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末安民生氏・吉浜文洋氏インタビュー 2

2021/08/04 聞き手:阿部あかね・桐原尚之・篠原史生・舘澤謙蔵・長谷川唯・三宅美智
於:キャンパスプラザ京都 6階演習室

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末安 民生・吉浜 文洋 i2021a インタビュー・1 2021/08/04 聞き手:阿部あかね桐原尚之・篠原史生・舘澤謙蔵長谷川唯・三宅美智 於:キャンパスプラザ京都 6階演習室
末安 民生・吉浜 文洋 i2021a インタビュー・2 2021/08/04 聞き手:阿部あかね桐原尚之・篠原史生・舘澤謙蔵長谷川唯・三宅美智 於:キャンパスプラザ京都 6階演習室

約140分
日時:2021年8月4日(水) 於 キャンパスプラザ京都 6階演習室
話し手※:末安民生(佛教大学保健医療技術学部看護学科)・吉浜文洋(新潟医療福祉大学看護学部看護学科)
聞き手※:阿部あかね(佛教大学保健医療技術学部看護学科)・桐原尚之(立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員)・篠原史生(立命館大学先端総合学術研究科博士課程後期課程)・舘澤謙蔵(立命館大学先端総合学術研究科博士課程後期課程)・長谷川唯(立命館大学生存学研究所客員研究員)・三宅美智(国立精神・神経医療研究センターリサーチフェロー)
※話し手・聞き手ともに2021年8月時点での所属。


舘澤:面白いな。想像してた以上に面白いですけど、話が、聞くの。知らないことばっかり。

末安:吉浜さんの人生はすごいよ。

桐原:沖縄のことも出てくるし、組合のことも出てくるし。

篠原:むちゃくちゃ面白い。

長谷川:阿部さんが八条口まで一緒に。

末安:あー、そのほうがいいと思うな。(00:50:00)

舘澤:ちょっとトイレ行ってきます。

長谷川:すっごい長いお付き合いなんですね、ほんとに。ね。「同志」といっても。年齢は。

末安:吉浜さんのほうが三つ上ですよ。

桐原:じゃあもう70になるんですかね。

末安:そうです。

篠原:それこそこないだ、松沢たぶん専門学校の、閉校記念誌を見たんですけど。

末安:あ、そう。どこに出てたの、そんなの。

篠原:あ、取り寄せたんで。

末安:取り寄せたってどういうこと?

篠原:えっとー。

末安:アマゾンじゃないでしょ。(笑)

篠原:ではなくて、図書館経由で。全国の所蔵の図書館から取り寄せるっていうやつで取り寄せて。たぶん東京の公立の図書館から来たんですけど。か、国会図書館かどっちかだと思う。

末安:ええ、ええ。

篠原:で、見てたら、卒業生の名前一覧にばーってもう並んでいて、当然先生がたのお名前もあり。他にもちらほら「おお、この人が!」っていうかたもいて。

末安:ああ、そうね。

篠原:すごい。今はかなり、僕は精神科の看護の領域しか、お名前見てわかる人ほぼいないんですけど、「ああ、この人もそうだったのか」みたいな、いらっしゃって。「ああ、そうか」と思って。「松沢、そうか」と思って。比較的、今活躍されてるかたがいっぱいいるなっていう印象だった。

末安:僕らの何期下かな、7期ぐらい下かな。さっき日看協の話で出たけど、日看協で最初の男の理事になったの、小川っていうんだけど。
 小川忍。彼が、僕が松沢病院辞める時に、辞める何年前かな、10期くらい下かな、

篠原:けっこう離れたとこの卒業生として、小川さんもいらっしゃった。

末安:僕、「看護協会の最初の男の理事になるか」って言われたこともあったけど、僕はちょっといろいろ考えて、断った、その小川くんが最初の理事になった。

長谷川:なんか面白い、面白いっていうか、「府中療育センター」にもしかしたら勤めていたかもしれない。

末安:あ、そうそうそう。

長谷川:そうでしょ? それが面白い。

篠原:あ、そう。いろいろつながっていくんですね。

長谷川:そう。「ええー!」と思って。

末安:府中療育センター、就職先として。同級生や、先輩や後輩もいたかな。当時あそこも精神科と同じで職員定員割れしてて、いつも。行く人がいないって。公務員だからそういうこと許されるのかってみんな思うかもしれないけど、東京都立って、僕が現場にいる時、17病産院あって、人事異動するじゃない? で、もちろん変わらない層、ある程度何十年か変わらない層もいるんだけど、変わっていく層はあるんだね。それで、府中療育センターとか、重症心身とか、松沢病院とか、もう一つ、当時梅ヶ丘病院っていうのがあって、児童の精神科。その三つが、そこの移動の発令が出ると、辞めちゃう人たちがいる。「精神科に行くくらいなら」とか「重身に行くくらいなら辞めます」って、ほんとに辞めちゃう。

長谷川:ほんとに精神科に行く人が少ないっていうことで、けっこう労働組合も問題にされてたって。

末安:そうそう。

長谷川:それは、人気がないんですか?

末安:人気がないっていうか、仕事の内容が理解されてない。実習なんか…ああ、あとね、今でも、現在も、ここに来てからも、京都、佛教〔大学〕に来てからもそういうこと聞いたけど、精神科を希望する人は昔よりは増えてるわけですけど、「精神科に行く」っていうと、4年生の担任っているわけ、卒論とか見る。その人たちの一部の人が就職のお世話もする。相談にのったり。その時に「精神科に行きたい」って言うと、今は「精神科なんて」って言う人は少ないけど、でも別な言い方があって。「じゃあ一般科で何年かやってから行きなさい」と。それは僕らの頃に言われてたことが、今でもやっぱり言われてる。

長谷川:よく私も、私もっていうか知り合いの看護師さんとかみんなそう言います。「精神科は経験がないとできない」と。かつ、精神科に行った看護師さんたちは「そこから離れたくない」って。今度、「離れるとしたらもう看護師辞める時」というか、そのたとえば「一般に行く」みたいなことがないって聞きました。

末安:僕、これって、看護師の先生たちの許容量の狭さかっていうふうに理解してたけど、OTね、作業療法士も「精神科に行く」って言うと。「いや、精神科なんて」って言う先生がけっこういると若い人に何回か聞いた。[00:55:06]

長谷川:ええー。

末安:だから今だとさらに進んで、今、PTとかOTでも新人の時に最初から地域に出る人たちがいるんです。その人たちに対して先生たちが、最初から地域に行くなんて、まず施設でがっちりやってから地域行きなさいと言う。地域が教育的には、若い人たちの教育としては、ふさわしくないっていうような考えらしい。臨床的な内容じゃなくて今でも言ってるって聞く。OT協会は、まだホームページ載ってるかわらないけど、半分は地域で展開しようと。作業療法士協会。看護協会も、今の会長になってから、地域で働く、精神科じゃなくてね、地域で働く看護師ことを積極推進している。2025年問題とか2050年問題と言われてるからかもしれないけど、教育の側のスタンスも少し変わってきた。やっと現実的に考えはじめてきた。[00:56:30]
 (戻った人に)駅まで誘導してくれたの?

阿部:あ、うん。あの駅に登るところ。

末安:ああ。

阿部:そこに行くまで「どこだこれは?」って。「タクシー呼ばなくていいのか?」とかって。(笑)

?:タクシー(笑)。今、休憩です。

阿部:あ、休憩?

長谷川:日精看と日看協の関係とか、非常に、外からすると不思議で、知りたいです。同じ間、幅がね、違うのかもしれないけど。

末安:たとえば助産師協会。看護協会の中にも、助産師部会がある。保健師部会、看護師部会、助産師部会がある。でも保健師は保健師協会があるわけじゃない。行政保健師のための連絡協議会みたいなのはあるけど、保健師協会があるわけじゃない。で、看護協会は看護協会って言ってるけど、保健師と助産師も取り込んだかたちでやってるんだけど、でも助産師協会はある。助産師協会って、始まった時は初代の会長さんは医者なんだ。でまあ「産婆」って言われてる頃ね、産婆協会。それから産婆協会から戦後助産師協会になった時も、最初は医者が会長をしている。それで看護協会はずっと連綿とあるから、「なんで助産師は医者を担ぐんだ」という意見があった。「医者からの独立がわれわれの使命のひとつじゃないか」という考え方。というようなことを言って助産師協会を攻撃する人や場面があった。立命の図書館に、「助産師の世界」じゃなくてなんだっけ…。

阿部:戦後? 『助産師の戦後』★?
★大林 道子 19890420 『助産婦の戦後』,勁草書房,医療・福祉シリーズ30,330+5p.

末安:助産師の戦後だっけ?

阿部:大林さんが書いたやつですか? 聞き書きしたやつ?

末安:じゃなくて、助産師協会の歴史みたいなことが連綿と書いてある本があって、それがあったの、その本が。立岩さんとこういう話になった時に、その本の話になったから、両方で。ちょっと今著者の名前と正式なタイトル忘れちゃったけど(※末安の勘違いで、阿部さんの指摘通り。大林 道子『助産婦の戦後』勁草書房 http://www.arsvi.com/b1900/8904om.htm)。
 助産師協会はその組織の立ち上がり方はちょっと置いといて、精神科看護の組織の始まりは、みなさん知ってる通り、男の人たち、「看護人」といわれてた人たちが資格を取るとか、学校を作りたいなどの目的によって結成したものだからね。
 で、僕、松沢病院の歴史を中心にしか話せないけど、松沢病院も、戦前も、太平洋戦争前も、戦後も、労働運動は一定程度あって。それは労働運動なんだけど、看護師たち、「看護人」たち、「看護婦」と呼ばれてる人たちもいたけどそれは少数だったから、「看護人たちの生活闘争」っていうかな。身分確立闘争と生活権闘争で始まってる。逮捕者も出して。戦前も戦後も警察が病院に乗り込んできて活動家を捕まえた記録もある。[01:00:26]
 でも僕たち、さっき吉浜さんが言ってた、沖縄で労働組合やってた時の経営者、経営を巡って「賃金としての再配分をちゃんとしろ、利益の再配分をしろ」っていう考え方は、公務労働では…、まあ国立はちょっとニュアンスが違うけど、自治労傘下の自治体病院系の労働組合はけっこう最初から、精神科の分野に関しては、医療の質の闘争を組んでた。だからそれは、昭和でいうと何年ぐらいになる。40年代かな、ぐらいから、主に自治労がイニシアティブをとって精神科の人たちが集まって、公立病院の精神科の人たちが集まって医療の質のことに関して対政府っていう感じだけどね、戦いをくんでた。で、その影響が都立松沢病院の労働組合にも当然波及していて、僕らが入った時だから昭和50、僕は53年に入ったけど、51年くらいから、最初はワーカーを中心として労働組合がその医療の質を問わないのはおかしいして組合活動にも参入し始めていた。参入って言っても、組合執行委員になるのに選挙になるから、けっこう落ちたりもしていた。っていうのはやはり日共系が伝統的に医療組合系は強いっていう…、やっぱり「数の支配」っていうかワーカーだと当時5人だったと思うんだけど、最初。どんどん増えてって今はたぶん二桁いると思うけど。だから、自分たちが言ってることが正しくても集票できない。それで僕らの年から一気に…。入職した年の6月に選挙があって僕は就職一年目だけど、一年目だから職場の同僚から仕事覚えないで何してんだとか言われたりしたけど、新人が大量に選挙にでた。
 ともかく公立病院は別だって吉浜さん言ってたけど、公立病院でも劣悪な面はある。松沢病院は歴史もあるし大きいし、名前出したら多くの人が知ってる。でも精神科とはいっても、たとえば僕が入職した時は、前の生存学の座談会でも言ったけど、クーラーが病棟だとナースステーションにしかない。僕らが入った年の夏はすごく、今年と同じような感じで暑かったから、病棟にいて日に当たってないのに熱射病になるっていう患者さんが出ちゃって。組合の団体交渉で何考えてんだって言って。そしたら電力が足りないと、病院に引っ張ってきてる電力が足りないっていう話を病院側が言ったので、電力増やすっていう権限ないのか?って言ったら、ないって言うから、わかった、じゃあいいよって言って、都庁と都議会にかけあうという事態に発展していった。

長谷川:そこの発想がね、すごいなって。

末安:都庁を動かすのは組合だけの力では足りないから、都議会に言えばいいんだなって。予算は都議会だと思って都庁でも役人にすべては決められないとか、そういうふうに言う。わかった、じゃあ都議会交渉。交渉とは言えないから請願とか根回しだね。まだその時は社会党政権じゃないけど、知事の筋とかできることはなんでもやった。僕らが入って2年目かな自民党系の知事になっちゃうんだけど。
 都議会議員の視察が来ることもあるけど、そんな炎天下に来るわけない。だから、わかってないんだよね。あと、食事がひどい状態だった。あと、排水が古くてトイレなんかがすごく臭い、ひと言で言えばね。その後、組合が全患者調査した。その時1000床くらいあった。認知症、当時はまだ認知症って言ってなくて痴呆性老人って呼んでたと思うけど、自著できない人以外には全部、まあくれなかった人もいるけど、書いてくれって言って調査かけた。正確な資料がここにないけど、たぶんでも800近く不満があったら書いてくれって、そのデータを都議会や都庁に現状として報告した。入院してる人がこんなに不満を言ってるって。税金でやってる病院なのにできてないことがこんなにあるって言ってね、改善要求として出した。
 でもそれって広い意味では職員の労働環境の改善、待遇改善でもある。僕らの仕事に直結することだ、われわれの労働条件の改善になると思ってそういう論理を組み立ててたんだけど、現場からすれば、それで休みも増えないし、給料だって上がんねえじゃねえかみたいなことも言われたりもした。反発もくらった。でも患者さんはこう言ってんだからさってさらに言って。[01:06:40]

長谷川:それはたぶん、さっきの、何だろ…話すと面白いんだろなと思うんですよね、さっきの食事の話もそうだけど、結局あれの問題っていうのは、自分たちの労働時間に合わせた食事の配分だったから、そうすると本来のその時間に食べるべきものっていうものが、ぜんぜん病院の中で違う時間帯になってると。そういうことが問題じゃないですか。でも、こっち側のその働いてる側からしたら、そっちのほうが都合がいいていうことでしょ? だからそれを改善していくときのその論理というものがすごい面白いなと思って。

末安:いや、あのね…。さっき吉浜さんが言ってたけど、それは公立病院の労働組合だからって言ったけどね、その民間病院の悲惨な状況っていうのは、まあ僕は東京地域医療業務研究会って、そこは民間の人たちもいっぱいいるから、医療環境=労働環境の格差の問題とかいろいろ出ていた。民間で労働組合やってる人たちの話とかもそういう場で聞いてたんだけど、賃金を含めそのは違いは、すごくある。全部を一度に解決することってできない。というか、それはそもそも不可能な話だと思っていた。自分らがやれることをそれぞれにやんなきゃいけないんじゃないかと思っていた。法廷闘争もやってたけど、その法廷闘争的に制度の改革をしていくっていうことと、その先の役所のほうじゃなくて現場の側にいるわけだから、現場が良くなっていくにはどうしたらいいのかっていうことを目的にする。現場が良くなっていくと、それを制度が追随することもありうるからね。できる道を選ぶべきじゃないか。
 東京でいうと、病院の制度改革もそうだけど、精神科の作業所に補助金を本格的に、国が出してない時に、出し始めたのは東京都なんだ。その中心人物は松沢病院にいた元看護師で、事務に転職した人。そういうことが昔はできたんですけどね、林さんっていう人。その人が、精神科の患者さんたちの家族会とか、まだ当事者の会はなくて家族会だったけど、病院の外に社会との接点になる方法がない、あるいは病院に通院しながらの行き場がないというふうに言うのを直接に聞いていて、それで、実は謎がちょっとまだ、僕らも調べたけど、謎があるんだけど、なぜか突然都議会にその条例案が出て。それで作業所の補助金がつくようになった。そのプロセスの大事なとこがよくわかってない今でも。なぜそれが都議会に出されたのかっていうこと。当時の歴代の課長にも聞き取りしたけど、なんで彼がそれを出せたのかと。まあ、稟議を起案したのは彼だっていうのはわかってる。それは他の都道府県の人にも注目されたから、でも彼がどうやって、課長、部長、局長って上げていくことができたのか、その論理が不明のまま。ゼロだったものに金つけるわけだから、相当なんか…。誰が見ても「それは必要だね!」っていう話に仕上がらないと、それが突破できたのか、きちんと研究的にも調べたけど、わかってないのね、僕らも。でも彼がやったんだってことはみんな知ってる。[01:10:27]

篠原:なんていうかたなんですか、それ?

末安:林さんって人。

篠原:林さん。それはえっと、元松沢の看護師だけど、事務に。

末安:松沢の看護にいて事務に行った人。

篠原:その時課長だったかたなんですか?

末安:いや、違う。その人は係員。

篠原:あ、係員。

末安:でも彼が起案したということは、記録上残ってる。

篠原:ああ、なるほど。

末安:でもそれが、なぜ課を通ったのかとか、部長の決済が得られたのか、とかっていうところを調べたら、その時課長だった人に聞いてもわかんなかった。

篠原:なるほど。

末安:いや、それは、「そういうことがあったな」ということは言ってくれたけど。
 先に議会に行ってまわしたのかとも思ったけど、そういうことができるタイプの人じゃないんだよね。僕もそんなに深く知り合ったわけじゃないけど。なんか政治的なことをやる感じの人じゃないんだよね。家族会が当時力を持ってたかっていうとそんなこともないと思うんで。家族会の人たち、当時の人はもういないんだけど、当時の人を知ってる人たちに聞いても、その「林さんって人がやってくれた」って話だけが残ってて。それは、家族会が希望してたけど別にそこに要請書があるかっていうとなかったりして。謎がまだけっこうあるんだけど。もう今となってはこれ以上調べられない。
 で、林さんが亡くなったあとにこれやってたもんだから、当時の書き物がね、残ってんじゃないのかと。奥さんにお尋ねしたら二箱ぐらい段ボールの資料があったけど、亡くなった時に処分したと言われた。そこの中になんらかも記録があったかもしれないけど、まあ今となってはどうしようもない。
 話を戻すと、労働組合にもできることがあるんじゃないかっていう観点でやってたんだね、僕たち。それは、ワーカーが医療制度や療養環境についても労働組合の課題だって言い始めたことに刺激されて。それから、さっき言ったように、自治体病院の中では処遇改善闘争でも、職員だけではなくて患者さんの処遇をやっていこうという運動方針があったからそれと一緒になって取り組んだ。入院患者の全患者調査っていうのはまだどこもやってなかった時代だ。その時の労働組合の話をもう一つだけすると、病院と地域が分断されてるという考え方。それで、まず代々松沢病院って東大の医学部精神医学教室の分院みたいな存在だったわけだけど。出自がそういうふうになってるから、たとえばよく名前出てくる呉秀三先生の時代から東大の教授出身者が院長になっていた。東大の精神医学教室が、全面的に引き受けて、松沢病院を運営するみたいなところがあったわけ。院長と教授が兼任するみたいな時代背景があるから。そのあと、必ずしも東大の出身じゃない人が院長になっていくんだけど。
 60年安保、70年安保の時の流れの中で医療改革、さっき吉浜さんが言ってたような改革派の精神科医たちの活動の影響を受けて、松沢病院の医局の中にもそういう先生がいらした。けど、そういう人たちはなかなか偉くはなれない。保守派と改革派の溝は大きかった。
 その対立は組合にも影響して、医者が組合執行委員会の選挙に出て執行部入りしたりした。労働組合をコントロールしようとしているのかなっていう時期もあった。医師は病棟担当医として自分の病棟の看護師さんたちに投票してって言えるじゃないですか。だから、選挙でも入ってくる。入ってきて、そういう人たちと、医療の質をよくしていこうなんて団体交渉とかで出す。そしたら労働組合の役割は労働者の雇用の確保と労働上条件を向上させて、労働者の立場を、身分を守るための闘争をやるのが本筋で患者の処遇改善などの医療の質に関することを団体交渉の議題にするっていうのはそぐわないって言いだす医師もいた。医療の質に関しては管理運営事項だと病院管理者と足並みそろえてどっちの味方かわからない態度をとる人もいた。で、その時に内部で話し合いをすると、そういう管理者の意向を受けて来た人とか、ある運動団体系のところに所属してるような人や一部の政党の人たちが、その立場はぜんぜん違うのにもかかわらず徒党を組んで、医療条件を改善しようということを組合の課題としている執行部の考えを否定したり。内部での混乱は記録には残せてないけど葛藤があった。
 だから、医療の質を考えていこうとするとまず内部で戦わなきゃいけないという状況が次に起こったっていうことがあったね。[01:18:11]

篠原:執行部の中のその比率っていうか、看護職どれくらいだいたいとか、ワーカーだいたいどれくらいとか、医師がだいたいどれぐらいとか、そういうのってあったんですか?

末安:割合はなくて、要するに組合員であれば立候補できる権利があるから、それによって毎年ちょっとずつ変わるっていう感じ。執行部三役っていって、委員長・副委員長・書記長(会計も重要ポスト)をいかに獲るかっていうことが最重要。
 最初はずっとやってきてくれたワーカーで高橋一さんって人がいるんだけど、その高橋さんってPSW協会の理事長にもなった伝説の人なんだけど、最初は選挙負け続けて。一番早くから医療の質のことをやってた人なんだけど、高橋さんが選挙で負けるから、高橋さんをいかに当選させるか、委員長にさせるかっていうのが、いわゆる改革派っていわれた人たちのテーマであった時期があった。ワーカーで、やっぱり直接的にすごくはっきり言うし、医者にも看護師にも、間違ってることやってるとズバッと言うんだよね。これはおかしいとか、あるいはそれは医者としてどうなんだとかね。普通は言えないよね。僕らも、そりゃぁやんわりとは言うけどね。いや、これ、この薬の使い方はどうなんですか?みたいなことは言うけど、この患者を退院させない理由は本当は何なんですか?っていうのを乗り込んできて言ったりするからね。だからそれは、医者からすればね、脅かされるじゃない。
 そういう人がいて切り開いてくれたから、僕らがそのあとで、全患者調査みたいなことをやったりとか、それからさっきのなぜ病室にはクーラーがないんだ、職員のとこだけなぜついてるんだみたいな話とかを正攻法でやれたのはその人たちがいてくれたから。[01:20:22]

長谷川:けっこう労働組合長いですよね、その松沢で。

末安:僕、いる間ずっとやってたよ。長いっていうのは? 労働組合の存在?

長谷川:うん。も、長いし、執行委員長かなんかやってらっしゃらなかった? 役職というか。

末安:ああ、そうですね。

長谷川:それはやっぱり、末安さん、内部で同じ労働組合だけど、内部で末安さんのやり方を批判するようなことがあった? されることがあったんですか?

末安:それはもちろんあった。あったし、委員長選挙、共産党の人と戦った時もあればときには改革派を自認してる医者と争うっていうこともあったけど。
 まあ、そういうとこで精神科医、その東京地業研っていうとこで民間の先生がたとも知り合ったけど、その松沢病院にいた50人くらいの医者が常にいるから。50人くらいの医者とそれぞれに付き合ってて、東大出身の医師が多くて他の…といっても国立の。今はそんなことない、いろんなとこ、私学からも来るけど、国立系の大学出てくるような人たち。たとえば、九大とか熊本大学、信州大学とか。ルートがあるわけだよね。そういう、小なりといえども学閥みたいのがあって、その先生がたとそれぞれどういうふうに付き合っていくのかって、その大学の医局がどういう性格なのかっていうことがまだよくわからない時ね、ほんとは人対人でやれるはずだけど、やっぱりなんかその人の背景になってることとか、それから誰とどんなことを話し合ってるのかみたいなこと。医局の中のことはわからないじゃない。
 まあ、医者との闘いというか、よい療養環境をめざそうっていうよりは賃金が上がって休みが増えることが一番大事なことよって思ってる人のほうが数は圧倒的に多い。精神科を希望して就職してるって人ももちろんいるけど、僕の感触としては、そうだなあ…当時500人くらいの看護職員で、まあ2割くらいの人たちが先導してくれていたような実感だね、実感としてはね。1病棟に2人か3人。で、32個病棟があったから50人は超えると思うんだけど、一人ずつ話し合おうとしていたけどね。
 一時期は、その日本精神科看護協会、日精看の会員の数が百人くらいいる病院だったんだけど。だから職員の半分近くは何らかの職能団体に所属してたっていうようなのはあったけど、僕が入った頃はもう日精看は何十人とかだったもん。「何十人ってどういうこと?」みたいな。でも職能団体は知らないから、その時点では。で、たまたま僕が勤めた病棟に、病院で、その日精看のお世話をしてる人がいたの。幹事(01:24:11)っていうんだけど。その幹事やってた佐藤ノリさんていう秋田県出身の看護師さんが「あんたも勉強しなきゃだめよ」って言って勧誘された。入りなさいって。僕はその時に、もう昔、何百人もいたっていうので、今はもう何十人しかいないみたいなことを知らなくて、みんな入るもんだと思って入ったら、自分の病棟では最初はその人と僕しかいなかったの。でもそれが始まりだね、日精看との付き合いの。だから、声かけられなかったらわかんなかったと思うな。だって説明なんかされないもん。日看協が組織率すごく高い、70万人超えなのは就職の時に、もうオリエンテーションの書類の中に日看協の加入用の用紙が入っていて、もうそれに自動的にサインさせたりする病院が多いんです。給料天引きのサインと捺印。[01:25:15]

長谷川:じゃみんな日看協は入っているけれども、日精看のほうはそういうのはないから。

末安:今でもね、日精看にうちの病院に勤めたら日精看に絶対入りなさいって言ってくれてるところもあるし、日精看か日看協のどっちかに入りなさいと、職能団体に所属しなさいというふうにやってくれてるところもある。あるけど職業人として職能団体に入るべきだというようなことを管理者が意識してないとこのほうが、精神科では多いと思う。そうでないと、さっきの佐藤さんのように幹事と呼ばれる人が熱心で、入って来た人に声かけるかにかかっている。
 組合活動をはじめて何年か経って、7年目くらいかな、このままじゃだめだなということに気づいた。組合も大事だけど、組合だけで何とかしようとするんじゃなくて職域とか職能のことも考えないとって話になった。職能団体のことはほとんど知らなかったから。松沢病院の組織があって、東京都の組織があって、で上部団体として全国組織があって。そういうこともわからなかった権力構造とか管理体制とか。そういうこともだんだんとわかってきて、組合と同じで数の力、じゃあまずこの病院の参加者も増えないと力にならない、医療の質のことまで考えることはできないじゃないかと思って母集団を増やさなきゃってまるで組合的な発想になっちゃうんだけど、病院の日精看の集まりというのを作ることにした。そういうことは他の病院でもやっているということはあとから知るんだけど、当時のお金で全国の会費に+して500円、年に1回集めて、病院で研修をやった。当時、研修っていうと外部に行かないといけないから自分たちの望むものを病院でもやろうということにした。仕事が忙しくて外に行けないから病院でやれば行けるじゃないって声をかけて。作家の沢木耕太郎さんに来てもらったりした。「記録」をテーマにして話してくれって頼んで来てもらった。当時のお金で2万円を払って、その夜その2万円でおごってもらったんですけど(笑)。あの人、歩いて来たんじゃないかな。世田谷に事務所があるから。そういうことをやって職員の関心を高めていった。
 なにかを成し遂げるには、話し合う。そのことを抜きにはお互い理解できない。理解し合わなきゃいけないけど、理解し合うための前提条件がある。だから日看協の役員とかやるようになったのも、最初から看護師の地位向上、権利要求をしようって作戦があったわけじゃなくてそのことから始めるしかないってことです。組織はなにを目指しているのかをその人らと語り合って知ることから。なんで男を無視するのよとか。僕、別に自分が男性性が強いっていうようにそんな思ってないけど、要するに差別のきっかけは人の生活場面にいくらでもあるって考えてるから。だからこそ生活を共にしないと、言えないんじゃないかっていうことかな。
 今でも僕、地域で、松沢病院に勤務してるとき、当時、世田谷人口70万かけるくらいだったと思うけど、精神科の作業所が一個しかなかったんです。今は50か所近くあるはず。もちろん訪問看護ステーションというのも世の中にない、制度そのものがない。で、作業所一個しかないから、で、そこがちょっと離れた、烏山病院って昭和大学医学部付属病院烏山病院のそばに家族会の人たちが作った作業所があった。他の病院の人が行ってもいいんだけど、わざわざ行かないよね。[01:30:12]
 それで、松沢病院の、さっき何が起こってるのかをちゃんと調べなきゃいけないって全患者調査をやったけど、それともう一つ別に、松沢の外来調査っていうのもやった。さっき東大の分院的って言ったけど、松沢病院って全国の重症度の高い患者さんが紹介で来ていた。オールジャパンの、都立松沢病院だけど精神科のナショナルセンターの病院って院長などは言っていたこともある。紹介患者がけっこう多い。都立だし、紹介患者の来る病院だということで、患者さんは全国にいる、都内全域みたいな構えがあったんですけど、調べたら6割近くの患者さんが、松沢病院って世田谷区にあって、敷地の東側が京王線の電車が走ってて、この京王線の向こう側は、杉並区なんですよ。わかりやすく言うとね、京王線の下りで、たとえば自殺があると、成城警察が来るんですよ。世田谷から。で、上りで事故が起きる、飛び込みがあると、高井戸警察って杉並の警察が来るんですよ。同じ駅なんだけど。っていうような区境にあって、杉並と世田谷で患者さんの6割近く。だからさ、もうローカルな病院なんですよ。確かに紹介患者さんは全国、全都から来てるかもしれないけど、でも基本は地域病院だと。「大病院で重症の患者さんをとる」って言ってるけど、都内全部から来てるわけじゃなくて実際にはこのへんの人たちの病院じゃないかって言って。今では訪問看護室のスタッフも大幅増員して地域展開する病院になっていくんだけど、当時はもちろん制度的にも訪問看護ステーションもないし、精神科の訪問看護料の設定もない時代だから、地域の病院で地域の患者さんを支えるって言ってるのは、もうワーカー室の5人だけだった。
 そのワーカーたちが僕らをけっこうたきつけて、現場を。僕らも先輩方も訪問活動をしていた。僕が現場に入った時は、時間内で日勤で行くっていう時ももちろんあったけど、準夜の前にちょっとなんとさんちに寄ってきたよって言って、こうだったから大丈夫だ、あれはもうって報告していた。なんとかさん、外来来てないらしいけど、この前の深夜明けによったらもう大丈夫、大丈夫とかっていう話が普通になされていた。心配な人の話が出ると、じゃあ、私帰り、家近いから寄ってみるわとかっていうのがね、本当に自然に行われていた。自分の時間で様子見に行くっていうのをやってた。それは、ワーカーたちは、日勤業務だから業務としてやるけど、看護は日勤者数少なかったりするからあんまり出れないっていうところをカバーしていたと思う。もちろんタイトな入院病棟や慢性人手不足の病棟は難しかったけど。
 その頃は、交通費がどうのとかね、そこで何か起きたらどうするのかとかね、そういうことはね、話題になってなかったね。だから僕たち、僕が言うその、最初に勤務した病棟で、ある時躁鬱病の人が退院して、家に火つけて死ぬぞみたいなことを言ってきたことがあって。わりと自転車で行けるくらいの範囲、歩いては行けないなっていうとこにある人で、Nさんまた言ってるよ。どうする?とかって職員で話題にしていた。いや、またそのうちおさまるよ、みたいなこと言ってた時があった。そしたらその人がほんとに家に火つけて死んだっていう事件があってね、みなですんごいショック受けた。また言ってるよって甘い見通しを語り合っていたからね。僕もその人の家行ったことあったんだけど、その話題、そういうふうに言ってたときに、それに乗っちゃっていた自分がいたからね。すごく後悔してる、今でも。僕だけじゃなくてもう病棟中が後悔してた。僕はその一件だけだけど、そういうことになったのは。だけど、先輩たちはやっぱりそういう痛い目にあってんだな、たぶんね。だからそういう文化があったんだなと思ってる。でも、僕がいる間にだんだんに管理側からの締め付けが厳しくなってね、時間外に患者と付き合うなというようなことが言われたりして、だんだんに変わってっいったね。もちろん職員の側の意識の変化もあったと思う。[01:36:04]
 この話は立命の博士課程にいるときに立岩さんと話してた、そのこともテーマの一つにしたかった。薬がまだないとき、精神病院がまだ全国の隅々にまでできていないときの看護師への聞き取り。20年位前のこと、当時70歳後半、80歳越えの人たち。もう亡くなった方も少なくない。その話の中からは患者さんと最初は病院の中で出会うけど、地域で暮らし始めても付き合うっていうようなことは、わりと普通にあった。仕事っていうんじゃないんだな。もう知り合っちゃったから、その人たちに関わらざるをえないっていうか、そういうことを言う人が多かった。まだ一つの県に病院が2つか3つしかないような時代。
 熊本県の玉名の病院の方に聞いた話で、夏に暑くてクーラーもない時代の話。第二次大戦のちょっと前とかちょっと後、食料もなくてみんなすごく大変だった時期にね、夏に暑いから、今日ほんとに暑いから、みんなで川行こうって。みんなでっていうのは病院中の患者さんで、隔離室の患者も出して一緒に川に行っていた。いちおう外出の名目は洗濯だって、洗濯機もない時代。きれいにさせたいからって、みんなにね。そしたら医者もいいんじゃないかって言って賛成しその病院中、ほんとに病院中の患者さんを連れて行って、水浴びしたりね、洗濯する人もいる。女の患者さんたちはもうほんとにきちっと洗濯してたって。これが普通だったって。私は隔離室の患者さんもですか?連れて行ったら、逃げられちゃうこととかって考えてなかったんですか?って聞きたら、その方が言うには自分の記憶では一回も逃げられたことはない。で、それはやっぱりその瞬間は…あ、そういえば離院についてはそれ以外のときには脱走って言ってたけど、脱走する患者はいたと。だけど、そうやって自分たちが困る、看護者が困るようなことは患者さんはしないんだと言っていた。ああ、そういうふうに受け止めて、こう…。今よりももちろん人員は限られた人数でやっていたときにね、それにその方は戦争の末期に看護婦になったんだけど、2年コースのところを半年で卒業して免許もらったといっていた。だから自分は半人前で、患者さんに育ててもらったから、その恩返しで看護師してるんだって言っていた。
 このようなことは広い意味でね医療の質を現わしていると思う。質っていうとなんかクオリティーみたく別物になってしまうけど、限られた条件の中で何ができるか、最善の行為はなにかということだと思う…。病院の中で先輩たちがやってきたことの中でけっこうこういうことはあったなと思う。もちろん逆にそれは聞き捨てならない話もいくつもあったけど、それだけじゃないんだ。精神病になって入院しているけど、本当は精神病じゃないかもしれないけど精神病だって言われている人とかも含めて、この人たちに自分らがここで何ができるのかっていうことを考えていた人たちがいた。だから精神病院の看護者の人たち、諦めないで仕事を続けられる人が多いんじゃないかって思う。[01:40:28]

長谷川:かなり変わってきたんじゃないですか、そしたら。いる間でも、「看護観」っていうんですかね、わかんないですけどそういうのが、環境も含めて。

末安:臨床体験では個のかかわりだけではなくて組織的にはけっこうやれることがあるっていうことは学んだ。だからクーラーをつけることで言えば、病院管理者の人たちは、民間病院とそこは違うとこだけど、管理者に自分たちには権限がないって言うところ。じゃあ権限のあるとこと話すればいいのかっていう話になる。民間病院の先生方は、さっき吉浜さん患者のための病院だって言ってたって言うけど、でもなかにはその心の奥には私利私欲っていうか、経営者である医者とその一族の人たちの利益のほとんどが注ぎ込まれてる病院もある。今だと病院の経営を公開してると思いたいが、民間病院でも医師の給料がすごい低く公表されているときもある。経営者としての医者の給料。だけどね、自分の所有する土地建物を病院に貸していて家賃としての収入になっているときもある。それは給与ではないと。あるいは法人の収入にするとか。その法人の所有者は誰か、税法上は問題のない方法でやっているというのは一部の社会福祉法人の経営においても指摘されている。それに気づけないと。みなさんもご存知でしょうけど、九州の精神科医療従事者の賃金、全国の精神科の民間の平均賃金に比べて全体的に低い。だけど、人口比での精神科ベッド数は九州は高い。いうまでもないけど九州だけ診療報酬が低いということはない。収益は全国同率水準。
 これでは九州だけではなくて公務員の病院に転職する人が後を絶たない。せっかく育てたのに横取りされるという看護部長の声は今でも連綿と続いている。精神科で働きたいっていうだけなら、どういう病院で働きたいかっていうのは一つの基準になってるけど、給与が基準の人だっている。そしたら魅力があっても民間の精神科は選ばれない。それはどういうことが背景になってるか、そんなこと考えないから。だから精神科で働き続けるなら、収入のこと考えると公立に行くしかないと。
 僕は2021年3月まで岩手県にいたけど、いまだに岩手県で一番、二番って言われてるような、内容もお給料も職員の待遇もちゃんと良いって言われてる病院でも、あるとき公立の精神科で人を大量にとるっていう事態が発生したときに、その今言った病院から10人近く辞めてった。看護部長はすごく怒ってた。それも中堅どころ抜かれていったから。でも行った人たちにしてみれば給与格差は歴然とあるって。今の時代でもね。お金がすべてじゃないとは言ってもやっぱり生活のこと考えたり、子育てとか考えるとね。職場が遠くなっても、給料高ければそっち行っちゃうっていう。病院にしてみれば、病院を新築した費用を払わないといけないから、その確保が必要。支払える限度を払っている。他の民間病院に比べればこんなに良いじゃないかと話している。[01:45:40]

長谷川:それは、それはというか、末安さんは日看協から「男性看護師について書いてくれ」って言われたのとか、その「日看協の役員やってくれ」みたいな話があったけども、活動としては日精看のほうが長いですよね?

末安:それはね、日看協のことやっていて、さっき言った小川くん、僕は病院を13年目に辞めるんだけど、そのあとに一度国会で働いていた。その時にも看護師としての職能団体の活動はしていたけど、正確には病院時代から日看協とのかかわりがあってそのなかで精神科への視線に対して不全感があった。日看協、労働組合、あと地域の精神障害者の住居、仕事場の確保の活動とやっていて、その三つだけではなんかやっぱり、なんか、なんて言ったらいいのか本気で精神科医療のことを取り組まないといけないと感じるようなことが見えてくればくるほど、何を主軸にして考えていったらいいのかということを考えるようになった。
 それから、学生時代からの毎週水曜日の夜に集まっていた東京地業研。いろんな病院で、福祉事務所、保健所とかの人もいたけど、立場が違う中でも同じ方向を見るっていうことができるっていうのを経験していた。その一方で、同じ立場の看護師たちがみんな同じ方向かっていったらよいと思うけどそんなことはなかなかない。一緒に考えて欲しいことがあってもあんまり関心がないっていうか。それはどうしてったらいいのかっていうことを考えざる得なくなっていった。吉浜さん流に言えば、民間病院の劣悪な条件をいかに改善していくのか。そのことによって次のステップ、医療の改革をするのにはまず職場を得ること、生活を安定させること。民間の中でずっとやってきた人たちの意識の中にはそれが基本にあると思う。だけど僕は、そういう意味では公立病院にいて、賃金闘争の部分はまあ組織の上層部が交渉権をもってやってくれていたわけだよね、病院単体ではなくて。だけどわれわれは末端にいるんだから、末端から自分たちのこと考えるっていうか、自分たちが目の前にいる患者さんのことを考えていくべきだっていうふうに自信をもっていた、でも周囲を巻き込めていたかというとそれはなかなか手応えがなかったんだよね。
 さっき吉浜さんが「保健師受けられないのを裁判闘争にしようって言った先生がいるって言ったじゃないですか、その宮崎さんはのちに日精看の専務理事になった。僕とか吉浜さんの代の連中とか、僕たちより一期上の連中とか、僕は松沢看護専門学校ができてから4期生ですけど。だから3期生、4期生、5期生ぐらいの時に、リクルートしてきたの。手伝えって、それで日精看の役員をやり始めた。
 やり始めてちょっと肝が座ってきたのは、2001年にニューヨークで貿易センタービルの崩壊があった、崩壊じゃないね、破壊された。その時に、今みたいに…ちょうど10年後が東北の震災になるんだけど、まだあんまり国境を越えていろんな支援するっていうとJICA(ジャイカ)の活動くらいでボランタリーな感じで支援をするっていうことはかなり個人的な活動だった頃。組織的にはまだまだなくて緊急援助隊の組織ができ始めたころでしょう。日本からも救援活動に行くといったけど、やっぱり行かないことになった。だけど日本人もけっこう巻き込まれているし、援助隊はいけないけど実はもうその時点でも家族が飛んでっていっていることが報道されていた、ニューヨークに。だから日本人は行ってんのになんで日本人の救援は行けないのか、ブッシュが来るなといったとか、まだテロがあるかもって危険すぎるからということが名目になっていた。
 でも日本人のその家族の人たちの苦境が報道されいて、その人たちになにかできることはないのか…。日本人の人たちに。あのビルの中に入って行くじゃなくてもできることがあるはずだ。だけど来るなって言われたからそこで止まっている。でビル崩壊現場から人を探し出す救助犬ね、救助犬協会なのかな、公的組織ではなかったと思うNPOになるのか。救助犬協会も瓦礫で活動できると、大変だから助けなきゃって言っていて行くと決めたと報道されていた。じゃぁわれわれは家族の人たちのケアに行こうと決めた。それから生き残った、逃げて生き残った人たちの支援にも行こうっていうのを決めて、行ったんですよ。僕ともう一人、大森さんという男性看護師(01:53:01)とふたりで。
 行ったらね、領事館だったか公使館だったけど精神科医がもう来ているからそんな援助はいらないって言われた。で、精神科医は何しているか聞いたら困った連絡が来たら相談にのるって言ったから、貿易センタービルにいて生きのびた日系企業は業務を早く再開しろと言われて、事務所を借りて、パソコンを買い集めて再開に向けてガンガン準備してる、行方不明者を探したくても探せなくて、悲しんでいる余裕もない。同僚が見つかっていないのにとか。こりゃ駄目だと思って、日本人コミニティのケーブルテレビの取材を受けていたからビルにいたけど助かった人たち、それから行方不明者の家族に必要なことがあったら相談に乗るしできることをなんでもします、というようなことを話した。ケーブルテレビが流してくれたら、依頼がたくさん来た。うちの駐在員の話を聞いてやってくれとか。現地採用のアメリカ人スタッフにはカウンセラーが訪ねてきていたり、どんなシステムかはわからないけど、その人たちには公的なカウンセラーが来たり、カウンセリングが必要ないかって連絡が来ている。でも日本人にはそういうものはない。だから僕らは頼まれれば地理不案内な中、企業の仮事務所みたいなところにも行って、何かあったら連絡くださいと訪問もした。そしたら日本から派遣で行っていて、自分は大丈夫だった。でも隣にいた同僚は見つかっていないとか、その同僚の家族とはどうつき合ったらいいのかとか、あと、日本の本店からできるだけ早く業務を再開しろと言ってきている。一生懸命みんなやっている、パソコンを市内で調達できないから隣の州まで探しに行っている。東京からそれを遅い、とかって言われたから、気づいたらその電話機を壁にぶん投げて壊したんだけど、自分はおかしくなってますか?とかって言われたから、それは正常な反応です、怒鳴り返せない関係だとしても怒りは爆発させてもよいし、電話機はまた買えばいいからいいんですからっていうような話とか。
 やはりそばで話を聞くっていうことの重要性。何かこっちが代わりにやることはできないけど、話を聞く存在としてそこにいるっていうこと。直感的に行ったんだけど。
 あとね、僕が、日精看がそのときに頼りになるなと思ったのは、政府がアメリカが来るなって言うときに行った。実は僕たちと救助犬協会が行くのはね、朝日新聞が取り上げてくれた。別に売り込んだわけじゃないよ。要するに向こうもこんなときに救助隊、なぜ行かないんだっていうのをその時疑問に思って調べてたからだと思うんだけど、掲載された。そしたら僕がいない間に、もう行っちゃっていない間に協会に厚労省から電話なんて滅多にかかって来ないのに、なんで行ったんだ、誰が行ったんだって質問もされた。帰ってきたら厚労省に呼ばれたので、今みたいな話しをしたら、いや、それはいいことをしてくれたんだって手のひら返しの対応だった。けど、なんで行ったんだ!って電話かけてきたんじゃないのか? みたいな気持ちになったけどね。そんなやり取りがある中で日精看の仕事をきちんとやろうとだんだんに思っていたのに、決定打があった。それは頼んでないのに、会員の現場の人たちが日本からわざわざ危険かもしれないとこ行ってやってくれるんだったら応援してやんなきゃとかって言って、カンパを集めてくれた。これを使ってやってくれみたいな。日精看は災害が起きるとカンパを求めることあるんですけど、それは被災者向けだけど、活動の後押し的カンパはその時がはじめてじゃないか。組織的に。そういうことを頼んでないのにやってくれる人たちがいるのは心強い。仲間でね。それは多くの人がとは言えないかもしれないけど、でもそういう人たちがいて、ああ、やっぱり捨てたもんじゃないなって感じた。別に頼まれてないけど行っちゃうようなことでも、社会的な有用性があればそれを支持するっていう。これはまだいろいろ期待できることがあって、一緒にやれることがあるんじゃないかとかね。そういうところですね。ま、教えられたわけですね、こっちがね。[01:57:49]

長谷川:そう。日看協だと看護師のその、なんていうか、集まりというか…。だけどもこっちの日精看のほうだと、職種も含めていろんな人たちがいてそこで取り組めるっていうところある?

末安:そうね、日精看の地域の会員は民間病院所属がやっぱり圧倒的に、9割くらいは民間病院の人たちだから、お給料安いじゃないですか。給料安くても、自分の勤められるところが精神科しかないっていう感じの人もいると思うけど、それだけじゃない、精神科の仕事が大事なんだって思ってやってる人もいて、さまざまな人がいる。さまざまな人がいるのにも関わらず、あんまり守られてる感じがしていない。精神科で、経営者との問題とか賃金の問題とか抱えるとね。守られていないかもしれないけど、自分たちがやるべきことがあるんじゃないかと感じてる人もいるということがわかった出来事でもあって、この人たちと一緒になってできることがあるんじゃないかっていう手ごたえを感じた。

長谷川:一方で、その抱えてる課題というか、目に見えて取り組まなきゃいけないものって、看護の領域の課題でもあるわけじゃないですか。それはその日看協に対してなんかそういうところはあるんですか? 「こういうこともうちょっと取り組んでほしい」とか「取り組まなきゃいけないんだ」とか。

末安:すごく簡単に言えば、日看協は精神科のことあんまり考えてないからね、ひとことで言っちゃうとね。だから僕らは僕らでプロパーだから、精神科のこと考えていかないといけない、場合によっては日看協と一緒になってやんなきゃいけないこともあるけど、むしろ日看協に頼まなくてもいいこともある。

長谷川:なんかそこは、切り離すというか。

末安:だって、日看協の会長、精神科出身の人がなった時代もあるんですけど、じゃあその時に精神科のことにすごく取り組んだかというとそんなことなくて。看護の養成を大学化するということがまず医師に近づく第一歩である、みたいな。そういう言葉は使ってないけど、発想としてはそうことを課題としていた。それは、僕は自分のテーマじゃないしね。僕はあんまり教育の大学化ということに関心がない。むしろ、日本の精神科領域の問題も国際比較でわかることが多いように、看護師の仕事も日本の資格制度を海外と比較してみたらよいと思う。資格制度の中で、よく言えば、守られてる、悪く言えば他職種との分業と言いながら業務を選別しているしね。だけど、国によっては看護師の国家試験がない国すらある。要するにそれは、学校が信用されているってことだよね。学校がちゃんと質を維持している。適材養成のフィルターとして機能しているっていうことだと思う、養成に関する責任は教育の側にある。僕は日本がそうなればいいってことを言いたいんじゃなくて、「何をすることが看護師としての仕事の意味であり、意義なのかっていうことを考えてみる必要がある。

長谷川:なんか不思議ですけど、やっぱり看護師ではない者から見ると、そのまず2つあるっていうのがまあまあ不思議じゃないですか。もう一つは、やっぱり「同じ看護師でしょ?」って思っちゃうんですよ。精神科の看護も一般科の看護まででしょって思っちゃうから、その運動の方向、ベクトルというかな、が違うっていうことが、すごくなんていうか、興味深いし、「それはなんでだろう?」って疑問はやっぱり思うし。ただその精神科のほうだけを見ると、すごくその「精神科の看護」っていうのが、なんだろうな、もう少し幅広いというか、一緒に取り組んでいるものが看護だけじゃないじゃないですか、単純に言って。だけど一般のほうを見るとそうでもなくて、やっぱり「看護」なんですよね。で、それがなんか、ちょっと違和感があるというか。「精神科」と「一般」って、違うのはわかるんだけど、でも実際同じ資格を持った人たちがやってるじゃんっていうのはまあ、素朴な見方。だからそこの中のすごい面白さっていうか、なんかあって。で、精神科のほうがなんかその、なんだろう、すごくいろんな、組合とかも含めて運動とかも濃いじゃないですか。とくに当事者も含まれた運動とかもすごいやってきてるわけで。そういうのはなんか、面白いというか、ですけど、なんかそのみなさんのお話を聞いてて、たとえば末安さんだったら、自分が「看護師として」みたいなっていう、たとえばアイデンティティみたいなものっていうのが、あんまりなんか、そんなに看護看護してないなっていうのが、聞いてて思う素朴な感想ですけど。

末安:そうね。

長谷川:でも一番はじめに看護師になろうと思った時に、「男性だから」っていう話っていうのはすごく、入り口としては「看護師」じゃないですか。うん、なんかそこらへんがすごい面白いなと思って、聞いて。

末安:僕は看護の道に入ったのはけっこう偶然が大きいけど、看護っていう切り口だけで世の中を見るとなんだかとても理不尽だなと思うことが感じられて。就職の時にね、最初小児科に行こうとしてたから、当時、東京都立病院に小児科には男性看護師が一人もいなかった。

東京都の採用担当との面談で、前例がないって言われたんだよね。前例がないってそれはなんでなんですか?って聞いたら、「いや、前例がないってのは前例がないってことだよ」って。「来てる人がいないんだから。そういう理由なんだよ」って。「だからなんでですか?」ってすごい不毛なやりとりだったんだけど。その時に「じゃあ突き詰めていうと、前例になればいいってことですか?」って言ったら、「それは君の考えでしょ?」って。「君はそう言ってるけど、前例になるっていうことはそこに就職できるってことだから、それは就職できた時に言えることなんで」みたいなこと言われてね。「じゃあ、できればいいわけですか?」みたいな理不尽な堂々巡り(笑)。「男は小児科でとらないっていうことがどこに書いてあるんですか?」って言ったの。「いやそんなものはないよ」って。「そりゃ前例がないからそうなってるだけで」みたいなこと言って、「じゃあ前例になっちゃえばいいわけですね」って言ったら、「いやだから前例っていうのは!」みたいな(笑)。もうほんとにね、今でも思い出してもね。クリアに思い出せるけどね。そういう会話じゃないような会話してた。で、その時にね、「じゃあ前例になればいいんだ」と思って。僕は東邦大学の病院で実習したって言ったじゃない? で、同級生が二人、そこに男性で初めて採用されたって話したでしょ? その者たちも、あのね、ちょっとね、偏見入る…その者たちはね、すごい女性的なの。[02:06:24]

長谷川:ああー。

末安:言葉づかいとかも。で、気に入られてたよ、実習病院で。「かわいいわね」って言われててさ(笑)。僕も「東邦来い」ってその時言われてたんですけど、「小児科には就職させられない」って言われたから、僕は「どこか」じゃなくて小児科っていうところに手を挙げていたから、その就職の時点では。それで、今はなくなったんだけど母子保健院っていう小さな病院が世田谷にあって、出産と新生児のことと、それから乳児院があって、お母さんに渡せない、引き取れない子供さんたちをそのまま預かるのが母子保健院で世田谷にあったんですよ。そこで実習したから。その実習した時にね、印象深いことがあって。ある時実習してたら「ちょっと、ちょっと」って呼ばれて霊安室に連れて行かれてさ、婦長さんから。「このお子さん見て」って。亡くなってるんだけど。奇形なのね。で、ずいぶん奇形なの。「可哀想にね」って言って。僕それまでね、よくわかんなかった。「えー、わかりません」って。っていう出来事があったの。学校ではもちろん習ってないし。で、その婦長さんがまだいたのね。それで、「いや、東京都行ったらこう言われたんだけど」って。「じゃあうちでとってあげる、うちの部長に言ってあげるわ」とか言って、「そういえば、前から男の子欲しいって言ってたのよ」みたいなこと言われて、それでとってくれることになった。実際は精神科に行くものがあまりにも少ないっていうことで精神科行くことになるんだけど。

長谷川:そうですね。

末安:精神科に行こうっていうのは自分で先に決めたんじゃなくて、松沢病院に就職する男がその時一人しかいなくて。15人卒業するんだけど、その時一人しかいなかったんです。それで、いや、病院にすごいお世話になった、患者さんがたにね。僕は松沢に行くまで精神科の患者さん、精神科の病院があるっていうのはその時初めて知ったわけだし、ほかにもそう思う者がいて、「一人で行くのは嫌だよな」って決めてたやつが言うから「そうなん」とか言って、それで5人で就職することにした。

長谷川:そもそもその松沢の学校が定員40名なんでしょ? それマックスにはなるんですか?

末安:マックスになったことないと思うよ。

長谷川:やっぱないのか。

末安:ずっと。最大20人くらいじゃないのかな。全部きちんと見てないけど、統計。

長谷川:その20名とか、末安さん時で15名? みなさんはどこに行くんですか?

末安:精神科に行ったのはほかに3人くらいかな。だから半分ぐらいは精神科に行きました。

長谷川:で、半分くらいは一般のほうに?

末安:そうです。僕らの学年から上の代はね、一期生は3人か4人、5人かな。だけど僕らの代から15人になったんですよ。実際には試験にはもっといっぱい来てたから「なんで受けさせないのか」って言ってたよ。でも「それは成績で」っていうふうに学校側は言ってた。それはわからない、そこの真相は。でもまあ、教えられる許容範囲っていうか。40人・40人ていうのはね、教室二つ用意してあるんですよ。だけど55人だと、女の子40人入ってたから、55人だとね、一つの教室に入れるんです。めいっぱいになっても。だから僕たちは、一つの教室で管理するように考えてんじゃないのかって言ってた。でも担任が4人いて、2人ずつ1クラス持つようにいちおう編成はしてあるのね。だから、そのことと実際の運用がちょっと違っていた。[02:11:56]

長谷川:卒業したけど試験が受けられない人はもちろんいただろうし、そういうことですよね。

末安:そうです、そうです。国家試験落ちる者もいるし。

長谷川:可能性としては、その一般病棟にも、もちろんその時代でも所属できた人もいるってことですね、就職できた人もいる。

末安:そうです。

長谷川:でも割合としてはやっぱり精神科ってものが、そもそも相対的に見て精神科の人たちが少ないから、そこにっていうことで勧めれるってことですよね?

末安:そうそう。でも僕らの頃はもう男性もけっこう大学病院とか入ってて。手術室とか中央材料室とか、そういうとこに入ってました。それがまあ、「男性が一般科へ行く」ってときの、ある意味常識だった。

長谷川:なるほど、なるほど。

末安:ただ、全国的に見るともうけっこういましたよ。たとえば、東海大学なんかは僕らのときにも男性すごいとってました。東海大学は大学医学部付属病院では一番男性看護師が今でも多いと思う。看護部長にも男がなったでしょ、大学病院でそのときは唯一ね。今ではほかにもいる、京大病院とか。

長谷川:なるほど。

篠原:その当時、その松沢の看護学校の中のカリキュラムというか、教育過程の中でその「精神科の看護」っていうのは、枠としてはそれ単独であって、で、ほかの科と同じぐらいの割合で教育がされてたんですか? 時間的に。

末安:そうです。指定規則と同じ単位でやってたと思います。

篠原:ただ、実習が男子のほうが精神が長くて、女子のほうは短くてっていう違いはあった。

末安:そうです。だから女子が産科、婦人科実習に行く期間を、精神科実習に振り返る。だから精神科だけ2回行くってこと。

篠原:それ全国的に? 松沢だけがそうだった、

末安:いや、違います。日本中そうです。指定規則にそう書いてあったんです。

篠原:なるほど、そういうことなんですね。

阿部:私の年代でもそうでしたよ。

篠原:あ、ほんとですか? じゃあ長くそうだったんですね。

長谷川:えー、そうなんですか。

阿部:男子は4週間精神科実習。

末安:2週プラス2週。

阿部:そうそう。女子が母性行ってるあいだ男子はずっと精神科。

篠原:そうかそうか、なるほど。

長谷川:私のなんか印象的には精神科には男性の看護師さんが多く、かつ、看護部長さんとかやるのも精神科の場合は男性の人が多いなっていうイメージです。

阿部:今はどうなんでしょうね。

末安:今はだけど、卒業生で男の子で精神科に行くのが多いかといったらそんなことないよ。

篠原:そんなことないと思います。[02:15:03]

末安:ねえ。むしろ少ないよね?

篠原:卒業して、やっぱさっきの話と一緒ですけど、卒業して最初に精神科に行こうって人がまず、そもそも少ないのでそこでかなり比率としては少なくなるし、さらにそこに男性がどれくらい行くかって、かなり少ない。昔よりむしろ、精神科に最初に行く男性って少ないのかもしれない。選択肢が広がったぶん、精神科に偏るってことはあんまなくなってきている印象があります。

長谷川:なんかね、大学の時に活動家だった人たちっていうかさ、私たちの知り合いに多いよね、それで看護師やってる。男性の人が多いけど、その人たちのなんかバックボーンていうか、背景っていうのは、「看護師になりたい」とかじゃなくて、そもそもその精神科、たとえば、バイトしてただとか、そういう活動してたみたいな人がのちに看護師取ってやってるとか。

末安:そういう人たちもいるよね、一定の年齢層に。
長谷川:時間ですけど…。

桐原:部屋は大丈夫だけど、なんていうのかな、

長谷川:とてもじゃないけど、今日一日では聞けないですよね。議員の話までまだぜんぜんいってませんよ。

桐原:聞きたいこと自体はかなりあるんだけど、またせっかく京都に戻ってきたっていうか、京都に来られたので、お付き合いください、ということで、一回切るというかたちで。
あと、なんだろ。なんか食事しながらのほうがいろんなことが出てきたりとか、あのそのぶんテープ起こししたときに削んなきゃいけないことも増えるとは思うんですけども。そういうかたちででも、もしお付き合いいただければ嬉しいです。

末安:あれだよね、ほんと吉浜さんとね、ちょっと道が違うでしょ? 年齢はまあそれなりに近いけど。だから相互刺激されたほうがね。まあなんていうか、お互いに言ってないこともあるわけよ。

長谷川:まず私も、なんでそこ目指したのか聞いてないですもんね、今ね。長くなるとおっしゃって、そこが割愛されちゃったけど。すごく聞きたいとこですよね、そこね。

阿部:今日豚の話してましたね。琉球大学出て臨床検査技師になって。昨日はそのね、豚の血液の検査の話をずっと夜中聞いてて。

長谷川:そういうことをされてたってことですか?

阿部:うん、沖縄でね。「そういう道に進むはずだったんだよ」って言っておきながらなんでたまき病院に勤めた。

長谷川:みなさんも長いお付き合いなんだけどまだ知らないことが。

阿部:そう、そういう話は私も知らないな。断片的には知ってるけど、たまきで何やってたかとか、そもそも琉大時代にそういう活動っぽいことをやってたのかとか、だからたまきに行ったのかとか。島しげお先生とかとも接点あるから、その話を。

末安:島先生の話とかもね、ちゃんと聞いてみたい。こっちも聞いとかなきゃっていう。

長谷川:うん。なんか定期的に聞きたいですね。

阿部:吉浜先生は来年の春までは新潟だけど、これから忙しくなるって言ってましたね、秋学期ね。

末安:実習が始まるからね。だから、ちゃんとアポイントしてないけど、帰りまたうちに泊まれば、この時間をとるっていう。

阿部:週末とか、言えば来てくれますよね?

末安:そうだね、そうだね。

長谷川:そんなフットワークが軽い。

阿部:言えば来てくれると思うので。

長谷川:いや、ほんとに。その長くなる話聞きたいですよね、そこもね。気になってました、私。

阿部:沖縄はまたぜんぜん別の世界というか、それはそれで聞いとかないといけない。

長谷川:ちょっと聞いただけでも面白かったですもんね。

阿部:ちなみにさっき言っておられた島仲花枝さんの話を吉浜先生がまとめてるのが『精神看護』に載ってるので。2回ぐらいシリーズで。創刊号です、まだ。それを読んでくと、沖縄の精神医療、昔はこうだったんだなっていうのが。

長谷川:ちょっとそれ読みたいですね。

桐原:はい。じゃあ第1回ありがとうございました。またよろしくお願いします。

阿部:またゆっくりね。先生なんかある?もうないね、しょっちゅうしゃべってるもんね。