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「八柳卓史インタビューA」

話し手:八柳 卓史(やつやなぎ・たくし)/聞き手:瀬山 紀子(せやま・のりこ) 20211207(火曜日).

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last update: 20220128


■インタビュー本文

八柳:学生時代から、入管の問題をやったり、職場での反コンピュータ運動をやって。まあ、支援のあり方とかについても考えてきていたというのがあったのだけれど。
反コンピュータっていうのは、「自己決定を奪う」っていうっていうようなところがあって。わりと僕が主張してたのはそれだったな。ブラックボックスになっちゃって、自分の判断とか、自分の決定ができなくなってしまうという。提示された枠の中での選択しかできなくなる。
人間をデータ化してしまうっていうことに対しても反対で。僕らが反対したのは、パソコンでメールやるのがダメだ、とかそういう話ではなくて、権力がコンピュータを使って人を分類するようなシステムを問題にしていた。だから、役所がそういうシステムを入れること自体が問題だ、って言っていた。その行き着く先は、個人個人の虚像を作ってしまうという。役所がね。個人のデータを集めれば集めるほど、もうひとりの架空の個人を作ってしまって。それを対象に行政が行われるようになると。
あとは、労働運動の中でもあったんですよね。要するに、一つ一つの現場がなくなっていくとか。コンピュータによって、「現場がなくなる」っていう感覚があったからね。
 まあそんな状態で。そういうのがずっとたぶん周りを囲うようにして「自分がやんなきゃいけない」っていう気持ちになっていったという。
それと、その時にやっぱり、その主体性の問題で言うと、ちょうどあの頃に訪問ヘルパーの制度改悪があって。都庁に座り込みをしたというのがあった。もうそのときは、全障連関東ブロックで動いていた頃なのだけれど。1983年頃のことです。

瀬山:1983年といえば、ちょうどその82年からの優生保護法の改悪阻止の運動があった時期とも重なってきますが。

八柳:83年の優生の時は、僕は、何度か集会に顔出したくらいかな。

瀬山:そうでしたか。

八柳:ただね、全障連関東ブロックとしては、障害者運動も、もう少しなんとかしなきゃいけないという話があって、女性運動の人たちを呼んで、事務所でお互いに話し合うような場はもっていたかな。
73年のときは、もうとにかく、ガチンコで、障害者運動と女性運動と喧嘩別れみたいになったから。83年ぐらいになると、阻止連ができていた頃かな? 

瀬山:そうですね。SOSHIRENは、82年優生保護法改悪阻止連絡会としてはじまっています。

八柳:阻止連の連中が、けっこうね、目黒とかいろんなところで、障害者の介助に入ってたりしてた人もいるわけよ、何人か。だからその意味では、阻止連は、ありがたかった。女性運動の中も、まとめていただけたっていうのが大きかった。でも、83年の時は、僕はね、そんなに運動はやってなかったんですよね。ただ、その全障連関東ブロックの定例会に、阻止連の人だったと思うけれど、来てもらって、女性運動の主張だとか、そういうのを聞いて、お互いに理解しなきゃって気持ちはあって、実際、それをやってくれた、受けてくれたんですね。
 もちろん、阻止連全体じゃなくて個人として参加してくれていたのだと思う。そのなかで、「私は血縁っていうのが絶対嫌いだ」とかって言う人が来たり、いろんな話をしてくれたわけね。「子供は絶対作らない」とかね。そういう人とか、いろんな人が来て話を聞いて、こっちの話も言ったりして、交流したっていうのが83年。
 逆に、83年は、障害者運動全体の中では盛り上がらなかった。青い芝も含めてそうだったけど、自分たちの主張を言うだけ、もしくは厚労省に伝えるだけで、女性運動との共闘っていうのは、それは無理だっていうふうに思い込んでる障害者が多かったね。特に73年の運動やった連中は、もう本当にね、女性運動は不倶戴天の敵みたいな感じでいた人たちもいた。
その頃、猪野千代子さんというのがいて、その人なんかも、女性運動って大っ嫌いだって言っていて。米津さんなんて、不倶戴天の敵、裏切り者とか言って(笑)。障害者運動のなかでは、そんな風に言われてたの。僕なんかは、そうじゃないじゃないかって話をしていたんだけど。
その米津さんのモナリザの事件のことも聞いていたりしたし。

瀬山:モナリザ。

八柳:そう。モナリザ・スプレー事件。それをやった人っていうんで。米津さんが。やったニュースを、障害者新聞を発行していた白砂君が取材してきて、書いていて。僕は、それをもちろん読んでいたりしたので。へー、すげえなと思ったんだけど (笑) 。気持ちはもうぜんぜんよくわかったんだけど。よくやるなあとは思ったね。だから、僕も米津さんをそれでしか知らなかったけどね。実際に会ったのは、83年頃だった。
 でもその時には、一緒になんか運動やるっていうことまでじゃなくて、それぞれが、女性運動は女性運動、障害者運動は障害者運動の立場から、運動をしていた。特に83年はね、阻止連以外はほとんど動いてないんじゃない?

瀬山:そうなのですね。

八柳:で、さっき言った同じ年に「ホームヘルパーの有料化」っていう問題が出てきて。で、その時にずっと都庁に、2週間ぐらいかな、座り込んだんだよね。
僕は勤めてたから、夜や仕事を休んだりして行ったんだけど。その時にみんなで座り込んでたいたら、暇だからいろんな議論をするわけ。最初は、自分の自立生活についてしゃべるとか、そういうことをお互いにやってるうちに、いろんな東京の障害者と仲良くなったりしていったんですけど。その時にたまたま新聞社の取材があって、インタビュー受けたら、「名前いいか?」ってんで「いいよ」って言ったら新聞に載っちゃったんだね、名前がね。そしたら職場(荒川区役所)の課長が見ていて、あとで職場で呼び出されてしまって。僕のことが、荒川区の障害者福祉課のやつが、こんなこと言ってるって感じで載っちゃってるから。これは、議員さんにばれるとやばいよとか言われて。(笑) まあそれからはわりと、あんまり出しゃばらないようにはしてたっていう感じはありました。
 その前の金井康治君の時もひどかったんだけど、金井康治君の時も座り込み行ってて。それも休み取ってね、行ってたんですけど。その時にたまたま、兄が何かの賞をもらって、それを叔父が俺に伝えたかったらしくて。足立区役所に電話がきて、「お前のところの門前に障害者で八柳っていうのがいるから呼び出してくれ」とか言って(笑)。それを足立区役所の放送でさ、「門前にいる八柳卓史さん、至急お宅に電話かけてください」って(笑)。バレバレで。そこらへんからもう、名前がある程度ばれちゃうのはしょうがないなっていうのはあったんだけれど。それで、匿名性っていうのも気になってて。
さっき言った、支援者はみんな、偽名使ったりしてるんだけど。本人はさすがにそれできないじゃない。全存在かけて訴えないとできないわけだよ。だからそこらへんもあって。自分自身は当事者運動だから、やっぱり名前書くのはペンネームとかそういうのはやめようと思って。どこ行っても名前は本名を言うことにして。まあ、そういう感じがありました。
 それでさっき言った、その時はみんなで議論してた時に、みんな来てる連中は生活保護受給世帯の連中が自立生活運動やってるからね。で、ヘルパーの費用負担は、実際は、関係がないんだよ、制度が変わっても、生活保護受給者である場合は、費用負担が増えるとかってことはない。生活保護受給か、もしくは非課税世帯だからね。

瀬山:ああ。そういうことですね。なるほど。

八柳:ところが、家族と一緒に暮らしてると、家族に収入がある場合は当然取られるわけよ。ヘルパーの利用料が。それまでは無料だったんですよ。一切ね。費用負担っていうのは世帯単位だったから。そうすると誰が決めるかって、本人じゃなくなるわけだよ。金出す人が決めることになる。

瀬山:そういうことですね。なるほど。

八柳:家族と暮らしていたら家族の、たとえば妻が働いていて、自分が障害者、または、その逆でもいいけれど、その時に生計中心者が、ヘルパー利用をするかどうかを決めるようになっちゃうわけなんだよ。費用負担が生じてくると。本人が必要だから入れたい、ということよりも、金を払う人が、入れるかどうかを決めるっていうことになる。それは問題だということを言っていて。その問題が大事だって話していて。
当時は、僕自身も、区役所の障害者福祉課にいたんで。国際障害者年だったんで、なんかまあ役所の中でも、当事者を職場に配置させるっていうのがあったりしたんだね。僕もその対象になっていて。それで、僕も、障害福祉のことを少し勉強していたんで。問題点もわかってきて、みんなも問題に気がついていって。そこでも、やっぱり、生活の主体性の問題みたいなものをずっと大事に考えてきたということは言えると思う。

瀬山:なるほど。

八柳:そのころは、物事を効率とか、能率で見るっていう発想に対してものすごく反発していて。たとえば、車椅子でだらだら歩けば、普段だったら気がつかない野の花の美しさに気が付いたりするけど、目的地へ一直線で行くっていうだけだったら、そういう間にあることが一切わかんないわけで。
そういう発想みたいになのがあって。やっぱり仕事の中の疑問とか、そういうのは、コンピュータ入れちゃうとなくなってきちゃうというようなことも考えていた。反コンピュータの運動は、その意味では、そういう発想みたいなのもは、障害者運動と似てるところがあるんだけど。そこらへんも、ちょっと感じながらやっていました。
それと、金井康治君の運動。金井康治君の運動は、その頃、国会でも、いろいろ動いていたんで、話題になって新聞に載るようになっていたから、けっこう、全障連東京ブロックの事務局にも、人がきて。その頃、事務所には、矢内さんと僕がいて。矢内さんは遅くなると帰っちゃうんだけど、俺は車で動いてたから、とことん来た人と論議したんだけど。
やっぱり党派の人たちっていうのは、さっき言ったように運動とか、組織作りとか、そういうことのほうを重要視していた。本人が抱えている問題を見ていない。あの時、僕らが言ってたのは、「毎日負けてんだ」っていうことを言ってたんですね。要するに、金井君は、成長してるから、じゃんじゃん歳を取っていっちゃって。同年輩の子供たちも、じゃんじゃん歳を取っていっちゃうわけだから。離された状態がずっとつながっちゃってるわけだよ。だから「毎日負けてるんだ」っていうふうに言っていたのね。長引かせれば長引かせるほど、毎日負けていくんだって。僕らは、そう主張してたんですね。それが、党派の人たちは、「非妥協的な闘い」とか、そういう言い方ばっかりしてたんだよね。「党派」とは言わなくても、活動家の人たちって。

瀬山:それは、いわゆる健常者で関わっている人たちが、やっぱり多かったんですか?

八柳:うん。当初のあれはね、学校の先生とかが多かった。一番最初の頃は。そのあと、途中から研究者がだーっと入ってきて。党派の人たちが、自主登校なんかをこう、確かに支えてはいたんですよ、毎日だったから。とても普通のサラリーマンはできないから。あと、学生とかね。まあ途中から東大の学生たちがけっこう入ってくれたけど。市野川さんとか、みんなそうだよね。

瀬山:少し話を戻しますが。先日、電話で少し話しておられた、80年代の優生保護法関係のことや、子宮摘出に関わるお話をもう少し聞きたいのですが。あまり動きはなかったというお話もありましたが。

八柳:82年の優生保護法の頃はね、うん。

瀬山:はい。堤愛子さんとか、けっこうその当時、障害女性の中にも、この優生保護法とか、子宮摘出の問題とか、そういうようなことで、いろいろ集まったりとか、活動もありましたよね。その「女性と障害者」っていうだけじゃなくて、障害女性の人たちの活動についても、当時の活動をどう見ていたか、教えてもらえますか。

八柳:知ってはいたけどね。付き合いあったし。堤さん(堤愛子)とも、その当時もう知ってたから。いろんな話をしてきてはいた。やっぱり全障連の大会の帰りに車に乗ってもらって帰ってきたりしたので。その時に、よく、長話したりしてましたね。僕は自動車で行ったんで。そういう話はかなりしてました。
ただ83年は、運動としての思い出はあんまりなくてね。
さっき言ったように、阻止連の人たちを招いてよく話をしたっていうのくらいかな。全障連全体としてはね。
96年の頃はね、毛利子来さんとか。かなり集まって。で、障害者運動の中で、一番優生思想に対して強く言ってたのが、青い芝だったんですよね。で、もう青い芝は、全障連抜けてたから。83年くらいまでは一緒にやったのかな。96年の頃には抜けてたんで。青い芝のところに、「一緒にやらないか」って言って。あれは96年の、もっと前だったかな。95年ぐらいだったのかな。その最初の頃を思い出せなくて。96年の改正にいたる前の頃のこと。安積さんがカイロに行ったのは、何年だっけ?

瀬山:それが94年です。

八柳:じゃあその3?4年前だと思う。DPI女性障害者ネットワークができたの何年だっけ?

瀬山:86年ですね。DPI日本会議が発足したのと同じ年です。

八柳:僕は、DPIの結成の3年ぐらい前から、DPIに、ずぶずぶにはまっていて。結成するまで。その前は、全障連からは矢内さんが担当だったんです。ところが矢内さんは、今岡さん(今岡秀蔵)が生きてた時代だから、なかなかうまくまとまらなくて。組織のあり方とか、個人参加でやるべきだとか、団体加盟でやるべきだっていう議論が、ずっと平行して続いていて。83年に、DPIの世界が出来たけど、日本は86年にできた。
それまで、ちょっとバタバタしていて。83年ぐらいからか、俺は矢内さんと交代してDPIの準備の会合に出入りを始めて。それで、DPI女性障害者ネットワークの立ち上げの時も知ってるんだよ。
DPI女性障害者ネットワークは、作るべきだと思ったし、優生のことをやるときも、女性ネットワークがあることでだいぶ変わった。つまり、女性運動に男の障害者が出ていくと、やっぱりだめなんです。ぜんぜん共感が得られないというか。
と言うのは、障害者運動の中にも、性差別があって。特に当事者主体はいいんだけれど、ほかの運動を知らないわけだ。だから、ぱーっとこう、自分の、障害者としての見解はいいんだけど、男性の見解が入っちゃったりするんだよ。女性蔑視だとか、所帯持ってる障害者は、たとえば配偶者を、下に見たような発言とか、そういうのが出ちゃうわけだよね。
で、やばいなーと思って。それでやっぱり、優生やるときは、表に出てやるのは、女性の障害者が強く言ってくれると、やっぱり女性運動とのつながりができる。聞いてくれるんだよね。女性運動の側も。
ただ、ちょっと何回か、女性運動の集まりで、女性障害者が何か言ってしゃべったけど、ぜんぜん相手にもしてくれなかったって話も聞いたことあるんだけど。堤さんは、相手の運動の理解もした上で、しゃべれるから。そういう、障害女性運動があったことは大きかった。
 当初、DPIの中でも、女性の比率が低かったわけ。今でも、そういう課題があると思うけれど。それで、女性障害者をもっと参加させなきゃダメだっていうような雰囲気があって。
それはDPIの中でやっぱり、たとえばRI(リハビリテーション・インターナショナル)に対して、「半数は障害者に!」とか言ってきたわけから、当然同じことで、性は半数ずつみたいな発想は、僕らの中にはあったので。
ただ実際に、障害者運動の活動家というと、圧倒的に男性が多くて。特に、なんとか運動っていうのをやってるのは、男性ばっかりだったから。自立生活している人はけっこう女性は多かったんだけど。運動はやらないで趣味の生活みたいな人も多かったから。それも大事だと思うんだけど。特に、街を変えていくためにはね。別に、運動には来なくていいから、街で買い物したりさ、ぶらぶらして、とにかく「いるんだよ」ってこと社会に見せていくのが必要だよっていうふうな話はしたんだけどさ。

瀬山:うん。なるほど、なるほど。

八柳:その頃はだからあんまり。僕なんかはどっちかっていうと裏方っていうか。DPIは、八代さん(八代英太)との力の綱引きみたいなのがあって。その頃のDPI日本会議は、八代さんの組織っていうイメージがあって。そこにだから、日身連も入れていこうという話もあったりして。彼にとっては、政治家だから、「大きな組織の代表になりたい」っていうのも強かったんだと思う。一方で、もちろん当事者としての気持ちもあったんだろうと思うけど。

瀬山:80年代に、全障連と阻止連とで交流会をやったということでしたが。それは複数回あったのですか?

八柳:と、思ったな。2?3回やったと思うけどな。

瀬山:それは主にやっぱり、優先保護法とかもしくは堕胎罪めぐって?

八柳:そんなはっきりしたテーマ設定はしていなかった。あの時点では怖かったし。

瀬山:なるほど。

八柳:70年代の優生保護法運動に関わったのは人たちからは、女性運動とはもう関わるなということも言われていた。73年の頃は、かなり悲惨だったみたいね。73年の女性運動の立て方は、女性運動っていっても能力主義の人たちも入ってたから。「男並み」っていう発想みたいなものもあったと思う。
今はもう、そういう人は減っているかもわかんないけど。だから、「女が家事労働に縛り付けられてて、男は働く」というのに対しての反感みたいなもの。だから、「女に管理職よこせ」とか「仕事を認めろ」とか、そういう人たちもけっこういた。だから逆に、今はどうか知らないんですけど、「男並み」を要求するっていう言い方が多かったというか。当初はそういう人たちも女性運動の全体の中ではいたからさ。だから「障害者だから堕ろす」って言ったって容認する。「それでいいんじゃないの?」っていうさ。そういう発想だったから。だからたぶんそれをぱーっと言われちゃうと、障害者のほうは「冗談じゃない!」っていう話になってもう大げんかになってたみたいな。73年はね。
 83年の時は阻止連がクッションやってくれて。なんでクッションやってくれたかというと、阻止連の連中も障害者の介助に入っていて。全部が全部じゃないんだけど。女性運動のなかにいる人たちが、女性の障害者の介助に入ったりして、その生活実態みたいなのを見てきた中でやってくれた。
女性運動の人たちのなかに、そういう人たちがいたことで、助かったっていうのかな。だから阻止連は大きかった、ものすごく。


■関連ページ

・「八柳卓志インタビュー@」2021年12月7日聞き取り
・「八柳卓志インタビューB」2021年12月7日聞き取り

・八柳 卓史(やつやなぎ・たくし)『地方公務員としての35年間を働いて』[外部リンク]


*作成:岩ア 弘泰
UP: 20220128 REV:
病者障害者運動史研究 生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
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