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インタビューA 障害教師の教育効果と支援は別問題

中村 雅也×佐藤 幹夫 2021/01/04 オンラインインタビュー

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last update:20210503


■インタビューA 障害教師の教育効果と支援は別問題

話し手:中村 雅也
聞き手:佐藤 幹夫
日時:2021年1月4日(月) 16:00-18:00
場所:オンライン(zoom)
*本稿は月刊『教職課程』に連載の「教育≠ヘどこに届くのか」のために、佐藤幹夫さんが中村雅也に行ったインタビューを文字化し、佐藤さんの承諾を得て掲載するものです。


◆障害教師の教育効果と支援は別問題

○佐藤 次に2点目の、御自身のことについてのお話しをお願いできますか。

○中村 あと、もう一点、自分の話、全然面白くないと思っているんで、今回、三戸さんが主張されていること、佐藤さんの書かれていることも全部を読んで、一番やっぱり思っていることを1つ言いたいんですが、いいですかね。

○佐藤 ええ、結構です。

○中村 この障害のある教師の問題というものの一番混同してはいけないところは、障害のある教師の教育的な効果というか、メリットと、その障害のある教師を支援しなければいけないということを、同じ次元で語ってはいけないということなんですよ。例えば、三戸さんは、自分は障害のある教師として頑張っている姿を見せて、卓球なんかに打ち込んで、障害があっても、それを乗り越えるじゃないけれども、そういう真摯に打ち込んで、成果を上げる姿を見せることによって、子どもたちにいい影響を与えているという主張をされます。これはもちろんされているんです。障害のある先生は、そういう障害のある先生の強みというのがすごくたくさんあって、障害のある先生が現場に入ることで、すばらしい教育効果があることは確かだと思っているんです、僕も。
 でも、障害がある先生が学校にいるとこんないいことがあるから、障害のある先生を学校に入れなければいけないんだよとか、支援しなければいけないんだよというのは、間違っていると僕は考えているんですよ。

○佐藤 障害があるからと、どういうふうに言うんだろう。すみません、もうちょっと。

○中村 例えば、障害がある先生がいることによって多くの教育的な効果があることは確かなんですが、その教育的効果があるから障害のある先生を雇用しなければいけないだとか、障害のある先生を支援しなければいけないという理屈で理解を得ようとすると、逆に言ったら、例えば、僕は数学だけを教えたいんだと思っている先生が学校にいた、障害者の先生がいたときに、君は障害者の先生なんだから心の教育に携わらなければ駄目じゃないかとか、そんな役割分担を押しつけられたりね。
 例えば、三戸先生は車椅子でも卓球をやって、それを子どもたちに見せて、いい効果を上げているよと。別の中学校に車椅子の先生がいたとしたら、あの三戸先生はあんなに障害を見せていい効果を上げているのに、君、車椅子だけど、全然そんな姿を子どもたちに見せないじゃないかって言われちゃう可能性があるんですよ。
 もちろん、すばらしいことがあるんだけれども、そういうすばらしいことがあるから障害のある先生を支援しなければいけないのじゃなくて、障害のある先生を支援しなければいけないのは、障害のある先生がそもそも教員として学校にいるときに、その支援をしないことで不利な立場に立たされているからなんですよ。
 例えば、車椅子の先生がエレベーターのない学校に行かされて、2階に行けないことがあると、これは実は障害のある先生がそもそも2階に行けないという不利な状態にある、これを解消して平等にしてくれというのが、合理的配慮であり支援の問題だと思う。まず第一の支援の問題だと思う。
 だから、例えば障害のある先生が何かできるから、そういう交換条件を出して支援をするという発想というのは、そもそも障害者は何か劣っていたり、できないものだという発想の上で、おまえ、できないんだから何かお土産持ってこいと、何かプラスアルファ、できるもん持ってこい。そういうもん持ってきてはじめて、できないところを穴埋めできるんだから、認めて仲間に入れてやろうというような、そもそもそれは障害者を差別する発想だと思うんですよ。
 そうじゃなくて、僕は、自分の研究というのは、障害のある教師の研究ではあるけれども、その障害のある先生の強みとかよさみたいなものは、研究的には言ってないんですよ、全然。
 障害のある先生は支援が必要で、どんな支援が必要かというのが僕の研究テーマなんですよ。だから、うまくは言えないですけども、そもそもその障害者の先生の支援をしなければいけないというのは、これは権利として、何か特別なプレゼントをするとか、プレゼントという意味は、特別な手厚い、何か特別な措置をするのではなくて、そもそも障害のある先生を同じスタートラインに立たせるための、そのための準備というか、そのための条件整備なんですよね。
 例えば、全盲の先生が教員として授業をしようとしたときに、点字の教科書が必要になってくる。これは墨字の教科書しか、普通の文字の教科書しかなくて、これでは教えられないね。点字の教科書があれば教えられるという状況があるんだったら、点字の教科書を準備して、初めて同じスタートラインに立てるわけじゃないですか。この点字の教科書というのは、別にその障害のある先生に対する特別な優遇されたことではないですよね。全く同じ権利を得るために必要な補填ですよね、逆に言うとね。穴埋めですよね。
 だから、そういうような意味で支援というのをまず考えなければいけなくて、そういう意味で支援を捉えるならば、何か特別なことができないと支援はしないよみたいなことというのは、まず間違っているわけで、どうしても僕ら、障害のある先生がすばらしい教育実践をしているし、それを見ているし、教育効果があるのも知っているもんだから、障害のある先生がいるとこんないいことがあるよ。だから、障害の先生、雇って。支援してって、そう言っちゃうんですよね。
 これは、でも、方便というか、障害のある先生個人が自分をアピールする、自分の強みをアピールしたり、障害者運動として権利を獲得するときには、一定、相手を納得させる論法としては僕はあっていいと思っていて、必要だと思っているんですよ。特に個人の障害のある先生は、ふだんでも何かどっちかいうと不利な立場に立たされたり、排他的な目で見られたりする中で、僕はこんなこともできて、こういう子どもたちにアプローチもできるんだということで、周りの同僚だとか保護者とかに理解を得て、それでいい環境をつくっていくというのは、ぜひ必要なことでもあるとは思っているんですが、僕としては、その障害のある先生が障害が強みとして生かされるし、すばらしい教育実践ができるということと、支援が必要だとか、支援をすることというのを直結はさせてはいけないと僕は考えているんです。

○佐藤 こんなふうに理解してよろしいですか。教員になりたいと思って教員になった人が、たまたまあるあるハンディキャップがあった。その点についての支援があれば何ら一般の教員と区別なく仕事ができるので、それを補ってほしい。それを補うことが最初のすべきことだろう。そこに付随して障害があるということが、子どもたちに与える何らかの影響があるとしても、それはあくまでも付随的なこと、二次的なことである。そこを直結させたりひっくり返したりしてしまっては、話が違ってくる。その順番を間違えないほうがいいという、そういう御趣旨の話だったと受け止めましたが。

○中村 そうですね。大きくは多分そういうことでいいと思うんですが、その二次的にどうのこうのというか、それももうつながりとしては、結果的に障害のある先生がいることによって、そういうことが起こるかもしれないし、起こらないかもしれないじゃないですか。

○佐藤 はい。

○中村 起こることがよいという前提があると、やっぱりそういうことが起こらないことに対して、何か非難が表れてきたりしますよね。だから、やっぱり結果的にそういうことはよく起こってますよ。その障害がある先生がいることによって、教育効果があるとか。ほんで、これはまああるんだろうと思うし、それは僕はそのことについては研究してないので何とも言えないですが、経験的にはあるんだろうと思っているんですが。
 にしても、そこで障害者としての教育効果があるということと、障害者を支援しなければいけないということは、やっぱり別問題というふうにしておかないと、結果的にそういうことが起こってもいいし起こらなくてもいいというか、起こることを期待してしまうということに、危うさがもう含まれてくるかなと思っているんですね。
 さっき言ったような、まずは手だてをするというのも、その手だてというのは、特別な手だてじゃ、その人を優遇する手だてじゃなくて、それは、あくまで障害のある人が世の中に参加するための対等なスタートラインに着くための当然の準備というか、当然の、これは合理的配慮ということだと思うんですけれども、当然持つべき権利としての支援であって、そもそも障害のある人に何かしてあげるというか、支援を特別に優遇されたものだと捉える発想というのは、これは間違っている。

○佐藤 はい。その点については私も書いたことがあるのですが、要するに、教員あるいは働く人たちが、福利厚生という形でいろいろな権利を守られている。当然のごとく享受しているけれども、それもまた十分に「合理的配慮」だと考えてよい。そのことと障害を持っている人たちが求めていること、それと同じぐらい当然のこと、同等のことではないか。それもまたある意味では「合理的配慮」だと考えていい。そういうことを、以前、書いたことがあります。そういうふうに私も支援ということを考えています。特別なひいきしているとか、そういうことではない。

○中村 ええ、優遇ではなくて、対等にするための準備なんですよね。

○佐藤 そうですね。私が眼鏡をかけているように、必要なことは必要な補いをすればいいという、そんな感じだろうと思いますけれども。

○中村 はい。そこで何か合理的配慮という言葉を出してしまうと、これはちょっといろんな解釈の人がいて、まあ合理的配慮というのは法律用語であると考えたらいいので、ちょっと解釈の仕方がいろいろ出てくるので。

○佐藤 たしかにそこは、注意とただし書きが必要ですね。

○中村 だから、健常者に対する合理的配慮と言ってしまうのは、ちょっと僕はそれは抵抗があるんですが。

○佐藤 そうですね。ちょっと勇み足みたいなところはありますね。

○中村 実は、よく言われることですが、まあいえばね、世の中には既に十分に配慮されている人たちと、配慮されてない人たちがいるという考え方なんですよ。

○佐藤 はい。そういう趣旨ですね。

○中村 だから、健康なマジョリティといっていいのか、この人たちはもう既に十分に配慮されているんですよ。だから困らないんですよ。例えば、2階に行くためには階段がついているとか、勉強をするために活字で書かれた本が与えられるとか、知らない間にもう既に十分に配慮されている中にいるので困らない。でも、障害者というのは、配慮されていないから困っているわけじゃないですか。2階に行くエレベーターがないとか、点字の本がないとか。だから、その既に十分に配慮されている人たちと同等なところまで配慮するのは、それは優遇ではなくて権利なんだと、そういうのが根本的な原理だと思います。


佐藤幹夫 Sato Mikio
1953年秋田県生まれ。國學院大學文学部卒業。批評誌『飢餓陣営』主催。フリージャーナリスト。主な著書に『自閉症裁判−レッサーパンダ帽男の「罪」と「罰」』(朝日文庫)、『「自閉症」の子どもたちと考えてきたこと』(洋泉社)、『評伝 島成郎』(筑摩書房)など。最新刊に『ルポ 闘う情状弁護へ−「知的・発達障害と更生支援」、その新しい潮流』(論創社)がある。



*作成:安田 智博
UP: 20210503 REV:
障害学生支援(障害者と高等教育・大学)  ◇障害者と教育  ◇全文掲載

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