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「谷口正隆氏インタビュー@」(2021年11月4日14時2分〜)

語り:谷口 正隆/聞き手:田中 恵美子 2021/11/04

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last update: 20231015


※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)
タイムレコードは[hh:mm:ss]としています。


谷口 正隆(以下、「谷口」と表記):臼井正樹さんが、立岩さんと横田さんと三者で『われらは愛と正義を否定する』という本※を書かれています。臼井正樹さんは県立大で一緒でしたが、その彼が「横田弘はわれわれにとって研究対象だ」って言ったんですよ。それ聞いたとき実は唖然としちゃって。なんか「研究対象」っていう言葉で彼をとらえるっていうの、とっても僕の感覚では不思議だったんですね。それから横田弘さんの名前も出した本が出たんですね。それ読んでもね、なんかやっぱり奇異な感じを拭い去れないんです。僕は彼を研究対象として一回も見たことがなくて。彼との関わりが始まる発端は、あとで話しますけど、横浜の障害児殺しの事件なのでけれど、ずっと彼とは友人としての関りで、だからここできっと話されたくないような彼の側面とか、話とか、行為というのも僕は知ってるんですね。でもそれは、彼がきっと言って欲しくないと思うだろうなと思うから言わないっていう。(笑) 僕にとっては友人だから。そして彼には、なんとも言えず惹きつけられて。すごい人だなあとも思うし、なんと人間的な人なんだろうなあと思うところがあるから。「彼は言われたくないだろうな」と思うようなことは言えないし、言わない。(笑) そういう感じなんですよ。[00:04:43]
※横田 弘・立岩 真也・臼井 正樹 2016/03/25 『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』,生活書院,250p.,2200+ ISBN-10: 4865000534 ISBN-13: 978-4865000535 [amazon][kinokuniya]

田中 恵美子(以下、「田中」と表記):(笑) はい。わかりました。

谷口:それでね、僕はだから彼のことを何も記録に取っていないです。でも、青い芝の人たちが書いたものってこまめに集めていて、横田さんの俳句など。それをみんな県立大の在原さんのもとにぜんぶ置いてきちゃった。そのまま彼女の研究室のどこかにそのままになっていると思うんです。 それで。ここはどうだったかなと思ってね、私と横田さんとの間で関係する人たちなどをメモしてみました。

田中:すみません、なんかいろいろご用意くださって。

谷口:横田さんとのことは後からにして、まず最初に青い芝と知り合ったのは、内田みどりさんです。川崎に住んでたんです。彼女は自立しようと思って、「自立するには結婚だ」って遮二無二結婚したんですって。こういう話は僕は何の記録にも取ってなくて、会って、「ふーん」って話を聴いていたことなの。

田中:いいえ、それが大事です。

谷口:それで、僕のところに来て彼女が言うんですよ。「あのね、辛いんだよ」って。何が辛いかっていうと、自分が産んだ赤ちゃんが、自分の手で抱きとめて授乳がうまくできない、すると子育ての手伝いに来ているヘルパーさんをお母さんのように慕ってしまうんだって言うのね。それが本当に、脳性まひってのは辛いと思ったっていう話をしてたんですね。それが内田みどりさんと、一番若い頃に知り合った。あの方、言語障害がほとんどなかったけど、赤ちゃん育てるには意外な辛さがあるのだなぁと思って聞いてた記憶があるんです。

田中:先生が何歳ぐらいの時ですか?

谷口:26?7のことだと思いますね。

田中:その頃先生は何をしておられたんですか?

谷口:僕は、最初、神奈川県庁に入ったんですよ。それで労働部に配属されたんだけど、つまんなくて2ヶ月で辞めちゃったの。(笑)

田中:2ヶ月ってすごいですね。(笑)

谷口:川崎に青少年センターっていうのができて職員募集やるって聞いたんですよ。それに何で惹かれたかっていうと、お昼の12時から夜8時まで勤務すればいいって。僕その頃ね、うちに来る朝刊を読んでから寝るようなすごい夜更かしで。それなら「12時・夜8時、願ってもない」って。それでなんか若い人と遊んでいればいいんだみたいな話だったから。それで川崎の試験を受けたんです。そうしたらね、「県庁を辞めてきた」って言ったら職員課の課長がすごく怒って「あんたね、一つの仕事をそんなに簡単に辞めていいのか」って言うのね。「それで川崎市に何しに来るんだ?」「ですから青少年センターに入りたくてここに来てるんですよ」って、当たり前じゃないですかと思って言ったんだけど。そうしたらね、「職員課に来ないか」って言われたの。それでね、すごく奇妙な話だけど、「職員課に来るために何もここ受けたわけじゃないんで、12時・8時の青少年センターへ行くっていうので受けたんで、職員課には行きたくない」って断ったのね[00:10:07]

田中:強いですね、先生。

谷口:その頃、なんていうか、「何しよう」と思ってなかったから、公務員になれば金儲けしないで済むからなろうと思っただけの話なんで。そしたらね、民生局庶務課付きにされたんですよ。机に座らされて、「条例規則をまず読め」とかって言われて。「いやー、ここにいられるかなぁ」と思ってたら、社会福祉会館というのを川崎市が作ったんですよ。そこへ配属するって課長が言いだしたの。それで「何やるんですか?」って言ったらね、「お前自分でやりたいこと考えろ」って言うのね。社会福祉会館って初めて建てたので誰も何も構想を立てているわけじゃないんで。会館があって、オーディオルームがあって、講堂があって、「あとはお前がなんでも考えろ」っていうことになって、行かされたのね。

田中:のどかな時代ですね、ずいぶん。建物はあるんですよね?

谷口:建物は建っちゃって職員がいなかった。

田中:すごいですね。

谷口:それで行ってね。まず僕は大学の心理学科時分に全盲のやつと同級生だったんで。僕は日大の心理学科なんですけど、傷痍軍人のリハビリテーションをやるっていう心理学科だったんですよ。

田中:そんな心理学科あるんですか。

谷口:あるの。日大の心理学科と社会学科は全盲の障害者を入れてたんですよ。心理学科には傷痍軍人やってて失明した、中途失明の男が僕の同級生でいたの。僕らの時代はね、心理学科は一般教養の心理学でも英語のテキストだったんですよ。日本語じゃない。それで僕はね、すっごく文句を言いに行って。「英語も何も知らない人間が来てるのに、それを一般教養で心理学を英語で教えるとは何事だ」って。心理学科の先生にすごく文句を言いに行ったのね。そうしたら目つけられちゃってね。それでその全盲のやつも英語で読まなきゃなんない。そうすると、そいつも独身で、ずっと年上だったけど、ワード・トゥ・ワードで読むんですよ。僕らが読まなきゃなんない教科書を、それを彼が点字にする。そうやって写したのを改めて彼の代わりに辞書を引く。それに心理学の専門用語は、心理学辞典がその頃はなかったので、それでアメリカで出た心理学辞典を買って、また英語で引いて訳す。

田中:英語で英語を引いて。

谷口:そうなの。それをみんなまたワード・トゥ・ワードで読むんですよ。

田中:あ、大変…。

谷口:朝から晩までやってた。僕ね、もうどうでもいいことばっかりしゃべってけど。

田中:大丈夫です。どんどん言ってください。

谷口:高等学校の時は日大二高で、英語の授業って一回も出たことなかったんですよ。「お前は絶対落第だ」って言われたの。新聞部の編集長をやっていて新聞出すことに熱心で。「絶対お前落第する」って言われて。だから日大二高の卒業式に行かなかったんですよ。おふくろに「僕は落第ですから。もう一年いますから」って言ったら、「あ、そうかい」ってなもんで。そしたら学校から電話がかかってきて、「お前、卒業証書と記念品預かってるけど、どうして来ないんだ!」って言うから、「え? どうして僕が卒業できたんですか?」って言ったら、「卒業証書と記念品預かってるぞ!」。「え、記念品まで貰えるんですか?」って言ったら、「ヤマサの醤油だ」。「はああー」、驚きました。(笑)[00:15:09]

田中:嬉しいけど。(笑)

谷口:僕はそれで浪人して、担任の先生は「お前は日大に行くしかないだろう」「附属校なんだから推薦状書けば入れるから行け」と言われて。それで入学したんです。
 そんなことでね、英語ぜんぜんダメなのに、彼のためにワード・トゥ・ワードで英語をやりだして。もう朝から晩まで英語漬け。それに2年生になった時は、毎週英語論文を1本ずつ…。心理学科の学生は10人ちょっとしかいなかったから、毎日、アメリカ文化センターから借りたジャーナルを読んで。それを翻訳して、手書きのガリ版で刷った要旨を教授とみんなに報告する。だから全員みんなガリ版持ってましたね、自分の家に。卒業論文の下書きも英語で書いてました。英語の論文ばっかり読んでるという時代で。だから畑美喜三って男なんですけど、全盲のやつは。そいつと卒業した後もずっと付き合いがあって。僕が英語を読めるようになったのは、彼がいて英語漬けになったせいなんです。

田中:すごい。

谷口:すごい経験でした。それなんで、川崎に入って社会福祉会館で「何でもやれ」って言われた時に、「川崎の視覚障害者ってどう暮らしているのだろうか?」と思った。彼はね、その畑美喜三は、仕事が見つからなかったんですよ。それで、海老名正吾という神奈川県の中央児童相談所の所長を当時やってた人が、失明者だったんです。そして海老名正吾さんは日大の心理学科の先輩ということで会いに行ってね、畑美喜三を紹介したんです。「県の職員として採ってもらえないか」って。そしたら、「僕はね、県庁の職員やってて失明したから今でも所長やってられるけど、そういういきさつがあるからなんで。それだけでやってるようなもんなのよ」みたいな話をされた。それからいろいろ行ったなあ。横浜訓盲院も、職場になれないかとかね。それで彼が職業に就くのにすごく苦しい、大変なんだなあと思っている中なんで、川崎の視覚障害者ってどういう暮らししてるのかなってまず思った。その時分はまだ大らかっていうか、福祉事務所へ行って。身体障害者手帳の発行台帳を見せてもらって、視覚障害者の氏名と住所をぜんぶ書き写させてくれたんです。

田中:ああ、当時は。(笑)

谷口:それで自分でリストを作って。その頃、青年赤十字奉仕団のグループが社会福祉会館に集まるようになってて、ボランティア活動をしていた。その人たちに協力を頼んで。僕ももう毎日「訪問調査」に歩きました。視覚障害者の家を訪ね歩いて、夜も昼も。夜行くと、「主人が中途失明して以来、こんなにお話ししたのは初めて、また来てください」なんて奥さんが追っかけてきたりしてね。それで、『川崎市における視覚障害者の実態』っていうのを報告書にまとめたんです。それから青年赤十字奉仕団のほうは『真夏の訪問記』という、暑い中訪ねて歩いた訪問記を書いて冊子にしたりして。
 その時ね、印刷代なんかどこにもないの。でも、【商工印刷社】という会社の社長さんに「こういう報告書を印刷したいんだけど」「わずかな印刷代しか出せないけれど、やってくれませんか?」、「承知いたしました」って。それ以来、商工印刷の社長とは知り合いで、「お金これしかないんだけど、これ印刷してくれます?」とかって言って。(笑) いつも「承知いたしました」って。ずっと恩義を感じる長い付き合いになりましたね。それで…あ、喪中のお知らせが来てしまって、お花を送って奥さんに電話でお礼を申し上げたら、僕のことを自宅帰って口にしてて。「とっても偉い人なんだ」って言ってたって。(笑) たくさん印刷してもらいましたよ、いろんなものをね。感謝してます。
 そうだ。もう少し話し進めないといけないな。年寄りの話はとりとめなくなる。

田中:大丈夫ですよ、先生。私も生まれたとこぐらいから聞くぐらいの覚悟で来てます、今日。

谷口:いやいや(笑)。

田中:でも先生、障害がある人と出会ったのは、この畑美喜三さんが最初ですか?

谷口:最初です。1954年くらいだったかな。

田中:一番最初。

谷口:はい。そしてね、社会福祉会館はなんとなくおもしろい感じになってきて。親戚が訪ねて来ると「うちにいるな」って家を出されてしまう、すごい吃りの人が来たり。聴覚障害者のグループも集まったりして、それまでの人生では巡り合わなかった人たちと知り合うようになりましたね。そのころ、「16ミリ映写技術講習会」っていう県の講習会を受けて、16ミリ映写機とそのフィルムを借りてきて映写会をやりだしたの。それで聴覚障害者の人が観たい映画があるって言うと、講堂で映画会。聴覚障害だからスピーカーいらないんだろうと思って音を消しちゃったらすごく怒られちゃって。「聴覚障害だって、振動が伝わるんだから音はちゃんと出してくれ」って言われて。ああそういうもんなのかなと。いちいち「そうなのか」と思わされることが多くて。
 それで話つめますね。視覚障害者の実態調査の結果、点字は先天的に失明して盲学校に行った人は読めるけど、中途失明者はほとんど点字を「打つ」「読む」ができない。つまり読み書きの手段がないんだってわかったんです。それで、録音テープを聴く、本の代わりに録音したものを使ったらどうかと思って。それで神奈川県の障害福祉課に行きました。そしたら視覚障害者用に貸し出すテープレコーダーは4台しかない、県内の視覚障害者用に。それでね、自分が持っていたソニーのテープレコーダーを視覚障害者の家に貸し出したことがあったんです。それは、「浪曲をどうしても聴きたい」と言ってこられた方がいましたのでね。それで浪曲のテープを、NHK厚生文化事業団へ行って聞いたら「ある」っていうんですよ。それでそれを何本か貸してもらって、そのお宅にテープと一緒に届けた。そうしたら、僕の名前が入ったテープレコーダーが質屋に入ったって警察から連絡があったんですよ。それで僕はね、「ああ、そうか、あの人、浪曲じゃなくてその日の食べるものを買うお金がさきなんだよなあ」と思って。それでね、またそれも胸突かれちゃって。驚きましたね。それでね、「社会福祉っていうのはしっかり勉強しないとだめだな」と思って。それで明治学院の二部の社会福祉学科の授業に少し通ったんです。

田中:先生それは、何歳ぐらいの時ですか?

谷口:大学出て3年ぐらい経った時ですね。

田中:じゃあ、ちょうど内田さんとかと出会ったりする頃?

谷口:そうですね。だからね、社会福祉に関するなんかね「思い」ってのは湧くんですけど、どうやって勉強すればいいのかよくわからないというのがあって。
 さっきの話に戻りますと、『視覚障害者の3分の2が文盲の生活をしております』というビラを作ったんですよ。それでね、テープレコーダーを補装具にしてもらいたい、誰でもテープレコーダーを持てるようにして。その頃はみんな持ってなかったんですよ、テープレコーダーなんて。そうしたらナショナルさんがね、何万枚っていうビラを作ってくれたんです。それで川崎の駅前でボランティアと一緒に『視覚障害者にテープレコーダーを』っていうビラを配ってね、署名運動をしたんです。
  そんなことをしていながら、社会福祉会館で自分たちで研究会を始めたんですよ。「児童福祉研究会」って言ったんですけど、明治学院の濱野一郎さんなんかがまだ明治学院の准教授かなにかで、「児童相談所の役割について知りたい」っていうんで川崎に来ていた。それから川崎児童相談所のソーシャルワーカーやってた大澤隆さん、後に県の障害福祉課の課長をやって、それから岩手県立大の教授になってますけど。そういう7?8人で研究会を始めました。〆は必ず宴会で、25年続きました。[00:31:45]

田中:すごいですね。

谷口:大澤隆さんが川崎児童相談所のソーシャルワーカーをやってて、社会福祉会館に空気銃の弾をガラス戸に撃ちこんだ少年がいて、そのことで大澤さんが訪ねてきた。それで僕は彼と初めて会ったんです。それでね、青い芝の人たちと初めての出会いになることとつながるのだけれど、大澤さんが民生住宅の管理人をやってたんですよ。神奈川県立の民生住宅というのは川崎の山の中にありまして、生活保護を受給していて、橋の下とか、要するにホームレス状態で暮らしている人たちを住まわせる集合住宅なんです。5階建てだったかな。大きいんですよ。そこの管理人のところになんでも相談ごとが来る。「旦那が刑務所入ってて、母子で生活保護を受けながら内職やって暮らしている」とかね。それで大澤さんがね「民生住宅の実態調査やってくれないか」言ってきて、それで彼が手引きをしてくれて、僕が全戸訪問調査をやったんです。民生住宅の。

田中:全戸!?

谷口:そう。どういう人間関係があるかという点ではソシオグラムなどを作りましてね。相談相手の一番は大澤さん。福祉事務所のワーカーを相談相手としていなかったのには驚きました。内職していることなど知られたくない人が福祉事務所のワーカーなんです。それを大澤さんがね、「神奈川県の社会事業研究発表大会があるから発表しないか」って。それで発表したんです。
その大会にね、次々と脳性まひの人たちが入ってきた。その人たちが青い芝の面々だったんですね。横塚晃一さんとか小山正義さんとかね、白石清春さん。それから矢田龍司さんとかね。ここに名前があるような人たちが来たんですね。矢田龍司さんは川崎の住まいでしたから、個人的なことも含めて悩みや相談はずっと亡くなるまで、なんとなく受けるようになって。しばらく時を置いてですが、ほかの人たちともお付き合いが始まりました。1968年7月の神奈川県社会事業研究発表大会、青い芝の会の人たちが初めて会場に姿を現したというのが、とても印象深く記憶に残っています。

田中:なんで来たんですかね?

谷口:多分ね、この頃の社会福祉になにか怪しげな印象を抱いていたか、疑問を持っていたのではないかと想像します。神奈川県は入所型の施設整備を急ぎ始めていた時期でしたから。[00:35:43]

田中:なるほど。それで「大会っていうからちょっと行ってみよう」みたいな。誰でも入れたんですか?

谷口:オープンで、もっと多くの人に参加してもらいたいという雰囲気だったと思います。その頃の県庁は福祉を先導するという意気込みに溢れていたと思います。のちの神奈川県社協の常務理事になる仁科卓郎さんが課長職で研究発表大会を先導していた記憶があります。また、当時の施設建設を見てみますと、『1960年松風学園、柿生学園』、『秦野精華園』、それから津久井やまゆり園は1964年に建ってるんですよ。つまりね、この頃の福祉っていうのは、障害者については入所型の施設を県の責任で建てる。例えば柿生学園ですが、僕が20代半ば、60年ほど前に初めて行きました。小田急線の柿生駅を降りて山を登って行く。その当時は人家もなく、草が生えていてリアカー引いたような跡があるだけの山道。その尾根の木立の中に忽然と柿生学園が建っている。初めて「精神薄弱の成人期の人はこういうところに暮らしてんだなあ。すごい山の上だなあ」と思いました。また、横浜の松風学園も巨大な施設で、廊下にずらっと居室が並んでいるんですけど、引き戸の上に四角いガラス窓があって、廊下を歩いていくと居室の中が全部見えるっていうそういう建物でした。それから秦野精華園っていうのは秦野にあって。これまた人家から離れたところにあった。津久井やまゆり園も、山の坂道をぐわーっと上がって行くと津久井日赤があって、その先の川べりに津久井やまゆり園がどかんと立ってる。でも、地元の女性たちが県の建てた施設で職員として働けるって大喜びと言われていました。施設ってそんな風情でしたよね。
 ですから、その頃の青い芝の人たちも、そのような入所施設のイメージがあって、何かっていうと施設、施設さえあれば解決するっていう風潮だ、そういうふうに考えてきたところに、1970年5月29日横浜の金沢区で障害者殺しが起こるんですよ。それで、神奈川県障害児者を守る父母の会連盟が横浜市長宛の抗議文を出すんです。それを書いたのは僕なんです。あ、それは知ってる?

田中:それを私は聞きに来ました、今日は。

谷口:『障害児が殺されるのはやむを得ざる成り行きである』って。

田中:これは一大事件でしたね。

谷口:それに至る背景のようなものがあったと思うんです。僕は川崎市の社会福祉会館に8年いましたけれど、その一階には授産所があって、輸出用の絹のスカーフのヘリを手巻きにするとか、造花の内職斡旋をしていた。そこで支払われる工賃の単価が「円」ではなくて「銭」。スゴイ労働搾取の先端社会福祉としての授産所がある。何だろう、これはという問題意識で、内職をしている人たちの生活実態調査もやりました。その前には視覚障害者の調査や神奈川県の民生住宅調査をやったことはお話ししましたが、なんですか、多くの人々の暮らしが不安定で、社会福祉ってこんなことやっていていいのかなという疑問が湧いてきました。そこで、自分も勉強しながら授産所関係者に集まってもらって、例えば江口英一先生(当時日本女子大学教授)から不安定階層論の講義を聞かせて頂いたりしました。そうしたことを民政局の職員研修に拡大し、一番ヶ瀬康子先生、重田信一先生、吉沢英子先生などに講師をお願いしてきました。

田中:それはやっぱり先生、本読んで、この先生にぜひ来てほしいっていうのは先生の一筆で? 

谷口:いえいえ、そのまま会いに行くんです。研究室へ。それで話を聞かせてもらいながら、こちらのお話もして、お願いするんです。生活構造論の中鉢正美先生の本を読んで自宅まで押しかけてって。家計から日本人の生活を分析していくという手法にもう感動したんですね。

田中:先生、その訪ねて行ったりした頃って30代ですかね?

谷口:そうです、30前ですね。どこか人々の暮らしが良くなっていく道筋が見なくて、「社会福祉」って何だろうというと思っていました。
 また、前にお話しした視覚障害者の求めで浪曲のテープを借りにNHK厚生文化事業団に行った時からご縁ができて、堀場平八郎さんという事務局長さんが「NHKはね、全放送を全部録音して残していくんです」「何かあるといけませんから全部録音を。それを厚生文化事業団が持っております」。それでね、「視覚障害者用にそのテープの図書として貸し出すのなら、録音したもの全部をあなたのところに送ります」と言ってくださった。スゴイ量が毎月送られてきて、それが「川崎市盲人図書センター」になり、ここ独自の録音図書も作るようになりました。
 それからボランティアグループがいくつも集まってきて、オーディオルームでイア・エンド・コンサートをやるなど、好き勝手をやっているうちに、川崎市が新しく建てる「中原会館建設準備室」に異動ということに。要するに会館の調度を整え、開館までもっていく仕事ですね。元気が出る仕事ではなかった。
 そしたら、大澤隆さんが県庁の障害福祉課にいて、電話してきたんです。「小児療育相談センターって障害児の療育相談機関があるんだけど、移る気はないか?」って。「県として運営支援しているところだから」。そこの理事長と会って話しているうちに意気投合しちゃって、「じゃあ行きます」ってなった。「児童医療福祉財団」という法人だったけど、借金はあるけど財産はない財団法人。(笑) それでその時に初めて障害児の診療相談を体験することに。

田中:先生は心理職として入ったわけではないんですか、そこは。

谷口:僕はいきなり管理職で、財政を考えなきゃいけない役割。赤字の診療相談事業と黒字の検診事業でやっと運営してましたから。そこに「神奈川県心身障害児父母の会連盟」というのがあって。障害別14団体の親の会で構成されていました。その成立の年表を僕が作ったんですけど。[00:50:26]

田中:これいただいても大丈夫ですか?

谷口:どうぞどうぞ。各種障害別にできてきて、神奈川県の心身障害児父母の会連盟。横浜じゃないんです、横浜にありながら。なぜかっていうと、障害の福祉っていうのは、神奈川「県」がやるんであって、川崎も横浜も「市」は行政上の責任がないという時代だったんです。だから、秦野精華園・厚木精華園・津久井やまゆり園など、次々入所施設を建てていくのは、県の責任。そういう仕組みだった。ですから横浜市は障害福祉はダイレクトには責任を持たないって姿勢だった。そういう中で、横浜市金沢区の障害児殺害事件が起きてしまう。
 それでどうして僕が抗議文を書くようになったかというと、父母の会連盟の担当ソーシャルワーカーみたいな役割を担っていて、お手伝いで父母の会連盟の幹事会にはいつも出席していた。夜開かれるの。それで、たとえば一番印象に残ったのは、自閉症の親の会が幹事会をやった。親の会のリーダーたちが集まって、毎年県庁に出す要望書を固めるんです。出す相手は横浜市じゃないんです、神奈川県庁なんです。そうした中で、自閉症の親が出した要望項目は、200項目以上になった。

田中:ずいぶん多いですね。

谷口:それで、自閉症の親の会の会長が「こんなに出したって実るわけないだろう。一点に絞ろう」と。

田中:それもすごいですね。

谷口:県立の「こども医療センター」に自閉症専門病棟ができる。「専門病棟」って言ってたんですよ。その実現だけに絞って行こう。「そのくらいにしなきゃ実現できないよ」って言ってた。その時ね、僕、席を同じくしてて、同席者の僕は発言権はないんですけど、親の会が親の要望を切り捨てて整理していくって、親の会って何の働きをするのかなと思ったんですよ。それで僕、大澤隆さんにそういう話をして、「親の会が自分の手で要望を整理して県に出す。変だよ、それは」「あんなに『ヘルパーが欲しい。疲れた。どっか通うところが欲しい』って涙をこぼして言ってる、その声が県にぜんぜん届かないよ」っていう話をしたら、彼が「わかった。今度の障害者の福祉大会(親の要望を出す大会)を涙の大会にしよう」って。(笑) 多くの議員がその会に出席するし、知事も挨拶する。それで僕は親の会のリーダーたちに「とにかく生の声を沢山聞かす大会にしませんか」って言ったんです。それと同時に、県会議員の各党派の控え室を回って歩いたんです、僕が。議員にダイレクトに話を聞いてもらいたくて。涙を流して聞いてくれる議員もいました。
それで議員とも顔見知りになって、女性議員なんかですごい関心を持つ人がいて、わざわざ議会が始まる前に「こういう質問したいんだけどどうだ」と聞きに来てくれるようになって、ああでもないこうでもないって論議を交わしていたりしていた。
そうした半面、仕事をしている「小児療育相談センター」(神奈川県児童医療福祉財団が運営)は診療の予約が山のようになって、スタッフは診療体制を強化しろと言う。ところが保険診療で障害のあるお子さんを診て、親御さんの相談に応じていくわけですから、診療をすればするほど赤字がかさむ。来る人たちは横浜市在住者が多いのだけれど、横浜市からは支援もない。横浜独自のサービス乳幼児期の子どもに対しては見るものがない。
そうした中で、父母の会連盟の事務局的な役割をしていて、事務局長が酒井喜和さん、彼には重症心身障害児といわれる娘さんがいて、もう僕は横浜市の施策の現状に怒りを覚えてたんです。それで、『こういう社会的なサービスの状況下では、障害者が殺されてもやむを得ざるなり行きだ』って書いたんですね。そしたら酒井喜和さんが「ん?」って頭捻るのは見た。でもね、そのまま新聞に発表しちゃった。朝日の夕刊に出た。そして地元で減刑嘆願運動が起きたことで、「俺達は殺されていいのか!」って。青い芝の会が立ち上がり、児童医療福祉財団に押しかけて来た、車いすでドーっと。
 その背景にはね、もう入所型の施設が山の中にぼこぼこ建っていく、それ以外の施策がほとんど出てこないっていうそういう時代背景があって、「施設さえあれば解決する」「施設がないから殺される」ではたまらない、そういうことで青い芝は激しく怒っていた。だから横田弘さんが言う『愛と正義を否定する』っていうのは、それですよね。そんな愛と正義ならいらない。
そして、その後の77年に川崎でバスの乗車拒否闘争ね。「車いす乗せない」って言ったんで、川崎駅前で猛烈に抗議したんですよ。一般乗客が「俺たちが乗れないではないか」と抗議すると、「あなたたちは365日乗れる。俺たち車椅子は365日乗れないのだ」と反応してましたね。青い芝は普遍主義を求めていたのだろうと僕は想像しています。
 そして、79年に特殊学級と養護学校制度での全員就学が出てくる。ここでは見事に選別主義が採られました。
 ともあれ、児童医療福祉財団にいた頃はね、すごい労働でした。横浜駅に夜中の12時2分に乗ると家の近くの駅まで着ける。朝1時間、幹部会議、早朝会議っていうのを7時半からやるんですよ。睡眠は4-5時間というのが多かったです。それに、財団にはお金がないですから、金を拾う夢ばっかり見る。そうして、児童医療福祉財団で破茶滅茶な暮らしをして、燃え尽きて、理事長に辞表を書きました。
しばらくして、芹沢勇さんという神奈川県匡済会(きょうさいかい)の理事長から「ちょっとお目にかかりたい」って言れて、「社会事業研究所というのが空席だったんで、あなたにそこの所長をやってもらいたい」。図書室もあるし、「あなたの好きな研究をしてください」と。「なにを研究すればいいんですか?」と尋ねたら「研究っていうのは人に言われてするもんじゃないでしょう」。すごい人でした。それで行くことになったら、出勤簿なしで、研究調査費が出て、本代も出た。

田中:すごい。パラダイス。

谷口:パラダイス。誰かが「谷口は地獄から天国だ」って言いました。その頃に作ったのが神奈川県匡済会で僕が編集した紀要なんです。これは、現場にいる人達が論文書いてる時間がないので、神奈川県匡済会の社会事業研究所に来てもらって、材料を持って語ってください。そしたらそれを全部文字にして届けます。
また、神奈川県社会事業研究発表大会はその頃もあって、そこで発表をした人のものをここにまとめるっていう。そういう、現場の人たちのまとめを助けをしたものです。
例えば、ここにある『神奈川県における在宅障害児対策があゆみ』と言うのは、大澤隆さんが話したことを全部まとめた。彼はこの論文で日社大で吉田久一賞をもらったんですね、これが最初の踏み台になって。彼は岩手県立大の教授になったんですね。
 また、この119ページにひばりヶ丘学園の谷口四郎さんが書いてくれた年表があります。これを見てもらうと、要するに入所型の施設を作っていきながら小さな障害幼児の対策がぼつぼつと昭和43年(1963)頃から出てくる。この昭和43年に神奈川県は初めて在宅心身障害児対策要綱というのを作っている。神奈川県がやっと子どものことを手がけ始めた。
 要するに、僕が言いたかったのは、青い芝の人達が『親よ!殺すな』なんて書いてる時には本当に入所型の施設しかなくて、コミュニティでのケアの施策がなかった。そういう中で強烈な問題意識を抱き、それが盛り上がってきたんだと思いますね。もちろん東京の府中の闘争とかね、いろんな事があるんですけれども、神奈川でも強烈な問題意識が持ち上がったんですね。
 それで、神奈川県匡済会に6年いた間にも研究会やったりして、そのメンバーのご縁で関東学院に呼ばれていきました。そこでの授業で僕、障害福祉論を担当しました。その授業に青い芝の面々とその他の車椅子の人たちも来るんですよ。エレベーターがない2階の教室に守衛さんたちが4人も5人も集まって、車いすを担ぎ上げてくれた。一生懸命、大事な生徒のようにしてくれた。そういう中で僕の障害福祉論っていうのは、おのずと変わっている。当事者をいつも念頭に置かないとできない、授業が。そういう授業をやってかなきゃいけないんだなと思って。客観的に何かを言っていればいいという話じゃないなあと思って。そういう中で8年過ごしました。
 そして、神奈川県の人材確保に関する委員会がありましてね、一番ヶ瀬康子先生が委員長、田端光美先生副院委員長で、僕が関東学院大学から出ている委員で、報告書を最終的なまとめをするという会が開かれた。そのご縁で、日本女子大学に移ることになりました。
 そして日本女子大にいた92年の9月に横田弘さんとバンクーバーへ行きました。それは84年頃からブリティッシュコロンビア州が障害者の入所施設の閉鎖を始めていて、それが終了したので、横田さんが「俺、行きたい」「とにかくバンクーバーへ行って障害当事者に会いたい」って言うんですね。それでそういうアレンジメントをやったんですけど、向こうで横田さんの障害当事者のその、「大いに運動してる人に会いたい」っていう言い方をして会えたのはみんなね、脊損の人なんですよ。それで横田さんすごい不満でね。どうして脳性まひ者に会えないんだって。だけど結局最後までダメでした。
 そして帰国間際になった時、彼はね「谷口さん、俺の車いすを押して」って言うのね。彼のほら持論だから。「健常者が車いすを押さなきゃだめだ」と。「だから俺は電動使わない」って言い切ってましたからね。「俺の車いすを押さなきゃ障害者のことはわからない」って。それでね、押せって言うから、「じゃあ俺一日あんたと付き合うよ」って言って。そうしたらね、バンクーバーの店を次から次から次から次へと物を買いに行くんです。すごいんです。ぐるぐるぐるぐる回ってね。もうあの店、この店、次はあっちこっち、あの店この店って。僕、海外行って土産物って買ったことないから驚いちゃって。「へえ。この人はこんな買い物する人だったのかあ」と思った。そしたら最後に、「谷口さん、寿司屋へ連れてってくれ」って言うの。横田さんが。それで2人で差し向かいで座った。そしたら特上の寿司2つ頼んでくれって言うのね。そして「俺が今日おごるから食べてくれ」って。それで寿司食べてるうちに彼が語ったのは、「俺は貯金を全部下ろして」、それでその貯金をね、「全部今日の買い物に使った」って言うの。それでね、それはね、世話になった人の…たぶん81人と言ったと思ったな。「頭に浮かぶだけで81人いるんで、その人一人ずつ頭に浮かべながらお土産買ったんだ」って。81人分。すごい。で、「もう二度と来ることないと思うから、これでさっぱりした」って。それで「寿司食ってくれ」って言うんで、僕はなんか胸が熱くなっちゃった、「そうだったのか」と思って。

田中:81人思い浮かべるってすごいですね。

谷口:すごいね。なんかね、靴下から帽子から手袋から。いろいろ買ってた。僕は「そういう男だったのか」と感銘深かった。
 思い出せば、2004年の5月1日から障害者支援センター運営委員会っていうのができて。それがどうしてできたかというと、酒井喜和さんが理事長をやってた在宅障害者援護協会を、新しい横浜市長が民間団体の多くを整理合併させるって言い出して、在宅障害者援護協会を横浜市社協(01:34:51)に吸収するって市長が言い張った。僕らは猛反対で。社協の体質に同一化されたら身も蓋もないっていうので。それで文章を書いているんです。『10年間は社協の人事に巻き込ませない。人事はいじらせない、社協に』。それからね、横浜市障害者支援センターっていう名前で決まったんですけど、それは「『当事者性』と『開拓性』と『運動性』という3本柱を決して見失うことのないように運営すること」っていう。それを公文書にまとめて横浜社協会長宛に出しているんですね。
 そして出来た横浜市障害者支援センターの運営委員として横田弘さんと内田みどりさんが参加してきた。その運営委員長を13年間やってきた。その中で思い出すのは、内田みどりさんが、「障害者総合なんとか法ってのができたけど、障害者はますます生きにくくなってます。がんじがらめ。なんだかとても自由がなくなって、自分らしく生きられる、生きる道が見えなくなっています」っていう。すごく基本的な問題提起だったと思いますね。そういうことを言って、亡くなってしまいました。
 それで、2013年6月3日に横田さんは亡くなってしまい、12月4日に内田みどりさんが亡くなった。横田さんが亡くなった後、内田みどりさんが「2019年12月31日をもって青い芝活動停止しますって言われてる」って。これはね、横浜市障害者支援センターの運営委員会の運営委員として伝えられたことの記録なんです。
 横田弘さんというのは、「生きてるっていうことを、そういうことを心の底でかみしめて生きている男なんだな」っていつも思ってました。だから最初わーっと押しかけて来られたときは、「『僕は殺されてもやむを得ざる成り行きである』って書いたから、怒りの嵐に向かってどうしていいかわからず怖かった。出してしまった言葉は消しようがないから」って言ったら、「いや谷口さん、怖がることなんかなかったんだよ」と言われたけど。(笑) どういう意味だったかわかんないけど、そういうことを言われました。[01:40:43]

田中:だーって来た時、先生、そのあとっていうのはどうやって話をしたんですか?

谷口:その後ね、心身障害児親の会連盟は減刑嘆願もしたこともないし、その抗議文は僕が書いたのを発表しただけで、僕の責任なんですよね。
 でも、親の会の人たちはそれぞれの立場で、青い芝に説明しようとしていったんですね。例えば、重症心身障害児を守る会の会長、彼は言ってたんです。「俺の娘なんかさ、何も言わないし、何も意思表示がないから何を考えてんだかわかんないんだけど、とにかく丸裸の命で生きてんだよ」「そういう命を抱き抱えて一緒に死のうとは思わない」「だけど、青い芝のような『ものを言う人』と俺の娘とは違うなと思ってんだよ」「何か違いってのを感じちゃうんだよなあ」みたいな言い方をしてました。殺す、殺されるということとは違うというような立場を話していたのでしょうね。
 そして、この件とは別に、青い芝で介護者の親が亡くなってしまって、どうしようもなくって、どこかに住まいを見つけなければならないと不動産屋を本当に100軒回った。それでも見つからなかったという話が伝わってきた。本当に家を見つけるのは難しいって話があった。その頃、僕は毎年イギリスに行きだしてて、ホステルなんかを訪ねたり泊めてもらったり、それからグループホームも訪ねたりしてたんで、「じゃあ俺ね、イギリスのグループホームってどういうものなのかもう一回本気で調べるよ」って。それで、それをテーマにしてイギリスへ行く。「グループホームの運営ってどうやってやるのか」「介護・介助の問題はどうやってやるのか」「介護不要の人も住むのか」「グループホームのタイプっていうのはどういうものがあるのか」「終の住処になるのか、一時的な住居か」、そういうものを調べてきて、それを室瀬滋樹さんという支援者に伝える。で、室瀬さんが媒介項になって、青い芝の人たちに伝わって行く。いつの間にか、新しい情報提供者の役割になっていくという感じがありましたね。
 その後、横浜では脳性まひ者中心にしたエレベーター付きの家を建てて、グループホームにして、30年契約する家主が出てくる。内田みどりさんもそうしたグループホームに住んでいました。
 また、矢田さんとか、白石さんとか友人としてお酒を飲んだり、個人的な相談を受けたりして、障害児殺しとは別の個人的な付き合いが始まった気がします。

田中:ふれあいの家の室津さん?…。

谷口:そうです。ふれあい生活のの家ですね。正式には中区障害者地域活動ホームの理事長をやってると思います、室津滋樹さんは。そういえば、日本女子大の授業でも「グループホームへボランティアで行ってくれ」って言って、泊りがけで行ってくれる人がいました。

田中:たぶん脈々と続いてたんじゃないですか、ボランティアをしていくのが。行った記憶がありますね。
先生、もう一度おうかがいしていいですか? このへんの出来事のあたりっていうか、臨場感のあるところで。先生のその抗議文に対して青い芝の人たちは先生のお勤め先に来たんですか?

谷口:そう。児童医療福祉財団の会議室に押しかけて来たの。その時に僕はいなかった。僕は、直接対決して迫られるっていう経験はないんです。

田中:そしたらどうやってそのあとは接点ができたんですか?
横田さんが「あの文章を書いた人に会いたい」とか、そうやって来たとかっていうわけでもない?

谷口:来たことないですね。はい。ここに並べている人たちって、何とはなしの付き合いをしてるんですよね。白石さんは確か、今群馬のほうにいるのかな?

田中:白石さんって福島のですか? 郡山の。

谷口:郡山。そう。白石さんね。彼と酒飲んでいろんな話したりして、付き合って、個人的な話を聞いて。それから矢田竜司さんは川崎に住んでて、鶴見の作業所の所長になったんですね。それで僕のところへ言ってきたのは、「とにかくね、谷口さんね、生活保護を受けるのは嫌だったんだ」って。それで所長になって給料もらうようになったんだけど、川崎から電動車いすで2時間半ですって。鶴見まで。それが交通事故にあって当たり前みたいな経路を乗り切って行かなきゃなんないんで怖くって、毎日通勤が大変。それから「お前だけなぜ給料もらうんだって障害者仲間から言われてて辛いんだ」「だけど生活保護は受けたくないんだ」って言って。市営住宅に住んでてね。そんなことを言いながら。僕は結局何も出来ないで話聞くだけだったんですけどね。
 だからなんだろうな。僕ってなんとなく、真っ正面から抗議文のことでやり合うことも無いまま、なんとなく付き合いが出てくるってのか。話しに来るとか、手紙送ってくるとか、そんな感じで付き合ってて。また僕もそういうことって記憶も取らないで何もしないでなんとなく頭に思ってるだけできちゃってるから。[01:51:07]

田中:でもすごいですね。だっていっぱい名前が出てきて。ちゃんと名前覚えてらっしゃるのがすごい。

谷口:そう、名前は覚えてる。それぞれの個性がある人たちだったから。

田中:でもあれですね。なんかすごくこう、敵対するようなお手紙をある種書いたわけじゃないですか。そんなのに、そのあとは良い感じで交流が結べてるっていうところがやっぱり、どうやってこうなったんだろうっていうのはちょっとね。

谷口:なんとなく、あの人たちにとって情報源みたいだったのかな。「ノーマリゼーションなんて、谷口から初めて聞いた」って言ってたし。それはもう明確に入所施設否定っていうことなんだよって。日本はそうなっていないけど、みたいな話をすると「ああ、そうなのか」みたいなね。そうですね。1970年に入ってすぐの頃だと思いますよ。「ノーマリゼーション」なんて僕が引っ張って言い出したのは。

田中:それはやっぱり先生が海外の文献を読んだりされてたから?

谷口:そうです。68年にヴォルフェンスベルガーが書いたのをまず手に取った。68年に書かれて、「ほー」と思って驚いたけど、ヴォルフェンスベルガーの書いた文章って、ドイツ系の人ですからすごい難しい。「そうなのか」と思いながら読み飛ばしていったけど、翻訳しようと思ったけど、これは俺の力では翻訳できないよと思ったのはまざまざと記憶してますね。でもね、「ノーマリゼーション」という言葉と理念がある、「常態化」とでもいうのかな、そういうことは言ってた。だから大澤さんが県庁で言い出したのは「お前から聞いたからだ」って言ってたけど。定かでないんですけど、「最初にノーマリゼーションを神奈川に持ち込んだのは谷口だ」とか言ってる。また、例えばグループホームって「終のすみかであってもいいし、終のすみかでなくてもいいんだよ。出たくなれば出ていけばいいんだから」みたいなことだとかね。
 それから「障害者の高齢期をどうする?」というような話が出たりとか。僕ね、厚木精華園っていうのができた年にそれを書いた。厚木精華園っていうのはね、知的障害者の高齢者だけ集める施設なんですよ。すごいと思いませんか? 高齢者だけ。それで、それ僕は日本女子大の紀要に書いたんです。

田中:94年。ずいぶん先駆的ですね、先生。[01:55:00]

谷口:大澤さんにこれを見せて、高齢者だけ集めるのは無茶でしょうって。そしたら彼が「厚木精華園はそういう趣旨の施設なんだ。そこで出す研究紀要の創刊号にこれを全部引用させてくれって。

田中:知的障害の人はなんか今、認知症の話なんかもけっこう出たりするのって、最近ですもんね。

谷口:ああ、そう。そうですよね。

田中:だからすごい先駆的な。

谷口:当たり前のことを書いてるだけなんですけどね。

田中:じゃあなんとなしに会合とかで出会ったり?

谷口:そういうことだったんだと思う。いろんな話をするとか、それから鶴見の京浜急行の近くの居酒屋へ車いすで一緒に入って酒飲んで、ああでもないこうでもないって言うとかね。たぶん僕の付き合い方がそうだったんだと思う。

田中:そういう中で先生が、いろんな知見みたいなものを飲みながらしゃべって。それはまた青い芝の人にとってはちょっと新しい。こういうこともあるんだなみたいなことで、だんだん親しくなっていくっていうか?

谷口:横田弘さんの息子さん、背の高いすらりとしたいい男なんだよね。

田中:あ、そうなんですか。息子さん会ったことがない。

谷口:横田さん弘にね、「あんたの精子は立派な精子なんだなあ。あの息子を見るとそう思う」なんて、そんな話しながら。オフレコだけど。友達だから、「あんた、最初の経験どこでどうしたの?」とか。(笑) 

田中:(笑)

谷口:そういう話だとか。それから、バンクーバー行った時はどうしても、「谷口、カナダのポルノを見せろ」とか。(笑) 

田中:勢いがありそうですもんね。92年だって…まだおいくつぐらいですかね。けっこういいお年ではあるのか。60代ですか? 

谷口:33年生まれじゃなかったかな? ちょっと待って。33年生まれ。

田中:じゃあ60ぐらいですね、ちょうど。59とか、バンクーバー。まだ元気か。
 でもそういう、なんか和解していくっていうのがなかなか良いっていうか。あんまりないかなって。

谷口:和解していくもいかないもないまんま、何か「わかっちゃった」みたいな感じですかね。彼が下痢しちゃって。夫婦になったけど、下痢した時は大変だったというような。

田中:でもそういう話ができる仲になっていくってのがすごいですね。

谷口:なんかね、次元が違うところで付き合い始めちゃってたっていうのかな。なんとなくね。

田中:じゃあ最初はもしかしたらあれですか? 谷口先生がこういう文章を書いた張本人だって知らなかったとか? 

谷口:知らなかったと思う。

田中:ああ、そうなんですね。なんか話しているうちに、「実は僕でした」みたいな?

谷口:そうそうそう。「あれ書いちゃったから、俺もうそれで横田さんたちがガーって来た時は俺は怖かったよ」とかっていうような話でわかっちゃったのかな。

田中:そしたらなんか「あれ? この人だったのか」みたいな。(笑) なるほど。じゃ逆にあれですね。先に良い付き合いができちゃってたっていう。

谷口:「良い付き合い」ってほど意識してなかった。なんとなく自然に話しちゃってたっていう。ぶっちゃけた話しちゃってたっていうことかな。[01:59:43]

田中:でも、そういうお付き合いができたというのも、またね。たぶん先生の中にやっぱり元々その、お友達に視覚障害の人がいたりとかそういう中で、あんまり壁を作らずに付き合えるというか。

谷口:それからほら。青い芝はセックスのことをあからさまに言い立てる時代があったんですよね。真っ正面から。「セックスどうする?」っていうのは。僕はその頃も一生懸命「障害者とセックスの問題」っていうのは。たとえば結婚するしないにかかわらず、一緒になって妊娠したら子育てどうするのかとか。そういうのをね、一生懸命、イギリス行って調べたりとか。イギリスは平気でやってんだよ、そういうのは。一緒になってさ、子ども産まれたらどうするかというと、それは社会が育てればいいって言ってんだよ、イギリスはさあって。「ええ? そうなの?」というふうなね。そんな付き合いだったからかなって気がしますけどね。だから彼らもほら、女性も青い芝はなんかかなりあからさまでしたからね、性については。だから「性的な経験だけはしたいけど、結婚はしたくないけど、ちょっといい男いないか?」とか、思いもかけない話。本当に性についてあからさまな時代があったんですよ、女の人も男の人もね。

田中:80年代ですか?

谷口:そうだったと思うな。

田中:今はね、そこまでオープンに…。まあでもいろんなサービスというかね、あるから。でもまあ足りてるとは言えない。特に女の人は逆に、しゃべらないですかね、今。

谷口:隠された、隠蔽された世界であり続けているとは思いますね。いっときは青い芝が言い立てたけど。でも僕は本当に、きちっとしなきゃいけない問題だと思って。だからイギリス行ったとき、僕はもう今でも忘れないのは、障害者のホステルの女性施設長が、「『セックスの権利は何人も奪うことはできない』ってイギリス人は考える。そこからスタートする」「それを抑圧して、ないものにしていくわけにはいかない」って。「だからあらゆることを考えて、その権利は守らなきゃいけない」って言われた。実際、イギリスの本屋へ行くと売ってましたもんね。「障害のある人のセックスはどうやってやるか」って、図入りで、実に細かく。それは障害のある兄弟を持ったお兄さんが書いた本でしたね。

田中:なるほど、そうか。じゃあ、横田さんたちの話はなんとなく。はい。

谷口:でもその、「セルフアドボカシー」っていうのもすごく大事だと思ってるんです。イギリスの障害者団体なんか、セルフアドボカシーに目覚めた。というのは、障害のある子どもを持ったって、母親の目から涙がポロリ落ちるポスターが出たんです。それで障害者団体が猛烈に反応したんですね。障害を持つことが悲劇で悲しみだっていうことを象徴するポスターを張りだすのかっていうので。それで、障害者自身の団体が各所にオフィスを構えるなどして、前面に出てくるようになった。そして、そういうオフィスにはたいがい時の首相が訪問していて、みんなと写真撮っている。それが報道されるなどして、社会に知られ、認められる大きなチャンスにはなってる。
 だから、青い芝が一番残念に思ってるのは、そのセルフアドボケイトが十分にでききれないまんま横田さんなんかがこの世を去っていっちゃった。内田みどりなんかが去っていってしまったということじゃないかなと、僕は思っています。




*作成:岩ア 弘泰
UP: 20211222 REV: 20231015
谷口 正隆  全文掲載
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