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志田円氏インタビュー

20210129 聞き手:谷田朋美 於:Zoom

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■インタビュー情報

◇志田 円 i2021 インタビュー 2021/01/29 聞き手:谷田 朋美 於:Zoom
◇文字起こし:ココペリ121

■関連項目

難病  ◇線維筋痛症  ◇CRPS:複合性局所疼痛症候群  ◇慢性疲労症候群  ◇なおすこと  ◇名づけ認め分かり語る…  ◇原因/帰属 c11

■本文

79分

※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)としています。

■■

[音声開始]

志田:発病したのは、今から8年前の32歳のときでした。そのときは結婚していて大阪にいたんですけれども、学習塾に週に2回アルバイトで通っていまして、32歳の前の年の31年の秋ぐらいに塾の帰りから帰ってたときに、いつもは走って帰れてたのが、ある晩すごく、なんか砂袋を上にかぶされたようにすごく重くて、どうしたんだろうなーと思って、もうそれからちょっと体が重たいなあ、不思議だなあと思ってたんですけれども。そしてこう体もあちこち骨が痛むような痛みがあって、これは何の痛みだろうなあと思ってたんですけれども。そのころちょっと免疫が落ちると、すぐ子どもたちから風邪をもらって風邪を引いてたんですけれども、32歳の1月に風邪を引いたときに内科の先生にかかって、風邪薬を抗生物質をもらって1週間で風邪の症状は治まったんですけれども、体の痛みと熱が下がらなかったのでまたもう1度行ったら、「風邪の症状は治まっているけれどもまあ体の痛みと熱があるから、ちょっとリュウマチじゃないか」っていうことで整形外科にかかりまして、リュウマチの検査をしたんですね。でリュウマチの検査をしたんですけれども、リュウマチは陰性で。血液検査の結果、リュウマチは陰性っていうことだったんですけれども、「甲状腺の数値にちょっと異常があるから甲状腺科のほうに行ってください」ということで、和歌山の日赤病院に甲状腺科があったので、甲状腺科のほうにかかりました。
 で甲状腺科にかかって、いろいろ甲状腺に関する病気の検査をしたんですけれども、甲状腺の病気ではないっていうことがわかりまして。で、そのとき甲状腺科の先生が、「残る症状から考えられる病気としては慢性疲労症候群ていうのがあるけれども、大阪市立大学に疲労外来っていうのがあるので、かかってみますか?」ということで、で、「6か月間ぐらい待たなければならないけれども、どうしますか?」ということで、「お願いします」っていうことで待って、疲労外来のほうにかかって。で、それからちょっと1か月ぐらい診断でかかったんですけれども、慢性疲労症候群っていうことで、「疲労外来で診ます」ということになりました。その間はもうほんとに、1月に熱が出て風邪の症状が出たときには明らかに体の症状が今までとは違っていて、ちょっと歩くともう体ががくがくロボットのようになって、こわばってしまって歩けない、長距離を歩けないっていうかたちになったりとか。もう病院で待ち時間を座っているんですけれども、30分座ってるだけでもしんどくてしんどくて、横になりたいけれどもまわりにお年寄りの患者さんとかいらっしゃるから、若い私だけが横になるなんて申し訳ないと思って、もうとにかく待ち時間待つんですけれども。1時間座ってたら「もう帰りたい、もう帰りたい、もうこんなにきついんだったら先生にかかる前に帰りたい」っていう状態に、でなんとか診察を待つっていう状態で。で体の痛みもどんどん強くなっていって、もう夜中に寝ていたら体の痛みで飛び起きて、もうあまりの痛みで大泣きしてしまうっていう状態が続いていたりとかして。で、まあ大阪市立大学の疲労外来で診断が下ったときは、「交感神経が常に24時間働き続けていて、寝ている状態のときでも交感神経が働いていてアクセルをずーっと踏み続けている状態だから、体が一切休まっていない」っていうことで、診てもらうようになりました。[00:05:48]

谷田:その体の痛みっていうのはどういうところだったんですか? どういうところが特に痛いとか。もう全身ですか?

志田:全身で。まずはじめにびっくりしたのが、シャワーを浴びたらその水滴一粒一粒が、なんかこう針で刺されているようにまず痛かったのがびっくりしたのと、あと足とか手とか、なんて言うんですかね、骨が体の中から木槌で叩かれているように、ずーんずーんずーんずーんって痛むような痛みがあったりとか。それとか体の中からこう、なんかガラス片がこう通っているような痛みだったりとか、もうそれがずっと、ある一点で痛み続けるっていうわけじゃなくて、脚が、右脚の膝から下が10分間痛かったなと思ったら、今度左脚のほうにその次の10分移って、で5分ぐらい痛んでるなと思ったら今度背中に移ってというかたちで、どんどんどんどん体の中をめぐるってかたちで、一か所にとどまり続けるっていうかたちではありませんでした。

谷田:なるほど、いやあ…。その治療っていうのはどういうかたちで進んでいったんですか?

志田:はい。治療っていうかたちは、まず私は痛みが激しかったので痛み止めを、リリカとノイロトロピンというお薬を処方されました。はい。それである程度効いてたんですけど、ときどきやっぱりかなり痛いときがあって、そのときはロキソニンっていうお薬をとんぷくで飲むっていうかたちで飲んでいました。そして睡眠障害があったので、睡眠障害のお薬は近くの内科の先生で出していただくというかたちで出していただいてました。はい。

谷田:じゃ、薬としては主に痛み止め中心だったんですね?

志田:そうですね、はい。そしてそれからですね、3年ぐらい経って、療養してたんですけれども、ほんとに年々もうほんとに少しずつ少しずつ、ゆっくりゆっくり悪くなっていくのがわかっていて、でまあ家事を、専業主婦だったので家事をしてたんですけれども、もうできることがほんとに少しずつ少しずつ、月を追うごとに年を追うごとにできることが少なくなっていって。もう1部屋掃除できていたのがそれが1日かかるようになって、でも1日でもその4分の1ぐらいしか掃除できなくなってとか。料理もほんとになんとかこなせてたのが、鍋を持つのがつらくなって料理ができなくなって、週にもう3日になって、2日になっていうかたちでなっていって。まあ夫のほうも仕事が遅かったので、帰ってくるのも遅いので、それで食事とかも不規則になったりとかして、お互い疲弊していっていう感じで。でもう突然ある日、離婚を言い渡されてしまって。で、あの、もうびっくりしたんですけれども、そんなつもりはなかったので。で、相手もそういうそぶりは一切見せなくて。

谷田:えー…。

志田:前の日に朝ごはんを作っていて、朝ちょっと起きるのがつらい、睡眠障害でつらかったので、前の日の晩に朝ごはんを作っておくっていうかたちにしてたんですけども、朝ごはん作っておいて。主人が行ったころにトイレに起きたんですけれども、主人がいて、あの、爪を切ってたので、「あ、今日は行かないの?」って言ったら、「あ、今日ちょっときついから休むよ」って言われて。「あ、本当。最近忙しかったからゆっくり休んだらいいよー」って言って、で、「うん、そうするー」って言ってたので。で、「私もう一度ちょっと寝てくるね」って言って。で、寝て、起きてきたときに、「パンを買ってきてあげるよ」って言うから、「いやいや、朝ごはんに食べるものは前の日の残りがあるからいいから」って言ったら。「いい、いい、大丈夫」って言って出て行って、5秒もしないまま、私の、「円のお父さんとお母さんが来たよ」って言われて、「えー? なんで?」って言って。で、そして、「ちょっと待っててね。僕のお父さんとお母さんも来たから」って言って。「えーえーえー、なんでなんでなんで?」って言ってる間(ま)になんかこう両家の家族がそろってしまって。で、「離婚したいんだ」って突然切り出されて、びっくりして。でまあなんかあの、「もう病気してから愛していない」っていうふうに言われて、で、びっくりして。で、うちの親ももう、あの、びっくりして。で、夫のほうは体がきついから実家に帰るって言われたんですけど、夫が実家に帰ってしまったら、私はこう買い物にも一人ではいけない状態だったので、買い物にも行けなくなってしまったらもうほんとに生活ができないので、じゃあうちの両親が実家に連れて帰るっていうかたちで、実家に帰って。で、それからもう一切、離婚調停起こされて、離婚訴訟を起こされてっていう、3年ぐらいかかったんですけど、一度も会うことなく、その、離婚するっていうかたちで至りました。 [00:12:41]

谷田:うーん。いやあ、ほんとに、大変でしたね。ほんとになんかこう、大変でしたっていう言葉もなんかすごい薄っぺらすぎて、ちょっとあれなんですけど。

志田:いやいやいや、はい。なんかもうびっくりして、最初はもう受け入れられなくて。でなんかあの、もうほんとに、この病気は環境が変わるっていうことがとってもきつくて、あの、

谷田:なるほど、環境が変わる、

志田:はい。光過敏症だったりとか、音過敏だったりとか。私あの、触覚過敏とか、シーツが変わると寝れないとか、あと振動過敏とかがあったりして。大阪で住んでいたところは住宅街だったので静かだったんですけれども、実家はちょっと道に面してるので、車の振動とかがこう来るんですね。するともうすごくこう、実家に帰ってきた当初はもうその振動で、「もう私はここにいられない、こんなところで暮らせない」っていうかたちで、「もうどうしよう」って思ってたんですね。で、かなりショック状態もひどくて、「もう死にたい」っていう状態が強くて。でもう、もうほんとに、病気が発症してからもうできなくなっていくことがどんどんどんどんこう、なんて言うか、減っていくので、なんかあの、そのころのことを書いたことがあるんですけれども、離婚通告時のときはほんとに突然離婚を突き付けられて、私も修羅の状態になっていて、で、実家に帰ってきてオーバードーズをしてしまったりとか、全身を自分で殴り続けるので、父と母で押さえて、それでも残った頭で壁に頭を叩きつけて、全身紫、青や黄緑のような、もう黄色をした痣(あざ)ばかりでした。つらかったです。で、「病気がなければ、ひきこもって生活せざるをえないような妻でなければ」と自分を責めていました。[00:15:22]
 で、まあ私はかなり自責に向かって、自分を責める方に向かっていたんですけれども、夫に、病気が発症してからもうかなり、もう一つ一つ「ごめんなさい、ごめんなさい」って、「何々できなくてごめんね、何々してくれてごめんね、ごめんね」って言い続けてたので、あとから考えてたらほんとに「ごめんなさい病」みたいなのにかかっていて。こう、その「ごめんなさい病」で自尊心をかなり削られていたなっていうことが実家に帰ってきて、で実家でこの病気を受け入れてもらって、「ごめんなさい」って言うことが減り、まったく減っていったり、なくなっていったりしたことで、自尊心がこうそのときになって、「ああ、かなり削られていたんだな」というふうに自分で気づいていきました。
 で、最初はまあ夫と離れることでかなりショックを受けていたので、心療内科にかかりました。で心療内科の先生が、偶然だったんですけれども、慢性疲労症候群の患者を診たことがある先生で。で、その先生に診てもらうことで、ちょっと体のほうにも異常な何かこうブツブツが出たりとかしていたんですけども、「そのブツブツは、サインバルタってお薬ですね、サインバルタってお薬が脳の自律神経を整えるお薬だから、飲んでみましょう」ということで飲んで。で、「それもかなり体の痛みには効きます」っていうことで飲んだんですけれども、かなりそれでいったんまた精神的にも体にも落ち着いて、で、とてもよかったですね。で、睡眠障害のお薬も出していただいて、で、それで夜も眠れるようになって。
 で、かなり、で今度は、また夫から突然、「家を処分した」とかいう話とかが来たりして、で荷物も勝手に処分したとかいう話が来たりしてまたショックを受けたりして、それでまたショックを受けて心療内科の先生に頼りに行って、でコントミンてお薬を出していただいたんですけれども。そのお薬を出していただいたら、あの、私は光過敏だったりとか聴覚過敏があって、それまでは家族と一緒に食事はとれなくて、一人だけ別の部屋で食事をとるっていうかたちだったんですけれども、まあ夫のことでかなりショックを受けてもいたので、あの、もうしゃべれない…、そのときはかなりもう人とは話せないっていう状態で、寝たきりで、で食事のときなんとか起き上がって、で母とももう話せないので筆談で文字で書いて話す、あの、意思を伝えるっていう状態だったんですけれども、

谷田:えー、

志田:そのコントミンってお薬出してもらったら、かなり光に対してだったり音に対してだったりとか、まあ家族もかなり気を使って私に合わせてはくれてたんですけれども、それでも一緒に食事をとることが無理だったのが、家族と一緒に食事をとれるようになったっていうのがすごく大きくって。家族の生活に合わせ…、かなり合わせられるようになって、まああの、家族と朝昼晩一緒に食事をとれるようになって、寝たきりで熱がかなり高かった状態は変わらなかったんですけれども、実家での家族との生活をスタートさせることができ始めました。はい。[00:20:18]

谷田:いやもうほんと志田さん、とてもよどみなくお話ししてくださって、すごく、なんかこう、びっくりしてます。ほんとに、ありがとうございます。

志田:ああ、いえー。

谷田:あの、オーバードーズとか全身殴りつけるようなときがあったっておっしゃってて、それをこう乗り越えるっていうのかな、どうやってそこからこう、そういう状態から脱したんですか?

志田:そうですね、あの、自殺未遂みたいこともして、近くの公民館で3階建ての大きな建物があるんですけど、その3階建ての外階段上って飛び降りようとしたりとかしたこともあるんですけど、母が一生懸命走って来て止めてくれて、もう二人で大泣きしてっていうかたちで。で、やっぱり母が寄り添ってくれて、母が寄り添ってくれたのと、あとまあ一つ一つ、まあ離婚調停だったり離婚訴訟を起こされたりして、一つ一つ段階を踏んでいくにつれて、時間が経つにつれて、そこからこう少しずつ、あの、なんて言うんですかね、抜け出せていったっていうのもあるんですけど。一つ大きいのはやっぱり母が「恥ずかしい病気ではない、人に隠したりしたりする病気じゃない」っていうことで、地域のかたに積極的に知ってもらおうということで、病気についての資料だったりを渡したりとか話したりして。地域の人たちがみんな、「円ちゃん帰って来てるけど、どうしたの?」って言って。で、「こんな病気なんですよ」って言ったら、すごくみなさん心配してくださって、「大丈夫?」って言って、「どんな病気なの?」って言って、すごく知ろうとしてくださって、「ああ、もうそれだったらこんなふうにつらいね、あんなふうにつらいね」って言ってくださったりとか。あと地域の民生委員のかたに「こんな病気でここに、娘さんがこんな病気で苦しんでるから、もしなんか災害だったりとか何かあったときとかは助けてくださいね」っていうことで伝えてくださったりとか、そんなかたちでコミュニティーのかたがかなり動いてくださったんですよね。その中でまあ俳句とも出会ったんですけれども。

谷田:そうですよね。うんうん。

志田:はい。なんて言うんですかね、俳句とも出会いましたし、あと石川さん、CFSネットワークと出会って、CFSネットワークの会、あの、講演会が開かれたら出席、福岡で開かれたら出席してみるっていうかたちで、同じ病気を抱えた人を間近で見て、次第に石川さんたちと話してみるっていうことで病気を受け入れていくっていうこと、あとコミュティーに参加するっていうことで、社会参加するっていうことで、あの、削られていってた自尊心っていうのが回復していったっていうのがかなり大きかったですね。

谷田:なるほど。へー、いや、でもすごいですね、お母さんそうやってこう、お母さん自らこう隠すんじゃなくて、地域の人たちにいろいろと「こういう病気なんだ」っていうことをお話しされたっていうことに、すごいことだなってほんとに思います。いや、もちろん志田さんが一番大変な中で一番すごいんですけど。いやー、すごい。[00:25:00]

志田:大阪にいたときはなぜかわからないんですけれども、まわりに、大阪ではちょっと、遠くにしか友人がいなかったので、まあアルバイトも辞めて引きこもりみたいな状態で暮らしていたので、なぜか病気をすごく恥だと思い込んでたんですよね。だからもう、とっても恥ずかしいっていうふうに感じていて、で、実家に帰って来ても、離婚を突きつけられ…、病気によってまた離婚を突きつけられたっていうことで、二重三重に恥をかいているような気がしてたんですけれども、それを少しずつ、みなさんに隠さず話したんですよね。

谷田:すごい、すごい勇気ですよ、ほんとにすごい勇気だ。

志田:で、大学時代の友人たちにもまああの、徐々に隠さずに話していって、それでみんな「ああ、そうなんだ、大変だったね」っていうかたちで受け入れてくれて、「あ、恥ずかしいことではないんだ」って。まったく私の人間性っていうものは病気にかかったからといって変わってはいないっていうことで、私の属性っていうのは何も変わってないんだっていうことを気づかされて。「ごめんなさい、ごめんなさい」って言ってたから、もうほんとにもう私が私ではなくなっていってるような気がしてたんですけれども、実家に帰って来て、はい、コミュニティーの人たちにとってもよくしてもらいました。

谷田:恥だと感じていたっていうのはその、引きこもっていたっていうこともあると思うんですけど、やっぱり働けないとか、何か「こうありたい自分」があって、「そうではない自分」みたいなものがあったんですね、なんか。

志田:そうですね、とてもそれは大きいです。やっぱりあの、まあ専業主婦してたので、家事はやっぱり一生懸命こなしたいっていう思いがあるのに思うようにできなくなっていくっていうのと、あとあの、なんて言うんですかね、今の段階ではとても主観的な病気なので、客観的に数値が出てくる病気だったら、客観的にこう開き直れるじゃないですけど、「こういう数値だから私悪いんだよ」って言えるんですけれども、とてもまだ科学的に根拠がはっきりと証明されている病気ではないので、夫に「具合が悪いんだ」っていうことが伝えても、「あ、そうなんだ」っていうことってなかなか伝わらなかったりとか、なにか自信持って言えないってことで。そこのあたりから、なぜかこう社会に対して、何か主観的だから、なんか仮病なんじゃないか、詐病なんじゃないかと思われるんじゃないかっていう。で、自分自身もそこに自信を持って、自分自身は実際、体がひどく痛かったりとか、もうほんとにつらくて、体が重くて思うように動かないんだけれども、社会的には認められてないんじゃないかっていうので、なんか恥ずかしいっていう思いがありました。

谷田:俳句と出会われたのは2016年の9月っていうふうに、ちょっと記事にあるんですけど、もともと、

志田:あ、はい。

谷田:あ、どうぞ。

志田:あ、いえ、はい。えっと2016年、あの、私、もしかしたらそれちょっと間違っているかもしれなくて、あとから、

谷田:(笑) ほんとですか?

志田:平成28年か、何年かがちょっとわからないんですけど、

谷田:ああ、全然大丈夫です。[00:29:55]

志田:あ、はい、はい。平成28年の9月にあの、香月句会と言って、地域のほんとに小さい句会、8人でやっている句会なんですけれども、私以上は、私の次に年上のかたは70歳で、その上はもう90歳のかたっていうかたちで、ただとても何十年って歴史の長い句会で、あの、そこで出会いました。それももともとは母がその香月句会の選者っていうか、俳句の選句のみを参加してくださいって言うかたちで参加させてもらっていたのがきっかけだったんですけど、で、そこで、「円ちゃん、一緒にしませんか?」っていうことで。母が小さい駄菓子屋とお茶屋さんを経営してるんですけれども、隣組に入っていて、その隣組で何十年と薬局とカメラ屋さんを営んでおられたしげまつまさこさんっていうかたと、他のかたも私生まれたときから、赤ちゃんのときから知ってもらってるんですけれども、あともう一人、きむらちえこさんていうかたで、そのかたも近くで美容院を営んでらっしゃるんですけれども、私の同級生の、保育園から幼なじみのお母さんで、赤ちゃんのときから知ってらっしゃるかたが誘ってくださって。でそういう面でとても、なんて言うんですか、赤ちゃんのときから知ってくださってて、もう私が小学校、中学校育つのも、中学校の時の厄除けの写真もカメラ屋さんのしげまつさんには撮っていただいたりとかして、で、もうずっとみなさん、私の二十歳、大学に行くぐらいまでの成長を見守ってこられてるかたたちだったので、ほんとに安心してなんかこう、「あ、それなら入ってみようかな」っていうかたちで入りました。はい。

谷田:その俳句っていうのは、病気に対してどんな支えになってるんですか? というか、支えになってるんでしょうか?

志田:はい。あの、地元の句会に初めてこう参加するってなって、いきなりまとめて一気に10句できたんですけれども、その後も次々にあふれ出てきて、こう十七音はすぐ私の体のリズムに合いました。で、病気がつらくて単調な暗い生活を、できることが少ないことでの自己嫌悪をまったく忘れて、詩の世界に解放されてる時間でした。で、それはもう春の草花の生成の喜びや、夏空を仰ぐ解放感だったり、秋の虫の音に夜の広がりを感じた晩の心もとなさだったり、冬の星空の魔境のような静けさなど、元気だったころの五感を取りもどす経験でした。で、表現することがこう新たな自分をつくり出している感覚があったので。これはこう、どうしてもCFS/MEの患者でいて寝たきりだったら、こう1点にとどめ置かれてる感じがするんですよね。それがこう、その闘病生活では得られないこう解放感でした、はい。

谷田:いやあ、いやもう、今の言葉じたいがとても素敵、素敵でした。うーん。でもあの、そうだ、その、病気になってまあよかったことってたぶん、そんなにないかもしれない、っていうか私なんか全然ないんですけど、俳句をしていて、その病気に対するこう向き合い方って変わりましたか? なんかその、ずっとベッド…、一点にいるっていう、でもその中でもこう世界が広がるみたいなそんな感覚とか、ちょっとわかんないですけど(笑)、[00:35:04]

志田:まあですね、あのー、まず俳句をしていて、俳句を詠むってことで、で、寝たまま作句、句を詠む、作ることができるっていうことで、とても私には合っていた表現方法でしたし、短歌もとてもすばらしいんですけど、短歌ほどこう内面を吐露しないので。あの、どうしても短歌だったら私はちょっと二の足を踏んでいたんじゃないのかなと思うのは、内面を吐露しすぎるとつらい歌ばかりになってしまったんじゃないんだろうかな、ということで。俳句っていうのはやっぱり花鳥風月に心を寄せるので、何か外面的なことに心を寄せるっていうことが強いので、内面の風景を外面(がいめん)のせ…、外界の世界の何かこう、空を見たり、窓から鳥を見たり、蝶を見たりとか、そういうものに目を向けて、内面をそこまで吐露しすぎずに、自分を外のものに置き換えて作るっていうことで、あの、私自身、なんて言うんですかね、外界のものになり代われるというか、あの、

谷田:なるほどー。

志田:私の句としては、そういう句がとても多いと思います。そして、とても俳句をしていて嬉しいのは、句会に、俳句の同人(00:37:12)会に入ってるんですけれども、俳句ではやっぱりお師匠さまがいて先輩方がいらっしゃるんですけれども、下の名前で呼び合うっていう慣習があるので、90歳の先輩のかたでも下の名前で呼び合うので、なんて言うんですかね、こうシスターフッドというか、なんと言うんですか、「お姉さま」じゃないですけれど、そういうかたちでお付き合いできるので、お手紙のやり取りだったり、絵手紙をくださったりとか、私の俳句を短冊にしたためてくださったりとか、自家製のお野菜だったり、おうちで咲いたお花、珍しいお花だったりとか、季節のお花を届けてくださったりとか、とってもそういうところで交流があって心の支えになっています。はい。だからとてもそういう意味では、とても年上のかたたちと、距離のあるかたたちと付き合ってるっていうかたちではなくて、なんて言うんですか、あの、

谷田:年齢を超えて、

志田:はい、年齢を超えたお付き合いをさせてもらっています。そういう面でもまた、あの、いいコミュニティーの力って言うんですかね、そういう力をいただいています。

谷田:でも志田さんのそのつながる力っていうか、それもあるんでしょうね、きっとやっぱり。CFSのネットワークにもみずから連絡されてて。イタリアの患者さんともお付き合いをされてるんですか? [00:39:19]

志田:はい、そうです。あの、大学がイタリア語専攻だったので、CFSネットワークの会長の石川さんからまあ、「イタリアの患者さんっていうのはどういう感じだろうね」っていうことで、「じゃあちょっと探して聞いてみます」っていうことで、イタリアの患者会の会長さんにいくつか質問をしてみました。

谷田:イタリアにもあるんですか? CFSの患者会は。

志田:はい、患者会があります。

谷田:へー。向こうの状況はどんな感じなんですか? [00:39:59]

志田:やっぱりあの、日本と変わらず専門医が少なくて、やっぱり普通の病院の先生では理解がしてもらえなくて、みなさん困ってらっしゃるっていうエピソードっていうのがたくさん載っていて。診断が下るまでにかなりの時間がかかったりとか、小児慢性疲労症候群だったら学校に行けなくて、学校に行けないっていうことで先生の理解を得られなくてかなり悲しい思いをしただったりとか、そういうエピソードが載っていたりします。

谷田:へー。そのときの対話というか、どんな言葉をかけ合われたんですか?

志田:そうですね。まああの、どちらもきついので、「まあお互いに頑張りましょうね」じゃないですけれど、応援し合うってかたちなんですけれども。まあなかなか理解が進まないけれども、世界中で少しずつこうやって会をあちこちで持つことで。で、イタリアの会のほうも、アメリカだったりカナダだったり、あとヨーロッパ域内で会合を開いたりとかされているそうなので、そういうところで理解を広めたりしているので、そういうかたちでCFS/MEの理解を広げていきましょうねっていう声かけをしました。はい。

谷田:ありがとうございます。大丈夫ですか? 体調。

志田:あ、大丈夫です、はい。

谷田:今の状況ってどんな感じですか? 動ける時間ってどれぐらいなんですか?

志田:えっと、動ける時間っていうのがほんとに、ああ、あの、ほぼ食事だったりとか、あとまあ短くお風呂入る時間だったりとか、ほんとに生活に必要な時間以外は横になっているっていう状態が多いですけど。で、こういうかたちでお話ししたりだったりとか、石川さんとお話ししたりだったりとかするときだったり、CFS支援ネットワークのお仕事を手伝ったりとかするとき、パソコンの仕事をするときだけ2時間ぐらいパソコンに向かったりとかそういうかたちでするんですけれども。それからはちょっとまた体調が悪くなって何日かは寝込むっていうかたちになるので、実際に起きれてるのは日に3、4時間だったり、長くてまあ5時間ぐらいだったりすると思います。はい。

谷田:移動は車いすとかですか? それとも、

志田:車いす。長距離は車いすです。はい。

谷田:発症から、12年に発症だからもうけっこう経ってると思うんですけど、症状の変化っていかがですか?

志田:あのー、12年の時にはまだこう、12年から15年ぐらいに大阪にいたときは歩いて病院まで自分で行けてたんですけれども、まあちょっと夫との離婚のことがあったりとかして精神的にかなりのショックがあったときに体にも堪えて、寝たきりの生活が続いて、症状もかなり悪くなってしまって、車いすが必要になっていったっていうかたちで。で、それでこう福祉装具が必要になって、寝たきりの状態が続くっていうかたちで。で一時期、かなり熱も38度台が続くっていうかたちできつかったんですけれども、まあ離婚が決まって落ち着いて、かなり熱は下がるようになって。あの、やっぱり長距離の大阪までの通院は車いすでしなければならないんですけれども、家の中での移動は壁伝いにトイレまではなんとか自分で行けるとか、少し外を見る、立って見ることができるとかいうふうに少しは落ち着きました。はい。[00:45:31]

谷田:なるほどね。何か「この治療がよかった」っていうようなことってありました? コントミンがよかったって話はさっきあったんですけど、

志田:えー、この治療がよかったっていうのは、えーと、そうですね、ないですね。お薬を増やしていって(00:45:53)もらって、症状がこうおさまるようになって、なんとか家族と生活ができるようになったっていうかたちが今の状態で、具体的な治療っていうのは、あの、なかなかないっていうかたちです。はい。

谷田:今、じゃあお薬とかはどちらでいただいてるんですか?

志田:はい。大阪市立大学でリリカとノイロトロピンの痛み止めをいただいて、で、近くの心療内科でサインバルタだったりコントミンっていうお薬だったりとか、睡眠障害のお薬をもらっています。はい。

谷田:じゃあ大阪とその地元に一応その主治医っていうのがいるっていうかたちなんですね。

志田:かたちです、はい。

谷田:障害年金とか、障害者手帳って取得されてますか?

志田:はい、取得しています。

谷田:ちょっとそのあたりも教えていただいてよろしいですか? 障害者手帳は慢性疲労症候群で?

志田:はい、そうです。慢性疲労症候群での四肢障害っていうかたちで。

谷田:四肢障害。身体障害の何級になるんですか?

志田:あ、1級です。

谷田:1級、あ。へえー。障害年金のほうは?

志田:も、1級です。

谷田:何かこれ取得するときに、ちょっと苦労したとかっていうことは特になかったですか?

志田:苦労した点は、ありました。まず障害年金のほうも、あまり診断書を書くことに、まあ主治医の先生、大阪の主治医の先生というのが積極的ではなかったので、あの、まあとても困ったんですけれども。

谷田:大阪の主治医がですか?

志田:はい。ちょっとあの、「ちょっと書けないな」、最初の時点では「書けないな」っていうかたちだったんですけれども、もうそのときちょっとこう夫とのことがかなり逼迫してたときで、まあ生活費のこととかもありますから、まああの、かなり精神面もやられてたので、電話して「もう先生、死んでしまいます」っていうふうに、もう電話の前に倒れ込みながら先生に相談したら、あの、「じゃあ、まああの、書きます」っていうことと、そこで「診断書書きます」っていうことは言っていただいたんですけれども。次に困ったのが社労士さんを見つけるっていうことが。慢性疲労症候群っていうのはあまり知られていない病気なので、社労士さんも社会福祉事務所に行って病気のとこを聞かれたときに、こういう病気ですっていうことを伝える…、うまく伝えられる社労士さんじゃないといけないっていうことで、慢性疲労症候群を取り扱ったことがあるっていう社労士さんを探すのにちょっと苦労しました。

谷田:あー。

志田:ただ偶然、大阪の主治医の先生の所の近くにある社労士さんの事務所のかたが、まあ慢性疲労症候群を取り扱ったことがある社労士さんだったので、先生の診療室まで行って診断書を受け取ってっていうかたちで、社労士さんが診断書を受け取って、私の代わりに障害年金の手続きをしてくれるっていうかたちになりました。[00:50:28]

谷田:うんうんうん。当初先生は「ちょっと書けない」とおっしゃってたの、なんか理由言ってらっしゃいました?

志田:いや、言ってはらっしゃらなかったんですけれども、おそらく障害者手帳についてもそのとき相談したんですけれども、「障害者手帳もここでは書けないよ」っていうことで、障害者手帳っていうことになりますと、慢性疲労症候群っていうよりは、慢性疲労症候群のせいで脚がうまく動かない、手がうまく動かないということで四肢障害になってくるので、整形外科の先生に診ていただく必要があるんですけれども、大阪市立大学の整形外科では障害者手帳は絶対に(00:51:24)書かないっていうふうに疲労外来のほうに言われているらしくて。やはりなんかこう大学病院、

谷田:そうなんですね。

志田:はい。なので大学病院ってかたちの中で、組織の中でその診断書を出すっていうのはちょっと難しいのかなっていうことはちょっと感じました。でCFSネットワークの中で、九大病院の心療内科で慢性疲労症候群診てもらっている患者さんも、「九大病院の心療内科では、障害年金の診断書だったりとかそういうものは書けないっていうふうに断られました」っていうふうに言われてたので、なかなか大学病院の中では書くっていうのは難しいのかなっていうふうには。

谷田:やっぱりなかなか慢性疲労症候群が病気として認められてないところもあるんですかね? その大学の中で、

志田:のかなっていうかたちで、はい、あの、思いました、はい。なので障害者手帳も石川さんに相談して、CFS支援ネットワークに相談して、慢性疲労症候群に理解のある先生、慢性疲労症候群がどういう病気かっていうことを知ってらっしゃる整形外科というかリハビリテーション科の先生が神奈川の小田原にいらっしゃるってことで、

谷田:ああ、はいはいはい。

志田:はい、神奈川の小田原まで母と行きました。

谷田:そうだったんですか。へー。

志田:はい。そしてその先生が書いてくださって、で、その先生の診断書と、あと大阪市立大学の主治医の障害年金の診断書を持って、近くの整形外科に福祉装具のことを。福祉装具の、市のほうに福祉装具の診断書みたいなものが要るんですけど、それを書いてもらうのに近くの整形外科に行ったんですけれども、初めてその先生は「そういう病気があるんだね」っていうことを知られて。で、その先生は最初は「手、上げてみて」って言われて、手を上げたら「上がるじゃない」みたいな感じで言われてたんですけど、その翌日にはもう上がらなかったので、上がらないっていうことで私が泣いてしまって。で、それを母がまた先生に伝えたら、先生が「あ、そういう病気なんだな」って、初めてそこでまた納得していただいたみたいで、それからはとても協力的になってくださって。であの、「次からは僕が障害者手帳の診断書を書いてあげる」っていうことで言ってくださったので、はい、地元で障害者手帳の更新ができるようになりました。去年更新だったんですけれども、ちょっとコロナの関係で1年更新が延びて、今年更新っていうことになるんですけれども、地元で書いていただけるようになりました。[00:55:14]

谷田:よかったですね、それはほんとにもう。今の一番しんどい症状って何ですか?

志田:今の一番きつい症状っていうのは、えーと、疲労感、倦怠感ですね。やっぱり少しの、ちょっとお風呂に入ったりとか食事をしたりっていうだけでかなり疲れてしまって。食事をしてる途中でも疲れてくるので、食事があまり取れないっていうことで、少しやつれていってしまったりとか。お風呂に入ってももう疲れてしまうので、もうあの、母に体を拭いてもらって、服着せてもらって、髪の毛を乾かしてもらってっていうことで、かなり時間がかかるっていうかたちで。で、そのあともちょっと何もできないっていうかたちでぐったりしてしまうので、はい。ただ大阪にいたときから飼っている猫がいるので、その猫ちゃんたちのお世話も少ししてあげないとかわいそうなので、ちょっとがんばってお風呂上がっていっとき休んだあとは猫ちゃんのお世話をしてあげるっていうかたちで、あの、少し動いたりはしてるんですけれども。はい。

谷田:他にどんな症状がありますか? 今なんかこう、

志田:そうですね、他には体の痛みっていうのが、天気がやっぱり悪くなるとか、季節の変わり目っていうときに、かなり体の痛みだったり、関節痛だったりとか頭痛だったりとか、そういうのがひどくなるっていうのがあります。はい。

谷田:やっぱり主症状はすごい強い倦怠感になるんですね、じゃあ。

志田:はい。

谷田:発症当初の痛みっていうのはだいぶましになったんですか? じゃあ。

志田:はい、お薬でだいぶ抑えられるようにはなっています。

谷田:病気をちょっとなかなか受け入れるのが大変だったっておっしゃってたんですけど、志田さんにとっての病気を受け入れるってどういうことだったのか? あるいは、まだ病気を受け入れてないっていう話でもいいんですけど、病気を受け入れられたのか、

志田:そうですね。あのー、病気をまだやっぱりまだ受け入れて…、受け入れる、かなりやっぱり揺れがあるなと。受け入れられているって思う瞬間もあれば、あの、体がやっぱりきつくなる、調子が悪く(00:58:48)なる、あの、去年の夏あたりから去年の冬はちょっと何か、なぜか調子がかなり悪かったんですけれども、そのときは精神的にもちょっと参ってしまって病気に対して悲観的だったので、「あ、まだやっぱり受け入れられてないのだな」と思って、やっぱり振り子運動のようにその振幅が大きくなったり、振幅が小さくなったりっていうかたちであるのかなっていうのと。
 あと一つ、年明けに、新聞は文化面しか見ないんですけれども、たまたま年明けに朝日新聞の1月7日の木曜日の文化・文芸面に「コトバと沈黙」っていうコーナーがあったんです。1回だけのコーナーがあったんですけれども、その中で東京の下北沢で、あ、東京の下北沢じゃないですね、大阪の西成で在日コリアン二世として生まれた趙博(チョウ バク)さんっていうかたが歌を、東京の下北沢で音楽劇として歌われたらしいんですけれども、そのかたのことがちょっと書かれていて。そのかたが、その趙さんにとって歌っていうのが重要な意味を持つものの一つに、「恨(はん)」っていって、恨みっていう文字を書くんですけれども、韓国語で、朝鮮語で「恨」っていうのは、日本語の恨みのように晴らすものではないっていうことで、「星霜を経て酒が醸されていくように、哀しみや苦しみを胸に抱え昇華させていくのを『恨』だという」っていうその言葉を読んで、ああ、私の病気ももうもはや、なんて言うんですか、切り離せないものっていうか、私の人格とも一つのかたちになっていっていて、いつか治療薬ができて切り離すことができるのかもしれないんですけれども、今のところは病気に恨みを晴らすように、何らかの治療法で仇(かたき)を討つっていうようなことはできなくて。もう私と運命共同体で、私の精神の内部にまで影響を及ぼすようなかたちで、障害っていうかたちだったり病気っていうかたちだったり、その、そうですね、もう障害者として友人だったりコミュニティーの人たちと付き合うっていうかたちの私の生活が今成り立っていますので。やっぱりその「恨」っていうのか、恨みを晴らすっていうよりは、心にその、苦しみを抱いて生きていきながら、それを言葉にしたりとか、思いにして昇華させながら日々生きていっているっていうかたちで、病気を受け入れられているというよりは、苦しみとして抱えながら生きているっていうかたちです。[01:02:48]

谷田:その昇華させるっていうのは志田さんにとっては、先ほどおっしゃってたように、言葉にしたりっていうことなんですかね?

志田:はい、そうですね、はい。それが大きいです。で、やっぱり俳句をしているので、俳句での言葉にやっぱり、俳句をしてるので、俳句によって、あの、大阪のほうでFM COCOLO(エフエム ココロ)っていうFMのチャンネルがあるんですけれども、そこで朝のCiao! MUSICA(チャオ ムジカ)っていって大阪のFMの朝の顔をしている、大学の先輩で野村雅夫さんっていう人がいるんですけれども、その人が『季の言葉』って言って季節の言葉を取り上げるコーナーをしていて。で、そこで俳句を紹介しているので、その先輩に俳句を送ったりして、あの、私の俳句も取り上げてくださって、

谷田:へえー。

志田:で先日は私の、新年に俳句を紹介してくださったらしいんですけれども、えっとなんていう俳句だったかな、あの、「初日記 ページは祈りの鳥となり」っていう俳句なんですけれども、それを紹介したら、以前にも私の俳句をいくつか紹介してくださってるんですけれども反響があって、私の俳句の句集を探してくださったりとかしてくださってる人もいるみたいだよっていうことで励ましてくださったりとか。あと、だからファンもいるよっていうふうに言ってくださったりとか。

谷田:いやー、そうですよね。

志田:あと、関西のほうで、神戸の岡本で和菓子職人をしている大学の友人がいるんですけれども、その友人と毎月俳句とお菓子をコラボしていて、

谷田:おお。

志田:その友人にも俳句を送って、でそれをもとにお友だちがお菓子にしてくれたりとかして、そういうところでお友だちとつながったり、コミュニティーとつながったり。あと、もちろん句会では地元の同人誌で「自鳴鐘(じめいしょう)」っていうとこが、歴史の長い同人誌があるんですけれども、その「自鳴鐘」で、入っているので、それを毎月出すっていうことで、「自鳴鐘」の同じ入られてる方たちからお手紙をいただいて励ましをいただいたり、こちらも返事を返して交流したりっていうかたちで、そこのコミュニティーっていう、社会参加ですね、ができているので、あの、なんて言う、そうですね、そういうかたちで昇華させていけてる部分が大きいと思います。はい。[01:06:30]

谷田:志田さんの自分の思いを語る力。やっぱり志田さんのその言葉に対する意識っていうのが、なんかすごいなあって聞きながらとても感じます。

志田:いえー。

谷田:あの、その神戸のお菓子って、どちらなんですか?

志田:あ、はい。あ、すいません、もう一度よろしいですか?

谷田:神戸のその、お菓子とのコラボレーションっておっしゃってたんですけど、それってどちらなんですか? 神戸のお菓子屋さんって。

志田:えっと、お菓子屋さんは、「一日(ひとひ)」っていう、

谷田:素敵な話ですね。

志田:ああー。あの、「一日(ひとひ)」っていう、いちにち、

谷田:ひとひ?

志田:すみません、ちょっとお茶飲みますね。

谷田:どうぞどうぞ。

志田:なんかあの、「一日(ひとひ)」っていう、お茶の専門店らしいんですけれども。

谷田:ああー。

志田:ありますかね?

谷田:神戸、カフェかな?

志田:カフェです。はい。日本茶カフェみたいですけど。はい。

谷田:あ、あります。ここで志田さんの俳句が使われてるんですか?

志田:あの、和菓子を作っている友人がそこでいて、その和菓子に私の俳句を添えるっていうかたちで、カードで添えて。お菓子の説明と一緒に、その裏に私の俳句を添えてお出しするっていうかたちに毎月友だちがしてくれているんですね。

谷田:えー、それはすごい、おもしろいなあ。すごい取り組みだなって思います。

志田:ああ、えー。

谷田:志田さんが「いい俳句ができた」って思ったやつをその神戸のかたに送って、そこでカードにしてもらってっていう感じなんですか?

志田:そうですね。俳句を作って、で、私が少し俳句の解説を付けて毎月数句送って、LINE(ライン)でやり取りしてるんですけれどLINEで送って、お友だちがきれいなカードに仕立てて、お菓子に添えているらしいんですけれども。

谷田:へー。それ、いつからされてるんですか?

志田:えーと、えーっとですね、1年前ぐらい…、

谷田:じゃあ、けっこう前からされてるんですね。

志田:ああ、そうですね。[01:10:19]

谷田:いや、すいません。ちょっと脱線してしまって(笑)。

志田:いや、いえいえ。

谷田:へー。すごい素敵な取り組みですね、それは、なんかお友だちと、

志田:はい、あの、私も張りになっています。誰か見知らぬ人ですけど、読んでくださるかたがいるっていうのが、はい。

谷田:ありがとうございます。今の志田さんのなんか希望っていうか、「こうしていきたい」みたいな、なんか希望ってありますか?

志田:そうですね。そうですね、希望、希望っていう…、希望はほんとに、今とてもまわりのコミュニティーの人に恵まれているので、ただみなさん高齢化がっていう問題が(笑)。俳句にしても、まあ俳句のほうは地域のコミュニティーのかたたちが、かなり高齢な方たちなので、できるだけみなさん元気でいてほしいなっていうのと、あと今まあ家族も父と母まだ健在で元気にしているので、こういうちょっと体がきついっていう状態で、まだこう新薬だったり開発されてない状態でも父と母がまあちょっと支えてくれている状態なので、まあこの状態がちょっと続いている限りは助かっているなっていう状態なので、これが長く、できるだけ長く続けれたらいいなっていう希望はあるんですけれども。ま、そういう状態もなかなか難しいかもしれないので、まあその状況が変わればその状態が変わった状態の中で、何か生きていく、あの、また福祉に頼ったりとかいろんなかたちで生活が変わっていくんだろうなとは思うんですけれども、今のところは今の状態が続くといいなあとは思っています。

谷田:うーん、そうですよね、ほんとに。ちょっと私、今、質問をど忘れしてしまった。なんか私もちょっと時々、思考停止することがあって、すいません(笑)。

志田:あ、いえいえ。ゆっくりで大丈夫です。

谷田:(笑) いえいえ。すいません、志田さんこそ。もうあと1、2問で終わりますので。

志田:はい。

谷田:あ、そうそう、社会にこういう制度があったらいいなとか、社会がもっとこんな感じだったらもうちょっと生きやすいのに、みたいなことってありますか?

志田:そうですね、社会…、そうですねえ、あの、やっぱりお医者さんたちですね。かなりお医者さんによってこの病気に対する認知度が変わってくるので、ちょっとした風邪で病院に行っても、「うちの病院では診られません」って言って門前払いされたこともやっぱりあるので、とにかく医学生の教科書にこの病気が載って、お医者さんたちが詳しくなくても、この病気が存在しているんだっていうことで、「まず患者の話を聞きましょう」っていう段階になってもらえるっていうことですね。と、あとやっぱり難病指定はされていないですけれども、難病支援センターだったりとか保健所で相談しても、「あ、慢性疲労症候群ですね」っていうかたちで話だけは聞いてもらえたりとか、話を聞いて、どこかやっぱり福祉の、必ず、そうですね、私も一人で暮らしてたときは情報が少なかったので、とにかく情報を得るためには、今は患者支援の団体、CFSネットワークだったりっていうところが頼りなので、もうそこだけが頼りっていうかたちになってしまっていてはやっぱりパンクしてしまうっていう点だったりとか、なかなか情報に行き着けない患者さんもいらっしゃると思うので、ほんとに身近な保健所だったり、市の窓口ですね、福祉の窓口だったりそういうところが、「あ、その病気は知っていますので、こういう制度がありますよ」っていうことを、障害年金だったり障害者手帳っていうことが取得、ある程度の症状が進んだ患者さんだったら「可能性がありますよ」っていうことで、そういうことの手続きを踏むにはどうしたらいいかとか、そういう相談はどういう病院にしてみたらいいかっていうことをアナウンスできる社会体制ができたらいいなあと思っています。[01:16:41]

谷田:なるほど。今相談できるところがあんまりないですもんね。

志田:そうですねえ、はい。

谷田:あと、先ほど、「ものすごいしんどいときはやっぱり病気を受け入れられなくなる」っていうか、「やっぱりすごくつらくなる」ってお話だったんですけど、そういうときって、どういうふうにやり過ごしているんですか?

志田:そうですねえ、うーん、やり過ごす…、

谷田:私なら、ひたすら寝るとか(笑)。

志田:うーん、まあ、うーん、やり過ごせないのがあるので、やっぱりちょっと、心を落ち着かせるお薬を少しいつもよりは多めに飲んで、ちょっと寝て過ごすっていうかたちで過ごすっていうことが多かったりしますね。はい。

谷田:やっぱ薬を飲むとちょっとは、そのパニックじゃないですけど、ちょっとその落ち着くところはあるんですか?

志田:はい、落ち着きます。はい。

谷田:ありがとうござます。もしかして聞き足りないことがあって、またちょっとお願いするかもしれないですけど、とりあえずはこれで大丈夫です。神戸の話もすごく興味はあるので、またそれも含めてちょっと調査のお話もまた、引き続きメールとかでやりとりさせていただきます。

志田:あ、はい。

谷田:はい、じゃとりあえずこれでちょっと切ります。

[音声終了 01:18:36]

*作成:中井 良平
UP:20210928 REV:
難病  ◇線維筋痛症  ◇CRPS:複合性局所疼痛症候群  ◇慢性疲労症候群  ◇なおすこと  ◇名づけ認め分かり語る…  ◇原因/帰属 c11
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