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田中直樹氏インタビュー

2021/01/13 聞き手:西田美紀 ユ・ジンギョン 於:医療法人梁山会診療所

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■インタビュー情報

◇田中 直樹 i2021 インタビュー 2021/01/13 聞き手:西田美紀 ユ・ジンギョン 於:医療法人梁山会診療所
◇文字起こし:ココペリ121

■関連項目

ALS京都  ◇ALS(本サイト内)  ◇説明/辞典・医学書等での記述
介助(介護)  ◇重度訪問介護(重訪)  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす
難病/神経難病 

■本文

188分
※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)としています。

■■

[音声1開始]
ユ:今日はインタビューに応じてくださって、ありがとうございます。

田中:ありがとうございます。
■杉江

ユ:質問が何個かあるんですけど。まず、どのような経緯で杉江さんと出会って、支援に関わっていったということなのかをお聞きしたいです。

田中:ちょっとごめんね。昔のことなので、カルテ見ながらでいいですか?

ユ:はい。

田中:そうですね、うちに一番最初に受診をしたのが2008年の1月の31日。この段階で京大病院に入院されてて、もうそのときに胃瘻造設をしてたような状況で、退院後の胃瘻の管理とかリハビリを希望されてうちの外来を受診されたという。だから京大病院からの紹介かな、っていうのがきっかけですかね。

ユ:そこからずっと関わっていったってことですね。

田中:そうですね。はいはい。

ユ:私は杉江さんの時代のことをよくわからないんですけど、そのときに杉江さんとの関係で大変なこととかありましたか?

田中:まあ大変ていうか、一番最初の段階で、一人暮らし、独居の状況だということで、それまでにもここでALSの患者さんは診たことはあるんですけど、基本的に家族さんおられて、家族さんと家で、在宅で生活するっていうところが基本やったんで、ベースに「家族さんありき」っていうところやって。で、杉江さんはもうまったく独り身というか、奥さんとも別れてたし、お子さんとも別居されてって状況で。そこで発症して、それまではなんとか自分一人で生活できてたんだけれども、もうそれが、生活がままならないという状況で、「医療的な管理も含めて介入してほしい」ということなんで、そこが、「さてどうしたらいいのか」っていうのがまったくわからへんかった。どんどん本人さんはできないことが増えてくけれども、だったらヘルパーさんを入れる…、まだヘルパーさんもあんまり入ってなかったかな、週に1回か2回掃除に入ってた程度やったかな。で、訪看さんとか訪問診療の先生もほとんど月1回とかのはい…、週1とか月1だったので。それまではご自分でなんとか生活できてたんやけども、生活ができなくどんどんなってって、どういう在宅の支援体制をつくるかっていうのがまったくわからなかったので、そこがちょっと一番、うーん、難しいというか、どうしたらいいのかわかんなかったです。最初はね。

ユ:それが、最初にはわからなかったんですけど、どんどん関わっている人たちがいろんな人がいるじゃないですか、西田さんとか。その関係で、[00:04:21]

田中:そのときに西田さんが立命館の先端研にいはって、そのときに川口さん、ALS協会の理事の川口さんとかが知ってて、重度訪問介護っていう24時間介護する体制を使って東京とかでは在宅やってるとか。そのときに甲谷さんが先にいたんかな。「甲谷さんもそういう制度使ってやってるから、それを使ったらどうなの?」みたいな話があってですね、「だったらそれを使って生活できるんちゃうか」みたいな話になったのはなったんですけどね。ただその制度自体は僕も全然知らなかったですし、どう使っていくかどうかもちょっと、まったく僕はわからへんかったです。

ユ:まわりにわかっている人たちは、やっぱり立命館のかただとか、

田中:そうやね。西田さんがどれぐらいわかってたのか。うーん。でも少なくともうちの診療所の関係者でその制度を知っている人間はいなかったですね。で、まあとりあえずそうは言うても、お家でもうごはんも自分で食べられへんし、ばたばたこけてるし、いう状況で、このままその、それやったら在宅の体制をつくるのは非常に難しいだろうということで、宇多野病院さんにそういう「在宅の環境を調整するために入院させてくれ」っていうことで、まあ入院になったんですかね、最初はね。それまで、それがね、だからうちが1月31日で、デイケアの開始が2月の9日なんです。

ユ:2008年2月9日。

田中:で結局、宇多野病院に入院したのが、4月の30日ですね。

ユ:4月の30、2008年ですね?

田中:うん、という感じかな。だから、

ユ:そこからいつまで入院されたんですかね?

田中:えっとね、結局ちょっと時間がかなりかかって、7月の13日ですかね。7月13日まで入院。

ユ:かなり。3か月ぐらい。

田中:うん、3か月足らずですかね。で、入院するまでのあいだに、主治医がそのときまで京大病院の先生やったんです。だから、京大病院の先生、もちろん在宅なんか全然わからへんので、一応京大病院の先生に「主治医僕に変えてほしい」という話をして。うーんと、あとデイケアに通いながらリハビリして、医療的な管理をして、ですかね。で、あの、それまで生活保護も受けてはらへんかったので、生活保護とか介護保険の申請とかそこらへんの申請も全然できてはらへんかったので、そこらへんの申請もして。

ユ:それも西田さんが全部関わっていたんですか?

田中:うん、たぶん関わっていたんじゃないですかね。はい。

ユ:先生はその時代に、医者として杉江さんといろんな支援やったじゃないですか。そのときに課題だと思っていたことはどんなこと?

田中:一番最初?

ユ:最初とか、途中とか、あとで、

田中:ああ、一番最初はほんとに、さっきも言ったように何も分からへんかったんで、この人がほんとにそういう…、本人さん自身は最初から人工呼吸器をつけるのを、「気管切開して人工呼吸器つけて生きたい」って言ってはったんです。それは実は、京大病院の先生にも言っておられたみたいで。ただ京大病院の先生は、「在宅でそんな人工呼吸器管理なんかできるはずないから無理だろう」と。で、まだ、「まあ気管切開して人工呼吸器つなぐことは無理だろう」というふうに考えておられて、本人もそれを言われたので、京大の先生、主治医の先生に。まあもう言うたら、そんな気管切開して人工呼吸器で生きていくという選択肢はないと思ってはったんね。で、僕にはそうやって、「ほんまはどうなんや?」というような話をしたら、「やっぱり気管切開して人工呼吸器つないででも生きたい」と言っておられたんですね。[00:10:10]
 で、そこからですよね、スタートはね。死ぬのであれば逆に、そういうこうサービスをどんどん入れて、ということじゃなくてもいけるのかな、あるいはまあそういう長期的に入院できるような病院とかもあるので、そういう在宅にこだわらずに、まあ言うたら病院に入院しながらそこの入院先で亡くなるっていう選択肢があったり、ということやったけど、ことやっぱり生きるという話になると、やっぱりちゃんと人工呼吸器の管理もして、っていうような状況を作らなあかんので。その制度が、全然重度訪問介護っていうのを知らなかったので、「さてどうしたらいいのか」っていうのが一番最初の僕の困ったというか。まあどうしたらいいのか全然わからへんかったときに、川口さんからその話を聞いて。「それやったらそれで制度を使って(00:11:03)いこか」ということで、ほとんど西田さんにそっからの仕事をお願いしたような感じになりますかね。うん。
 で、もっぱら僕が杉江さん…、まあだから結局はそこまでのいきさつに関しては、それほど医療的な感じがすごい必要でもなかったし、だから診断書とかそこらへんのね手続きとかは必要でしたけど。で、僕が本格的に関わったというかこう動きだしたのは、やっぱり宇多野病院から退院してきたあとの医療的な管理の部分を、まあ僕が担当してたっていうことですかね。それまでは、だから宇多野病院入院まではなんか全然、何が何だかようわかれへんかったです。[00:11:58]

ユ:3か月のあいだですね。

田中:そうそう、その3か月のあいだ。まあこけてるから、そらもちろん打ち身のことは治療もしたりもしてるし、胃瘻の管理とかもしてましたけど。どういうものができるかもよくわかれへんかったですし。だからその重度訪問介護、24時間ヘルパーさんが横にいて介護するなんていうイメージができひんかったですよね。でもまあそういう制度でやっている人がいるっていうふうに聞いて、「ああ、それやったらできるんちゃうかな」っていうのは思ってましたけど、現実そういうものができるとはあんまり思ってなかった。思ってなかったというかイメージができひんかったですね。

ユ:先生はその前にもALSのかたと関係あったんですね。

田中:はいはい。

ユ:そのときもみんな、まわりの人たちは全部、重度訪問介護のことは知らなかったんですか?

田中:そうですね。だから基本的には家族介護で、その家族さんが足らない部分をヘルパーさんが補うみたいな。だからほぼほぼそれまで診てる患者さんは家族介護がメインで、ヘルパーさんの介護はもう従、それを補うくらいのレベルの話でしたね。

ユ:重度訪問介護をしたあとに、たとえば学生さんとかいろんな人が関わっていったじゃないですか。そのときに学生さんが、たぶんALSのかたとか杉江さんのことよくわからない状況だと私は前聞いたんですけど、そのときに先生が学生さんを見たときにはどう感じましたか?

田中:うーん、まあ、あんまり覆い隠してもしかたがないので正直な話をいくと、かなり何て言うんですかね、こう理想とか理念が強くって、そういうALSの患者さんの独居に関して「何とかしてあげよう」っていうような思いが非常に強い人たちやって。そういうこう、まあパッションですかね、衝動でなんか動いてるんやなという気がしましたね。たとえば宇多野病院入院中もけっこうヘルパーさんがどんどん入っていってて。で、おそらく僕が知る限りは、あんまりそんな入院してる患者さんとこにヘルパーさんがどんどん入っていくなんていうことは、今までちょっと経験したことのない。今はそれこそ制度上、入院患者さんに重度訪問介護、ヘルパーさんが入るっていう制度はもちろんでき上がったからいいんだけれども、その当時にそういうヘルパーさんが病院にまで行って援助してるとかいうのは…、まあその部分は知らないですよ。僕その病院に行ってないので、どういう援助したかとかいうのは言うたらわかんないんですけど。ただ、そこでもう関係性をつくってたというのが、まあすごいパワーだなと。だからそこはちょっとこう、何ですかね、「もうちょっと冷静に」と思ってましたよね。あの、ビジネスなので、思いだけでね、こう突っ走れる話でもないので、「もっと冷静に」とは思ってましたね。たぶんだから、退院のすぐあとにヘルパーさんたちと、まあ写真いただいたんですけど、飲み会に行ったり、あるいはお風呂に行ったんかな、「お風呂屋さんに行った」っていうふうに聞いてるんやけど、そんなことも普通のヘルパーはやらないですよね。

ユ:そうですね。

田中:だけどやっぱりそういう独居で、そういう「ALSの患者さんを在宅でみるんだ」っていう思いがヘルパーさんにも強くって、それでスタートした。で、僕はちょっと立場的には医療の、主治医、在宅での主治医なんで、ちょっとこう傍観者ではないですけど、ちょっとこう外から見るような感じの立場にいたので、まあその何かこう、わっと盛り上がってるのに、さっきも言ったようにちょっと冷静、「もっとクールに」とは思ってましたね。この、うーん、まあいいんですけどね。まああんまりそういうことが、さっきも言ったように、ないので、ヘルパーさんはヘルパーさんで仕事としてちゃんと割り切って「何時から何時まで仕事」、それで給料もろてるっていうようなことの話なんで、そういうプラスアルファのことっていうか、そういうパッションの部分で動いてたケースっていうのが今までなかったので、ちょっとこう、まあ違和感と言うのか、「なんか違うな」と思いましたね。なんか今までとは違う勢いやな、と思いましたね。[00:17:15]

ユ:杉江さんが2008年から約5年ぐらい先生が関わっていたじゃないですか。一番の思い出とかありますか?

田中:思い出ねえ。まあ何個もあるんはあるんですけどね。そのあとけっこうやっぱりその、杉江さん自身の思いっていうんですかね、ヘルパーさんとかなり衝突して、ヘルパーさんをばしばし切っていくような状況、「だめ、だめ、だめ」って。で、入れるヘルパーさんがなくなっちゃって。で、結局その…。ご苦労様です。

西田:あー、すいません。遅くなりました。

[音声1終了 00:18:04]


[音声2開始]
西田:…っていうか、こんな感じで始まってっていうのと。あとこれが支援内容で。

田中:おー、すごいな。

西田:これがちょうど気切をするまでの、たぶんここらへんが医療的なことが多かったから。これは前ね、整理してたやつで、こんな感じやったんですよ。あ、ユさん、これね。

ユ:これは何年?

西田:これはね、2008年の7月。宇多野病院を退院してから。で、入院するまで、なんですよね。あ、ごめんね、話途中さえぎっちゃって。

ユ:いえいえ。大丈夫です。

西田:どうぞ、どうぞ。

田中:うーんと、一番のあれがその、在宅でのヘルパーさんの介護体制が、もうどんどんヘルパーさんが入れなくなって、入院したんやね、年末年始。あれ2009年やったっけ?

西田:いやそれがね、入院したのがわからない。そこまで情報がまだ書けてないんですよ。

田中:中央病院じゃないね?

西田:気切したのは、これね、初めから言うとね、2006年のね、えーと、

田中:症状の出たときね。

西田:うん、症状が出て、2008年のとき、デイケアに来たのが2008年の3月ですね、上旬。あ、それ2月ぐらいか。ほんでそれから一人での生活が難しくなって、それで家で転倒を何回かくり返してて。それで4月30日に宇多野病院に入院になって。で、入院したけどなかなかケアプランが立たなくって、なんとか先生の意見書と、あとココペリさんのヘルパーさんたちを、学生ヘルパーを受けるのが事業所先が決まったっていうことで、退院を7月13日にして。でそれからは、8月の上旬ぐらいから外出のときの倦怠感とか、呼吸苦とか、食事中のむせとか、痰が絡みやすく、すぐなって。ほんでデイケアとしては意思伝達装置のまあお話、コミュニケーション難しくなってきたから、それに対しての意思伝達装置とか文字盤の練習であったり、リハビリのことをしたかったね、体の緊張が強かったから、そこらへんも含めて。
 ただ本人さんは、杉江さんはずっと入院でいろんな我慢をしたので、まあヘルパーさんとみんなが見つかったっていうことで、外出がすごくしたくって。で午前中だけデイケア来て、お昼から外出に出たりとか。で外出のときに、ちょっと息が苦しいとかっていうような状況になったり。入院中は入院中で看護師さんとの介助が足りなくって、いろいろ本人さんはストレスフルやったんやけど。今度退院したら、ヘルパーさんたちとやっていかないかん生活の中で、発声がやっぱり難しかったり、何人もに同じことを言わなあかんことのしんどさとか、いらいらが出てきちゃって。で、移乗、車椅子移乗したりとか、そこらへんもやっぱり1人だったらちょっとバランスが崩れて大変だったりして。ほんで、そういう外出したらしんどかったり、むせたりするからっていって、訪問看護師さんはやっぱり食事の指導とかそういう医療的な指導をするんだけど、そういう医療者側が、進行して行ってるなかで体のことを思って言ってることが、杉江さんからとったらやっぱり窮屈な状況があったみたいで、なかなか医療と介護の連携が難しかったり。
 そうしてるうちに、何かあったときの急変時の対応とかもやっぱり遠かったらできないじゃないですか、家がね。そういうのもあったり。もともとお墓があそこにあったんですね、杉江さんの。そやから梅津から、あそこどこでしたっけ? 場所。[00:05:23]

田中:西陣?

西田:西陣のほうに。もともと前の、お墓があったり、なんか家の先祖がちょっと関係あるところやって。で、たまたまそこに空きがあったからっていうんで。最初それ探すのもすごい大変やってね、山本くんと長谷川さんが、けっこう部屋見つけるのに、

ユ:今、ココペリの、

西田:そうそうそうそう、ココペリのね。あれはたまたまその大家さんが、甲谷さんが今の西陣に行く前に住んでたところで、そういう繋がりがあって。自分のおばあさんが亡くなったから空いてるからっていうことで貸してもらえたんやけど。なかなかその当時は、今はちょっとわかんないけど、独居で病気でって、そういう保証人がちょっと難しくてっていう、なかなか貸してくれなかったりして。で、そのネットワークでなんとかその家が見つかって、それでそっちに引っ越しをしたんですよね。あれ何月…、10月の22日に引っ越ししたんやね。
 で引っ越ししたけど、引っ越ししてからの緊張がすごい強かったですよね。最初から、あれは何なんだろう? すっごいもうずーっと緊張にヘルパーさんも本人も悩まされたというか、それによって介助がすごい難しくなったりとか。まあもちろんコミュニケーションのことはあるんですけど。緊張がすごかった、とにかく緊張が。痛みと痙攣みたいなの。あれ痙攣ですか? 先生。

田中:筋痙攣やね。

西田:筋痙攣みたいな。

ユ:筋肉の痙攣のこと?

西田:硬直みたいな。

田中:えーとね、上位運動ニューロンいうて中枢の運動神経がやられて、痙縮っていうのが起こるのね。それでその痙縮がひどいと、まあ言うたらこむらがえりみたいにぐーっと筋肉が痙攣して、それが痛みに繋がるっていうことやったと思いますわ。

西田:そうそう。で、なかなか痛みと、声があんまりうまく出えへんのんと、食事食べたらむせたりとか、なんかそんなんで体調悪かったり。ヘルパーさんと、なんかでもやっぱり慣れない人と、そうやって体が進行していく中で過ごすのがしんどくなっちゃって。で、うまくいかなかったよね、そのあともね、梅津に引っ越してからも、梅津じゃなかった、あっちのほうに引っ越してからもね。
 で、あれよあれよという間に病状が進行して。で、これ2009年の1月5日に先生が「気管切開の手続きする」って本人に説明してて。本人はもう決めてるから別にそれに対してはどうのこうのっていうのはなかったのね。で1月20日に京大病院で、気管喉頭分離術をする目的で入院になって。で、手術しても、もうそのときの時点ではかなりやっぱりヘルパーさんが、もう人が、やっぱそんな調子で長く続かなくって、学生ヘルパーさんもすごく不安が、進行していくから強くって。で人がいなくって、在宅生活の立て直しみたいな感じのも含めて、でも京大病院はずっと入院できひんから宇多野のほうに転院ていうかね、転院して宇多野で在宅生活をもういっぺん立て直そうということで。気切してたから、まあ医療的ケアのことも含めて、って。
 で、宇多野に入院してるときにデュロテップ・パッチをやっぱり入院中に、本人も体が思うようにならへんかったりして、痛みをけっこう言ってて。でパッチをそこでもらって貼ってたのが、退院してから、けっこうやっぱり痛みがすごい強かったんやね。で退院してからは…、私ばっかりしゃべってますけど(笑)、退院してからは、入院中まではどっちかって言うと、私と田中先生がデイケアで診て、また在宅でも関わってっていう感じで、もう抱えすぎてしまってるから、これやっぱり在宅のサービスをちゃんと整理しようということで。で、往診医はちゃんと往診医として、えー、在宅医か、在宅医として、で、デイケアは杉江さんの主治医として、お昼間はデイケアに来て。で、お家のほうはじゃあ、って澤田先生という。澤田先生どこの診療所でしたかね? [00:10:03]

田中:えーとね、澤田先生が、えーと、仁和診療所やね。中央病院系列ね、民医連の仁和診療所。このころ往診、僕してへんかったんやね。

西田:うん、してないんですよ。してなくって。

田中:だからもう「往診の専門の先生にお願いしよう」ということで、宇多野病院入院中に、

西田:退院してからですね、

田中:そやね、澤田先生に連絡して、「退院後は診てください」みたいな話をした。

西田:まあ入院中はけっこう京大病院と転院先、まあそれまではあの、もうヘルパーさんいないから、【お正月】(00:10:45)勤務とか私が連続で出たりとか、どうしても学生ヘルパーさんの負担が強くなっちゃって、で、やってたんやけど。京大病院に入院してからは、長谷川さんと山本くんがわりと学生さんを連れて一緒に、退院後に介護ができるように、文字盤の練習を一緒にしてくれたりとか。あと医療的ケアのことも、退院後に吸引が必要になってくるから、宇多野病院の水田先生とかに間に入ってもらって、そういうこうデモ機、デモ機じゃないわ、練習用の吸引器とか借りてやったりとかしたんですけど。ただやっぱり学生さんヘルパーって、たとえば医療的ケア、吸引の練習とかでも、どこから別にそれお金が出るわけでもなく、ボランティアになるわけじゃないですか。そしたらやっぱり集まりもそんなによくなかったりとかして。ほんで入院中にたとえば病棟の中の吸引器を使って吸引を練習しても、退院後は全然違う在宅の吸引器でするから、実際にそれで練習はさせてもらって退院したんだけど、在宅移行後の吸引の手技とかが、もうひとつその新しい機械であるっていうのは、医療者は慣れてるけど、やっぱり学生さんとか、ヘルパーさんでも吸引した経験がある人やったら慣れてるけど、初めての人はちょっとの物品が変わるだけで、やっぱりすごいわかんなくなっちゃったりっていうので。まあそのあとに、かといって訪問看護師さんがそこに合わせて来てくれるわけじゃないから、限られた時間のところに決まったときに来るし。で、そこも調整がもうひとつうまくいかなかったか、何回か私も間に入ってヘルパーさんに吸引器の練習してあげたりとか。でまあその入院の気切の前のときも、NPPVとか胃瘻の注入のことであったり、デイケア来てもらって研修会開いたりとかっていうのは。一応マスクの装着とかしてたんやけど、なかなかやっぱりそこらへんの。そのマスクなんて難しかって、ほとんどしてなかったですよね。

田中:寝る前に1、2時間、やっとできたぐらいで。

西田:なんかね、あれいつ開始になったんかな? やっぱり難しかったんですよ、マスクのほうが。気切をすれば、もうあとは吸引だけで。

田中:最初の2千何年だ、6年?

ユ:最初は2008年。

田中:最初は2008年、うちから診てる2008年のもう、9月かな、10月ぐらいからやってたんちゃうかな。

西田:9月。9月ですね。

田中:に導入したんだけども、結局、今言ったように、夜間そうやって装着ずっとなんていうのはなかなか難しくって。それでも呼吸苦しい、無呼吸がある、いうことで、「もうそやったら気管切開をしたらいいんちゃうか」ということで、もう1月には、その次の2009年1月やけど。だからCPAP(シーパップ)の時期(00:13:53)は、実質3、4か月もやってないくらいやね。

西田:9月8日にデイケアでケアカンファレンスしてて、CO2っていう二酸化炭素がね、臥床時の、寝てるときに溜まってきてるからっていうことで、「NPPVを導入しましょう」ってなって、そのあと16日にデイケアで研修はしてるんですよ、一応ヘルパーさんの。で、9月25日から自宅でのNPPV、夜間のとき開始してますね。そやけどマスク装着のベルトの調整と、あとやっぱり喉が渇いて、空気圧がばーって陽圧でかかるじゃないですか。なら喉がからからになるからって、加湿器を調整してたんやけど、その加湿器の調整がうまいこと、やっぱりヘルパーさんがまたできへんかったりして。で、私が家に行ったり、出口先生に行ってもらったりっていうのもしたんだけど、結局もうヘルパーさんと2人になったら「もういらん」っていう感じになって(笑)、ほとんどやらない。活用できなかったという、なんかそんな感じだったんですけど。
 だから、宇多野病院を気切して退院してから、まだそのNPPVのころよりは、私から見たらまあ、ヘルパーさんはたぶん大変やったんやけど、呼吸器がついてたわけじゃないので、まあある程度慣れたら、そこの急変に対する難しさとかはあんまりなかったと思う。それよりも硬直がきて「痛い」って言って、体位変換がなかなか難しかったりとか、まだそのとき車椅子で移乗があったんですよね。うん。で、移乗がやっぱり1人だったらとてもじゃないけど無理で、なんかそこらへんの介助がやっぱりすごい大変やったような気がします。
 ほんでもうそんな感じで、退院、2008年の在宅移行した直後は、すごい学生ヘルパーさんのほうをわりとこう可愛がっていたんだけれども、やっぱり進行とともに、やっぱりあの、[00:16:13]

田中:2008年の退院、1回目の、

西田:1回目の、宇多野から退院してすぐ体制組んで、引っ越しして直後ぐらいまではまだ、まだね仲良くって。仲良くってっていうか、いろいろかわいがってあげてて、いろいろどっか行ったらお土産を、手土産を持たせて。田舎に帰るときに「これを持って帰り」とかっていう感じでやってたんだけど。やっぱり呼吸の状態があまりよくなくなってきたり、痙攣がひどくなってくると、関係は負担が大きくなって。で、なおかつ入院中に立て直して、文字盤も練習して、いざ退院して、その直後から、今度はやっぱりもうココペリのヘルパーさん、「山城さんの介助を見て習ってほしい」とか「ボランティアやと思って我慢してた」とか、なんかそういうことをヘルパーさん、学生の子に言うようになって。
 で、 気切の退院後、宇多野病院の2回目の退院後は、私から長谷川さんと山本くんがメインで学生ヘルパーさんの調整してて。それまでは学生ヘルパーさんはココペリさんに登録してて。で、もともと11月までは研究費で少し介助のお金を足して払ってたっていうのもあったけれども、そこから12月ぐらいからはココペリ登録にしてたんね、ヘルパーさんね、学生の。でもやっぱりちょっと広域協会のほうに登録し直して、そこで長谷川さんたちがちょっと学生ヘルパーさんのシフト調整っていうのをやりながら、慣れてない子とかはちょっと夜勤一緒に入ったりっていうのでいろいろやってくれてたんやね。山城さんに介助の移乗の方法とか、出口先生に車椅子移乗の方法とかいろいろ教えてもらって。私はどっちかと言うとデイケアで杉江さんと関わって、ときどきヒアリングに行ったりとか、困ったときに行くみたいな感じで。だから、その2回目の宇多野退院したときっていうのは私は少し、まあ杉江さんには言ったんだけど、少しデイケア・メインで、それぞれが本来の職場のところから杉江さんに対して関わって、で訪問看護師さんとか、できたらそこの在宅のやるべきというか人たちにケアをやってもらったほうが、やっぱりこれからのこと思うと長く続くんじゃないかと思って。本人も「それでいい」っていうことでやってたんやけど、やっぱりうまいこといかなかったんですよね。ほいでなんかそんなんが続いて、えっと、

田中:2009年の、だからそれが4月だよね。2回目の宇多野の退院が、

ユ:2009年4月。

西田:8日。

田中:8日やね。そこからはだから、さっき言った寺之内の診療所の澤田先生が訪問で、うちがデイケアで。だからデイケアだけで言うたら僕がタッチして、西田さんも基本的にデイケアに来たときに関わるっていう感じで。

西田:で、そうしていたんだけど、やっぱりそれはそれでうまくいかなかった。9月の後半ぐらいからさらに痙攣が多くなって。このときから澤田先生に、退院後もかなり痛い痛いっていうのを訴えてたみたいで、まあドクターとしては、「痛い、痛い」って言われたら、やっぱり痛みどめを増やすしかない。で、入院中に宇多野のところでデュロテップ・パッチを貼って退院してるから、

田中:えーと、麻薬やね。[00:19:56]

西田:麻薬でね。その量がどんどん増えてきたんですよ、抗痙攣薬とか、そこのお薬のほうが。これ、まあその難しいところで、緊張が、硬直が強くなったら抗痙攣薬とか、筋弛緩薬か、筋弛緩薬とか、痛みどめを処方するじゃない。で、まあ眠れないっていったらお薬をちょこっと。でもそれによって、文字盤とか取ってるときとか、発声とかも含めて、さらにその薬の影響でコミュニケーションが難しくなって、ヘルパーさんとの指示とかそれがうまくいかないって悪循環な状況になってね。ほんでそんなんもあって、えーと、いつやったかな、これ、12月の3日にもう、

田中:うーん、かなり10月の中で、眠くなってるやない? 眠そうで眠そうで。2009年の10月ぐらいにはジアゼパムっていう、えーと、眠剤っていうかな、筋弛緩作用もあるんやけども睡眠作用もあるやつ、まあ増えてってて。で、もうけっこう眠気が強くってっていう状況が10月になって。そのあたりでまあ麻薬のデュロテップというのを増やしたり。で、

西田:で、その関係が、いつかはわかんないんですけど、関係がやっぱりヘルパーさんとうまくいかなくなったら、何かのときに杉江さんが、「もう呼吸器なんかこんな介助体制でつけられない、僕は」みたいな感じの言い方をして。それやったら学生ヘルパーさんは、一応杉江さんがこれから地域で生活していくっていうことで募集かけて集まった子たちで。なのに、痛みどめや麻薬も増えて、「もう呼吸器は着けないこのままでいいんや」みたいになると、やっぱり本来入ってたヘルパーさんの学生の子らのモチベーションとかいろんなことで、「それはちょっと違うよね」っていうことになって。
 で具体的な話、どんな話をしたか、またちょっと資料見ないとわかんないんだけれども、結果的にこれ、いつやったかな? えっとね、11月26日に担当者会議をしてて。この会議のあとで杉江さんと長谷川さんと山本くんと私と話をして、学生ヘルパーさんはちょっともうこれ以上ちょっと入れないっていうことで、まあ撤退みたいなかたちになって。ただ学生の中でも、新しく入ってきた子とかはね、「もうちょっと入ってもいい」っていう子が2名いてて、その子に関しては「ココペリさんのところで所属で継続して入ります」っていうことになってね。ほんで12月3日のときには、澤田先生のほうからまた入院の話っていうのを杉江さんに勧めたんやけど、在宅希望してて。それと、杉江さんとしては通所リハから訪問リハの移行(00:23:23)の希望を伝えたんだよね。これ何でかと言うと、気切して退院後に文字盤を使い始めました。で、家でも文字盤がまあ慣れるのに…、でも、まあそれでも長時間入ってたら慣れるんやけど、デイケアに来てたらね、やっぱりいろんな患者さんがいるし多くのスタッフがいるから文字盤の対応がほんとにできなかった。難しかったんですよ、デイケアで杉江さんがコミュニケーションを取っていくのが。で退院直後、2009年の4月の8日の退院直後は、

ユ:7月8日?

西田:2009年の4月の8日。

ユ:4月8日から入院したんですね。

西田:退院。宇多野病院を退院してね。

ユ:入院はいつですか?

西田:入院はね、転院?

ユ:うん。

西田:京大病院から転院したのはいつでしたっけ? 先生。

田中:京大病院からの転院は…、最初の気切のときの話?

西田:うん。気切の。

田中:気切はその年の始めちゃうかな。

ユ:これあとで資料もらっていいですか?

西田:うんうん。

田中:えーとね、京大病院に入院したんはもう、1月早々やね。1月、うん。京大病院に入院したのが、1月のちょっと何日かはわからないです。

ユ:1月。[00:24:59]

田中:1月で、ほんで転院したんが、中央病院に転院したんが3月頭。で退院が4月なんかな。

西田:うん、4月。入院は、京大は1月20日。

田中:1月20日、うん。それで手術して、3月の頭に宇多野病院に転院して、4月の頭に退院。

西田:で退院して、宇多野からその退院したときに、デイケアで文字盤が、ちょっとコミュニケーションが難しかったのと、訪問看護師さんがちょっと対応が限られてて、時間が。だから栄養の注入を、デイケアでできるだけ栄養を入れようということで、来たときと帰る前に2回入れてたんですよね。その2回入れるのが本人さんにとったら、やっぱりすごい杉江さんにとってはすごい苦痛みたいで、おなかが(00:25:58)ぱんぱんになって、コミュニケーションも取られへんかって。1回なんか吐きそうになったのが、「気分悪い」っていうのがちょっと伝わらなくって、スタッフに。そんなんもあったりで、もう苦痛で苦痛でたまらへんなって。で、来(こ)おへんなって、途中からね。で、もう5月ぐらいから来てないんですよ、デイケアを休むことが多くなって。で6月1日にデイケアで、相談員とケアマネと私と杉江さんと先生と話(はなし)して、通所リハビリに変更になってます。

田中:うん、外来のリハビリね。

西田:外来のリハビリのほうに変更になって。で、そのあとですね、痛みどめが、

田中:そう。どんどん増えていったからね。

西田:どんどん増えていって、家で。ほんで学生ヘルパーさんが抜けてっていうことで。で、いっぺん12月のこの26日に救急車を本人がね、これぐらいから救急車をね、何回かもう、次の年の2010年の2月3月あたり救急車何回も呼ぶんですよ。でまあそんな大したことではないんですけども、ヘルパーさんもけっこう疲弊というか疲労してて。で、あと12月30日ぐらいには、あ、これね、ちょっと待ってよ、2009年の12月30日ぐらいに、ヘルパーさんがビデオを撮ってるとか、DVD、パソコン勝手に触ってるとか、なんかそういう被害的な訴えがすごく多くなっちゃって。で、2010年の1月の上旬にメインでケアに慣れてた山城さんっていうかたが介護を抜けたんやね。で、抜けて、そのあとからも冷蔵庫の栄養ドリンクとプリンの数が合わないとか、そういうことをすごく言っていたりして。で、1月15日にケア会議開いてて、「どうする?(00:28:05)」っていうふうに本人さんに言うたら、「介護事業所はヘルパー不足でも増やさずに、このまま3か月から6か月様子見て」、まあ田中先生に在宅医が変わった時点で、「先生と西田さんと相談して、これから家で暮らすかどうするかっていうのを決めたい」っていうて本人が言って。
 で、まあそんな感じでそのあとも、2月20日も救急車を呼んでて、来たら「文字盤が取れない」って杉江さんがね。ほんで「文字盤が取れるヘルパーを用意しろ」って救急隊員に言うて。で、田中先生に連絡が入って、救急隊が帰るとか。2月28日に今度は「自殺する」って本人が言って。

田中:で、そのタイミングでもう訪問診療医が僕に変わってて、ですわ。

西田:ほんで、このとき話し合った。話し合った記録がまだ介護ノートに残ってた。でもそのあとにパソコンでメールして、山田さんっていう人に「死ぬもんか」みたいなメールはしてるんですよね。なんかそこらへんがけっこうすごい、あれでしたよね。ばたばた荒れてて。その後って、あれ誰でしたっけ? どうなってたんやろ?

田中:ずーっとまあ憤懣や不満が続いてて。幻覚、妄想や、

西田:幻覚、なんか「誰かがいる」とかそういうのもちょっと見えはじめて。で、妄想的、被害妄想がすごい強くなって。ほんで、

田中:あ、これ、始末書も。

西田:ああ、始末書をね。なんかヘルパーさんに対して、介助が間違ったら始末書書かせて、それを机の引き出し、枕元ラックのところにいっぱいためてて。で、もうそんなことされたらヘルパーさんもすごいもう介助したくないけど、もうぎりぎり我慢しながらやってるような状況だったんですよ、そのころは。[00:30:13]

ユ:ヘルパーさんは何人ぐらいいました?

西田:そのときはね…、今ね、ちょっと今日職場から来たから、介護ノートを持ってこようと思ったんだよね。けっこう…、もういなかったと思う、あんまり、ほとんど。

ユ:一番多かった時期は何人ぐらい?

西田:多かった時期、

ユ:なんかこの、差があったかと思いますけど。

西田:多かった時期、学生ヘルパーさんが4、5人、5人ぐらいいてて。たぶん10人ぐらいはいてたと思う、安定してたときは。でも、いないときは4名ぐらいしか、3名とか、もうあの年末、気切の入院する手前のときとか、もうたぶん3人しかいなかったと。3人とかそれぐらいだったような記憶があるけど、4人とか。でもココペリさんから新しい研修生が来るので、一応はその人がいてて、2人体制とか。学生ヘルパーさんももう気切する前は2人体制に、ちょっとやっぱり危ないし、しようということで2人体制にはしてたんだけど、それでもやっぱりなかなか、本人の不安も強かったしヘルパーさんも怖かったしみたいな感じ。
 そこからの介助ノートが、私まだまとめられてなくってね。それまでなんかやったんだけど、がんばって。そこからは私、話があんまり。介助ノートを拾ってっていうか整理できてないから、

田中:うん、一応ここに書いてあるのは、そのまあすごい荒れてるときに、もう在宅が難しい、まあヘルパーさんも入れない、事業所的には入れられないっていうのと、本人さんもその入ってるヘルパーさんに対しての不満がうわーっと噴出してて。で、たぶん西田さんと一緒に話をしたんやと思うけど、3人で。で、「もうこのままやったら入院か、在宅継続ならば在宅継続で、もうちょっとこう自制してヘルパーさんを受け入れなあかん」みたいな話をしたら、本人は、「もうあと半年このままの在宅の生活で経過見たい」というような話をしてて。で、その間(かん)にカンファレンスをしても、まあただそうは言うものの(笑)、ヘルパーさんへの不満はわーっとずーっと持続的に言うてた話で。で、レスパイト入院っていう選択肢とかも宇多野病院に提案するんやけど、それも拒否みたいな感じになってて、まあ入院指示するけど納得しないとか、うーん、やね。この間(かん)に、レスパイト入院を、「ヘルパーさんをちょっとこう休ませる意味でも」っていうふうに言ったけど、それをなかなか納得しない時期が、それが2010年の3月4月あたりですかね。そうやね。
 まあ依然として筋緊張高くて、痛みはずーっと続いてるような状況で。4月、5月、そうやね、麻薬のデュロテップもこのあたりから増やして、もう1回増やしてるね。痛みが強かったんですよね。[00:35:00]

西田:2010年5月ぐらいからもうちょっと増やしてるってことね。

田中:これが6月。「【自宅にて】(00:35:34)緊急カンファ。このカンファレンス」…、うん。そやね。やっぱり「ヘルパーさんが疲労のために倒れた」とかって書いてあるね。6月。

西田:やっぱり介護ノートを持ってくればよかったな。ごめんね。

田中:えーと、「入院はせずに、問題になったヘルパー事業所の枠を徐々に減らして、在宅療養を継続する」って本人が言ってるね。やっぱりここでもトラブってるよね。「1つのヘルパー事業所とうまくいかず、その事業所をやめたい。だがやめると在宅療養の継続が困難となる。そのために病院に入院する」っていうふうに7月には言ってるね。で、まあそやね、だけど二転三転しますね。その次の週に行ったときには「入院せずにそのまま在宅でいきたい」って。

ユ:この記録、ほんとに大事ですね。記録が大事。

西田:記録これね、そうだよね、電子カルテ。介助ノートも読んでたら改めて、「あ、このときにこんなんがあったんやな」って思うなあ。でないと、メモとかも一応あるのはあるけど、日付とかがもうひとつちょっとわかんなかったりするときもあるから。

田中:このときは年末なんかなあ?

西田:そのあとに入院したんでしたっけ? 全然覚えてない(笑)。

ユ:だいぶ前のお話なので。

田中:でもそのなんかヘルパーさんに文句言いながら、ヘルパーさんもそれに耐えながらっていうの、これずーっと続いてるんやね、たぶん。

西田:うーん。

田中:2011年3月10日には、「将来的には人工呼吸器に装着せず、急変時も含め救急救命処置いらない」っていうふうに一時期言ってるときもあったよね。なんかちょっとこう本人も在宅の生活に疲れてきた。ところが、「まあいずれ」、そう言うてみたり、「やっぱりつける」みたいなことを言ってみたり、どうしたらいいのかわからへん状態なんかな。そんなんが2011年の3月。

西田:先生、私持ってこよっか? 介護ノート。自転車ですぐやから。ね。そのほうがいいね。

ユ:ここ近いですか?

西田:近い、近い。わりと10分15分あったらたぶん戻って来れるから、ちょっと持ってきますわ。ちょっと待っててください。でないとあれやんね、せっかくユさん来たのに、[00:40:11]

ユ:気をつけて行ってらっしゃい。

西田:はいはい。

田中:ここらへん同じ感じやね、ずーっと。

ユ:さっきの資料を見てもいいですか? 伝票みたいな、

西田:うん。

ユ:ありがとうございます。

田中:2011年の8月に、あまりにも被害妄想的なことが多いので、抗精神薬を開始してますね、抗精神薬。それまでは不安をとるようなお薬。で、もうひとつ強いシゾフレニアとかに、統合失調症とかに使うお薬を入れるくらいちょっとひどかったんやね。

ユ:8月からですね。

田中:8月からです。やっぱり被害妄想がずーっと続いてて。

ユ:だからどんどんよくないことに、強く、

田中:そうですね、どんどん。このころに、だからヘルパーさんも疲れてやめてくし、本人もどんどん妄想がひどくなっていくし、みたいな状況がずっと1年以上続いてたんかな。

ユ:先生はそのときに杉江さんを見て、どう感じました?

田中:そうですね、まあ、実際起こってることがヘルパーさんとの間のことなので、杉江さんの言ってくることとヘルパーさんからの報告とがやっぱりだいぶんずれていて。基本的にはヘルパーさんの言ってるのが事実なんだろうなとは思いつつ、かといってそれを本人さんに言っても、本人自体はもう言うたら妄想に支配されてるので、まあ入らへん。ほんで結局のところ、まあ僕の立場的には杉江さんには「そうじゃないんだよ」とは言うけど、杉江さんのほうには入らない。ほんで杉江さんまたヘルパーさん攻撃する。で、ヘルパーさんに対して僕たちが受容的にまあ関わる。まあ「こういうときにはああしたらいい、ああいうときにはこうしたらいい」とか言いながら、で、それをなんかこうお茶を濁してたというのか。わかるかな。まあ本質的な解決にはならないんやけれども、ヘルパーさんの気持ちを受容することで、なんとかこう、いてもらってたって、ヘルパーさんをいてもうてたみたいな感じですかね。だから根本的に杉江さんに対して、まあお薬投与したりはしたり話はしたんやけれども、あんまりそこの、杉江さんを変えるってことは全然できずに。で、ヘルパーさんのほうに「まあまあがんばりましょうね」みたいな感じの話をしていた感じですかね。なんかこうあんまり、何て言うか生産的な、もうちょっとこううまくとか、もうちょっとこう先を見越したとかいうことはとてもできるような状況ではなくて、もうヘルパーさんとか事業所さんとかを繋ぎとめるのに必死やった感じですかね。

ユ:杉江さんは、ほかのALSのかたとちょっと違う人でしたか? 先生が見た感じでは。[00:44:54]

田中:ああ、似たような人はいますけど、うーん、似たようなかたはおられますけど、やっぱりそこらへんのことはひどかったように思いますね。ヘルパーさんへの攻撃やったり、その被害妄想的なことであったりっていうのは。ときどき、まあもちろんALSのかたでもそういうかたおられますけど、全員が全員そうなるとは思えへんので。もっと社会的にちゃんとされてるかたもおられるし。だからそれが、あの当時にこんだけヘルパーさんに攻撃かけるのが「なんでや」みたいな話になって。で、僕のほうから病気の症状の一つであるってことを言ってほしい、って話にもなった。で、基本的にALS自体は認知に関して問題が起こる病気ではないんですけど、やっぱり前頭葉がやられる場合もあるので性格がこう、まあ言うたら尖ってきたり、あるいは認知症になられるような特殊なALSもあるのはあるんです。で、そういう特殊なALS、性格が変化してきたり認知が悪くなってきたりする病気、そういうタイプのALSであるって言ってくれるほうがヘルパーは助かると。「あ、これ病気の症状なんや」っていうふうに理解できたら、多少罵倒をされても罵声浴びせられても、「ああ、病気なんだ」っていうふうに言えると。だけど僕自身は、それまで杉江さんの認知に関しては悪いと思ってなかったんで、積極的にそういうふうなことは言わなかったんやけども、ケアマネージャーのほうから「そういうふうに言ってもらうとヘルパーさんが助かる」みたいなことを言われて、たしかそういうことを言ったようなこともあったと思いますね。だからその当時はそういうくらい、ちょっとヘルパーさんが疲弊してしまってた状況ですね。

ユ:うーん。

田中:だからさっきの話と繋げるんやったら、最初はまあ言うたら、みんな勢いがあって志があって、「さあ在宅で独居で行くぞ」っていうようなエネルギーがあって、杉江さんもそれに「生きる道があるんや」と思って、すごくモチベーションも上がってよかったんやけども、だんだんやっぱり症状が進行してくるにしたがって、とくに痛みとかが強くなってくるにしたがって、杉江さんのヘルパーさんに対しての欲求も大きくなってくるし、それに対しての適切な対応をできるヘルパーさんっていうのもいなくって。で、医療側も「それやったらその痛みをなんとかしてあげたい」って思いつつも、まああの手この手、お薬使ってやけどうまいことコントロールできずに、みたいな感じで。結局病気が進行したり症状が増悪したりする中で、杉江さんのまあ気持ちっていうのかな、性格がいがんできたというのか。で、それをもろに受けてたのはヘルパーさん。僕らには言わないので。まあもちろん文句も、もちろんヘルパーさんの文句とかは言うんやけども、僕に「それやったら田中先生どうや」とかいうことは言わへんくって。で、そのはけ口がぜーんぶ、その生活の支援しているヘルパーさんに行ってたような状況やったですかね。で、こっちも、だからさっき言ったように、有効な手段が取れへん。「どうしたらいいんや」みたいな。

ユ:最初に西田さんがボランティア的に入ったじゃないですか、けっこういろんなことで。あれは医療の立場と、福祉の立場いろいろあるじゃないですか。その関係で、先生が見た感じでは西田さんはどう思いました?

田中:ていうかね、僕の手段がもうなかったんですよね。だから僕は往診で行って、それこそまあ杉江さんの愚痴も聴きながら、病状の管理をしながらっていう話で。で、もののやっぱり20分くらいしか訪問で行けへんので。だから結局のところ、そこで話をするだけでは、まあ言うたら杉江さんの気持ちもわからないし、ましてやヘルパーさんとの関係がどうなってるかなんてのは全然わからなくて。だから言うたら西田さんが入ってくれたことによって、よりその深いところっていうかな、杉江さんがどう思ってるとか、あるいはヘルパーさんとの関係がどうやとか、ヘルパーさんはこんな状況だっていうのが。西田さんはもちろん、だから杉江さんとこにも入って杉江さんにも話聞いてるし、まあ言うたら逆にヘルパーの事業所の話も聞いてるし。だから一番全体的な流れを把握してて、僕に情報を提供してくれてるっていう状況やったんで。[00:50:23]
 まあさっきの話からいくと、ほんとにエクストラの話で、本来的にはそれをしてよかったのかどうか。だからもうボランティアなんで。ほんとやったらそこにお金が発生するなり何なりして、役割としてそれを頼まなあかんかったのを、もうただたんに彼女のその「何とかせなあかん」っていう気持ちからそういう行動を取って、それをまあ情報として入れてたということではあるから、今考えるともうちょっと違うかたちで西田さんに入ってもらってたほうがよかったのかもしれへんな、とは思う。もうちょっと距離がおけるような。まあ本人どう思ってるかわかれへんよ。それ自身がよかった…、まあそのあとの、ALSに関わるきっかけにもちろんなってる話なので、僕も含めてね。そういう意味合いでは、どっぷりその杉江さんの生活に入ったっていうことは、彼女にとってはプラスやったのかもしれないんですけど。ただ、今それが同じことが起こったときに、それをするか、させるかっていうと、させないと思う。もっと、言うたら距離を置いてできるような状況をつくると思うよね。大変は、だからそのときは大変やったですね。

ユ:けっこう聞きました。みんな泣いたとか。

田中:うん、もう。うん(笑)。泣い…、そうですねえ。で、行先もなかったんだよね。病院に入院ていうことで、まあこのころ救急車もけっこう頻回に呼んでて、2011年の11月とかにもね呼んでて。ほんで、だけど宇多野病院は嫌やったんですね、なんか。ほれで第一日赤とか京大病院とかにも入院依頼をかけたんやけれども、なかなか入院はさせてくれへんくて、っていう状況やったんかなあ。それで2011年の12月にもうどんどんどんどんヘルパーさんがやめてって、もう派遣できへんという状況になって。で、もうついにレスパイト入院をまあどこかにお願いせなあかんということになって。それで宇多野病院も、今度宇多野病院も、だからさっき言ったように京大もだめ、第一日赤もだめ、宇多野病院も断ってきた状況やったんです。で2011年の12月の15日に、中央病院がレスパイト入院で取ってくれたんですよね。

ユ:で、入院したんですか?

田中:入院しましたね、そのとき。で、その、もうヘルパーさんが全然いないというような状況で、ヘルパー体制をもう一回その、2週間ほどレスパイト入院したんかな? で、もう一回立て直して、12月の28日に、年末やね、ぎりぎりに中央病院を退院してきたと。でも帰ってきてもやっぱりヘルパーさんとのトラブルも続いてたみたいやね。[00:55:15]

ユ:長谷川さんの質問なんですけど、医療と福祉の関係のことで。杉江さんの支援では良くても悪くてもやっぱり障害者の運動の、自立生活を考えて進めていったってことですけど、そのときの医療の立ち位置、いわゆる障害者運動を考えるかたに対して、違和感とかを含めてどのように感じたのか、ということですね。たとえば、そのときにココペリとかいろんな人が関わってきたじゃないですか。そのときの違和感とか、何かありましたか? 医療と福祉の関係ですね。

田中:うーん。だからまあ最初はさっき言ったように、まあそういう「在宅独居をやるぞ」っていうこう勢いがあっての気持ちが一つ。でもう一つ、まあここまでになると結局やっぱり途中で、唯さんとかも撤退したっていうか、もう入れなくなっちゃったっていう話やって。で、そのときに、まあどうやろ、まあ医療も撤退するんですけどね。今言ったようにレスパイト入院拒否するような病院もある話なので、「この患者さんはかなん」言うて、それこそ医療もそういうこう引いてしまうっていうことも実際はあるんはあるんやけど。やっぱり僕自身はまあこういうふうに在宅に持ち込んだ責任が一つあるじゃないですか。変な話、最初に京大病院では「できない」って言われた。で、僕のところに来て、そういう「重度訪問介護という制度があるから生きれるよ」って言って、それで「やる」っていうふうにスタートしたという。それで在宅が、これが始まったっていうのの僕は責任をまあ持ってると思ってたんです。だから僕自身が撤退するっていうことはちょっと考えられへんくて。ほんでやっぱりしんぼうたまらんくなってやめていかはる介護事業所があったときに、どう言うんやろ、「やっぱり医療ってのは撤退できひんな」と。僕らが撤退する、イコール死ぬっていうことなので、だからやっぱりそれは医療とそういう介護とは違う、まあ福祉とは違うっていうのはそのときにも感じたし、今も感じますね。

ユ:ああ、そのきっかけで、ですか? [00:59:42]

田中:それきっかけっていうか、常にやっぱりそこが立ち位置が違うんやなと。まあ「障害者の自立」っていうふうに福祉のかたとかは言われるんやけど、それも命あってのことなので。その命をまあ担保するのが医療なので、やっぱりそこが命を維持できて、それでさらに「自立」ということなんじゃないかなと思うので、そこはやっぱりちょっと同じものを見ている、同じ人を見てても、まあ左から見るのと右から見るのんというのの違いなのかな、とは常に思いますね。だからまあちょっと話変わりますけど、たとえば筋ジスの人が何年間も病院で生活してる。で、それを言うたら「在宅で独居で生活させる」っていうふうに言って、それはそれで本人の希望やし、本人が生きてくっていうことなのでそれを支援してあげたい、本人の障害者の自立っていうことで、まあ退院してみえるんですよね。で、それをまあ僕が在宅で診たりする人が何人かいる話のときに、なんか一方的に「入院での生活が抑圧されてて、この人の自立を、障害者である病気である患者さんの自立を阻んでるんや」みたいな言い方が一部でされるんやけど、でも、その人が在宅で生活できひんかったんで、医療的な管理ができひんかったんで、やむをえず病院ていうところで命を繋いでたという部分はあると思うんです。で、それをやっぱり一方的に、そこはだめで、在宅生活すばらしいっていう話ではないんだろうな、とは思って。だからまああの、何て言うかね、在宅で障害を持った人、病気を持った人を支えるようなシステムができれてればそれにこしたことはないんやけど、できないことなんてけっこうあって。たとえばそれやったら「京都以外でできたのか?」とか、というところがある話ではあるので。そこの部分は、ちゃんとそこの部分も見たうえで、やっぱりこう障害者、患者さんの自立っていうことを考えなあかんねやろな、とは思う。

ユ:特に、医療と関係あるかたですね?

田中:そうです、そうです。だから、知的障害とかだとはちょっとまた違うくて、ほんとに医療的な管理が必要で、しかもそれがその命に直結するような医療的管理の場合は。病院っていうのはまあ言うたら生活の場ではないと思うんです。外出もできるわけじゃないし、それこそこうね、好きな映画を見れるのか見れないのかっていうところもあったり、それこそ恋愛ができるんかとかそういうようなこともある。だからすごくこう生活の場としては、もう全然とんでもないけど。ただ医療的な管理としてはきちっとできてるんで、生きてくってことはできる。在宅よりはずいぶん、生きてくことに関しては病院のほうがはるかに医療的な管理ができる。で、それはそこが担保されてる、けどまあ言うたら生活の場ではない。ところが在宅にいくと今度逆転して、生活の場ではあるけれども、医療的な管理に関してはぐっとこう落ちちゃうというところがあるので、そこを、

ユ:調整する、

田中:そうそうそう。で踏み込んで、いろいろとある【と思います】(01:03:39)、「生きてることのほうが大事や」と思う人もいれば、「やっぱりそんなただたんに病院で生き長らえてんのはかなん」って思う人もいはると思うので。だからそこはよくやっぱり本人さんも考えて、で、「えいや」って踏み出すべきやし、踏み出すんやったら踏み出すので、ただただ「いいよ、いいよ」って言うんじゃなくて、そういう医療的なものもちゃんとバックアップをして、っていうことであるべきなのかなとは思います。それは杉江さんのときにやっぱり思ったのは思った。

西田:あ、話しててくださいね。

ユ:はい。先生が医療、医者の立場として、昔、その時代と今の時代で何か変わったこととかありますか? たとえば難病の人たちの支援とか、制度とか、雰囲気とか、いろいろあると思いますけど。[01:05:18]

田中:その制度的なこととかそういうふうに言うと、もうはるかにそういう神経難病の人が在宅でみやすい状況にはなってますよね。だからその重度訪問介護の話しても、まだね、すみずみまで行きわたってるわけじゃないけれども、知ってはる人もかなり増えたし、それを受ける事業所も増えてるし、訪看さんもそれもわかってるし、いう話なので。で、行政のほうももちろんそれに関してもよくわかってくれてる感じなので、その当時とくらべるとずいぶんそういう環境的には難病のかたが在宅でそういう【生きてける】(01:06:05)っていう環境は整っ…、整ったというか進んだと。だから今はそんなむちゃくちゃ無理せずにでも、まあまあそれなりの介護体制っていうのか在宅体制が組める。ただ変わってないのは、やっぱりヘルパーさんと本人さんとか、あるいは家族さんとのストレスっていうのはあんまり変わってない。まあここまでね、杉江さんみたいにここまでひどいことはないけど、やっぱり一番の問題はそこの関係が悪くなってヘルパーさんがやめる、またほかの事業所入るっていうのはもう、あいかわらずまあどこの患者さんとこでも起こってる話ですかね。
 それと気持ちのところでの変化は、正直僕は杉江さん診るまでは、「どこで死ぬんや」ってところをまあ考えてたというのか、うーん、いましたね。あの、途中で胃癌が見つかったんですけどね、そんときの、まあよく飲み会のときにも話すんやけど(笑)、僕が、胃癌見つかって、でまあ手術するかどうかっていうときに、胃癌見つかったときに僕ほっとした。

ユ:ああ…、

田中:このなんかこう、もうね、それこそ幻覚妄想、それこそ攻撃する、ヘルパーさんやめる、ヘルパーさん体悪くするというような、そういった在宅生活がやっと終わる。だから正直言うたら「杉江さんよかったね」と僕は心の中では思ってて。杉江さんも最初のほうは、「手術せえへん」言うてたっけ?

西田:うん。「手術しない」って言ってました。

田中:うん、「手術せん」て言ってはって。ほんで僕は、「あ、これで」、癌はもう絶対死ぬ話なので、まあそれが半年先なのか1年先なのかなんやけど、「半年先、1年先にこの生活が終わる」と。で、「よかったね」と心の中で思ってんです。ところが「それでいいのか」って、それこそ西田さんに言われて。治せる病気じゃないですか、癌は。まあ手術して、早期の癌であれば。で、それを見過ごして、その、病気であるから、こういう生活なんだから、それをこう見過ごしてっていうか治さずに、それでただたんに「そやったらよかったね」でいいのか? っていうようなことを言われたときに、「そりゃそうやな」と思った。で、杉江さんに「どうする?」っていうような話をしに行ったときに、「手術する」っていう話になって、手術するっていう。だからその一件があってから僕自身は、「ああ、治せるもんは治そう」と、「それが医者の仕事やな」と思うようになりましたね。だからまわりの医者が、「もういいじゃないですか」みたいな雰囲気になるんやけど(笑)、さっきの僕みたいに「ALSの患者さんでここまでやったんやったらもういいじゃないですか」っていうお医者さんはすごく実は多いんですけど、まあそれはそれ別の話。で、治せる病気に関しては基本的に治し…、まあもちろん本人に聞きますけどね、本人とか家族さんに。

ユ:癌が見つかったときはいつごろでしたか?

西田:癌ね、いつやったやろ? あれ、先生、1回目の入院っていつでした?

田中:どこの癌?

ユ:宇多野?

西田:ううん、宇多野じゃなくて、在宅がもう崩壊して民医連に入ったでしょ。あれが1回目やって。民医連ね。

田中:2週間入ったやつ?

西田:そうそうそうそう。

田中:それ、2011年の12月。

ユ:12月15日。[01:10:00]

西田:あ、15日か。で、そうそうそう。そのときに15日に入って、ほんで、

田中:年末帰って来たやんな?

西田:年末帰ってきて。

ユ:うん、28日。

西田:で、そこからの杉江さんちょっと変わったんよ。やっぱり入院生活がかなりやっぱり、

田中:うん、つらかったね、

西田:動かないことで、一番初めの京大の入院よりもけっこう過酷やって。私が行ったときももう全然スイッチの調整ができてなくって、何て言うの、センサースイッチっていうのね、ばねみたいなやつで、それが全然違う方向に向いてて。で、足元がなんかたぶん上がってて、すごいね、もうぷーんと匂いがして、なんか便臭のような、汗のような。で、泡か、口、唾液、もう気切と口から泡が出てて。ほんでもう第一声に言われたのが、すっごいなんか衝撃的やったんやけど、文字盤で「殺される」って言われて。

ユ:ああ…、

西田:うん。で、なんか杉江さんと目指した在宅生活の最後が私、これなんかなと思ったら、もう悲しくて悲しくて。だからその場で、なんか悲しすぎて泣き崩れてしまって。ほんならそこにいた、ずっとヘルパーさんしてくれた金さん、金さんじゃないわ、華さんっていうヘルパーさんが、中国のかたがいてて、その人がもう背中すごいさすってくれて。でもかといって私が、私と杉江さんがたとえば退院とかしたいって言っても、ヘルパーさんがいないからさ、どうしようもないし。で、江本くんっていう山城さんのあとにメインで入ってて調整してくれてた人も、もう、もうリタイアっていうかギブアップの状態で、「もう入りたくない」って言って。だからもう誰もほんとにいないから。で、「どうするんだ」っていう話になって。まあ入院中にもうなんかそれこそ幻覚が出て、なんか「やって来る」とか、「白い何とかがやって来る」みたいなことをすごい言いはじめて。「ああ、これ精神状態もかなりまいってるし、ここでほんまに死ぬんちゃうかな」って思って。ほんでまあ長見さんに頼んでどうにかヘルパーさん…。で、そのときに小泉さんでしたかね。いつ小泉さんに頼んだんかなと思って。JCILを頼んだん、

田中:そこらへんちゃうか?

西田:小泉さん頼んだ、

田中:その前くらいからやね。

西田:たぶんそうですよね。今、何やったっけ?

ユ:2011年。

西田:11年の1月やっけ、民医連?

田中:12月。

西田:12月か。ほんで、じゃあたぶんそのときはまだ。高橋くんはいったん入って、そんでちょっとすぐやめたんやけど、正式にJCILがまた入りはじめたのが、それぐらいなんかな? いつなんですかね? 退院するときに、まあヘルパーさん体制整えないと退院できひんからっていうのがあって。で、それでも退院したんですよね。そんなに長くなかったんやね、意外に(笑)。

田中:2週間で、

西田:すごいそれまで大変やって、もう数か月ほんとに「自殺する」や「できひん」やで、すごいもうもめて話し合って、ってみんなとしたんやけど、なんか強制的には入院させられないでしょ、私たちも。ね。だからそこらへんを本人さんがどう思ってるのかっていうところで。で、最終的にはもう杉江さんが自分でもう「入院する」と。で、四十八か所、何やったっけ? あの四国の【先生】(01:13:35)、何十何か所めぐりみたいなんにたとえて言ってましたね。で、「それは何ですか?」って言ったら、「病院は一か所に入院できないから、自分の人生はこのあとはもうそういう入院転院をくり返して亡くなる生活」みたいな感じのことを。で「その覚悟で行ってくる」みたいなことを言ってはって。ほんでも実際行ったらやっぱりけっこう厳しかって。で、もう本人は行けば、もう「退院させてほしい」「死ぬ」や何やて言うし。で、もう長見さんに頼んで、ほんで退院したんですよね。2週間ぐらい?

田中:2週間やったと思う。

西田:2週間ぐらいで。2週間しかいなかったんですかねえ。へー。退院後から誰に頼んだんだろうっていうのが謎なんですけどね。2011年のいつですって言ってたっけ、入院するのが。

田中:2011年12月。

西田:2011年の12月。

田中:うん。「今回のご相談は、以前からヘルパーさんとのトラブルが頻回で、なかなかヘルパーさんが定着しない状況が続いておりました。本人に話をし、事務所にも相談して、在宅療養を継続していたのですが、先週末からヘルパーさんの手配が難しいといった状態になりました。ヘルパー事業所と相談し、1か月程度時間をいただければヘルパーの再調整ができるんじゃないかと考えているのですが、その間(かん)のサポートができず***(01:15:13)ので、レスパイト入院をお願いします」。[01:15:15]

西田:ふーん。で、退院してから、すごくやっぱり入院中の生活がしんどかったから、すごいヘルパーさんに対して穏やかっていうか、がまんが…、何もなんか、わりとしーんとした感じの状況に一時期なって。なんかねぎらいの言葉をかけたりとか、ほんとになんかこうおとなしくというか、前みたいにいろんな文字盤できついことを言うようなことはなくなったんですよね。いっときね、いっときなんですけどね(笑)。

田中:そのときに、レスパイト入院を中央病院にお願いしたときに、双(ならび)にもお願いして、「もう終身で入院加療もお願いできひんか」っていうのも同時に出してるわ。

西田:ああ、そうやった、そうやった。

田中:それで、双ヶ岡もオッケーと。ただ、特殊な薬使われへんからお薬整理してくれっていうことを双(ならび)から返事いただいて。だけど帰ってきたら、そやね、ちょっとトーンが下がってたんや。

西田:うんうん。

田中:で、「もしかしたら在宅いけるかな」みたいな、になってるうちに胃癌が見つかったんや。

西田:うんうん、そうそう。で、JCILさんが入ったのって、先生、いつになってますか?

田中:たぶんそこちゃうかな?

西田:いや、その前、

田中:もっと前かな?

西田:高橋さんがまた、あの、「高橋くんでいいですか?」って小泉さんが言ったのを覚えてるのね。だから、いったん入ったけどすぐ抜けて、

田中:あ、抜けて。はいはい。

西田:で、もういっぺんJCILから出せるとしたら高橋さんだけれども、で、高橋さん。で、いのたにくんとか入ってきたんじゃないかな。

田中:あ、いっぺん入ってたね。

西田:いっぺん入って抜けたけど、もしJCILが出せるとしたら、えーと、その、

田中:そう、そやね、そんな話か、

西田:「高橋さんでも、同じ人やけどいいか?」みたいな感じでしたね、たぶん。

田中:えーと、2012年の1月にはもう高橋さんの名前が入ってるね。だから、

西田:うーん。また高橋さんを再度、調整を小泉さんは促して。その代わりたぶん小泉さんからお話があったのは、「JCILから派遣するけれども、西田さんが在宅の調整役で入ってほしい」と。で、それはJCILのヘルパー、一応ヘルパーとしてJCILのヘルパーさんと一緒に入るっていうかたちで、「ほかのいろんな人の調整をやってほしい」って言って。私はそれはすごく意外やって。どっちかというとJCIL、自立生活運動で当事者主体というか、そこらへんの「本人の」っていう感じ。でも、それも小泉さんも今までの生活をまあいろいろ。それまでね、JCILの講義を依頼を受けてて、何回か行ったりとかして。でまあ私からの話とかまわりからの話聞いて、これは普通、障害者の自立生活と、ALSの自立生活でやっぱり違うっていうのをすごく感じてはったと思うし。で普通の生まれながらの当事者でも、やっぱり誰かの在宅、自立生活するときって、かなめの調整役っていうのは実は要るんだと。うん。で、要るから、やっぱりそういう人がまったくいない中で本人だけで生活するってのはやっぱり過酷や、みたいな感じになって。で、私もそれを聞いたときね、なんかこう、何て言うんかな、すごい意外、意外っていうか。なんかそれまではもう、どっちかと言うと「本人主体の生活をするのが本人にとってもいいし、それをしないと結果的に自立生活ってできないんじゃないか」みたいな感じで思ってたんやけど。ま、「でも体が、やっぱりALSの人ってかなり過酷やし進行性やし、ちょっと難しいよね、こんな中では」って思ってたけど。わりとなんかね、私の話(はなし)したらわかるけど、私もなんかその「自立生活とは本人が主体的で」みたいな、なんかこう指示も「手足となって」みたいな「ヘルパーは」みたいな感じでそんな生活をイメージしてたから、むしろ医療者が過剰に介入する生活が杉江さんにとってあまりよく…、「よくない」じゃないけど、「なんかそれはちょっと違うんかな」とかそういう違和感もあったりしたのが、なんかほっとして。「あ、そうなんや」と思って。やっぱり誰かがあいだに入れへんかったら難しい、難しいから、それはなんか、なんか知らんけどほっとして、支援者として。
 でも、と同時に「ちょっと待ってよ」と思って。これ、でも杉江さんの生活を私が…、まあ1年目でかなり厳しかったから、私の生活も。お昼間デイケアで働いて、夜けっこう行ってたし、で、大学院のことをやってたから。「これいつまで体が、これでやってしまって入り込んでしまったら、続くかな」と思って。でこう、そこのなんかちょっと恐怖感というか怖さもあった。「引き受けていいのかな」って。「それをちゃんと責任持って、私がいつまでこの人の生活を支えられるんだろう」って、「安易に受けていいのかな」って思ったけど、そういうことを考える間もなくもう退院する流れになったから、

田中:うん、やらざるをえなくなったんやね、

西田:やらざるをえない状況になったから、もうそこは腰をすえてやるしかないというか、腹をくくって、「もういっぺんやっぱりやってみよう」と思って。ほんでJCILからヘルパーとして週1とか、最低週1で、あとは人が足りなかったときほかの曜日も入ってっていうのをやりながら、訪看さんとかヘルパーさんの調整、本人さんの調整っていうのをやったんだけれども、それでもその後難しくなりましたよね。あれはいつだったんですかね? [01:21:38]

田中:ただ一番ひどいのはその、ほんとに崩れて年末にレスパイト入院したまでがやっぱりすごいひどいかって、

西田:けっこうきびしかったね。ほんでそのあと落ち着いて、

田中:やっぱりトーン下がって、それでもまだアップしてくるんやけども、

西田:で、いっときのことやって、またなんかヘルパーさんにちょっと言いはじめて、「あら?」と思って。でも前よりは全然違ったよ。それはたぶん杉江さんの安心感が、まわりの人が「やっぱり全然違う」って。

ユ:うんうん、みんなが言ってた?

西田:それまで1年目に私がけっこう入ってた。呼吸機能が低下している時期で危なかったし。で気切して2年目に、それぞれの持ち場で支援するよう体制を整え直して、まあデイケアでの関りや往診の付き添いで行ってたり。在宅のリサーチとかいろいろ行ってはいてたけど、1年目みたいには濃厚ではなかったから、

田中:たぶん西田さん姫が入って、そこで話を聞いてくれてたりするのは、彼にとってはすごくよかったんやと思う。

西田:安心はちょっとしたんやろなって。

田中: それこそやっぱりしっかり聞いてくれるし、まあ西田さんは西田さんなりの意見もそこでも言うてるやろし、そこもすごくよかったんやと。

西田:わりと安定してたかな。

田中:ひどかったけども、そんな「もう目も当てられへん」っていう感じではなかった。

西田:だからわりと記録にも、ヘルパーさんに「ありがとう」って言うてはったりとか、なんか一緒にテレビ見て笑ってたりとか、なんかそういう場面があって、「わ、これでちょっと落ち着いてくれるのかな」って思ったときに、胃瘻からの出血を私が発見してん、介助に入ってるときに。で、「あれ?」と思って、注入のあとに血が返ってくるからおかしいなと思って。それがちょっと続いたから先生に言って、で「胃カメラ検査しよう」って言っても「行かない」って言いやる、本人がね。「病院が怖いから、トラウマ」で、それ「行く、行かない」で時間がちょっとの間かかっちゃって。

田中:1か月ぐらいかな。

西田:1か月ぐらいも?

田中:もうちょっとかかったかもしれん。

西田:でも最終的には本人がなんか、「在宅では治療はできない。無理だ」って「病院に行く」って言って、急に言い始めて。出血量がちょっと多くなったりとか。で見せてあげて、「こんなになってますけど」って「行かないんですか」って、「大丈夫ですか?」って、「ほんまに行かなくていいんですか?」って「何かあるよ」って言って、「何か起きてるよ」って言ったら、ほんなら「ここではもう、家では、在宅では治療はそれはできないので手配してください」って言って、「ああ、やっと行ってくれはるわ」と思って(笑)。ほんで行って胃カメラの検査をして、で、そのときの結果はまあ胃癌だったと。でもそれもそのあと先生が伝えて、

田中:「どうするんや?」って話?

西田:「どうするんや?」って言ったら、

田中:「切らへん、しない」って言って、

西田:「手術はしない」って、「もうこれはこのままでええんや」ってなって。

田中:そのときはさっき言ったように、僕はほっとした、みたいな。

西田:ほんで、でも胃癌は早期やって、まだ。そのときの時点ではね。早期で、治療したら治る、手術したらね。「早期の胃癌やから治るって言ってるのに、なんでみんな『もう、手術なしよね』みたいな雰囲気なんだろう?」みたいな。そこがすごく私は違和感があったから、それで本人にも先生にもなんか言って。ほんなら最初はもう「いや」って言ってたんやけど、何回か話し合いをしたんよね。話し合いをして、最終的には本人が「治るんやったら手術やっぱりする」って言って。で、もう慌てて手配して、民医連のほうに。でもそのときはやっぱり今先生言ったように、外科の先生がもう「え、手術するんですか?」みたいな雰囲気やって(笑)。なんかびっくりしてはって。でもやっぱりそれでも受けてくれはってね、まあ一応無事手術は終わったんやけど。でもそのあとに縫合不全っていう、縫ったあとの糸がちょっとゆるかったのか、出血してて。で、出血性のショックっていうんだけど、それでちょっと意識レベルが下がったりとか輸血とか、そういうの何回か、ほんまにもうお亡くなりかけた、死にかけた状態で、もう大変やって、結局、低酸素脳症で、出血性の低酸素脳症になって、それで文字盤が取れなくなってん。そのときに、入院直後は人工呼吸器も離脱できてたんよ。あの、抜管できた、呼吸器も外して、麻酔のね、麻酔をするとき呼吸器つけなあかんねんけど、外して帰ってきたんやけど、もうそんな状態になって。で、その、 急変して呼吸器着けて体調が急変して戻ったときに、本人が文字盤から「僕は呼吸器をつけて生きていくと決めたのだ」って言ってきて。なんかすごい宣言するかのような。でもそれまではわりと、すごいゆらいで。呼吸器つけてないときには、「つける」言うたり「つけない」言うたり「がんばる」言うたり「自殺する」言うたりっていうのがいろいろあったけど、つけてからはじめて「俺はつけるって、生きるって言うたやろ」みたいな感じのなんか(笑)、感じやって。そこで本人さんも、たぶん呼吸器つけてこれからの生活っていうの、まあ覚悟できたのかなって。つけたことによってやっぱり覚悟できたのかなって思って。そこはなんかわりと、もう「つけたらすごい呼吸が楽や」って言ってはったし。なんかそれまでは恐怖感抱えてたんかなと思ったけど。わりとすごい、なんか着けたことで呼吸とメンタル面は安定してて。
 でもそのあとまた2回目の大出血が起きて。最初はわかんなくって、とりあえず輸血だけしたんだけど、「原因がわからない」って言って。「とりあえず輸血で治ってるから」って言われて、そしたら、また同じような状況、ショックになって。ほんで胃カメラしたら、やっぱり出血がお腹の中でしてるからっていうことで。ほんで、どうしたん…、手術したんかな? またたぶん手術したね、よくわかんない、そこらへん、忘れたけど。ほんでまた落ち着いたけども、意識が、2回目の出血で低酸素脳症で発信ができなくなって。なんかそんな状態で。
 で、もう退院っていっても、けっこう「もうできないやろうな」っていうぐらいほんとに厳しかって。ね、先生。もうかなり敗血症になってたんよ。[01:28:23]

田中:うんうん、だから胃癌が見つかってから、今見たら2か月、そのすったもんだしてるんやね、手術するまでに。で、7月にもう1回検査目的の入院を中央病院にして。でまあ「今やったら手術可能や」っていうような話があって、ほんで手術をしたんやけども、今言ったように、西田さんが言うように、縫合不全が起こって。それがだから結局、だから8月の6日に手術して。だからちょうど見つかったのが5月の24日のカメラの結果が出るから、2か月半くらいたって手術して。で、この段階でも肝(かん)の表面に転移巣があったっていう。

西田:そう、開けてみると、手術してみると、

田中:うん、CTでは見つかれへんかったけど、

西田:CTではなかったけど、肝臓に転移してたと。

田中:で、1回術後は人工呼吸器からも離脱できたんやけれども、その後意識レベルが低下して、血圧が下がって。ほんでもう1回人工呼吸器装着して、「動脈性の出血だろう」と。だから8月6日の手術の直後やね。で、その次の日には血圧低下してて、輸血もして昇圧剤入れて、いったん止まったなと思ってたんやけども、そうやね。でもこのときにかなり低酸素の状態が続いてたんやな、いっとき。[01:30:25]

西田:1回朦朧としてて。ほんで、いつやったかなあ?

田中:まる1日、

西田:2回目のやつじゃなくって、1回目で出血して、覚醒が、朦朧と、戻ったときに、そのときに先生がどっかから病院に来てくれて、休日か何かのときに。

田中:そうそう。

西田:で夜、なんか先生、民医連の先生が文字盤持ってきはって、なんやろ、「どうされますか?」みたいな、「これから、もしなんか状態悪くなったときに、なんか、治療しますか? しませんか?」みたいな、 ○×(まるばつ)文字盤でもって。でも本人さん目がなんかもうぐらぐらぐらぐらしてて。ほんだら田中先生が「ちょっとちょっと待ってくれ」と、「最終で確認して、私らが文字盤取ってるのは、本人はもう『生きていく』っていうふうに決めてるって、どんな状態でも。だからこれ以上って、何かあって処置せなあかんなったときに、その治療するかどうかっていう選択は、それはおかしい」と、その「聞くのは」みたいなことをすごい、なんか言いはったのを覚えてるんよね。ほんでそれで、なんか本人の、もうみんな聞いてたから、それはまわりのヘルパーさんとかも。だから「できる限りの治療はやっぱりしてほしい」って、「本人の望みっていうのはみんな聞いてるから」っていうのを言われて。「娘さんももちろんその思いがあるから」っていうので。で、「じゃあ急変したときには、できる最大限の治療というかをさせてもらいます」って言いはったんですよね。

田中:たぶんね、これ見てたら、そのとき1回血圧下がって、レベル低下して貧血、動脈性にかなり出血してて。ほんで翌日には今言ったように輸血して、昇圧剤入れて血圧上がって、まあ状態落ち着いたんやけど、ここがたぶん9時でしょ。で、次の日の2時でしょ。それで次の次の。あ、ちゃうか、だから1日半くらい、ここで僕がみて、西田さんもここにいて、このときも西田さんいたんちゃうかな。だから1日半、言うたら血圧が低い状況が続いてて、貧血の状況で。ほんで意識レベルもごんと悪くなってたんや。ほんでその3週間後にもう1回僕がICUのほうに行ったときには、もう状態としては全身状態は落ち着いてたんやけども、そのときの脳波、この血圧が下がったときの脳波とCTを、頭のCT撮ってもらってて、そのときにまあほとんどこう脳波としては発作波がぼんぼんぼんぼんって出るようなそのとき状態で。CT上でも前頭葉の皮質下って言って、ちょうど大脳皮質の下がちょっとこう出血してるような状況で、こういうの無酸素脳症のときに起こる状況で。だからこの間(かん)の1日半の低酸素貧血と、低血圧に伴う無酸素脳症っていうか低酸素脳症が原因で、まあ低酸素脳症を起こしてたという状況で。こんときには別の問題として熱発してて。中心静脈栄養っていうカテーテルからの感染を起こしていて、まあ「これの治療をします」っていうことやけども、この時点ではもう低酸素脳症の状態やった。だからもう本人は意思疎通もなかなか難しい。だから一番最後が血圧下がったときのその日かな、本人がまだ…、あのときに何か言ってたっけ?

西田:病棟で○×文字盤出てきて(笑)、あれが最後でしたっけ。あの、○(まる)にも×(ばつ)にもなんか目がうつろで。

田中:うつろで、

西田:でもたぶんあのときも、もう意識レベルとしてはやっぱり低酸素になってたんでしょうね。わかんない…、

田中:もう悪かったんやね、そうやろね。僕が行ったときには明確にそうやったね。「やる、やらん」っていうのは言えへんかった。だからもうその段階でもう低酸素にはなっていたけど、まだちょっとうつろながらにこう目で追えるような状況ではあったけど、そのあとはもう、そのあとの1日半の血圧低下の状況で、[01:35:16]

西田:うん、だから2回あったの覚えてるんよ。1回大出血、

田中:そやね。

西田:1回急変して、もっぺん急変して。

田中:そやね。いっぺん急変したときには、

西田:戻ったんですよ。

田中:戻ったから、「止まったんや」いうて言うてはった、主治医の先生。

西田:ほんで文字盤で、「僕は人工呼吸器をつけて生きていくと決めたのだ」って言って、急になんか言って。その文字盤取ったのが、それが最後。取れたのはね。最後に文字盤でそういって言って。そのあとにまた急変が起きて。で、そこから低酸素みたいな感じになってっていうのがあったのよね。あれ夜中、夜中に、夜でしたよね、先生来てくれはったのね。

田中:僕来たんは夜。その日あれやってんや、子どもと一緒に琵琶湖に、テントに行っててん(笑)。琵琶湖の湖畔にテント張ってたわ、キャンプしてて。それで昼間にオペ直後くらいに電話があって、「なんかおかしい」みたいな話で。けども僕が行ったんは夜中、夜だと思う。

西田:夜だったんですよ。

田中:夜のときにはいっぺん、そやから最初の出血のエピソードが落ち着いたあとかな。

西田:落ち着いたあとで。いったん輸血して、ちょっと落ち着いてたとき。だからもうこれで落ち着いてる感じの状況かなって思ってん。で、先生が来たあとにかえさんが、だから娘さんが、夕方っていうか夜、電車ちょっとがんばって乗ってきてくれて。で先生もレントゲンとかなんか一応説明を受けて、娘さんも説明を受けてたっていう感じ。で、落ち着いてると思った直後にまた、次の日起こったんちゃうかな。

田中:また起こったんやね。で、そのあと、僕たぶんそのあと行って、また琵琶湖に帰って(笑)、次の日の朝に帰ってきての夜の話やと思うんやけど、もう1回あったよな、あのときね。

西田:2回あったの覚えてるんですよね。

田中:僕自身が、だからそんなしんどい場面にはおうてないんやわ。だから西田さんがずっとそれは見てたけど。だから僕が行くときには、1回目も2回目も比較的落ち着いた状態やけども、そのあいだずーっと低酸素の状態やったので、ミオクローヌスけっこう起こってたもんね。痙攣起こってて、「ああ、これは低酸素脳症でなったんやな」っていうふうな状況やった。

西田:そう。ほんで退院をね、まあとりあえず、でももう転移もしてるし、まあ病院の先生、「もうこの天寿をまっとうしてください」っていうふうに言われて。でもなかなかそれがあきら…、なんかこうわかんない、その説明があんまりその言葉以外ではなんかなかったってのもあって。で、退院もできないと思ったけど、もう奇跡的に復活したんやね、あれ。ほんとに奇跡でしたよね。もうかなりほんまに敗血症になってたし、腎機能も悪かったし、「もうあかんやろうな」と思ってたけど、もうほんまに。あれどれぐらい入院してたんですかね?

田中:結局、うーんと、9月の20日に、えーとね、けっこう頻回に(01:38:52)あれやってて、その敗血症の治療をしますっていう話で。その次は9月の13日に「感染症はコントロールされており、尿量は多いけれども腎機能も正常。週始めから胃瘻からの経管栄養を開始している」と、「人工呼吸器は在宅のものに変更し、特にトラブルない」っていうことで、退院ができそうな感じが2週間後。だから敗血症これ治ったんやね、たぶんね。で、胃瘻からの注入始めたっていう状況で。で最終もう1回9月の20日にカンファレンスしてて、「覚醒度の良いときは開眼し文字盤取れるけれども、悪いときは眼球が右上方に偏移(01:39:41)しており、瞼がぴくつかせる」。だからてんかん発作起こしてるねんね、これたぶん。でもまあそれくらいのコミュニケーションが取れるようになってきてる。

西田:文字盤は、でも先生取られへんから、○×文字盤ね。

田中:○×文字盤ね。[01:39:53]

西田:○×文字盤だから、結果的に、まあヘルパーさんは、今までずっと介助に入ってくれてた人は、もちろんそれ取れてると思ってたけれども、もうほん…、客観的に見ると、ほんとにそれが取れてるのか取れてないのかっていう判断はやっぱり難しい状況ではあったかな。

田中:うん、難しい。

西田:でもそれでもやっぱりこう、今までヘルパーさんはずーっと、文字盤にこだわってけっこう厳しく言われてるから、絶対文字盤を離そうとせずに。でもまわりから看護師さんたちは、「誘導してるんじゃないか」とか、なんかまあ目の動きでこの文字を、50音文字盤を取ろうとはしてるけど、文字になってないでしょ。それはなんか「ヘルパーさんたちの物語じゃないか」とか。○×文字盤で「寒いですか?」「暑いですか?」「足痛いですか?」「×(ばつ)」とか言ってたら直してくれててね。あの、入院中入ってくれてたの。それもちょっと「はあ?」みたいな感じの、なんか「この人たち大丈夫ですか?」みたいな感じだったけれども。まあでもわかんないね、どのレベルの発信かまああったけども、その意思表示がどこまでできてたかっていうのはちょっとわかんない状況で。でもそれでも退院できるような状況になってきたときに、やっぱりいろんな意見があって。もう転移してるから、あの、ちょっとけっこう厳しいでしょ。だから厳しい状況でいつまで、うーんと、まあ家で在宅で看取りをするっていう話になってくるから、それがヘルパーさんとかでやれるのかっていう。だって本人は呼吸器もついてる。で、意思表示がなおかつない人の在宅の看取りなんて、私も全然経験ないし、先生も経験ないし。で訪問看護師さんからも、「いやそれはちょっと、やっぱりあまりにもちょっと厳しいっていうか、そういう状況の中では厳しいんじゃないか」って言われて。
 でもなんかカンファレンスのときにすごい覚えているのが、また田中先生が熱くなって、熱いって言ったら失礼なんですけど(笑)、「僕は杉江さんと『在宅で生きたい、死にたい』っていうことをずっと」…、まあ「家で」っていうことに対してのすごいこだわりがあった人で、だから。あ、誰が…、訪看さんにたぶん、「誰が責任を持つんですか?」って、「こういう本人が発信できない状況で家で看取るっていうのは」って言ったら、「責任問題になるんだったらもう自分が責任とる」と。うん。「だから杉江さんは家で看取りのほうに移行したい」っていう、みたいなことを、「在宅移行する」って言って。で、私もそのときに、「そうかー、そうきたか」(笑)。でももう、まあそれはもうね、ある意味もう、流れ的にそう、そう。「ここで病院で亡くなるっていうのも、ちょっとそれは違うよな」と思って。でヘルパーさんたちと訪看さんたちと在宅で生活していく、呼吸器つけてっていうような調整を、また違うかたちでの再構築をしたんよね。で、けっこうでも、こんな言い方したら失礼だけれども、それまではやっぱり本人の発信があったから、それでもう、

田中:しんどかった。

西田:こだわりがあって「絶対これは嫌だ」とか云々。でもそれがもう発信がないから、言ったらヘルパーさん側の主導権というか主体にやっぱり生活が回っていくから、まわりの人にとったらよ…、まわりの人にとったら、そんなにそこまでしんどくはなかったと思います。

田中:ぐっと、ぐっと楽になった。医療的なニーズは高なってるけどね。

西田:で、医療的なことに関しては訪問看護師さんが何か所か入ってたんやけど、そこの何か所の中でも、えーと、何か所入ってんの? 3つか2つ入ってたんやけど、

田中:3つかな。

西田:その訪看さんの中でも、まあ訪看さんもそれまで入ってたけど、いろいろ数か所入ると、言われることがばらばらで本人さん困ったりとかっていうのもあったんだけど、その中で代表者を決めて、その代表者と私が話して、で、ヘルパーさんに私が伝えるみたいな感じの、なんかそういう組織図じゃないけど、そういう情報の共有の仕方っていう流れを作って。で、医療的なケアの手順とかは私が担当して。で、ちょうどそのときにヘルパーの痰吸引が可能になった年やったから、三号研修とかまあそういう統合研修とか受けてもらって、で、痰吸引の手続き、三号研修の手続きしながら、研修のなんか、で見ながらっていうのをやってて。でもやっぱりIVH(アイブイエイチ)っていうか中心静脈…、あの、胃瘻からの注入ができへひんくなったりとか、なんかけっこう医療的な管理が濃厚やって。
 で、あれやんね、先生。血糖も高かったりして。あれはIVHが入ってたからかな。血糖、インシュリンかな、なんかしてたような気が…、してなかったか。なんかね、けっこう点滴管理とかいろいろあったん、[01:45:08]

田中:うん。いっぱいあったあった。

西田:輸液ポンプもつけてたし、呼吸器もついてるでしょ。まさに、ぱっと見たらもう病院のような。でもね、なんかヘルパーさんもそんな、だからといって怖がってるとかじゃなくって。むしろなんかそれまで入ってくれてたヘルパーさんで、呼吸器にすごい詳しくなる人もいて、手順とか読んで。でまあ医療者の人が気づかないような呼吸器のまあ、なんかちょっとトラブルじゃないけどなんかこうそういう、音とか勘で分かるんですよ。「脈が高くなってるからこれはちょっとこういう状況じゃないか」とか素人なりに、やっぱり体の変化っていうの、それまで介助入ったりしてるし、でまあ機器にも。そのヘルパーさんが呼吸器メーカーやすごい訪看さんに伝えて、なんか「こういうことが考えられるんじゃないか」とかっていう感じで、わりと連携はすごいとれてたような印象が私は、記憶にあります。落ち着いてましたよね。

田中:そやねん。10月の23に退院してきてんねん。そのあとはまあ医療的な管理がメインの状況ではあって。

ユ:10月ですか?

田中:10月。

ユ:2012年?

田中:2012年。で、そのあとはまあ今言ったように医療的な管理が中心な感じで。で、さっき言ったように○×の文字盤が取れたり、まあ取れなかったり。痙攣のコントロールみたいなんが中心で。で、もう12月、その12月の19日には、えーと、ここのほう、クリスマス会に参加して、

西田:ああ、そうそう。

田中:ほかのALSの患者さんの声かけに破顔してる、こう、笑ってる?

西田:泣いて、急にあのときに、

田中:急に泣いてね。

西田:うわー!言うて。いや、それまで、

田中:それまで、そうそう。それまで「わかっとんのか、わかってないのか」みたいな話になって。ある人は「わかってる、文字盤まで取れる」って言う人もいりゃあ、「ほんまにわかってんのか?」みたいな話があって。それでこうほんとに「意識レベルってどれぐらいなんかな?」って思っててんけど、このときに「かなりのことがわかってるんちゃうか、わかってるんじゃないか」ってカルテには書いてあるんやけど。確証なかったんやけど、「あ、かなりのことがわかってる」。で、「やっぱりしんどいから、取りたい人とのコミュニケーションはしっかり取ろうとするけれども、しんどいから取りたくない人には取ってないんちゃうか」みたいな話やって。

西田:で、このクリスマス会のときに先生が杉江さんに、「杉江さん、また飲みに行くか」って言ったら、その「飲みに行くか」っていうので、うわー!言うて。すごいなんか、わーんって泣いて、うわーって表情が出てもうびっくりして。あれ、みんななんかすごい、「あれ、杉江さんがすごい反応された」とかって言って。

ユ:もともとお酒が好きな人でした?

西田:ちょくちょくね、ヘルパーさんともめたときに先生、家にお酒飲みに行ってて。で、杉江さんちょっとなだめてあげたりとか、なんかそういうのをね、出口先生、リハビリの先生と一緒にちょっと行ったりとかっていうのもあったから。で、一番はじめデイケアで焼き肉パーティーとか、すき焼き…、あ、焼き肉パーティーとかね、デイケアのスタッフと。「肉食べてない」って「当分」って言うから、「肉食べよう、肉食べよう、会しよう」とか言って、みんなでスタッフの人らとやったりして、わりとそういう雰囲気だったから。なんかそこがすごく反応あったのが、みんなびっくりしましたよね。

田中:うん。で、あんときにまあまあ「わかってるんやな」とは言いつつも、やっぱりその癌のほうはだんだん大きくなって、肝臓に転移してたり、肝臓の転移のところが大きくなったりはしてて。で、これなんでこんな時間…、えーと、その次の年の2013年の2月に京大行ってんねやわ、相談しに。

西田:ああ、なんかね、たぶんね、

田中:なんで化学療法をすぐしようと言わんかったんやっけ?

西田:あ、あれはね、その後に退院をまあ、すぐしました。あんまりその退院の、転移のことについての話がもう一つなかったんで、先生としては「もう転移してるし」みたいな。退院直後はバタバタしてたし、でも杉江さんとの穏やかな生活をヘルパーさんとしてたら、また「このままでいいんかな?」とか思い始めて。「もしかしたら治せるんじゃないかな」って。でももうそれは無理っていうのは想像はしてたけど、なんかこう気持ちの中で、なんかこう割り切れなくて、[01:49:58]

田中:「やれることがないのか」っていう、

西田:やれること、「これ以上もうほんまにやれることってないんだろうか?」とか、なんかちょっとまあ心残りというか、なんかすっきりしないもやもや感もあり。うん、そんなのもあって。ほんで私が先生に、「先生、ちょっと癌の治療ってもうほんまに抗癌剤、ほかの治療って可能なものってないんですかね?」って言ったら、「ほんなら京大行ってみようか」って言って連れて行ってくれて。ほんなら京大の先生はほんまにすごくわりと親身に、冷静にお話してくれたね。「どれぐらいの大きさなのか」と、転移がね。で、「どこどこにあって」っていうのも。ほんで、「まったく可能性がないわけじゃない」って。「抗癌剤治療とかできないわけじゃない。でもしたあとの、もうこれだけの大きさになってるから、やっぱり体力っていうか体への負担っていうのがかなり。それによってもしかしたら亡くなるかもしれないし、けっこう本人にとっての苦痛っていうのがやっぱ大きいし、なんかそれでこう急変ていうかその可能性も」。なんかそんな話をけっこう丁寧にしてくれたんですよね。

田中:うん。基本的には、一番最初には肝転移が6ミリくらいやったんやけども、まあ12月の段階では48ミリまで大きくなってると。で、そのほかにも少なくとも3つの腫瘍があると。まあこの段階でも予後的には1週間単位で考える必要があるレベルやと。で、化学療法、その抗癌剤の治療としては、外来、入院、往診でできる可能性があると。ただ外来だったら2週間に1回、半日がかりで通院せなあかんので、現状を考えると通院へのストレスがかなりあって大変で難しかろうと。で、入院になると、在宅っていう生活やのにその治療のために入院して、その在宅の日…、まあ言うたら時間の問題になるから、その日にちを減らすことになって本末転倒ちゃうかっちゅう話になって。で、往診では、そういうティーエスワンっていう内服薬を注入する方法があるけれども、これも下痢や口内炎の副作用の可能性があり、選択することは疑問である、というふうに言った。で、えーと…、という状況かな。だからやれないことないけど、すべてのことに関してかなり本人さんにとってはしんどい状況だろうという判断で。それはもう「京大の判断としてはこうや」って、「やるんやったらやる」とは言ってくれはったんやけど。
 で、そのあと緩和ケアの専門医(01:53:00)先生に相談してんねんな。癌の終末医療をやってる先生のとこに相談、

西田:ああ、そうだそうだ。それ、そう言ってはったね、先生。

田中:うん。で、この結果はどうやったんやろうな? 確か、だから「やるんやったらやりますよ、最後は」っていうふうな返事が返ってきたんやなかったかな。
 それで2月の14日に、もう1回その癌のことに関してのカンファレンスをみんなでしてて。「そういうリスキーなことは(やらずに)(01:54:18)、できるだけ安楽にまあ在宅生活を行おう」と。で、「医療知識の乏しいヘルパーには細かい指示が必要である。ヘルパーの不安を払拭するために、医療サイドからの統一した意思表示が必要である。そのため医師、看護師間の連携が不可欠。安楽な医療管理を行う。IVH管理、中心静脈栄養での管理。麻薬の使用。鎮静剤の投与。えー、本人の希望することは積極的に行う。DVD鑑賞、外出等。舞鶴旅行企画中」。舞鶴、こんなときに。[01:55:06]

西田:舞鶴、行ったんですよ。退院してけっこう行ってます、いろんなところに行って。長見さんの提案でとかで。

田中:ああ。またこのときに週単位やけど、もうちょっとがんばったんやな。死後の看取りのこと。検体のこととか財産のこともここらへんで動いたよね。

西田:そうでうすね。退院後にヘルパーさんからお金の管理のことを確認されて。まあ本人が意思表示が難しいところで、どうやってお金の、ヘルパーが管理していくのかっていうので。それで1回弁護士さんに相談して。で、えっと、弁護士さ…、なんか通帳を分けて、生活費だけはそっちの通帳に入れて、ヘルパーさん使えるようにしてて。ちょっと記録を見ないと確実に思い出されへんねんけど。で、間に入ってもらって、そこから生活費、要る必要なものとかは。で、大きな、なんかたとえばお布団とかそういうちょっとしたもの、1万円以上のものは私に1回言って、私から娘さんに確認して、ほんでオッケーやったら購入しましょう、っていうかたちになったのかな。
■増田


田中:で、3月4日に舞鶴旅行いってるねん。あれ? ちゃうよな。あの、うん? あれ俺行ったやつじゃないよな?

西田:先生、あのときにいましたか?

田中:あれ、誰さんと行った?

西田:増田さん。

田中:増田さんと行ったの? それが旅行?

西田:舞鶴。

田中:あ、それやったら俺行ってるわ。

西田:え、行ってます?

田中:一緒に乗ってったんちゃうかな。

西田:ああ、そうですか。

田中:写真あるもん。

西田:増田さんと一緒に、

田中:ああ、あのときに。もうそのあとかいな。もっと俺元気なときの旅行やと思ってた(笑)。

西田:それまでもちょくちょく行ったんですけど、たぶん舞鶴はそれぐらいの時期だったんですね、もうね。なんかもう、茶山で食事会したり、なんかいろいろとやってたから。

ユ:この時期はヘルパーさんがけっこういました?

西田:いました、いました。(笑) それはもう、まあ申し訳ないけど、ねえ、杉江さんは「だめ」とかっていうのはないので。うーん。でも私はちょっとやっぱりしんどかったかもしれない。なんでかというと、外出するときにも一応、すぐにはヘルパーさん外出できないから、なんかその呼吸器のことだったりとか、外出の準備も一定の時間があるし、それを指導してあげないといけないんやけど。介護事業所としてはやっぱりいろんな人に伝えてあげてほしいから。一緒に行った人が次の日一緒に行けるってわけじゃないし。とかまあいろんな人にいろんなことを伝えなければいけないことで、わりともう帰ってきたらへとへとで。なんかあの(笑)、やっぱり外出と介助入ったりとか、なんかそういうのと、こっちの仕事と、とかっていうのはしんどかった記憶が。でもみんなは喜んでた。もう、「あの怖い杉江さんとどっか一緒に行ける日が、こんな日があるなんて」みたいな感じ。だから楽しいよね。怒られないしさ。いろいろ車でどっか行けたりっていうの。

田中:あれ? 娘さん来はったんが、あれ何の会のとき? クリスマスか。

西田:あれは誕生日会です。杉江さんの誕生日会、9月の7日。

田中:9月の7日に誕生日会をしてるんやね。

西田:それを茶山でして、そのときにお孫さんと一緒に来てくれて。

田中:最後だろういうことで。

西田:うん。ちょっと状態的にもかなりもう末期やったんですよ。

田中:そうやね。もう黄疸とか出てるような、

西田:黄疸が出てたしね。

田中:で、9月の7日に誕生日会やって、結局、

西田:9月の7日。だから「移乗ができるかな」って。動いたらすごい脈が。心臓に水が溜まっ…、胸に胸水がけっこう溜まってったっていうのもあったよね、先生。だからすぐ脈が上がって。[02:00:02]

田中:で、結局最終的には、10月の9日かな。だから、それから1か月かなって感じやったかな。

ユ:最後の外出は茶山?

西田:茶山、うん。あの茶山の誕生日会だったと思う。

田中:ああそうか。癌になってから舞鶴行ったんやな。

西田:そうですそうです。もう本人さんはあんまり、あれやったかもね。

田中:うん、だから、なんやろ、後半、癌やってわかって手術してあたりからは、どっちかっていうとその自立とか云々とかいうことよりもその、なんか緩和的に。で逆にヘルパーさんとかも、まあ杉江さんも発信しいへんからそんなにあれやし、ヘルパーさんとのトラブルもなくて、むしろその医療的な管理がすごくこういろいろ出てきたので、そっちの不安が多かったと思うわ、ヘルパーさんのほうもそうやし。それ、だから、ただそっちのほうがまだ、ヘルパーさんはストレスとしては楽で。で、ちょっとびっくりしたのは、実際最後の最後のときが、まあそうは言うてたんやけどね、止まりかけたら、「心臓止まりかけたら連絡してくれ」とは言うてたんやけど。ちょうど、えーと、11時50分にヘルパーさんから連絡があって、「脈が落ちてきてる」と、10月の9日の日に。で、60台になって30台になってきたっていうことで、僕がそのあとすぐ行って、心電図をかついで行って、心停止を確認したのが12時2分なんやけど。言うたらそのぎりぎりまでヘルパーさんが僕に連絡せずに、ずーっと見守ってた。怖いじゃないですか、いつ死ぬかわかれへん、いつ止まるかわかれへん。だから僕はもっと想定としては、ばたばたするんだろうなと。「先生どうしたらいいんですか、こうしたらいいんですか」、訪看さんばんばん言われる。だけどヘルパーさんがずーっとこう、そのときのヘルパーさんがそういうこうよくわかってるというか、こうね、気持ちのすわってる人やったんかもしれんけど、もうぎりぎりのところまで僕らに連絡せずに。それでほんとにもう、「ああ、もうだめだな」っていうときに連絡をくれて、そのまま亡くなっていったっていうところで。ヘルパーさんがすごい強くなったなって思って。

西田:びっくりしました。

田中:もっとなんか慌てふためいて大騒ぎっていうふうな死になるのかなって思ったけど、もう比較的みなさん強く、気丈にみてたかな。で、それがたぶんその後半戦の、その間(かん)のまあ、痙攣起こしたとか、こう血がまた出たとか、そういうようなところでやり取りとかで、まあ言うたら鍛えられたっちゅうのか強くなった。で、今、そうやったら同じような状況でそういうのがヘルパーさんできるか言うたら、かなり難しいように思う。
 っていうのはさっきもちょっと、話またずれるねんけど、在宅、難病患者さんの医療的ニーズが非常に高い人の在宅療養は今しやすくはなって、事業所とかが手を挙げたり、制度的には、になってるけど、逆に言うと、こんなコアなヘルパー事業所がそうやったらそろってるかっていうたら、うん。言うたら普通にヘルパー業務やってて、それの延長線上で重度訪問介護やってる。人工呼吸器も見たことないわ、カフアシストも何? みたいな。なので、うーんと、そのあともね、在宅で看取った人何人かいるんやけども、その独居の状況でヘルパーさんで、もっとどたばたする。だから、うーん、まあ鍛えられたというのか、そういう意味では杉江さんは残したことは大きい、多いんやろなと思う。大変やったけどね。

ユ:そのときのヘルパーさんは1人でした? 亡くなった、

西田:いや。あれ誰だったんだろう? 伊藤さんじゃないのかなと思ったけど。

田中:伊藤さんやったかもしれへん。うん。

西田:ねえ。伊藤さんかなと思ったんですけど。

田中:うん、伊藤さんやったような気がするな。

西田:まあ1人ではないよ。2人体制ではずっともう、常に2人体制やったから。もう1人たぶん、誰か若い研修生みたいな人が。[02:05:10]

田中:うん。伊藤さんやったような気がするな、たぶん。

西田:全体的に、だからその華さんっていう中国からの留学の子とかもすごい。張さんもすごい。もう落ち着いてた、みんな。呼吸器つけて点滴入ってて、輸液ポンプみたいなんしててっていうのも。もうなんかそれまでもすごく過酷やったし、いろいろ本人とのやりとりもあったから。でもなんか体に慣れてるのか、杉江さんに慣れてるのか、肝がすわってたし、なんかちょっと落ち着いてたね。杉江さんと共同体のような感じだった。孤独死じゃないですよ。全然。

田中:最後はね。

西田:ちょっとした新人の看護師さより落ち着いて判断ができるっていうか。

田中:ああ、そう、全然全然。報告も適切やったし。

西田:適切。うん、タイミングとかもなんかわかったって、すごい、

田中:だからほんとになんて言うか、前半のそのうわーっていうときは、それこそこう、ねえ、旅行に行くなんていう話…、最初はちょこっとやってたよ、その在宅をスタートしたとき。なんか大学に講義に行ったり、

西田:講義に行ったり、佛教大に行って、で、そのあと花園大も行って、JCILの講義も定期的に医療的ケアのところ担当して意見を言ったりって。もうあれよあれよという間にヘルパーさん、外出できるヘルパーさんがもう限られて。ほんでその人の負担、ケアできる人の特定の人に負担がいっちゃって、で、その人が潰れていってっていうのを2人経験して。で、もうがたがた。でもそのときはほんとに大変、大変っていうか。まあね、あんなに私もALSの人が、まあALSの人によっても違うんかもしれんけど、あんなにこの硬直、痙攣?

田中:筋痙攣。

西田:筋痙攣があんなに強いんだなって。ほんでいつも「痛い痛い」って言ってたから。でもわりとあれでしょう、先生、だらだらになる、だらだらにっていうか体が、

田中:弛緩性ね。

西田:弛緩性の人もいるのね、ALSの人でもね、運動ニューロンのどっちに***(02:07:34)か、

田中:下位運動ニューロン、

西田:下位運動ニューロンの人はわりと弛緩的になるから、そこまで大変感が、難しくもないんやけど、中にやっぱり上位運動ニューロンの人が、

田中:上位が中心の人は、

西田:もう体がかちかちで。もう何て言うんかな、それでなくても痛いから直してほしいのに、思うように伝わらないから違うように直されたり、らよけいに腹が立つねん。されることが痛いから。だからもう痛い、介助イコール苦痛でしかないから、その人を見たらもう痙攣が出るようになってたこともあった。

田中:だから精神的なストレスでそういう筋痙攣って、筋緊張っていうのは上がるので。僕らでもそうですやん、緊張してぐっと座ってたらこう肩凝ってくるのと同じように。だからそういうストレスが原因で筋痙攣がひどくなって痛くて、痛いから「もうこの人嫌や」みたいな話になって、もうずーっとこう悪循環。で、お薬入れると眠くなるし。

西田:でまた文字盤取られへん、目がうつろになるし。また介助が、

田中:そう、ほんだらまたキーッてなるし、みたいな、もうずーっと、もう。

西田:うーん。で、やっぱり一つの機能が、たとえば足が動かなくなるとか、なんか手が動かない、やっぱり機能が落ちる直前っていうのはすごい介助が荒れる。何でかって言ったら、やっぱり本人も動かないから違和感感じるから、そこの介助がすっごい微調整が必要になってきて、それで「違う」や「合ってる」や「違う」やって言いながら、まあ一つ機能が動かなくなったら、ちょっと若干落ち着く、ヘルパーさんとの在宅が。でもまた進行性やから違うところが動かなくなるっていう感じで。なんかそんな感じのがずっとくり返されてたような気がせんでもない。でまあね、だからあの中でやっぱりすべて本人がヘルパーさんに指示出しをして、「こうして、ああして」っていう生活が、あの時期にできたかって言ったら、たぶんけっこうやっぱ厳しい。他人介助で24時間っていうのはしんどかったやろうなって。で、特に2年目の気切後はわりと私も文献とかを読んでて、気切をした直後はちょっと異物が入ることによる唾液が増えたりとかちょっと揺れるけれども、わりと気切すると落ち着くというか、体自体もね、っていうふうに思ってな、「まあ長期戦になるんやったら、現場と距離を置くのはタイミング的に今だろう」みたいな感じで少し離れた時期があったけど、やっぱりあかんかって。やっぱり戻ると、それなりにまあまあ落ち着いたりとかあるから。[02:10:11]。距離感が難しかった。

田中:あの時期ね、言うたらここにデイケアで来て、まあデイケアでしか診てない時期で、訪問診療もほかのところ、訪看さんもほかのところっていってやってるときがやっぱりしんどかったんやろな、きっとな、あれ。

西田:だから、これほんとやったら家族とかもそうやと思うねんね。たぶん、ほんとやったら家族が調整して、いろんなヘルパーさんとかのケアとか、看護師さんに言われることを家族が聞いて。で、それを、そのケアをまたヘルパーさんに伝えてとか、家族の人ってたぶんいろいろな調整をしながら介護も担ってて。意思伝達装置とか、そういうコミュニケーション支援やったりって、もうすごい、たぶんやることがいっぱいあって。だからやっぱり介護負担かかるから、「その代わりにヘルパーさんを」ってなるけれども、ただたんにそのヘルパー、介助っていうことだけじゃなくっていろんな人が入るから、そのいろんな人が入ることの、経験年数も差があるし、慣れも相性もあるし、そこらへんの調整をする人がやっぱりいないと、やっぱりけっこう独居難しいかなって。だからたぶん家族がいても、家族の代わりにそういう人が、本来やったらいたほうがいんだろうなって思うけど。
 じゃあその人がまあまあ、前、誰やったかな、大学院の中でも話(はなし)したけど、「じゃあどういう人が適切なのか」って言うてたら、ある人は制度、「制度的に、そういうこうお金を払って来てもらえる人が一番いいだろう」っていうかたちで、まあ平等にね。やっぱりそういう関係がないと、その人の家が在宅ができないっていうふうになってくると、それもやっぱり差が生じるじゃない。でもやっぱりヘルパーさんもそうなんだけど、まあ制度としてないよりは絶対あったほうがいいし、必要だと思うんやけど、まったく隣(となり)…、全然知らない人が突然やって来て、その人の生活を調整するコーディネーターです、みたいなんでやって来て、できるかって言ったらちょっとそれも難しいかなって。だからその小泉さんが私に調整を、入ってほしいって言ったのは、その理由は、やっぱり入ってるからこそまわりの人に伝えられたりとか、調整役として動けることもあるっていうことをおっしゃってて。そのときはわからへんかったけど、まあ実際やってみてあとで振り返ると、そうだなって。だから、誰でもできるかって言ったら、関係性もあって、ちょっともしかしたら難しいんかなって。

田中:難しいやろうね。信頼が…、やっぱり本人の信頼がないとうまくいかないので、おそらく西田さんがいなかったら、もうとうの段階でもう病院って話になってた。もう崩壊してしもて、入院で、最後終身の病院、双ヶ岡とかに入ってそこで亡くなってたと思うわ、もっともっと早い段階で。だから、

西田:だからなんか介助、ヘルパーさんもそうなんだけど、普通に介助としては、あの、介護はできるんよ。

田中:できる、うん、うん。

西田:でも、やっぱりでも、先生がそのあとほかのALSの患者さん診て、ヘルパーさんが介護事業所が増えたからといって、っていうところではやっぱりね、なんか私もそれが正解なのかっていうのが…、パーソナルで入ることの、なんかその、うーん、関係性だったり、介助のしやすさっていうのもあるのかなって。まあたとえば東京だったら岡部さんとか、増田さんとかも一部パーソナルアシスタントみたいなかたちにしてるから、だから特定のその人の介助に入っても、もうもちろん合わなかったら全然その現場やめていかざるをえないけれども、なんかこうわりきって、「お仕事でやって来ました」みたいな感じでヘルパーさんが介助するのって、まあできるのっていうのはちょっと難しいときもある。

田中:だから分けなあかんかもしれんね。特にそのテクニカルなことに関しては、まあもちろんできるヘルパーさんとかいるけれども、そういうこう、まあ本人さんがほんとに何を思って、それが家族さんが代行できるんやったらいいんやけど、家族さんも制度わからへんし、どうしたらいいのかわからへんっていうときに、やっぱりそういう援助ができる人がいて調整するっていうのはやっぱり必要なんやろね。よっぽど本人がしっかりしてて最期まで、ってんやったらできるんやけど。

ユ:うん、そうですね。[02:15:08]

西田:なかなかね、やっぱりどこのお一人暮らしの人も必ずやっぱり、今一人暮らしでALSの人も、誰かがやっぱりかなめになる人っていうのがいて、その人がいろんなこと調整しながら少し入ってっていうのをやってるから、たぶんそういうかたちのほうが望ましいんだろうなって、

田中:そうやね。

西田:それだけじゃなくって、やっぱり杉江さんのところで感じたのは、サービス提供者との関係だけになって、ヘルパーさんや訪看さん。なんかね、全然一般の人と、閉鎖的になる。関りがなくなる、社会の。最初は外に出向いていったりとか、いろいろ関わりがあって、同志社の子が来てくれてとか、いろいろ入ってたんやけど、すごいこう在宅生活が悪化すると、そういう人、まわりの人たちも寄ってこなくなっちゃうのね。だから余計にヘルパーさんとの本人だけの閉鎖的な生活になってしまって、それがかえってまた悪循環になるっていうか、なんかこう近寄りがたい…、「近寄らない」みたいな感じの、もう(笑)。「あそこ行ったらなんかすごい、いつもいろいろ揉めてるから、もう、ちょっと雰囲気的に」みたいになってくると、ほんまに孤立化しちゃうのかなって。おせっかいいでもいいからなんかこう家の中に入ってきてくれる人がいたりとか、まったく介助と関係ない人を外に作って、なんかこう思いっきりヘルパーさんの悪口でも愚痴でも言えるような相手がいないとちょっとしんどいだろうなって思って。ヘルパーさんはほら外行ったらさ、いろんな人に「この人ね」って、まあ守秘義務で言ったらあかんとはいえ、言えるじゃないですか、吐ける場所。でもやっぱりね、杉江さんの生活見てたら、吐けるところがなかった。
田中:うん。

西田:うん。あの、言える人がいないっていうか。だからそういうの、文字盤で聞かざるをえなかったっていうところもあったけど、やっぱりそれはしんどかったやろうなって思うかな。だから、なんかそういう関係があるような人がいてくれることっていうのはすごいこう、その、中の人にとってもすごいいいやろうし、本人さんにとってもいいんじゃないかな、とかって思ったりもするけど。ねえ。

田中:うん。僕はでもそのほんとに、まあちょっと話がまた変わるんやけど、さっきの途中で出てくるその中央病院の外科の先生とかもそうなんやけど、やっぱり最初杉江さん診るまでは、まあ基本的には神経難病で、本人の意思に沿った、まあ言うたら生活っていうか、そういう医療を支えるとは言ってるものの、やっぱりこう手足動かない、しゃべれない、コミュニケーションも取れない、それで在宅独居の状態で、「それで生きていく意味ってどうなんねやろな」ってやっぱり思ってたし、癌が見つかったときにも「よかったね」って思ってたし。で、それがたぶん、普通の医者はそうやと思う。特に神経内科じゃなくて、そういう神経難病もいてない医者になんかしてみれば、「もう手足も動かんくて、自分でしゃべれへんくて、自分でごはん食べれへんくて、自分で息もできひん人が生きてくっていうの、どういうことなんや?」って思ってるやろうし。で、中には人工呼吸器つけて生きていきたいっていう人がいるの、「それはもう本人の自由やからやったらいいよ。でも僕は嫌やわ」って思ってる医者が大半やと思うねんね。で僕もまあそこまではいかへんけれども、やっぱり「死ぬ」っていうことを前提に、「どうせ死ぬんやから、そこまでどう生きるんか」っていうくらいしかやっぱり思ってなかったのが事実で。でもその、こんだけのことをやっぱりこう見ていくうちに、やっぱり誰かがこう生を肯定してあげないと、生きることすら選べないというのは、やっぱり杉江さんから勉強させてもらった。いろいろこう、スムーズにいってないで。胃癌のときだって、見つかったときにすぐ切りにも行ってないし、化学療法だって、もっと早い段階で化学療法もうちょっとやってたらよかったかもしれへんし。一時期タッチしてる、その訪問診療をほかのとこにお願いしてたり、とかいうて、いろいろこうスムーズにいってないんやけども、うーんと、そのスムーズにいってないことで、「あ、それってこっちの迷いで、いや、でもでも」って思ってこう修正していってるっていうか、あれしてきた道は紆余曲折あったんやけど、結局やっぱり本人が在宅で生きてくっていうことやって。まあそこをこうすごい回り道して遠回りしたんやけれども、やってきた経験があるから、今は迷いなくやれるねん。まあ「生きる」っていう人にやで。「家で生きていきたい」っていう人に対しては、「それやったらこうしよう、それやったらこうしよう、そのときはこうする」って。だから今はあんまりその迷いがない。だからそれはやっぱり杉江さんを、

ユ:経験、

田中:うん、診たからだと思う。まわりの医者びっくりするけどね、「え?」って(笑)。「え?」っていう感じで見るけど、「いや、でも先生そんなん気管切開して、人工呼吸器繋いで、胃瘻つくって、文字盤取れるようにして、それやったら生きていけるわけやし、自分の言いたいことも言えるわけやし」、っていうのはやっぱり杉江さんの経験したからかな。[02:21:44]

ユ:そうですね。うーん。

西田:でもまだまだまあ制度ができたって、あるとはいえ、やっぱりそこらへんの、ある意味なんか、何て言うんだろう、患者さんのその、それこそヘルパーさんにきちんと指示が出せたりとか、進行の時期もあるけども、そういうこう、まあ言い方はちょっと違うかもしれんけど、まあこの、できる人というか、わりとそういうところがヘルパーさんを使ってやっていける人じゃないとやっぱり継続が難しいっていうとこは。それが家族の介護力が複数…、1人だけじゃなくって、まだ若くって、何人も家族がいて、その中で関係性も良好でやっていける介護力がある家は別やけど、なかなか今その制度ができたからといって、みんなが平等にそういう生活を望めばできるって続いていけるのかっていうと、まあちょっと難しい、厳しい人もいたりもするけれども。

田中:ほんと、潰れていってはる人もまわり見たらいるしね。

西田:うん、実際にね、そういう人たちもけっこういたりもするけれども。でもまあだからと言って、その人たちの生き方っていうのは否定できないし、それでも「そこをどうするか」っていうのがまわりの人たちのね、やることやからさ。まあ諦めたらあかんのやろうなって、まわりが諦めたらあかんのやろうなっていうのは思ったりもするけど。

ユ:うーん、そうですね。

田中:ほか長谷川さんの質問とか、まだある?

ユ:長谷川さんはだいたい終わっていて、本人の自己決定のことを。自立生活や自己決定と言いながらも、杉江さん自身がそれをできずに、あるいは杉江さんの言う通りにする生活がうまく立ちいかなかったことがたくさんあったんですけど、そのときの求めていくことについてどう思うか?

西田:ん? 本人の自己決定を求めていくことについて。自立生活や自己決定と言いながらも、杉江さん自身がそれをできず、あるいは杉江さんの言う通りにすると生活がうまくいかないということもたくさんあった、っていうことだよね。だから、本人に自己決定を求める、そのことに対してどう思うかっていうことよね。[02:25:01]

ユ:そうですね。

田中:さっきのその西田さんが言ったのとおんなじなんちゃうかな? 自己決定、最初のそれこそJCILじゃないけど、最初僕、ちょっと西田さんとさっきの話というか違って、えーと、手足論、「ヘルパーは手足である」、JCIL、なんかもう最初に僕会ったときに、「こいつらなんや」と思ったんやね。「手足であればいい、文句を言うな、ずっと左向いてたら左向いとけ」っていうような事業所だったので。で、もともとね、脳性麻痺の人のそれこそ生活っていうか、社会的立場を自立してた事業所なので、「なんじゃこいつら」って僕は思ってて。「いやいや、そこは言うたら、本人さんが言うけれども」、まあ医療ってそうじゃないですか、本人さんは「こうしたい」って言うけど、「いやいや、それは10個ある選択肢のうちで、上から4番目やで」と、「そやったらやっぱり一番上のこういうことがあるよ」って僕らは言って、その選択をまあしてもらう。1なのか2なのか3なのか4なのか10なのかっていうのを選択してもらうっていうのが常に仕事なので、本人さんの言いなりになるっていうことはほぼないのね。最終的に、いろんなことを提示して、「絶対これや」って本人さんが言うことに関してはそれは認めるし、やるんやけど、だけどその、立場的にその、JCILみたいな介護の立場、「自立支援を」っていうところはすべて本人さんの言うことを守っていこうとしてるから、すごく僕は違和感があって。で、でも最終的にJCILも今もうすごい変わってるんやけども、もうこの数年のあいだにやっぱり、そういう「本人は言うんやけど」、基本的にはまあ本人の言ったことをそのままやるっていうことではあるんやけども、その中で自分らでまあ何かこう葛藤してる感じはするけどね(笑)。段原さんとかすごい葛藤してる気はするんやけど。やっぱりそれやったら「何がいいんやろう?」って自分自身の中で考えて、それで「どう?」って患者さんに提示して、まあ障害者の人に提示して、で「だったらどれ選ぼ」っていうことをするようになってきてると思うので。僕はそれが自立じゃないとは思えへんねん。知識がないだけで、情報量がないだけで、選択肢がないだけで。で、選択肢を与えてあげたときに初めて「そうやったらこれを選ぶ」っていうのは、自立なんじゃないかなと思うんやけどね。それははたから見ると誘導してるみたいになるんだけれども、うん、それをできる限り、何て言うんかな、こう冷静にというのか、そういう自分の価値観をそこに入れずに提示してそれを選んでもらうっていうのは自立じゃないかなと思う。

西田:なんかたぶんその、障害者の自立生活とか手足論もすごいいろんな、たぶんJCILの人 のほうがわかってると思うんやけど、「手足じゃない」っていうところはねそれやけど一部の、その理論を肯定する人の中では、 自分の体が生まれながらの障害で固定された障害で、自分がどうすれば一番心地よいのかっていうのが自分が知ってるから。だからヘルパーさんにもその指示ができるし、やってもらえるから、それはある意味そういうかたちでの自立生活だったりでも、ALSの病気って、やっぱり自分の、ほら進行していったらさ、自分でも自分の体がどうなってて、どうやったら心地いいのかっていうのがわかんない。初めてされることによって、「あ、それがこういいんやな」っていうの分かるときあると思う。でも明日になったらまたそれが変わってたりすると、体つかめないから、それで「どうするんですか? ここは」っていうふうに自己決定、介助による介助の中での自己決定を求められても、それはけっこうなんか難しいように思うし。前、なんか会議のときに、杉江さんが、「もう追い詰めないでほしい」って言ってたときがあって。「介護は理論じゃない」いうて、なんか私は名言やなと思って(笑)、なんかね、そんなことを言ってはったんやけど。
 それとかあと医療における自己決定は、それこそほんとに情報がなかったり、まあ生活の制度もそうだけど、まったくない中で本人に「決めろ」って言われても、これは自己決定とは言えないし、ねえ。それはなんかこう、私たちもたとえば人生でいろんな決定をしていってるときに、まったく一人で決めてるかっていったらそうじゃないと思うんで、いろんな人との関わりの中で関係性持ったりとかも含めて、そういう中で将来の、今後の人生選択とかもたくさんしていってると思うんよね。その関係性もときに問題になると思うけど。だから、たぶん障害者の自立生活の自己決定の背景にはその、けっこう重要なというか、で、そこはすごい、障害者のことわかんないけど、やっぱり医療からの抑圧とか、そういうちょっとかなりひどい、

田中:うん、うん、確かに、

西田:府中のね病院でされてきたこととかも、自分たちがそれこそ何も決定できない状況下の中で強いられてきた歴史っていうのがあるから、社会的な差別とかもあり。その中でたぶん出てきたことだと思うので、それはその人たちの。だから、ALSの生活とか意思決定というのを同じようにはやっぱり言えないんだろうなっていうのは思ったりもするけど。[02:30:59]

ユ:はい。あと2つなんですけど。たぶんさっきのインタビューの中でけっこう出てる話なんですけど、現在ALSや難病患者への支援するときのこれからの課題は何だと、医者としてどう思うかを聞きたいなと思ってます。

田中:うーん。まあぶっちゃけの話いくとね、ほんまに困った人ばんばん紹介してくるんだわ。それこそ京都市内一円っていうか(笑)。で、それはそれなりにやっぱり訪問の先生がついてたり、病院の主治医の先生がついてたりして、医療的なものだけであればおそらくそこらへんでも診れるはずなのね。ところがさっき言ったように、やっぱり神経難病やっていう話で、そこへ対しての理解がやっぱりこう医者側が乏しいがために、「もうこんなもんやろ」って思ってる先生がけっこうやっぱりいはって。せやからたとえばその、病院のね、たとえば大学病院の先生であるとか、あるいは市中の基幹病院の、ばんばん救急で患者さんとってるような先生に、在宅のこととか生活のことを考えろとは言わないんだけど、それは立場が違うからね。ただチャンネルとして、「もしそういう人がいるんやったら、こういうところに行ったらいい、ああいうところへ行ったらいい」っていう頭は持ってといてほしいし、ただたんに、たとえば「それやったら、山科にいるからこの先生に頼んだらいいわ」じゃなくて、「この病気でこういうことなんやったら、そやったらこの先生に頼もか」っていうような頭を持っててほしいのが一つと。もしその在宅でそういう人を支えようとするんやったら、やっぱりせめてその病気に関しての勉強っていうんかな、訪問診療の先生いっぱい出てきてるので、それこそ外科の先生まで訪問診療でやってるような時代なんでね。まあ変な話、儲かるので、やってるような先生。そういうような外科の先生で、今まで内科疾患診たことないような先生が訪問主治医でALS診ようったって、そら難しい。ついついこの前紹介された患者さんなんかは、家族さんのほうがインターネットでいろいろ調べるのよ。「だったらこれはどう? あれはどう?」っていうふうに、たとえば「気道食道の分離術はどう?」とか聞いたって、その先生が知らないのね。「はあ?」みたいな。で、「はあ?」でよくて、それを「は?」ってそのとき答えられへんかったら、せめてそこで調べて次のときに、「いや、あれはこうみたいやで」っていうふうなことをしてけばいいんやけど、もうずっとそのまま置きっぱで。で、そのベースには「もう神経難病やねんからええやろ」みたいなのがあるので。で、やっぱりそれは医者の側の問題やなとは思う。だからもうちょっとやっぱり神経難病に関しての理解を持ってる先生が増えてほしいなと思うし。うん。やっぱりその先に行くと、まあそういう神経難病を持ちながらでも生きてくっていうことまで考えてくれるような人が育ってきてくれるといいかな、と思うかな。[02:34:47]

ユ:はい。うん、これでいいと思います。最後の質問が、難病患者への支援においての医者の役割や立ち位置についての話なので、さっきの話と繋がっていると思います。

田中:そうですね。まあ理想はね、どうにもにっちもさっちもいかなくて、杉江さんのときもちょっとそうやったんやけど、あの、杉江さんのときの西田さんの立ち位置っていう、もういまだに覚えてんねんけど、「私が生きてって言うから生きて」って、言ったな。

西田:私が「生きて」って言ったって、そうやったかな。

田中:「誰が何も言わんとこう、言おうが言わまいが、私が生きてほしいから生きて」って言って、杉江さんに言った。にっちもさっちもいかんときやで。にっちもさっちもいくって、ほかに誰かそれを支えるような人がいたらそれはそれでいいんやけど、杉江さんのときみたいに、もう誰も生を肯定しいへんような状況のときに、まあ支援者でありながら、家族でもないにもかかわらず、「私のために生きて」って言って、その人が生きてくっていうような選択を選ぶんやったら、僕はそういう医者になりたいと思う。「僕が言うんやから」、ほんまににっちのさっちもいかんときやで。だから冗談では言うもん、今でも、「僕が生きといてほしいから生きてえな」って言うよ、冗談ではね。でもほんとにほんとに困ったときにそういうことが言える医療者でありたいなとは思う。で、それはもう杉江さんで、この関係で勉強した一番の、

ユ:うん、そうですね。今日なんかいろいろ聞いてよかったなと思いました。自分なりに迷っていることとか、「あ、これは」、最初思って。たとえば増田さんのヘルパーに入っていたときとか、まわりの患者さんを見たときとか、韓国の人たちを見たときに、ずっと迷っている悩みみたいなことがあったんですけど、今日先生の立場で聞く内容がすごくよかったなと思いました。

田中:いや、でもね、

ユ:この機会があまり、なかなかないので。

田中:うん、まあまあ、ね。でも僕はもう、基本的には杉江さんと西田さんとの関係から勉強させてもろた。もうあれがなかったらいまだに、「そんなん、え、生きるの?」って思ってる(笑)、「こんなしんどいのに生きんの?」って思ってる医者やと思う。だから、

ユ:ありがとう。

田中:ありがとうございます。

西田:いえいえ。

ユ:今日はありがとうございました。

西田:ありがとうございました。

[02:37:53 音声2 終了]


[音声3開始]
田中:医療はもうずっとこう病院なんかにいると、「患者の気持ちになったらあかん、患者にそこまで入り込んだらあかん」っていうのを徹底的に言われたりして。そこまで「患者のために」思ってたら、病院で、「そこまで熱くなってどうすんねん、もっとクールに冷静に判断しろ」っていうものを、まあ言うたら身につけられる。でも西田さんがそれこそこう、「私のために生きて」って言ったのは、やっぱりこうショックはショックで。でも、うーん、逆に自分が患者さんの立場になったときには、「やっぱりそういう人に診てもらいたいな」って普通に思うやろなって思ったら、なんかこう今まで言われてきたことはそんなに真実ではなくて。

西田:なんか、私は今言ったんかな。だけど、その言葉はそんなきれいな感じじゃなくて、ちょっと悔しかった感じもあったかも「今までALSっていう病気と、立場は違えど、なんかいろいろありながらも戦ってきたのに、「あんた一人で逝くんかい」みたいな感じの。「みんないろんな人と一緒にここまでやってきたじゃん」っていう思いはあったかな。だから、なんかこうちょっとメルヘンっぽいような感じの言い方ではなかったようなだって癌は早期だったし治るから。「君に何がわかる」とか言われたりもしたけど。確かに分からない。

田中:(笑)

西田:なんかそんな感じもありながら、まあそういう言葉だったのかな(笑)。
 でも先生が言ってたように、医療者っていうのは病院の中で勤務してるときに、やっぱり患者さんのプライバシーには絶対入らないし、うん、入り込まない、感情移入しない人が、イコール「できる、仕事のできる人」みたいなイメージがあって。まあ一線をどこかで、患者さんとの距離を保ちながら私もやってきただけど、在宅の仕事をしたときに、やっぱりそういうのが難しいなと思った。その人の生活だったり人生の中に、仕事であってもやっぱり介入していくわけやから。やっぱり看護師だけど一人の人間やしさ、感情あるものやしさ。で、まったくそういうのがまったくなしでやり取りするのもなんかちょっと違うというか、在宅医療ではないような気がするし。
 だから自分、一人の人間としての立場を取らなあかんときが、考えたりとかそういうのがすごく多くなってくるから、病院の医療とはやっぱり在宅ってすごく違うなって思うのが、地域のことをしてて思った。

田中:そやね、だいぶん変わって、どんどん変わっていくからね。最初にやり始めた看護師さんは、やっぱりそういう病院的な感じで「ある一線引いて」っていうやけど。ね。長年訪問看護やってる人たちは、どんどんどんどんこう生活に入っていくよね。そうあるべきなんやろうなとは思うよね。

西田:どうなのかな。なんか「対、人」みたいな感じで。まあ介護の仕事もそういうところがあるのかもしれないけど、わりきって仕事っていうのもできそうでできないというか。まあ相手が人間やから、そこらへんは難しいんだろうなというのは思うかな。ね。

田中:対人援助やからね。人に対してやから、やっぱりそうあるべきなんやろうなとは思う。だからまあね、さっきから同じ話やけど、たぶん西田さんのスタンスと、たとえば癌になったときね、僕がほっとした、「死ぬ」。で、それがたぶん病院的な考え方なんやと思う。で、さっきからいろいろ仲間うちの医者の文句言ってるけど、その人たちはあくまで病院的な管理で言ったときに、「こうだろ、こうだろ」っていう話になってるけど、それと、やっぱり生活する場としての在宅っていうのとは、やっぱり随分まだ差があるので、そこをこう埋めていくような人たちが、さっき言ったように出てくるといいんだけどな。在宅のほんとの意味合いというのかな。[00:05:09]

西田: 「病気を診る」んじゃなくて、在宅ってなんか「人をみる」みたいな感じの。なんか「診る」っていうのは診察のね、「診」やけど。

田中:そうやね。

西田:人間を(00:05:24)診るのも変やけど、でもなんかその、病気だけじゃないのよ、なんかこう相手がというか。とにかく、病院医療とやっぱり違うだろうなっていうのは、うん、

田中:うん。だいぶん違うな。

ユ:病気だけじゃなくって、生活まで、

西田:その人の今までの生きてきたことや、これからの人生のことだったり、そういう人生のこと聞いたり、本人の生活の中で仕事をしていくから。病院とはまた全然そこらへんは違うかなって思うけど。

田中:うん。

ユ:そうですね。私もそう思いました。医療関係者ではないんですけど、ずっと感じたことなので。

西田:ね。うーん、なんかこう自分の人間性が問われるような場面が、ね、けっこう多いかな。

田中:うん、あるね。

西田:わりきって仕事できるようで、できないというか。だからでも最初のときはほんとに、私、看護師やけど臨床心理の勉強も一応してるから、患者さんとの距離感っていうのはけっこう学んでたから、患者さんの領域に入ることに対する、すごいわりと自分自身も「あかん」って思ってすごい気をつけて面はあった。だから最初はもう呼吸機能も、呼吸が悪化してるから、もうそういう状態でほんとに他人介護っていうのは難しかったから、けっこうぐっと入ったけど、やっぱりその何て言うかな、ちょっと距離をやっぱり置いて、その人の生活がその人がやっていけるようにっていうようなことを考えてたけど、それはなんか私が思う生活であって、実際目の前にある必要とされてる生活っていうのはそうじゃなかった。それで小泉さんから調整役の話を聞いたとき、「誰かがやっぱり調整役だったりサポートしながら、助け合いながらやっていってるんや」っていう話を聞いたときに、なんかなんかこう「あ、いいんやな」と思って。自分のなんかこう、その 感情とか、なんかそういうのも いいんだなって思ったから。
途中からはなんか体当たりした感じの、本人と向き合った数年間やったかな。それまでは、専門職の上から目線のところあったような気がする。 たぶんそういうのを見てきたから先生は、それにちょっと影響されてたのかもしれないけど、まあそれがいいのか悪いのかよくわからないです(笑)。

田中:まあでも、うーん、ほんとにそうなんだと思うんよね。やっぱり在宅ってそういうことなんだろうなと思うんで。いや、でもほんま、

西田:なんか病院の人たちにそれを求めてもやっぱり難しい。

田中:難しいね。

西田:うん、経験っていうか、実際目の前で患者さん、そういう人たちをみたことがなかったりとか、生活を見てないし関わってないから。うん。だからそういう状況の中で、地域からいる人がどんなことができるんだろうって思ったりもする。だから一つは、増田さんもそうやけど、ALSで人工呼吸器で散歩、甲谷さんもそうやけどね、呼吸器つけて増田さんがね、お見舞いに行ったり街中をうろうろうろうろしてるの、京大の先生すっごいびっくりして、衝撃的だったらしいですよ。というか、10年ちょっと前ぐらいは、まだそんなに京都の中で呼吸器つけて散歩うろうろうろうろしたり、うーんと、音楽聴きにいったりとか、夜の街にうろうろするような人なんてほんまにいなかったから。でもそういう人がいてくれることで、やっぱり社会とか、そういうこう、その生活を知らない人たちが少しは想像がついたり、「あ、こんなことが可能なんだ」っていうのは思うんだろうなって。だからあの、何やったっけ、筋ジスでDJしてはる先生、あの
田中:ライス?

西田:ライス兄弟さんのDJなんか、たぶんほかの先生とか聞いたらもう想像つけへんと思う(笑)。DJね、してる筋ジスの子とか。

田中:うん、ひっくり返った(笑)。

西田:うん、なんか。でもそういう生活を知ってるのと知らないの、ほんとに知ってるのと知らないのでは大きな違いがあるんだなって、うん、思う。だから増田さんもなんかね、コロナが終息して早く外出がもっとできるように(笑)、

ユ:うん。

田中:自粛してて、その(笑)、

ユ:コロナ、コロナ…、

*作成:中井 良平立岩 真也 
UP:202100816 REV:
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