、任意の手術だったからね。男性のパイプカットも多いんだけど。
本来は、「子供が3人以上いること」とかなんか条件があるんだよね。「もうこれ以上作りたくないから」っていうことが条件じゃない? だから障害を理由にはないはずだと思うのだけれど。ところが医者は、優生保護法を学んできた人たちだから。「法律の趣旨から言えば、この人たちは子供作らないほうがいいんだ」っていう趣旨で、簡単にやっちゃう。それで、ことがばれるのを嫌がる家族がいるとかさ。そういうことになっちゃうわけよ。だから名前出さないでくれってなっちゃうわけよ。

瀬山:なるほど、そういうことも考えられたわけですね。
それで。最後もうひとつ聞かせて欲しいのですが。
特に、優先保護法をめぐる女性運動との関わりの中で、その障害者運動側に、何かこう変化っていうのはあったと言えると思いますか?総体としてっていうのは難しいとは思うんですけど。

八柳:障害者運動総体としては、そんなに変わってないかもわかんないね。というか逆に、社会問題に対する意識が、逆に今のほうが減ってきちゃってる、障害者全体の中でね。
青い芝が言っていた、こういう法律があるってことで、自分たちはあってはならないっていうことが言われてんだよってこと。そういう考え方は、いまだに綿々と続いてはいるんだよね。ただ、今は、「あってはならない」とは露骨には誰も言わないからから。この前の津久井やまゆり園みたいなかたちで、ぽんと出る。ただ、あれも、あくまで、臭いものに蓋でさ。実際は、本音は、綿々と続いてはいるなあと思っている。
実際、以前に比べても、もっと広がっちゃってるかもね。「高齢者はもう早く死ね」とかっていうのも、あるかもしれない。
役に立たない人はそれなりに身を引いてっていう感じは、決して弱まってはいないと思う。逆に強まってるかなあと思ってる。
社会問題への気づきというか、それはさ、障害者運動だけでは難しかったかもしれない。
僕個人から言うと、廻り道して、いろいろな支援運動やってみて、学生時代にバリケードを作ったりもやった。その時に、党派の、すごく猛烈にしゃべる人たちと赤軍までは行った。俺もさ。だけど、「兵隊になれないからお前ダメ」って断られちゃった。
友達と、「赤軍に入ってみようか」って言ってさ。(笑) 面白そうだなと思って。いちおう行き詰ってる時だったから、学生運動がさ。東大の工学部まで行って。そこの幹部、ちょっと名前忘れたけど、朝鮮に渡っちゃったやつがいてさ。それで、そいつに会ったらさ、俺を見るなり「兵隊になれないやつはいらない」って言われてさ。
で、俺を連れてったやつがさ、「八柳入れない組織だったら俺も入らない」って、一緒に帰ってきた。(笑)
だから、社会参加ってのはさ、単に街へ出ていくだけではだめなんだと思う。もちろん、街にでていくというのはベストなんだけど。当事者意識があればあるほど、一回、なんかの支援をやってみて、それで「支援者のあり方」みたいなのも良いも悪いも見るのがいいと思う。
よく言うんだけど、支援者のなかには、引きまわす人たちが多かったのね。それで、全障連の大会の会場に、「引きまわしを許さない」って書いてあった。(笑) 「引きまわしを許さない」って書く運動があるかって、普通さ。(笑) それほど、障害者運動は引きまわしが多いわけよ。
だから、それこそ、「三里塚に行くんだったら介護に入る」とかさ。露骨にそういうの多いんだから。で、本人が三里塚が日本におけるどういう意味を持っているかとか、そんなんぜんぜん関係ないわけよ。お友達って行っちゃうわけよね。そうすると、「障害者の同志が来てくれました!」とかって拍手される。それで喜んじゃうわけよ。介助にも入ってくれるしさ、嬉しいやと思うわけよ。
 思い出したけど、何人もそういう障害者は、全障連の中で知ってるからさ。で、裏切られたり、自分が利用されてたってことに、10年も15年もかかって気づくわけよ。
その時に、いくら何言ってもダメでさ。本当に、障害者の場合、社会関係を奪われてきただけに、逆にさ、引きまわしを許しちゃって。最初はもう、親の引きまわしだよね。親が引きまわす。だから青い芝の言ってる「親の敵」っていうのはさ、親がぜんぶ代弁・代行しちゃうっていう。それを愛情だと思っちゃう。それしか知らないからね。
いま、また、それが多くなっているのではないかと心配なのよ。自立生活そのものも、本人が希望する前に親が希望しちゃうような状況がでてきているから。
他者と自分との思いの違いとか、それがあるのもわかんない人もけっこう多いように思っていて。「自分ってなんなのか」「周りって何なのか」「相手が見てるものって何なのか」「自分が見てるものは何なのか」とか。そういうことを学ぶ機会がないっていうのが今じゃないかなと思っている。
 そういう意味では、普通学校が、俺は一番大きいと思うの。やっぱり特に障害者の場合は、経験を奪われているというか。だから、子供の時のいじめが嫌で、養護学校に入れるっていう親がいるけど、なんでだめ?なのと思うよ。いじめてるほうが悪いんだから。いじめられたら歯向かうというのが必要。
殴り返すとかそういう意味じゃないよ?僕は、すり抜けることが多かったけど。それがけっこう、すり抜けてる自分も自覚してるから。関係性がわかるわけだよ。
だから、金井康治の親に「どうしたらいいか?」って言われた時、「康治を施設に入れろ」って言った。周りが、介護者ばっかりで、いい人ばっかりなんだよ。けんかできないんだよ、あいつ。誰とも。できなかったんだよ。親も敵になってくれなかったし。
 古い障害者の連中っていうのは、みんな多かれ少なかれそれを持ってるから。
でも、いまは、「自分は何なのか」「他者って何なのか」ってあんまり考えない障害者が多くなってるっていうか。それがちょっと心配だね。そういう意味での社会参加が少ないというか、人間関係のどつぼに入るとか、そういう経験が少ないような気がする。
今思い出したけど、堤さんと行ったのは優生法の廃止の時。ここでやめるかどうかって判断待ったんだよね、自民党任せみたいになっちゃってたからさ、最後は。それで、まあ女性運動はそれなりに関わったけど。だけどあの時は、三ツ矢さんの弔い合戦だから、行こうよっていう話をふたりでした覚えがあるな。今回逃したらもうあと10年、15年こないなと思ったもんな。
ほんと、不十分だと思ってはいたし、青い芝に、最後、賛成を撤回されちゃったのも当時は怒ったけど。一方で、自分たちが運動で作ったもんじゃないっていう気持ちもあるしね。でも、総体としては、「世界の障害者運動の力でつぶした」っていうふうには思ってるけどね。■終了


■関連ページ

・「八柳 卓志インタビュー@」2021年12月7日聞き取り
・「八柳 卓志インタビューA」2021年12月7日聞き取り

・八柳 卓史(やつやなぎ・たくし)『地方公務員としての35年間を働いて』[外部リンク]


*作成:岩ア 弘泰
UP: 20220128 REV:
病者障害者運動史研究 生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
TOP HOME (http://www.arsvi.com)