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「八柳卓史インタビュー@」

話し手:八柳 卓史(やつやなぎ・たくし)/聞き手:瀬山 紀子(せやま・のりこ) 20211207(火曜日).

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last update: 20220128


■インタビュー本文

瀬山:八柳さんは、東京都内の自治体で正職員として働きながら、障害者運動に関わってこられたと思いますが。特に80年代、すでにもう入庁されて働いてた時期だと思うんですけども、この頃の優生保護法に関わる活動のことなどを今日はお話うかがいたいと思います。まず、はじめ、八柳さんご自身が、どのような経緯で、障害者運動にかかわってこられたのかというあたりからお願いしていいですか?

八柳:僕自身が障害者運動に関わった経緯の始まりは、学生時代からやってた入管問題・在日外国人の差別問題がきっかけです。僕自身も、戸籍課の外国人登録事務が最初の仕事です。自分は、在日外国人の課題についてその前から取り組んでいたので、入庁して、自分ではやりたくない仕事になっちゃったなと思いました。(笑)

瀬山:なるほど。

八柳:ただ、仕事なので、仕方ないと思ってでは働いていたのですが。で、その頃、指紋を取る仕事では、非常につらい思いもしました。

瀬山:指紋押捺の拒否?

八柳:いや、その前です。指紋押捺拒否運動が始まる前なんだけど、73年とか74年ごろは。外国人登録法で15歳になると人差し指の指紋を取るんですよ。今はもうなくなったけど。それで何か違反すると十指指紋ぜんぶ取るような時代だったんですよね。たとえば「ちょっと転入届が遅れた」とかそういう違反で、十指指紋を取るということをする。

瀬山:えー…。

八柳:私も、それはやっぱりおかしいなあと思っていて。その前から、この入管の問題については、兄とも一緒に取り組んでいました。それで、もうひとり、埼玉大の兄貴の友達と自分と、3人で、田端駅でビラ撒いてたりなんかそういうことやっていたんです。だから、問題について少しは知っていたんですけど、実態を見てやっぱりひどいなということで。実際、役所に、親御さんが子供連れて来る時にですね、決まって親が子供にね、「よく覚えとけ」って。「日本じゃね、自分らは外国人で、犯罪者と同じなんだ。そういう扱いをされるんだ」っていうふうに言いながら、自分はそう子どもが言われているのを聞きながら子どもの指紋を取るわけですよね。きつかったですね。そういう仕事をやっていて、「おかしいな」と思ったんです。
 そしたら、たまたまその窓口で、障害者運動じゃないんですけどね、李學仁(イ・ハギン)っていう人が来て。その人は、日活の助監督をやってたんです。外国人登録って「職業欄」ってあるんですよ。そこに「助監督」って書いてあるけど、それを「監督」に変えて欲しいって言われたんですよね。
外国人登録法では、そういう変更申請もあるわけです。
それで、「どんな映画の監督をなさるんですか?」っていう話になって。その時に彼が初めて監督になって、独立プロで、『異邦人の河』っていう映画を作るんだって話で。それで、「できたら観てみたいですね」って話をしたんです。それで、実際に、映画ができ上がったあと、荒川区で上映会があるということで。いわゆる自主上映みたいなかたちであったんですけれども、その実行委員をやってくんないかって言われて。それで、「あ、いいですよ」って、やったんですね。
それでその映画のストーリーは、在日の痛めつけられている現状を描いているものなのですが。最後に、主人公が韓国の外交官を殺すところで終わってるんです。上映が終わった後の実行委員会をやった時に、その最後のところについての批判が出たわけなんです。「ああいうテロで終わらすのはおかしい」っていう批判です。その時に、李さんが、八柳さんならわかるはずだと言われたのです。僕は、「支援者がそんな簡単に“テロがおかしい”とは言えない」っていうことを思ったんです。つまり、在日の問題では、僕は「支援者でしかない」っていう立場で考えてきていて。
僕は、その前から、「差別と闘う主体性」の問題や、「主体」と「支援」みたいなことをいろいろ考えていたんですけれども。その問題にも関わる発言でした。
で、その時、たまたま、その場に、矢内君(矢内健二)がいて。矢内さんから、「八柳さんは障害者だから、障害者運動に関わらないか?」みたいな話をされたんです。
いきなりだったので、「ちょっと待って」ってことにはしたのですが、でも「何か手伝いはしますから」っていうことにしたんです。それで、そのあと、白砂巌っていう、ポリオで、『障害者新聞』という、はがきで新聞を作って毎月出してるやつがいて。そいつが文京区にいたんですけれども。その、彼の手伝いをしないかと言われて、やることになりました。毎月新聞を発行する時の宛名書きとか、そういうのを手伝ってたんです。
その時に、やっぱりなんか、自分が障害者であるっていうことをあんまり声高に言うのは嫌だっていう気持ちがあって。これはもう当然、子供の時からの障害者の場合、健全者社会で生きてきた場合はさ、自分が障害者だとは言いたくないという思いが、強くあったんですよ。だから本格的に、障害者運動に関わるまでには時間がかかったのですが。
 白砂さんとの付き合いが2年ぐらいだったかな。その頃、1976年に、「全障連っていうのができるけど、結成大会に行かないか?」って言われて。ただ、大阪だというので断ったんです。そんなに障害者運動やるっていう気持ちも、当初はなくて。その当時は組合の活動とか、それから、「反コンピュータ」っていう運動があって。それもやっていたというのもあって、忙しくて。

瀬山:「反コンピュータ」ですか。

八柳:反コンピュータ関係の本を出したりしていた活動家の人が同じ職場にいて。係長をやっていた人なんだけれど。その人が組合にいて。その人と一緒に、「反コンピュータ」をやっていて。役所のほうでもコンピュータの導入をめぐっていろいろ大騒ぎで、それに対する運動をやっていた時期で、あまり時間がなかったというのはあります。
 その後、自分が障害者運動に関わる、一番決定的な出来事が金井康治君の闘いです。
その頃、白砂さんに毎月会っては、いろんな情報を得て、話を聞いていた状態で。「全障連の第二回大会が東京で開かれるから行かないか?」って言われて。それで、その全障連の東京での大会に参加したのが、77年だったんです。まあその時は本当に、一参加者でぶらぶらしてたんですけども。
 ただ、翌年の全障連京都大会に行ったときは、もう受付でお手伝いやっていたから。その頃から障害者運動をやるようになっていました。
自分の中でもその頃に変化がありました。
その頃、実はあんまりこれは言ってないけども、荒川区で障害者の人が企業から不当労働行為を受けていて、それに対して闘う運動があったのですが。それにも、僕も区職の組合絡みで行ってたんです。ただ、当時の運動は、他でも同じようなことがありましたが、支援者が党派の人たちだというのが結構あって。そういう人たちがたくさんいて。必要なのは革命だから、自分たちが指導してんだっていうような感覚で、主体を無視して方針を決めちゃうということがあったわけですよ。当事者に対して、「こうすべきだ」といってくるような。そういうのに対して、当事者は、すごく反発をしていたし、僕も、当事者からもかなり相談を受けたりしていて。僕からは、「自分が思ったようにやったほうがいい」っていうような話を、していたんです。
 なんかその時に、頭の中にあったのは「華青闘(華僑青年闘争委員会)批判」っていう。これも聞いたことないと思うけど。在日運動の中じゃ有名な話なんだけど。華青闘って、今の台湾出身の人たちが、党派の引きまわしみたいなのを弾劾する声明を出したんだよね。特に僕ら、支援者としての立場があるから、それはものすごく僕の中には印象に残ってて。
党派の運動家たちは、「妥協しちゃだめだ」みたいなことをやたら言うわけよ。つまり、彼らは、いかに、問題をお解決するか、ではなくて、運動を続けることを目的にしている。どっちかっていうとね。だから、妥協せずにつきすすめといってくる。
そういう運動の中で、「当事者ってなんだろう」って思いだしていて。運動の場では、当事者の要求や思いが不在になっていることが少なくなくて。そえで、当事者っていえば、自分は障害当事者だということにその頃から気がついて。まあ、白砂さんの運動にも関わっていたので。その頃から、当事者としての障害者の問題に目覚めたっていうか。

瀬山:当時、車いすには乗ってらしたんですか?

八柳:乗ってないです。当時はね、ポリオの後遺症で、いわゆる、かなり大仰なびっこを引きながら歩いてたんだよね。ただ、自動車には乗ってたから近くまでは車で行って。500メーターぐらいは歩けたのかな、あの当時は。そんな状態だったんです。左脚は自分で靴を改造して、左で歩くというような。
 僕は、それまでは「支援」みたいな立場で、いろいろなところへ出て行こうという気持ちで。けっこう自分は安全地帯に置いといてっていう感じでいたのですが。
当時の時代背景としては、三里塚闘争があって。「三里塚行かなきゃ活動家じゃない」みたいな雰囲気がかなりあったんだよね。あれも「支援」なんですね。基本はね。
もちろん、当事者たちもいたんだけど。党派の人たちがかなりいろいろ入って、そこでの運動について、「こうすべきだ」「ああすべきだ」って言っていて。
彼らは、運動を「終わらせない」ことが大事になっちゃっていて。それで、党派としての組織拡大をしてきていた側面が強かった。
ところが、荒川区の中で組合をやっていたからわかったけれど、自分の現場じゃ何もやらないで、三里塚闘争にだけは行く人たちっていうのがいたんだ。自分の職場の中での労働運動はまったくやらない。
あの当時も、バイトの人たちとの格差も問題になっていたし、今みたいに派遣職員はいなかったけれど、身分格差っていうのかな、それがものすごかったわけで。公務員でも。そういう問題について、組合では論議してきたし、職場の組合で、運動をしていたんだけども。職場でのそういう運動はまったくやらないで、三里塚だけ行って、「活動家だ」みたいな顔してるのが、結構、多かったんです。昔の学生運動の生き残りの連中だろうと思うけど(笑)。言ってみれば、僕自身もそうではあるのだけれど。
 で、なんかやっぱり、自分が自分の現場で動かないとダメなんだって思って。「闘い」まではいかなくても、そこをやらないとだめなんだっていう思いがかなりしてきて。「僕は何だ」ということを突き詰めていくと、「障害者」だよね。あと、労働者でもあったから、労働運動って当然やるべきだと思って、そちらは組合に入ってやっていたんだけれど。障害者なのに、障害者運動はやってないという気持ちが起きてきた。そんな時代なんですよ。
 そんなことがあって、東京で開かれた全障連第二回大会は参加して。そのあとは、主体という意味では、足立の金井康治君の闘いに関わることになって。矢内さんが足立区に住んでいて。普通学校に行きたがってる子供がいるから応援できないかというので、その金井康治君の転校運動の事務局に顔出すようになったんですよ。で、やっぱりその時も同じ。やっぱり支援者と少数の人たちが、やりたい放題というか。まあ頭はいいからね。運動慣れしてるし。「こうあるべきだ」という運動方針を立ててくる。
 当時あったのが、「一生、金井康治君は花畑小の前で自主登校をやるべきだ」っていうような言い方もあったわけだ。

瀬山:えーっ! 

八柳:だからね、彼らはそういう発想なんだ。闘いで勝つことを望んでいない、というか。彼らのなかには、いわゆる革命運動をやってる人たちがいて、その人たちにとっては、そこでの個別要求が主戦場じゃないから。彼らは、そこで組織を作るっていうか、組織に人を集めることだけが目的だから。そこでの闘いが終わっちゃうと、種がなくなってしまう。
彼らも、そうは思ってはいないと思うよ。でも、客観的に見ればそう言わざるを得ない状況だったと思う。金井君が、本当に転校したら、どうなるのか。これは、裁判闘争でもなんでもあるんだけど。そういう発想っていうのがあったわけで。つまり、住民運動は、彼らにとって、運動の本筋じゃないんだ。そこをきっかけに、人を引っ張ってきて、組織を拡大するっていうのが一番大事だったんじゃないかな。
だから、そういう方針で、とにかく威勢よくやることが大事、みたいなかたちになっちゃって。
僕自身は、自分の親がちょっとすったもんだして、なんだかんだ言って小学校から普通学校へ入れた経験をしていて。まあ、いわゆる今でいう「特別支援学校」、昔で言えば「養護学校」には行かなかったんです。

瀬山:それは八柳さん自身が、ですね。

八柳:そうそう。とても歩いて通える所じゃなかったんです、学校が。かなり遠くて。500メートルどころじゃなくて2キロくらいあったかな。
僕は、親父が彫刻やっていたんで。その弟子が家にいて。その弟子が、朝晩の通学時に、自転車で送迎してくれて通えていた。僕の場合は、親が、その学校に僕を入れる時に、学校と話をして、その時にある先生が、「俺が面倒みる」って、啖呵切ってくれたから入れたのがあったんです。
その先生は、実際は、3年まで見てくれましたね、俺を。普通は2年で交代なんですけど。最初の頃は、自宅は平屋だったから、階段上がることはなかったので、学校の階段も上がれなくて。先生がおぶってくれたとか、そういうことは最初の頃はあったんだけれども。それもあって、あんまり友達の思い出はないです。先生がいつもいたから。小学校1?2年の頃はね。送迎もしてもらっていたから、朝、他の友達と一緒に登校するってないから。
もう、ぽーんと教室に連れて行かれて。で、しばらくは配慮してくれて一階の教室だったこともあって。3年までは一階の教室だったかな。だったんで、あまり階段っていうのもなかったんですけどね。
ただ、3年になるとちょっと変わってきて。3年、4年くらいから二階も出てきたかな。その頃もう少し歩行力がついてきて。まあそんな状態でしたが学校に行っていて。面白かったですよ、学校は。特に、途中からはね。
ただ、最初の頃はいじめられました。「解剖?」って言われて、素っ裸にされちゃって。足がどうなってんだとかさ。先生とかいないところだけどね、もちろん。それとか、ギプスをはめてたんで、お腹からギプスだったんで、「ロボット」「ロボット」って言われて。お腹を殴られたりなんかしたんですよね。
それは、「いじめ」と言えばいじめなんだけど、そういう経験はあったけど、なんとなく自分でこう、うまく乗り切ってはいたのかなと思います。僕の場合は、しゃべりはべらべらしゃべれるから、適当にすり抜ける小知恵はついたというか。話題を反らすんです。4年生ぐらいになったら下ネタをしゃべって、話題をそっちのほうにもっていくとか。自分の身体の話題じゃなくて、下ネタっていう話で。

瀬山:へー!

八柳:だから4年ぐらいから、友達がかなりできてきたんですけど、それ以前は、あまりはっきりした記憶はないというか。その「ロボット」と言われた時とか、解剖されてみんなの前で素っ裸にされたとか、そのぐらいかな。覚えていることは。

瀬山:そういう経験をされてきたのですね。

八柳:でもそれも思い出したのはね、障害者運動やりだしてから。たぶん自分で記憶にフタをしていたの。

瀬山:なるほど。

八柳:だから小学校3年までの友達の顔とか、まったくわかんなくて。今でもわかんない。で、障害者運動をやりだして、他の障害者から、自分が受けてきた差別の話とかを聞いてるうちに、自分も思い出しはじめて。そういうことはありました。
 そういうのがあったんで、金井康治君が、普通学校に行きたいって言うなら、僕自身も行けたし、応援しようと思ってやったわけね。それが一番、この障害者運動の深みに入るきっかけになりました。
その当時は全障連も人がいなくて。その当時は、健常者の幹事というのがいたくらい、障害者が関われていなくて。闘えば障害者もなにも関係ないんだ、っていうような感覚の人がけっこういたりして。
僕自身はその、華青闘批判っていうのを知っていたから。要するに、当事者の主体性を無視した支援はお断り、それは許さないっていう宣言をした活動があったので。それはけっこう、僕は、それまでの運動のなかで大切だと思ってきていたということがあったので。そういう問題はずっと考えてきました。

瀬山:なるほど、なるほど。

八柳:支援者はあくまでも支援者で。もちろん、本人に対して、さまざまな情報を流すことは、当然必要だけれど。だけど、「こうすべきだ」とか「こうやれ」とか、逆に主体性を奪うようなやり方は絶対やめるべきだという思いがあったから。それまでの反差別の運動やってる中でね。
支援者は、支援をやめたければ、簡単にやめてしまえる。運動の現場にも、「お腹痛いから今日は行きません」で済むじゃんね。「親の不幸がありましたから」とかさ。
支援者は、「こんなことがあったから行けません」で済んじゃうけど、当事者ではそうはいかないからね。そこらへんは叩き込まれたというか。本当に必要なのは、当事者の意向を「最大限」に活かすとかじゃなくて、当事者の意向しかないんだって。支援はあくまでも支援でしかない。そのことは、ずっと思ってきていて。だから当事者運動が一番大事だっていうことは、当時から思ってたんですね。
 だからそれで見たら、僕は障害者と労働者以外の運動については、支援者の立場でしかないということに逆に気がついて(笑)。障害者運動に入っていったっていうのかな。で、障害者運動の立場から、まあ三里塚でもなんでもいいけど、連帯していくっていう立て方なんじゃないかっていう考えに、なっていったわけなんですね。
瀬山:なるほど。では、その頃は、障害者仲間的な人っていうのは…

八柳:ぜんぜんいなかった。

瀬山:ぜんぜんいなかったっていうことですね。

八柳:たまたま中学校の時にね、片腕をその、野口英世じゃないけど、やけどで握ったまま癒着させたやつがいて。そいつが友達でいたけど。そいつも同じで「障害者」と言われるのが嫌で。お互い仲は良かったんだけど、お互いの障害については、まったく触れなかったな。そんな状態だから。やけどの原因ぐらいは聞いたけどね。子供の時に手突っ込んじゃって、やったみたいだって言われたって聞いたけど。で、俺はポリオだとか。そういう話はしたけれど。なんかその、子供同士で身体障害者共闘を組むとか、そういう話ではなかったね。(笑)

瀬山:(笑)

八柳:お互いにそれ以上触れ合わない、そんな感じだったね。あんまり、うん。
 まあそういうことで。一番やっぱりあれかな、障害者運動に入った原点っていうのは、李學仁に「あんたはわかるだろ?」って言われたのが一番大きかったかな。

瀬山:すごい。なるほど。

八柳:それが最初です。障害者運動に関わりだしたね。


■関連ページ

・「八柳卓志インタビューA」2021年12月7日聞き取り
・「八柳卓志インタビューB」2021年12月7日聞き取り

・八柳 卓史(やつやなぎ・たくし)『地方公務員としての35年間を働いて』[外部リンク]


*作成:岩ア 弘泰
UP: 20220128 REV:
病者障害者運動史研究 生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
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