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中西竜也氏インタビュー

2021/01/22 聞き手:坂野久美 於:Zoom

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■インタビュー情報

中西 竜也 i2021 インタビュー 2021/01/22 聞き手:坂野久美 於:Zoom
◇文字起こし:ココペリ121

■関連項目

ALS(本サイト内)  ◇説明/辞典・医学書等での記述
介助(介護)  ◇重度訪問介護(重訪)  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす
難病/神経難病 

■本文

**分
※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)としています。

■■

[音声開始] 坂野:ちょっと詳しく聞きたいところがあって。

中西:ああ、全然もう何でも聞いてください。

坂野:中西さんもまた筋ジス病棟に入院されていたということで、

中西:ああ、はい。

坂野:昔、昔というか。で、その頃の生活のことなんですけど、はじめのうちは「こんなもんか」と思ってみえたんですかね?

中西:病院に入った頃ですか?

坂野:はい、そうです。

中西:いや、僕その入った頃はまだ物心ついてすぐぐらい、6歳かな、なので、まあ僕の希望というよりも親が入れたみたいな感じですね。だからもう、なんかわけのわからん間に入ってたって感じやったですけど。

坂野:なんか「いろいろ違うな」とか、ちょっといろいろ不満が出てきた頃っていうのは、何歳ぐらいからなんですか?

中西:あー、それはやっぱり中学校ぐらい。小学校高学年から中学生ですかね。中学生になってからやっぱりこう、自分の意見がどんどんね芽生えてきたというか、意見をまあ主張できるように、自分なりに考える力がついてきた年齢でもあるんで。まあだからその頃ですね。

坂野:はい。反抗期が重なる頃ですかね?

中西:あ、そうですね。反抗期、反抗期はもう、自分であったっていう記憶はあんまりなかった。

坂野:記憶はないですよね。

中西:はい。ないです。まわりから見たらどうかわからないですけど。僕としては。

坂野:たとえばどんなことで腹が立ったりしたのですか?

中西:ああ、もうそらあれですよね、もう親に対して。特に親が言うことに全部腹が立ちますよね、やっぱし。だからなんか言うこと言うこと、なんかもう「わかってるわー!」みたいな。親ってなんかあれじゃないですか、やっぱりまあいくつになっても親子関係って一緒やし、年齢関係なく。まあ特に思春期のときってのはね、子どものことは気になるしみたいな。心配になるのもわかるし。まあけどなんか、なかったですか? 

坂野:ありましたけど、我慢してましたね。

中西:へー。

坂野:でもきょうだいいたので、そちらは反抗して怒られてましたよ。

中西:あー。僕もそや、反抗…、そやね、けっこうまあまわりの状況とかでも。けっこうね、なんか「ませガキ」って言われてたんで。

坂野:うん?

中西:「ませガキ」って、僕言われてた。ませた子どものことを、関西では、「ませガキ」って言うんですけど。そちらで「ませガキ」って言わないですか? 

坂野:ませた。ませガキ?

中西:ませた子どものことを「ませガキ」って言うんですよ。

坂野:ませガキ? 初めて聞きました。中西さんがそのタイプだったんですか? 

中西:って言われてました。ええ。自分では思わないですけど。

坂野:ちょっと大人っぽかったんですね。

中西:そうですね。目上の人とばっかりしゃべってたんで。まあ入った頃って、小学校入って入るから、もう全然、入ったら全員もう、僕が一番年下になるから、患者の中でも。まあ当然職員は全員大人やからね、大人としゃべることになるから、それで自然とこう口調もなんか大人っぽくなるっていうか。

坂野:一番年上の人はどのぐらいの人だったんですか?

中西:え、当時ですか?

坂野:当時。

中西:ああ、当時はね、二(ふた)病棟あったんですよ。まあ今もありますけど。ただ僕がいた病棟はまあ子ども、えーと20歳まで患者さんが受け入れてる病棟で。で隣にもう一つ、そっちは成人、20歳、20歳以上の人っていう感じでしたね。だから僕がいた病棟はだいたい20歳ですよね、一番上は。

坂野:で、中西さんが一番小さい。

中西:隣の病棟でも

坂野:隣の病棟

中西:隣の病棟やったら、もうちょっとはい、40歳とか50歳とかいてましたね。

坂野:じゃあわりかし若い人を集めた病棟だったってことですか?

中西:そうですね。まあいわゆる小児病棟。小児センターっていう建物だったんですよ、名前が。小児センターっていう建物で。

坂野:小児?

中西:小児センター。そこに病棟が3つあって、重心と筋ジスが2つあったと。ああ、あともう1つあった。もう1つはあの、喘息。喘息の患者さんがいる。4つありました、僕が入院したときには。

坂野:4つ?

中西:はい、4つ病棟が。小児センターに病棟が4つ入ってました。

坂野:重心と筋ジスと、

中西:と、あと喘息。

坂野:で、筋ジスが2つ?

中西:はい。そうです。筋ジスはだから80床ですね。40床40床。40床と40床で80床。

坂野:80床。で、満床だった。

中西:そうですね。満床でしたね。

坂野:ふーん。これって小さいときは先輩たちの様子を見ながら過ごすってことですか?

中西:様子も見てたし、子どもながらに距離感はかってましたね。距離感はかりながら、今思い返してみたら。あとまあ年上やけど、友だちみたいな感覚でもあったんで。なんか当時はまあ今みたいにスマホもなければインターネットもないし、何して遊んでたかっていうと、まあそれこそトランプやったり、オセロやったり、あとはプラモデルが好きで、プラモデル作ってました。

坂野:そのプラモデルは自分もちですか?

中西:ええ、自分もちで。

坂野:じゃ、親が差し入れる感じ?

中西:ああ、親に買ってきてもらう。

坂野:そのときは手が動いていた?

中西:動いてましたね。

坂野:作って見せ合いっこしたり?

中西:はい、そうそう。

坂野:ふーん。でもさすがに、中学・高校ぐらいの人はそんなことしないですか。

中西:いや、えーとね、中学、まあそやね、小学校。プラモデルは小学…。まあ学校は行って、養護学校が隣接してるんで、養護学校は全部ある。小・中・高までまあ養護学校があるんで。まあその、高校生まで、そうですね、高校生でもやってましたね、プラモデル。はい。


坂野:またちょっと高度な? でも、だんだんと動かなくなってきたりするから、難しいんですかね。

中西:そうですね。動かなくなってきた患者は、当時はそこまで重度な人がいなくて、呼吸器を使ってる人はもうほぼいなくなったっていうのと、まあ小児やから、だいたい重度化するってだいたい高校生から、20歳ぐらいから重度化してくるんで。まあたいがいみんな自分で着替えもできたりする人もいたんで、比較的動ける人ばっかりでした。手動の車椅子。電動より手動のほうが多かったです。

坂野:電動がけっこう流行りはじめたのは,もっとあとですか? 

中西:えーと、そうですね、あとまあ、やけど、乗ってた人もいるんですけど、まあ高価なもんやったし、制度がその当時どうやったかちょっと僕もはっきり、制度のことまでわからないんですけど。だけど僕は小学校2年生から乗ってましたね。

坂野:え、電動に?

中西:はいはいはい。電動車椅子に。

坂野:えー、あれって高いんですよね?

中西:あれはね、えーと、リクライニングがついてるタイプと、リクライニングがないタイプで値段が違いますね。リクライニングがないタイプで当時30万ぐらいかな。30万から40万。リクライニングついてたら5、60万、それぐらいします。

坂野:中西さんの時代はサッカーとかはなかったんですか?

中西:えーと、僕らのときはサッカーはなかった。はい。野球をやってましたね。

坂野:え、野球?

中西:はい。車いすで。

坂野:車いす野球?

中西:車いす野球やってました。

坂野:どうやってやるんですか?

中西:えーと、網、あの、虫捕る網あるでしょ。その網を使ってボールを拾うんです。

坂野:えー!

中西:ほんで、まあ当時はみな、手上がる子はピッチャーやって。ああ、そのときの写真もあるかな。画面共有できたらぜひ見てもらいたいぐらいです。写真この前にスキャナーしたやつがあるから、お見せしたいぐらいです。

坂野:ありがとうございます。へえ。じゃあバットで打つっていうのはどうやってやるんですか?

中西:バットは普通に、だから両手で持って、

坂野:両手でこうやって持って?

中西:そうそうそうそう。

坂野:で、こうやってやるんですか?

中西:そうそうそう。

坂野:へー、すごいですね!

中西:(笑)

坂野:え、ボールはどういうボールなんですか?

中西:えーと、ボールは庭球ですね。庭球ってわかります?

坂野:柔らかいやつ?

中西:はい。あの、ゴムのボールですね。

坂野:拾いに行くのが大変じゃないですか?

中西:ああ、そう、だから車いす、手動の人はこいで、網を膝の上に載せて、で、車いすこいで、で、網でボールを拾う。

坂野:網で?

中西:ああ、そうそう、網で、

坂野:持って。

中西:そうそうそう。それは何でやってたかっていうと、近畿の4療養所が、あ、養護学校4つ5つかな、年に1回スポーツ交流会っていう、交流あったんですよね。で近畿のやつは、刀根山、鳴滝、七条、上野、あと三重のね、杉の子養護学校っていうのあるんですけど、鈴鹿病院に併設してる。その5つの学校がたいがいまんなかの大阪で集まって、毎年5月にスポーツ交流会っていう集まりがあって、そこでスポーツを通してまあ交流を深めてたんですね。それで卓球バレーと野球があったんです。

坂野:卓球バレー?

中西:はい。卓球バレーってご存知ないですか?

坂野:卓球みたいな、バレー、え?

中西:卓球とバレーを融合させたスポーツです。

坂野:バレーボールを卓球のラケットで打つんですか?

中西:いや、あのね、卓球台で、バレーボールのルール。ルールはバレーボールみたいな。

坂野:柔らかいボール? そっちも。

中西:いや、ピン球ですね。卓球やから。

坂野:ピン球?

中西:はい。ピン球です。ピン球で、ラケット、木のラケットで、

坂野:ラケットは卓球のラケット?

中西:えーとね、卓球のラケットだと、ちょっとあの、ラバーとか引っかかって、

坂野:そうですね、ちっちゃいから。

中西:はい。卓球バレー用に細ーい板を作って、それで打ってました。

坂野:ちょっとこう長い感じの?

中西:えーと、だいたい長さで言うと20センチぐらいですかね。

坂野:それ、特注?

中西:特注。学校で先生が作ってくれて。で、それぞれの障害に応じてまあ持ちやすい…、持ちにくい手もあるんで、分厚いやつやら薄いやつやら、ちょっと大きいやつやら、まあいろいろ。ラケットに関してはちょっとルールはなかったんで。

坂野:わかりました。うちわみたいな感じで、とにかく当てられるようなやつを作ったってことですね。

中西:そう。そうそうそうそう。

坂野:それも、種目がどれに出るかっていうのがあるってことですか?

中西:そうそう、どっちか選べるんです。野球か卓球バレーか。

坂野:これ男女混合ですか?

中西:はい、男女混合ですね。はい。

坂野:じゃあ、野球に女子もいた?

中西:えーと、野球はやっぱり女子は、えーっとね、僕のときは、まあそもそも女子が少なかったんで、だから女子は卓球でしたね。野球はなんか「男のスポーツ」みたいな、そういう風潮があの時代はあったかなと。

坂野:卓球はダブルスとかあったんですか? それとも一人。

中西:えーとですね、それがルールが面白くて。だから卓球バレーやから、6対6です。

坂野:どうやってやるんですか?

中西:ああ、ちょっ、ちょっと…、時間は大丈夫ですか?

坂野:私は大丈夫ですけど、大丈夫ですか?

中西:ああわかりました。ちょっとね、まあしゃべりながら、まあいっぱい写真もパソコンにたぶんあったと思うんで、見せたほうが早いんかなっていうイメージですね。いや、今ちょっと探しますわ、写真をね。ちょうど僕、資料を作るのに、昔の写真を取り出して、ちょっとスキャナー、パソコンに今日入れたんですけど。まあまあしゃべりながらでいいです。探しますので。

坂野:ぶつかったりしないんですか?

中西:卓球バレーは、卓球台に車椅子で6人入るんですよ。で卓球台の上に手をのせて、そのテーブルの、卓球台の上でラケットを振って、だからラケットどうしはめちゃ当たるんです。

坂野:じゃあ、車いすは固定?

中西:はい。固定ですね。

坂野:あー、はいはい。じゃあぶつからないですね。

中西:はい、ぶつからないですね。手はぶつかります。

坂野:それって専用の部屋があるんですか? スポーツができる、

中西:えーと、その大会のときは、大会というか交流会のときは体育館で、体育館でやってましたね。

坂野:で、日頃の練習は、

中西:日頃の練習は学校の、えーと、僕がやってたんは、なんかそういう体育する部屋があったんです、その、ちょっと広めの部屋が。ほんで、そこで僕はしてたんですけど。

坂野:ああ、そうなんですね。じゃあ病棟にいる人がやるっていうよりは、学校に通ってる人がということなんですね。

中西:そうそうそうそう。学校の行事ですよ、だから一応。学校の行事でやってたから。

坂野:じゃあ練習は、体育の時間に練習するんですか?

中西:そうそうそうそう、体育の時間に。あー、どっか1枚、

坂野:これはけっこう楽しみだったんです? みなさん。

中西:えーと、そうですね、楽しみに。やっぱり勝負やから。まあ勝負は楽しいですよね。はい。

坂野:そっか。でもこれ高校生まで?

中西:はい、小・中・高で、高校生まで。

坂野:出れるのは。

中西:はい。

坂野:そうなんですね。でも、そのあとは病棟にいて、そういうスポーツする機会とかはあったんですか?

中西:えーっとそれ以外は、まあなんか僕がもう卒業した頃にはもう、いやー、なかったですね。はい、なかったです。学校に行ってるときにそういう大会があって。ああ、けどちょっとあったかな、体育館で。学校の体育館借りて、なんか野球大会を1回だけしたような記憶があります。

坂野:そういうときは病院からも誰か付き添ってもらえるんです?

中西:そのときはもう病院関係者は来れなくて、なんか保護者とかが。あ、指導室から来てたかな。

坂野:指導員?

中西:指導員が、はい。指導員が付き添って、指導員がそういえば一回、なんかアンパイアやってましたね、そういえば。

坂野:なるほど。指導員って何人ぐらいいるんですか?

中西:えーと、指導員は、当時は1、2…、当時は3人かな。2人か3人か。はい。

坂野:男の人?

中西:男ですね、まあその当時は。で、女性が入り出したのがもう、なんか僕が20歳越えてから女性のかたも来られて。なんか保育士が、「保母さん、保母さん」って言ってたんですけど、保育士のほうが多かったですね。

坂野:そうなんですか。何人もみえたんです?

中西:保育士が、のほうが多かったですね。6人ぐらい。

坂野:えー、ほんとですか。

中西:だから合わせたら10人ぐらい。それ2病棟、筋ジス病棟2つあったんで、両方の病棟を担当みたいな。

坂野:その頃の保育士さんは女性? 

中西:はい、女性ですね。はい。

坂野:年齢もいろいろ?

中西:年齢はそうですね、いろいろ。当時そうですね、若い人でまあ20代から、年配の人はまあ40代越えてる、50過ぎとか。

坂野:指導員のかたも?

中西:指導員のかたは30歳ぐらいとか40歳とかですね、50歳ぐらいとか、多いですね、はい。

坂野:その当時、保育士さんたちは主にどういうお仕事をされてたんですか?

中西:えーとその、僕らが作業棟って言ってた患者が集まる活動室みたいなのがあるんです。活動室っていう、「作業棟、作業棟」って僕ら言ってましたけど。まあそこでまあ主に、たとえば学校行ってる人はグループワークをここでやったり、なんかまあ雑誌が置いてあったら雑誌を読んだり、新聞読んだり、あと行事、行事をそこでやったり。だからそういうお手伝いをまあ保母さんとか指導員、指導員、まあ児童指導員ですね、がやってくれて。で、あとは書類関係とかはまあ治療室が基本的にやってる感じですね。患者と関わるのはその、そこで日中活動か、いわゆる日中活動の「手伝い」。それ以外のときは病棟に行って「食事」介助、食事介助もやってたし、あと入浴介助もやってました。

坂野:なるほど。その作業棟って、ある病院とない病院があるのかもしれないんですけど。あとで聞くと、はい。一人ずつ机とかあったんですか?

中西:ああ、えーとね、病室にありました、病室に。

坂野:病室にあって、作業棟では、

中西:作業棟には長机があって、そこに入って、まあ。個人のテーブルはなかったですね。はい。患者がたくさんいるんで。

坂野:はい。で、そこで1日1回同じ病棟のいろんな人と会うって感じですか? 

中西:ああ、そうです。だからそこに隣の病棟の患者さんも来るんで、そこで隣の病棟の患者さんとしゃべったり。

坂野:そうなんですね。じゃあ気が合うとか気が合わないとか、そういう人もできるわけですね。

中西:はい、当然あります、あります。

坂野:はい。なんかこのあいだのインタビューの中で、部屋長みたいなのがあるって。

中西:ああ、はい、部屋長。はい。

坂野:それはお部屋? お部屋というか、その病棟長になるんですか? 

中西:病室。えーとね、まず縦割りというか、役割としては、患者自治会っていうのがあるのね。筋ジス病棟2つ、両方共通の自治会が1つあって。で、その下に病棟長っていうのが、それぞれの病棟、病棟長があって、で、その下に部屋長、各病室の、があって。

坂野:部屋っていくつぐらいあったんですか?

中西:部屋はね、10室ぐらいかな。

坂野:10室ぐらい。

中西:いや。当時、6人部屋で10室なんで。でもまあそれでいくと60人になるから、そんなにはいない。だからまあ部屋によって4人部屋も、5、6、7部屋か。7部屋と、あと2人部屋と4人部屋かな。

坂野:それで、その部屋長はどうやって決めるんですか?

中西:部屋長はね、部屋の中で「誰がやる?」みたいな、部屋の中で話し合いするんです。だからもう、なんかまあ持ち回りでやったこともあったし。

坂野:はい。年上っていう理由でやることもあった?

中西:それはあんまり。どっちか言うたらその、何て言うかな、こうおとなしい人もけっこういるんですよね。自分のことをこう発信しにくい人。問いかけても、だまーってしまったり恥ずかしがったり、まあ社会経験がやっぱり少ないから、あんまり人と接するのが苦手な人もいてはるから。まあそこ、そういうのもまあ部屋によっていてはるんで、そうなってくると同じ人がずっとやる感じです。だから僕がほぼやってましたね。

坂野:中西さんはほぼやってた?

中西:そうです。

坂野:やるタイプ?

中西:ええ。やりたくなかったんですけど、やる人がいないんで。

坂野:これは任期は1年ですか?

中西:はい。任期は1年です。

坂野:で、部屋長会っていうのもあるんです?

中西:えーとね、それ部屋長会じゃなくって、えーとね、何ていう名前やったかな、生活連絡会っていう名前で、

坂野:生活連絡会。かっこいいですね。

中西:それは各病室の部屋長と、病棟の師長と、あと指導室の人誰か1人。それが月に1回あって、生活で何か困ってることとか、まあなんかいろいろ行事の報告とか連絡とか、そういうのをまあその場でそれぞれ話(はなし)して。で、あとその情報を各部屋に部屋長が持って帰って、部屋の患者に伝えるっていう。

坂野:そうなんですね。小学生がやることはない?

中西:ああ、それはもうたいがい上の人に。

坂野:小学生はない。

中西:小学生はないですね。

坂野:中学生もない?

中西:そうね、はい。高校生から大人。そんでまあ、だいたい中学ぐらいになってくると、成人のかたもそこに入院するように。徐々に患者数も減ってきて。僕らの世代が一番学校行ってる、いわゆる小児が多かったんですけど、だんだんその、まあインクルーシブが進んできたのかどうかはちょっとわからないですけど、まあ普通の一般校に行く時代にちょっとずつなってきたんかな。養護学校に来る人が、まあたいがい入院する理由は、養護学校に通う理由で入院する人もいてはったので。

坂野:そうですよね。じゃあ高校卒業するときには、病院から出る人も、そのタイミングでちょっと減るってことですね。

中西:ああ、そうですね。

坂野:中西さんは、病院に残られたんでしたっけ?

中西:僕は、だから35歳まで。34歳か、34歳までいましたね。

坂野:そのときは自宅に帰るとか、そういうのはなかったですか?

中西:ああ、選択肢はあったけど、なかったんですね。それなぜかっていうと、なんかまあもともとこう、たいして体があんま強くないので、風邪をひいて肺炎起こすっていう。で、家帰ったらたぶんそうなるから、そうなるから病院入ったんですね。だから結局そうなったときに大変な結果になるのもわかってたから、「じゃあここは、じゃあまあ病院で」、まあ。僕が二十歳でまあ、学校卒業した頃はそこまで病院のルールも厳しくなかって、まあ厳しくなりはじめた頃で。比較的まあ自由にできてたんで、外泊もしてたし、旅行も行ってたしね。だからそんなんで、「まあここでいいんじゃない?」みたいな。

坂野:そうですよね。いざっていうときには医療も受けられるし。

中西:そうですね。

坂野:そうなんですね。病院にいたときには、あんまり風邪はひきませんでした?

中西:いや、ひきましたね。病院でもひいてました。

坂野:病院でもひいてた。

中西:はい。もう24時間…、なんか昔、あの、今でこそなんか感染の関係とかで、24時間の持続点滴ってあんまり、よっぽどじゃないとしないじゃないですか。僕ら子どものときってもう、まあちょっと肺炎、感染症というか、ちょっと風邪のひどい状態やったら、もう24時間持続点滴、ずーっとやってたんで。だから、風邪はけっこう半年に1回くらいはひいてましたね。はい、はい。だから病院に入院してからも肺炎も起こしたこともありましたし。だから1本7万円の薬も打ったこともあるんですよ。そう覚えてます、そのときなんかナースが、「これ7万円もするんや」って言ってましたね、それね。

坂野:じゃあまだその頃は、まだいても悪くない環境だったってことですね?

中西:まあ悪くないかどうかはちょっとわからん。なんかそれなりに、なんか受容してたんですね。なんかもうそこでしか、まあ選択肢がないっていうこと、おっきいです。いかにその場でふさわしい生活を送るか、いうことを考えてましたね。

坂野:これ、自治会長はどうやって選出されるんです?

中西:自治会長は選挙ですね。

坂野:選挙。中西さんもされたことあるんですか?

中西:ああ、僕ありますよ、はい。自治会長。

坂野:自治会の役目とか役割は、

中西:役割は、えーと、行事、えーと、自治会の集まりの、えーと、何やったかな。まず行事が、まあ両方の病棟の、二(ふた)病棟、筋ジス病棟の行事で、たとえばカラオケ大会とか、クリスマス会の開催、

坂野:月1回、何か考える感じですか? 月1回ぐらいあるんですか?

中西:月1回…、まあ、まあ不定期でしたね。なんか曜日も…、はい、不定期で。で、あとわりと、えーと会長、副会長、書記と会計と 、

坂野:(笑) はい、すごい組織ですね。

中西:すごいでしょ、一応、名前だけ聞くと。

坂野:これは、病棟にも知らせてあるってことですよね? 

中西:ああ、もちろんもちろん。

坂野:病棟師長とかみんな知ってるってことですね。

中西:そうそうそう。で自治会の総会もあって、総会で選挙して、ちゃんと会計報告。で、会費も徴収しなくちゃいけないと。

坂野:会費はおいくらぐらいだったんです?

中西:会費はね、安いですよー。あの、1年で千円です。

坂野:1年に千円。で、主に何に使うんですか?

中西:主にね、たとえば、慰問とかにこう来てくれるんです。ライブから、こう演奏会とか。

坂野:ボランティアみたいな。

中西:ボランティアで来てもらう人に対しての謝礼、たとえば交通費とか,少ないですけど、まあそういうのに使ったり。あと、その行事で、たとえばクリスマス会で、出しものとかするときの備品を買うとか。あとなんかそう、行事のものね。患者に直接関わる行事に使うもの、関係するものを買ったりとか。カラオケ大会の景品とか。

坂野:トロフィーみたいな?

中西:はい、えーとね、順位は特に決めなくて、参加賞みたいな。

坂野:参加賞。

中西:はい、なんかそんなんですわ。

坂野:カラオケの音楽鳴らす機械みたいなのっていうのは。

中西:ああ、あの、それも買ってましたね。

坂野:それも、買うんですか?

中西:はい、買って…、当時は、えーとね、昔はあの、レーザーカラオケ。今は通信カラオケとかあるけど、当時はレーザーカラオケ、はね、買ってましたね。

坂野:そうなんですか。それは病院が準備するんではなくて、自治会費で買ってた。

中西:はい、自治会費。はい。

坂野:この自治会費は、会員は小学生とかも入るんですか?

中西:会員は当時は、そうや任意やけど、はい、入ってましたね。一応親がお金出してみたいな。

坂野:まあ年千円だから、っていうのもあるのかな?

中西:ああ、そうですね。はい。

坂野:で、この買い物はだれがどうやってしてたんですか?

中西:買物するのは指導室、指導室の人に頼んで買ってきてもらったりしてました。

坂野:じゃあ企画して、これがいくつ、これがいくつ、みたいな感じで?

中西:そうそう。

坂野:すごいですね。病院の中で組織が、

中西:そうそう、ちゃんとあるんです。だから内情は、病院ではあるけど、まあこんなんもね、今日しゃべらないとわからない。ちゃんとだからそういう、ちゃんとね、病院の中にも社会があるんです。はい。

坂野:これ任意なので、入ってない人もいるってことですか?

中西:あ、いますね、はい。

坂野:そういう人はやっぱり一人がいい人とか、そういうような人?

中西:ああ、そうですね。

坂野:これ、割合的にはどれぐらいの割合のかたが入ってみえるんです? 何パーセントっていうか、何割?

中西:まあほぼ入ってますね。はい。で、えーと、筋ジス協会と親の会と自治会とまあ、この3つの会が大きくあって。で、その、えーと、筋ジス協会と親の会は、年度始めに集金するんですよね、会費を。そのとき自治会費も一緒に千円集金してもらってて。で、あと、会計が。まあ集金を回るんは、「もう千円やから」ってついでに、親の会の会計と一緒にまあ千円徴収してきてもらって、で、会計の患者が受け取って、それでまあちゃんと管理する、みたいな感じでしたね。

坂野:そうなんですね。このお金はどこで管理してるんですか?

中西:管理は本人が持ってました。

坂野:持ってました?

中西:はい、持ってました。僕も会計やってたことあるんですけど、まあ今考えたらずさんでしたね。

坂野:え、引き出しに入ってるってことですか?

中西:そうです。引き出しに入れてましたね。まあ鍵もかかってない。鍵も、施錠もできてない。それで普通のお金も、普通に引き出しに入れてましたけどね。

坂野:そうなんですね。

中西:子どものときはお金とか持ってないです。

坂野:たとえば、出しものっていうか、催しものするときにはポスター作ったりするんですか?

中西:ああ、しますね。

坂野:それも分担してっていうか、みんなで、

中西:得意な人が書いてたり。で、僕が子どもの頃は、小学校のときはパソコンとかもないんで、画用紙にマジックで書いて、ポスター作って、で、貼りだしたりしてましたね。

坂野:で、そういう大きい催しのときには、親御さんがみえたり、あと地域の人とかもみえたんですか?

中西:いや、えーとね、そこはね、文化祭だけは一応院内…、えーと、基本院内ですね。まあ職員、対象は職員。あとまあその、今言った慰問に来てくれた人たち、連絡先はわかるんで、そこにまあ案内状送ったりとか。あと昔いた職員とか。まあそういう、もともとつながりがある人たち。不特定多数には出すってことはなかったですね。はい。

坂野:まだその頃は、そういう案内状出して、外の人を病院の中に入れるっていうのはなかった。

中西:ああ、ないです。なかったですね。

坂野:そうなんですね。へー、ちょっとまた違う感じですね。今では考えられないかもしれないですけど。

中西:ああ、そうかな。ですね。

坂野:そうですか。なるほど。こんなような楽しい話もあったということなんですけど、子どもどうしというか、患者どうしでいざこざがあったりもしたんですか?

中西:ああ、しましたね。

坂野:そういうときは、仲介じゃないですけど、どうやっておさめるんです?

中西:まあたいがい職員が、たとえばある患者、まあたとえばAさんとBさんがけんかしてたら、それを見ているまわりのCとかDがたとえばナースステーション行って、「けんかしてる」とか言いに行ったり、ちょっと意見がしっかりした患者がおったら、仲裁に入って「もうやめとけ」みたいな感じやったりとかはありましたね。

坂野:はい。やっぱり社会があるんですね、病院の中に。

中西:社会ありますね。ちゃんと社会はできてますね。上下関係もちゃんとあったし。はい。年下には、年下は基本呼び捨てですね。年下は呼び捨て、上は「くん」つける。

坂野:「さん」呼び?

中西:「くん」です、上は、年上の場合は。で、大人は「さん」ですね。20歳越えると「さん」づけで、20歳までは「くん」づけで、年下は呼び捨て。なんか暗黙のルールみたいな、

坂野:上下関係がね、ちゃんと。

中西:そうそう、上下関係。

坂野:なるほど、すごい。そういうとこで、でもそういうのは学んでいくんですね。

中西:まあそれはもう、そういう社会に置かれて、誰に聞くわけでもなくもう体感で覚える感じ。

坂野:勉強を教えてもらったりとか、そういうのもあるんです? 先輩に。とか、先輩が教えるとか。そういう、あまり勉強はない?

中西:あー。あんまり勉強はしたイメージはないですね。もう遊んでばっかりいました。

坂野:そうなんですね。

中西:悪いことばっかりしてました。

坂野:でも、みなさん筋ジスの人ばっかりではなかったかもしれないですけど、病棟でやっぱり亡くなられていくかたも、そういう人にお目にかかったりもするんですか? 

中西:ああ、もういっぱい見送ってきました。はい、たくさん、もう数えきれない。だからもう特に昔は、呼吸器もなかったんで、たいがいもうみんな死ぬ理由は、痰つめて、風邪ひいて、結局、排痰できないから窒息で亡くなったり、はい。心臓が止まって死ぬ。まあ筋ジスは心臓弱いんで。まあそんな感じの人多かったです。

坂野:そういうかたが少しちょっと病状が…、何て言うんですか、体調崩されたりとかすると、違う部屋に行ったりするんですか?

中西:はい、しますね、個室に。

坂野:そうすると、まわりは察する感じですか?

中西:ああ、もう全員…空気を…、

坂野:空気を読むということ?

中西:はい。もう「誰々が」、もう患者どうしで、「ああ、誰々くん体調悪いんやな」みたいに。だからもうだいたい急変すると、持ち直すこともあるけど、まあそのままもう亡くなる。たいがい夜中、だいたいバタバタバタバタ。あの、えーと、医療用の赤いワゴンがぶわーっと押されてきて、で、もうバタバタして。そしたらもう当直のドクターみたいな、走って入ってきて、

坂野:親も呼ばれる?

中西:そうそう。で、そのときは僕らナースコール押しても誰も来ない。まあ当たり前というか、もうこうなってくるとこっちもね、「ああ、もうしょうがないな」ってなるし。

坂野:もしそうやって亡くなられたかたがみえたときって、病院のスタッフからは,教えてもらえるんですか? 

中西:えーとね、僕たちがやっぱり小児、その学生だった病棟では教えてもらえませんでした。たとえばこっちから聞いて、看護師さんによっては個人的に「ああ、亡くなったよ」とか、そんなんはありますけど。公に、

坂野:基本的には知らせない、

中西:公にはないです。逆に成人のほうの隣の病棟はお見送りっていうのがあったらしいです。僕はやったことないですけど。お見送り、亡くなったら、みんなその、病棟の裏に勝手口みたいなのがあるんですけどまあそこに、えーと、なんか病院でも霊安室があるじゃないですか、霊安室に行く前とか、あともうご家族がそのまま連れて帰るパターンもあったんで、ご家族が迎えに来るまで、そこらみんな並んで待っててお見送りとか。

坂野:そうなんですね。ちょっとそれは、つらい、つらいはつらいですね。

中西:つらいですね、やっぱりね。やっぱり病棟の、こう一気に空気変わりますから。みんなもそれわかってるんです。「ああ、誰々さん亡くなった」とか。でも誰一人それは口に出さない。出してもまあ患者どうしでちょっと小声で確認し合うぐらい。

坂野:なるほど。そうなんですね。病院がいやで、途中で退院する人もみえるんですか?

中西:えーと、それはいなかった、

坂野:あんまりそういう人はいない?

中西:学校があって学校に行くのと、あと、ほかに行くとこないから。

坂野:じゃあやっぱり高校までは、

中西:そうですね。学校、ほんで就業…、学校教育終わったらまあ家帰るっていう人もいましたね。家帰って、まあ家帰ってやっぱり亡くなる人もけっこういました。

坂野:なるほど、そうなんですね。あと、ちょっと途中ぐらいから、途中というか、ちょうど統廃合のあたりからですかね? ちょっといろいろと病院のほうの体制も変わってきたのは。

中西:まあそやね、制度が、えーと、2003年か、自立支援法っていうこと、まあそこも一つ転機であったし。あとその前で言うたら、まあ措置入院やったんですけど、だんだん病院の経営もまあ圧迫してきたのか、なんかだんだん僕たちに対する締め付けが肌身に感じてくるようになって。

坂野:たぶん外出の制限とか、時間が短くなったり、あと、持ち込み? ごはんとかの食べものに関しての管理が厳しくなったんですよね。

中西:そうそう、O157ぐらいからね、あれからがらっと変わりましたね。で、あとなんか、一人患者がたとえば何かやらかす、やらかすっておかしいけど、たとえば喉つめたとか、何かきっかけがあるごとにだんだん厳しくなっていく。そういう感じ。

坂野:リスク、

中西:はい、リスク、リスク管理、

坂野:そういうことが理由にされちゃうんですよね。

中西:そうそうそう。だからそうならないために気をつけてましたけど。

坂野:そうは言ってもね。

中西:まあ僕がきっかけにならないように、慎重に。

坂野:たぶん、ごはんにふりかけとか、そういうのも自由に選べたときもあったかもしれないんですけど、

中西:ああ、ありましたね。

坂野:それは大丈夫だったんですか? ふりかけかけて食べるとか。

中西:えーと、いや僕は、そやね、高校ぐらいまではふりかけ持ち込み、食堂に、それこそ当時は食堂にみんな集まってごはん食べてた。そのときふりかけとか、あと、えーと、味つけ海苔を置いて、食事のときかけたりとか。

坂野:そういうのもだめになっちゃったんですか?

中西:そういうのはだんだんだめに。だから出されたもの以外は。まあ常食食べてる人はぎりぎりオッケーやったかな。だからそれも、それが病状に、その状態によってまあ個別で違うみたいなかたちはありましたね。

坂野:じゃあ、「あなたはこれはいいけど、あなたはだめ」みたいな?

中西:そうそうそう。

坂野:で、間違わないように書いてあるとか?

中西:まあそれは病院が把握してるっていう感じ。まあ貼りだしてるパターンもあったし、まあ受け持ちナースが決められてるから、患者が訴えても「ああ、だめですよ」みたいな。で、こう、職員の連携がたまにとれてないときは、「あれ、それってこうじゃなかった?」みたいに。「ちょっと確認してくるで」言うて、確認してきて「はい、だめですよ」みたいなことになって。

坂野:そうなんですか。家族が持ってくるものとかも、よかったり、「こういうものがだめですよ」とか?

中西:それはね、最終的にはだめになったけど、黙って食べてました。はい。

坂野:じゃあ、楽しみがあんまりなくなってきちゃったんですね?

中西:そうそうそうそう。そういうことです。

坂野:お金の使い道もなくなってきた? それはない?

中西:お金の使い道はね、えーと、僕はけっこう使ってましたね。僕あの、立岩さんときに僕話したかな? ラジコンやってたんですよ、小学校4年生から。ラジコンが趣味やったんで、そういうのやってたり、僕は音楽聴きます、基本的に。今も好きですけど、音楽を、CDを買ったり、そういうことに使ってました。

坂野:ラジコンは、さっきの作業室みたいな部屋で遊ぶんですか?

中西:ああ、そのラジコンは外で走らすんです。すごいスピードが出るんで、大人が遊ぶおもちゃです。ホビー。こう子どもが遊ぶようなトイラジじゃなくて、全長30センチぐらいあるおっきな車で、昔、大会とかも出てましたね。だから基本、外で走らせて、でまあ作業棟でセッティング、なんかいじったりはしてましたね。はい。

坂野:すごいですね、なるほど。そういうお金とかっていうのは、普段買いものとか行けないので、現金は実際にはあまり持たず? 

中西:そうですね。えーと、実際所持金としては1万円ぐらいじゃないかな。持ってたとしても。

坂野:売店とかで何か買ったりするんですか? 

中西:えーとね、売店がね基本的にね、場所が遠かった…、僕らのところは変わってて、当時は本館、外来とかがある本館の病棟からちょっと離れた場所に筋ジス病棟があったんですね。筋ジス病棟の中には、その今言ったその小児センター、小児センターが売店はなかったので、売店に行こうと思ったら、その道渡って本館のほうに行かないと売店に行けなかったんです。

坂野:遠いんですね。

中西:で、道渡るのが、遠いし、道渡るなら外出になるんですよ、言ってみたら。

坂野:えー、同じ敷地内じゃないんですか? 同じ敷地内ではないんですか?

中西:同じ敷地内ですけど、やっぱり道路を危ないから。職員がついてきてくれたらいいけど、基本的にそれはだめやったんで。

坂野:外出。

中西:私用では、はい。検査とかでは行くけれど。だから売店に行くことは、まあ日曜日とか面会に来たときに親と一緒に行くとか、まあそんな感じでしたね。だからお金はほんまに、使うことはほぼなかったです。で、もうそれは自動販売機が、自動販売機さえなかったから。自動販売機ができたのが僕が20歳過ぎたぐらいかな? 震災後ぐらいから自動販売機が玄関口に1台置かれるようになって、まあそのときにはまあジュース買ったりした。

坂野:なるほど、そうなんですね。今でこそネットでいろいろ注文したりとかできるかもしれないんですけど。

中西:ああ、今、病院ですか? まあできるんですかね、一応?

坂野:でも、あんまり届くとだめなんですか?

中西:ああ、その、食べるもんですか?

坂野:あ、食べるものはだめなんですよね。

中西:食べるもんはだめではないです。あとまあ僕もラジコンをやってたから、当時は通販って通信販売で、ラジコンのパーツとかは買ってたんで、それが届いたり、

坂野:そういうのはオッケー?

中西:はい。オッケーですね。荷物が来るのはぜんぜんオッケーですね。

坂野:そうなんですね。で、あと、「自分も出ようかな」って思ったきっかけが、Dさん?

中西:ああ、はい。

坂野:で、そういう人たちとの情報交換とかっていうのは、どこでやってたんですか?

中西:あの、Eさんと? どういう情報交換?

坂野:Eさんは同じところにみえたんでしたっけ?

中西:はい、もともと同じとこいて、Eさんが先、出たんです。

坂野:で、先に出て、外との情報、外からの情報はどうやって?

中西:ああ、まあメールですね。

坂野:ああ、その頃にはもうメール、

中西:はいはい、メールで。はい。

坂野:そうなんですね。で、そういうようなことを計画してるっていうことは、知られないようにやってたんですか?

中西:そうそうそう。

坂野:知られてなかったです?

中西:はい、知られてなかったですね。

坂野:なんかけっこう「出たい」と思ってから、まあまあ早く出れたんですもんね。

中西:そうですね、9か月ぐらい。

坂野:これは何がそろったから出れたんですか? 今思うと。今みなさん、苦労されてみえるかたも多いかと思うんですけど。

中西:何がそろった…、えー、まあ一番は介助ですね。介助者、介助がいないと地域で暮らせないから。その介助者の確保ができるのを待ってたんです。で、介助の確保ができたから、まあメインストリーム、今、僕メインストリームでやってるんですけど メインの人が来ていけるよ」ってなって。それまで、できることはすべてやって。まあ医療的な面も自分で電話して、病状とか言って「診てほしい」って話をして。でまあ、一回外泊したときに病院も受診して、でまあ「診ましょか」ってなって、で、やっと整えて。で、1か月前ぐらいかな、えーと、病棟師長に「話があるから時間作ってくれ」って。で、師長とドクターとうちの両親と、だから僕と、三者か、四者か、で面談、時間取ってもらって。で、師長さんが「何?」ってなって、「いや実は」って。「ああ、いつかやるんちゃうかなーって思ってた」って言われたけど。

坂野:(笑) もうそろえてあったんですね、もう準備が。

中西:僕の中では全部できてきて、で、もう「いついつで退院したい」って。

坂野:びっくりされました? 最初は。初めて、

中西:いや、なんか「ああー」って感じ。「ああ、そういう覚悟なんやー」って。

坂野:でも、一応出たい、

中西:そんな感じなんで、まあやる、まあ先に出てた人も何人もおったし、まあ僕がもうこういう感じやから、「まあいつか…、まあそんなことかな、まあ言いだすとしたらそれぐらい」。驚かれはしなかったけど、まあ言われたら、聞いたら納得して。そういう反応でした。

坂野:そうだったんですね。全員がそうでした?

中西:ああ、けどうち親は知ってたんで。親には言ってたから。親にはもうその9か月前に、「今、出たいから準備しようと思ってる」っていうふうに。

坂野:親御さんは、はじめはびっくりしました?

中西:親は、まあ体のことは一番心配してましたね。

坂野:ああ、弱いから。

中西:肺が弱いんです。風邪ひきやすくて、肺炎起こすから、それが理由で病院に入れたから、そこだけ親としては、そこだけが心配やって。

坂野:で、そこはどうやって説得したんですか?

中西:まあ事例があることと、まあそのEさんのこともよく…、僕、Eさんの同級生なんで、Eさんのことをうち親は知ってたし、まあEさんの…、そやね、それも大きいかなって。それとあとは僕が、僕が一回言うんで「やる」って言うたらもう聞かへんのわかってるっていうか、だったんやと思うし。あと、まあ親父が「お前の人生やから、お前が好きなようにしたらええ」とか、まあ「体だけは心配や」とか。なんかそれ覚えてますけど。

坂野:じゃあEさんの親御さんと、情報は親どうしでやってたってこと?

中西:いや、やってないと思います。まあ親どうし知ってるけど、もう基本ね、僕、うちね、僕になんか、基本親が動くことあまりないんです。子どものときは親動いてくれてたけど、基本的に、まだ自分も、自分が行きたい日にちに、「買い物に連れてってくれ」って。いついつ何時どこどこ、全部自分で決めて、親父に車乗せてってもろて、そこへ連れてってもらって。ていうことも、言うたらアテンダントみたいなもんですよ。親がアテンダント。だから言う通りに親父はなんか動く。まあそれはもちろん親やから意見もするし、けんかもするし、文句も言いますけど、まあそうやって僕のやりたいことをサポートしてもらってたんで。

坂野:お母さんはどうだったんですか? 

中西:母親も別に。母親はね、おとなしい性格で、僕が言うと、「大丈夫なん?」みたいな感じで言うてましたけど。まあ別に反対はしなかったです。だから「風邪が心配」

坂野:そのときにちゃんとかかりつけ医じゃないけど、「診てくれる人がいるならいいよ」っていう感じ?

中西:いや、それも言わなかったです。だから僕がもう全部材料そろえて全部提示して、「これはこうで、これはこうで」。ちゃんと訪看もまあ24時間で電話一本で何かあったら来てくれるし、僕、重度訪問介護取ってるんで、まあそのこととか。医者も電話したら来てくれるし、あと点滴も家でできるし。で、何かあったら入院も、近所の病院でできるように、まあ救急車…、まあここはね、あんまりマイナスなことは言うと、まあ結局は不安にさせるだけやから、まあ基本プラスのことしか言わなかったです。

坂野:中西さん自体は、そういう「こういうときはこうできるし」とかっていう、自信もって言えるその理由というか、それは話を聞いたからなのか、見てきたからなのか?

中西:ああ、それも…、ああそれ、両方。両方と、あとまあ呼吸器も僕24からつけてて、呼吸器を在宅で、まあコンパクトになって家でも呼吸器を使えるってなったのが一番おっきいですね。まあ呼吸ができたら基本死ぬことないからね。

坂野:ああ、はい。

中西:だから「呼吸さえできたら、なんとかなるか」みたいな。けどやっぱり風邪がネックで、環境が変わるわけですから、まあ1年、春夏秋冬通してまあどうなるか、一番最初の1年間が勝負って。まあこの話よくするんですけどね、研修とかで。1年間はもう自分は勝負やって、その1年間まあ無事に終えて。まあそれがまた一つ自分の中で自信になる。

坂野:季節も変わっていきますからね。その1年、1回うまくいけば。

中西:そうそう。

坂野:そうなんですね。たぶん今、出るのに苦労してみえる人たちって、親のことと、あと病棟から賛成してもらえないっていうのがけっこう大きいかなと思うんですけど、両方ともうまくいったってことですか?

中西:両方ともうまくいきましたね。

坂野:これ病棟の師長さんとかは何で…、「中西さんならそうすると思った」みたいな感じだったんですよね?

中西:看護師長…まあ部屋長もやるし、自治会長もやるし、まあ自分で言うのもおこがましいですけど、まあ社交的って言われるんで。まあね、自発的ではあるし、まあ自分がリーダー的な感じでずっと病棟でもやってきたんで、まあ自己管理能力が高いっていうのもたぶんわかってくれてはったんかなって思う。その点かなと思いますけど。

坂野:メインストリームのかたから情報とかもらってたんですかね?

中西:えーと、どういう情報?

坂野:出るときのっていうか、いろいろ、

中西:ああ、そやね。事業所、使うのメインストリームって決めてたんで。まあ実家が、メインも西宮なんで、まあ実家、まあ地域に戻りたいってのがあった、西宮に帰ってきたかったっていう。で、メインストリーム、まあEも使ってたっていうメインストリームで相談したら。

坂野:やっぱりいろいろ考えると、そういう交渉力とか実践力とか行動力とか、中西さんすごそうですもんね。

中西:いや、全然すごくないです。

坂野:けっこう躊躇したり、

中西:躊躇しますよ。

坂野:消極的だと進めないじゃないですか。

中西:ああ、そうですね。なんかまあ基本、石橋を叩いて渡るタイプなんですけど。

坂野:すごいですね。

中西:いやいや、なんですけど、なんかやっぱりある程度勢いも大事だから。勢い。まあそこはバランスですかね。

坂野:やっぱりでも外出とかいろいろされてたんで、外のこともいろいろ、まったく知らないわけじゃないしっていうところも大きかったですかね?

中西:ああ、それはあると思いますね。だからやっぱりその、まあラジコンもやってて、ラジコンで全然知らない人と話も、

坂野:大会とかで?

中西:一般の大会に出てたんで。その大会で、また知り合いもできて、話も、

坂野:一般の人ですよね。

中西:ああ、そうですね。

坂野:やっぱり「病気さえなければ、外はいいな」みたいな感じになりますね? じゃあ。

中西:そうですね。まあけど僕、そう、で、そうですね。まあ基本的に人としゃべるんは、人見知りやけど、だけどしゃべるのは好きなんです。人見知りなんですね。人見知りですけど、

坂野:そうですか。

坂野:はい。あ、そうか、ちょっと聞きたいことがもう一個。最初のうち、出たころって、まだ24時間、重訪が全部整ってないときでしたよね?

中西:はい、そう。

坂野:で、足りないところをうまい具合にやってたっていう話なんですけど。そのときに親御さんに助けてもらおうとは思わなかったんですか? 

中西:いい質問ですね。それはいい質問ですね。

坂野:え? いい質問?

中西:それはすごくいい質問です。

坂野:(笑)

中西:あのですね、正直それは、僕はそれでいいと思ってた人なんです。だからもう、あいだの時間、で親もそこは心配してて、2時間人がいないときやったから、「そんなら2時間ぐらいやったら出て…、行けるから行くわ」って母親は言ってくれてたんですけど、一応まあメインストリーム協会はまあ自立生活やから、だから「それはちょっとかっこ悪いやろ」って。

坂野:ああ、そこはプライドですか?

中西:まあプライドですね。早い話が。

坂野:えー、なんか頼ってもいいような気もするけど。

中西:まあ自立障害者運動って、結局そういうとこみたいなん。今はたぶんそんなことはないと思うんですけど、ただ僕が出てきた頃はそういうのがすごく強かった時代で。身を削って自分の生活をつくるっていうスタンスがあって、まあほんと、事業所のまあ当事者が言ってたんですよ。「かっこ悪ないか?」っていう話です。「かっこ悪いやろ」みたいな。まあたしかにかっこ悪いなと思って。だからまあその2時間ほど、じゃあ過ごそかなって。でも今よりも状態もまだよかったんですね。だからこの状態でたぶん2時間は、難しいですね。あと当時、今はもうなくなったんですけど、生活保護受けてたら他人介護料っていうのが別で申請して通れば、お金として入るんですね。で、そのお金を使えば介助を、その分で介助を自費で何時間か回せるから、まあそういうこともできたんですけど、まあそれはしないで。それやったら交渉して、必要な時間を取りに行くっていうほうに力を注ごうということになって。だから交渉、交渉、交渉。

坂野:交渉力、交渉能力。

中西:交渉、全部先輩。今のDPIの事務局長で、Fさんが一緒に他人介護の交渉に行ってくれましたね。それも勉強させてもらいました。

坂野:なるほど。そういうことなんですね。

中西:だから親は、親は一回も来てないです。

坂野:はい。あ、一回も来てないの?

中西:そうですよ。

坂野:見にも来てないんですか?

中西:ああ、その、あいだの時間です。

坂野:今は何回かお会いされるんですか?

中西:ああ、全然普通に会いますよ。だから介助を理由には来ない。親がわざわざ介助には来ない。

坂野:会いに来たりはする。

中西:はい、それは全然。だからそういうこともあんまり親に心配させないように、まあずっとやってました。

坂野:じゃあ逆に、お父さん、お母さんは介助はできない? やったことない?

中西:できますけど。いや、できます、できます。できますけど、けど今はもう、えーと、そうや、病院いたころ外泊とかしてたんで、外泊したらもう親父がお風呂入れて、着替えも母親と両方で、食事介助も母親がやってくれて、やってたんで、まあ寝返りは基本母親がやってたんで、まあできるんですけど。まあ、やけど高齢になってきたし、あとまあ今はもう自立生活してからはアテンダントはずっといるから、親もほぼしないんで、介助も忘れてます。

坂野:そうなんですね。ごきょうだいもみえましたよね?

中西:はい、弟がいます。

坂野:は、今の中西さん見て、今のっていうか、まあ出られたときからもそうですけど、何かおっしゃっているんですか? 

中西:いや、別に特に何もないですね。まあ干渉しない感じかな。まあ別に「元気にしとるか?」とか、僕は話はしますけど。まあけど、まあ別に、まあ家もちろん。なんか家のことを話したりとか、世間話もしますけど、まあ僕をたとえば特別心配するとか、養護的な目で見ることはないですね。まあけっこうドライな、

坂野:そうなんですね。わかりました。ちょっと長くなっちゃったので、今日はこのあたりで終わりにしますね。ありがとうございました。

[音声終了]

*作成:中井 良平
UP:202100816 REV:
中西 竜也  ◇「難病」  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇人工呼吸器  ◇介助・介護/医療的ケア 
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