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宮本泰輔氏インタビュー・1

20201217 聞き手:立岩真也、井上武史 於:タイ・バンコク間Skype for Business使用

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宮本 泰輔  ◇障害者と/の国際協力・社会開発  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築

◇文字起こし:ココペリ121 20201217宮本泰輔_149分 https://www.kokopelli121.com/
※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
 聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)としています。

 ※記録を2つに分けました。
宮本 泰輔 i2020a インタビュー・1 2020/12/17 聞き手:立岩真也井上武史 タイ・バンコク間Skype for Business使用(本頁)
宮本 泰輔 i2020b インタビュー・2 2020/12/17 聞き手:立岩真也井上武史 タイ・バンコク間Skype for Business使用聞き手:立岩真也、井上武史 於:タイ・バンコク間Skype for Business使用
 以下はインタビュー記録の前半です。


立岩:…関係はあるんだと思いますけど、そのシリーズとちょっと違うんですけど、今日宮本さんにお話を伺えればということです。宮本さんと井上さんはなんで知ってるんですか?

井上:僕が会ったのは2008年の11月で、中米カリブっていう地域の研修を受けた最初の年で、JICA(ジャイカ)の。ずーっと前からお話ししてるやつのほんとに始まった年に、1か月半ぐらい日本で研修するんですけども、その中に東京に行くシリーズがあって、ヒューマンケア協会に行って中西さんのお話を聞いたり、ピアカウンセリングをやってもらったり。で、もう一つはDPI***という、何て言うかな、何か独特の言い方がありましたよね、3文字ぐらいのやつ。国のそういう障害者連盟みたいなのの話を聞きに行くっていうのでDPIの三澤さん、尾上さんにお話を伺うコマだったかな。都庁の見晴らしのいい食堂があって、あんまり居酒屋っぽくないけど居酒屋コーナーみたいなんがあって、そこで歓迎会をしていただいて、都のたぶん労働組合の人たちと一緒に。そこでたぶん初めてお目にかかったと思う。

立岩:はいはい、東京都庁ね。ありますね、何かそういうところが。

井上:あれの一番上がレストラン、食堂になって。

立岩:今日は、そんなに「今は何か」っていう話も。実はうちの大学院生で権藤〔眞由美〕ってのがいるんですけど、それが日本の障害者団体とか人の海外協力的なことで博士論文を書こうとはしていて、まだ1個も書いてないんですけど。「そのためになんで俺が」ってとこもなくはないんですけど、でも誰でもできる時はしとけばいい、何かに使えるかなっていうとこもあって。今どきの話はまた、その権藤真由美っていう女性のほうからまた伺わせていただくことがあるやもしれませんが、それはそういうことで。どっちかっていうと今、レトロなっていうか昔話をしてもらうシリーズみたいな感じで、「生まれてこのかた」的な話をみんなに聞いてるんですよ。宮本さんの場合は「生まれてこのかた」っていうのはいいかなとは思ってるんですけど、SMAとか筋ジスの人だと、やっぱり最初の健診とか発見とかから施設に入ったりっていうのが小学校だったりするので、どうしてもそのあたりのことは丁寧に聞かなきゃいけないっていうことでお伺いしてるんですが。宮本さんは若干飛ばしますけど。出身はどこなんですか?

宮本:難しいですね。小学校ぐらいまでは神戸にいたんですけど、あとは東京です。

立岩:じゃあ、もとのもとはというか、途中というか、まあまあ初期は関西におられた。

宮本:そうですね。はい。

立岩:小1っておっしゃった?

宮本:小学校6年まで。

立岩:6年だったらまあ覚えてますよね、そこそこ。

宮本:そうですね。はい。

立岩:それはご両親というか、親の仕事の関係で神戸から東京に移られたってことですか?

宮本:そうです、そうです。

立岩:1970年生まれ。

宮本:はい。

立岩:僕よか10下です。だからどうってことはないんですけど。ちなみに何月何日ですか? [00:05:10]

宮本:11月22日です。

立岩:これけっこうカウントするとき意外と大切だったりして。3月までと4月1日とほら、学年が違ったりするんで、この頃、言いたくない人にもできるだけ言ってもらうようにしてるんです。じゃあ宮本さんに限っては神戸の懐かしい話ははしょらせてもらいますけど、東京に越してきて、東京のどこに住まわれたんですか?

宮本:最初は杉並ですね。

立岩:どこらあたり?

宮本:荻窪です。

立岩:いいとこですね。僕は高円寺に4年。学部の3、4年と修士課程の1、2年と高円寺に住んでいました。それから三鷹だったんで、中央線族だったんですけど。荻窪にはどのぐらいおられた?

宮本:高校2年までいました。ちょうど親が退職したんで、それで社宅だったんで追い出されるという感じですかね。それで、当時バブルの真っただ中だったんで買える家もまあなくて、高かったんで、武蔵村山というところに次は見つけましたけど。横田基地のすぐそばです。

立岩:あの頃ほんと、家高かったですよね。

宮本:高かったですね(笑)。

立岩:とんでもなく高かったですよね。そのあと下がりましたけど。武蔵村山か。それで、僕が聞いてんのは「大学の時代に」っていう話なんだけれども、どこの大学行かれたんですか?

■1989〜 早稲田大学

宮本:早稲田ですね。

立岩:ああそうか、そうすると新宿区みたいな? 早稲田の早稲田。もしよろしければ学部は?

宮本:第一文学部で英文科にいました。

立岩:もともと英語はできたとか好きだとか、そういうとこあるんですか?

宮本:まあそうですね。まあ得意科目ではありました、できたかどうかはともかくとして。

立岩:ああ、そうなんだ。早稲田一文。僕も一応、一応じゃない、受けたことは記憶にありますけど。じゃあ文学部。ここにいる人はなんだかんだ言って、ちょっと若干はぐれものの文学部っぽいところで。たぶん3人とも、たぶんじゃなくって3人とも文学部ですよね。まあでも文学の話はしませんが、僕が聞いてんのは三澤〔了、1942/04/01〜2013/09/30〕さんのところと関係するようになってっていう話を誰かか、どっかに書いてあったかと思うんですけど、それは間違いではないですか?

宮本:間違いではないです。

立岩:ああ、そうですか。そのへんのいきさつっていうあたりから、ちょっと話を聞きたいと思うんですけど。

宮本:そうですね、もともと教職希望だったので、大学2年のときにちょうど早稲田の文学部に、まあ必修じゃなかったんですけれども、「障害児の生理と病理」という講座ができたんですね。板橋区にある整肢療護園というところのPTの人が教えに来てたんですけれども、その授業をたまたま取って、そのときに「ボランティアとか何もしないやつには単位をやらん」と言って(笑)、要するに整肢療護園を運営している日本肢体不自由児協会の夏のキャンプのボランティアのチラシをそこで配られたんですよね。それでそのボランティアに入って、で、そのときのボランティアやってたちょっと年上の人たち、ちょうど立岩さんぐらいのお歳の人たちぐらいの人から、まあ当時、ですからまだ介護制度も、そんな介助制度もない状態で、「国立に一人暮らししてるおもしろいおっさんおるから来ない?」って言われてですね、太田武二さん、『生の技法』の最初のほうの、今の版はわかりませんけど、途中のあの挿絵というか写真が入ってる太田武二さんの、

立岩:あのきったない写真ね。

宮本:(笑) 麺食ってるやつですよね。あれに介助に、夜は完全無給のボランティアでしたけど、入ってましたね。あの当時は昼は生活保護の他人介護料加算とか、東京都の全身性障害者介護人派遣事業とか組み合わせてお金が払われてましたけど、夜は無給でしたね。そこに月1、2回入ってました。

立岩:ちょっと戻すね。太田武二を紹介してくれたのはどういう、誰でした?

宮本:日本肢体不自由児協会のキャンプに来てた、ちょっと古株のボランティアさんたちです。

立岩:ああ、なるほどね。キャンプに来てたけど、整肢療護園の人ってわけじゃなくて、そこの人たちが設定したキャンプに来てたちょっと古いボランティアに。国立、僕も太田さんちに行ったことあるし、なんとなくあの人の感じは覚えてて。なんとなくじゃなくてわりと特色のある人なので、みんな覚えてるよね、太田武二さんのことはね。あれ僕の記憶間違いでなければ、加藤秀一っていう今、明治学院でフェミニズムのこととかそういうのを教えてる社会学者が僕の下でいるんですけど、彼も一時期入ってたんじゃないかな。そんな感じでボランティアに、太田さんのところに、それは2年生のときですか?

宮本:そうですね、2年生のときです。

立岩:ということは、宮本さんは現役で入られた? 早稲田。

宮本:そうです。付属上がりなので。

立岩:じゃあ、89入学ぐらいですか?

宮本:そうです。

立岩:じゃあ90年とか。

宮本:90年ですね。そうです。

立岩:ああ、じゃあちょうど僕らが本出した年ですね。その太田さんの、汚いって言ったらなんだけれども、写真が章の扉にあるやつね。ちなみにあのときの写真は実は、あの本藤原書店から出たんですけど、藤原書店がお願いしていた印刷屋さんが倒産して、そのときの版下が消え失せて。それと同時に、どっかうち探せば、あの写真僕撮ったりしてたのであるかもしれないけど、とにかく版下はなくて。それで今第3版なんですけど、写真どれも使えなくなっちゃって、というちょっと残念なことになってるんです。彼の麺食ってる写真と、それから彼の部屋にあった「介護はこうやるんだ」みたいな、「こうやってしっこ出すんだ」みたいな、きったないその説明書きみたいなやつ、久しぶりに思い出しました。
 じゃあ1990年に入って、それは夏ですか? キャンプのあとってことですよね。

宮本:あとですね。冬かな? 90年か91年の始めかそれぐらいですよね。

立岩:じゃあその夏のキャンプのあとに。太田さんところはちょっと続いたんですか?

宮本:太田さんがそのあと一回山口に引っ越されたんですよね。

立岩:あ、なんかそんなことあったな。

宮本:そのあいだ私は太田さんのとこに行けなくなったので、そのときちょうど新宿で、早稲田の授業で鈴木陽子先生という教授がいらして、彼女の特殊教育学とかいうの取ってたんですよね。そこに新宿ライフケアセンターという、JILの会員さんの団体ですけれども、新宿ライフケアセンターのコーディネーターがちらしをもって宣伝に来たんですね。で、それに申し込んで何軒か入ってたら、コーディネータの人が「宮本くんは障害者運動とかごりごりしたのが好きそうだねえ」とか言って、「三澤さんっていう人がいてね」とか言うんで三澤さんのとこに介助に入らされたんですけども、それが最初ですね(笑)。

立岩:「ボランティアしないと単位あげないよ」的なやつでしょうがなく行くって人はあるんだろうけど、でもそれでも行かないとか、行ってそれで終わりになるって人も、そっちのほうが普通かもしんないじゃないですか。その中でなんとなくというか、早稲田で講義があったとか単位があったとかいうこともありつつ、そこに新宿…行ったっていうのはどういう、今から振り返ると自分的に何かあったのかなと思います?

宮本:何ですかねえ。まあ額は少ないですけど、お金が入ったっていうのはありますよね。あとは何だろうなあ。まあサークルとかに入ってなかったので、サークル活動の延長線上のようなものですよね、ある意味。うーん、それぐらいかな。特段なんかそこで「社会の矛盾に目覚めて」とかそういう感じの人間ではなかったので、なんとなく流されるがままに来ましたけれども(笑)。[00:15:06]

立岩:10年違うと、たぶんそれはかなり違うんでしょうね。僕らの場合は学生運動とか自治会の活動とかそういうものとつるんでるというか絡んでた部分は、その10年前にはあったと思うんですけど。まあ早稲田はそういう意味で言えば○○派がずっとうるさい大学であり続いたことは続いたわけだけれども、じゃあそういうものとはほぼ関係ないって感じだったってことですかね?

宮本:そうですね。革マルの人はもう私の学年ではほとんどいなかったですから。オルグに来るのもかなりもう何留もしてるような人が来てましたから。

立岩:それに革マルはあんまり障害者のことには熱心ではない党派だったように思います。ただ、ずっと遡ると70年ぐらいに仙台の西多賀病院ってところの筋ジストロフィーの人たちに入った学生さんの中には革マルさんの人もいたみたい。そういうちょっとおたくなうんちく話もないことはないんですけど、まあ基本関係なかったっていうことだろうと思います。
 それで太田さんが山梨に戻るっていうか行っちゃって、新宿で、で三澤さん…、その新宿の事務所にまず行ったわけ?

宮本:三澤さんに初めて会ったのは、新宿の戸山サンライズの横にある新宿区の障害福祉センターっていうところで、新宿ライフケアセンターがなんかセミナーをやったんですよね。「ボランティアか労働か」みたいな介助の有償化の話をしていて、ゲストスピーカーが高橋修だったんですよ。で、高橋修〔1948/07/25〜1999/02/27〕さんが話して、ちょうどそのときに「そこに三澤さん来るから」って言ってコーディネーターに連れて行かれて、そこで初めて三澤さんにお会いしました。新宿ケアセンターの事務所はね、ほとんど行ったことがないですね。

立岩:あれはどこにあったんですか? っていうか、僕も1回も行ったことがなくて、新宿にあるってことだけ知ってるんですよね。

宮本:当時の事務所は行ったことないなあ。結局最後まで行かなかったですね。

立岩:そうですか。じゃあそれが、戸山サンライズの横の、確かにありますね。あの建物でのシンポジウムみたいなのが、それが何年って記憶は特にはない?

宮本:えっと三澤さんが【入る】(00:18:06)直前だから、92年の3月かな。

立岩:それで、そのときはただ会っただけって感じ? それとも何か言われたっていうか。

宮本:いや、もう会っただけですね。ちょっと怖かったんで(笑)。ずっと障害児のキャンプから太田武二さんまで、脳性麻痺で言語障害がある車椅子の人としか会ってないんで、ぺらぺらしゃべる車椅子の人はすごく怖かったんですよね(笑)。

立岩:あの人、ちょっと知ると優しいけど、最初ちょっとぶっきらぼうじゃないけど、なんかそんな印象っていうのは僕もあったかもしんないなあ。あったな。

宮本:ただ恥ずかしがりやなだけなんですけどね。

立岩:恥ずかしがりやなんだろうね、あれね。帽子かぶったりしてんのもそういうことなのかもしんない。まあいいや、そんなことは。それで、92年の3月のときは会ったたけだったと。それからどういう、

宮本:92年の4月から毎週木曜日の泊りの介助に入りました。それからずっと入ってましたね、三澤さんの介助には。5年ぐらい入ってました。

立岩:5年、あ、長い。そのときはお金は?

宮本:新宿ライフケアセンターがくれるんですが、泊りは1泊2千円だっけなあ。昼間は1時間700円に事務手数料1割引かれて630円でしたけれども。[00:19:58]

立岩:夜間はそのぐらいだった。じゃあそれは三澤さんからじゃなくて新宿ライフケアセンターに登録っていうか、そういうかたちだからそっちからお金が出るみたいな。

宮本:はい。三澤さんが新宿ライフケアセンターに毎月お金を払って。

立岩:それの生活、5年ぐらいって言ったけど、そのバイトというか仕事は週何時間ぐらい?

宮本:週1です。

立岩:泊りですか? 主に。

宮本:週1泊りです。

立岩:週1回泊り行って2千円みたいな?

宮本:はい。

立岩:あんまりお金になんないですよね。

宮本:ならないですね。あとは日曜日の、太田武二さんが山口から戻ってらしたので、また太田武二さんの介助にも戻っていて。太田さんのほうは払いは良かったですね。日曜日の昼間の介助と月曜の泊り入ってましたけれども。

立岩:そうか。それは太田さんは、太田さんが払ってたのかな? そのときは。

宮本:えっとね、戻ってきたときは、最初は自立生活センター・立川なんですよ。

立岩:そうじゃないかと思うんですよね。

宮本:ええ。まあそのあとなんか高橋修さんと太田さんが仲たがいして、別々になってからは太田武二さんから直接払われてましたけど。

立岩:そんな感じですか。じゃあ太田さんとこと三澤さんとこ合わせて週3ぐらい。そうすると人間暮らせるもんですか?

宮本:あとは育英会をもらってましたね。奨学金をもらって、それと短期のアルバイトをちょっと入れたりとかしてましたけれども。

立岩:だけど、大学の2年3年から入って5年とかだったら、大学卒業しちゃうじゃないですか?

宮本:2年ほど留年してまして(笑)。

立岩:そのとき宮本さんはこれからの人生とか「どうなるのかな?」とか「どうしよう」とか、何か思ってたんですか?

宮本:うーん。まあ最初の留年はあまりにさぼり過ぎたからしかたがないなというのがまあありましたけれど(笑)。大学5年のときに教育実習も終わらせて、それとは別に筑波の心身障害学系の大学院に受かってたんですね。で、なんか言語コースだったんです。言語士のほうのコースでしたけれども、そっちのほうに行こうかなと思っていたんですが、成績表をもらいに行ったら、1人、2年生の英文学入門かなんかの必修で追試不可の不可をくれた先生がいてですね。

立岩:(笑) それはやばい。

宮本:(笑) 「追試受けりゃ出れるだろ」と思ってなめたことをやってたら、思いっきりくらいましてね。それで卒論も終わってその単位だけが残った状態で、もう1年暮らすはめになったんですね。

立岩:5年目の終わりにそれが発覚し、みたいな。「実は俺は5年じゃ出られないんだ」ってことがわかり。じゃ大学院も行けずってことですか?

宮本:行けず、そうですね。そこで辞退届も書いて、あんまり記憶ないですけれど(笑)。

立岩:でも何、筑波のSTってことですよね。その課程に行こうっていうのは魂胆というか、何か思いがあったんですか?

宮本:何でですかね。思えばまあたぶん英語の先生になるよりも、そういう障害者関係の仕事に、っていうのはたぶん思ったと思うんですよね。でまあ、あとは言葉に関するところっていうので、たぶん考えたんだろうと思うんですけれども。

立岩:ふーん、そうか。名川勝さんって人が、

宮本:はい。存じ上げてます。

立岩:名川さんはその頃もういたのかな?

宮本:名川さんはいらっしゃったと思いますね。94年に早稲田で障害者の高等教育に関する国際会議っていうのがあって、私そこに運営側で、教授に呼び出されて手伝いしてたんですけど、そこに名川さんいらしてたので、もういらしてたと思います。[00:25:08]

立岩:そうですか。僕は筑波の社会学のほうの集中講義以外に、障害学系っていうところの院の集中講義みたいので、名川さんに確か呼ばれて行ったことはあるんですよね、何しゃべったとか覚えてないんですけど。なるほど、じゃあもうそれは流れちゃったの。で、6年目に突入しちゃった。5年で終わるはずだったのに。

宮本:はい。で奨学金も切れて、卒論もないし1科目だけなので。まあそこで三澤さんがなんか、三澤さんね、さっきの恥ずかしがりやの話じゃないですけども、「来ない?」とか「仕事があるよ」という言い方はしないで、「英語の手紙が来たらちょっと読んでくれる人がいなくて困ってんだけどな」ってすごいマイルドな言い方されて(笑)、呼ばれて。まあその前からDPIの事務所ではバイトはしてたんですけれども、そっから本格的に入るようになって。で、そのまま就活とかもせずに、そのままDPIに居ついたと。それが94年ですね、94年が6年目です。



立岩:就活、まあ僕もしなかったけど、井上さんもしなかったんだろうと思うんだけど。就活をしなかったっていうのは、「もういいや。ライフケア、三澤さんとこで」みたいなそういう話なのか、それも考えてなかったのか?

宮本:うーん、あまり考えてなかったと思いますね。なんとなく「このまま続くのかな」っていうのはありましたけど。

立岩:退職した親とかは、特にそれについては何も言われなかった?

宮本:父親は退職してね、すぐに亡くなったんですよ。だから私、高校2年の冬に父親亡くして。まあそれがあるから余計に好き勝手できたんだろうなと思うんですけれども(笑)。

立岩:ああそうか。親の無駄な期待はなかったってことね。

宮本:そうですね。

立岩:そういうのはあるかもしれないすね。それで期待がない、まあいいや、そういうある種のプレッシャーもなく、まあなんとなく6年目に突入し、三澤さんから仕事を頼まれて。たとえばその英語の何とかって、それはお金が出る仕事をあてがわれたんですか?

宮本:えっと、当時のDPIの事務所っていうのは、DPIはほとんどお金がないんですよ。

立岩:ないですね。今もないですけど。

宮本:今もないですけど、当時の年間の決算は49万円ですから。私まだ覚えてますけれど(笑)。

立岩:すごいな(笑)。49万円、すごいですね。

宮本:で、障害連っていう太田修平さん〔1957〜〕のとこらと一緒に住んでて、今はDPIのほうが大きくなってますけど、当時は障害連のほうが大きくて。

立岩:事務所一緒だったときのやつか。

宮本:ええ。そこの中にスタジオIていう作業所、通所訓練事業所と、スタジオI生活支援ネットワークという自立生活センターが全部同じ部屋に入って、それでお金を折半しあってるかたちだったんですね。なので自分はDPIからは月1万円だけもらって、あとはスタジオIの作業所のアルバイトというかたちで補助金をもらってました。

立岩:お茶の水の近くでしたっけ?

宮本:そうです。総評会館です。

立岩:ああ、そんな感じでね、事務所を共用して、共有っていうか、お金ないとこ集まってて、その時期ですね。
 それで6年経って、大学はその、一つだけ単位を落とさせたやつの単位をしようがないから取って、卒業にはなり。で、そしたら就職先というか、取りあえずの身の寄せどころとして、月1万円のDPIプラスっていう、

宮本:そうですね。そのまんまいましたね。

立岩:スタジオIの作業所のほうか。作業所の仕事って何ですか?

宮本:作業をしないんですよ、あそこは。

立岩:そうですよね。

宮本:ええ(笑)、作業をしない作業所ですから。まあそこに集まってくる連中と、ちょっと介助をしたり、ぐだぐだしゃべったり、なんかしてるだけでしたけれども(笑)。

立岩:で、そのスタジオIが金くれたの?

宮本:そうですね。スタジオIからバイト代をもらうかたちでした。

立岩:で、暮らせた。

宮本:ええ、そうですね。[00:30:03]

立岩:それは1人分を賄う金額ではあったんですか?

宮本:まあそれプラス太田さんの介助と三澤さんの介助には、それ毎曜日入ってましたから。

立岩:三澤介助、太田介助、月1万DPI、で、

宮本:スタジオIの、

立岩:スタジオIのほう、で、足して足してっていう、そんな感じか。

宮本:そうですね。あとは大学出た頃から、ちょうど当時付き合ってた彼女とまあ一緒に住んでましたんで、そっちのほうに食わせてもらってたという感じですかね。

立岩:その当時は住居っていうか、居住地は同じあたりだったんですか? 荻窪から移ったあとの。

宮本:武蔵村山に移って、学生、大学時代に一人暮らしを始めたので。大学入って、大学3年から一人暮らしで。なのでその頃には、大学出るときには新宿に住んでました。

立岩:ああ、じゃあ新宿区住民だった?

宮本:そうです。

立岩:彼女と暮らしてるときも新宿区でした?

宮本:そうですね。彼女と暮らし始めて新宿に移ってきた感じです。



立岩:なるほど、彼女のほうが稼ぎがあって、みたいなそういう感じね。その生活というか、そのかたちというか、やがてその「外国行って」みたいな話にならないと。なるんですが、

宮本:はい(笑)。終わらないですね。

立岩:それまでの、何年かかったかようわからないですけど、そのプロセスというかなりゆきっていうのはどうだったんですか?

宮本:初めての海外が、「アジア太平洋障害者の十年」っていうのがまあ93年からありまして、94年にマニラで、なんか毎年NGOが持ち回りで会議をするんですよね。日本の事務局はリハ協が事務局になるんですけれども、そこの会議がマニラであったんですね。94年、ちょうど私が大学6年目のときですけれども。で、三澤さんの介助者で、初めてパスポートを取って行ったんですけれども、それが最初でしたね。で、そのあと11月かな、インドネシアに、やっぱり頚損連絡会のかたで今西正義さんというアクセシビリティとかやってらっしゃるかたですけど、今西さんの介助で、あのときは八代英太さんのツアーだったのかな、DPIのアジア太平洋地域会議に出まして。そのときになんかこういろいろと中西夫妻とも初めてきちんと、もちろん前から会って知ってはいましたけれども、なんかきちんと話をして。
 でまあ次の年から、当時郵政省の郵便局のボランティア貯金寄付金っていうのがありまして、郵便局のほうでボランティア貯金っていうものがあって、利子の一部を寄付金に充てるっていう、それに応募をしてですね、でアジア太平洋で小さい事業をやっていこうみたいな、そのインドネシアのホテルの部屋でなんか雑談しながら決まっちゃって。で、それに最初入るっていうかたちで私が充て込まれたんですよね。そのまま、その卒業、特に就活もしてなかったですから、その段階で、そのまんま日本に戻ったらじゃあ、中西由起子さんが「申請書を書くから、あなたはちゃんとタイプ打ちして出しなさい」っていう話で、まあそういうところからスタートしました。

立岩:ああ、なるほどね。じゃあ6年出て終わったあと、方々でバイトしてたけど、海外っていうか、そういう国際的なことをっていう話は6年目には出てて。で、由起子さんに言われて。

宮本:そうです。[00:34:08]

立岩:ああ。そんときの、僕は94年とか何してたっていうか、まあたいしたこと…、まあ僕は就職しちゃったからかな、そっか、という感じだ…、93年に千葉大行って、93年のときは東京の立川と町田と八王子のセンターに調査で学生連れてったりっていうことはしてましたけど、勤め先もできてしまったのでってこともあってそんなに、まあ立川には行ってましたけど…、だったから、特にその頃もそれからそのあとも含めて、中西さんとか由紀子さんたちの海外支援とか、そっちの展開のほうは追えてなくて。どんな雰囲気だったのか、何を目論んでたのかっていうこともほぼ何にも知らないに近いんですが。宮本さんがその頃、学部6年生からバイトっていうか次の生活のあたりの、宮本さんが受け取ったものっていうか感じたそのへんの空気、それはどんな、何をあの人たちはしたがってたんですかね?

宮本:まず一つあったのは、中西正司さんはその頃は海外へはそんなに、今ほど関心がなかったです。

立岩:うん、たぶんそうだと思いますね。

宮本:由紀子さんと正司さんで、そこは役割分担はかなり明確だったと思います。由起子さんもヒューマンケアとかのほうには全然関わらないし、そこは2人の中で明確に役割が分かれてたかなと思いますね。だから当時の由起子さんとかの海外の活動方針って、別に自立生活を広めていくとかそういう話ではなかったんですね。自立生活を広めていこうという話になったのは、やはり2002年ぐらいからが加速したかなと思うので。2002年、2001年ぐらいからかな。最初はあんまりそういう感じではなかったですね。

立岩:なくて、何を?

宮本:郵便貯金を使ってやってたのは5か国ぐらいでやったんですけど、2001年度までやったかな。で、アジア太平洋の小規模な障害者団体の生計創出っていうの、何て言うんですか、livelihood(ライブリフッド)だから、まあそうですね、生計向上のためのプログラム。だからたとえばセミナーを開いて、良さげな提案をしてきた障害者団体に少しお金を渡して、売店を作るための最初の立ち上げ資金を渡すとか、そういう感じのプロジェクトが多かったです。

立岩:ああ、そうか。まだ貯金の金利が存在してた時代だから、利子の一部もお金にはなったわけだよね。そのあと日本には金利というものは存在しなくなりましたから、ボランティア貯金もへったくれもなくなったんでしょうね、たぶん。それがいつ頃のことだかよくは覚えてないんですけど。でそれは書類、宮本さんが清書して出して、当たったってことですよね。

宮本:そうですね。5年ほど続けて当たりましたね。

立岩:それは年間でいえば、いくらぐらいのお金をもらえたものなんですか?

宮本:ものにもよりますけれども、少なければ70万80万ぐらいで、多ければ150から200ぐらいもらいましたかね。

立岩:それは毎年応募して毎年当たるっていう、

宮本:そうです。

立岩:なかなかしんどいはしんどいですよね。書類を毎年書かなきゃいけないわけですよね。

宮本:そうですね、しんどいのと、助成金とか補助金ではないので、「自己資金をちゃんと確保してください」ということをいつも言われてましたね。だから事業の満額はでないんですよ。

立岩:マッチングファンドじゃない。「自分とこでもお金を出せ」と。

宮本:はい。

立岩:だけどお金ないじゃないですか。ていうか、自己資金的のほうはどうしたんですか?

宮本:それで何年だったかちょっと忘れたんですけれども、2003年だかな、連合※に話をしに行ったんですね、三澤さんが。「こういう海外活動をやっててとても評価が高いんだけれども、お金がないです」っていう話をしてですね、それで連合のほうから「連合・愛のカンパ」という助成金があったんで、「それに申請してはどうですか」という話です。それから、たぶん今でももらってると思いますけど、「連合・愛のカンパ」というのを毎年、あれは最初200万からスタートしたかな、いただいて。

立岩:まあそっか、三澤さん障害連関係してたし、障害連は比較的社会党とか連合とかそっちとの付き合いがあるところだったからっていうことで、三澤さんが連合を紹介して、で、そっちで200万もらって、一応こっち、それのお金プラスっていうふうにボランティア貯金のほうにも行って、年によるけど70から150もらってっていう、そういう感じの活動ってことですよね。
 国としては、どういう国? それからそのときの活動記録とか報告書とかさ、そういうのってどっかに残ってるもんなのかしらね? [00:40:40]

宮本:えー、写真はね、どっかに絶対埋もれてるんですけどね、あの事務所。うーん、活動記録。総会の年次報告とかに出てくるのがありますけれども。ひっくり返せば出てきますね。

立岩:そのボランティア貯金のほうに年次報告っていうか、業務完了報告みたいなのはするってことはないんですか?

宮本:あります、あります。それが残ってるかどうかですよね。

立岩:あるとすればどこにあると思います?

宮本:DPIの事務所のどっかですけれども(笑)。

立岩:僕、DPIから捨てられそうだった紙を何箱かもらったんですけど、たぶんそこにはなかったな。

宮本:そこにはないですね。国際関係はまた別に分けてますので。

立岩:わかりました。僕はとうていそこまで手広げる余裕はないんですけど、まああるとすればDPIって。こないだなんかすごいごちゃごちゃになって、「事務所どうする」って言うんで、余った紙がいっぱい出てきて、ある程度はもらったんですよね。

宮本:3年ぐらい前でしたっけ?

立岩:うん。で、『ビギン』※っていうのが、ずっとやってたやつの、あれはすごいかさの資料をもらって、ちょっと苦慮してるって言うとよろしくないですけど、大変いっぱいいただきました。でもほんとは80年代90年代の貴重な行政文書とかがちゃんとリストになってるから、立派なものなんですけどね。
 戻しますと、ボランティア貯金の時代、国としてはどういう国の団体とかに出してた記憶ありますか?

宮本:えーとまあ、パキスタン、フィリピン、中国。

立岩:パキスタン、中国?

宮本:はい。あとフィリピン、あとフィジーですね。その4か国かな。そうですね。

立岩:それはどういうつてっていうか。だって僕らがたとえばフィジーでセミナーでも何でもいいんですけど、そういうものをやるったって、誰に何言いに行くのかって、もう雲をつかむというか、僕はそうなんだけど。それは何、由起子さんがそういう国々に知ってる組織があったりとか、そういうことなんですかね?

宮本:当時はDPIアジア太平洋地域ブロックが毎年集まってたんですよね。JICAのセミナーのかたちをとって、毎年集まってたんです。で、そこのセミナーの中で由起子さんのほうから企画コンペみたなかたちで「何か企画を出してください」と言って、3か国4か国、企画が出た中から由起子さんと、まあ一応かたちだけ僕も呼ばれて、これがいいね、あれがいいねと言って、まあ選ぶと。

立岩:ああ、なるほどね。DPIのアジアっていうのがあるから、そこに来た団体で、みたいな感じで。

宮本:そうですね。はい。

立岩:それは、まあlivelihoodっつってもいろいろあると思うけれども、具体的にはどういう支援をする? あるいはどういう支援にお金を出すっていうか、それはどうだったんですかね?[00:44:38]

宮本:パキスタンは、視覚障害の女性たちを集めている視覚障害の団体さんがあって、通所の職業訓練なんですよね。具体的に出したお金は、若干人件費とかもありましたけれど、材料費とか人件費もありましたけれども、ほとんどはそういう地域に住んでいる視覚障害の女性障害者が通所するための車の燃料代とか、そういうのが主でしたね。
 フィリピンは、最初のフィリピンは、国内でそういうセミナーを、やっぱりこう自営業開始のためのセミナーっていうのをやって、全国の団体からいくつか企画をいただいて、それでまたこちらで審査して、3つぐらいの団体さんの売店を始めるためのスタートアップの資金を提供しました。中国はえーと、2回やったのか。まずは西南で、聴覚障害の人が集まる福祉工場ですね、バイクの部品製造だったと思うんですけど、そこにプラスチック成形の機械を入れるとかそういうことをやりました。あとはもう1つは西安で、西安の団体さんで1人コンピューターおたくがいて、その人に新しい機材を買うお金を渡して、彼が障害者雇用の企業と障害者のマッチングをするデータベースを作って、それを障害者連合会に納品するっていう***(00:46:08)でしたけれども、そういうのをやってましたね。あとフィリピンはもう1つ、農村部で車椅子を自分たちで作って行政が買い上げるっていう、そういうのやってましたけれども。あとフィジーは何やったかな、フィジーは、あ、そうだ、資金集めを担当する人材を育成するっていうのやって、育成してプロジェクト終わったら、もっと給料高いところに逃げていってしまったっていうプロジェクトがありましたけれど(笑)。まあよくある話で。

立岩:ありそうな話ですよね。どうなの、それは何年から始まって何年までやったっていう感じのものだったんですか?

宮本:全部1年ものなんですよ、1年で終わりで。で95年度から始めて、2001年度までやってますか。2001年度まで、2000年度かな?

立岩:じゃあ5年とか6年とか、そういう単年度のやつを6回続けてとか取って、ってやってた。

宮本:そうですね。

立岩:上手くいったりいかなかったり、程度もいろいろだと思うんだけど、そういうのを、宮本さんはそれの何を手伝うっていう、仕事としては分担してたんですか?

宮本:最初はまあ由起子さんに言われるがままに申請書を書くというのと、言われるがままに領収書を集めるというのと、まああとは郵政省が言われるがままに報告書を出すっていう感じで、受け身の仕事してましたけれども。3年目ぐらいからかな、毎年申請の直前に中西邸に行って、由起子さんと一対一で、丸1日か2日ぐらいかけて申請書を読んで議論をするんですけれども、3年目ぐらいからかな、由起子さんが「宮本さんがそれでいいと思うんなら、それでやっていいよ」と言ったので、それぐらいからですかね、わりと主体的に取り組むようになったのは。来た、アプライがあったそのいろんなプロジェクト提案の中から選ぶ。で、それをこう郵政省向けのフォーマットに落とし込んで、ちゃんと情報を足して入れ込んだりとか、そういう国内調整とかそういうプロジェクトの起案とか、そういう感じのことをやってましたね。わりと小規模だったんでやりやすかったですけれども、いい勉強でした。

立岩:それが95年に始まったやつの3年後目だとすると、95、96、97ぐらいってことでしょう?

宮本:そうですね。

立岩:僕も中西さんは何かでっていうか、正司さんはもっと前から知ってたんですけど、実は97年に僕、仕事でヨーロッパ行ったったの1回っきりぐらいなんですけど、ロンドンに97年の年末に行ったことあって※。そのとき、もうそのあと亡くなっちゃいましたけど、ヴィク・フィンケルシュタインとかそういうイギリスの活動家とかのレクチャーとかもあって、全部それ通訳してくれたの由起子さんで。だからそれが97年の秋でしたから、末じゃなくて秋ですね。だからほぼその頃っていうことだな。一方で由起子さんはそういうことをしててっていう感じだったんでしょうね。
 それは、6年か5年か続いたやつっていうのは、まとめ的な感想…、そうやって仕事をやりながら、まあ上手くいったりいかなかったりいろいろだったかもしれないですけど、どんなことを思って、今にしてもそのときにしても思ったり、だったんですか?[00:50:48]

※立岩 真也 1998/01/01 「ケア・マネジメントはイギリスでどう機能しているか」,『ノーマライゼーション 障害者の福祉』18-1(1998-1):74-77 10枚

宮本:やってるときはねえ、由起子さんに怒られないようにやってましたけれど(笑)。今思えば、逆にたぶん井上さんも感じると思うんですけれども、今若い人がこういう海外関係の仕事を覚える手頃な大きさのプロジェクトってないですよね。どれもばかでかくなっちゃって、JICAとのお付き合いで。

立岩:JICAとかだとおっきいもんね。

宮本:あんな100万とか70万ぐらいでやらせてくれて、なおかつ外国の地域の当事者と話ができるようなプロジェクトってなかなかないじゃないですか。そういう意味ではいい経験させてもらえたかなと思いますね。いろんな違う種類のプロジェクトも見れましたし。

立岩:なるほど、そうかもしれないです、確かにね。1人2人じゃ手に負えないというか、そういう偉い人がいたりっていうようなおっきなものじゃなくてってことですよね。手頃なっていうか、2人で、「由起子さんがいいって言ったらいい」みたいな、そういうやつで。もう5、6年やっててっていう。ああ、そうか。
 それは、2001年だかそのあたりっていうのは、僕もその当時のことは何も覚えてませんが、あれ郵政省が要するにやってたってこと?

宮本:そうですね。

立岩:あれは何、その仕組み自体が消えてくわけですか?

宮本:1つは民営化ですよね。で、利子がなくなりましたよね。で、どんどん先細るのと一方で、阪神淡路大震災後にどんどんやりたい団体の数が増えてきて、NPO法ができてっていうとこで、やりたい手はいっぱい挙がって、金はどんどん減ってというところで、後退していった感じですかね。

立岩:阪神淡路、95、そうですね。僕らは94年に、さっき言った千葉大の2年目っていうのが94年で、93年はCILの調査したんですけど、94年にNPO法を作るって人たちに学生に話聞かせたりして※。で、その翌年に阪神淡路ですよね。NPO法作るっていうのは地震の前から始まってたんだけど、あれで加速されてできて、でNPO多くなって。そうなると、そうか取り分というか分け前も少なくなるし、で利子もなくなるしっていうんで、だんだん細っていって。で、なくなってやめたんですか? それはよく覚えてらっしゃらない?

※千葉大学文学部社会学研究室『障害者という場所――自立生活から社会を見る(1993年度社会調査実習報告書)』,発行:千葉大学部文学部社会学研究室,375p.
 千葉大学文学部社会学研究室『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』,千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会



宮本:いや、そうではなくって、2002年にDPIの世界会議が札幌であったものですから、そっちに全力を傾けなきゃいけなくなったもので、できなくなったんですね。

立岩:じゃあ、あったのはあっただろうけど、あったにしてもそっちじゃなくて、札幌大会の準備、みたいな。DPIの札幌にけっこう働かされたんですか?

宮本:僕自身は現地の組織委員会の事務局長代理っていう肩書をもらって、札幌に8か月、最後は派遣されてましたので。

立岩:ああ、じゃあ十分に働いたわけですね。

宮本:(笑) その前後はだいたい1週東京、1週札幌っていう生活をしてましたんで。

立岩:あれはなんかみんな「良かった」って言うけどね、札幌のやつは※。

※DPI日本会議+2002年第6回DPI世界会議札幌大会組織委員会 編 20030530 『世界の障害者 われら自身の声――第6回DPI世界会議札幌大会報告集』,現代書館,590p. ISBN:4-7684-3436-3 3150 [amazon][kinokuniya]
 この大会に関係した人へのインタビューとして
 永村 実子 i2021b インタビュー・2 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所

宮本:ありがたいです。「ごはんがおいしかった」とか、そういう(笑)、

立岩:事務局次長的には大変だったんだろうけれどさ、まず、どうだったんですか?

宮本:そうですね、着任して一番最初にやったのは予算確保でしたけどね。やっぱり札幌の人たちが、そんなに国際会議を作った経験のある人がいないのと、あとは地元の人たちが「これもやりたい、あれもやりたい」ってのを、がやっぱり断りきれないので、予算の規模がどんどん膨らんでたんですね。で、集まりも悪かったっていう。当時やっぱり、札幌大会を最初に言いだした94、5年当時っていうのはまだ拓銀がいたんですよね、北海道には。で、拓銀が潰れてしまって、結局札幌のお金集めってけっこうそっからは難しく…、難しいっていうか、最終的にはけっこう集まりましたけれども。いわゆるリーダー格がいないんですよね。拓銀が「いくら出す」って言ったら「じゃあうちはいくら出す」っていう暗黙のルールがありましたけど、そういうのがない状態だったので。北海道新聞にはいつも資金不足を叩かれて書かれ、っていう状態で着任をしましたね。だから、最初はコストを見直したりとか、あとは海外との調整とか、そうですね、ホテルのこととか、ほんとにロジ周りとか、

立岩:事務局次長、そうね、外国とやり取りできるっていったらそういう仕事だよね。うちの今研究所だと長瀬〔修〕さんがほぼそういう係っていうか、いやまあ彼にしかできないというか、少なくとも僕にはできない仕事なので、とても助かってますけど。あれってDPI日本会議がっていうところと、札幌で動かしてた人たちとか組織っていうのは、障害者サイドではあったんですか?

宮本:もともと札幌の障害者たちがやりたいと言いだした。で日本側は、そんな言いだされたときの、ねえ、年間決算が49万の団体が、まさかそんなおそれ多くて言えないわけで(笑)。まあどっかで諦めるだろうと思いつつ、特に止めもしなかったんですけれども。そうですね、だから札幌のほうがどっちかというと、いわゆる日身連系の団体から共産党系の団体まで全部入ったかたちで組織委員会をつくって、会長は当時の札身協の会長さんに入っていただいて。で、事務局長的な首根っこ押さえるポストは、まあDPIの西村というのがついていて。まあ彼は北海道庁の職員でもありましたので、組合を通して道知事とかにも働きかけして、自分も道庁の職員として組織委員会に出向させてっていう、かなりむちゃくちゃなことやってましたけれども。

立岩:その西村さんっていうのは、フルネームだとどういう人なんですか?

宮本:西村正樹さん。

立岩:字覚えてますか?

宮本:「正」しいという字に樹木の「樹」です。

立岩:西村正樹さん。その人が、じゃあけっこう札幌はわりと手広くというか、いろんなレンジの人たちが「会議やりたい」ということで集まってた。

宮本:逆に東京のほうが難しかったですよね。DPI弱小団体で、いわゆる〔障害者の〕10年推進会議みたいな、ああいう日身連とか全社協とかの枠組にも入っていない団体でしたから。まあ4年前の98年のメキシコ大会で札幌が正式に決定したあとに、三澤さんがあちこちに挨拶に回ったり、お願いに上がりましたけれども。まず板山賢治さんは「また迷惑なものを持ってきて」って感じのこと、はっきり言ってましたけれどもね(笑)。やっぱり東京の枠組みをどう作るか、「DPIっていう日本の弱小団体が呼んできたもののためにみんなが集まるっていう枠はちょっと作れないよね」っていう感じでしたね。でもそれがないと厚生省、当時厚労省に切り替わったぐらいか、とかの応援バックアップは得られにくいよね、というところで。最終的には札幌の次の週に、大阪で「アジア太平洋障害者の十年」の最終年記念イベントをやって、そのあと滋賀の大津でアジア太平洋の閣僚級会議を開いて、第2の十年、第2の「アジア太平洋障害者の十年」の枠組みを決めてったんですけど、それを全部まとめて、えーと名前を忘れたな、まあそういうキャンペーン、札幌から大阪・滋賀にいたるまでを全部を1つのキャンペーンだって位置づけて、それの執行委員会をまあ東京に作ると、それで国のお金をひっぱってくると、そういう流れになりました。[01:00:11]

立岩:そういう仕掛けをつくったことに寄与した人たちっていうのは誰なんですか?

宮本:まあいろんな団体を1回集めてっていうのは八代英太さんの事務所でやりましたね。

立岩:ふーん、八代さんまだそのとき議員か。

宮本:議員です。

立岩:じゃあ八代さんがそういう役割も果たした。で、板山さんはそのときは職というか、

宮本:リハ協にいらっしゃいましたね。

立岩:じゃあ何、「そんなめんどくさいもん持ってきて」っつって、板山経由で厚労省とかそういうのはなかったんですか?

宮本:たぶんそれだと、まあやっぱり障害当事者の団体の大会ですから、そういうかたちというよりも当時の、【アジア太平洋新十年推進協議会】(01:01:00)っていう名前なんですけれども、リハ協に事務局があって、JDFがいて、障害者協議会がいて、全社協がいて、日身連、日盲連、ろうあ連盟、あとなんかがいくつかあるような枠組をやっぱり連れていかなきゃいけなかったですから、そこは板山さんが個人で動くというよりも、八代さんがみんなを集めて、というのがあって。そこにDPIもまあ三澤さんが出てっていう、お願いをするというなんか儀式的なものがありましたけれど。だから組織図案とか三澤さんと話しながら作って、八代さんとこに事前に持ってったりとかもやりましたけれども、そういう感じの仕事をやってたんですね。なので郵便貯金のほうはもうさすがにできなくなってきて。

立岩:うーん、そりゃそうですわな。でまあ「金額も細くなっていくし」みたいな、「そんなことはやってらんない」っていうか、そっちに行ったと。そうですね、そういうあたりのことは、ほんとに僕は、2002年、京都に移った頃か、僕で言えばほんとに何も知らなかったに近いですね。札幌のやつはそのあと本が出たりして、そのときの記録はありますけれど、見させてもらいましたけれど。なるほどね、まあひとわたり、もう今年までいってもいいし、井上さん、これまでのところで何か聞いとく的なことありますかね?

井上:まだまだ大雑把すぎて。僕、同時並行で中西由起子さんにお話伺ってて、ちょうど裏取りをしてるような感じで、今(笑)。あと質問じゃないんですけど、さっきの由起子さんの思い的なのは、最初は確実にCBRを、世界的な情勢でCBRを推進してて、それを疑いなくやってたって言ってましたね、本人。で、まあそういうのに参加してたら、「結局はやっぱり専門家じゃん」みたいなことで、そういう当事者主体で自立生活運動に来てたと。たぶん正司さんなんかの影響もあったんちゃうかなと思うけど、そのへんは。

立岩:CBRっていうのは、今でもCBRってちゃんとあって、連綿と続いてるっていうか、コンセプトっていうかな、そういうもんなんですか? 全然そのへんよくわかってなくて。

井上:CBIなんとかっていう、今、

宮本:CBID。Community-based Inclusive Development(コミュニティ・ベースド・インクルーシブ・ディベロップメント)って。

立岩:ああ、単語が増えてるわけね。

宮本:そうですね、リハビリテーション、

立岩:リハビリテーションとは言わなくなって。なるほどね。[01:04:42]

宮本:ええ。まあやってること変わんない。

井上:覚えたっていうか学習したのは、僕らは自立生活運動を始めてるときには、もうすでに敵がCBRなので。でも、CBRはCBRで、コミュニティだから、コミュニティじゃない施設的なものからコミュニティに移すっていう、一応その時点ではそれが革新的だったんですかね。

立岩:うんうん。

井上:そういうこと自体があんまりわかってなかったけども。で、今はそっちもそういう当事者主体的なものに合わせて少しバージョンアップをしてるっていう、みたいです。
 でも由起子さんも今でもたぶん、そんなに疑いなく、そういうグローバルスタンダード的なものにはそのまま「オッケー」って言ってるような感じがする。今のSDGsの推進の仕方にしても、やっぱりそういう、昔からやられてきたこう、日本で最初に受け取ってそれを普及していくっていう役割をされてるような気はしますね。

立岩:井上さんは由起子さんにかなりもう聞いているわけね、話を。

井上:僕は4月3日に、ヒューマンケアができる前ぐらいまで。午後のいっぱいぐらいで。

立岩:午後いっぱいで、80年代真ん中ぐらいまでようやく聞きました、みたいな。

井上:正司さんが途中で入ろうとして、「この人まだ出てこない」って言われたんですけど(笑)。

立岩:まあそうでしょうね。それは何、録音の記録とかあるわけ?

井上:そうです。今、岸政彦さんのInterview Writer(インタビュー・ライター)を使って必死で文字起こしを、

立岩:なるほど。僕はだから、そういうちゃんとしたインタビューとかに比べたら、まずはざっとって。まずはざっとやんないと、今年まで来ないからね。

井上:それはそうなんですよ(笑)。ざっとやると、間に「あの」とか「その」とか挟まってんのが気になって、それ全部起こすと、あれ終われへんのですよね、。

立岩:それはどっかではしょるっていう技術を身に着けないと、ほんとに終わらないよ。っていうか、とにかくはい、けっこうこれまででも時間使わさせてもらっているので、先に行きますが。そのDPI、たださっきにも言いましたけど、権藤なりがまた聞きたくなったらまたお邪魔するということにさせていただいて、とにかくなかなか大変だったけどDPI札幌まあ終わらせて、それでもまだ2002年とかでしょ。まだ18年もあるよ。それから宮本さんの人生はどうなっていくんですか?


 続き↓
宮本 泰輔 i2020b インタビュー・2 2020/12/17 聞き手:立岩真也井上武史 タイ・バンコク間Skype for Business使用聞き手:立岩真也、井上武史 於:タイ・バンコク間Skype for Business使用


UP:20210121 REV:
宮本 泰輔  ◇障害者と/の国際協力・社会開発  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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