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宮本泰輔氏インタビュー・2

20201217 聞き手:立岩真也、井上武史 於:タイ・バンコク間Skype for Business使用

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宮本 泰輔  ◇障害者と/の国際協力・社会開発  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築

◇文字起こし:ココペリ121 20201217宮本泰輔_149分 https://www.kokopelli121.com/
※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
 聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)としています。

 ※記録を2つに分けました。
宮本 泰輔 i2020a インタビュー・1 2020/12/17 聞き手:立岩真也井上武史 タイ・バンコク間Skype for Business使用
宮本 泰輔 i2020b インタビュー・2 2020/12/17 聞き手:立岩真也井上武史 タイ・バンコク間Skype for Business使用聞き手:立岩真也、井上武史 於:タイ・バンコク間Skype for Business使用(本頁)

 以下はインタビュー記録の後半です。




宮本:ちょうど札幌にいるときに、〔DPI世界〕大会中かな、大会中ぼーっとしてたら由起子さんから、「宮本さん、東京帰ってきたら次これをやるわよ」って突然紙を渡されて。それどころじゃないときで。で、イエスもノーもなくイエスを言わされたんですけれども。それがJICAのアフリカ地域、南部アフリカですかね、南部アフリカ地域の障害者リーダートレーニングというものだったんですね。最初はDPIじゃなくて【JV】(01:08:48)がやるはずだったのかな。国リハを見学するとか、最初の提案ってそういう感じのリハビリテーションモデルがプランだったんですけれども。ただ来る人たちはアフリカのDPIの組織のリーダーたちが来る予定だったので、「これはあまりにミスマッチじゃないのか」って言って由起子さんがDPIに持ってったプログラムなんですけれども。それをちょうど札幌大会終わって東京戻ってきてからすぐにその打ち合わせが始まって。それまでは全然JICAとの接点ってDPI日本会議なかったんですけれども、札幌大会やるときにかなりJICAのほうにも協力いただいて、そのあたりからですかね、縁ができてきて。

立岩:素朴に「なんでアフリカ?」っていう。それからしばらく経ってかもしんないけど、正司さんとかが「南アフリカ」とか言うから、「まあいいけど、なんで南アフリカなの?」みたいな素朴な疑問は今でもあるっちゃあるんですけど。それは何、どういうふうにアフリカだったんですかね? [01:09:47]

宮本:一つは、もともと集団研修やりたいって。やろうかって話になった背景は、99年から「アフリカ障害者の十年」っていうのが始まったんですね。それは国連の「障害者の十年」が92年に終わって、93年からアジア太平洋だけが「十年」をやって、それに続くかたちだったんですね、「アフリカの十年」っていうのが。っていうのがあって、日本が「アジア太平洋の十年」を中心的な役割を果たしたものを、その「アフリカの十年」に活かしましょうみたいな、そういう過程だったんですね最初は。だから全然自立生活とかは主眼ではなかったですし、もっと全般的な障害者政策一般とか、そういうリーダーシップ育成とかそういう感じの、最初は始まり方でした。

立岩:そのアフリカ側っていうか、さっきの話はそれなりにわかって、DPIのアジアの会議みたいなのに各国から来てっていうんで、そういう繋がりかなって思ったんですけど、アフリカの場合はどういうふうにして繋がりというか付き合いというか、こう、

宮本:アフリカは、最初は南部アフリカ10か国だったんですけれども、「南部アフリカ障害者連合」という障害者団体の連合体があって、そこがまあ実質的にはDPIのアフリカブロックの南部アフリカサブブロックみたいな役割を果たしてたんですね。そこを通して各国の障害者組織から推薦を挙げてもらう。だからあくまでもそのDPIのネットワークから人を出してもらおうというやり方でしたね。

立岩:で、それに対して日本サイドは、何をするという関わり方から始まるわけですか?

宮本:まあJICA研修ですからJICAの研修で来るんですけれども、

立岩:JICAの研修に来るわけね。

宮本:来るわけです、日本に来るんですね。それの研修のプログラムを全部作って、まあ全部、要するに委託を受けるという、JICAから。ちょうど井上さんが中南米でやってらしたようなかたちですよね。

立岩:で、JICAの研修を実質委託されるっていう。それいっぺんにアフリカから何人ぐらい来て、どのぐらいの期間の研修を受けて戻るっていう、

宮本:初年度は、えっと、10人3週間かな。10人3週間だったと思いますね。日本で2週間で、最後タイに行って1週間補完研修をするっていうプログラムで。ちょうど2002年度からAPCD、アジア太平洋障害者センタープロジェクトが始まってたんで、タイで。それをこうグッド・プラクティス的に見せるっていうのもありましたし、日本だけを見て帰すと、「やっぱり先進国だからできたんだ」みたいな話で終わっちゃうのもなんか悔しいからっていうのもあって。そうですね、そういうところから最初は始まりましたから。

立岩:僕はいっこうにそちらのほうは不案内なんですけど、それでもJICAかな、東京でそういう講義みたいなのをするのに、通訳をつけていただいてですけれども3回ぐらいかな、やったことあるんで、ちょっとは雰囲気はわかるんですけど※。そうか、2週間プラス1週間、まあまあ慌ただしいっちゃ慌ただしいですよね。

宮本:そうですね。最初の年度はそうでしたね。どんどん交渉して延ばしていくんですけれども。

立岩:ああ、そうなんだ。それはアフリカ、主に南なんですか?

宮本:最初は南部でしたね。そのあと、JICAって今は3年サイクルで見直さなきゃいけないんで、当時は5年かな、5年最初南部アフリカだけをやって、そのあとアフリカ全域に広げて5年。その次はたとえば自立生活とか、テーマをちょっと変えてみてとか、いろいろと手を変え品を変え、3年サイクルでプロジェクトを延ばしていくんですけれど。最初は南部アフリカでしたね。南部アフリカが組織的にも一番手堅かったからかなと思いますけれども。

立岩:でもそれを維持していくというか、人呼んで、滞在させて、帰してっていう、それこそロジの仕事自体とっても大変だと思いますけれども、そういうたくさんの仕事が常に毎年あったっていうことなんだとおそらく思いますけど。たとえばトータルで3週間の研修っていうのは1年1回みたいな感じ?

宮本:1回です。

立岩:で、それがずっと続くわけですか?

宮本:そうですね。昨年度まで続いたのかな。本年度からなくなって、



立岩:昨年度まで続いた。で、どっかはしょんなきゃいけないんですけど、宮本さんは、ほんで、行っちゃうわけですよね、日本からいなくなっちゃうわけですよね。

宮本:そうですね。えーと、

立岩:それはちょっと突然すぎるか、まあいいや、でもだんだんそういう話に、日本にいなくなっちゃう話を聞こうと思うんですが。それは何、日本にいて、ロジとかそういうややこしいことを引き受けてっていうようなことっていうのは、でまあJICAとやり取りしてっていうことが、かなりずっと続くわけですか?

宮本:そうですね。あとはそれ以外に世界銀行が、当時ジュディ・ヒューマン〔Heumann, Judith E.〕がいましたから。で、中南米のほうのチームがわりと手厚かったんですね、世界銀行の中の障害と開発チームで、中南米がわりと手厚くて人がいたんですが、その人たちが日本政府の資金を使いたいんですよ。日本のコンサルタントひも付きの資金っていうのがあって、世界銀行の中に。でも、世銀の中で誰も日本のコンサルタントをよく知らないから、いつも予算が余ってたんです。で、それに目をつけて、ジュディ・ヒューマンが中西正司さんに電話をして、「DPI日本会議でコンサル引き受けない?」っていう話になったんです。で、それを言われて慌てて世銀のコンサル登録をして。それもありましたね。
 中南米で3年ぐらいかな、実際にはその世銀の中南米の支部が全部仕事をして、うちはロジだけやるんですけれども、そういう仕事とかもやっていて。そんときにちょうどジュディ・ヒューマンとか、今UNICEF(ユニセフ)の顧問をやっている【ロサンジェラ・ベルマン・ビーラー】(01:17:32)が中南米の担当で、その下でローカル・コンサルタントでいたのが、8月まで国連のスペシャル・ラポーター、特別報告者だったカタリーナ・デバンダス※がいて、そういうチームと一緒に仕事させていただいてたんですけれども。

https://en.wikipedia.org/wiki/Catalina_Devandas_Aguilar(情報が最新ではないです)
昨年9月からコスタリカの国連大使になりました。
https://www.un.org/development/desa/disabilities/wp-content/uploads/sites/15/2020/08/Appointment-Catalina-Devandas-Aguilar.pdf

立岩:それ、完全な素人である僕ね、世銀にお金はあるけど、それが有効に使われてなかったっていうようなことがあったと。

宮本:あったんです。はい。

立岩:で、その世銀のお金を上手く使わせるために、ジュディ・ヒューマンが日本に連絡してきたと。そうすると何が起こるわけですか? 日本から「このお金を使って何かするよ」って言うってこと?

宮本:日本の財務省が、日本のコンサルタントを海外に売り出すためにですね、日本のプレゼンス高めるために、「日本のコンサルタントを使うんだったらお金出しますよ」っていう、そういう信託基金を世銀の中に作るんですね。そうすると世銀の各部局が、外に出すファンドではなくて世銀の中で使うお金なんですよ、で世銀の各部局がそれに申請を出して、日本のコンサルタントとタッグを組んでそのお金を取ってくんですけれども。世銀の中でいかんせんそんなに日本のコンサルと親しい人は多くないんで、他の国に比べて。毎年半分ぐらい予算が余ってたらしいんですよね。

立岩:それは日本の外務省が世銀に持っていくお金が、日本のコンサルと繋がりがないから使われない、余ってると。ちょっとわかってきた。まったく素人だから。[01:19:40]

宮本:責任は外務省じゃなくて財務省なんですよ、あれは銀行なので。

立岩:ああ、そうかそうか。

宮本:で、ジュディ・ヒューマンはやっぱり世銀に入ったのはいいんですけれども、なかなか予算がとれなかったんですね、部局内で。まだ障害問題そんなに日も当たってないですし、だいたいエコノミストからそんなにちゃんと話も聞いてもらえなかった時期みたいなのがあったみたいですから。それで実際に予算を取って何か活動をするっていうところで、その余ったお金に目をつけて。ただ日本のコンサルタントがやっぱり、タッグを安心して組めるところがいないとっていうところで、DPI日本会議を世銀にコンサル登録して、DPI日本会議とタッグを組んでお金を取りたいという話だったんです。

立岩:なるほど。なんかようやくというか、少し仕組みが、

宮本:ちょっとテクニカルな話で(笑)。

立岩:ちょっと素人的にはわかってきました。それにも宮本さんは関わるわけですか?

宮本:そうですね、はい。もう国際担当事務局、私1人なので。

立岩:それは3年ってさっきおっしゃった?

宮本:そうですね、2003年3月からですね。2003年3月から2005年度までやったかな。

立岩:そのさっきのアフリカのやつは、去年までずっと続いたとおっしゃってたけれども、そのアメリカっていうかそっちのほうの3年間っていうのはどういう終わり方というか、あるいは続き方というか、どんな経路をたどるわけですか?

宮本:毎年ですね、世銀の中で予算枠を確保したら、日本のコンサル向けに応募が出るんですよね、公募がされるんですよ。それにまあ申し込むと。最初は随意契約だったんですよ。で、3年目に世銀の内部で「これは随意じゃだめだ」みたいな話になって、競争入札になったわけです。そのあたりからちょっとこっちも負担が強く重くなってきて、やっぱ日本のプロのコンサル会社とわれわれ勝負しなきゃいけないわけですから(笑)。まあ1回だけコンペになって勝ちましたけれど、なかなかやっぱり難しいので続けにくいっていのと、ジュディはその頃辞めたかな、ちょっと障害と開発の体制がだいぶ変わってきた、世銀の側の体制も変わってきたということで、確か日本政府がこの信託基金を1回やめたんですよね。それによって終わったと。

立岩:それはそういう経路っていうか。それは一方で3年間そういうことに関わりながら、アフリカはアフリカで続いていき、そうやって続きながら、宮本さんの仕事というか人生っていうのはどういうふうになっていくわけ?



宮本:で、その頃にやっぱり世銀とかに興味を持ち始めて、別にそこで働きたいというわけじゃ…、かどうか調べもしましたけれど。ていうよりも、まず興味があったので大学院に入り直して、2005年から開発経済学をちょっと修士課程で勉強して。

立岩:2005年。それはどこで?

宮本:早稲田の社会開発ですね、社会人向けの大学院のほうで。社会科学研究科、

立岩:早稲田で開発…、西川さんとかって、早稲田じゃなかったっけ。

宮本:西川先生のところではなかったですけれども。

立岩:ではないわけね。わかりました。で、そこで何年かいるわけですか? 早稲田の院に。

宮本:はい、3年いました。

立岩:で、修士か何か取って?

宮本:修士を取って。で、まあちょっと海外に出たいかな、というか。一つはそれ、修士終わって1年ぐらいして離婚したのもあるんですけれども、独り身になったとか、うーん、

立岩:それはもし聞いてよければ、わりと長く暮らした彼女でいいんですか?

宮本:そうです、そうです。

立岩:その人ね。

■2010 タイ

宮本:まあそうですね、あとはDPIの事務所も昔と違って人が増えましたので、新しい人も出てきて、ちょっと「あんまり重石みたいになっているのもよくないかな」とか、いろんなことを考えてですね。尾上〔浩二〕さんも東京に来てある程度落ち着いたし、っていうところで、

立岩:ああそうか、尾上さんが東京に来たあたりか。

宮本:そろそろ出てもいいかなというときに、ちょっと由起子さんに相談したらですね、由起子さんが「タイのDPIアジア太平洋事務所で人を探してるわよ」って話で、相談して3日ぐらいで電話来ましたかね。で、まあそれに乗っかって、それでタイに行くことになったんですけれども(笑)。[01:25:56]

立岩:行くことになって、ほんとに行ったわけですよね。

宮本:行きました、はい。

立岩:タイは、そうすると何年からいたというか、、

宮本:タイは2010年の3月からになります。

立岩:あ、ようやく10年前に来たぞ。2010年の3月からタイ、どのぐらいって、

宮本:タイは2013年の4月までいましたね。3年ちょっとですか。

立岩:それは、日本から来た人としての宮本さん、「日本から」は関係ないかもしんないけど、その3年間は何をなさりました?

宮本:最初の1年半はDPIアジア太平洋事務局で、ASEAN(アセアン)で障害問題をメインストリーム化するっていうか主流化していくためのプロジェクトをやってましたね。具体的には、1つはASEAN障害フォーラムを作るっていう作業が1つと、もう1つは他のいろんな人権団体とか市民社会団体とかのところに出てって障害問題をそこに取り上げてもらうとか、そういうアドボカシー系の活動が多かったですけれども。あとはASEANの主催国、ASEANの議長ってアルファベット順に毎年持ち回りなんですけれども、そこの政府に、議長国にアプローチをして、障害問題をなるべく取り上げさせるとか、そういう感じの仕事を最初の1年半やってました。

立岩:それはタイにオフィスがあるにしても、わりとスタッフもいろんな国の人がいるとか、どういう感じの事務所っていうか。

宮本:タイ人が多かったですけど、あの当時はドイツからのボランティアとオーストラリアのボランティアがいて、あとはフィリピン人が1人いましたね、あと私と。

立岩:タイだけれども、でもまあまあいろんな国の人が来て、わりといわゆる国際的というか、いろんなことのわたりをつけるというか、そういう仕事を。それは役っていうか役職っていうのはあるんですか? 英語でしょ?

宮本:自分はプロジェクト・コーディネーターでしたけど。

立岩:プロジェクト・コーディネーターっていう役を振られてっていうことか。DPIって最初のお金がなかった、今もないって話はしましたけど、そういうタイのオフィスを動かすお金はどういうふうにして生産というか、賄われてたんですか?

宮本:もともとは、たぶん井上さんが由起子さんから聞いてるかもしんないですけれど、もともとはDPIができた当時、カナダの政府の援助でスタートしていて、カナダ政府のお金で各ディヴィジョンっていうかブロックごとの事務局の予算が出てたんですね。今はカナダはもうとうに、ずいぶん前に打ちきってますんで、日本からの援助であったり日本からのカンパ金であったりとか、まあそういったたぐいのものが多いですかね。あとは独自に何かこう地元の助成金をとったりとかしたりしてますが。

立岩:宮本さんが始めたときはまだカナダからのお金はあった時期なんですか?

宮本:いや、もうそのときはないです、もう終わってました。私のプロジェクトも日本財団からのお金でした。[01:30:05]

立岩:その日本財団からのやつには、宮本さんの分はというよりは、全体のある部分に日本財団がお金を投じたというか、そういうことですか?

宮本:いや、プロジェクトに投じてます。

立岩:ふーん、そうか。そのプロジェクトを宮本さんが担当する、というようなかたち。

宮本:そうです。

立岩:そのプロジェクトの名前は何ていう?

宮本:英語だと、Mainstreaming disability perspectives in ASEAN communityという、長い名前なんですが。ASEANがASEANコミュニティという共同体になるのが2015年で、それをめがけて立ち上げたプロジェクトなんです。

立岩:それに日本財団は各年どれぐらいのお金をくれるんですか?

宮本:いくらだったかな。いくらだったかは正確には覚えてないですけど、ただ1年で。1年だけだったんですよ、お金をもらったのは。

立岩:ああ、なるほど。そこに10年から13年までいて、そういう仕事をなさって。

宮本:そうですね、その中の1年半でしたね、DPIアジア太平洋事務局にいたのは、正確には1年半だったので。残りの1年半は何をしてたんだろう? えっと、オンラインで韓国DPIのアドバイザーをやってたりとか(笑)。あとは、地元の自立生活センターのボランティアをしてたりとか、してましたかね。

立岩:それでも食えるもんですか?

宮本:うーん。まあ韓国DPIからいただいてたので、なんとか。

立岩:ああ、そうか。韓国DPIはこの頃若干心配でというか、なんか。まあいいや。そういう話聞いたことありません?

宮本:いやあ、最近ちょっとお付き合いが多いので(笑)。

立岩:ああ、はいはい。あまりね、言わない。

宮本:大変そうですけれども。

立岩:多いでしょうね。そうか、1年半DPIで、1年半は韓国であったり、そこの地元であったりということで、トータルで3年ぐらいタイにおられて。

■2013 アフリカ

宮本:職を探さなかったのは、DPIを辞める直前に中西さんから電話があって、「今度南アフリカでやるからよろしくね」っていう。それがあったので次の職を探せなかったですよね、なかなか(笑)。

立岩:ああ、次が指定されてたみたいな。

宮本:そうなんですよ。で、運の悪いことに1回JICAの審査を落ちてですね、予定よりも延びちゃったもんですから、余計に浪人期間がちょっと延びたんですけれども。ほんとはあんまり切れ目なく行く予定だったんですけれども。

立岩:え、ほんとは何?

宮本:切れ目なく南アフリカに行けるかもって話だったんですけれども。

立岩:ああ、タイから、なるほど。中西さんってほんっとに簡単に電話かけるよね。

宮本:そうですね。

立岩:昔からそれはある意味感心してて、思いつくと3秒ぐらいで電話するでしょ。

宮本:ありますね(笑)。

立岩:あれは特技っていうかな、僕ああいう割り切れた人間になりたいなって思いますね。僕わりと電話かけるの億劫でためらってしまうんですけど、あの人早いよね。何にも考えずに電話するよね。でアフリカ指令が出て、でも1年延びて、でもアフリカ行くわけだ。

宮本:そうですね。それまで僕は車の運転したことなかったんですけれども、さすがにちょっと公共交通で動けないのは想像ついたので、仕方なくタイで運転免許を取って。

立岩:タイで免許を取ってアフリカで運転してた。

宮本:そうです。日本でしたことないんですよ(笑)。

立岩:僕は今でもできません。もう死ぬまでできないと思いますけど(笑)。まあいいや。免許は持ってんだ、一応。
 で、アフリカっていう話は、まあね、アジアはわりと連想というかわかる気がしますけど、さっきもちょっとは言いかけましたけど、「え、アフリカ?」って、「そりゃアフリカ、いいけどさ」っていう。僕もいいとは思うんですけど、「なんでアフリカ?」っていうのはどういういきさつだったんですか? [01:35:09]

宮本:もともとやっぱりさっきの、2002年度からやってたJICAの研修ですよね。

立岩:うん。あ、そっか、「アフリカの十年」があってそれに日本がっていう、その流れはあったと。

宮本:そうですね。で、何て言うんですかね、何年研修をやっても自立生活センターが1つもできなかったんですよ。やっぱり現地に実際にこう投入してモデルを作らないとやっぱり広まらないんじゃないかというところで、まあ最初はなんかマラウイでやるとかなんとか言ってましたけれどもマラウイなんか誰も行けないだろうなと思うし。最終的にはやっぱり経済的にある程度豊かで、政府のバックアップがありそうな南アフリカっていうところで落ち着いて。ちょうど2011年にダーバンでDPI世界会議をやったときに、中西さんがっていうかヒューマンケア協会がそこでピアカウンセリング・ワークショップをやって、そこに来た人の中から「あ、うん、この人とこの人」って中西さんチョイスで人と場所が決まったと。その最初の自立生活センターを立ち上げるリーダーさんが2人決まったと、そういう。で、その段階でダーバンから私は電話をもらったんですよ。さっきのあの突然来る電話っていうのは(笑)。ダーバンからいきなり電話が来て、で、「辞めるんだろ? じゃあやれるよね?」とかいう、なんかそんな感じでいきなり電話が来て(笑)。さすがに断ったんですけれどもね、3人ぐらい他の人に聞いてくださったらしいんですけれども、まあそれでもだめだったんで、もう1回来たんでしょうがなく受けましたけれど。そういう流れですね。

立岩:なるほどね、でもそっか、日本に1人ずつ呼んで何週間か滞在させて、で帰しても、そんなにそういう組織ができるとかそういうことにならないから、「もう行ってやるしかない」みたいな話か。

宮本:そうですよ。

立岩:それはわかる気がしますけどね。それでその指令で、1回断ったけどまあしつこいから、断るに断れずっていういつものパターンかな? で、とにかく南アフリカに行って。それが何年?

宮本:2013の5月ですね。

立岩:だんだん近づいてきました。それで2013年5月から、中西さんご指名の人たちはいたとしてどういう活動の展開になってくわけですか?

宮本:2か所の活動だったんですね。で、1か所は白人障害者が主体の自主管理運営型のグループホームなんですけれども、8人かな、定員8人ぐらいのグループホームのリーダーさんが1人。最初は中西さんは、彼1人でプロジェクトを作ろうとしたんですけれど、まあ南ア政府の人たちとかが、旧黒人居住区ですからタウンシップで実績がないと国のモデルにはできないっていうことを言われて。それでそのソウェトにある自立生活センター・ソウェトという団体があったので、そこに。その2か所ですね、そこがまずあったと。

立岩:なるほど。白人とこだけ1個やっても政府的には認められないよ、みたいな。で、ソウェトでもう1個。それは有色というか黒人というかそういう人たち。

宮本:そうですね、黒人の団体なんですけど。で、そこの自立生活センター・ソウェトの代表者が南アフリカのDPI、まあDPSAっていうんですけど、DPSAの当時の全国議長だったんですね。だから政治的にもまあ強かろうと。そういう2か所で。だから僕がプロジェクトを立ち上げるというより、もうそこまでお膳立てがある状態で行かされた感じですね。で、最初に中西さんから言われたのは、「2年の間に当事者を探す」と。だから「2年で交代できるよ」っていうのと、「必要なことは全部日本から言うから。あの、領収書だけ集めてくれたらいいから」っていう。まあ全然どっちもならなかったですけどね(笑)。「最初っからならんに決まっとるやろ!」みたいな話が2つあって。

立岩:(笑) ほんとに困った人ですねえ。[01:40:07]

宮本:まあ立岩さんなら想像つくと思いますが。

立岩:はいはい、ほぼつきます。で、その領収書集める仕事では当然すまず、結局宮本さんは南アフリカで。わかるような…、具体的に日本人っていう人がそこで具体的に何をしてきたんですか? っていう、とっても素朴な質問なんですけど。

宮本:そうですね。まず最初に一緒に働く障害者探しですよね。まああとは何だろうな、政府とのネゴとかやり取りもありましたけど。特に最初の3年間一生懸命やったのは家庭訪問ですかね。だいたい自分で車運転して、そういうコミュニティの奥まで入ってって、で、「車で来たんだったらちょっとあそこまで乗っけてってよ」とかいうのにも極力応えて、便利屋みたいにやってましたけども。いろんなところに行きましたね、おかげさまで。

立岩:それは、ソウェトならソウェトのセンターの一員としてっていうことですか?

宮本:まあ向こうがどう思ってたかですけどね。やっぱりヒューマンケアっていうか八王子から来た、日本から来た日本人なんでしょうけれども。まあいったん受け入れられればソウェトの一員っていう扱いでしたけれども。そのへんなんかこう組織図的な境目ってあんまりないんですよね。

立岩:「助けてくれりゃ」っていうか「力になるんだったら誰でもいい」みたいな、「日本人でもいい」みたいな。

宮本:「友だち」。「今日からは友だちだから」みたいな感じになれば。

立岩:うんうん。一方でそういう便利屋さんみたいなこともやる、一方で政府とかそういうところとのネゴっていうか交渉ごとに関わる。それで一緒にやれる南アフリカ産の障害者っていうのは見つかったんですか?

宮本:そうですね、見つかりましたね。けっこうそのグループホームのほうは、他のグループホームのリーダーとかを集めたりしてやってたんですけれども、ソウェトのほうは地元の公立病院とかに行って、リハビリテーション科に「こういうワークショップやるんだけど、向いてそうな障害者を紹介しろ」って言って紹介させて、家庭訪問して見つけて、来たいっていう人を見つけてってっていう感じの見つけ方をしましたかね。

立岩:ふーん。で、その中の誰かがメンバーというかリーダーというか、

宮本:そうですね、ピアカウンセラーになったり。

立岩:まあいろんな障害の人はいるだろうけれども、種別というかジャンルというか、身体障害系ですか?

宮本:そうですね。ヒューマンケア協会のプロジェクトで始めたんですけれども、最初は身体障害から入るっていう。重度の身体障害の人を集めてピアカウンセラー育成して、そのサポートグループですか、その地域ごとにグループを形成していって、そっから最重度の人を見つけて介助派遣のモデルを作るっていうアプローチでしたので、身体障害からスタートです。

立岩:その病院にいた人とかって言ったら、中途障害系の人ですか?

宮本:最初はそうですね。最初は中途障害のかたがほとんどでしたね。

立岩:そのへんから始まって、か。で、このたびというか、ここ数年井上さんたちがやってきて、コスタリカならコスタリカに社会サービスというか介護とかそういうことができる素地っていうか仕組みを作ってきたわけですけど、そういうの、いや全然知らないけど、南アフリカなりアフリカなりの状況っていうものはどないな感じなのか、あるいはなってきたのかっていうのはどうなんですか? [01:44:52]

宮本:制度の手前のセンチメントな部分で言うと、最初はけっこうプロジェクトに反対する政治家とかがいましたね。やっぱりこう家族の絆とか地域の血縁地縁っていったものを、「外部から異人種の人が来て破壊する」みたいなそういう煽動をする人はけっこういましたね。やっぱりそう意味ではセンシティブなので、うーん、まあそういう反応も当然あって。だから、あんまり理屈をごねるよりも、先に介助派遣の実態を作って見せちゃうしかないな、というのがありましたけどね。

立岩:うーん。相手はそういう「地縁血縁を破壊する」的な反応。それってどうなの? アフリカもある。たとえば東アジアとか東南アジアというか、そういうとこでもあるんですか?

宮本:ありますよね。でもああいう感じで政治家が煽動して反対するとかいうの、あんまり聞かないですけどね。

立岩:ああ、そうか。南アフリカの場合は政治家がそういうこと言ってくる。

宮本:そうですね。

立岩:なるほどね。井上さん、その中南米というか、アメリカ大陸というか、中央アメリカっていうか、そういうとこってどうなんですか?

井上:2008年に始めた頃は、「中南米は家族を大切にする文化やから」とか言われたけど、でも実際問題、行ってやったら別にそういう…、まあ障害者であればこういう、普通に自立生活的な生活のほうがいいっていうのは理解できるし。僕が働いてるとこなんかは病院があって、そこのお医者さんが首都から来て住まうような個人的なアパートがいっぱいあるんです、特に。たとえばパキスタンなんていうと、そういうもの自体が存在しなから、どこでそういうのを始めるんやって話になるけども、学生が一人暮らししたりとか、別にそういうのが普通に行われてるし。でもたぶんそれ以前の10年と、僕らが関わってる10年ってたぶん全然違って。それは、ほぼ権利条約の批准と同時進行でやってるっていうのが一つと。あとこの手のもん、こういうパーソナルな、このFacebook(フェイスブック)なんかの発展とほぼ平行してるんですよ。これで繋がって広がっていくし、そういうスタイルも広がるし。ちょっと前まではプリペイドカードで家に電話してたのが、もう研修に来た人はこれでもう普通に連絡とれるし。んかね、そういう大きな意味での変化がありましたね、たぶん。

立岩:ふーん。ちなみに文字起こしのかた、「これ」って井上さんが言ったのはスマホです。スマホを指して言ったのです。
 たぶん井上さんの話はまた井上さんで、また。いっぺんインタビューしたけど、僕なり別の人が聞くと思うんだけど。さっき宮本さんがおっしゃったのは、そういう露骨な、政治家が言ってくるみたいなこともあるんだけれども、まあ結局その地域でその現場で、現実を作る介助サービスなら介助サービス、それでもう「やってくしかない」的な話だったのかなと思うんですけど。そういう感じだったのかなっていうのと、だけどそれってどうやって回すの? お金だって、そりゃモデルケースだったらそれだけ、それにしてもまあかかるわけじゃないですか。そういうのってどういうふうに現場で回してたのかなっていうのは、どうなんでしょう?

宮本:お金自体は全部JICAの予算で出てましたので。あとは失業率が高いですね、30パーセント超えてますから、とにかく人は来るんですよ。[01:50:10]

立岩:「ヘルパーをします」っていう人ね。

宮本:「ヘルパーをします」という人が。まあなかなか長続きしない人も多かったんですけれども、それはそれで回りましたかね。グループホームのほうはグループホームのモデルがありますから、そこの職員のモデルがあるので、それを施設の外の地域の障害者に使わせるような感じでサービスができたんですけれども、そのコミュニティ重視のソウェトの人たちほうは、どっちかというとやっぱり近所の支え合いの延長線上に介助派遣をするようになったんですよね。

立岩:そのJICAが出してくれる金の範囲で言えば、何人かを利用者として、で失業者いっぱいいる中で「働きたい」っていう人もいてって、それはそれでわかるんですけど。そういうJICAが金くれる限り続くっていうかある範囲のことと、たとえばそれより、それを広くするとか、たとえば南アフリカなら南アフリカっていう国家というかそういうものの中でっていうのは、またちょっとレベルが違うわけじゃないですか。その間のこの移行というか、あるいはその移行の難しさっていうか、そういう的なものっていうのはどんな感じなんですか?

宮本:そうですね。まあやっぱそれは最初っからこう、特に中西さんなので「制度化がゴール」というのはすごく厳しく言われてましたから(笑)、制度化をしないといけないっていう。それでまあ南アフリカってけっこう活動家出身の役人が多いんですよ、今でも。で、私ハウテン州というとこにいたんですけれども、ハウテン州の知事室に障害・高齢・ジェンダー・ユースとかの主流化を担当するという課長が1人いるんですけど、彼はやっぱり南アDPIの出身で、車椅子使う当事者のかたがいて、彼がすごくいいリーダーシップを発揮してくれましたが。あと中央政府の障害サービス課長もやっぱりDPSA出身の当事者のかたで。で、障害問題全体を国のほうで取り仕切る次官補もDPSA出身の当事者で、なおかつ日本にもJICA研修で来たことがあるかたが入っていて。副大臣も弱視の当事者だったんですね。だから行政レベルでは、まあ財務とかとはとうてい戦うときは大変だと思いますけれども、リーダーシップの部分で言うと、わりとこのプロジェクトには前向きなかたがそろっていたので。わりとプロジェクト始めた段階から、「これをJICA終わったらどうする」っていうのを前提で話が始めれたっていうのは大きかったですよね。で1年目から毎年、州の課長級を日本に呼んでどんどん意見交換させたり、見せたり、東京都に連れてったり、東京都の課長とも話させたりとかして。東京都のほうには「今の話はしなくていいから、全身性とか90年代の話をしてくれ」っていうお願いをして、「最初の、東京都がこう全国に先駆けて派遣事業始めたときの話をしてやってほしい」みたいなことをお願いをして、そういう話をしていただいたりしました。

立岩:ああ、なるほどね。そこの中で地方政府レベルなりあるいは中央政府なりで、この10年、南アはそうした政策というのは進み具合はどうなんですか?

宮本:難しいのは、一つは障害者法がないんですね、まだ。障害者だけの法律を作るというのが、障害者の分離に繋がるんだという意見がやっぱりまだ根強くて。権利条約批准したあと障害者法を作らない。もうそういうこと言っても予算の根拠が弱いんだっていう意見はあるんですけれど、なかなかできないんですね。当事者はいっぱい入ってそれなりにリーダーシップ取るんだけれども、もう一押しやっぱり何かが足りないんだろうと思いますね。

立岩:うーん、そっか。役人レベルでは意外と、って言っちゃいけないのか、わりとそういう当事者というか本人とかけっこう入ってて、理解はある。「けど」っていうあたりにいるっていうことですかね。

宮本:そうですね。ハウテン州でももう施設、公営の施設はたぶん向こうで1か所しかないんじゃないかな。あれも潰したのかな? 「施設はとにかく潰す」っていうのが大命題でやってるんですけどね。

立岩:潰すっていう話はわりと受け入れられるというか、良いことになってるんですか?

宮本:そうですね、なってますね。ただ民間のほうの施設運営者たちは、「この子たちには施設は必要」というのはしつこく言ってますけれども。まあそれはだいたいどの国でもそうだとは思うんですけれども。

立岩:で、1個しか残ってないぐらい減って。でそこで、その入らないなり出たりっていう人たちの生活は具体的にどうなの? っていうのは。

宮本:そうなんですよね。それで結局家に戻るだけなんですよね。っていうところで、まあちょうどこの日本、自分がやってたプロジェクトが入ってきたので、政治レベルでそういう、なんか「文化破壊だ」とか煽る人がいる一方で、行政レベルでは「こういうのがやっぱりあったほうがいい」っていう理解はまあ、ある程度あったんですよね。

立岩:そうか、施設をなくして施設から出るっていう動きは宮本さん以前からあって、でも出たって結局自分ちに戻るだけ、っていうリアルっていうか現実の中で、政治家の中でぶーぶー言う人はいるけれども、行政的には「そりゃ何とかしにゃいかん」っていうバックグラウンドって状況はあると。そうすると、その宮本さんたちの活動というか主張というか、そういうものを受け入れたいっていうか、そういうこともあったっていう、そういう話ですかね。

宮本:ええ。

立岩:なるほど。それで、だけど法律がないとか、そんなことで足踏みしているっていう感じ? 短く言うと。

宮本:はい。なので僕がいる間は、法律まではいかないですけれども、コンセプト・ドキュメントというなんか要綱みたいなのを作って、「ハウテン州自立生活センターサービス要綱」みたいなものを作ってですね、それを根拠に一応ハウテン州のパイロット・プロジェクトというかたちで、JICAのお金が終わったあとも介助者のお金は出しますということまで引き継いだんですよ。

■2020 タイ

立岩:地方政府なりが、その州が「それには出すよ」っていうところまで持ってって、っていうことか。なるほど。うーん。で、がらっと私的なことですけど、今、宮本さんはアフリカには住んでる?

宮本:今ですか? 今現在はタイに住んでます。

立岩:今現在はタイに住んでいて、ちょっと待って、第2の、第2というか、タイ人の人と結婚したのがいつ?

宮本:えっと、2011年です。

立岩:じゃあ、まあまあ前ですね。じゃあタイにいた頃はそれで。で、そのかたとは何、単身赴任みたいな時期があったってこと?

宮本:うーんと、ちょっとだけですね。最初の数か月だけ、先に家を借りたりとかで生活ですね、僕だけいて、あとから来るような感じです。

立岩:じゃあタイからアフリカにその人も来て、で、2人でというかアフリカで暮らし。それで今タイにっていうのはどういう話なんですか?

宮本:一応南アフリカのプロジェクトが2月で終わったものですから、ロックダウン直前にタイに戻りまして。[02:00:08]

立岩:ああ、そうか。で、今タイ。

宮本:タイです。

立岩:ロックダウンの直前ぐらいにタイに。で、タイで今何をなさってる?

宮本:タイで会社を作りまして。それで一番最初のルイボス茶の話になるんですけれども(笑)。

立岩:あ、それ〔画面に映っている〕がルイボス茶なんですか。はいはい。

宮本:まあ体裁としては一応コンサルタント会社という名目にしてて。これからも南アフリカのプロジェクトは続くので、私はもう常駐はしませんけれどもちょこちょこ関わって、そういったお金の受け皿にもなるので、まあコンサルタント会社というかたち、名前でやってます。で、それだけだと食べれないので、まあ今ルイボス茶の輸入を、タイで輸入して売ると。

立岩:(笑) へー、お茶を輸入してお茶を売ってる。ルイボス茶ってあれ、どこで作ってるんですか?

宮本:南アフリカの西ケープ州ですね。もうそこでしか育たないという。

立岩:そうなの? ルイボス茶ってあそこだけなの?

宮本:だけですね。

立岩:ああ、そうなんですか。それは、タイ人はそういうものを飲むんですか?

宮本:ほとんど今知られてないので、逆に、ええ、

立岩:これから。

宮本:これから。

立岩:ルイボス茶以外にお取り扱い商品ってあるんですか?

宮本:ちょっと今準備中なんですが、タイの「3in1コーヒー」ってお砂糖とクリームが入ってスティックになってるコーヒーがあるんですけど、それがお砂糖じゃなくて人工甘味料と、あとクリームパウダーを使ってる、ベジタリアン系のかたにも飲めるというので。それにちょっと脂肪燃焼系のアミノ酸が入ってるダイエット系の商品ですね。今度ちょっとAmazon.jp(アマゾン・ドット・ジェイピー)でそろそろ日本向けに売りますので(笑)。

立岩:(笑) ぜひ、そういうことになったら教えてください。

宮本:はい。よろしくお願いします。

立岩:へー、お茶を売ってんだ。いいかもしんない。

宮本:あと、タイの自立生活センターとか小さなコミュニティの団体向けのコンサルテーションとかしてますね。助成金の書き方とか。

立岩:タイのどこにいるんですか?

宮本:今、バンコクです。

立岩:バンコク。タイに就職したときもバンコクはバンコクだったんですか?

宮本:バンコクです、はい。

立岩:いや行ったことないなぁ。そうか。タイ、まあ奥さんタイ人だっていうの…、タイ好きですか? 好きですかって言われても困る?

宮本:(笑) まあ慣れましたね。

立岩:慣れました? 僕は、タイとベトナムとまた味だいぶ違いますけど、タイの料理もベトナムの料理もけっこう好きで、それはいいなと思いますけど。また「こんな話(はなし)してどうなるよ」って話でございます。
 行ったことないですけど、一緒に『生の技法』っていう本を書いた尾中〔文哉〕くんっていうのは長いこと日本女子大の教員やってますけど、タイの教育のことが本業なんだよね。だから彼はタイ語ができるんだな。昔タイ語で年賀状を書いてきたことありましたけど、全然わかんなかったですけど。はい、すみません。どうでもいい話でした。
 だいぶ、もう2時間経っているので。たぶん今日ざっとお話ししていただいたことは、僕ではなくて僕の周りにいる人とか…。でも、いろんなテーマについて思ってるんですけど、もう20年も30年もやっていることが記録されたり検討されたりするっていうことが、あんまり十分、あまりじゃなくて全然十分になされていないのは残念だと思っていて。僕はこのテーマでまとめることはないと思いますけれども、とにかく話だけでも今のうちに聞いといて、それをみんなが読めるようにして、そしたらそれを元手に論文書いたりするっていうことのお手伝いができればっていうふうに思っていますので。今日はほんとにざっとしたお話を伺ったんですけど、あとに続くであろう、いることを願っている人たちが、またお世話になると思いますけれど。そういうのを含めてよろしくお願いいたしますということなんですが。
 井上さん、どうですか? 今ちょっと軽く聞いとくことっていうか、言いたいこととか。[02:05:36]

井上:こないだ奥平さんのインタビュー上げてたじゃないですか。あれ読んでも、中西さんが海外支援を始めるときの証言みたいなのが出てきてるから、いろんな人がいろんな角度で同じことをしゃべると立体感が出てきておもしろいなって思って。

立岩:僕、それすごい大切だと思ってるんですよね。同じことを別の人がそれぞれ語ると、そう立体化していくっていうか。で、ちょっと違うこともあるし、対立するところもあったりするけど、でもまあそれが現実ってものですよね。

井上:そうですよね。で、メーリングリストにちらっと書いたんですけども、JICAの中の人ですごく志のある人に僕らすごく助けられて仕事をしてるんですよ。全員ほぼ共通の知り合いっていう、まあ宮本さんが先に知り合ってて、うちのプロジェクトやる頃にまたっていうかたが、もう全員ほぼ。JICAいっぺんに止(と)めちゃうんですよね、プロジェクト、障害者のやつがあっても。なんかね同じタイミングで、「続ければいいのにな」と思うタイミングでもうなくなって、忘れた頃に復活するから、もうコンサル会社なんかに就職してもう戻れないと、そういう人はね、すごくもったいないような、「なあ」っていうことを言ってるけど、やめないね、JICAっていうのは(笑)。そういう人が今、在野っていうのかな、JICAじゃなくて働いてる人がおられて、おもしろいですよ。ミライロに勤めてる合澤さんなんか、曽田さんなんかをJICA時代に国連に連れてって演説とかさせてますからね。

立岩:ふーん。JICAにいた人が今ミライロにいるんですか。こないだの学会の大会の手話通訳、ミライロさんにお願いしたんですけどね。

井上:辞めた最初のDPIの総会が京都であったときに、普通に活動家みたいにして来られてたんですけどね、合澤さんね。

立岩:合澤さん。

井上:はい。合澤栄美さんっていう、リーズ大学で障害学を勉強。【うの】(02:08:48)さんがおられて【そだ】(02:08:14)さんがおられたっていうあのへんがないと、なかなか今みたいなピアカンでがんがん障害者が海外にっていうような場ではなかったと思います。うん。今またしぼんでるしね。***(02:09:09)さんをコロンビアに送ったのも合澤さんです。で、当事者がやれるようなっていう土壌を作ってくれたかたです。

立岩:たぶん最初に今日名前出した権藤っていう院生は、そんなにでかい話ができるっていうか、するつもりでもないと。たとえば、むしろ日本に連れてきて、いろんなところで研修とかで、ヒューマンケアもそうだけど、メインストリームもそういうこと長いことやってきて、それを受け入れてきた人たちに聞くっていうとこから始めるって話なのかな。それで奥平さんにちょっと聞いた※以外は、メインストリームの廉田さんにインタビュー。それは僕と三者面談みたいなんじゃなくて、権藤さん1人で行って廉田さんに聞いたやつが。それがまあそのままになってて、「このやろう」ってこないだにも言ったんですけど。ちょっとそういうわりと簡単なところから始める人もいるし、もっと外国行ってその場でとらえる人も出てきてほしいし、っていうことは思ってます。[02:10:14]

※奥平 真砂子 i2018 インタビュー――研修の仕事 2018/06/30 聞き手:立岩真也・権藤眞由美 於:東京・戸山サンライズ

井上:それ、こないだの権藤さんのことを立岩さん書いておられて思い出したんですけども、ベトナム人が最新のダスキン研修生なんですよ。で、メインストリームにずっといて。で、たぶん東京にまだいると思うんですよね。なので、ベトナムですよね、権藤さんって。

立岩:最初はね。ベトナムの精神病院とかそういうのに行ったりして。

井上:うちかたぶんリハ協に連絡すればどういう状態かわかるので、もしか要るなら話聞いたらどうですかね? 「自立生活センター作りたい」って言って、廉田〔俊二〕がわざわざ東京まで相談に行くぐらい、最近では力を入れてる女の人なので。ダナンだったかな。ハノイでもホーチミンでもなくて、真ん中のへんのあたりでやるっていう。ちょっと実際そこまで行くかどうかわからないけども、まあまあ。

立岩:権藤は、結局金もない、いろいろない中で、なおかつベトナム語ができるってわけでもないので、結局じゃあ「ベトナムのフィールドワークで論文を書いたりするのはまあ無理かなあ」みたいになったときに、まあ「日本から」っていうか「日本へ」とか「そういうのだったら日本にいてもなんとかなるかね」みたいな、そういうちょっと消極的っていうか現実的っていうか、そういうので始めたとこがあるんだけどね。別件でちょっと話したりすることは、ここしばらくの間にもあると思うんで、ちょっと伝えてみますわ。
 はい。ほんとに細かいこともいろいろと思ったのではありますが、もう2時間15分とかになりまして。バンコクって暑いですか? 今も。

宮本:ちょうど今、冬ですからね。

立岩:それは北半球、冬は冬だと思うんですけども、どのぐらい?

宮本:朝晩が22、3度ぐらいで、昼が32度ぐらいですね。だいぶ涼しいです(笑)。

立岩:それが冬ね(笑)。

宮本:ちょっと大気汚染がひどい季節なので、窓開けられなくなって。一昨日は朝から車のライトつけないと走れないぐらいまっ白になってましたけど。

立岩:あれやっぱり冬の季節なのかな。僕ほんと外国とかあんまり行けない行かない人なんですけど、何年か前北京行ったときはすごかったっすね。「10メーター先ぐらい見えないよ」みたいな。あとで日本に帰ってきたら、その晩のニュースか何かで「史上最悪の空気汚染の日でした」みたいなことを、「えー、その最悪なときに俺ら北京行ったのか」っていうのありましたけど。そうか、バンコクも空気の汚染はあるんですね。僕は今京都で、京都北山、今日雪降りました。わりとあったかいかなあと思ってたんですけど、この3日ぐらい、なんかいよいよ冬になってきて、気温もゼロあたりを、最低気温はそのぐらいの感じで、はい、寒くなりましたねという。時候の挨拶で終わらせるのも何かと思いますが、でもまあ、そういうことで。
 何だろうな、僕も…、そうですね、井上さん、由起子さん以外に話聞こう的な野心はあるんですか?

井上:僕ですか? とりあえず終わらせないといけないので、

立岩:ああ、始まったやつをね。

井上:はい。それから、まあまあさっき言われたようなかたがたは、誰もやらなかったら僕やろうかなと思います。合澤さんとかね、大野純子さん※とか、あとね筑波で介助者やってたいそべさんっていうモンゴルのプロジェクトからコロンビア行ったかたとかね、おられるんですよ。[02:15:20]

※ https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n380/n380021.html
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n430/n430021.html
https://medium.com/morpho-libre/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%82%A4%E5%87%BA%E5%BC%B5%E7%B7%A8-%EF%BC%93-5c4bd8c76301
https://medium.com/morpho-libre/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%82%A4%E5%87%BA%E5%BC%B5%E7%B7%A8-%EF%BC%92-72d506f96ae6

■COVID-19

立岩:はい、お願いします。って「僕がお願いしてどうすんだ」ってですけど、やってくれたら歓迎ですね。それからね、テープ起こしさ、場合によったらっていうか、こっちのお金でココペリさんにやってもらいますよ。昔は私も自分でやりましたけど、大学院生の頃はお金もないし。だけど今さすがにそれはできないから全部やってもらってて、それで。それからもう一つ、そういうお金をひっぱってくるのは大学からとかなんですけど、最後に1個だけ、3分ぐらいでいいんですけど、そういうお金をくれる財源がコロナがらみのテーマのやつにするかなってのもあって。僕はちょうど、それは90年代ですけど、僕は全然国際派じゃない人ですけど、ちょうど90年代にアフリカであればHIVエイズが大変だったときに、アフリカ日本協議会っていうところにたまたま知り合いがいてっていうこともあって、報告書作ったりっていうようなことはちょっとだけしたんですけど。今回のコロナのことも「アフリカどうなんの?」と思っていたし、今でもいるっちゃいるんですけど、意外とすごいことに今はなってないのかな? とは思っているんですけど。そのアフリカと、それからタイあたりというか、コロナ、日本はまたちょっと繁盛してる感じなんですけど、ここまたしばらく。宮本さんが見てらっしゃる世界はどんな感じですか?

宮本:コロナですか?

立岩:コロナ。コロナがらみで。

宮本:タイはコロナの死者よりも、コロナがらみの自殺者のほうが多いですから。

立岩:自殺者ですか?

宮本:そうですね。まあ経済的に立ちゆかない人たちが多いですね。ただそのかわり、タイはほとんど国内で感染出してないので。最近やっとこう海外からの受け入れを少しずつ門戸を広げてますけれども、それまではほぼシャットアウトしてましたから。

立岩:外国から入れないで、国内では発生しなくて。でも経済苦で自殺っていうのは何、産業的にっていう、国際経済的な話ですかね?

宮本:経済的な話ですね。やっぱり観光業が、国が閉まりましたから、そうすると物売りとかも含めて幅広く職をなくしましたんで。

立岩:そうですよね。タイ、そうか、観光ね。

宮本:タイもGo To(ゴー・トゥー)みたいなことやってましたけれども、なかなかそれだけだと。

立岩:そうですね。僕も京都ですけど、一時期京都ってなんか街の中行けば外国人のほうが多いよ、だったんですけど、さすがにというか、外国人は、地元にいる外国人っていうかそういう人以外はね、ほんとにいなくなって、困ってる人は困ってんだろうなという。観光業はそうですね、大きいでしょうね。アフリカは、本格的にっていう前にタイに移ってきたところですけど、何か聞いてることとか、前から付き合いのあるアフリカの人たちが何言ってるとか、そういうのは何か聞いてますか?

宮本:そうですね。介助の利用者さんが亡くなったりとかいうのは聞きますね。あとは政府関係者だと課長も副大臣も陽性が出て、一時期家にいましたね。やっぱりかなり広く広まってる感じがします。

立岩:はい。まあとってつけたような質問ですみません。でもちょっとずつは、これも前から僕言ってはいるし書いてはいるんですけど、当たり前ですけどやっぱり「自分の国の自分の町が」っていうふうに感染症の場合にあるので。たとえばHIVのときもアフリカの話ってほぼ報道されなかったっていうのが悔しくて、僕らも報告書作ったりしたんですけど。「コロナでアフリカは」とか、「南アメリカは」とかっていう視点は大切だと思っているので、話のちょこっとだけでもいろんな人に伺いながらってことは思ってます。[02:20:12]
 何か暗闇の中から顔が出てるみたいなことになっとりますけど、あたりは暗くなっておりまして、照明をつけないまま2時間半やってしまったので、こんな状態ですけど。前々から存じ上げてはいたんですけど、お話を伺うってことはついぞなかったんですけど、今日、長い話を短くしてもらって伺えて、ありがとうございました。これで終わりではなくてまたお願いすることあると思いますし、それから何よりそのルイボスティーがよく売れることを願って祈念して、今日はどうもありがとうざいましたということです。

宮本:ありがとうございました。

立岩:井上さん、何かごあいさつっていうのはありますか?

井上:しばらく帰れないですよね。サイクルが違うから、ここ何年も会えてないんですよ。

宮本:最後にお会いしたのいつですかね?

井上:このプロジェクトやってる間にメインに来てくれたのと、東京でいっぺん飲みに行ったのと、2年おきに会うぐらい? この業界で同じような立場で仕事してた人って宮本さんだけやったから、かぶってる時期はもうほんまによく連絡とって。悩みごとを相談、状況違いすぎるからほぼ愚痴の言い合いになるだけで、ほぼ解決には結びつけへんねんけども。でも、片や東京からタイ経由して、で僕はコスタリカまでって、幅広くこんなに移動する人いなかったので、でもMessenger(メッセンジャー)で常に連絡取れるっていう、なかなかおもしろい時代ではありますよ。

宮本:いい時代ですよね。

立岩:うん、そうですね。僕もなんかもう割り切ってっていうか「いいや」と思って、ここんところ全部オンラインでインタビューしてるんですけど、別にインタビュー自体はどんどんできちゃう。むしろより容易にできるっていうとこあって、私はタイまでさすがに行けませんからね。兵庫、名古屋、埼玉、みたいな感じでここのところお話伺えてて、明日も兵庫ですし、次は九州ですし、みたいな感じで、毎日インタビューをしている今日この頃でございます。
 ということで、どうも宮本さん、ありがとうございました。

宮本:ありがとうございました。

立岩:また薄謝というかそういうことであるとか、それからこれ基本公開させていただくので、表に出るとやばい、ちょっとディスっちゃってるとことかそういうのは、今日は意外となかったと思いますよ。このぐらいだったら全部公開で全然問題ないと思いますけど。

宮本:そうですか。なるべく抑えたので。

立岩:奥平さんとか言いたいこと言ってるとこがあって、僕ちょっと伏字にしましたけど。たぶんそういうことはしないですむかなと思うんですけど。またちょっとそういったものをチェックしていただくとか、まあそんなことでお願いが行くと思いますけれども、よろしくお願いいたします。
どうも、2時間結局半になりました。どうもありがとうございました。

宮本:どうもありがとうございました。

立岩:じゃあ失礼いたします。

宮本:失礼いたします。

立岩:猫がうるさかったです。ごめんなさい。じゃあ、お開きにさせていただきます。どうもありがとうございました。


UP:20210121 REV:
宮本 泰輔  ◇障害者と/の国際協力・社会開発  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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