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H氏インタビュー

20210212 聞き手:石川真紀 於:Zoom

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■インタビュー情報

◇H i2021 インタビュー 2021/02/12 聞き手:石川 真紀 於:Zoom
◇文字起こし:ココペリ121

■関連項目

難病  ◇線維筋痛症  ◇CRPS:複合性局所疼痛症候群  ◇慢性疲労症候群  ◇なおすこと  ◇名づけ認め分かり語る…  ◇原因/帰属 c11

■本文

71分+35分

※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)としています。

■■

[音声開始(前半)]

石川:はい。じゃあ今日はよろしくお願いします。

H:よろしくお願いします。

石川:はい。Hさんは慢性疲労症候群の診断をされたのは東京女子医大でしたよね?

H:そうです。

石川:何歳のときですか?

H:えーっと、38歳。

石川:38歳のとき。

H:はい。20年前です。

石川:今は58。っていうか、ちょうど20周年ですね? 診断ついてから。

H:はい、そうです。

石川:その間いろいろあったと思いますし、その診断つくまでもいろいろご苦労あったと思いますけど。症状が出始めてから何年ぐらいで診断ついたんですか?

H:えー、定かではないんですけれども、10代のときに熱が下がらなくて、ずっと微熱が続いて、ということがあって、なんかそれが非常に怪しいと言われてるんですけれども。もともと体が弱くて、あの、入院して退院してきてから急に学校に行くのが大変になったっていう体験もあって、そのへんが怪しいんですけど。まあ学生のときですね、たぶん。

石川:10代って言うと中学生ですか? 高校のときですか?

H:えーと一番最初は…、10代じゃないか、一番最初はまだ小学生のときだったんですよ。で次が、うーんと、19歳のときにはもう熱が下がんなくなってたんですね。

石川:じゃあ19歳のときで熱が下がってないということは、そのときにもし仮に発症だったとしたら、診断つくまで約20年ですよね? 

H:あ、そうですね。

石川:じゃあ19歳のときはどういう感じでしたか?

H:微熱が出てて、ずっと下がらなくて。で、近くの医院に行って薬なんかをもらってたんですけど、いつまでも下がらないので「もう薬は出せません」と医師に言われて、うん。それっきりでした。

石川:それは学生でしたか? 働いてるときですか?

H:そのときは、えっと、いや、学校にはもう行けない状況になっていたので、

石川:家にいて療養っていう感じです?

H:そうですね。バイトをしてみても途中で倒れてしまって、「どうしたらいいの?」っていう感じになっていたときです。

石川:なるほど。じゃあそのときはご家族と住んでて?

H:はい。

石川:で、まあお医者さんからは、「もう薬も出せないし、来なくていい」みたいな感じで言われたんですかね?

H:そうですね。来られても…、そう、そういうことですね、「できることはない」と。

石川:「ない」と。でも症状変わらないし、それでどうされましたか?

H:それでもそのあとがんばって学校に行ったりはしたんですけれど、結局仕事をしても普通の人と同じように一日もたないんですよ。だからあの、なんだろう、普通に働くの、

石川:それは体力的にもたないってことですよね?

H:そうです、そうです。もう帰り道、道に横になりたいくらいになってしまって。もう4日目でへろへろで、5日目で「もう死ぬ」って思って、「自分は働けないのかな」って思って、うん。すごい、それからどうしていいかわからなくなりましたね。

石川:そのあと病院変えてみたりとか、いろいろしたんですか?

H:うん、病院は何軒も行きました。すごくたくさん行きました。あの、普通に内科も行ったし、漢方も行ったし、あと健康外来みたいなところも行ったし。とにかくいろんなところに行って、でも病名はつかずに終わっていて。それでもうあきらめてしばらく何にもしなかった時期っていうのが何年かあって。で、「このままではいけない」というか「どうしようもない」と思って、で、その頃に「慢性疲労症候群かもしれない」というのに思い至り。[00:05:20]

石川:それはどっから情報が入ったんですか?

H:えーと、たぶんネットか新聞か、ちょっと定かじゃないんですけど。

石川:インターネットとかが普及してきたのって、90年代前半かな?

H:そう90年代、

石川:後半かもしれないですね? みんなが自分で…、会社には導入されてても、マイパソコンを持ってるとかっていうともうちょっとあとかもしれないですね。

H:そうですね。うん、そうね、90年代後半ですかね。

石川:20年前だとして、2001年、

H:そうですね、2001年だから、

石川:に診断されたから。あ、じゃあそのちょっと前かな?

H:その前にはパソコンで調べたりしてたので。

石川:じゃあ20年近く、ずっと自分の体調不良の原因が何かを探してたんですね?

H:そうですね、うん。

石川:「絶対何か変だぞ」と。

H:そうです。「絶対何か変だ」というか、あの、保健室の先生が、「何なんだろう? どうしたんだろう?」って考えてくれる先生だったんですよ。なんかその言葉がずっとあって、うん、「何か原因があるはずだ」というのは思ってたんですね。パソコンを使い始めたのがたぶん95年くらいだと思うので、

石川:Windows(ウィンドウズ)95が誕生した頃ですね? (笑)

H:そう、そしてうちにはWindows98があったので。【すぐ、出て買ったので】(00:07:10)、ということは、

石川:あ、じゃあそれは、じゃあ98だな(笑)。

H:98出たばっかりのときにはすでにもう調べ始めてたってことですね。

石川:そうだ、そうですね。

H:でチャットとかで「あなたはそれなんじゃないですか?」みたいな、いくつか病名を言われてて、その中の【一つにそれがあって】(00:07:32)。

石川:あ、そういう病気トークみたいなチャットルーム?

H:あ、そうですね。

石川:そういうのがあったんですね。

H:うん。でも、「もうこれで最後にしよう」と思って、意を決して受診したっていう感じです。

石川:なるほど。当時女子医大に、けっこういろんな診療科が連携した研究チームっていうか、ありましたもんね。

H:そう、その研究チームの方たちに診ていただくことができて、それでみなさんに確定診断をしていただいたので、そのときは「やっと病名がついた」ってほっとしました。

石川:「これで治る」と思いました?

H:治る、かもしれないって(笑)。

石川:「かもしれない」(笑)。

H:あと、「うそつきって言われなくてすむ」っていう安堵感がすごくありました。

石川:そうですよね。今までは原因不明というよりも、「異常なし」と言われてきたのかな?

H:まああの「人間性の問題」とか、「人として性格とかに問題がある」っていうふうに言われてきていたので。

石川:なるほど。それまでは生活は、バイトしたり辞めたりっていうのを繰り返してる感じですか?

H:そうですね、うん。

石川:そしたらご家族の反応とかどうだったですか?

H:うーんと、もう昔で言うと「不良」みたいな、「非行」、非行っていう感じの扱いでしたね、それは学校もそうだったんですけど。

石川:不真面目みたいなことですか?

H:不真面目? 不真面目、まあまじ…、うーん、ちょっとニュアンスが違うんですけど、あの、なんか「反社会的な子ども」じゃないけど、うん。あの、「刑務所に入ってないのおかしい」って言われましたもん。

石川:それ、誰に言われたんですか?

H:親に。

石川:え! 犯罪してないのに。[00:10:04]

H:義務教育とか果たしてなかったから、「働いてもいないで」って感じです。

石川:学校にもちゃんと行けてないし、働きもしないし、ということで。

H:そうですね。学校は、学校は実は行ってたんですけど、内緒で行ってました。

石川:それは社会人になってからってこと? 成人してからってことですか?

H:そうです。成人してからですね。

石川:その学費はどうしたんです? 内緒っていうことは。

H:【私が貯めたの】(00:10:38)。貯めたんです。

石川:バイトで?

H:バイトと、やりくりで、はい。あの、当時はまだバブルだったので。

石川:はい。財テク?

H:財テクです。

石川:(笑) 素晴らしい。なるほど、それでまあどうにか38歳で、

H:まあでも、自立できるほどはお金は得られなかったけれども、そうですね。

石川:じゃあけっこうあれですか? 家、居心地悪かったですね、そしたら。

H:そうですね。もう、もう家族とは全然口をきかなくて。で、もう家を出るまでの10年ぐらい、口きいてなかったですね。

石川:おおー。今だったら引きこもりって言われてる感じですね。

H:あ、そうかもしれないですね。うん。あ、でも外に出て…、そうですね、外に出るのが少ないですからね。そうかもしれないですね。

石川:とくにその頃って、90年代前後って、そういう人たちが犯罪犯したりし始めて、なんか「引きこもり、イコール犯罪者予備軍」みたいに見られてたかもしんないですね。

H:うん、そんなところはありましたよ。

石川:ありましたよね。よからぬ感じに見られがちだったかもしれないですね。で、38歳、

H:あとはあの、保険証問題っていうのがあって。

石川:保険証? 健康保険の?

H:そうですね。当時は1人1枚じゃなかったんですね。で、世帯ごとに1枚だったので、親に内緒で受診することができなかったんですよ。

石川:それは世帯主の扶養になってるからですよね?

H:そうそうそうそう。そうすると、親が出ていくと全部だめになるっていうのを繰り返してて。

石川:だめになるって言うと?

H:親が信じてないから。そうすると、お医者さんが親のほうを信用しちゃうんです。だから、うん、私と親の言うことがまったく違うので、それが、

石川:本人の言い分と家族の言い分の差があったんですね?

H:もう親の言い分はもう「学校に行きたがらなくって休んで、ずっと不登校のまま大人になって」って言うと、お医者さんはみんなそっちに流れていきましたね。まあそれで、まあ機会があったので家を出ることができて、30歳くらいで。

石川:あ、そうなんですね。じゃあ診断ついたときは、もう親元からは離れてたんですね?

H:うん。とにかくあの、保険証を別にしないといけないと思って、役所に相談したりして。そしたら「もう住所を変えるしかない」っていうことで。

石川:当時って世帯分離ってなかったのかな? あったんじゃないかな。

H:そう…、そうですね、どうなんでしょうね。でも問い合わせをして相談したときは、

石川:そういう回答だったんですね。

H:「住所を変えるっていう方法しかない」っていうふうに言われました。

石川:でも、お家を出たら精神的に楽なったんじゃないですか?

H:ああ、すごく楽になりましたね。なんか「もうこれで責められないし、うそをつかれないし」っていう。「ちゃんと診断できる、してもらえるかもしれない」っていう【思い】(00:14:39)もあって。

石川:そのときは一人暮らしですか?

H:いや、親族と住んでたんですけど。

石川:あ、なるほど、一緒に家を出て。そしたらこう、家賃とか生活費も一人で全部しょわないで、分担してできるっていう感じで。

H:そうですね、一人だったら無理でしたね。[00:15:05]

石川:うん、20万ぐらい必要ですもんね。20万いかなくても15万は絶対かかりますもんね。家賃、ある程度、

H:ああ、一人暮らしの場合。

石川:一人暮らしだと。

H:ですね、かかりますよね。

石川:お風呂とトイレが付いてる部屋を借りようとしたら。バブル期だと、今よりちょっと高いですしね。

H:あの、激安なところに入れたんです。

石川:探して。あ、なるほど。

H:そうです。それのおかげで医療費が捻出できたので。なんかただ、運ですね。

石川:その38歳のときに診断がついたとき、「これでやっと病名がついた」と、「自分の感じてたことが本当だったんだ」っていうのがわかって安堵して。それはご家族に報告しましたか?

H:いや、してないです。

石川:あ、してないんですね。でも、お友だちとかまわりの反応はどんな感じでした? 言いました? 病名。

H:まわりの反応…、あの、言ってみた人もいるんですけど、ほとんど相手にされないというか、「うつ病みたいなものでしょ?」とか、「気のせい」。ああ、病名がとにかく悪いですよね。「慢性疲労? 私もよ」とかそんな感じで、あまり深刻に受け止めてくれる人はいなかったですね。

石川:なるほど。Hさんが当時、一番つらかった症状ってどのへんですか?

H:あの、私は線維筋痛症も併発して、IBS(アイビーエス)も併発してるので、やっぱり痛みが一番つらいですね。あと、痛みがなくても動けないっていうか、ちょっと動いただけでももう疲れてしまって。

石川:そのときは車いすとか使わずに、なんとか歩いて病院にも行ってたんですか?

H:そうですね。あの、歩くのが10分が限界で、で、とにかく休んで休んでで、途中で休むんですけど。

石川:ベンチとか探して?

H:そう、駅のベンチとか駅のカフェとかを転々として、ひとつのとこに4時間とか5時間とかずっといたりして、それでやっと次の場所に移動してっていうような日々で。これは日常生活が回らないっていう、もう明らかに回らなくて。で、まあ帰りも駅から家まで、行きは歩いてそのまま真っすぐ駅まで到着できる、できたんですけど、帰りはだめで、途中のベンチ座ったりとか、途中にスポーツセンターとかがあったので、そこで休んだりとかして。5分歩いて、休んで、5分歩いて、みたいな感じで。

石川:休憩をたくさん挟んでやっと、っていう感じですよね?

H:そうですね。だから目的の用事が1時間とか2時間なのに、休憩が8時間ぐらいあるみたいな感じでしたね。

石川:もう丸一日ですね、そしたら。

H:そうですね、で次の日から数日は寝込んでるっていう感じで。あと出かける前も何日間かは充電するためにじっとして。

石川:力を溜めといて、っていうことですよね?

H:はい。

石川:いざ診断がついて、やっと治療がスタートして。そっからは何か変わりました?

H:そうですね、あの、とりあえず病名がついたことで、あとお薬とかも出て。お薬が出るってとても珍しいことだったので、すごくうれしかったし、「治るかもしれない」というか、「ちょっとはよくなるかもしれない」っていう希望も持てて、うん、うれしかったんですけど。そのうちに試す薬もなくなってきて。えーっと、精神神経科に通ってたんですけど、「もうここに来ても、やることが何にもなくなってしまった」ということで、まあ「来てもいいけど」っていう感じになって。で、先生も辞めてしまわれると、もう次のかたがいらっしゃらなくて、「どこに行ったらいいんだ」って感じに。[00:20:21]

石川:え? じゃあ「もう先生辞めたから終わり」っていう感じですか?

H:そうですね。あの、次の先生に診ていただいても、全然違うんですよね、やっぱり。

石川:この病気に対してあまり知らないし、興味もないみたいな感じですか?

H:興味ないですね、うん、そんな感じで。だから一応、まあひと通り向精神薬とか、あとステロイドなんかも試してみたりして、うん、したけれども、どれもとくに効果がなく。それで先生が辞められて、次の先生がやることもとくになく、ということで、まあ行っても何時間も待つだけなので、それで終わってしまう。

石川:行ったあと寝込むしね。

H:そうですね、うん。

石川:じゃあ、それからはしばらく主治医がいない状態になってしまったんですか?

H:あ、でも一人の先生だけは辞められなかったので、ずっとそこに通うことはできていて。

石川:その女子医大の中の?

H:そうです、そうです。なんかそういう意味では、

石川:それはもしや班目先生ですか?

H:そうです(笑)。

石川:漢方治療のほうの?

H:そうです、だからもう漢方治療ですね、今は。

石川:はい、はい。全然、漢方で治った人とか改善した人とかもいますもんね。

H:そうですね。で、漢方薬は効くっていえば効くんですよ、うん。私IBSを持っているのでそれにはとても効くのと。あとは、えー、慢性…、なんですかね、やっぱり診てもらうと元気になるから、なんか効いてるんじゃないかって思うんですけど(笑)。

石川:なるほど。じゃあ38歳で診断つくまで、いくつぐらい病院回ったでしょうね?

H:いくつですかね? いくつでしょう? もう片手じゃないですね、もう。

石川:二桁いってます?

H:二桁…、10、10個ぐらいいってるかもしれないですね。

石川:ねえ。その医療費も、けっこう検査とかいろいろ細かくするとお金もかかるし。

H:そうですね。もう医療費、今までいくら使ったかわからないですよ、本当に。

石川:うん、たしかに。

H:もう何百万になると思います、それこそ。

石川:ですね。で、今に至るまで、同じ患者どうしで情報交換したりとかっていうのは病名がついてからがやっとできるようになったんじゃないですか?

H:そうです。病名ついてから、同じ病名もってる人と交流をするようになって。

石川:どういうふうに出会うんですか?

H:えっと、一番最初に会ったのは、たぶん病院だと思うんですよ。病院の待合室とかで、うん。あとは患者会に顔出したりして、そのときに初めて同じ病気の人に出会いました。

石川:今まではまわりに同じような人がいなくて、変な人扱いをされてきたわけですよね? ちょっと(笑)。

H:はい、そうです、そうですね。で、どういう話し方をしてもわかってもらえないという感じがあったんですが、同じ病気の患者と話すともう完っ全に話が通じたので、「ほんとに同じ病気の人なんだ」っていう感激がありました(笑)。

石川:そうでしょうね。だって20年一人でずっと抱えてきてるんですもんね。

H:話が通じるってすごいなって思います。

石川:誰にも共感されませんもんね、それまで。

H:そうですね。

石川:共感してくれた人いました?

H:いや、もう「甘えるな」とか「強くなれ」とか、そんなんばっかりでした。

石川:(笑) なるほど。患者会っていうのはいくつかあったんですか? [00:25:09]

H:あ、いくつかあったと思うんですけど。あと、会にはなってないけどもオフ会みたいな、「集まりましょう」みたいなのが、

石川:それ、インターネットのとかで?

H:そうです、インターネットで。そんなんで、

石川:へえー、そういうコミュニティみたいな感じですね。

H:そうですね。情報交換もしてました。

石川:それは何人ぐらいで集まる…、だいたい何人から何人集まるんですか? 幅あるでしょうけれども。

H:でも数人ですね。

石川:二桁にはならない感じですか?

H:ならないですね、当時はね。

石川:なるほど、それで情報交換したり、まあ励ましあったり、共感してほっとしたりとか、そんな感じですか?

H:そんな感じですね。うーん。

石川:やっと話が通じる人たちと出会って。やっぱりそれまで孤立感っていうの半端なかったんじゃないですか?

H:そうですね、ほんとに孤立してましたね。なんか「このままどうなっちゃうんだろう」っていう、しかなかったですね。

石川:そのコミュニティっていうのは、患者同士で会うのは、頻繁だったんですか?

H:いや、みなさんよれよれですから(笑)、ほんとにたまにです。

石川:年に何回か?

H:そんな、そんな「何回か」っていうくらいじゃないと思います。もっと年に1回とか2回とか、そんなもんだったと思いますね。

石川:あ、そういうペースで。ふーん、なるほど。でも「会」というふうにはなってなかったんですね? 当時は。

H:そうですね、会ができるまでは、そうですね。

石川:初めて会に参加したのっていつ頃ですか?

H:いつ頃ですかねえ。いつ頃だろう? 会ができたときです(笑)。

石川:その会の名前は?

H:えーと、ME/CFS(エムイー・シーエフエス)の会、

石川:当時、「慢性疲労症候群をともに考える会」かな?

H:そうでした(笑)。そうです、それ。そこで、

石川:その情報はどこから入ったんですか?

H:おそらくネットだと思いますね、はっきり覚えてないですけど。

石川:あ、そうなんですか! ふーん。

H:うん。そこは行くと、横になっててもいいようにしていただけたので、うん、それがありがたかったですね。

石川:で、そこに参加するようになって、何か変化ありました?

H:いやあ、意外といろんな人がいるなって思いましたね、症状もいろいろあって。基本的にはでも一緒なんだけれども、微妙に違いがあるんだなっていうのを思いましたけど。でも、

石川:「同じ病気かな?」って思うような人もいたり?

H:うん、人もいましたね、うん。やっぱり確定診断受けてもその、マーカーがないから、あの、診断基準がね。

石川:「この検査したらこれだよ」っていうのがないですもんね、目に見えるのだと。

H:そうなんですよね。

石川:一部の研究施設だけ研究費でやる特別な検査、あの、保険がとおってるようなのじゃなくて、特別な検査をして異常がやっと見つかるっていう感じですもんね。

H:あとはまあ他の患者さんに「ここの病院に行ったほうがいいよ」とか、あるいは「こういう治療がいいよ」とかいろいろ言われたりして。

石川:そうですね。その当時ってとくにその、「どこの病院に行っても同じ治療してる」っていう感じではなかったですもんね。

H:違いましたよね。あと今みたいに、今っていうか、今よりももうちょっと先生が多かったと思うので、診てくださる先生が。[00:30:09]

石川:そうですね、たしかに。他の専門外来には行かなったんですか? 女子医大にずっと?

H:えっと、女子医大にたどり着くまでにいろいろ行ってるのでね、すでに。女子医大に行ったあとは、勧められたもので、ちょっと別な視点が得られるかなと思って行ってみたことはあるんですけれども、まあいまひとつだったので、自分には。

石川:それはCFSを専門で診てる先生?

H:いや、専門ではないですね。あとは「ほかの病気ではないか」っていうことで、「それを調べたらいいんじゃないか」とか、いろんなことが…、いろんな人がいろんなことを言ってくるので、けっこうあまり惑わされないでいようかなと思って。

石川:でも、結局治療法がないと、「黙っているより何か試してみよう」とかいう気持ちになるのはわかります。

H:ああ、すごいわかりますね。あの、お金がなかったからっていうのもあるかもしれないですね。もしお金があったら「試してみようかな」とか思っちゃったかもしれないですけどね。

石川:そうですね。

H:保険外治療が多かったですからね。

石川:ああ、そっか。当時、女子医の班目先生のところも自費だったのかな? そこは保険?

H:いや、当時はあの、東洋医学研究所にいらっしゃったので、普通の病院と同じ。

石川:保険診療。そのあとじゃあ自然、自然医学研究所みたいなとき自費じゃなかったですか? 女子医の。

H:あ、私はもうそういうところには通わなかったので、行ってないです。私はもう保険診療のとこだけしか、もう行かれないので、そもそも。

石川:なるほど。そうすると38から、もう20年間のお付き合いですね。

H:そうですね。

石川:班目先生とともに、ですね。じゃ、病気のことで、病気に診断されてからもう、たとえばどっかその患者の集まり以外に、いろいろ情報を得られたり相談できたりする場所ってありました? 外に助けを求めたり、

H:いや、なかったですね。やっぱり生活がままならないことを誰かに相談したいと思っても、どこに相談していいかわからなかったです。

石川:でもあれですよね、もうそうせざるをえない状況になったんですもんね。

H:そうですね。もうほんとに動けなくなって死にかけたときに、初めてそこで公的なところが入ってくださることになって、そこからですね。

石川:そうですよね。もう、うん。

H:そのときも保健師さんが何人もいらしてくださって、で、

石川:もうそのときって、Hさんがもう調べることもできなくなってて、もうごはん何日も食べてない、みたいなときでしたよね?

H:そうですね。もうごはんも食べられないし、水も飲めないしっていうときでしたね。

石川:で、横のつながりで、

H:ほんとに、ほんとにみなさんに助けていただいたっていう感じで。助けてくれる制度が…、なんか制度のはざまに落ちてしまって、使える制度がなかったんですね。

石川:ね。やっと地域の保健師さんに連絡して、保健所に連絡したのかな? それで保健師さんが訪ねてきてくれて。どんな展開になったんですか?

H:あの、「この人は大変だ」っていうのはみなさんもうわかってくださったんですけども、あの、年齢が若すぎて対象外だったりとか。あと、[00:35:10]

石川:それって介護保険の対象外みたいになるのかな? 対象外ってなんだろう? 年齢でって。

H:一人で暮らせない人がちょっとだけ預かったりとかっていう、そういう、居させてもらえる施設とか、

石川:それが年齢制限あったんですね。

H:そうですね、65歳以上だったかな? 「だったらあるんですけれどね」って何人の人だかに言われて。「あなただと若いからちょっと入れる…」、あの、ほんとに「1週間ぐらいでも預かってもらいなさい」とか言ってくれた人もいたんですけど。あとはまあ病院に行っても、これだと治療するところがないので帰されてしまうっていうのは、もうこれまでの経験でわかっていたので、病院に行くわけにもいかず。で、お医者さんにかかりたかったんですけれども、とても歩けなくて、えっと、往診に来てくれるお医者さんを探すのにすごい苦労して。保健師さんに相談したんですけれども、「教えることができない」っていうことで、医師会に電話して、

石川:私が医師会の連絡先を調べた記憶があります(笑)。

H:(笑) で、もう医師会で教えてもらったところに1軒1軒電話したんですけど、もう1軒か2軒電話したらもう一日終わっちゃう感じで、もう疲れ果てて、もう。で断られ断られで。あの、結局最後すっごいおじいちゃん医師が来てくれたんですけど、それでなんとかなったんですけれども。まあそれまでも結局、月に何万円とかっていう、なんだ、月極契約の訪問、訪問診療というかそんなのばっかりで、明らかに老人対象のものしかなかったです。

石川:レギュラー訪問みたいな感じですね。

H:そうですね。で、今そのとき来てくださったかた、あの、近くの医院のかたがずっと関わってくださってたんですよね。それはCFSってことではないけれども、なんか理解があったんですね、その先生が。

石川:病名言っても断られなかったんですね? その先生には。

H:その先生は…、そう、病名言ったかどうかも覚えてないんですけど。とにかくもうあの、動けなくって食べれないし飲めないしっていうことで、すぐ来てくれましたけど。

石川:たぶん脱水症状になってたのかもしんないですよね。

H:あ、そうですね。それは言われましたね、うん。

石川:なるほど。あのときのこと、私もやっぱりすごいあの、なんだろう、衝撃でした。

H:そうなんですね。

石川:その制度のはざまっぷりがすごいなっていうのと、この病名出すと診てもらえなかったり、その、お医者さん、医療機関で。

H:あの、実は普通のかかりつけ医がいたんですけれども、そこも往診をしてくれているところなんですけれど、病名を出したら断られてしまって。ほんとにあの、病名を言うと診てもらえないっていう体験をして。

石川:なんだろうな、病名の差別じゃないですけど、排除されてしまうっていう感じですよね。

H:そうですね。理由を聞いたら、「その病気の患者は診たことがないから」っていうふうに言われましたね。で、「でも診てほしいのはその病気とはまったく関係ないんですけど」って言ってもだめでしたね。

石川:持病としてそれを持ってるっていうことで、とっても慎重になってしまったり。

H:そうです。で、その往診に来てくれたおじいちゃん先生は、もう今は引退されて、いなくなってしまって。だから近所にいたんだけれども、いなくなると次の先生がいないっていう。もう途端にあの、というか、病院、

石川:ちょっとしたさじ加減というか、ちょっと人生が変わっちゃいますよね。生活も人生も変わってしまいますよね。[00:40:10]

H:そうですね。うーん、とくに病気になったり高熱とか出ると、もう本当に動けなくなってしまうので。

石川:そういうときほど専門外来に行く力がないわけですから、やっぱりかかりつけの先生持っとくって大事なんですけれども、それがなかなかっていう。[00:40:41]

H:そうですね、持ってたんですけどね、結局引退後の後継ぎの人がいないっていうのがネックですね。

石川:同じ病院でも後任の先生が理解あるかどうかでまた変わってしまいますもんね。

H:うーん。あとはそう、保健師さんに言われたのは、「その若さだと、手帳がもし取れればやってあげられることはあるけど…」、ああ、障害者手帳ですね、「が、取れない限りは何もできることはないです」っていう。すごく心配してくださったんですけど、いい保健師さんで。「制度上どうしようもない」っていうふうに言われました。

石川:その頃、ちょうど障害年金の手続きもしたのって、その頃じゃないですか?

H:ほんとそうです。ちょうどしてるときに、

石川:最中ですよね。

H:倒れましたね。

石川:だから社会保障を、今までずっと自力で、何も制度を使わないままずっと来ていたのが、ちょっと制度を、手続きを始めてる段階だったんですよね?

H:だから障害年金も取ろうと思って、社労士さんに断られたりもしていたし、病名で。

石川:その病名で。

H:そうですね。

石川:それが何年頃だろう? あれ。2010年、11年か12年かな?

H:私、2012年に断られてるんですね。それで同じ年に別な一人が引き受けてくれていて。

石川:だからその事件っていうか、その転機って2012年でしたよね?

H:ん? 倒れたのですか?

石川:うん、倒れたの。

H:2013年です。12年から具合は悪かったんですけど、でも、

石川:そうなっちゃったの、もうあれが最大のピンチかな? 人生の。

H:最大のピンチっぽいですね。あれが、そうですね。そして住む場所も失うっていう、なかなか。すごい一気にきましたね。

石川:ですね。で、その住む場所探しにもまた苦労があって。

H:まあ正直言って外に出られないわけだから、不動産屋めぐりなんかできるわけがないのでね。

石川:あとは保証人の問題?

H:あ、そうですね。保証人は今、保証会社があるんですけれど、私はあの、そのときにもう家族もいなくなって一人になってしまっていたので、もう、

石川:あの同居していた家族がいなくなって、

H:人もいなくなって。で、「家族の連絡先がないと貸せない」って言われたんですね。

石川:保証会社を付けても、ってことですね?

H:そうです。「保証会社は通っても、家族の連絡先がない人は、家族の電話番号書けない人には貸せない」って言われて、「友だちとか信頼できる人もだめ」と言われて、ほんとに、「じゃあ家族いない人どうすんですか?」みたいな感じになりましたけど、「そしたら買ってください」って言われましたね。

石川:え、家族を?

H:いやいや、お家を。

石川:あー、なんだあ(笑)。偽装かなと思った、今。「不動産を買ってください」と、「オーナーになれば問題ないですよ」っていうことですね。

H:自分でマンション買って住むんだったら大丈夫だけど、借りることは、

石川:「賃貸契約は難しいですよ」と。[00:45:02]

H:そうですね。でまああの、で、さらに正社員でもなんでもないですから、もう本当に、

石川:たしかに。「家賃払い続けられるの?」っていう疑いがもたれて。

H:そうですね。だからもう「通帳見せることになってもいいですか?」とかいろいろ言われまして。

石川:たしかに年収で審査ありますもんね。

H:だからそのときに言われたのは、「どんなに貯金を持っていても貸せません」って言われましたし。うん、まあ、「貯金持ってるんなら買ってください」って言われましたし。「それ以外はどうするんですか?」っていう感じで。「こんな非正規の人も多い世の中でどうするの?」って言ったら、まあ不動産屋さんもそれは問題だっていうふうに言ってましたけど。何しろ「大家さんが嫌がるので」っていう、まあそこですね。一軒やっと、ほんとにあの、追い出される日が決まってしまって、もうひと月切っても家が見つからなくて、で、やっと見つかったって思ったら、大家さんに年齢で断られたんです。

石川:(笑) なんかそのとき、不動産一緒に探した記憶がよみがってきました。

H:(笑) あの、不動産さんもショックを受けてましたし。不動産屋さんの声が変わったのがわかりましたね、電話で。

石川:もうほんとに「どうする?」っていうときに、なんとか。

H:「どうなるんですか?」って聞いたら、「このまま見つからなければ、その立退きの日に、部屋に南京錠みたいなのが取り付けられる」っていう。「その中の荷物がどうなるのか?」って聞いたら、「放棄したと見なします」っていうふうに言われてしまったので、なかなか厳しかったし、ほんとにホームレス寸前なんですけど。でも貧しい人でホームレスになるかたの支援っていうのはあるんですよ、シェルターがあったりとか、

石川:そうですね、炊き出しがあったりとか、

H:でも、私の場合は炊き出しとかじゃなくて、

石川:うん、並べない。

H:そう。そこでもはざまに落っこっちゃったんですよね、結局たまにバイトとかをしてるとか。一応私、医療費だけは取ってあったんですよ。

石川:あ、確保しておいたっていうことですね。

H:そうです。もうとにかく「苦しい、痛い」っていうので、医療にかかれば取れるのに、それができないっていうのだけは避けたいと思って、とにかく医療費だけは別に確保していて。で、それがあることで、そういう支援も受けられない、たとえば生活保護とかですね。

石川:なるほど。

H:でも、その医療費を作るために、泣きながら仕事に行ったりしていたので、もうほんとに苦しくってつらくって、体動かないの無理をしてほんとに泣いて行ってたので、そのお金を使いたくもないことに使って、「お金ありません」ってやるのは絶対嫌だったんですよ。そうしたら、ほんとにあと何日っていうところで貸してくれるところが見つかって、なんとかなってますけど、もうほんとに運だと思ってます。

石川:けっこうその間(かん)、ほんとに落ち着かなかったですよね。

H:いやあ、もう生きた心地がしなかったです。

石川:生きた心地。ほんとに私も人ごとながら、生きた心地じゃなかったですよ。

H:うん、裁判所からは封筒は来ちゃうし、もう。

石川:ほんとに。だから結局その行政的にも「できることはない」っていうことで、患者つながりで食べ物を送ってくれる人がいたりしましたよね。

H:ええ、ほんとにあの、人海戦術でしたよ、はっきり言って。

石川:それはほんとに、なんだろう、患者どうしがつながっていなければ、もう餓死してたかもしれませんよね?

H:そうですね。

石川:まあプライベートのお友だちとかはいたから、その友だちとかが助けてくれたかもしれないけど。[00:50:10]

H:ああ、そうですね。たまたまそのときに外の人とつながる用事がたまたまあったりしたから、外の人に知れたっていう感じです。

石川:でもそのとき一番力になってくれたのって、何でした?

H:あ、えっと、えーと、社協。えー、私が使えるものって社協しかなかったんですね。で、

石川:社会福祉協議会ですね。

H:あ、そうです、はい。で社協の人が来てくれて、さすがに「この人大変だ」ってわかってくださったみたいで。それでえっと、もう「お金がかかってしまうんだけれども、でもあなたが使えるものって言うと、今これ、ここだけ」みたいな感じで。で、もうしばらくは社協の人に助けてもらって。

石川:家事援助?

H:そう、家事援助ですね。

石川:ですよね? 当時。たしか2月だか3月だかで年度が切り替わる直前だから、「うー」って言ってましたよね、その当時(笑)。それ、だからちょうど、

H:会費がね、会費が…、そう、払ったのにすぐに次の年の会費を払うみたいな感じ。

石川:「でもそんなこと言ってられないじゃん、今」って言って。

H:あと電話代もすごいかかったので、もういろんなところに電話をしていたから、ひと月で10万超えましたもん。

石川:えー! かけ放題に切り替えていれば。

H:当時それなかったですね。

石川:ああ、そうなんだっけ?

H:で、あの、もう携帯会社とも、結局引き落としされなければ、お金がなくなっちゃって引き落としされなければ止まるっていう。

石川:でもライフラインですもんね。

H:そうです。

石川:電話だけが。外に行かれないときに連絡つけるっていうのが、電話だけですもんね。

H:うん。腕が動くときはあって、あと指先がちょっと動いたりしたので。まあまだ痛い、ガラケーのときです。

石川:たしかに。でもまあそれを乗りきって障害者手帳を取得することができたのが、その何か月後でしたっけ? 半年ぐらいかな?

H:いや、そんなにかかんなかったと思う。

石川:そんなにかかんなかったです?

H:うん。あ、でもそのぐらいか。そうかもしれない。なんか障害年金をもらっ…、あ、障害者手帳をいただけてからは、ほんとに話が早くてよかったなって思いましたけど。まあその障害者年金もその前年度には「取れません」って言われて、診断書も断られていたし。

石川:「その範囲に満たない」という判断をされてたってことですよね?

H:そうですね、「書いても通らないから書かない」ってはっきり言われましたし。「まあ仮に取れたとしてもすごい下のほうの級しか取れないから、かえってよくないんじゃないですか」みたいなことも言われたし。ただそれがやっと取れたことで福祉課の人たちが入れるようになって、それがあったからなんとかなってるのかなっていう。

石川:家事のサポートをしてもらえて。

H:そうです。

石川:それがなかったらどうしてたでしょうね? あのときほんとに。

H:やっぱり食べ物が手に入らなかったでしょうね。あとは現金が手に入らなくてすごい困ったんですよね、うん。社協の人にお買い物を頼むにも、お金を渡さないといけないので。で、そのお金を銀行に、[00:55:10]

石川:下ろしに行くのがね。

H:下ろしに行くのはやってくれないんですよ、だめなんですよ。だから「一人で行ってください」って言われて、「いや、いや、それはできません」っていう感じで。やっぱ制約が多いから、うーん、難しかったですね。なんかこう水道料金の支払いとか「コンビニで払ってきてください」って言っても、「だめ」って言われちゃうし。うん。けっこう最初の頃はあれですね、ヘルパーさんが外出のときに付き添いで何時間とか出たんですけど。

石川:外出介護。

H:外出介助ですね。外出介助出たんだけれども、車いすは押せないものだったりとか、なかなかわかってもらえてなかったですね。

石川:たぶんそのケアプラン作るときのヒアリングで、うまくそれを…、うまくっていうか伝えそびれたんじゃないかな? もしかしたら。

H:一応言ってるんだけれども、なかなかその、実際に会うと元気に見えるから、なかなかわかってもらえないですね。「まっすぐ帰ってこれないから、途中で休憩をしたい」って言っても、きょとんとされたりしてしまったりね。

石川:たしかに、私は車いす押してもらうプラン、もちろん組んでもらったんですけど、自力歩行できないから。だけど、「外出3時間まで」とか「2時間まで」みたいなのされても、休憩時間がすごくいっぱいあるので用事足せないっていう、それはわかる(笑)。

H:そうなんですよ。

石川:私も同じでした。うん。車いすにも座っていれないから、車いすから降りて、ベンチ探して横にならなくちゃいけなくて、その時間があるので、「用事足すのにそれは無理です、その時間では用事足せません」という、間に合わない感じでしたね。この特性がね、「この病名、イコールこういう特性がある」っていうのが浸透したら楽なんですけどね、こっちはね。

H:そうですね、うん。あの、

石川:「なんで?」っていうふうな。

H:「途中でマックとかで休みたいんです」と言ったときに、「だめです」って言われて、えーと、「外のベンチだったらいい」って言われたんですね、うん。だけど暑い夏とか寒い冬とか、私の場合はあの、IBSが炸裂しちゃうので、それもできないし。で結局あの、使えなくて困りましたね、それは。

石川:ただやっぱり、どうですか? 安心感っていうか。定期的にヘルパーさんが来てくれることの安心は、やっぱり障害者手帳取得できてからの、やっと得られた安心なのかなっていう気もしますけど。

H:そうですね、手帳がなかったら入らないですからね。少なくとも、なんだろ、倒れてても何日も発見されないとかいうのはないかなと。

石川:そういう私も今それを言おうとしました。腐乱死体になる心配が、

H:そう。腐乱する前には発見されるだろうっていうのはね、思いますよね。

石川:思いますよね、たしかに。それ、「腐乱は避けたいなあ、できれば」っていうふうには思いますね。別に、一人で死ぬのは別にいいですけど。うん。
 で、それからその、でも、そういうふうに障害年金だったり障害者手帳が取得できるようになるには、患者運動が大きくありましたよね。[01:00:04]

H:そうですね。ほんとにあの、議員さんのところを訪ねて行ったりとか、そういったことをやった成果なのかなって思ってますね。今もあの、微力ながら運動は、してないわけじゃないんだけれども、やっぱりコツコツとやっていく、いったことの積み重ねで助かっている部分っていうのはすごくあって。誰も運動しなかったら今でも何も変わってないと思います。

石川:そうですよね。たとえばこの10年20年で、その診断ついた頃でさえも、その障害年金だとか障害者手帳を取得できてる人って聞いたことありました?

H:いや、一人もいなかったですね、そんな人は。

石川:あ、Hさん、今のもう一回いいですか? 今ね、すごい音がね、すごくとれなかった。

H:えーと、20年前は障害年金受けてたり障害者手帳持ってる人には会ったことがないです。

石川:聞いたこともなかったですよね?

H:はい。聞いたこともない。

石川:でも、おかしいと思いませんでした? こんなにいろいろ制限があるのに、通院もね、ままならない状況なのに、あんまりそういうこと考えなかったです?

H:えっと、私の場合はもう長いこと「気の持ちよう」と言われ続けてきて。ときどき調子がいいときもあるじゃないですか? 動けるとか。で、なんかそれが続くような気持ちになっちゃったりとか、すごく「自分が病気だって思っちゃいけない」みたいな圧力がすごくあったから、なんだろ、けっこう受け入れるのに時間がかかったかもしれない。

石川:その病気を受け入れるのに?

H:そう、病気を。うん、うん。

石川:受け入れられたのっていつ頃だと思います? 自分で。

H:いつでしょうね? いつなんでしょう、いつの間にかですね、なんか。ただ、きつく「働け」とか、「自分一人で生活しろ」とかっていうことを言われるたびに、どう考えても無理だなっていうふうに思ってたから、うん。

石川:悔しい気持ちだったり、なんだろう、絶望したり?

H:そうですね。絶望と悔しさと、うーん、あとまあ能力が発揮できるところがない。せっかくあっても、こう休んだりとかすると、「やる気がない人」って見られてしまうから。うーん、社会でこう…、社会に出る条件が、「1日8時間以上動けて、週2日で体力がもつ」っていうのが条件にされているわけだから、いたわけだから、もう完全にできないっていうのはもうわかっていたから。で、「この先どうなるんだろう?」っていうのもあったし。

石川:今、逆に新型コロナでテレワークが発達したり、出勤しなくていいようになったりして、ちょっと社会が変わってきた、やっと変わった、これでっていう、変わりつつあるっていうことにもあるとは思うんですけど、Hさんコロナで、コロナ禍で何か生活とか精神的なものとか変わりました?

H:えっと私、具合が悪くてお医者さんに行けないことってわりとよくあったんですけれども、それはコロナで電話診療が可能になったっていうのがすごくありがたいというか。今までだったらお医者さんに行けなくて、なんか薬がなくなってもどうしようもないっていう。

石川:診察に来ないと処方箋出してもらえないっていう、

H:そうですね。

石川:のが緩和されて、むしろ暮らしやすくなったっていうか、助かったという。[01:05:04]

H:あの、薬が手に入るように(笑)。病院に行けないために薬が手に入らないっていうことがなくなったっていうのが、それはありがたい…、ありがたいというか、うん。

石川:そうですね、私が主宰しているCFS支援ネットワークとしても、厚生労働省に「オンライン診療について」とかいろいろ求めてきましたけど、コロナになったら急に進みましたもんね。

H:そうですね、うん。まあそれもお薬を取りに行ってくれてるヘルパーさんがいるおかげで成り立っているということで。自分で取りに行くっていうのは、あの、私、経腸栄養剤もいただいているんですけど、あれはもう重くて、とても一人では運べないんですよ。で、以前は送ってくださってたんですね。だけど、

石川:病院が? 薬局が?

H:うん、薬局が。それがもうだめっていうことになってしまって。で、けっこう近くに問い合わせたんですけれども、どこも対応してないっていうことで。これがけっこういつも大変です。

石川:なるほど。この診断された頃と今と大きく違うところって、どういうところに感じます? 環境かなり違ってきたようにも思うんですけど。

H:全然違いますね。

石川:どういうところが違いますか?

H:病気って、「病気の人」って思われるっていう(笑)、そこが一つ違いますよね。「怠けてる」とか、「信用できない人」っていうふうな目で見られにくいのが大きく違うのと、

石川:それ、なぜそんな変わったと思いますか?

H:うん、やっぱり運動っていうそんな大げさなことじゃないけど、とにかくうちに来る人とか、役所から来たりした人たちはもうみんなに、私コピーを渡してたんです、病気のことの。

石川:何のコピーを?

H:病気のことが載った記事があって。

石川:新聞記事ですか?

H:うーんと、うん、雑誌に載ったものなんだけれど、

石川:載った記事。はい。

H:それがすごくわかりやすいと思ったので、それをもうたくさんコピーしておいて、来る人来る人に「あの、私こういう病気なんです」って言って渡して。もう全員、来た人来た人全員に渡すようにして読んでもらって。けっこうそういうのでわかってくれたというか、ちょっと意識を持ってくれたかなっていうのは感じてます。で、みなさん、「こんな病気の人には初めて会った」っておっしゃってました。

石川:その雑誌に載るようになったのも、前はそんなに出てましたっけ?

H:いや、出てなかったですね。その雑誌もちょっと前の雑誌だったと思うんですけど。

石川:何の記事だろう?

H:あの、『きょうの健康』とかそういうやつですよ。

石川:ああ、倉恒先生の?

H:そう、倉恒先生の記事です。倉恒先生の記事はすごくわかりやすく書いてあるから、よかったですね。あれはほんとに役に立ちました。

石川:なるほど。だからこう、たとえば私たちの病気、この慢性疲労症候群の病気を本屋でも目にする機会がなかったわけですよね、2年ぐらい前までは。

H:なかったですねえ。

石川:だからこう、一般市民の人も当事者も、情報が乏しすぎましたよね。

H:うん。そう、本当に情報がなかったし、まあ今でも、

石川:知る機会もなかったですよね。

H:うん、今でも知られてないけどね、そんなには(笑)。[01:10:02]

石川:ただ、本はここ2、3年でやっと出たって感じですよね。

H:うん、たしかに。

石川:Hさん、一回止めるね。停止。

[音声終了(前半) 01:10:23]


[音声開始(後半)]

石川:はい、始まりました。休憩後。うーんと、社会的に変わっていった背景には何があったですか?

H:えっと、やっぱり患者会の活動がすごく大きいと思っていて。で患者会もいろいろあって、やっぱり方向性が合わないなって思ったりして、かわったりしたんですけど。あの、CFS支援ネットワークに関わるようになって、で、そこは青森なので、国会議員さんとか東京にいるじゃないですか。だから東京…、私はたまたま東京に住んでいるので、そういう意味では地方に住んでいる人よりはフットワークがちょっとはあるかなって思って、できることはやりたいなって思って、参加できるものは参加したし、何か意見を言う機会があれば言うようにってしてきたんですけれども。なんかそういうことが、けっこうそれぞれね、みなさんちまちまやってきたことが、けっこう今効いてるんじゃないかなって思ってて。

石川:それまで病名を言ってもあんまり伝わらなくて軽く見られたり、いろいろしてきたのが、たとえば国会議員会館で、国会議員だったり厚生労働省だったり、そういう人たちと病気について熱く毎回話し合いしてることが、なんだろ、そういうところにこう身をおいて…、立ち会って、自分も意見を言ったりすることで、何十年も…、ん? なんだろうな、どういう思いがありますか?

H:やっと、やっと話せるっていう思いと、あの、聞いてくれる、聞いてくれようとする人がいるっていうのは、もう昔とはまったく違うことですよね。で、語っていく中で、尊厳を取り戻すような感覚もあったし、やっぱり私が、これ、いつも人に会うと言ってるんですけど、「この病気は信頼を失う病気なんです」って必ず言うんですけど、やっぱり病気そのものも大変なんだけれども、けっこうここっておっきいんだなって、言いながら自分で気づくこともあって。

石川:そうですね。それでこう、少しずつ手ごたえみたいなのもあったり。

H:うん。そうですね、手ごたえはありますよね、うん。あとはこう、やっぱり今の自分だけじゃなくて、過去の自分、誰にも聞いてもらえなかったりしていた自分も肯定できるような感覚になりますね、うん。オセロゲームでいう、黒いところが白くなっていくような、うん、そんな感覚になったりします。

石川:あとは、今もなお、昔のHさんみたいな思いをしてる人もまだいますもんね。[00:05:02]

H:うん、絶対いると思うんですよ。だから、まあ私にとっては、これは人権回復の運動でもあるわけです。

石川:そうですね。あとはその、今、慢性疲労症候群をずっと診療してくださった先生たちが引退ラッシュでもあり、主治医を失う危機にも、なんていうか、直面してますよね、私たちね。

H:そうです。ほんとにあの、怖いことですよ、後継ぎがいないっていうのは。で、今どんどん引退していってるじゃないですか、先生たちが。だから「どこに行ったらいいんだろう?」と思いますし、ただでさえ今、行くところがなくて困っている人たちがたくさんいるであろうに、どうなっちゃうんだろう? っていうのもありますね。

石川:不安ですよね。

H:うん、たぶん処方とか、今してる処方をしてくれる先生もいなくなっちゃったら、ほかにいないと思うので。やはりあの、長く診てもらってると体のこともわかってくださっているので。

石川:あとは障害年金の診断書とかも更新というか、何年かおきに意見書もう一回出さないといけなかったりするときに、書いてくれる人が確保できるかどうかっていう問題もありますよね。

H:これってもう死活問題になってきました、うん。

石川:死活問題ですよね。

H:書いてくれる人を探すのもひと苦労なんじゃないかっていう気はしています、うん。あの、手帳のときもほんとに書いてもらえなかったですし。で、けっこう患者会とかもいろいろありますけど、「ここに行くといいよ」とか、「こうすれば書いてもらえる」とかって言っても、実際には違ったことっていうのがやっぱりいくつかあって。「そんな簡単じゃないな」っていうのは、あの、体験しているので。

石川:そうですね。

H:引っ越しのときも、「通院できる距離」っていうふうに限定しますしね、探すとき。この病気にね、関心を持ってくれるお医者様が増えたらうれしいんですけど、なかなか。

石川:そうですね。今、実は来月、その支援職向けのセミナーをオンラインで開催するので、あ、CFS支援ネットワーク主催で、全国の、全都道府県の医師会などに案内を送っております。

H:ほんとにあの、福祉の人とか社協の人とかいろいろ会ったけれども、そのときに、「この病気の人に初めて会った」っての、「初めて見た」っていう人がいっぱいいたんです。

石川:そうですね。

H:「こんな人がいるなんて」って何人かの人が言ってて。だからまあ慢性疲労症候群という名前は知っていても、実際に患者を見たことがある人っていうのは少ないのかなって思っています。まあ見ても、言わないとわからないでしょうけど。

石川:そうですね。あとは家族がフォローしてたり、支援につながってないっていう、つながりたいけどつながれてないっていうかたも大勢いらっしゃるし、Hさんもずっとそういうふうにして暮らしてきたわけですもんね。

H:ええ。

石川:もっととっくに支援が受けられる状況ではあったけれども、つながれないで、結局手帳を取れたり障害年金取れたりしたときって、病名がついてからもう10年以上経ってからですもんね? [00:10:14]

H:たぶん、そうですね、経ってからですね。

石川:うん。そっから人生生き直してる感じは…。人生を生き直すっていうか、取り戻せてるところもありますか? まあ家事で悪化しなくなるとか、少しは、

H:人生を、あの、生きることを許されたって感じがします。

石川:なるほど。今までは、それまでは生きることに対して後ろめたさみたいなものがあったっていうことですかね?

H:うん、生きること…、うん、この状態で、この病気を持っていて生きるっていうのが、社会的に許されない感じはすごくありますよね、今もあるけど。

石川:うん。「後ろ指をさされる」でないですけども、

H:そうですね、後ろ指さされるし、後ろ指にも慣れます。(00:11:25)。

石川:(笑) たしかに。そういう、なんだろ、「病名出したら大変なことになる」みたいな。

H:そうですね、私の障害者手帳にも病名は書いてないですから。あと支援を受けるときも、うん、病名は最初には出してないはずです。「動けなくなっちゃった」とか、「どうしよう」みたいな、「何日も食べてない」とか、そういうかたちで入っていってるかな。

石川:なるほど。今まででその、えーと、一番熱かった、胸熱だったのっていつですか?

H:え、む、胸熱?

石川:(笑) その、「わあーっ」っていう、いろんなね、活動の中で。

H:あ、それはえっと、あの、CFS支援ネットワークがライトアップをしたんですよ。

石川:啓発デーの。

H:啓発デーで。で、そのときに、私は現地まで行ってるんですけど、そのときですね、あの、ずっと日陰のような病気、日陰にいた人たちが(笑)、

石川:日陰、たしかに(笑)、日陰暮らし。

H:そうですね。それが急に主役になり、そのために議員さんが来てくださったり。(00:13:15)、

石川:ライトを浴びて。

H:あの、みなさんが駆けつけてくださって、あと、町おこし的な着ぐるみのかたたちまで来ていただいて、で、ライトアップをしたときは、うん、胸熱でした、ほんと。

石川:たしかに。

H:あと、それを見てる同じ病気の人たちもきっと元気づけられたんじゃないかなって思ったし。あと勉強会もやりましたよね、なんか。

石川:やりましたね。必ずセットでやってますね。

H:うん。それもとてもよかったし。こう、初めてばかにされないでいられたっていうか、うん、まともに、「あ、なんか社会の中でこう、認知される一歩かもしれないな」って思いました。

石川:そうですね。ほんとに日陰、たしかに外出も難しいし、病名を言っても批判を浴びたりすることもあって、なかなか表に、なんだろう、出られない、表舞台に出られてないっていうか、なんというか。

H:そうですね。あの、まあうちの親なんかはあの、恥っていう感じで、隠さなきゃいけない。[00:15:04]

石川:たしかに、今もなお「身内にも病名言えてない」っていうかたもいらっしゃるんですよね。

H:ああ、わかります。うん。で、「病名を言わなきゃよかった」って思うことがすごくありました。

石川:特殊ですよね、そのへん、やっぱり。

H:そうですね。で、「この人は信頼できる人だ」って思うから言うわけだし。私のことも信頼…、まあ「信頼関係が成り立ってるって思う」って言うんだけども、やっぱりどこか、ものすごい軽く扱われてしまうっていうか、うん。患者にとってはほんとに深刻なことで、命にかかわることだと思うんですよね。だけどそれがなかなか伝わらなくて。まあそれは、こう公に病名を言えるっていうことだけでもうれしかったですね。

石川:うん、たしかに。そして診療してくれるお医者さんが絶滅危惧種のような今、状態なので、そのピンチもありますけれど、社会的な認知は広がっていきましたよね。

H:もう、ほんとにそれは。

石川:メディアでも、啓発デーもかなりの取材受けてますし。

H:啓発デーはやっぱりよかったと思いますよ。あの、中にはね「ライトアップして何になるんだ」って言う人もいたけど、でも知ってもらうことがまず第一だったから、うん、あれは良かったと思う、やって。これから、

石川:今コロナでね、なかなかそういうこともできにくい環境にはなっていますけれども、細々とでも続けていけたらいいんですけれどね。

H:そうですね。やっぱりその、お医者さん問題がすごく深刻だなって思ってるんですが。

石川:やめられないですよね、そういう意味で。やめる怖さってないですか? 活動を。

H:あ、活動をやめたらいけない気がします(笑)。

石川:「やめたらどうなるだろう」って。

H:やっぱ足りてないと思うし。うん。まあせめて診断基準が確立、きちんと数字で確立するようになってもらわないと、うん。やっぱりどこか、どこかで「え、ほんとに?」って思われているような感じがあるんですよね。私なんかはあの、ぱっと見、車いすに座ってない限りはわからないので。まあ杖持ってるときもありますけど、何もなければほんとに普通の健康な人に見えるので。まあそういう人もいるってわかってもらえるといいかなっていうのも思ってるんですけど。もう突然、横になっちゃったりするから。

石川:また横になれる場所があるとわかってないと出かけにくいですよね?

H:そうです、そうです。ほんとに、うん、知らないところに行くときはやっぱそれがわかってないと、なかなか足が重い…、重くなりますね。怖いですよね、「倒れたらどうしよう」って思うと。

石川:いつもそれ、考えてますよね。

H:うん。必ず出かけるときは、「ここで休める」ってチェックを入れて。で、朝、具合が悪くて起き上がれないときのことも考えて、ものすごいゆとりをもって、けっこう何日か前から緻密な計画を組んで、絶対その日には倒れないように気をつけて出かけて。そのあとも休息の時間をたくさん取って。で、あの、仕事で最長、たくさん、たくさんっていうか毎日行ったのが、私は4日か5日なんですけど、[00:20:15]

石川:最高記録が。

H:最高記録が、休まず行けたのが、うん。で、学校もそうなんですけど。そうすると、「なんだ、働けるじゃない」って言われちゃうんですよ。でも、私そのあとひと月寝込んでるんですよ。そこがなかなか理解されないのがこの病気の特徴かなと思うんですけど。

石川:なんか自分の主張だけで、なんか証拠がないというか、「行きたくないから行かないだけじゃないの?」っていうふうに見られてしまったり、「もうちょっと気合入れればできるんじゃない?」みたいに取られるのかな?

H:うん、「仕事4日やっただけでもう嫌になっちゃったの?」みたいな感じですね。

石川:うん、うん。「続かない人だねー」みたいな(笑)。

H:あ、そう(笑)。あの、「飽きっぽい」とかね。飽きっぽいわけはないんですけど、あの、

石川:あの、「収入欲しいです」っていうね。

H:そうです、欲しいですよ。いや、飽きっぽかったら、こんなに何年も活動できないですからね。

石川:うん。でもほんとに、一人一人のそういう力が集まって、大きい動きにもなってきてることはなってきたなって、すごい、なんだろ、支援の輪が少しづつ広がってきたなっていう感覚はちょっとありますよね? 病名通じ始めましたもんね、最近は。

H:うん。だから社会的認知が進んだなっていうふうに思います。

石川:ね。まだまだ十分ではないですけれども、違いは感じられるようになってきましたね、最近は。

H:あとは、「その患者さんに会ったことがある」とかいう人がもっと増えてくれるといいかなって。

石川:そうですね、うん。その病名言ったら、「どういう配慮が必要か」っていうのすぐ、伝わるようになるといいですよね。

H:そうですね。

石川:何言ってるかわかんないな、私、今(笑)。

H:啓発デーのときに、初めてお会いした人たちが、私が患者だっていうのがわかると、「ここに座りなさい」とか、「ここに横になりなさい」とか言ってくださって。

石川:ああ、天国(笑)。

H:うん、あの、本当にありがたかったですね。

石川:そうされたことあります?

H:いや、あれが初めてでした。もう生まれて初めて。

石川:びっくりしますよね、逆にね。

H:びっくりします、本当に。

石川:私も今、それ初めて聞いた気がする。

H:あの、ほっとしますね。うん。いつも緊張してるんですよ、どっかで。

石川:構えてたり?

H:と、あと「倒れちゃいけない」って思って。あの、倒れると、あの、やっぱり視線が痛いし、

石川:たしかに。

H:「おおげさだ」とか、「よくやるよ」って言われることもけっこうあったので、「倒れちゃいけない」って思ってがんばって、倒れないと。まあ成功はするんだけれども、倒れなければ倒れないで、「なあんだ、大丈夫じゃない」って言われてしまう。どっちにしても、やっぱり「うそじゃないか」ってなってしまうところが、あの。「倒れる前に休みなさい」なんて言われたのは、あれが初めてですから。

石川:(笑) すごいね。

H:すごい。

石川:けっこうそれが、参加すること自体がとても体にとっては大変だったりするんですけれども、それがやっぱり活力っていうか、元気もらえるって言ってましたよね? たしか。[00:24:53]

H:あ、そう。心がとけていく感じがあります。こう、いじめられて固くなっちゃって閉じてた心、ほぐされるような感覚がありますね。

石川:なるほど。やってよかったんだな。

H:そうそう、「いてもいいんだな」って思いました。

石川:うん、わかる(笑)。なんか「迷惑かけるだけ」みたいに、「迷惑かけちゃうな、参加しても」っていうふうに、けっこう私もそう言われれば、そういう遠慮はあったりするから。いったん参加したものの、「倒れたらどうしよう」とか。

H:あと、よかれと思って「早く帰りなさい」とか言ってくれるかたもいらっしゃるんですけど、私は、「できれば転がらせていただいて、最後まで聞きたいな」とか、思うこともあるし。あとは、「これをやったら倒れる」ってわかってることってたくさんあるんですけど、あの、「倒れてもやりたいな」って思うことはやるようにしたいなと思っていて。でないと結局、何か行動すれば倒れるんですよ、この病気の人たちは。だから、「倒れないように行動する」って言うと、何もできなくなっちゃうんですね。ただ家で寝てるだけになってしまうから。

石川:それが一番リスクがないは、リスクはないけれども、

H:でも心が死ぬっていう、うん。だから、

石川:うん。ですね。あとは病気のことを勉強する機会っていうのも、なかなかなかったですものね。

H:そうですね。

石川:診察のときは、まあ最近のこと、自分の体調を報告してっていうことで、その勉…、なんだろう、病気のことを解説、くわしく聞ける機会っていうのがほんと私もなかったので、自分で作ったっていう感じですけれども。

H:まあ、最新の研究がどうなってるかを知る機会もそんなにないですし。

石川:なかったですよね。まあ今もないんですけど。もうちょっと情報提供を、国にしてほしいですよね。

H:そう。ほんとに国は、やる気があるのかよくわかんないですけど(笑)。

石川:国がその気になれば、そういうふうな情報提供もしてくだされば、「そんな病気ない」とも言われないですみますしね。

H:そうですね。そうですね。だから私は今は、学校の先生とかにも知ってほしいと思っているし、やっぱり私、学校の先生に、「具合が悪かったら遅刻してきてもいいよ」とかよく言われてたんですけれど、私はむしろ「早引きをさせてほしい」ってすごく思ってたんですね。結局学校に最後までいて、朝足りないんですよ、回復できないんですよ。だからなんかこう、早く帰って早く休んで、宿題もしないで。うーん、それでも、やっぱそれでもね、行けなかったんですからね。

石川:うーん。あの、クラスでいじめられたりとかはしなかったんですか?

H:あの、休んでばっかりいる子はいじめのターゲットになりません。

石川:あ、ならない?

H:うん、ならない。いるかいないかわかんないじゃないですか。

石川:ああ。「何で休んでんの?」とか聞かれたりしないんですか?

H:あー、しなかった。

石川:あ、なんかアンタッチャブルな存在だったのか。

H:うん。まあ「体が弱い人」って思われていたから。

石川:ああ、なるほど。

H:あ、まあだから、「運動会で同じチームになりたくない」とかそういうのはあったと思うんですけど。

石川:(笑) あ、じゃあそれで、なんかいじめられるっていうことはなかったんですね。

H:ないですね。ただ、ボーリング大会とかで「いればいいから」って言っていただいたら、「優勝ねらう」とか言われたときはあの、非常に居場所がない、みたいなのはありますね。

石川:(笑) 「足引っ張るナンバーワン」みたいな。

H:そうです。

石川:(笑) うん。まあね、学校だとか、まあ医療の関係者だけじゃなくて、学校だとか、もっと広く知られるようになったら、[00:30:10]

H:そう、そうですね。やっぱり、うん、こう人間関係が一番つらいと思うんですよね、この病気って、なんだかんだ言って。

石川:その病気の苦しみそのものよりも、ということですよね?

H:やっぱりそうですね。寝たきりと言っても、うん、病気を理解されて寝たきりでいるのと、まわりに、まわりから「うそつきだ」とか言われて寝たきりでいるのは、なんか針のむしろにいるみたいですよね。

石川:そうですね。

H:できるだけその、死にたくならないようにというのを考えて、楽しく、楽しい時間を多く持てるといいなって思ってるんですけど。けっこうね、死にたいと思っている人いっぱいいると思うんですよね、この病気の人って、うん。私もそう、私はいつ死んでもいいんですけど、とにかくやっぱり具合悪いと、「早く寿命来ないかな」とか思っちゃうので。そうすると、楽しいことがあるといいじゃないですか。うん。

石川:ですね。

H:ただ、ただやっぱり、病気を認めてくれないというか否定する人たちは、楽しむこと自体を悪く言うから、うん。「楽しいときだけ具合よくなるんだよね」とかね。せっかく楽しい気持ちも半減したりとか、悲しくなったり。なんだろうね、あれ。悔しい気持ちというか、「この日のために体を調節してきたのに」っていう憤りみたいなのもあったりするし。怒りと悲しみですかね。

石川:ね、啓発デーのときはそれがないですもんね。

H:ほんっとに。なんか「それがないだけでこんなに心が楽なのか」って思いました。

石川:たしかに。そういう時間がほんとにそれ以外ないですね、よく考えたらね。

H:うん、そう。体の状態は何も変わってないのにこう、まわりの空気が全然違って。なんだろうね、やっぱり、うん、認められないって大きいですよね、やっぱ認められるか、られないかの違いって。

石川:あとは疑いの目で見られるっていうことの、なんか重さっていうか。

H:あれって要するに人格否定ですからね。

石川:居心地の悪さみたいのがありますもんね。でも、ここ何年かは今までのそういうのを取り返せてきたということで、これから楽しいことをたくさんできますように! (笑)

H:(笑) ありがとうございます。なんか取り返すってのは、ちょっとニュアンスが違うんじゃない? なんか(笑)。うん別にね、過去は過去で全然どうこうしようとかは思ってなくて。うん。なんだろうな、過去への見方を…、見方が変わることで、なんだろうな、過去は変えられないけど、見方が変わることで違うじゃないですか。だからそう、あ、なんだろうな、「あ、うそつきじゃなかったんだな」とか(笑)、その「がんばってたな」とか、すごくプラスに見られるようになったのは大きいかなと思います。

石川:それはまわりからってことですか?

H:いや、自分が、自分がですよね。

石川:自分の視点でっていうことでね。

H:そう、自分の視点です。うん。そうそう。

石川:わかりました。ありがとうございました。

H:【ありがとうございました】(00:34:34)。

[音声終了(後半) 00:34:35]

*作成:中井 良平
UP:20210727 REV:
難病  ◇線維筋痛症  ◇慢性疲労症候群
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