ぼくは、当年80歳。保健所という役所で子育ての心理カウンセラーを50年ほどやってきました。 その間にお会いした親子連れは1万ケース以上となります。心理相談を通して、障害をもつ子も「地域の中で共に育つ」と一生懸命にやってはきました。
ところが、です。こうした懸命の地域生活を支え合ってきたなかに、大きな落とし穴があることに気づきました。親子と相談員の一致団結の姿勢に、それらの障害児ときょうだいとのつながりが、相談の場からはすっかり見落とされてきました。家庭で育つきょうだい達は同じ家庭に育ちながら、ほとんど顧みられなかったのです。
そこでぼく自身、その反省から、「障害者ときょうだい」(「福祉労働」107号、2005年、現代書館)を編集しました。今から15年も前のものですが、その中からエピソードをいくつかご紹介したいと思います。
ある日1人のお母さんとの相談の中でこんなやりとりがありました。3歳児健診でお会いしたこのKさんとは、もう3年近く相談を続けてきました。そしてお子さん(A君)の就学のことをいっしょに考えていたときのことでした。A君はかなり強烈な(?)自閉症の子です。
ぼくが「A君もあと半年で就学です。入学したあと新しいクラスメィトといっしょにやってゆくわけですから、友だちとのつながりをつくる準備として、このあたりでまず、きょうだい関係ももっとどう深めてゆくか考えてみましょう」と提案しました。
ところがお母さんは「うちのきょうだいたちは、全くAにはかかわろうとしません」と言います。「ええっ!どうして?」「とにかく関係ないっていう感じなんです」。
この返答にぼくはもう返す言葉が見つかりませんでした。
それにしても、そんなきょうだい関係にも気づかず、ぼく自身いったい何をやってきたと言うんだろう?そんな自問自答が始まりました。「地域の中で」「統合保育を!」「統合教育を!」「ノーマライゼーション」とたしかに一生懸命にやってはきました。でもA君の足元のきょうだい関係にはまったく目が向かなかった。A君のことだけ家族という実体から抜き出して焦点を当ててきてしまった。
お母さんと会うたびに、お母さんの相談のニーズに応えてA君のことに話を集中させてきた結果、お母さんの視野をA君のみに焦点を当てるように、知らず知らずのうちにあおってきてしまった。そしてお互いに、A君と他のきょうだいとのつながりが視野に入らず、その結果きょうだい関係を育てる努力を怠っていた。
そのようにして他のきょうだいたちに対する親の関心をなおざりにさせてきたことで、きょうだいたちには申し訳ないと思うし、またA君にとっても望ましい家庭環境とは言えない状態になっている。そんな悔やまれる気持ちになりました。
そこでほかの相談ケースについても同じくきょうだい関係ではどうかな?と改めて振り返ってみました。するとどの子についてもやはり同じ過ちを犯していることに気づきました。
そんな反省をしていた頃のことですが、あるお父さんからこんな言葉を聞かされショックを受けてしまいました 。
「Eが今度普通学級に入学すると、2年後に弟のSが入学した場合、SがEのことでいじめにあうかも知れません。でもSを犠牲にしてでもEの普通への入学を実現させるつもりです」
兄が同じ学校にいるということで弟のS君がはたしていじめにあうかどうかは別にして、「Sを犠牲にして」というお父さんの言葉に、S君に対する言い知れない不当な態度を感じてしまったのです。そしてそんな思いへと、自分が相談を通してお父さんを追い込んでいったのではないかという自責の念をいだきました。
障害をもつ子の親が他のわが子たちに望みを託して、障害をもつ子に対しては冷淡になるという話はしばしば耳に入りますが、その一方で、先にご紹介したように、いったん障害をもつわが子のことに全力をあげて取り組むとなったときには、今度はその子のことだけに注意を注ぐ傾向が生じます。
その場台、心理相談員としては精一杯それに応えなければという思いから、親の方と相談で会うたびに、お互いに障害をもつ当事者に対するかかわりだけに関心を集中させ合って、結果的にほかのきょうだいたちのことをなおざりにしてしまう。そんなきょうだい関係は障害をもつ当事者にとっても決して望ましいことではない?このような落とし穴に留意する必要があると思うのです。
その後、十数年経った頃のことですが、ある日、Kさんから、A君のお姉さんがぼくに会いたいと言っているので、と言われ、その方とお会いしました。A君のお姉さんとは小学生のときに一度だけ、会のピクニックでお会いしたことがあります。
いま大学の4年で卒業論文を書くことになった、そこで自分としては障害児についての研究テーマを選びたい、ということで、いろんなことについて質問を受けました。この時ぼくはうれしかったですね。すでに永い月日が経っていたとはいえ、やはり心のどこかにA君のきょうだいたちにはすまなかったという思いがありましたから。それにたった一度お会いしただけなのに、よく思い出してくれたなあという気持ちでした。
そしてそれ以上に、このお姉さんが障害児についての研究を卒論のテーマに選んだことにも感銘を覚えました。その時「Aにはまったくかかわろうとしません」というお母さんの言葉を思い出していました。
確かにその当時はそうだったのでしょう。でもお会いしたその時には、きょうだいはやはりきょうだいなんだなと感じました。だって20年以上にもわたって毎日同じ家の中で寝起きを共にして育ってきた関係には、やはりそれだけの重み深みがあるのだという思いがしました。
Mちゃんは重度の知的障害があり、保健所で相談していた頃に、受け入れてくれる幼稚園をお母さんと探し出して入園。その後ねばり強いたたかいの末、校区の普通学級に入学しました。そのうちクラスメィトたちが、放課後毎日のようにMちゃんの家に遊びに来るようになりました。そして自分たちのグループを“オーロラ軍団”と名づけました。
やがてMちゃんの妹Nちゃんが同じ小学校に入学しました。入学の日からNちゃんは、「きょうからMちゃんといっしょに学校へ行ける」と、待ち望んでいたことを実行に移しました。
いま改めて思うのは、Nちゃんの積極的なこの気持ちはどのように育ってきたんだろうということです。 1つには、もちろんお母さんお父さんの態度によるところがあるだろうと思います。でももう1つは、いま記したオーロラ軍団というMちゃんのクラスメイトたちとのきずなによるところが大きいのではないでしょうか。
毎日のようにMちゃんの家に集まって楽しく盛り上がっている集いに、Nちゃんも当然のこと惹きつけられ、いっしょに仲間入りしていたことでしょう。そういう絆と楽しい雰囲気の中で、NちゃんはMちゃんとのかかわり方についてもいろいろ学び、身につけていったと思われます。Nちゃんはのちに福祉分野の仕事に従事するようになりましたが、今ではその鋭い感性に、ぼくもしばしば心を打たれるものがあります。
Yさんには知的障害をもつ妹Eさんがいます。ご両親の大変なご苦労あってのことではあると思いますが、でもとにかく Eさんは幼稚園、小学校、中学校と通常の進路を歩んできました。
お姉さんのYさんは、Eさんに対してとくに障害ということを意識せずに長い間共に育ち、勉強なども一生懸命教えるなど、思いやりのあるお姉さんぶりを発揮してきました。そして小学校五年になった頃、はじめて“障害児”という言葉を意識したとのことです。Yさんが大学生のときには、Eさんの高校入学のために行政との交渉の場にも参加しています。
Yさんのお話からは、妹さんに対するかかわりになんら特別な意識もいだかずに、共に暮らし成長してきたという印象を強く受けます。その背景としては、まずご両親がYさん、Eさん双方に対して思いやりがあったと思いますが、そのほか、Yさん自身によれば、住んでいた地域社会が大変温かい近隣関係で成り立っていたとのことです。
いわば“古き良き”町内会を思わせるようなところです。Yさんの住んでいたところにはこのような生活基盤となる地域社会がまだ成立していたそうです。ですから学校の校風にもそれが反映していたし、それから放課後地域で過ごす場でも、実に睦まじい近所づき合いに支えられた子どもの世界が実現していたそうです。
このNちゃん、Yさんのエピソードは、ぼくたちに大きな示唆を与えてくれます。それは、単に親にだけその責任が求められるのではなく、地域社会、いやもっと小規模な次元で考えていいと思いますが、近隣関係やクラス集団の範囲であれ、温かい関係づくりが成り立ってゆけば、おのずと望ましい思いやりのあるきょうだい関係もまた形成されてくるのではないかと思うのです。
ぼくが半世紀前に育ってきた福井県丸岡町という人口六千人の小さな町のことを思い浮かべてみて、いまの子どもたちの地域環境との違いは、なんといっても隣り近所からはじまって町全体の住人たちが、大なり小なり知り合っていたということです。ですから学校で出会う子らはお互いにどの辺に住んでいるか、きようだいは誰々かを知っていたし、親はまた親同士で知り合っているというように地域が一体になっていました。
もっとも、逆に言えばプラィバシーもなく、絶えず人目を気にしながらお互いに暮らしていたという一面は否めません。その点では、現在のお互いにまったく没交渉の地域環境のほうが気が楽とも言えますが、ただ同時に、毎日顔を合わせる近所の人とも挨拶一つしないというよそよそしさ、寂しさがつきまといます。
いわばお互いに根なし草、浮き草のような存在で水の上に浮いて接触し合っているようなもの。ちよっと風が吹いたり、さざ波が起こったりしただけですぐ離れていってしまう。じつに浅い関係で成り立っています。そんな関係ではいったん“切れた”となると、相手に対する攻撃に歯止めをかける内面的な心情や親しみ、そんなものがないのです。だから相手の痛みも傷の深さも伝わってこない。
親しい関係と言っても、その心情の深さやきずなの強さとかにはおのずから大きな限界があるだろうと思われます。ですから反対に、“古き良き”時代のように、もしお互いの家族同士が深く知り合い、つながっていた場合には、子どもたち自身の関係にも強い絆ができるのではないかと思うのです。
2020年の現在は、きょうだい自身の声、切実な悩み、本音が新聞やテレビなどでもよく取り上げられるようになりました。心の最奥に隠され、抑制されてきた本音がようやく出せるようになり、きょうだいの実情が丸ごと社会に受け止められるようになりつつあるように感じます。4月10日 の「きょうだいの日」の制定もとても素晴らしいと思います。大学の卒業論文では「きょうだい」自身をテーマにする方も多いそうですね。これまでは、障害児者への支援、親への支援の時代でしたが、「当事者」というコンセプトに障害児者、親だけでなく、きょうだい、その子ども世代が、共に支援の対象となる時代になりつつある、という認識です。今年2020年は埼玉県でケアラー条例が成立し、ヤングケアラーも注目されていますね。
そもそも、ぼくがなぜ「きょうだい」というテーマについて長い間考えさせられていたのかを掘り下げると、そこには早逝した「いもうと」の存在があります。ぼくの人生は,悲しいことが人生の初期に起こり、それがある意味、全人生に陰を落としてきたのですが、でもそのことで人生を奥深いものにしてくれました。
今回、「きょうだい」について再考するにあたり、ぼくのほとんど全人生を別な意味から見直すことになりました。過去に帰らぬ存在として受け止めてきた存在を、いま生きている、自分にとって改めて違った存在として受け止め、その結果、いま生きている自分をも見直すことにつながったからです。もはや存在しない「いもうと」との関係を新たな視点から見直す、つまり再生することができ、とても広いつながりと視野が開けてきた様に感じます。
いっそう明るくしあわせな人生として受けとめてみようと思った次第です。これは、ぼくの個人的な思いですが、読者の皆様の中にも、悲しい、あるいは不幸な思い出を乗り越えて、お互い幸せな人生へと、前向きに生きることができる様に共感してくだされば何よりです。