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小西惠子氏インタビュー

20210209 聞き手:石川真紀 於:Zoom

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■インタビュー情報

◇小西 惠子 i2021 インタビュー 2021/02/09 聞き手:石川 真紀 於:Zoom
◇文字起こし:ココペリ121

■関連項目

難病  ◇線維筋痛症  ◇CRPS:複合性局所疼痛症候群  ◇慢性疲労症候群  ◇なおすこと  ◇名づけ認め分かり語る…  ◇原因/帰属 c11

■本文

134分

※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)としています。

■■

[音声開始]

石川:今日はよろしくお願いします。みなさんにそうしていただいてるんですが、基本的には全部録音して、あとで不都合なとこや間違いがあれば修正したり削除したりっていうことができます。で、承諾いただいたものをウェブサイトに載せていきますので、よろしくお願いします。

小西:はい。よろしくお願いします。

石川:はい。今日は小西惠子さんにインタビューをさせていただきます、はい。小西さんは今おいくつですか?

小西:70歳です。先日70歳になったんです、古希ですよ。

石川:古希ですね、おめでたいです。おめでとうございます(笑)。

小西:いやー、なんかあの、10代で死ぬと思ってたんですけど、死なないで、20代30代40代でも死ななくて、古希まで生きてきました。

石川:すばらしいです。

小西:ほんとに、「なんで生きてるんだろう」って思うくらい。

石川:そうすると、この慢性疲労症候群になってからは半分ぐらい? 半分以上かな?

小西:そうです、30で発症してるので、

石川:はい。40年ですね。

小西:40年ですよ。

石川:ほんとに、

小西:あ、すごい、40年だ。

石川:40年記念に、このインタビューをさせていただくことができて(笑)。

小西:(笑) あー、いいですね。それもいいですね、記念になります。

石川:ね。あの、生き字引として記録に(笑)。貴重な記録ですよ。で、発症したときは東京にいたんですよね? 30歳のとき。

小西:そうです。

石川:はい。どういう感じでしたか? 発症したとき。

小西:朝、目が覚めたとき激しい疲労感で起きられない状態が、1か月ぐらい続いてたんですよ。なんとかその、勤務はつづけたんです。その当時は会社勤めしてたんですよ。なんとか会社行けたんですけど、疲労や倦怠感のほかに微熱、息苦しさ、胸の痛みなどが出始めたんです。

石川:電車通勤してたって感じですか?

小西:そうです、そうです。それで、そのあまりのだるさで起きられなくて、しばしば欠勤したんですね。で、どうにか起きて出勤しても、通勤時にもう疲れて、胸が苦しくて、息もできない状態が起こったんですよ。で、「これは異常だ」と思って受診したんです。

石川:1か月ぐらい様子見て、受診したんですね?

小西:そう様子見…、まあね、様子見っちゃ、様子見なんだけど、「これはいったい何だろう?」と思って。

石川:そんなに続くと思わなかったんじゃないですか? 最初は。

小西:そうね。うん、最初はね。あまりにもう、すっごいだるいし、あんたね、もう言いようのない、なんかもう、こう体ひきずって会社に行く感じ。

石川:で、帰ってきたらもう、

小西:もう、もう駅から歩けなくてタクシーですよ、ワンメーターなのに。それで、帰ってきてもごはんの用意なんかできないから、駅前でラーメン食べてくるとか、それでタクシー乗って帰ってくるとか、もう。で朝も、朝もちょっと駅おりたらバスに乗らなきゃいけなかったんですよ。そのバスが待てないんですよ、立ってんのもつらいし。だからそこはワンメーターちょっとだったんですけど、まあタクシーですよ。もう朝も帰りもタクシーで、いったい何のために働いてんのか全然わかんなくなってきた。[00:05:10]

石川:そうですよね。その交通費、会社で出してくれるわけでもなし。

小西:そう、そうなの。

石川:ただ、やっぱり仕事失いたくないし、まあ永遠につづくと思ってなかったから、とりあえずしのいだっていう感じですよね? タクシーで。

小西:そう、そうです。その通りですよ、ほんとにもう「しのいだ」って感じです。こんなに40年も続くなんて全然思ってなかって。もうすぐ、すぐっていうか、なんかおかしいとは思った、で異常だとは思ったけど、何年も寝込むとかね、そんなことは全然考えられなかった。

石川:思いあたる予兆っていうか、原因もなかったですか?

小西:いや、みんな「突然なった」とか言うでしょ。そうだけど私の場合はあの、その3か月、発症する3か月前から、なんか喉が腫れて、あの、勤務中に「耳鼻科行ってきます」とか言って、次の月もまた「耳鼻科行ってきます」って言って、「また?」って言われた、ですよ、毎月ですもん。

石川:で、耳鼻科では何て言われてたんですか?

小西:いや、ただ「喉腫れてるね」で終わりですよ、うん。「めちゃくちゃ疲れてる」とか言わないじゃないですか。

石川:そうですね。

小西:うん。なんか、なんかひどーい、もうだるさはあったんですよ。だけど耳鼻科ではそんなこと言わないから、ちょっと喉になんかルゴールか塗って終わり。で、まあ良くなるんですよ、それはそれで喉の腫れはね。でもまた、ってなるからね。で、ある日その電車…、朝ね、目が覚めたときに、もうその今までの疲労じゃないんですよ。もうほんっとに激しい疲労で、起きられなかった。それで遅刻してったり、それから出社しても更衣室で寝てたりとかしてたんですよね。

石川:それで1か月それが続いて、病院に行ったときには何て言われたんですか?

小西:いや、「どこも異常ないね」って。

石川:大学病院でしたっけ?

小西:東京女子医大です。

石川:何科に受診したんですか?

小西:それはね、えっとね、心…、心臓、心臓、

石川:心臓の科ですか?

小西:ちょっとお待ちください。循環器ですね、循環器。だってさとにかくね、心臓が痛いんですよ、私の場合はね。だからこれはね、なんかその、心臓のことってよくわかんないじゃないですか。わかんないから、「こんなに心臓が痛いのはおかしい」と。で、循環器内科に行ったんですよ。それで心電図やったりトレッドミルやったり胸部のエックス線をやって、結局「異常がない」ということで、安定剤処方されて経過観察となったんですよ。

石川:それでまたしばらく様子を見て、そこに通った感じですか?

小西:そうそう、様子見っていう感じでしたね。何回行ったのかな? うーんと、合計で6回行きましたね、半年で。半年で6回。10月7日、1981年の10月7日に受診して、82年の3月31日まで。[00:10:01]

石川:はい。でとくにじゃあ異常も見られず、進展もなく?

小西:そうです、経過観察。

石川:で、症状は、良くなったり悪くなったとかありますか?

小西:いやあもう、

石川:変わらず?

小西:悪くなったのみですよ、悪くなるのみ。良くはならなかった。

石川:仕事は続けてられたんですか?

小西:いやいやいや。休みました。

石川:休職ということですか?

小西:休職じゃないんだけど、3か月休みましたね。休職だと、えっと、給料が60パーセントぐらいになるのかしら?

石川:そうですね、傷病手当。

小西:そうでしょ。だからそうじゃなくて、なんか別の、有給使ったり、あと何だったんだろ、よくかわかんないけど、えーと、病欠ということで、

石川:その間(かん)どういう気持ちでしたか? 病院では原因がつかめず、かといって良くなるでもなし、仕事は休まなくちゃいけない状況で、焦りだとか不安だとか、

小西:あの、いや焦りも不安もありますよ。だって一人暮らしでしてたわけだから、「来月の家賃どうしよう」って。まあ多少の貯金はあっても、「これ、いつまで続くんだろう」って。だからほんとにね、「これっていったい何なの?」って、「こんなの」。あの、「異常なし」って言われたときはまだ歩けてるんですよ。ただ、1回は救急搬送されたんですけどね、激しい疲労で動けなくなって、もう心臓痛くて。

石川:家? ご自宅でですか? 勤務先から?

小西:いや、あの、違う違う違う。えっと、私すごく熱心なもんでね、ショッピングセンターの視察に行ったんですよ。そしたらもう激しい疲労で急に動けなくなったんです、その場に座り込んじゃったんですよ。それでもう心臓痛くてしょうがなくて、で、救急車呼んでもらって1回は行ったんですけど。もうおとなしくしてると、まあ少し良くなるわけですよ。それで「もう帰っていいよ」って言われて帰るの。まあだけど、「こんな苦しいのっていったい何なんだろう?」って。
 で、治療はその安定剤の内服だけでしょ。で経過観察って言われたけど、あとは十分な休養って言われたんだけども、その、もうね、なんていうか打ちのめされるくらいの疲労で、ゆっくり歩くのも、ゆっくりゆっくり歩くのもつらい状態です。ほんとにゆっくりですよ。もう何かにこう、家(うち)ん中だと伝い歩き、で外だともうほんとに、普通の人が5分で行くようなところを30分もかけて歩くぐらいのゆっくりさ。で、病気の原因は不明だという。もう6回行っても不明っていうのみで、「これといった治療方法もないから」っていうことで、えっと、

石川:じゃあ6か月で通うのをやめて、

小西:そう、転院することにしたんですよ。で、「どこ行けばいいんだろう?」と。

石川:それは通ってた病院から紹介されるとかではなくて、自分で探して変えてみようっていうことですか? [00:14:50]

小西:そうです。「あ、この先生にかかっててもどうしようもないな」と。それで次に行ったのが、えーと3か月後かな。1982年の3月31日まで通ったんですよ、女子医大に。それで1982年の6月ごろ、今度は、いや私とにかくね、心臓とおぼしきところがすっごい痛かったんですよ。で拍動のたびにもう痛くてしょうがないわけで。だからもう私、「これ、心臓止まってくれたほうがいい」とさえ思った、「もう、そしたら楽になるのに」って。そんなことありえないでしょ、死ぬときしか、ねえ。

石川:そうですね、イコール死ですよね。

小西:そう。だから、

石川:そのあと、また別の病院に行かれて、

小西:今度はやっぱりね、心臓がおかしいのかなと思ったんだけど、あの、心臓血管研究所付属病院っていうのが、えっと駅でいうと乃木坂? 乃木坂が近いかな。六本木方向からまっすぐ、えっと青山のほうに向かって歩いていく、そしたら左側にあったんですけど。それはね、誰が言ってたのかな。会社の人が「僕そこ行ってるよ」って言ったのかな。

石川:みんなこう心配して、病院紹介してくれたりしたんですね? きっと。

小西:そうね。「あそこの先生はいいよ」とか言って、「じゃあ行ってみようかな」っていう気になって行ったと思います。

石川:はい。で、そこでも進展あったんですか?

小西:なかったの。

石川:やっぱり「異常なし」で。

小西:うん。いろいろ検査したけど、「異常なし」って。循環器にも異常がない。で歩くのにもつらいっていう原因はわかんないで。で何を出されたかわかんないんですけど、なんか「内服薬で様子見をしよう」っていうことになったんですよ。だけど、なんとか2日出社して1日休むっていう状態になったので、

石川:そのときはもう3か月お休みしたあと、また仕事に復帰してるんですね。

小西:あ、そうなんですよ。あのね、休んだらやっぱり良くなるんですよ。

石川:ちょっと良くなったんですね。

小西:ちょっと良くなった。だけど、まだ行くのは怖いんだけど、あの、どのぐらい疲れるかわかんないから。ただ、ほんとはもっと休んでいたかったんだけども。あの、まあ会社にとっちゃ迷惑かもしれないけど、ちょっと行ってちょっと休んでみたいなことをやって、まあなんていうんですか、慣らし療法みたいなことをやろうかなって自分は考えたんです。慣らしていけばいいかなって。だけど、それはだめだったんですよ。もう2日出たら1日休む。で、そんなこと言われて…、あ、そうじゃない、そんな状態になって、えっと、1982年の12月に退職です。退職しました。

石川:82年の12月に退職になったんですね。

小西:そう。ボーナスもらってから退職しようと思って(笑)。

石川:ねえ。

小西:そう。で、もうね、6月ぐらいから、半年前からもう辞めようと思ってたんですよ。で1日ものすごい長いわけ。それだから、もう5時になったら、夕方ね、退社するときになったら、あの卓上用のちっちゃいカレンダーを机の中に隠しておいて、1日終わったらその日にバツつけるんですよ。でそうやって6月、「あ、ボーナスもらうまでがんばろう」って思って。

石川:ねえ。それでもう、その時点でじゃあ発症1年ちょっとですもんね。

小西:1年ちょっとかな。あ、そうそう、そうね。[00:20:00]

石川:しかも原因もわからないまま、仕事を続けられない状態なのに「異常なし」と言われて、体は苦しいし。

小西:そう、そうなの。もうどうしようかと思ってね。だけどもうね、退職するしかないわけよ。で、だって呼び出されて、上司にね、あの、まあいわゆる肩たたきですよ。「休職したらどうか」とかね、「ちょっとここで、もう辞めたほうがいいんじゃない?」とかね、うん。

石川:はい。で、辞めて。でもある意味一方で、ちょっと体休められるから、少しほっとした気持ちもありつつ、不安もありつつ。

小西:いや、そのあとはその、ボーナス出たし、まあ微々たるもんだけども、まあ何か月かは休もうと思ってたんですよ、「それで良くなるだろう」って。ところが一向に良くなんないんだけどね。だけどまあ私の思いとしては、「これ会社に行ってるから良くなんない、働いてるから良くなんないんだ」と思って。

石川:徹底的に休んでみようと、

小西:そう、思ったんです。

石川:はい。それがいつぐらいまでですか?

小西:いや、ところがね、あの、ところがですね、えっと12月に退職して、1982年の12月に退職したでしょ。で、休もうと思ったら…、ちょっと待って、えっと次の年、年明けの2月。2月、2月からにね、仕事が舞い込んだんですよ。いや、もうフリーでね、ぽつぽつ働こうと思ってたんですよ。

石川:デザイナーのお仕事でしたよね?

小西:そうです、あの、広告関係とか。まあもともとパッケージデザイナーなんですけど。立体が好きなんですよ、それでパッケージのデザインを主にやってて。あと広告関係も、平面もやってるけど、とにかく立体が好きでね。だけどまあパッケージの仕事ってそうそうないんですよ、あのフリーでやるには。だいたいが、

石川:はい。だいたい全部ねオール媒体で、そのうちの1個だったりしますもんね。

小西:そうそう。それでだいたい大日本とかね、大日本印刷とか、電通とかね。まあだいたいね、大日本印刷のパッケージ部門が、パックっていう部門があって、そっからあの、下の子会社、子会社じゃないや、下請けの会社に下りてくるのが多いんですよ。だから、

石川:はい。なんか懐かしい話です、私も(笑)。

小西:(笑) パッケージデザイナーでね、独立するっていうのはね、非常に難しいんですね。

石川:うん。また当時、フリーでお仕事するっていう人たちって、今ほど多くなかったんじゃないですかね? 「会社、会社」っていう感じで。どうでしょう、そうでもないですか?

小西:でもデザイン業界はそんなことないで…、ないと思いますよ。なかったと思う、うん。まあでも、「フリーでやろう」と、まあ良くなってからね。

石川:はい。ちょっと2か月休んで、ちょっと体の負担も心の負担もなくなって、少し上向きになってはいたのかな?

小西:そう、そうなんですよ。やっぱりね、休んでたから、2か月ね、何もしない状態で休んでて、まあストレスもなくなったし、会社に行って、

石川:会社に対するね、負い目だったり。

小西:そう。それからなんかあの、陰口もあるし、いろいろあるじゃないですか。

石川:やっぱりこう「さぼってる」的な? 「楽してる」とか「さぼってる」みたいな言われかたするのかな?

小西:さぼってるって…、「あいつ何なの?」みたいな。[00:25:06]

石川:うん。それこそほら、休憩が多かったりすると、

小西:そう。「あの人何?」って感じかな。

石川:で、2月からフリーでお仕事されて。

小西:そうなんですよ。ぽつぽつとね、働き始めたんです。いや、たまたま仕事が舞い込んで。で3年間、あの、フリーなんだけど某社の専属みたいなかたちで、ある会社のね。そこで、まあでもかなり自由な職場で、別に行こうが行くまいが仕事さえすればいいと。ただあのやっぱり仕事場のほうが、いろいろ資材そろってますからね。必要なもんってあるじゃないですか、ラフ描いて…、いや、これで描こうかとかあれで描こうかとか、紙いっぱいそろってたりとか。うん。

石川:それで何歳ぐらいまで、その、

小西:だから3年間ですよ、3年間。だから80…、1985年までですね。

石川:はい。そしたらその間(かん)は体調的にはちょっと、

小西:だからけっして悪くなかったの。すごい疲れることは疲れるんだけど、それがフリーのいいところで、「今日具合悪いから行くのやめよう」とかね、締め切り、

石川:体調に、たとえば毎朝必ず出勤しなきゃいけないっていう、その出勤するっていうのだけでもしんどいので、

小西:それがない。そう。

石川:そういうのがちょっと融通がきいたぶん、体の負担もちょっと少なく、なんとか仕事ができてた。

小西:かなり楽になりましたよ。

石川:それでなんとかやってこれたんですね? 3年。

小西:そうです。だから毎日行かなくてもいいし、ただ締め切りだけは守らなきゃいけないから、あの、まあ具合が悪ければ、お昼ごろ出社、出社っていうのかな、事務所に行って、で仕事して、で帰ってくればいいし。

石川:で、その間も病院通いはしてたんですか?

小西:行ってましたよ、その心臓血管研究所付属病院に。

石川:でも「異常ない」って言われてるのに、でも「もう来なくていいよ」って言わないんですね。

小西:そのせん…、主治医は言わなかった。で、なんだかわかんないけど、まあその当時ほらあの、今みたいに「何を飲んでるか」なんて、お薬手帳ももちろんないし。

石川:ないですよね。で、何の薬出されてるんだかもわかんない状態でしたよね。

小西:そう。あの、そう、「医者が出す薬がわかる本」っていうのあったじゃないですか。ああいうのを見て、いやあの、自分の薬を知ることしかできなかった。そういう時代だから、何飲んでるのかわかんないんですよ。

石川:でもまあ「来なくていいよ」とは言われずに、一応面倒みてくれてるっていうか、なんていうか、

小西:そうそうそう。

石川:一応ね。でもたぶん、ときどき検査とかもしてみたりしてたんでしょうけど、異常出なかったんでしょうね。

小西:ないですね、異常ないです。ただ、血圧がすごい低かったから昇圧剤は飲んでたんですよ。それはわかったの、「昇圧剤出しとくからね」って言われたから。あともう1種類ぐらい何か出てたんだけど。

石川:で、そのあとは、あの、3年のあとはどうなったんですか? [00:29:52]

小西:そんでね、そうだね、えっとそのときはね、えっと、受診回数は月1回のペースで行ってたんですよ。でね、入院2回あるんですよ、そこにね、救急で運ばれたりして。やっぱりなんかやけに脈が速くなったり、遅くなったりするんですよ。だから私はね、その、なんかその疲労があるんだけど、「この心臓の痛みを止めてくれ」って思って、なんかそのすがるような気持ちで行ってた。ただ、「無理しないでのんびり過ごしなさい」って言われたんだけど、そんなの、

石川:けど「心臓には異常がない」って言われてるんですね?

小西:うん、「異常はない」って言われてる。それだけどドクターはその、「もう来なくていい」とも言わないし、なんだかわかんないけど、いや飲んでる薬もわかんないし、で経過も思わしくないし。だからちょっと「私どこが悪いんだろう? ほんとに。はたして」って、「どっか紹介してくれたらいいのに」って思ってたんですよ。だからあの、主治医がね、退職することになったの。え、それを機に受診することもなくなったんですよ。で、そことは縁が切れたの。
 それで今度ね、あの、まあ西洋医薬飲んでも、何飲んでるかわかんないけどだめだったら、今度漢方治療を…、はどうなんだろうと思って。198…、あ、ちょっと待って、なんか重複してんのかな、病院が。ちょっと待ってください。

石川:まあそこらへん、正確でなくてもいいですけど。だいたいそのあとに、その漢方の病院に行きだしたんですね?

小西:ちょっと待ってね。そうそう、昭和58年ってね、いったい何年? 83年? 83年か。58年、昭和…、

石川:83年です。

小西:ね、83年ですよ。83年に、全然思わしくないから、あの、えっとこれね、友だちがなんか、なんかそこに行ってるかなんかで、なんかいいようなことを言ってたんで、行ってみようと思って。で、うちの近くだったんですよ、日産厚生会玉川病院っていうの。で近いから、でタクシー代もワンメーターだしね。

石川:通いやすいから。

小西:そうそうそう。

石川:で、そこで漢方治療も、じゃあ受けることにして。

小西:受けることになったんです。でね、えっと、で、慢性疲労…、

石川:じゃあフリーで働きだした年ですもんね? 83年って。

小西:そうです、そうです。ん? ちょっと待って。そうです。で、そっちはそっちでとにかく、まあとにかくね、すごい疲れるわけ、ものすごいね。でまあフリーでなんとか、まあけっこう気楽に働いてたから、給料もよかったんです。給料っていうか、すごく実入りがよかったんです。

石川:いいですね(笑)。ちょうどバブルの始まりのあたりですね。で、玉川病院ではどう?

小西:そう、「慢性疲労症候群の疑いあり」って言われたんですよ。

石川:えー! その時代に?

小西:ちょうどね、あの、うん、あのね1990年だったかな、『Newsweek』(ニューズウィーク)で「第二のエイズか」っつってすごいセンセーショナルにとりあげられたでしょ、慢性疲労症候群が。[00:35:03]

石川:90年じゃないかな。

小西:ん? 90年でしょ。だから83年のときはまだわかんなかったんだけど、「もしかしたらそうかもしれない」って私もそう、そう思ったんですよ。で『Newsweek』にね、話は前後するけど、『Newsweek』にその慢性疲労症候群ってのが取り上げられたことによって、「あ、もうこれ私絶対これだわ」って思ったの。で、主治医も「たぶんこれだね」って、「でもまあ疑いだね」。まあ断定しないじゃないですか、お医者さんって、そんなにね。だって疲労とか倦怠感とかだから。

石川:まあだいたいの病気に疲労感・倦怠感つきまといますもんね。それこそ心臓が悪くても、「だるい」とか出てくるし。

小西:そうそうそう。

石川:で、まあ「どうだったら診断つくんだ」ってことも当時はね、まだ知られてなかったでしょうし。

小西:そうなんですよ。

石川:で、その『Newsweek』の記事見つけたのは誰なんですか? 小西さん?

小西:いやわかんないけど、私ちゃんと見ましたよ、『Newsweek』って。

石川:あ、先生かな? 小西さんかな?

小西:いや、先生じゃない。私がね、どっかから入手したんだと思うんですよ。でね、そんときは入院させてもらったりしてたん。入退院をくりかえしてたんですよ。

石川:その玉川病院ですか?

小西:玉川病院に。何回か入院したんですよね。それでその、まあその玉川病院で、のちに女子医大の分院に移ることになった代田先生って。あの代表の「代」って書く、田んぼの「田」に。代田先生っていうのがその漢方治療の権威だって言われてたの。それでまあその先生の治療で、疲労・倦怠感に効果があるって思われる漢方薬の内服の治療を受けたんですね。たぶんね、今思うと小柴胡湯(しょうさいことう)かなんかだったんじゃないんかな、うん。わかんない、小柴胡湯か補中益気湯(ほちゅうえっきとう)か。

石川:じゃあ、ちょうどその通いだして7年経って、「その疑いかもね」っていう感じにやっとなったわけですね。

小西:そうです。でね、えっと、

石川:じゃあその先生が女子医大に転勤、転勤というか異動になって、じゃあ女子医にまた通いだしたんですか?

小西:いやいや、とんでもないですよ。あの新宿駅の西口からあのNS(エヌエス)ビルだから、歩けないんですよ。あのすごいビル風の強いところを12、3分歩かなきゃならないですから。今みたいに地下鉄ないし、だからとんでもないし、通えない。で、もう先生が転院し…、転院じゃないです、まあそっちに移ってからは私もう行ってないですもん。
 だけどね、ちょっとそれも話戻るんですけど、あの、1986年から、そのやっぱりね、フリーでやっても、なんだかんだいってもまあやっぱり無理がすることもあるんですよ、徹夜したりとかね。まだ自分は治ると思って、治った…、一応はなんかちょっと良くなったじゃないですか。だから「このままいくんじゃないか」って思うのね。それで61…、あ、ごめんなさい。昭和61年っていうのは1986年?

石川:うん、ですね。1986年。

小西:86年ね。そう。早見表があってね。

石川:私も今見ました(笑)。

小西:(笑) 86年でしょう。86年からね、3年間寝たきりになったんです。で、ほんとにもう寝たきり。[00:40:14]

石川:じゃあ仕事もできなくて。

小西:仕事も、そうできなくて。で、ちょうど仕事もなんか一段落したんですよね。うん。で、それもあったのかなんだかよくわかんないんだけど、寝たきり、ほんっとに寝たきり状態になってたんですよ。トイレ行くのがやっと、みたいな感じで。ほんであの、食べ物は彼氏が買ってくる。

石川:ああ。今みたいにネットスーパーないですしね。

小西:そうそうそう。

石川:で、そのとき一緒に暮らしてらしたんですか?

小西:いやいや。あの、別々ですよ。

石川:通いで買い物とかはしてくれたんですね。

小西:そう。あの、私は籍入れなかったから。まあ、のちに、ほとんど夫になんですけど、夫になるんだけど、もう事実婚であって、その、そのころから籍入れるのがすごく嫌だったの、苗字変えたくないじゃないですか。で、彼にも変えてほしくない。で、私も変えたくない。それじゃあもう事実婚でいるしかない。うん。でまあ、けっこうかいがいしく2日か3日に一ぺんはごはん買ってきてくれて、あのまあだいたい、ほらデパ地下の弁当とかね、そういうんだけど。

石川:いや、ゴージャスです、それ。それゴージャスですよ(笑)。

小西:(笑) そうね、そう言われるとそうね。

石川:そうですよ。

小西:ね、コンビニのおにぎりじゃないんだもんね。うーん。京樽のお寿司とかね、そう、買ってきて食べらせてくれた。箸持てないんですもん。

石川:でも、彼もすごい心配してたんじゃないですか? 病院に行っても「異常ない」って言われるし、寝たきりだし。

小西:でもね、その人、あの人はね、そういうとこが楽観的なのかな、「そのうち良くなるよ」って。

石川:小西さんのごきょうだいとかご家族とかには教えてました? その状態を。

小西:あ、言ってますよ、だってもうお金もないから。もうとにかく働けないし、もう貯金も底をついた。だからあの、「金をくれ」じゃないけど、

石川:ちょっと援助もらったりして、サポートしてもらって、金銭的にってことですね。

小西:そりゃもうちょっとじゃないですよね。かなりの金額を(笑)。

石川:あ、じゃあご家族も、「『異常ない』って言われるのに何やってんだ」っていう対応ではなくて。

小西:いや、「帰ってこい」って。「帰ってこい」って言ったけど、「いや、私は帰らない」と。だって帰ったら、うちの父なんかDVおやじだから、「何眠ってんだ」って「昼間っから寝てんだ」って蹴飛ばされるんですもん。

石川:休まらない感じですね。

小西:蹴飛ばされるんですよ。だからうちはね、夜しか寝ちゃいけないの。具合悪くて、なんとなくだるいときあるじゃないですか、「風邪気味だな」とかつって。それでちょっとごろんってなっただけで、「何寝ころんでるんだ」って感じなの。

石川:おー、厳しいな。

小西:もう、すっげえ。そう、こんな優しい言いかたじゃないさ。「何、だらしない、昼間から寝て」とかね、そやけんで、蹴飛ばされんのがおちです。そんなうちなんで、帰れません。だけど、だけどお金は出してくれましたよ。

石川:ああ、それはほんとに不幸中の幸いというか。それがなかったら…。家族以外にどっかに相談したり、何かしらの制度を使うっていうことはしなかったんですか? [00:45:02]

小西:全然知らない、知らないもの。全然知らない、そんな情報聞いたこともないし、どっかに相談するなんてのはまったくその、思いも及ばなかった、うん。今だったらね、「役所に相談しよう」とかね、思うけど、全然思わなかった。まあまずね、たぶんね、その今コロナ禍で職を失ってる人がいるじゃない? 多いじゃない? で自殺する女性だって増えてるわけでしょ。で、まあその人たちはまず「役所に相談に行こう」とかね、それから厚労省がいくらねホームページで「生活保護は権利です」って言っても、そもそもその人たちはパソコン持ってないとか、スマホ持ってないとか、貧しくて買えない人たちが多いんですよ。だからそんなのにアクセスできない。だから、

石川:うん。じゃああの、やっぱり家族の支えだけでがんばってきて、家族と彼氏の支えで3年間の寝たきりを支えてもらって。その3年寝たきりのあと回復したんですか?

小西:うん。いやあとね、やっぱり私のね、がんばりですよ、がんばり。「いや、このままじゃ終わんないぞ」って。で、「寝てればきっと良くなる」って、ずーっとずーっと。だけど、すごい心細いわけ。

石川:そうですよね。あと、たとえば身近に同じような症状の人がいるよっていう話もありました?

小西:まあまったくないです。そんな、そんな話まったくない。

石川:ということは、「何だろう? 自分だけ」って、共感してくれる人もいないし、病院でも「異常ない」って言われてしまうし、「いったい何なんだろう?」って。

小西:そう。でもほらあの、その1990年に『Newsweek』を見たんですよね。それで、「あ、もう絶対、慢性疲労症候群に違いない」って私思ってるから、「とにかくこれ、寝てれば少しは良くなるだろう」って。であの、そのときってね、ものすごくなんか精神的に、肉体的にもつらいんだけど、精神的にもものすごくつらくて。その、なんていうの、真っ暗な部屋でね、あの、明るいのが嫌なわけですよ、なんか、なんか光過敏で。もう真っ暗に、雨戸閉ざして真っ暗にして、で一人寝てるわけですよ。まあ彼がときどきは訪ねてはくるけど、ずーっとそばにいるわけじゃないし。で目つぶって寝てると、なんかあの、こう、星もないね、宇宙みたいなところ、真っ暗な空間に、自分が胎児のかたちをして浮かんでるの。なんか宇宙に浮かんでいる感じ。で皮膚の、裸のうえにほんとに皮膚一枚みたいな、なんかがこう貼りついてる感じ。そういうものを一枚着てるだけなんだわ。なんか着てるっていうか、貼りついてるっていうか。薄ーい。もうラップよりももっと薄い収縮性があるようなものを…、が体に貼りついてて。そのまま真っ暗なこう、中を、なんか漂ってるのかなんだかわかんないけど、そこにずーっといるんですよ。でもうあの、たぶん宇宙だったと思うんだけど、ほかの星が、星すら見えない。まわりには何もないの。自分、自分一人しかいないの。誰もいないんですよ。だから私はね、「絶対、孤独っていうのはこういう状態だ」と思ったの。[00:50:22]

石川:うん。で、それが3年で終わったんですか?

小西:そうなんですよ。あの、なんかね、そうだな、まるまる1年ちょい経ったころかな、なんか少ーしずつね、なんか薄紙をはぐように、そういうのが少ーしずつ取れてきて、3年経ったときは、「あ、戻ってきた」って感じだったの、うん。「お帰りなさい」ですよ、「ようこそ地球へお帰りなさい」。だからその経験っていうのがあってね。私、恐がりなんですよ。でね、あの、たとえばよく森で迷子になって、一人で一晩過ごした子供とかいるじゃないですか。でも私、「そういうのになったらどうしよう」と思って、怖くて怖くて。なんか「一人で森には、いられないわ」とかね。そんな、真っ暗でしょ、で森の中だし。なんかもしかしたらなんか熊とか出るかもしれないじゃない? 「そんな恐ろしいとこにいられないわ」って、ずーっと思ってたのね。だけどその、なんか宇宙にたった一人、もう誰の声もしないし、あの、音もないんですよ、無音の世界なの。真っ暗でね、闇のなかで。それで、なんか気がついたら良くなってて。そしたら、「あ、ここには土もある、木もある、花もある、森もある。みんなあるじゃないか」ってそう思って、その、たとえ森で迷ったとしても怖くはなくなったんですよ。

石川:うん。でそれで、まあ孤独も感じるし、もうほんとに世界で一人だけ経験してるっていうような気持ちにもなったりしてね。相談できる…、まあ家族以外に、なんかこう家族にもお金出してもらうっていうのもやっぱり精神的にも負い目があったりしたでしょうし。デザイナーとしてうまくいってたのに、キャリアもいったん、

小西:ゼロですもんね、そう。

石川:ね。3年休んでしまうと、ちょっと心配になりますよね。

小西:いやあ、もうそりゃそうですよ。

石川:ですよね。

小西:うん、「私のこの先どうなるんだろう?」って。

石川:うん。で、そのあとは?

小西:それでね、いやもう、「これ、こんなことやってたら私はもうその、会社なんて入れないわ」と思って、

石川:はい。で、2千…、まあ寝たきりのあとに、89年まで3年間寝たきりで、まあいろんな思いをして。その1990年に『Newsweek日本版』で慢性疲労症候群っていう病名を知り、で、そこから、

小西:***(00:54:21)これたと。

石川:そこから診断を…、慢性疲労症候群だよと診断されたのはいつぐらいですか?

小西:それがまだまだ、まだまだなんですよ、診断されるまでは、まだ先が長いんです。まずね、慢性疲労症候群を診てくださってるドクターがどこにいるかわからない。インターネットなんかない時代だから、わかんないんですよ。それでまあね、とにかくその、生活している…、できるだけの仕事はできないんだけど、まだ、まあちゃんとキャリア形成していかなきゃいけないから休み休み、少しずつ仕事復帰へと取りかかったんです。[00:55:19]
 それでね、えっとまあ「私こんな体じゃあもう働けないから、人を働かしてその上澄みをかすめよう」っていう、そういうね(笑)、そういう、まあ悪く言えばそういう気持ちになったんですよ、「人を働かせればいいじゃん」って。

石川:「経営側に立てばいいじゃん」ってことですね?

小西:そういうことです。それでえっと、1990年に会社を設立したんです。だけど社長業ってすごく大変なのねって。営業行かなきゃいけない、仕事取ってこなきゃいけない。取ってきたら、

石川:デザイン事務所ってことですね?

小西:そうです、デザイン事務所を設立したんです。

石川:はい。で結局デザイン事務所設立したけど、体調は…、まあそのときはじゃあ一時的にいい感じだったんですかね? あの、大変ながらも。

小西:うん、ちょっとだけね、ちょっとだけ。だけど、やっぱりまた入退院の繰り返しですよ、結局。

石川:うーん。それも、原因不明のまま入退院してる状態ですか?

小西:そう。あのね、その玉川病院の代田先生はね、けっこう入院させてくれたんですよ、ありがたいことに。

石川:ええ。今だったらできないですよね、なかなか。

小西:できないと思いますよ。

石川:またなんか、いろいろシステムも違いますし。

小西:そう。

石川:ですね。で、結局診断ついたのが、2004年でしたよね。

小西:診断ついたのはね、うん、私、何年って言いました?

石川:2004年。

小西:じゃあそうなんでしょう(笑)。それで、もうね、ごめん、疲れてきてね。

石川:いえ。一回休みましょうか? 休憩入れましょうか? 今日ここまでにしてもいいし、休憩、

小西:あ?

石川:休憩ちょっと入れてもいいですし。

小西:そうですか?

石川:うん。

小西:ちょっと疲れました、かなり疲れました。

石川:ね、思い出しながらだし、しゃべるっていうだけでもね、疲れるから。

小西:そうね。

石川:じゃあ30分ぐらい休みます?

小西:3分? いや、30分?

石川:うん。10分でもいいですし、30分でもいいですし。

小西:はあー。ちょっと待ってね。今ね、透析中なんですよ。で、

石川:ちょうど今、1時間経ったので。

小西:そっか。

石川:うん。まだ半分ぐらいだけど、一回休憩しましょうか? [00:58:46]


石川:デザイン会社を設立して、40歳で。で、そのあとからのお話を、続きをお願いします。で、あと5、6年会社の経営をして、がんばっておられたんですよね?

小西:6年ぐらいがんばったかな、うん。それでも、もう体がつづかない。あの、下手したらもう家に帰れないんですよ、もう動けなくなって。

石川:で、会社に寝泊まりしたってこともあるってことですね?

小西:そう。会社寝泊まり、いやもうずっと、しょっちゅう寝泊まりしてましたよ。

石川:通勤じたいがもうできないってことですよね? その体力が残ってないと。

小西:そう、そう。通勤すらできなくなった。

石川:はい。で、5、6年でもう限界になって、会社をたたんで。[00:59:58]

小西:そう。いや会社はね、まだ存続してたの。もしかしたら…、あの、あれだけやっとけばいいの、確定申告さえやっとけば、きちんと生きてればいいわけだから、そしたら良くなったら復活できるじゃない? 「せっかく苦労して作ったんだから」っていう気持ちがまだあったね、「良くなるかもしれない」って。休めば良くなるのはわかっていたから、「じゃあ休めばまた良くなるかもしれない」って。って思ったんだけど、もう良くはならなかったの、前みたいにね。親の仕送り受けて3年寝込んで、で回復したでしょ。そんなことがあ…、が、もう奇跡は二度とおこらなかったの。
 で、でも短期の入院で良くなるわけでしょ、2、3週間でも寝かしてもらえば、上げ膳据え膳で。良くなるわけ、それだから退院するんじゃない? それでうちへ来ると、誰もやる人がいないから、自分でやらざるをえない。で、ヘルパーさんは今みたいに充実してないから、自分でやらざるをえないじゃない。そしたらまた倒れるのよ、それのくりかえし。だから「休めばこの病気は良くなるんだ」って。私、完全に病気だと思ってたしね。

石川:うん。で、お仕事はそういう状態で、どのぐらい続けてられたんですか?

小西:ん? 期間的にっていう意味? どういう意味?

石川:あ、ううん。デザイン会社作ったあと、5、6年で、

小西:あ、事務所は引き払ったけど、まだ細々とうちでフリーでやってましたよ、できることを。少しでも、生活の、

石川:雇ってた人を、

小西:リストラ。

石川:うん。で、お一人で会社やってたってことですよね? 50歳まででしたっけ?

小西:そう。そう。そう。

石川:で、50歳まではがんばれたけど、それも難しくなったんですか?

小西:うん、そう、その、めまいが契機で。私疲れたり寝不足になったりすると、昔からめまいがするんですよ。でね、やっぱりね、がんばりすぎたんだと思うのね。もう激しい回転性めまいなわけ。で、ベッドに寝てても落ちそうなくらいひどかったの。

石川:で、とても仕事できる状態じゃなくなって、

小西:だって入院したんだもん。うん。

石川:で、お仕事をもうやめざるをえなくなったっていうことですね? そのころに。

小西:そう。そう。

石川:そうすると生活費は、そっからはどうされたんですか?

小西:いや、そっからはもうしょうがないから、あれですよ、あの、生活保護を申請したんです。

石川:それはスムーズにいったんですね?

小西:難病だからね、私、だから。

石川:はい。あの、難病と言っても慢性疲労症候群ではなくて、腎臓の指定難病ですよね?

小西:そう。

石川:そっちがあったので、その生活保護でのほうも、

小西:うん、まあスムーズにって、一応そのすぐ申込書はもらえたからね。ただほら生活保護ってさ、えっと、えっと、「持ってるお金を半分使ってきてください。7万円ぐらいにしてきてください」って言われたわけよ。まあかき集めたら10万円ぐらいあったわ。それで減らして、生活保護って申請から2週間以内にあの、結果を出さなきゃいけないわけよ、そういう決まりがあるの、2週間以内に。じゃないと、その家賃も払えなくなっちゃうし。[01:05:01]

石川:それで、まあ生活保護を受給することができて、まず生活費の、

小西:そう。

石川:借金しなきゃいけないとか、家族からお金送ってもらわなきゃいけないとか、そういう心配からは解放されたわけですよね?

小西:そう。親に言ってもね、「もうあんたに貸すお金はない」って言われたんですよ、「またか」っていう感じで。ほんじゃもう、しょうがないなと。で、そのころは生活保護ってのはもう知ってたから、若いときは知らなかったけど、で申請したんです。ただ、親のところに、親と電話をしないといけないから、父に言うと叱られるから、母のほうから役所にかけてもらったの、「うちに電話をかけないでくれ」って。

石川:ええ。まあそれで50歳のときに生活保護を受給できるようになって、プラス、指定難病の難病患者という新しい身分というか、公的な制度を利用できるような病気があったので、介護ヘルパーもこのころから使えるようになったんですよね?

小西:そう。そのときに、なんだかわかんないけど、あの、なんか、何か申請かなんかあったのかな? 生保とは別にね。で保健師さんとこに行ったら、で、「あ、とにかくこうめまいがひどくて」、あの完全に良くなったわけじゃないからね、一応その軽いめまいはあったけども、「もう疲れて、とにかく食事も作れない」って言ったんですよ。

石川:はい。自分の身の回りのことができる状態ではなかったので、

小西:できない。

石川:介護ヘルパーさんを利用できるようになって、その、ちょっと安心が、

小西:した。しましたよ。

石川:しましたよね。家事で悪化するっていうのもちょっと、今まではそれで苦労されてきたので、

小西:そうです。

石川:家事の負担が減るということもあって。

小西:そうですね。

石川:はい。で、透析も始まったの、このころですか? もうちょっと先でしたね?

小西:透析は56歳のときだから、もうちょっと先です。

石川:そうですね。じゃあその慢性疲労症候群、

小西:でもちょっと早いけどね。まあそれはいいや。

石川:それでも介護ヘルパーさんは利用できたんですね?

小西:ああ、あ、透析じゃなくても?

石川:うん。要はその「透析だから」とか、その腎臓のこと…。でも指定難病だったからきっと介護ヘルパーさんスムーズに使えるようになったのかな?

小西:うん、そうだと思う。

石川:それ指定難病なかったら…、なくても、慢性疲労症候群だけのときも、まあ病名まだついてなかったですけれども、その段階でほんとは介護ヘルパーさん使えたですよね? 今ならね。

小西:今ならね。今なら。

石川:うん、ただそのときは病名も不明だし、そういう診断も下りてないから診断書も書けなかっただろうし、どの制度も使えなかったっていう感じなのかな。

小西:と思うけどね。

石川:その腎臓の病気がなければ、もっと逆に何の制度も使えなかった可能性ありますね。

小西:うん、使えなかったと思う。うん。だからあの、手帳をね、まず手帳を取れたのが、えっと、

石川:障害者手帳ですね?

小西:障害者手帳を取れたのが、えっと2005年ですよ。

石川:2005年。

小西:そう。

石川:はい。それは、慢性疲労症候群の診断がついたのが2004年でしたよね? 小西さん、大丈夫ですか?

小西:いや、ちょっと待って、今確認してるの。

石川:うん。私メモってるので。

小西:あ、じゃあ大丈夫よ。あ、そうです、2004年です。

石川:はい。それが、その東京医療センターの、家から近くの病院で慢性疲労症候群を診てるっていう情報を得て受診したわけですね? [01:10:00]

小西:そうです。

石川:それでやっと診断がついて、慢性疲労症候群としての治療がようやく、

小西:病名もようやくですよ。

石川:ようやく付いて。はい。

小西:そう、治療も始まった。

石川:はい。で、やっとこの症状を理解してくれる、話が通じるっていう、

小西:ドクターがいたと。

石川:ですよね。24年かかったと。あ、23年か、

小西:ほんとね、ね、長いね。

石川:23年かかってやっと出会えた。泣きました?(笑)

小西:喜んだ(笑)。

石川:(笑) 嬉し泣きしませんでした?

小西:もう、いやいや、泣きゃあしないけどね、すごいなんか、なんかあの、もう心が軽くなった。うん、「なんて嬉しいんだろう」って思ったもん。

石川:ですよね。しかし、4年後には西海先生が退官されることになり。

小西:そうなの。だからね、だから今のうちに、その厚生年金、今度年金の話になりますけど、

石川:障害年金ですね?

小西:そうです。そう、「障害年金を、今のうちに西海先生に診断書を書いてもらわなきゃ誰が書くの?」ってなっちゃうでしょう? 書ける人いないんだもん。

石川:西海先生から引き継いでくれる先生がいないということになったわけですもんね?

小西:いないんです、そう。

石川:なので、慢性疲労症候群として診断書を書いてくれる先生が、西海先生が引退されたら、もう、

小西:誰もいない。

石川:いない可能性があったので、その手続きをしたと。

小西:もう駆け込みですよ。そう、駆け込みで手続きをしたんですよ。それでめでたく取れたんです。でも、それもすごい大変だった。うん。ほら、あまりにも病歴が長くて、で事細かに書かなきゃいけないんですよ、まあ真紀さんもそれは知ってると思うけど。

石川:そうですね。まあどの病気の人もそこは同じかなとは思うんですけども。ただその審査する側が知識不足だった場合に通らなかったりっていうことはよくあったと思います。

小西:そうね。で、今ほら、病歴と就労状況申立書っていうのを書かなきゃいけないわけね。もう1枚に書ききれないわけよ、もうもらった紙に書ききれなくて。6病院までしかないんですよ、6か所までしか。だから私は紙に、別の紙に書いて、社労士さんに渡した。

石川:はい。社労士さんは慢性疲労症候群の話(はなし)しても、引き受けてくれたんですね。

小西:そう。「私にとっては初めてなんだけど、やってみます」って。

石川:ああ、なるほど。

小西:うん。それで取れたときは、すごく喜んでくださいましたよ。

石川:じゃあ小西さんが1例目だったんですね。その社労士さんにとって。

小西:そうそうそう。うん。

石川:で、あの西海先生が2008年に退官される前に、その障害年金の受給の申請も、請求もできて、あとは身体障害者手帳も取得できたんですよね?

小西:そう、これはね、あの2005年に。これはその、

石川:これは西海先生が診断書を書いてくれたんですか? 指定医だったんですか?

小西:これは違います。あのね、これはあの、腎機能で取ってるんです、障害、障害者手帳は。

石川:ああ、なるほど。じゃあ慢性疲労症候群のほうじゃなくて、

小西:取ってないんです。

石川:なるほど。で、西海先生が退官されたあとは、しばらくのあいだ慢性疲労症候群として治療をしてるくれる先生がいなくなっちゃったわけですよね?

小西:誰もいなかった。うん。今もいないですよ。今も治療してくれない。山野先生が細々とやってくれてる。

石川:うん。線維筋痛症と一緒にってことですよね? [01:15:09]

小西:そう。

石川:線維筋痛症はその、西海先生の受診のときに、「慢性疲労症候群と一緒に線維筋痛症も併発してるよ」っていうふうな診断だったんですよね?

小西:そう、その前から痛かったからね。で、痛かったんですよ、あの【腱付着部】(01:15:27)が、肘のところとか。それであの、「なんかここ痛いんですよね」って言ってたん、ね、「なんでだろうね」とかって言ってたんですよ、漢方の先生のところではね。で、で西海先生に言ったら、「いや、それは線維筋痛症」だって。でもあの、押すと痛いところってあるじゃないですか、全身の18か所のうち11か所って。押すと痛いところは、「あ、これはもうまぎれもなく線維筋痛症だね」。

石川:そうですね。まあ線維筋痛症も認めてもらえない病気の一つでもありますけれども、慢性疲労症候群にくらべると、診療してくれる病院とかお医者さんとか多いので、

小西:そうね。うん。

石川:そうですね。ほんとに主治医不在って、ほんとやっと出会えたのに。

小西:そうなの。そうなんですよー。

石川:不安じゃなかったですか?

小西:いやあ、別に不安ってことじゃないけど、「どうしたらいいんだろな?」って途方に暮れたけど、まあ不安はなかったね。「まあいざとなったら大阪行けばいいや」とか。行けるかどうかは別だけどね。

石川:じゃあそれからは、まあ漢方の治療とかそういうことで、それ以降は。

小西:そう。そうね。漢方薬をとにかく飲みつづけて、体をあっためる。

石川:で、同じ病気の人と初めて会ったのって、いつぐらいですか?

小西:あ、あれですよ、あの、四谷の教会の上映会のとき、篠原さんに会って。

石川:ああ、あの、篠原さんに。2010年かな?

小西:メルキセデクの会のとき。

石川:そのときに初めて?

小西:会ったんです。

石川:会ったんですね。それは、お友だちから情報を得たんでしたよね?

小西:そうです。

石川:それをきっかけに。そのとき、その情報を知ったときどう思いました?

小西:「ああ、行ってみようかな」って思っただけ、それは、うん。

石川:もしかして入院中とかに、同じ病名の患者さんに会ったことはあったんですか?

小西:まったくないですよ。

石川:ああ、じゃあその2010年がほんとに初めての、同病者との出会いなんですね?

小西:そうですね。そうそうそう。そこにその、篠原さんがいるなんては知らなかったわけよ。知らないじゃない? だから私、私のほうから最後に、「同じ病気のかたがいたら声をかけてください」って言ったんです。そしたら篠原さんとか、あとなんか、かんださんだったかな、なんか声をかけてくれたの。うん。

石川:そのあとにあれですよね、「慢性疲労症候群をともに考える会」ができたのかな? 患者会として。

小西:そうです。そう、そうです、そうです、そうです。はい。

石川:そうですよね。今まで患者会とかっていうのもなかったでしょうし、まああったのかもしれないですけど、初めてそれが体験だったと思うんですけど。

小西:そう。あのね、あの、患者会ってできては潰れ、できては潰れてんのよね。

石川:そうですよね。

小西:そう。だからその、なんていうの、あの、

石川:そこがほかの病気とちょっと違うところですよね、私たちの、環境が。

小西:そう、あの、軽い人もいれば、あのー、重い人もいるわけじゃない? そう。軽い人は重い人のことがわかんなくて、重い人は軽い人のことが、うーん、理解できないっていうのかな、自分が通ってきた道だと思うんだけど、それがわからないのかな? [01:20:09]

石川:ちょっとお互いに、なんていうかな、生活の制限のレベルが違いすぎますもんね。

小西:そう。

石川:たしかに。働けてる人もいれば、もう歩行困難な人もいるし。

小西:そうなの。だからその、日曜日にその上映会とか、それからまあ上映会はともかく、コマロフ先生とかね、あの、アメリカの研究者を招へいして講演を、講演っていうのかな、なんかやってもらうわけじゃない? そのときに「なんで来ないんだろう?」って彼女が言うわけ。

石川:「来ないんだろう?」っていうのは、参加者ってことですか?

小西:うん。そうそう、席ががらがらなんですよ。だから、もうドイツなんかじゃ立ち見が出るっていうほど。で、それなのに日本はこんなに来ないっていうのはね。だけどみんな、いや働いている人は「日曜くらい休みたい」と思うんじゃない? たぶんね。もし自分がそうだったら、

石川:小西さんがね、働いてるころだったら、

小西:そう。一週間くったくたになってね、働いて、「いやあ、やっと日曜だから休めるわ」みたいなことになるじゃない?

石川:そう思います、私も。

小西:うん。だから来ないのもしょうがないと思うのね、その人にはその人の理由があって。別に弁護するわけではないけど、そういう理由なんじゃない?

石川:そうですね。そのドイツのその集まりが、患者がいっぱい集まってるのか、市民が集まってるのか、医療関係者の人が集まってるのか、どういう層なのかわからないですけどね。だって「立ち見が出る」っつったって、私たちの病気の当事者としたら立って見てられないじゃないですか、座ってるのもしんどいのに。

小西:うん。だから、うん、家族じゃなんかじゃない?

石川:の可能性もありますよね。それにしても、「みんな集まってくれない」っていうことを話してたわけですね? 篠原さんが。

小西:そう、そう。うん。

石川:まあそれに参加して、どうでした?

小西:ああ、その上映会?

石川:上映会だったり、その講演会だったり。今までその、病気に対する情報がすごく乏しかったわけじゃないですか。西海先生から診断受けたころであっても、慢性疲労症候群の研究がほんとに始まったばかりで、慢性疲労症候群のことを「第二のエイズ」として…、なんかそういう本しかなかったですよね、

小西:取り上げかたがね、うん、そうですよ。

石川:たとえば「慢性疲労症候群はこういう病気だよ」とか、「診断されたらこういう治療やこういう生活をしなさい」っていうような本もなかったから、

小西:それはまったくなかったわね。

石川:なかったですよね。

小西:ないです。うん。だからね、どうしたらいいのかっていうのは…、でもこう何回も倒れては起き、倒れては起きを繰り返してると、まあ「この病気はほんとに、動かなければ良くなるんだな」っていうのを私は学習したんですよ。

石川:まああの良くなったり悪くなったりを繰り返す患者さんはだいたい50パーセントで、どんな治療しても何してもまったく変化ない、改善が見られない患者は2割ぐらいいるんですけど。まあ私はその2割なんでしょうけどね。

小西:私はね、とにかくね、

石川:なので、それはやっぱり同じ病気でも、そこらへんは休んでちょっと改善する人としない人はいると思います。

小西:うん、いると思いますよ。それは、あの、[01:25:00]

石川:だから小西さんはちょっと休めばちょっと浮上するというか回復して、お仕事がなんとかぎりぎりできる状態にもっていけるし、でもがんばるとまた転落してしまう、体調が。そういうようなタイプだったわけですよね?

小西:うん。そうなんじゃない? たぶん。こうあの、浮き沈みを繰り返してる。だから今はでも、もうその、仕事ができるなんてレベルではないもん。もうずーっと低レベルのまま、ほんともうなんか危うい飛行をしてるっていう感じ。だから昨日もちょっとしたことでクラッシュしたじゃない? うん。

石川:はい。それで、たとえば交流会とかも開かれるようになって、まあその情報交換する場だったりできたと思うんですけど、

小西:うん、それがそうじゃなかった。

石川:ああ、期待する、

小西:うん、期待するようなもの…、

石川:情報交換ができなかったっていうか?

小西:そう。私が交流会とかね、何かでその、まあ知りたかったっていうか…、いうのは、ほかの人とつながること。つながり、横のつながりがすごく大事だと思ったわけ。私はね、…が情報の、えっと共有、情報の交換、交換して共有する、あるいはほかの人がどんな治療を受けてるのか? 自分が飲んでる薬よりもっといいのがあるかもしれないし、もっとなんか別な方法があるかもしれないと思って、それを期待して、要するに情報が欲しかった。でもそういう会ではなかったということです。
 で一回会ったとしても、その、「じゃあこれから仲良くしていきましょうね」っていうんじゃなくて、なんていうのかな、そこで、その場でお互い傷をなめ合って、それで終わりっていう、そういう会だったんで、それは私が思ってることと違うなと思ったわけです。

石川:なるほど0000000。

小西:そう。だってこれからはもう横のつながり、インターネットが普及してるんだから、横のつながりでしょう。

石川:そうですね。今こうすべての病気の患者会が、新しい人が入ってこないとか、高齢化で、若い人で60代だとか、そういう話はよく聞きます。なんか会が存続できないと。というのはやっぱりSNS(エスエヌエス)とかインターネットの普及で、その会に入らなくても患者がつながれるからっていうのをよく聞きますね。

小西:うん。あの、透析クリニックでもね、患者会があったんですよ。

石川:腎臓病の?

小西:それね、もう解散しましたもん。

石川:あ、そうですか。

小西:そう、去年かなんかね、解散しました。「もう入ってくる人いなくなった」って。

石川:う、悲しい。悲しいっていうわけでもないけど、結局参加するメリットだったとかが、その会員さんにとってなかったんでしょうね?

小西:うんと、お花見とかね、なんか行ってもつまんないじゃない? 飲み会だから。

石川:(笑) 楽しみにしてる人もまあ、中にはいるんでしょうけどね。

小西:うん、いるんでしょうけどね。

石川:集まりが悪かったんでしょうね、きっとね。

小西:そう。だから飲み会中止になったこともあるし。なんなんでしょうねえ、だから、もう会…、その会に新しく入る人がいなくなったから解散しますって、維持できなくなったからって。[01:30:08]

石川:ほんとに私も運営してる側の人の一人として、ほんとに運営するの大変だなっていう大変さもわかるし。ましてや私たちの病気って、外出困難だったり、その外出したあとに悪化するっていうの覚悟で参加しなくちゃいけないので、ちょっと難しいところはありますよね。

小西:そう。うん、そこよ。

石川:「そこよ」(笑)。

小西:うん、ほんとに。だって外出したあとって、絶対具合悪くなるもの。うん。

石川:うん。だからあとはその、介助者がいる、一人で外出するのができなかった場合についてきてくれる人がいる・いない、確保できる・できないという問題もあるだろうし。

小西:そう。

石川:そのね、体調的にその移動に耐えられるかどうかとかいろいろハードルがあって、ほんとに集まったりする…、まあ行ったら行ったでもうバタンキューなので、行ってお花見するとかそういうことちょっと難しいですもんね。

小西:そう(笑)。そう。

石川:行くだけで精一杯、みたいな。

小西:そうね。そんなお花見どころじゃないじゃない。うん。

石川:なので、まさか自分で会を作るなんてそんなの絶対無理と思ってたし、体調的にも。なんか、だから単発のつもりで私もその交流会とか講演会とかやってきたんですけど、やっぱり会として集まらないとできないこともいっぱいあるなっていうことに気づいて。個人活動だとね、やっぱりあの、そういうことはできるけど、その先には進めないなっていうのもあって、なので会を作ることになったんですけど。まあサポートしてくれる人も見つけて。

小西:そこはすごいと思う。

石川:うーん。

小西:だって電話するだけで疲れるじゃない?

石川:そうですね、ほんとに。なのであの、でもいろいろありましたよ、「すぐ返事してこない」とか。返事したくてもできなかったりするんですけど、そういうのがね、失礼に当たるじゃないですか、通常は。だからそこらへんをわかってもらえてないときは、うん、なんか怒られたりしましたよ(笑)。

小西:そう?

石川:そういうこともありましたよ、人によっては。要は「こういうの協力してあげてるし、こういうの力になるって言ってあげてるのに、何で返事してこないの?」みたいな。

小西:うん。できないのよ。

石川:「できないのよ」(笑)。

小西:うん、でしょ?

石川:そう。そうです。毎日パソコンひらけるわけでもないし、毎日人と話せる状況であるわけでもないし。

小西:そう。そうなの。

石川:そこがやっぱり、それこそ「この病気はこういうことだよ」っていうふうな本もないから、まわりのかたも何がどうなのかってわからないですもんね、私たちのその病気のことがわからないと。ほんとに「本、早く出て」って思ってました、私も。自分も知りたいし。

小西:だからほら、あの、ゆらりさんの漫画でね、だいぶね。漫画だからね、読んでくれるのよ。

石川:そうですね。

小西:そうですね。新聞切り抜きいっぱい渡しても読んでくれないから。漫画だと読んでくれて。だけど、

石川:ああ、そうだったんですね。

小西:そうよ、そう。であと、私が実際クラッシュして動けなくなって、床でのびてる、「苦しい」とかね、かすかに「苦しい」とか言ってるの見て、なんかおろおろしちゃって、ヘルパーさんなんか。「え、こんなんなっちゃうの?」みたいな感じですよ。

石川:うん、なるほど。

小西:そう。だから一回見た人はまああんまり驚かないけど、どうしていいかわかんないっていう。あの、障害のヘルパーって研修3日受けるだけだから、起こし方とかわかんないんですよ。[01:35:12]

石川:まあ起こし方も病気や障害によって違いますもんね。

小西:そうなの、そこなんですよ。そう、だから、

石川:そこなんですよ(笑)。

小西:そこね。そうなんです。だからこう、私、口がきけるときはね、「ここ持って、あそこ持って」とか「そこ触んないで」とか言えるんだけど、ほんっとにもう、

石川:しゃべれなくなりますもんね。

小西:そう。しゃべれないとき、

石川:もう、えっと、閉じ込め症候群っていうんですか?

小西:うん。そうそうそう。

石川:そういう状況になりますよね、一時的にね。ほんとに一時的なんだけど。でもそれ、ない患者さんもいるから、ある程度重度じゃないとそこまでいかないから、患者全員に共通する症状ではないですけども、ほんとにそういうとき、もうどうにもならないですよね。

小西:そうなの。あの、もちろん自分も通ってきた道だから、軽い人のことはわかると思うのね。急に重くなった人もいるかもしれないけど、

石川:私、私ですよ。

小西:急に?

石川:急です。2週間ぐらいでもう寝たきりですもん。

小西:そうなんだ。

石川:そうです。私、熱も高かったですから。

小西:なんかやっぱタイプがあるよね、これって。

石川:そうなんですよ。だからどうやっても回復しない、どんだけ休んでも、薬いろいろ試しても何の改善もみられない人もいるっていうことは、ほんとに私は残念ながらその2割に入っちゃってるので、今のところ。それはあの、うん、悲しいことですけども。なので、「休んだら良くなる」とは私は言えないんですが。まあいろんなタイプの人がいて、いろんな重症度があって、なかなか理解、相互に理解ができないことが、やっぱ前から言われてましたね。それで会が解散になったりする、した、

小西:そう、壊滅したり。

石川:うん、こともあるっていうのは聞いたこともあります。

小西:うん、そうなの。

石川:そうなんですよ。でも私も会が、今、え? 2014年だから、6年ちょっとになったんですけど。今のところ私たちの会は若い人いっぱいいるし、むしろ若い人のほうが多いし、新しく入ってくださるかたもいるので、まだなんとか存続できてますけれども。

小西:いや、それはひとえに真紀さんの努力でしょ。

石川:いやあ。私なんてね、

小西:身を削って、身を削ってやってるじゃない、ほんとに。命削ってるじゃん。

石川:うーん。やめたら楽だなとは思いますよ(笑)。ただその、私、青森に私が今住んでるので、青森で啓発イベントしたりしても、ほんとに関西からでも関東からでもわざわざ青森にね、そのイベントに参加するために来てくださるかた、いるわけですよ。それであの、まあ来るかたは最初曇った顔をされてるんですけど、終わったときにはみんな笑って帰ってくれるのがとても嬉しいなあと思いながら参加してますけど。

小西:うん、やっぱり同じ、まあ程度は違えど同じ仲間がいるって、仲間がいるっていうのは心強いでしょうね。

石川:そうですよね。そうですね。あとはその最新の情報をいつも先生がたに講演してもらって、最新の情報を提供できているので、

小西:そう、情報のアップデートよ。

石川:そうですよね。なかなか知る機会がないので。

小西:とても大事。[01:40:00]

石川:だから小西さんにも…、はね、透析もあるし、遠出が難しいので、体力的に。一昨年ですかね、遠隔参加していただくことできましたしね(笑)。

小西:そうそう、あれ良かったわあ。

石川:私も良かったです。

小西:OriHime(オリヒメ)ね。

石川:OriHime。

小西:すっごく良かったわ。

石川:いや、嬉しいです。ね、青森工業高校の生徒さんたちにボランティアしてもらってね。

小西:そう。ほんと、ありがたかったね。

石川:うん。あの学生さんたちも楽しそうにしてましたよ。ほんとにあれはよかったですよね。

小西:あれはほんとに、「青森行ったことあります」って手あげそうになっちゃうもんね、ほんとに。現実、見てるからね、自分の目で。

石川:そうですね。だから小西さんね、体調大変なのに、参加したあとも絶対ね悪化するっていうのも覚悟で、厚生労働省との懇談会だとかいろんなことに一緒に参加してもらって、

小西:いやいや、そのぐらいしなくちゃ。私はね、ほかのことは全部あきらめてるの。その自分で何かはもうできないわけ。何かしたい気持ちってあるのよ。でもできないのよ、もう。

石川:そうなんですよね、ほんとに。

小西:そう。もうそんな体力ないし、その、もう透析も忙しいし、透析しなかったら死ぬから。

石川:そうですね。ほんとに無理できないのに、無理をしてやっぱり来てくださってるのは、

小西:いや、そのくらいしなくちゃさ、なんか顔向けできないじゃない?

石川:やっぱそれだけ、20何年も病名が付かずに苦労したのを、やっぱり繰り返さないようにっていうか。

小西:そう。今の、今苦しんでる人が現実いるわけじゃない? 病名もつかず、それから手帳も取れず、それから年金も支給されることがわからず、知らない人がいっぱいいるわけじゃない? そう、そういう、

石川:そうですね。それでもまあ、うん、この10年ぐらいでそうとう障害年金はみなさん、

小西:取れるようになりましたよね。

石川:受給できるようになりましたよね。すごい変化ですよね、そこは。

小西:そう。

石川:ほんとに。だからそれを思うとやっぱり、患者の訴えをすることもできなかったわけじゃないですか、最初のころって。

小西:そうですね。

石川:研究班が初めて日本にできたのが91年だったかな? なので、ずっと取り残されてきましたよね、患者支援だとかそういうことは。

小西:そうそうそう。

石川:なんでしょう、一枚岩になれなかったり、集まることが難しかったり。

小西:いや患者は、当事者はね、まずどっか集まりがあるっていっても、足運べないでしょう、重傷者は。で、軽症者も無理すれば、次の日会社行けなくなっちゃうじゃない。

石川:そうなんですよ。

小西:そう。そこなんですよ。

石川:それでもね、それでもみんながんばって来てくれたりするから。うん。それはね、やっぱりそれほど必要なんですよ、集まりって。

小西:うん、そうだと思う。

石川:それで、やっぱり小西さんも一人で病気と闘ってた時期が20何年あるわけじゃないですか。

小西:はい。

石川:で、ね、患者とのつながりがもてたり、いろいろこの病気の啓発活動だとか政府との交渉だとかに参加してくださるようになった今と、どうですか? くらべてみると。どういう違いがありますか? [01:45:12]

小西:もうそれは、ひとことで言えば隔世の感よね。

石川:ん?

小西:隔世の感。「世」の中を「隔」てるって書くじゃない。

石川:あ、隔世。

小西:隔世の感。そんな患者会ができるなんて思ってなかったもん。まず「この病気はまず何だろう?」っていうのがずーっとあったわけじゃない? で自分でその1990年に『Newsweek』でね、センセーショナルな「第二のエイズか」っていうタイトルでこの病気を、私読んだわけですよ。「もう絶対これだ」って思ってね、思ってるのに…、思ったけど、じゃあ誰が診てくれんの? って。

石川:で、今現在も、まあその専門で診てくれる先生には、今いないわけですもんね。

小西:そう、今いないんですよ。でもまあ自分でコントロールしてる。それはもう、それは20…、えっと、もう40年?

石川:まあ自分の経験と試行錯誤で、対処法を、

小西:そう、それ、身に着けてるんです。

石川:自分なりの対処法があるってことですよね。

小西:そう、身に着けてるの。だから、「これ以上はやらない」っていうのがある。やりたいけどやらない。やれない。

石川:ペースのコントロールですよね?

小西:そう。いわゆるペーシングですよ。あきらめね。

石川:うん。小西さんのその人生の中で一番ピーク、「人生を謳歌した」って言える時期っていつごろですか?

小西:そんなんないでしょ。

石川:(笑) でも会社を作っていろいろ仕事できてたときって、まあ体は大変だったでしょうけれども、ご自分のデザインの才能を発揮して、収入も得られてっていうのって、はなやかな時期ではないですか?

小西:うーん、たしかにねえ。そうなんだけど、その、まあ収入は確かによかった。よかったけども、そのぶんめちゃくちゃ仕事してるしね。「え、ちょっと私ってどうなっちゃうの?」ってくらい仕事してるし、してたしね。で、もう疲れて帰れないから事務所に泊まってね。

石川:もうぼろ雑巾でしたね? じゃあ。

小西:いやほんとにそう。

石川:じゃあ、ぱーっと、その収入がね、けっこう高収入だった時期も、「これで楽しむぞー」っていう余裕が体力的になかったのかな?

小西:何もない、何もないんですよ。だから私そのフリーになってその、ある会社とのまあ何年か、3年ぐらい働いたかな、まあ契約じゃないんだけど、その「じゃあこれで1年間、何百万オーバーしなければいいよ」っていう約束で働いたわけよ。そこはねその、あんまクリエイティブ感はなかったけど、収入面ではすごくよかったし、うーん、まあそれなりに楽しかった。でもそうね、でもほらそんな、たとえば1千万の貯金なんて3年寝込めばあっという間になくなりますからね。

石川:たしかに。

小西:でしょ。もうほんとにあっという間よ。で、[01:50:10]

石川:それこそ病気がなければどうなってたと思います?

小西:そんなこと考えたこともないわ。

石川:(笑)

小西:そんな希望、持てなかったもん。

石川:いや、なってなかったら?

小西:今?

石川:当時、そのとき発症してなければ、デザイナーとしてブイブイいってたかもしれないですよね、この病気さえかかってなければ。

小西:そうね。まあでも私はね、50歳になったらヨーロッパに行こうと思ってたんですよ。アメリカあんまり好きじゃないけど、ヨーロッパの落ち着いた雰囲気が好きだったから、ヨーロッパに移住しようと思ってたの。だけど、もうそれもかなわぬことになった。こんな病気でだめだし、透析じゃだめだろうと。まあ透析できないことはないんだけど、もうそれを調べるだけの体力もないし、ほかの会社の透析事情が…、あ、会社じゃない、ほかの国の透析事情わからないじゃないですか。でも家庭透析やるようになってから、まあフランスなんかではけっこう家庭透析をやってると。でアメリカも家庭透析。なんせ広いから、通えるところに病院がないわけですよ。その、透析クリニックなんてあるのは日本ぐらいらしいですよ、噂によると。

石川:なるほど。そしたら、もう自分の人生の半分以上この病気とともに歩んでこられたわけですけれども、

小西:はい。だからもう、そんな、

石川:何がその…、失ったものって何ですか? 一番。

小西:時間でしょ。まあ何かをやる時間。たとえばその、私けっこう洋裁とか好きなんですよ。で作りたいものも、「あれも作りたいな」と思っても、「そういえば何年前はパジャマ作ったわ」って思ってたけど、それももうできないし、編み物やりたくても、もうそれもできない。そういうもろもろの「やりたいけどやれない」っていう時間。

石川:要は体調悪くて寝込んでるしかできなかった時間とか、そういうことですよね?

小西:そう。それと今もその、私、自分でもうあきらめてるからね、その、なんていうの、その何かをやるっていうことを。じゃないと悪くなんのは目に見えてるわけ。

石川:そうですね。あとでしっぺ返しが必ずあるから、反動が。

小西:そう、だからもうなんて…、あきらめて「何もしない」って決めてるわけ。だからそれはその、一緒に陳情行ったりはするけど、それはもう最低の私の義務としてね。

石川:はい。うちに、CFS(シーエフエス)支援ネットワークの活動の参加のことですよね?

小西:そうです。それはもう絶対やろうと思ってる。ただ、自ら、自ら何かしようとは、するってことはできないでしょ、もう。

石川:でも参加するだけでもほんと大変で、あとで苦しくなるのわかってるのに、「参加しよう」と思えるのは何ででしょう?

小西:いや、私が40年間も苦しんできたことを、ほかの人にはさせたくないっていう思い。で私の、なんていったらいいのか、闘病記っていうか闘病生活っていうか、そういうのが少しでも役に立てばいいかなって思うのと、あの、「え、40年もやってる人いるんだ」って、あんまいないでしょ? [01:55:08]

石川:そうですよね。あとはそういうなんか陳情とか懇談会とかが終わってからも、みんな体つらいのに帰んないですよね(笑)。

小西:帰んない(笑)、ね。うん。

石川:結局、そのね、

小西:だってやっぱり、いたいんだもん。

石川:みんなで、顔をそろえたみんなと会うのが楽しみっていうのもありますよね。

小西:そう。だってみんな同じ病気なんだ…、まあ程度の差はあれね。うん、同じME/CFSの人としてわかりあえるもんがあるじゃない?

石川:そうなんですよね。で、それで同じ方向に向かって、「この環境をどうにかしなきゃいけない」っていうふうな気持ちでいる人が集まっているのでね。

小西:そう。あの、それってあの、夫婦と一緒で、同じ目標に向かって進むんだって。何年か前にね、誰かが言ってたんだけど、夫婦になるってことは、結婚するってことはね、同じ目標に向かって進むことなんだって。それから、お金が同じになるってことだって、懐が一緒になるっていうことだっていうの、お金がね。まあそう言えばそうだなって思ったの。だから恋愛と結婚は別よ。

石川:うん、まあ、いろんな結婚のかたち、ありますけどね、今は。

小西:そうそう、そうね。だけどやっぱ目標がね、こう全然違う方向むいてたらだめでしょ、それは。

石川:そうですね、まあいろんなかたがいますけれども。「負担になること一切したくない」っていうかたもいらっしゃるし、うん、それはもうばらばらでどれが正解とも言えないことですけれども。そういうふうに変えていこうとか、危機感持って世の中に知ってもらったり、国に対策してもらったりすることに対して力を注ぐぞって思ってくれてる人が集まるって、ほんと心強いですよね。

小西:そうね。だから、

石川:ほんとにこの病気ってどういう病気だと思います?

小西:え、どういう意味?

石川:あ、質問が悪いですね。なんていうか、うーん、治療も診断もなかなかしてもらえない病気って、そうないじゃないですか。

小西:いやあその、人を滅ぼす病気だと思う、そういう意味で。その人をね、だめにする。なんかもう、

石川:だめにする。

小西:うん。もう今はだいぶわかったけどね、情報が出てきたから、「ああ、この先生なら診てくれるかも」とかね、「こうすればいいのかな」とかっていう人はいるでしょ。なんかまあ集まる人だから、何らかの医療を受けられに…、にかかってられるんだとは思うけれども。いやほんとに、なんか人生だめにする病気でしょ。ほんとひどいと思う。ひどい病だと思う。なんかもう底なし沼と同じくらいにひどい。

石川:でそれが、自分と、あとは自分と同じ病気の人はわかってるけれども、まわりの人に伝わらないっていうことも特殊ですよね。[01:59:47]

小西:そう。あのね、自分のつらさもあるのに、まわりの人、医師も含めてね、まわりの人に、まあ家族にさえね、まあ家族もいろいろあるけども、わかってもらえないつらさのほうがつらい。「まだ一人で暮らしたほうがいいや」ってなっちゃうじゃん。そんな親の、親は「帰ってこい」って言うかもしれないけど、針のむしろでいるよりは、ひっそり暮らしてたほうがまだね、いいじゃない。

石川:そうですね。病気そのものよりも、その社会の、なんていうんですかね、受け入れられてなさがきつかったってことですよね?

小西:そう。

石川:で、症状としては一番つらい症状、どういうところです?

小西:うーん。

石川:まあ全部つらいんですけど、

小西:選べないわ。うーん、痛みかな、私の場合は。痛みだった。

石川:「だった」。過去形。

小西:過去形。あの、発症したばかりから10年ぐらいまで、10年、もっとかな、あのね、前腕がね、朝起きると、もうじんじんして目が覚めるんですよ。

石川:私、今もそうですよ。

小西:そうなの? それはつらいわ。

石川:うん。痛くて、なんだろう、

小西:【じんじんつらいでしょ。】(02:01:42)

石川:キーボードも打てないし。だから今日もですけど、昨日もですけど、ここんとこ毎日、朝起きたら、まず湯舟につかって腕の痛みとることから始めてます。

小西:あ、湯船つかるといいんだ。それは知らなかった。あの、私はね、午後になるとひいていくのよ、痛みが。で朝起きたときが一番痛くて、もうね、斧でたたき落したいくらい痛かったの。もう、「朝、目が覚めなければいい」と思った、「こんな痛いんだったら」。そのぐらい痛かった。

石川:でも、その発症してから40年のあいだで、一番きつかったのってどの時期です?

小西:やっぱり3年寝たきりになったとき? どっか、どっかあっちの世界に半分片足つっこんでたんだろうね。あのときかな。

石川:そのときが一番つらかったですか。

小西:もう一人だから、その全世界に。一人なの、自分、自分しかないないの。そういう中に入り込んでたから、もうさみしくて、さみしくて、しょうがなかった。で、もう寝ながら涙してた。

石川:うん。でもそのころは彼が食事を持ってきてくれたりした時期ですけど、そういうときは目が覚めるんですか?

小西:そう。そういうときは、まあそれなりに、ごはん食べさせてもらって、そのときはこっちの世界戻ってるのよ。だけど帰るじゃない? 帰るとまた、こうつらいわけよ。また宇宙に一人漂ってるわけ。

石川:でもそのかたは、すごく献身的にかいがいしくいろいろお世話してくださったって言ってましたけど、お別れしたんですね?

小西:そうね。そう。

石川:それは病気関係あったんですか?

小西:ありますよ。あの、働きたくない人だったから。で、私がもうこんだけぼろぼろになって、それでもがんばって働いてきたわけじゃない? それなのに彼は働かなかった。

石川:じゃあデパ地下弁当どうやって買って、どこからお金出してきたんですか?

小西:それはね、あの、父親が亡くなって遺産が入ったんですよ。

石川:あ、なるほど。小西さんのお金ではなかったんですね(笑)。

小西:私のお金じゃないです。

石川:そうだったらおつかいですもんね。

小西:うん。でもね、私の中ではね、その、なんかこう新しもん好きでいろんなものを買ってくる人なんですよ。あの、いや、そりゃ私のこと思ってね、すごい布団が重いって言うから、もう胸にのしかかるじゃない? 布団が。臼が胸に座ってる感じがして。[02:05:15]

石川:もう布団さえも重い感じですもんね。

小西:ね。それだから、あの、すごい高級な羽毛布団買ってきたりね。それからまあ「冷えるから」ってってファンヒーター買ってきたりね。それから、

石川:ほお、親切。

小西:いや、そうなんだけど、私は、なんていうのかな、うーん、まあそれは私がいけないのかも。そういうのはまあ「ありがと」って言って受け取ってればよかったのかもしれないけど。うーん、何か心苦しい? やっぱり。

石川:うーん。でも当時彼が唯一の社会との接点だったんじゃないですか? その3年間の一番大変だった時期にね。

小西:うん、そう、そうよ。そう。でも、それからえっと8年ぐらいで別れたかな。だってまたもう「私働けない」ってなったわけじゃない? 45、6でね。その、もう事務所も維持できない。もちろん事務所にも来られない、行かれない。で、事務所には、事務所代もかかるじゃない? まず何が高いかっつったらもう私給料もらってないんだもん。もらえてない。だからあれよ、あの、事務所の家賃払わなきゃなんないじゃない?

石川:一等地ですもんね。

小西:そう。だからもう引き払うしかなかった。で、さあ一応、

石川:じゃあやっぱりその、仕事をしたいのにできなかったのが、やっぱり病気のせいでできなかったことの悔しさとかあんまり、

小西:もうすごくつ…、悔しい。

石川:もうそれよりも、悔しいよりもあれですか? 「休める」っていう安堵感のほうが上だったのかな?

小西:いやそんなことない。そんなことない、そんなことない。だってまだうち…、事務所引き払っても、まだ仕事はしてたから、細々と。

石川:はい。[02:07:47]


石川:あの、ですけれどもほんとに、小西さんが発症した当時と今とでは相当変わってますよね?

小西:うん、もう雲泥の差よ。うん。いや、それはこうやってね、身を削ってでもやる人がいるから、こうなってきたんじゃない?

石川:うん。でも私一人ではね、とうていやれてないので、その一緒にやるっていう、参加してくれる人がたくさんいて、協力してくれる人もいて成立してることなので。もう私も、

小西:まあね、もちろんね、そうなんだけど。でもそうやってお膳立て、「いついつどこでやりますから」っていうね、「参議院議員会館でやりますから」とかって言ってくれるから乗っかれるわけじゃない? で、それを私はお膳立て、自分でできるとは思わないもの。

石川:でも私お膳立てして、誰も来なかったら大変ですよ。それはそれで(笑)。

小西:(笑) そんなことはないって、ありえないって。

石川:ほんとにみんなね、遠くからでも来てくれてね、すごいみんなの熱気がね、圧倒させてると思いますよ(笑)。で、また楽しんでやってますよね、私たちも、つらいながらも。

小西:そうね、うん。

石川:それが何にもなくなったら、さみしーくなりません?

小西:うん、そう、それはそうだと思う。だってもう、なんか生きがいなんてないし。いやほんとに。なんかもうあきらめ、あきらめてる。「あれもやれない、これもやれない」ってみんなあきらめてるから。[02:10:00]

石川:そうですね。今、たとえば外出するとき、車いすですよね?

小西:はい。

石川:うーんと、月に、月にっていうか年になのかな、通院以外での外出ってできてます?

小西:全然。もう全然できてないですよ。あのね、

石川:去年だかな、一昨年だかな、「美術館にやっと行けた」って言ってましたもんね。

小西:そう、そうなの。あの、車いす、電動ね。電動できてから1年ぐらい何もできなかったんだわ。で、やっと美術館に、上野に行ったんですよ。そしたらバッテリーがもうなくなって。その、お昼もうちょっといいとこで食べたかったのにどこにも行けなくて、もう近…、すぐ近く、迎えに来る車のすぐ近く、待ち合わせ場所のとこの、なんかあの、コーヒーショップみたいなとこでしか食べられなかった。サンドイッチかなんか。うん。すずめがよく太っててね。

石川:(笑) 今、コロナになったので外出控えてるっていうのもあります?

小西:それも一部はあるけど、一部あるけど。

石川:コロナになって、何か変わったことってありますか? 生活とか精神的なものとか。もう社会全体が引きこもり推奨じゃないですか、今(笑)。

小西:うん、だって、もとから引きこもってるから、今さら引きこもってるわけじゃないから、つらくないの、それは。だからこないだ書いたみたいに、「2週間なんかあっという間だよね」って、私たちにとったら。

石川:だからみなさん、なんていうかな、私たちが外に出たくっても体調が悪過ぎて出られなくてっていう忍耐をずっとしてきてるわけですけど、それを社会全体がみんな、外に出たくてもね、あんまり出ちゃいけないとかいうのが、みんなが共有してくれた感じありますけどね(笑)。

小西:(笑)

石川:「わかった?」みたいな、「『家にずっといて、いいな』とか言ってた人たち、わかった?」っていう感じします(笑)。

小西:うん。

石川:じゃああんまり変わってないってことですね? コロナがあったからって言って。

小西:うん、あの、コロナの影響ってあんまりないですよ。

石川:逆にあの、たとえば対面受診しなくても、電話だったりいろんなことで処方箋出してもらえるとかっていうのも、ハードルが下がったじゃないですか? そういう点でもあんまり変化ないですか?

小西:変化ない。前から先生、あの「来なくていい」って、「もう疲れるから来なくていいよ」って言ってくれてたから、あの、一人の先生はね。それからあとは、すごい控えてんのはある、あの、受診をね。


[音声終了 02:13:28]

*作成:中井 良平
UP:20211018 REV:
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