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末安民生氏・吉浜文洋氏インタビュー 1

2021/08/04 聞き手:阿部あかね・桐原尚之・篠原史生・舘澤謙蔵・長谷川唯・三宅美智
於:キャンパスプラザ京都 6階演習室<

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末安 民生・吉浜 文洋 i2021a インタビュー・1 2021/08/04 聞き手:阿部あかね桐原尚之・篠原史生・舘澤謙蔵長谷川唯・三宅美智 於:キャンパスプラザ京都 6階演習室
末安 民生・吉浜 文洋 i2021a インタビュー・2 2021/08/04 聞き手:阿部あかね桐原尚之・篠原史生・舘澤謙蔵長谷川唯・三宅美智 於:キャンパスプラザ京都 6階演習室

約140分
日時:2021年8月4日(水) 於 キャンパスプラザ京都 6階演習室
話し手※:末安民生(佛教大学保健医療技術学部看護学科)・吉浜文洋(新潟医療福祉大学看護学部看護学科)
聞き手※:阿部あかね(佛教大学保健医療技術学部看護学科)・桐原尚之(立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員)・篠原史生(立命館大学先端総合学術研究科博士課程後期課程)・舘澤謙蔵(立命館大学先端総合学術研究科博士課程後期課程)・長谷川唯(立命館大学生存学研究所客員研究員)・三宅美智(国立精神・神経医療研究センターリサーチフェロー)
※話し手・聞き手ともに2021年8月時点での所属。


長谷川:おはようございます。長谷川です。こんにちは。

三宅:はーい、どうもですー(ZOOMにて参加)。

長谷川:どうもですー。三宅さんとつなぐ前にこちら側の人の自己紹介をしました。

三宅:わかりました。

桐原:はい、えっと大変申し訳ございません。完全に時間失念してて遅れてしまいました。お忙しいとこありがとうございます。桐原といいます。立命の修了生で、だいたいみなさんとお会いするときは、精神障害の当事者で活動してる者としてお会いすることのほうが多いです。よろしくお願いします。

一同:よろしくお願いします。

長谷川:三宅さんもよかったら自己紹介。

桐原:あ、すいません、三宅さん、せっかくなので、自己紹介をお願いします。

三宅:はい。私はこないだ、インタビューをする側のかたたちとご挨拶して、今日参加されてる末安先生、吉浜先生、阿部先生とはもともと知り合いなのでよく知っております。私は今、国立精神神経医療研究センターで勤めていますけれども、バックグラウンドは看護で、末安先生、吉浜先生とは長く一緒に勉強させていただいている感じです。隔離や身体拘束に関する、精神科病院での隔離や身体拘束に関する研究を長くしております。よろしくお願いします。

一同:お願いします。

長谷川:実は先生がたはまだ。

桐原:自己紹介の流れで、そのままインタビューということで。

長谷川:はい。なんかさっき話をしてたのは、まあもうお時間があまりないということなんですけど、神出病院とか、という、委員会、身体拘束とかの委員会とか、そういうところにみなさん関心があるのかなというところで、その話をまず吉浜先生に聞いたらどうかなっていうような流れだったんですけど。

あべ:聞いたらというか、10時20分までですよね? 時間が制限があるんですよね? なので吉浜先生に聞いておきたいとか、あえて話題があるならばそこから入ったらいいかなと。

桐原:当初、末安さんに対するインタビューってことで用意してて。で、こういったかたちで吉浜さん参加されるってなって、どういうふうにインタビュー組み立てるかっていうことについては実は一旦リセットになってて。たぶん、せっかくおふたかたいらっしゃるんであれば、やっぱり日精看〔日本精神科看護技術協会〕の話とかを中心に聞ければいいのかなぐらいの感じでしかイメージはできてなかったんですけども。

長谷川:そうですね、日精看の話を聞きたいですね。

桐原:日精看で活動するようになったっていうのは年代的にはもう同じくらいの年代でしたか?

末安:僕のほうが先だな。日精看の役員としてはね。

吉浜:日精看中央の役員としては、遅いけど、沖縄県支部の役員もやっていた。

末安:卒業後の働く場所が別だったものね。

末安:で、僕は東京の松沢病院に就職して。それが昭和53年。都立松沢看護専門学校を53年卒業で、吉浜さんが54年卒。最初は、専門職能団体での活動でいうと、僕は日精看でなく日看協の政策委員会とか、介護保険ができる前だから介護保険の委員会に参加していた。今もあるけど社会経済委員会で、医療政策とか診療報酬をやっていた。だから、看護職能団体に関する事業のことで精神科のことはその時点ではやってない。職能団体的にはね。[00:05:50]

長谷川:政策的なことは。

末安:精神医療政策はやっていた。正確に言うと、病院の外に出てする活動は日看協の仕事が先で、なんでそれをやったかっていうと、日看協の活動で男性看護師の委員は周りにいなかったし、それから、精神科のことはぜんぜんというほど取り扱われていなかったから精神科の出身の者が委員になる必要があるということで委員をやるようになった。だからその時の意識としては、「精神科のためになんとかする」っていうよりは、「男性看護師の存在感を示す」とかっていう意識のほうが強かった。

長谷川:一番初めに、就職の時に言われたんですよね? その「男性だから」って。

末安:そう、東京都の公務員試験の面接の時。男性だから、職場の上司が全部女性だけど自分の意に反することを命令されたらどうする、と聞かれた。試されたんだと思う。といってもあんまり僕は「男性だから」とかっていうような強い意識があって看護師になろうとしたわけじゃないし、看護学校で勉強してる時にもそう意識していなかった。今は母性に関する実習もするけど、僕らの頃は、学科は習うけど実習はなかった。そして国家試験の出題も男性用、女性用って分かれていた。

長谷川:え!? そうだったんですね。

末安:ちなみに僕の看護師国家登録番号は2545番だけど、吉浜さんは何番?

吉浜:3006番。

末安:男女別の番号なんです。

長谷川:そうなんですね。

末安:これは、男性の看護師が看護、当時は「看護婦」だけど、そこに(士)として免許として認められるようになるためには、その数少ない先輩がたの政治的行動も含めていろんなご苦労があったりする。今日はそれはメインテーマじゃないから省略するけど。
 それで、僕が2545番で、「そうか、前に2544人しかいないのか」と思って、これじゃあ肩身狭いわけだよなっていうのがあった。ただ、学生の時に知ったけど、世界中には男性の看護師はけっこういて、その時にもうすでに助産師も男性がいるってことは知っていた。それで「いや、これはどうしてこういう狭い、許容量のない専門職の養成なんだろう」と学生同士でけっこう言ってた。
 僕らの看護学校はちょっと特殊で男性の定員があったんです。当時そこだけだったんです、「男性定員」「女性定員」ってあったのは。男性の入学はなんとなく認められてる学校がある一方で、認めてない学校もいっぱいあった。たとえば日赤なんかわりと最後まで、男性の入学を許してなかった。「そういう学生時代からだんだんに自分の置かれてる状況がわかってきた。
 精神科医療のことについての活動で最初に出会ったのは東京地業研っていう、藤沢敏雄先生(精神科医,1934〜200903)が代表だった東京地域医療業務研究会。業務というよりは対行政闘争をけっこうしていたグループがあって、そこに参加してた学生時代から。だから精神科の意識はそれはそれとしてあるんだけど、一方で看護師としての自分の男性性の意識みたいなこととかあって、卒業してすぐは紹介してくれる人があって看護協会の活動に参加した。[00:10:23]
 で、僕ちょっとその時にね、看護協会の活動に本腰入れる、実は今まで言ったことなかったけど、引き金になる事件があった。卒業して一年目に「男性として就職して、どうですか?」みたいなことを『月刊看護』って看護協会の機関紙から原稿依頼があって、書いた。書いて、その中で、男性の教員もいたんだけど、女性の教員たちの男性に対する扱い方が不当だ、不当っていう言葉は使ってないけど「公平に扱われてない」みたいな感じのことを書いた。で、ゲラがきて校正が終わったあとにその原稿がボツになるっていう事件があって。そのときに担当編集者は自分はよいと思うが・・・と歯切れが悪かった。直感的にこの人を責めても仕方のないことなんだって理解した。それで、「あ、そうか。男性はこの世界ではこういうふうに扱われてんだ」って自覚した。それは就職してからの実感でもあった。それで看護協会の政策委員の話とかがきた時に、これはやっぱり受けなきゃだめじゃないかと。まあ、ほんとは反発心もあったけど、受けなきゃいけないんじゃないかと思って受け始めたという経緯がある。きっかけはあのときの看護協会の原稿つぶし事件、その反動がけっこう大きかった。そうじゃなかったらもう最初から精神科的なことに走っていたと思う。[00:11:49]

長谷川:もともとあれですよね、精神科に就職希望ではなかったって。一般のね。

末安:そうです。僕は看護学校に入ろうとしたのが、大学に入って、法学部に入って、特別コースみたいなのに入ってガンガン詰め込みだったからもう嫌気がさした。僕はポリオ世代。当時中野に住んでいて近所に小児麻痺の人がいた。後で知ったんだけど「ポリオ生ワク闘争」が中野でも大きくあったそうだ。僕の一級下くらい、昭和30年、31年に生ワクチンがロシアから輸入された。今のコロナのワクチンとね、ちょっと一瞬重なったけど。ロシアにワクチンあるけど、資本主義勢力が買わなかったんだね、あえてね。だけどそれが入ってくるようになって、僕の2年ぐらいあとの世代、31年以降は、ポリオのワクチン受けてるんですね。で、小児麻痺は激減した。でも近所に松葉杖を使っている子がいた。子どもだから病気とか、障害の理由はわかってない。それで、そこになんかずっと思いがあった。「なんでその子たちが体育できないんだ」とか、「なんで登校する時に人の助けが必要になるんだ」とか、子供ながらに思っていた。
 そういうことがあって、「島田療育園」、そこしか知らなかったからそこへ行って就職したいんだけどって言ったら、あなた若いんだからもっと勉強してきなさいって諭された。今思えば、ほんとそれがはじまりです。ここにいる人はね、『准看護師さん』だよって。男の人もなれる。この人は…保母さん、作業療法士まだなかったけど、あの人は機能訓練をしている人だみたいなことをいろいろ説明してくれた。それで、あ、そうなのか。資格があったほうがいいんですか?って聞いた。そしたら、いや、資格がなくてもいいんだけど、あんたは若いんだから資格を取ってらっしゃいって。要するによく頭冷やしてこいってことだと思うんだけど、あとで思えばね。[00:14:13]

桐原:それは高校生の頃ですか?

末安:いや、それは大学2年。

桐原:あ、大学に入ってからそういうことがあったんですか。

末安:まあ、そう言われても、勉強して来いってもな、教えられたけど何勉強していいかわかんないじゃん。知識ないわけだから。今みたいにネットで調べるとかないわけ。でね、通学している途中でね求人広告、求人の張り紙だったけど、そこに正社員募集、アルバイトとかじゃなくて。もう大学やめようって決めてたからとりあえず就職して、頭冷やしてた。[00:15:00]
 翌年、東京都の広報を見ていたらそれに看護学校の募集が出てた。調べたんじゃなくて、偶然。それが都立松沢看護専門学校の紹介で、学費は無料、寮もあり、男子定員40人って書いてあったから、これかと思って受けたんです。
 僕はだから、まず看護学校はそういうスタートで。だから、なんか問題意識があって資格取ったんじゃなくて、その島田療育園さんに就職、島田療育園的なところに就職したいということがあって、看護学生になった。
 吉浜さんは? 俺とちょっと違うよね。

■吉浜

吉浜:男性の看護師なんて、まともに認められてない時代だったと思うよね。これまで男性の看護師ということで関心持たれたことある?

末安:ないと思う。

吉浜:だから今みたいな話ってのは…。いろいろ書いているけどそういうテーマで原稿頼まれたこともないし看護師になるまでの男性としての経験についてはほとんど、しゃべったこともなくて。
 だいたい今、当たり前のように、助産師は取れないけど男性も保健師は取れる。看護系の大卒、大学出ると看護師と保健師の両方の資格が取れるようになってるところが多いんだけども、われわれの時代は、看護師の資格があれば保健師学校の「受験資格はある」って言われてたから東京都立の保健師学校受けられると思っていた。ただ、保健師学校を卒業して国家試験となると「受験資格はない」と言われた。だから僕、教務に言われたのは、「保健師学校を受験しないか」と。女性の同級生に進学した人もいたのよね。もし、受験すれば男として初めて。で、保健師学校を卒業すれば「国家試験受けさせる・受けさせないということになって却下されるはずだから、そこで裁判闘争やろうじゃないか」と(笑)。

長谷川:ええーっ。

末安:それ教務が言ったの?

吉浜:うん、そうだよ。宮崎さんが。

末安:宮崎さん?

末安:ほんと。

桐原:宮崎さんというのは、教務のかた?

末安:精神科出身の男性教員がいたんですよ。

桐原:ふーん。

末安:宮崎さんっていう。宮崎さんと栗原さんっていう人がいたね。

吉浜:うん。宮崎さんは、のちに日精看の事務局長もやってたけど。

桐原:松沢看護専門学校の教員としていらっしゃった。

末安:そうです。

末安:2人とも男性。

吉浜:ほとんどそういうこと知られてなくて。卒業前に沖縄に帰って、琉球大学保健学部の外間先生に挨拶に行ってその話をしたら、彼女も「え? 男はそうなの?」みたいなこと言われたことがある。

末安:外間さん?

吉浜:うん。そう。

末安:外間さんもアメリカで教育受けてんだっけ?

吉浜:そうそう、あの人は、留学経験があったと思う。

末安:フルブライト? フルブライトじゃないんだっけ?

末安:外間さんっていうのは、日本の精神科看護の、いちおう二大巨頭という外口玉子先生っていう人と外間さん、外間何さんだっけ、その二人が最初に『精神科看護の展開』っていうものを日本に出したんですよ。

吉浜:(00:18:45)ぺプロウを日本に一番最初に紹介したのはあの二人なんだよね。外口さんだけが知られているけど。私が沖縄行って、落ち着いてそろそろ挨拶でも行こうかって思っていたらなんか…。「亡くなったよ」ということで・・・。

末安:なんで沖縄から来たんだっけ? 松沢、東京に。

吉浜:もうここは話せば長くなるから(笑)。

末安:いいじゃない、いちおう。

長谷川:うん、気になります。

吉浜:えっとね、末安さんは一つ先輩なんだよね。

末安:違う、学年がだよ。

長谷川:学年が。

吉浜:入学後聞いたいまだにまだ覚えてるすごいエピソードは、当時は男性と女性で教育にも違いがあった。国家試験が二つになってんのよ。男性用・女性用があるわけですよ。で、男性用は精神の問題が少し加わってるわけね。実習も、男子学生は、母性看護の実習をやらなくていい代わりに、精神の実習が少し多い、男性は。それで、都庁交渉に行ったっていうのよ。「男性にも母性看護の実習をやらせろ」と。[00:20:12]

桐原:それは誰が行った?

末安:僕らが行った。うちらの学年が行ったの。

吉浜:この学年が。

桐原:そうなんですか。

長谷川:学生の時からそういうことしてたってことですか?

末安:教員と話しても解決できない、この問題は。うち学校教員がわざとやってることじゃないから。

一同:ああー。

末安:でもほんとは、厚労省に行くべきだった。だけどまあそこわからないから。運動ってしたことないから。

吉浜:都庁のなんかお偉いさんが言ってたってことで今でも印象に残ってるのは、「そんなことやらせたら、都民に誤解を与えます!」って言われたって(笑)。それが答えだったって聞いて、「あー、やっぱ男たちってのはそういうふうに見られてるんだな」と思って。今当たり前にっていうか、(篠原さん)保健師の資格持ってるんでしょ?

篠原:持ってます。

吉浜:男性の学生たちにとっては相当、母性の実習はストレスではあるみたいよね。

篠原:気を遣うのは気を遣う、ところがあって。

末安:そういうことで論文、修論書いてるやついるもんな。

篠原:はい、ありますね。

末安:男が外されてる…。いや、今のことだよ、大昔じゃなくて。最近でもそういうの修論書いてるのがいる。

吉浜:だからまあ、今まださまざまな問題抱えてるんだけども、男性の看護師問題ってのは。僕が入った頃は、男は自分たちでは自嘲気味に「保安要員だよな」ってことは言ってたよ。そういう役割期待されてるから。
 で、沖縄では、僕が精神科病棟入った時には一人だけ男性で看護学校卒業したのが、いたね。沖縄の中で。沖縄は准看養成をやってないのよ、復帰前は、まったく。ただ、准看はいたんだよね。それは何かっていったら、本土で看護学校行って、多くが住み込みで。医師会が募集して「住み込みで働いて学校行かせるよ」っていうことで。僕の中学校の時の同級生もいたけども、田舎のあんまり裕福じゃない子たちが、みんなそんなかたちで。福岡とかね、名古屋だったかな、そんな感じで行ってたのよ。で、その子たちが帰ってきて。准看の資格取って帰ってくるから、いるんだけれども、沖縄では准看養成所はなかった。

末安:復帰すぐの時?

吉浜:沖縄の法体系では認められてないわけ。

末安:え、それ復帰前の話してるの?

吉浜:復帰前。復帰前はね、僕も知らなかったんだけど。僕は69年に大学入って、73年の3月に卒業したので、72年の一年前の僕が大学の4年生だよね、72年の5月15日が日本復帰だから、その時に法体系全部変わってるんだけども、実はその、たぶん72年3月に卒業、まだ復帰前に卒業して国家試験があの頃は年間二回あったはずなんだけども、沖縄の国家試験だけ受けて資格取ってる人たちいたのよ。まあ、沖縄の看護学校卒業生はみんなそうだった。本土の日本国の国家試験受けてない。沖縄は沖縄独自の法体系で、沖縄で全部看護職養成もやってるから。で、沖縄の看護学校を卒業して本土の病院に働きに行ってる人たちもいたわけ。その人たちは、今の東南アジアからの人たちと変わりない。もう一度国家試験受けさせられて。

末安:え、そうなの?

吉浜:僕の大学の同級生は、日本復帰の翌年、本土の病院に就職しているからこのことはしらなった。看護学校に入学して入学して初めて知ったのよ。えっと、なんだっけ。

末安:比嘉さん?

吉浜:めぐハウス http://www.meghouse.or.jp/about.html の。

末安:あ、伊野波さん。

吉浜:あ、伊野波さん。伊野波さんがやっぱりそうなの。

末安:え、そうなんだ。

吉浜:そうそう。沖縄でとった免許は「琉球政府主席」の名前でで交付されている。だけど日本復帰のあとは琉球政府主席の名前で出てる免許も、全部本土で通用するようにはなる。

末安:ああ、読み替えるわけだな。

吉浜:日本復帰前は、沖縄の中では通用しても、日本本土で働くぶんはもう一回受けなきゃいけなかったのよ。だから日本で国家試験を受けて看護師やってった人がけっこういるみたい。これは僕も聞くまでわかんなかった。僕の大学の同級生は、73年に卒業して、復帰後だから、国家試験は日本の国家試験受けて。何月? やっぱり2月に受けるんだろうな、受けてそのまま就職してるから伊野波さんのような話はなかった。
 沖縄の看護学校は男性とってたんだね。でもほとんど、まったくと言うほどいなくて、「一人だけはいるよ」という話があってその人が一時期、そのあと精神科やめるんだけども県立の病院にいて、精神科に。その人が唯一の男性だった。で、僕が松沢卒業して帰って二人目。だからまったくいなかったのよ、正看の男性は。准看は若干いたのかもしれない。そんな感じだった。[00:25:39]

末安:男は全部看護補助者だったわけ?

吉浜:補助者。僕が大学を卒業して初めて就職した病院もそうだったけど、看護部長は男性の資格のない無資格の看護部長。

末安:ああ、「看護部長」と言ってるけど。

吉浜:うん。



長谷川:男性のその少ない看護師さんっていうのは、だいたいは精神科に配属なんですか? 一般ではなくて。

吉浜:ん?

長谷川:精神科に配属なんですか? その一般の病院に配属ではなくて精神科なんですか?

吉浜:精神科しか男とらないんだもん。

長谷川:ああ、やっぱり。

吉浜:一般の病院で、まずとらない。補助者としてもとらない。だから卒業の頃まで、実習病院に長谷川と、誰だっけ。

末安:畠山、秋田県出身の。のちに精神科の看護部長になった畠山俊一くん。

吉浜:畠山。ふたり総合病院に入ったけども、その二人がその病院の初めての男子看護師だったもんね。

末安:そうそうそう。それは東邦大学医学部付属病院。

吉浜:僕も精神科じゃなくて一般科に、卒業して、今だったら働けると思ったのよ。それで教務に「そういう仕事ないですか?」って言ったら、持ってきてくれた。どこだか、国立第一?、日赤?だか、けっこう名の知られてるとこ。そこが採用してもいいと言ってると。だけど聞いたら、「これまで男はまったくいなくて、あなたが初めてになるよ」って言われて、それでやめた。(笑)

末安:あ、そう。

吉浜:ま、沖縄に早々と帰らなきゃならん事情もあって。それで沖縄帰ったんだけどね。それで、沖縄の県立でも、男性では唯一だったんじゃないかな、資格持ってんのはね。

篠原:吉浜先生は、その松沢の専門学校はなぜ知ったのかとか。なぜ松沢だったんですか?

末安:なぜ東京だったのか。

篠原:そう、なぜ東京に。東京じゃなくても可能性、資格だけだったらあったと思うんですけど。

吉浜:沖縄の看護学校に何か入学できる方法はないかと行ったのよ。編入みたいなかたちとかね。

末安:その時ね、琉球大学卒業してるから。

吉浜:はい、はい。

末安:だから学士は持ってるわけ。だから編入の可能性もあった。

吉浜:まずね、琉球大学の保健学部に行って。学生時代は評判非常に悪かったんだけども(笑)、「もし戻って、看護の単位を取るわけにいかんのか?」というふうに言ったら…。なんか学校指定とかいって、卒業までに単位取ってなければ受験資格ないことが分かったのよ。教員たちはほら、卒業したあとも単位積み重ねれば、夏期講習とか単位重ねれば、教員免許取れるじゃない。それとは違うんだよということ言われて。で、看護学校行ったら「これまでに例がないし、そういう編入規定みたいなの何もないですね」と言われて。そしたらもうまったく、18の子たちと同じように受験しなきゃいかんわけだよね。それで調べたら、松沢が男をとってると。たしかね、日赤なんかは、日赤の看護学校はまったく、男性はとっていなかった。

末安:男とってないよ。大学だってとってなかったんだもん。

吉浜:女性のみだった、募集が。なんかどっか公立の看護学校で共学ってとこがわずかにあったけど。そしたら当然その中で、松沢は男性別枠だし、歴史のある病院も敷地内にあるし、「もう、ここだな」ということで、行ったんだよね。[00:29:27]
僕はだから、別に人脈も何もなかったけど、行ったらもう名前知られてた(笑)。

長谷川:名前知られてた。

篠原:吉浜先生のですか?

吉浜:そうそう。

篠原:それはなぜ?

末安:男だから?

吉浜:いや、その前にいた病院が、

末安:それは無資格で働いてたってことでしょ?

吉浜:そうそう。沖縄で無資格で働いてたところにのいたドクターが、精神神経学会の理事やってたり、そこは改革派の沖縄での拠点病院みたいなとこがあったんだよね。そういうことのもあってその筋から情報が行っていた。僕は沖縄で民間病院で組合活動やってたから「お前はもう沖縄では働くところないぞ」って言われるようなかたちで出たんだけども。沖縄の中でもどっか移ろうと思っても移れなかったんだよね。その組合活動関係では全国的にはあんまり知られていなかった。その当時は、組合関係時のその筋ではぜんぜん、知られてはなかったと思うんだけども。やっぱり、改革派のドクターたちがいて、その中から私の松沢受験の情報がたぶん流れたんだと思うけどね。[00:31:11]

長谷川:そもそも看護師を目指してたんですか?

吉浜:もちろん。あのね、看護師資格取ろうと思ったのは、沖縄とか准看がまったく養成してないって言ったでしょ? 「男たちをこのまま放っとくわけにいかない」と。無資格の男性看護補助者にせめて准看の教育だけでもちゃんとやりたいということで、県立の精和病院というところにいた沖縄の精神看護の基礎を作った島仲花枝っていう総婦長がいたんだけど、彼女が実現させた。沖縄看護協会はもう、反対なのよ。准看制度そのものに反対だから。准看学校、県立の准看学校作るなんてそんなのありえないみたいな話だったのを、精神科の事情を話して、それでなんとか説得をして。その代わり、5年限定と。5年したらつぶすと。その通りやったんだけどね。5年間だけやって、そのあと、進学コースを作ったのかな、県立の。でも准看学校はもう5年でつぶしたのよ。
 で、その2期生ぐらいが、入学して、一期生が卒業すると資格者がで始めると。男のね。そういう状況があって、「あ、これは資格持ってないと、このままだったらだんだん働けなくなるな」と、このままでは。男性はみんな無資格だから、女性の看護職と同じようなことを僕らもう全部やってたのよね、女性の看護師とあんまり変わらないようなかたちで。医療行為そんなにないから。だから、「これは資格取らなきゃしょうがないかな」と思って。もう組合もおかしくなって、あんま長くいられそうもない、雰囲気としては「お前はもう出て行け」という雰囲気だったんで、とにかくもう出ようと思ってたから、東京へ行けば、これからもさらに看護をやるかは別にしても、あれこれあれこれ情報はあるだろうから、そこでまた考えればいいやくらいの、そんな感じで、そんなにきっちり考えてたわけではなかった。とにかくまず、「東京出よう」というふうな、それが強かったかな。
 で、来たら、さっき言ったように、待ち受けられていた。寮費もただ、授業料もない、寮の食費は都の奨学金もらえればそれで間に合う。だから、生活含めてプラマイゼロなんだよ。あとは自分の小遣いだけあればいいから。だから、退職金25万円持って行ったのを覚えてるよ。[00:34:15]

一同:ふーん。

吉浜:あとはずっとアルバイトでやってたけどね。

あべ:この時代の玉木病院の組合活動って、主張は何なんですか? この時代のたまき病院の組合活動って、何を目標っていうか。

吉浜:あのね、その病院の事情があって。県立で組合活動やってた連中がわりかし移って来てるのよね。それで働き始めてみたら、はじめの話と違うじゃないかと。労働条件が違うということから、その病院から移ってきた人たちを中心にして組合結成の動きが出始めた。寮での会合があって「組合作るっていうんで来い」って言うから、こっちは何もわかんなくて行ったら、あれこれ聞いたり、発言したりしているうちに、卑怯なんだけれども、先輩たちが「お前、委員長やれ」みたいなかたちで(笑)、祭り上げられて。で、そういうわけわからんのが2人とか3名とか、書記長とか委員長とかみたい三役やって、あと不満分子はそのうしろに控えてるわけよ。そして「お前ら前に出ろ」みたいな、そんな雰囲気。だからあれは、ちょっとひどいと思ったけどね、あとでは。で、組合結成に動いた者たちは役職つけられて、みんな逃げたのよ。組合の役職だったわれわれだけが、何人かが浮いちゃったっていう結末だった。

?:その当時は病院を超えての連帯的なものはあったんですか? 沖縄では、その組合の活動、そんなのはないんですか?

吉浜:組合騒ぎがいくつかの病院で起こってんのよ。もう一つあったけど、そこではもう明確に首切りされたりというところもあって、いくつかあったのよね。その中の一つではあったんだけど。もう労働条件、良くないからもうほとんど労働条件闘争よ。それで「スタッフがものを言う場があってもいいじゃないか」と。ま、世の中全体の動きもあるんだけどね。そんな話もあって。それ以外にはもう看護職の組織は日精看しかなかった、病院間のつながりはこっちのほうが強い。ここはもう経営団体であると日精協あたりのとバックアップがあるから、日精看はむしろつぶしにかかるとこだよね。組合なんかは。だから、組合の話なんかまったくできない、そこでは。それでも日精看に入ってたよね。「どういう団体だ」って言ったら、「やー、親睦団体でしょ」とかって言うから、それで入ってたのよね。
 だけどそれは、沖縄の精神科看護にとってすごい意味があることだとは思った。日精看があって、あまり病院間にばらつきがないのよ。京都なんかではもう、大正年間の雰囲気のような病院があるかと思ったら、いわくらみたいな改革派がいろいろやってるような病院はあるしさまざまな病院があるでしょ。沖縄はあんまりそれがない。それはもう、看護が日精看でつながってるから「今どきこんなことやってたら問題じゃないか」ってお互いにチェックし合うし、底上げをできていてそんな大きくでこぼこはない。

舘澤:実際にストライキとか、やったてられた時もあるんですか?

吉浜:あるよ。次に組合活動やった病院でね。

舘澤:次の病院で。精和病院?

吉浜:いやいや、精和病院じゃない。精和病院では「組合活動やらないよ」って言って、初めから言って、やらなかった(笑)。経歴知られてるから誘われたけど、あそこでは組合やんなかった。なんかその、民間病院のひどさはわかってるから、いろんな意味で恵まれていて「ここでは組合なんて必要ないよ」っていうくらいに思ってたんで。もう、「こんなに恵まれてもいいの」ってほんとに思ってたから、県立ではやる気なかった。だから当時からっていうか、僕は唯一、一年だけ県立病院にいたんだけど、もっと国公立病院ってのはちゃんと、民間さんがやれないようなことやるべきだし、スタッフにしても、どう言うんか、甘えてる面があるんじゃないかくらいに思ってて今でも反感あるんだけどね。根本的には。

長谷川:そうなんですね。なんかあの、末安さんのインタビューにしたら、確かにその精神科の看護師さんたちの運動というか、そういう労働組合っていうのは、自分たちのやっぱり労働環境を良くしていくためのっていうところがあったんだろうけれども、それの延長線上に、患者さんが、とっても、まあすごく劣悪な環境にいらっしゃると。それをなんとかしなければいけないっていうふうな観点で労働組合をやってた、みたいなことが書いてあって。それは似た、今そのおっしゃってた労働組合の中でもそれはあったんですか?[00:40:00]

吉浜:それはまあ、日本をリードしてる松沢病院とか、そういう公立病院の発想で、民間ってのは、もうぜんぜん。当然患者さんのことなんかも考えるけれども。今でも覚えてるのは、交渉に行くと院長が「ここは私の病院ではありません。患者さんの病院です」って言うわけよ。「職員の病院でもないのに、患者さんの病院であるはずがないじゃないか」って腹が立ったけど。そういうような雰囲気で、むしろ経営側が患者を盾に使ってたよね。それで、「医療まともにやろうと思ったら賃金抑えるしかないんじゃないか」みたいになるわけよ。ところが、こらちが計算してみると、何人かのドクターとプラス管理職何人かとの給与と、その他大勢のスタッフの給与で、フィフティ・フィフティなんだよね。この50パーをそれこそ10名くらいで分ける。あとの50パーセントを、100名とは言わんけど5、60名くらいの職員で分けるみたいな話になる。当時の沖縄は、医師の給与がすごい高かったと思う。高い給料を出さなければ来てくれないからね、沖縄までね。そういうのもあって。
 でまあ、病院経営上うまみがあると言われてたのは、米。

長谷川:米?

吉浜:「給食材料費」というか。米は、ずっと…。本土と同じになったのはいつかな。うん、泡盛なんかはね、今でも税制で守られていて。酒税が沖縄は、今でも安いと思う。米も復帰当初はすごい安かったわけ。というのは、われわれが子供の頃は、安いカリフォルニア、「加州米」って言ったけども、カリフォルニア米を食べてた。アメリカの米を。日本から入ってなかった。アメリカではすごい安い米を作ってるわけよ。今でもいろいろと問題になるけども、弁当屋とかそういうところは安い外米使ったりするじゃない。初めて本土行った時に、「米がこんなに美味しいのか」ってほんと、感激したの覚えてるけど。あと、オレンジもそうなのかな。牛肉なんかも安く入ったりね。だから、なんて言うか、経営陣が言うには、「沖縄の病院は給食材料費で経営してるようなところもあるよ」みたいなね、それは大げさだけれども、ただそういう制度上のこともいろいろあったけれども、まあもちろん賃金はすごい安い。それでそのぶんが、病院経営者にまわったりするわけよね。それはもうしょうがないような面もあるんだけどもね。そのあたりもうちょっとなんとかならないの? ってのが、われわれの主張。当時の民間の病院の労働組合の主張の根幹だったかなとは思うけどね。

あべ:先生、そろそろ時間ですね。

末安:時間。

吉浜:時間だ。

末安:40分の空港行のバスに乗らないと。

あべ:途中で。

吉浜:じゃあ、東京に帰ってくる時また一泊するよ。東京じゃない、間違えた、京都に帰ってくる時に。

長谷川:もうすごい長いお付き合いですよね? だって、松沢、その学校で出会うんですか? お二人は。

末安・吉浜:そうそう。

長谷川:そこからの、もうすごい長い。

末安:噂で流れてたよ。

長谷川:ほぼほぼ知ってらっしゃるじゃないですか、お互い。

吉浜:私は、あわや、面接の試験で落とされるとこだったんだ。(笑)

長谷川:え、それはその…。

吉浜:面接試験に遅刻して行って(笑)、そしたら先輩たちがなんかね、「なんとかなんとか」、って言ってみんなで引き延ばした(笑)

末安:あそうなんだ、止めてくれた。

吉浜:待ってたとかって。あとで聞いたけどね。

長谷川:専門学校ですか?

吉浜:松沢受験した時。

長谷川:もう知られてたんですよね、でももう。それそのどっちかというと遅刻というよりか、人物として知られてたからってことですか?[00:44:59]

吉浜:そうそう、まあ改革派もいたし、松看時代はその系統の友達がけっこういたわけですよ。かなり大卒はいたからね。当時の学生運動経験者もいっぱいいたし。ま、そんな流れだよね。

末安:ここ出たら左、左って行って。駅こっちだけどわかるよね? 駅の位置わかってる?

吉浜:ん?

長谷川:駅はわかる?

吉浜:わかってないけど、

阿部:行きますか?

末安:駅まで、駅まで誘導してもらったら? ちょっと休憩です。

吉浜:すいません。

三宅:吉浜さん、お元気でー。

吉浜:ああ。

■休憩[00:49:26]