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見形信子氏インタビュー

2020/12/12 聞き手:立岩 真也 Skype for Business使用

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見形 信子  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/

 ※記録を2つに分けました。
見形 信子 i2020a インタビュー 2020/12/13 聞き手:立岩 真也 Skype for Business使用(本頁)
見形 信子 i2020b インタビュー 2020/12/13 聞き手:立岩 真也 Skype for Business使用

立岩:ご無沙汰でした。

見形:ご無沙汰してます。もう一人いらっしゃるんですね。

立岩:坂野さんといううちの大学院生で、岐阜の方で大学の教員もやってるんですけど、ちょっと聞くだけ聞きたいっていうことで、よろしければ。

見形:聞くだけ、はいどうぞ。

立岩:今日はどうしようかなと思ったんですけど、近年の見形さんのいろんな場所での活動、活躍っていうのはわかる部分はあるので。どっちかっていうと今日はわりと昔話というか、人生前半みたいなお話をお伺いしようと思って。そういうことって長くしゃべることってないので。今日、事前にというか朝になってから調べて。見形さんは69年生まれなんですね?

見形:はい、そうです。

立岩:ちなみに何月何日ですか? お誕生日。

見形:誕生日はもうすぐで、1月です。1月24日です。

立岩:ウェルドニッヒ・ホフマンっていうことなんですよね。SMAの一部というか、そういう、

見形:そうですね。SMAのたぶん、ウェルドニッヒではなくて、たぶんU型だと思うん…、

立岩:最初はウェルドニッヒ・ホフマンって診断されたんですかね?

見形:そうですね。はいはい。

立岩:SMAの場合は、筋ジスのデュシェンヌの人なんかだとわりと診断が5つとか6つとかっていうことはあると思うんですけど、見形さんの場合はそもそもというか診断みたいなことっていうのは、いつどこでどうなったかっていうのは、まあ覚えてらっしゃらないかなと思うんですけど、親から聞いたのか、そのへんはどんな感じなんですか?

見形:小学校5年生だったと思うんですけど、療養所に入所することになって。国立東埼玉病院です、埼玉の。そこのドクター、主治医だった当時のいしはら先生っていうかたなんですけど、わりと今の着床前とか、遺伝子治療に【とうすい(陶酔?)、すいとう】、何ですか、こう寄ってるというか、推進してる先生で、現在もそうかちょっとわからないですけども、その先生は私のドクターで、主治医で、その先生が診断をくだした。私の検査をして、そのときまでわからなかったんですね、私がSMAっていうことが。そこで筋生検ってよくやるんですけど、あれをやって、「あなたはウェルドニッヒだね」って言われて、「いつまででも長生きするからべつに大丈夫だよ」って言われて(笑)、「普通に、他の筋ジスの人とは違うから」って。

立岩:ああ、なるほど。そういう説明のされかたをされたと。

見形:はいはい。で、「いくつまででも、まあ肺炎さえ起こさなければ生きれますからね」って言われて。「ああ、まあそうなんだ」って思って。でもそこですごく、けっこういろいろわかってたので、周りにいる筋ジスの男性の、男子の患者さんたちが亡くなっていくのを見てて、「ああ、なんか自分は」、自分とは違うっていうか、すごくショックなこと。なんか嫌な、「私はなんで、ずっと見てる側なんだろうな」みたいな。うん。そこですごくショックを受けたというか。

立岩:じゃあそうか。施設入所というか入院というか、そっちの方が診断がつくより早かったということですかね?

見形:そうですね。

立岩:その具体的な病名は使わなかったけれども、東埼玉病院に。それはいつからいつまで入院されていた?

見形:その診断が終わって、6年生の春だったのかな。ちょっと忘れちゃいましたけど、5、6年生だったと思うんですけど。中1から入ったので、4月から入院してるんです。だから12歳の4月から入院して、28歳までいたので、16年も入ってましたね。[00:10:07]

立岩:僕もネットか何かで見たら、1981年に入院したってなってるんですけど、その前っていうのはそこらのというか、春日部でよろしいんですよね?

見形:はい、そうです。

立岩:春日部生まれで、小学校のときはどんな感じだったんですか?

見形:小学校は行ってなくって。ずっとおうちで暮らしてたので、自宅で。

立岩:ああ、在宅ってのはそういうことか。

見形:はいはい。で訪問教育を受けてたので、学校には一度も、小学校へ行ったことがなくて。養護学校に義務化になったのがたぶん昭和55年から6年ぐらいでしたっけね?

立岩:79年とかですね。

見形:それで私が、籍が最初は普通校だったんですけど、たぶん5年生のとき、昭和55年かな、54年か55年ぐらいのときに、

立岩:義務化は79年だから、54年ってことですかね。

見形:はい、そこで春日部養護学校特別支援に移動になる、移籍になって、小学校、私、春日部養護学校の卒業になるんですね。まあ小学部卒業というかたちになってます。

立岩:その1年生から5年生の間っていうのは、学籍というかそういうもの自体がなかったということなのか、あったんだけど行かなかったという話なのかどっち、

見形:あったんだけど行かなかった。たぶん普通校の学籍ではあったと思います。

立岩:あったんだけど実質上というか、

見形:はい、行ってません。

立岩:訪問というか、自宅に先生が来るみたいなことはあったということですか?

見形:そうです、はいはい。そうです。

立岩:そういう仕組みなんだ。

見形:一般の先生が、普通校の小学校の先生が毎週2回うちに来てました。

立岩:そんときは体の状態っていうのはどんな感じだったんですか?

見形:私は今よりは動けてたので、座位は、自分でこう座っていることはできて、寝返りも一人でできてたり。あとは腕でけっこう自分の体を支えたりもできたので、転がってもこう起き上がっ…、立つことはできなかったですけど、けっこう上肢的には、上肢は使って、いざるっていうのかな、なんかハイハイみたいにして移動することも少しはできました。

立岩:歩行っていう、足で立ってっていうのは、もうけっこう早くからというか、

見形:3歳ぐらいからもう動けなくなってるので。まあ3歳が動けてたかというとあれですけど。3歳のときにつかまり立ちをしてから以来は立ってないんですね。

立岩:ああ、そんな感じやって。たとえば小学校のとき学校の先生が週2回来たっていうんだけど、そのとき自分的には何か思って…、近所の子どもは学校行くわけですよね? そのときに何か思ってたことってあります?

見形:「なんで自分は行けないんだろう」って、「学校行きたいのに」、ていうか、「みんな行くところに行きたいな」ってのは思ってましたし。

立岩:それは誰かに、親とかに言ったことあります?

見形:うーん、あったかなあ。親が教育委員会とその当時闘ってて、「一般校に入れろ」って、「一般校に通わせろ」というか、で父親とか母親はやりあっていて。でも結局私を送り迎えすることができないっていうことで。まあ親も働いてましたし、母親もまあ妹がいたので、私を送ってずっと学校にいることがまず不可能だったということもあって、「できません」っていうことになっちゃって。で、しかたなく「あなたはおうちで学校の先生が来るから学校に行けないのよ」って言われて、言う間もなくて。「学校行きたいな」って言う間もなく、「行けない」って言われちゃって、そっから「我慢するしかないんだな」って思った感じですね。[00:15:51]

立岩:ああ、そうか。じゃあご両親は就学運動というかそういう要求をしたけれども、つまり教育委員会から「来るんだったら親が連れてきて、親が付き添いをしないと入(い)れないよ」みたいな。

見形:「認めない」と。

立岩:そういうことを言われたってことですかね? それは到底というか不可能なので学校行けない、という。

見形:「行けないよ」って。父親がすごい怒ってたことを覚えていて。お父さんがすごく、なんかよくわからないけどすごい怒ってて、「あいつらはバカだ」とかなんとか、すごい怒ってたのは覚えてます。

立岩:埼玉ってわりあい早くから就学運動はあった地域だと思うんですけど。そうだよね、小学生じゃ知らないよね、そんなようなことは。わからないですよね。

見形:わかんないですね。いろいろ聞かれたりも、なんかいろいろ検査されたり、私の家に来て、どこかの、たぶん教育委員会の人なのかなんかわかんない行政の人が来て、知能検査をするとか言ってテストを何回かやらされたりはしました。

立岩:なるほどね。じゃ、ご両親がその当時埼玉にあった、就学に関わる他の人たちと繋がってたりとか繋がってなかったりとか、そういう話ってあととかで聞いたことはないですか?

見形:うーん、たぶん単独でやってたと思うんですよね。

立岩:じゃ、春日部市教育委員会に訴えるというか、

見形:訴えてたと思います。

立岩:そうなんですな。それで小学校の時期っていうのはだいたいそんな感じで過ごしていて、それで5年? 春日部養護学校?

見形:はい、特別支援、今は。

立岩:今は特別支援学校っていう名前のところに、小学校?

見形:5年生から籍が移動されて、

立岩:5年生から移籍というか、

見形:になって、そこの小学部を卒業した。

立岩:それは校舎というか、学校には行ったんですか?

見形:は行かなくて、卒業式だけ行きました。

立岩:学校に行かないという状態、学校の籍は変わったけど、学校に行くっていうことは結局なくて。

見形:ないです。

立岩:卒業式はもうリアルにというか、行った? 親と一緒に行ったんですか? 校舎に。

見形:はい。行ったんです。でも意味がわかんなかったというか、誰一人知る人がいない。

立岩:そうですよね。じゃあ他の子どもたちはたぶんその学校に通っていて、その卒業式だったんだけど、自分は学校には行ったことないけど、卒業式だけ行って卒業証書みたいなものもらうわけですか?

見形:確かもらったような気がします。でも卒業式だったのかもちょっとあんまりは覚えてないですけど。ただ、でも卒業だけ行ったっていう記憶がありますね。

■東埼玉病院+蓮田養護学校

立岩:ああ、そうなんだ。それで小学校は卒業して、それで東埼玉病院プラス蓮田養護学校ですか、それがいつになるんですか? [00:20:04]

見形:それが中学校1年生なんで、すぐですね。卒業してすぐ。

立岩:卒業して、今度は東埼玉病院に入院しつつ、

見形:しつつ学校に通う。

立岩:蓮田養護学校に通うっていう、そういう経緯だったんですね。東埼玉っていうのは筋ジス病棟というかそういう筋疾患というか、そういう人たちの病棟があった病院なんですよね?

見形:そうです。宇多野とかそういうのとかと一緒です。

立岩:みんなにおんなじこと聞いてるんですけど、何人部屋でした?

見形:6人部屋ですね。

立岩:6か。昨日聞いた人も6って言ってましたね。8っていう人もいたな、昨日聞いた人。

見形:え、8? 8は多いね。

立岩:6が、いる間に4になった人っていうのも聞いたことあるんだけど。

見形:あ、私も6から4になったです。

立岩:4になったのいつ頃とか覚えてらっしゃいます?

見形:4になったのは、最初に入った病棟がたぶん1、2年で変わったんですよ。それで転棟、他の病棟に移動したら4人部屋でした。

立岩:2年ぐらいいて、次の病棟行ったらそこの部屋は4人だった。

見形:はい、そっからずっと4人かな。だったかな。はい。

立岩:そこは女性の部屋?

見形:はい、そうです。

立岩:筋ジスとかだとデュシェンヌ型とかだと男の子が多いじゃないですか。全体としてはどんな感じ? 男女比っていうか。見形さんがいた部屋は女の子だけだったと思うんだけど、どんな感じでした? 全体の雰囲気というか様子って。

見形:40人ぐらい、40床あるぐらいの1病棟で、だいたい1部屋が女の人の部屋。だから6人。最初入ったときは6人でしたね、だから。女子は6人で、あと全員男子。その比率はあんまり変わってなかったですね。10何年いたけど。

立岩:40のうち女性はまあ6とか、そのぐらいの人数で。

見形:卒業してからは、成人病棟になると外から入ってくる人たち、中途障害で筋疾患のかたが入ってきてたので、ちょっと割合増えて9とか10の割合になってたときもありました。

立岩:でもまあ小中高というあたりは、やっぱり女の子の方がずっと少ないという、

見形:そうですね。だからクラス、中学校とか高校は女子が1人とかクラスにっていうのが普通で。

立岩:そうか、全学年で6人とかだからね、6で割ったら1人とかになりますよね。見形さんの学年というかクラスっていうか、それのところには女性っていうのは見形さんだけ?

見形:中学校のときは私だけです、1人。他のクラスに、中学校のクラスには1人いましたね、女の子、女子がいて。2人かな、だから。中学校の学年でSMAとか筋ジスの人たちは、私のときはクラス3学級あったんですけど、2人しかいませんでしたね、女子は。

立岩:3学級っていうのは、1年が3つのクラスに分かれてるっていう、そういうこと?

見形:そうですね。はい。もう1個の学級は喘息の学級があって、そこの人たちは女子はたくさんいました。喘息をもっている子どもたちと、あと内部障害、心臓病とか腎臓病、ネフローゼとか、そういう子どもたちもいたので。あとは脊損の子とかもいたかな。[00:25:03]

立岩:じゃ、見形さんのいたクラスっていうのは、筋疾患っていうか、

見形:はい、だけ。

立岩:そういう人たちだけのクラスだったってこと?

見形:そうです。はい。

立岩:それは何人ぐらいいたの? 女の子は1人だったとして、全部ではどのぐらいのクラスだったの?

見形:男子は6人ぐらいいましたかね。

立岩:じゃ6足す1ぐらいの感じのクラスで。

見形:そうです。

立岩:どうでした? っていうのもなんか漠然とした質問ですけど、学校生活は。昨日聞いた人は「全然つまんなかった」っていう人もいたし、いろいろなんですけど。

見形:うーん、何だろう。私はそのときからなんだか、自分ですごくこう分けられてるいことが嫌で、分けられていることって嫌だなと思ってて、「なんでみんな一緒に学べないんだろう」って。その喘息の子たちとか筋疾患の子が分かれてるクラスだったことが理解できなくて。

立岩:そうか。病院というか養護学校の中で分かれてたわけですよね?

見形:そうです。「私はそっちのクラスにも行きたい」って言ったり、「どうして一緒に勉強できないんですか?」ってしつこく言ってたんですよ。

立岩:その当時からそういうことを言う子だったというか、

見形:先生たちに文句じゃないですけど、「おかしいじゃないですか」っていうか、なんでみんなおんなじなのに、おんなじっていうか、一緒に勉強したいって言って、なぜだめなのかの理由がわからない。

立岩:ちゃんとものが言える子だったんですね(笑)。そしたら教師というか先生は何て答えるの?

見形:先生はまともにあんまり答えてくれなかった。「そういう仕組みだから」とか、あと「勉強がついていけるわけがない」みたいな。その筋ジスの子たちとやってる教科書が違うとか、人が違うとか。

立岩:筋ジスの子たちは、言うたら普通のというか、そういう教科書を使うんですか?

見形:使ってる子もいましたけど、使ってない子どももいました。

立岩:今の話っていうのは、教わる中身が他のクラスの子たちの方がやさしいっていうか、そういう違いがあるっていう、そういう話なんですか?

見形:うーん、そうですね。だから養護学校だと、小学部のレベル、勉強すら終わってなくて中学校に入ってる子が多くって。私が中1で入ったときは、終わってる子が1人ぐらいしかいなかった。だから数学っていっても算数をやってる子が多かったんですね。あと国語もたぶんついて…、そこまで終わらせてないというか、終わることをまず小学部で目標としてないのかもしれないんですけど、別に。その子の進路に合わせてやってきた結果なのかもしれないですけど、みんなバラバラでしたね。で、私は中学校に行けたらどんどん勉強がもっとできると思ってたので、「退屈」っていうか「なのは嫌だから、その子たちとも一緒に勉強したい」って、「なんで分かれなくちゃいけない? 一緒に勉強したい」っていうふうに再三言ってたけれど、まあできなかったっていうか。1回だけ交流授業みたいなので、1回だけは行ったことがあるかもしれないですけど、別に勉強したわけじゃなくて見せてもらったっていうだけだったと思います。

立岩:見形さんは小学校にあたる時期というかは、週に2回とおっしゃったよね、先生来るの。それはうちでけっこう勉強してた?

見形:そうですね、してました。

立岩:じゃ教科書は毎年、その学年の教科書が支給、[00:30:12]

見形:はい、もらって。終わらせまし…、無理やり終わらせてた感じですかね。

立岩:じゃあけっこう自習ができる子だったっていうか、そんな感じ?

見形:うーん、でもそんなにがむしゃらにやったかっていうと、そうでもないんですけど、算数とか国語とかは、まあ先生がけっこうはしょりながらやってくれたのか、まあなんとか終わっていて。で社会と理科があんまり、まあそんなにできなかったかなって感じで。あとは読書をがんばってしてた感じで、本をたくさん読んだなって感じです。

立岩:本読むのは好きな方っていうか、そんな感じで小・中。勉強わりと好きな方なんですか?

見形:そのときはそれしかできることがなかったんで。とにかく勉強をがんばるしかやることがなかったというかできなかったから、たぶんやらざるをえないっていうのもあったし、まあ本読みたいっていうのもあったから、自然に勉強したというか、たぶんそれだったのかなと思う。

立岩:そうか。じゃあまあ中学校は「他のクラスの子と分けられてるの嫌だな」とか思いながら、一応というか、本を読んだり勉強したりっていうのはしてたと。さっきも地図見たんですけど、やっぱり他もそうみたいですけど、京都で、宇多野病院のすぐ横に鳴滝養護学校、今は特別支援学校っていうのがあって、廊下一個で繋がってる的なそんな感じですか?

見形:ああ、そうです、そうです。はい、30秒で行けるっていう。

立岩:廊下で何十メートル、

見形:何十メーターっていう感じです。はい。

立岩:じゃあ朝起きて、病院でごはん食べて、その10メートルの廊下を車いすですか? で、学校に行くって感じ?

見形:そうです。

立岩:ふーん。で、お昼は? お昼ごはん。

見形:お昼は病棟に帰ってきます。

立岩:戻ってきて。昨日聞いた話だと、通ってる子どもと病院にいる子どもとごはん食べるとこが違ったって言ってた人いるんだけど、見形さんとこどうだった?

見形:私が学生のときは全員、ほぼ90パーセント以上が、99パーセントかな、通院してる、入所の人しか受け入れない学校だったんですね。

立岩:病院にいる人が行く、ほぼ専用の学校みたいな。

見形:はいはい。だから1パーセントぐらいは通ってる子もいましたけど。その子はたぶん学校で食べてたんだと思います。

立岩:ああ、でもまあほとんどすべての人が入院してる人で、だからお昼は病院の食堂みたいなとこで食べて、でまた学校に戻って午後の授業を受けるみたいなそんな感じか。

見形:はい。

立岩:SMAの人と筋ジスの人と違うのかもしれないんだけど、リハビリテーションというか訓練というか体操というか、そんなのを学校が終わってから病院に戻るまでの間に訓練室みたいなところで、っていう人も時々聞くんだけど、見形さんはどうでした?

見形:あ、私たちも同じ。病院、リハビリがあったので。私は嫌でしたけど。っていうか、みんな嫌がってましたけど。

立岩:それは、病院の中に訓練室があるの?

見形:そうです。で、PT、OTがいるんです。

立岩:そこで見形さんの場合は何をしたっていうか、されたっていうか?

見形:なんか自主トレなんですけど、だいたい。自主トレが主で、学校がだいたい2時とかに終わって、2時半とかで6時間が終わると、6時限が終わったりすると、もうそのまま1回病棟に帰って、訓練棟っていうのがあって、訓練棟にみんな行くんですね。で、まあさぼることもできるんですけど。

立岩:さぼれる?

見形:さぼれる。毎日さぼるとばれますけど、まあ私はわりと行かない、さぼってばかり。[00:35:40]

立岩:さぼるってのは要するに行かなきゃいいってこと? 訓練室に?

見形:そうですね。はい、行かなきゃいい。

立岩:行かなきゃ行かないでなんとかなる。毎回じゃなければなんとかなるって感じなんだ。

見形:はい。自主トレなんで、「つまんないから行かない」みたいな感じですね。

立岩:自主トレって何するんですか?

見形:リーダーがいて、それも筋ジスの男子がやるんですけど。集団で2、30人…、3、40人ぐらいいたのかな。なんか廊下にばーって並んで、体を「右、左」って動かす、なんか自分でこう動かす。掛け声をかけるリーダーがいて、そのリーダーはだいたい筋ジスの男子で、その人が「右」とか「左」とか、「前後に動かして」とか言って、みんなは動かない体を動かして、まあほとんど動いてない子もいましたけど、なんかそういうのを10分とか20分やるんですね、ひと通り。それはその他大勢だから、まあいてもいなくてもあんまりばれないというか。

立岩:なるほど。けっこう違うのかもしれないですね、ところによってね。わりと指導員みたいな人がついてやってたみたいなとこもあるみたいだけど、見形さんとこはそうでもなかったって感じなんだね、たぶんね。

見形:はい。それと私、個別で***(00:37:24)あって、それは行かないとばれるので、

立岩:個別の?

見形:個別訓練です。個別訓練はまあPTの先生がいて、手をこう伸ばしたり足を伸ばしたり、徒手矯正とかいう名前の訓練で、そういうのを週に1回か2回してることにはなっていました。

立岩:それはPTの人がついて、個別にっていう。

見形:はい、そうです。でもいつも痛くて、無理やり引っ張ったりするので、だから「嫌だ嫌だ」とか言って、「なるべく行かないようにできないかな」ってことしか考えてなかったです。

立岩:みんなで何十人かでやるやつは、まあ何十人もいるから誰かいなくてもばれないけど、1人のPTの人についたりするやつは、

見形:行かないと報告されちゃうから、「具合が悪い」とか言って休むことはあっても、全然行かないと、「なんであなたは来ないの」って言われちゃうから。でもあまり行った記憶がないんですけど。そんな感じでした。

立岩:痛いってさ、何すると痛いんですか? 何をされて痛かった? どういう体勢?

見形:手引っ張られたり。曲がってるじゃないですか、もともと変形してるので。そこを無理やりけっこうぐいっと引っ張ったり縮めたりするから痛いです。

立岩:痛いっていう話は方々で聞くと同時に、人によってはわりと体がほぐれるっていうか、「それはそれでよかったよ」っていう人もいるんだけど、見形さんは?

見形:それはたぶんPTのレベルが良かったんじゃないですかね。

立岩:見形さんは痛かった?

見形:はい。私は全然、いいと思ったことは一度もないです。

立岩:一度もないぐらい嫌だった。それは中等部・高等部ずっとあるんですか?

見形:はい。あと呼吸訓練っていうものも、自主トレにあったですけどね。[00:40:03]

立岩:なんかその話も聞いたな。それはどういうスタイルというか、呼吸訓練って何するんですか?

見形:声を出し続けたりとか、なんかこう風船を膨らますみたいな、ふーって吹いて、軽いボールをこう、筒の中に入ったボールを息を吹いて上げるみたいなのをやったり。なんかそんなのをやった記憶はあります。

立岩:基本、見形さんは訓練痛かったし、嫌だったっていう人ね。

見形:はい。あと意味がわからない。やっぱりやってる意味がわからなかったので。

立岩:効果があるって感じはまったくなかった。

見形:はい、ゼロ。

立岩:なるほどね。だけどそれは「効かないからやめるよ」っていうわけにもいかなくて、やんなきゃいけないものはそれこそやんなきゃいけないっていう、そういうことで9年間ずっと、まあさぼったりはするにしても、「嫌だからしません」っていう話にはなんなかったってことですかね?

見形:そうですね。まあ16年ずっとやってたんですよね、一応、入院してた間は。

立岩:3たす3じゃ済まなくて、いる間はずっとやってたってことか。それが週に?

見形:1、2回だったと思います。

立岩:そうか。6人部屋であとで4人部屋になる部屋っていうのは、要するにベッドが3かける2とか、2かける2とか、そんな感じで並んでるっていうそういう部屋?

見形:そうですね。

立岩:たいがいみんな「仕切りとかなかったよ」って言うんだけど、やっぱりない?

見形:(笑) え、うーん、ない。カーテンがあとからついたのかな。最初入所したときはなくて、カーテンも何もなくてドアも開けっぴろげで。で、なんか「嫌だな」って言って、ついたような気がするんですよね。

立岩:じゃ、いわゆる今、病院とか行くと、周りをぐるっとカーテンで仕切るようなタイプのカーテンが、途中からついたってこと?

見形:そうですね。中1で入ったときは最初は確かなくて。トイレにはさすがにありましたけど、まあないとこもあったかな。でも男女共用トイレなんで、ないと非常に困ったんですけど。でもないとこもあったと思います。

立岩:そうか、部屋に途中…、全然、最後までなかったって人もいたな。でも東埼玉の場合は途中からカーテンで仕切るのはできる。

見形:あと部屋のドアでも開けっぱなしだったりしてたんで、カーテンがなくて、それも嫌だから、もう紙を貼ったりとかして、

立岩:紙貼るって、どこに貼るの?

見形:ガラスに貼る。ドアがガラスのドアで、外から見えちゃうんですね、中。

立岩:それは全面ガラスってこと? ドアが。

見形:えーと、半分ぐらいガラス、

立岩:わりと広いガラスの面積のあるドアだったってことね。そうすると外から見えちゃうわけだ。

見形:だからカレンダー貼ったりポスター貼ったりして、そこを隠すとかしてたですね。

立岩:それはさ、やっぱり男の子というか男の人に見られないみたいな、そういうことなのかな?

見形:うーん、そうね、男子はしょっちゅう通ってましたし、もちろん。だからまあ外から見られたくない、単純に覗かれるのが嫌だなって思ってた感じです。

立岩:そうですか。開けっぱだったドアは結局閉めたりできるようにはなったんですか?

見形:えーと、自分で閉めてたか、あとはカーテンがついて、そのカーテンは閉めてもらえるようになったような気もします。[00:45:14]

立岩:なるほどね。女性の部屋は一個だったって言ってたけど、その年齢構成っていうか、だいたい子どもは子どもだったんですか?

見形:はい。子どもは子どもで。最初の頃は子どもでしたね、小学校の子どもたちから、あ、小学校高学年の子かな、上は高校生。私も中学から高校になってたので学生が、やっぱり女子いましたね。低学年の子もいましたけど。

立岩:でも、見形さんもけっこう長いこといたわけですよね。年齢的にはもう成人になってるわけじゃないですか。そういうかたも見形さん本人も含めていらしたというか、そんな感じ?

見形:途中から成人…、小児の病棟に成人の人も入るようになって。私も卒業して、成人がどっと増えたんですね、継続療養する人たちが。途中まで、だから半々ぐらい生徒がいて、半分は成人で、年配の50代60代の中途の方たちも入ってくるようになって、ちょっと割合が、年齢層が上がってきたっていうのがあります。

立岩:どんな感じっていうかさ、部屋の中に住んでる人たちとの関係というか、人の関係に限らないかな、その部屋ってどんな感じだったですか?

見形:うーん、いじめられたりもあったし、仲良くなる子もいたし、うーん、いろいろでしたね。

立岩:いじめってどんなタイプの? 言葉で言われる的な?

見形:うーん、言葉で言われるよりも、無視されちゃうとか。あとは自分だけ教えてもらえないとか、なんか省かれちゃう感じ。

立岩:それは6人しかいなくても、6人のうちの何人かがそうやって徒党を組んでというか、その仲間からちょっと無視される的な、そういう感じですかね?

見形:そうですね。でも他の子はそんなにでもなくて、特定のAさんっていう人が私に対して、

立岩:ああ、その人がね。

見形:うん。

立岩:そういう人もいたし、仲良い子もいたしっていう感じか。

見形:いたし、あとは重度の知的障害のある人もいたので、その人はもうずっと四六時中泣いてるとか、すごくけっこう騒いじゃって、ずーっとっていう子もいました。

立岩:そういう子もいた。もともと小っちゃいときから足動かしてっていうのはまあなしで、体の状態っていうのは、中・高というか、あるいは成人になって10何年とかの間に、徐々には変わっていったんですか?

見形:そんなにたいして進むって感じはなく、進行性ではあるけれど、まあ今もそんなには変わってないので、そんなに進んだ感じはないなあっていう感じですね。[00:50:08]

立岩:そうすると日常的なケアというか介助というかそういうものは、どういう必要があって、誰が何をしてたっていうか、させてたというか、それはどうなんですか?

見形:病院のときですか? は、看護師さんがまあメインで、排泄とか着替えとか食事介助とかはやってて。あと保育士さんたちがいて。あと児童指導員っていうのがいるんですよ、指導員さんがやったりとか。あと看護助手さんがやったりとか。

立岩:昨日聞いた、九州、熊本にいた男性から、看護助手にひどいことされたっていう話聞いて※

古木 隆 i2020 インタビュー 2020/12/12 聞き手:立岩真也 Skype for Business使用

見形:えー。

立岩:えーって感じだったんだけど。そういうのは自分的にはなかった?

見形:ああ、ちょっといじめられたみたいな?

立岩:本当にそれは明らかに虐待ですよ。「ぎょえ」って感じだったけど、昨日聞いて。

見形:ああ、そうですか。うーん、私は、そうだな、わからないですけど、「異性介助、私嫌だ」ってずっと言ってて。中学2年ぐらいからそれが始まっちゃったので。看護師、男性が入ってきたのが中2ぐらいだったので。その職員さんが嫌で嫌でしかたがなくて。で、私が嫌がってるのを知っていて、女性のナースがそれをあえて差し向けるっていうか、男性を差し向ける感じが何回かあって。「あんた、やってもらいなさい」みたいな、「あんた、じゃ呼ぶからね」みたいな感じで、抱えるときとかトイレのときとか、あえて私は避けてたんですけど、そういうそこの、あえてその男性の看護師さん呼んできてやらせるっていうのが一番すごいショック、ショック。「なんで? どうして?」っていう。

立岩:なんでだろうね。だって入所してる人は女性は少ないわけだし、看護師さんの中には女性がたくさんいるから、「女性は女性で」ってできそうなものですよね。

見形:その話も何回もしましたけど、

立岩:した、

見形:でもだめでしたね。

立岩:それは何て言われるの? 「私、女の看護師さんにして」、その要求っていうか、「男の人は嫌だ」って言うわけですよね。そうするとなんで…、なんか「だめなものはだめ」的な話なんですか?

見形:「わがままでしょう」とか、「男子だって私たちやってんだから」とか、「男性の患者さんには女子が入ってるでしょう」とか、「女性、別に選んでないでしょう」とか、「もうあなたたち、女性男性関係なく私たちやることになってるので」とか、「そんなつもりで介助をやってる男性職員はいませんよ」とか、

立岩:ああ、そういう言われ方で、結局事態は変わらなかった。

見形:うん、そうですね。

立岩:そういうことを言ってた人は、見形さん以外にもいましたか?

見形:はい。

立岩:じゃあその6人かの部屋の中ではそういうことを他の人も言ってたけど、あかんかったっていうか。

見形:そうですね、だめ。だからみんな泣き寝入りっていうか、すごい泣いて。他の病棟の、3病棟あったんで、そこの何人かの女子たちでグループ、その話し合いグループを作ってて、確か。で、そこにはたぶん上野さんもいたんですけど。上野美佐穂さん、グループ入ってますよね、筋ジスプロジェクトに入ってる。彼女も一緒に言ってたほうで。でもみんなもう泣き寝入りっていうか、何回も話し合いをつないで重ねた結果、どうにもならなくって。みんなまあ自立しちゃってますけど、すごい悲惨でしたね。[00:55:29]

立岩:一対一で、自分が看護師さんなりあるいは師長さんとかそういう人に言うこともあるだろうけど、グループで病院の責任ある人に掛け合うみたいなことってあったんですか?

見形:看護部長まで言いましたね。

立岩:それは何人かで言いに行ったって感じ?

見形:そうですね、数名で会議を開いてもらった気がします。

立岩:なるほど。このタイプの療養所って、僕ちょっと何年か前に本書いたときに調べたんだけど、仙台の西多賀とか千葉とか、ああいうわりと早くそういう筋ジスの人を受け入れたところって、少なくとも一時期、入所者の自治会みたいなのがあって、それがけっこう行動したりっていう話があることはあるみたいなんですけど。東…、その埼玉については、そういう組織的なものはなかったってことですかね?

見形:いえ、あります。今もあります。

立岩:ああ、そうなんだ。それは自治会っていう名前なんですか?

見形:えーと、はい、患者自治会だったと思った。成人の患者自治会っていう、成人の人たちがやってたので。私たちまだ成人じゃなかったから、でも「やるしかない」と思って、先生…、あの、看護師さん、まあ師長さんに話をしてみたり。なんか生活向上委員会っていうのがあって、そういうのを使いながら、それは患者、成人とか関係なく、私が委員長になってたりとかできたので、関係なくできるところが一つあって、なんかそこで保育士さんとか指導員の人の力も借りながら問題をちょっと上げていったり。保護者会もあったので、保護者会ともやりあったっていうかお願いしてみたりもしたんですね。

立岩:その生活向上委員会っていうのは、メンバーっていうのは入所者ですか?

見形:はい、そうです。だけ。

立岩:入所者だけの、それは自分たちで作ったのか、病院が作ったけどメンバーは自分たちだけっていうようなものなのか、どういう性格のものだったんですか?

見形:うーん、なんか、患者のみんなでの話し合いでできた気がします。

立岩:で、その委員会、見形さんその委員長みたいなのはやったことあるってそういう話?

見形:はい、確か委員だったか委員長だったかはやってたと思います。

立岩:そのときに、そこでは異性介助のこととかそういうようなことも、委員会として何か言ったりとかってのはあったんですか?

見形:えーと、言ったような。まあでもそこはまた別で、自分たちだけ女子で集まっていたかもしれないし、そこを借りたかもしれないんですけど。他にもナースコールで来ない問題とか、あとまあ虐待的なこととかもちょっと話を持っていったりしてたので。あの、放置されることとか、「ちゃんとやってください」とか。

立岩:そういう委員会として、ナースコール来ないとか、虐待とかに対して抗議したりとか、そういうことをしてたってことですね。それは成人だけじゃなくて、

見形:子どもたちも、

立岩:未成年も入ってるっていう。その委員会はどこに話を持っていくんですか? 交渉相手というか要求相手っていうか。

見形:ナースかな。ナースステーションとか、対看護師さん、対病院って感じですかね。

立岩:それは定期的にそういう交渉というか相談、なんかそういうものが設定されたのか、テーマというか「これ言わなきゃ」みたいなときに代表というか何人か言いに行くみたいな感じだったのか、どんな感じでした? [01:00:36]

見形:病棟で毎月1回ぐらいあって、看護師さんを呼んだりしてみんなで話し合うときもあったし、問題が起きると「これは早急にやんなくちゃ」みたいなので、あえて臨時でやることもありました。

立岩:そうなんだ。それと、たとえば病院の自治会は大人だけだったと。だったときに、自分は大人じゃないけれども、たとえば異性介助なら異性介助のことは自治会で取り上げてくれないか的なことはあったんですか?

見形:うーん、自治会…、そんときはなかったかな。だいたい大多数が男子なんで、男子はそういうの全然興味がなかったんです、誰一人。だから、まあ一人二人は、「そうだよね、僕らもナースにからかわれるのは嫌だよ」とか言ってくれる人はいましたけど、でもだから一緒に言えるかっていうとそうでもないというか。味方になってくれるには弱いっていうのはあったかなって。まあもう25年以上前の話なんで、まだまだ。

立岩:うーん、でもどうなんだろう、そんなに変わってないような気もするんですよね。

見形:はい、変わってないですけどね。

立岩:ちなみに生活時間、起床・消灯・その他っていう、それはどうでした?

見形:起床は6時半とか6時で、着替えられない人は、あ、自分で着替える人は5時とか5時半でしたね。

立岩:着替えられる人が早い?

見形:はい。その間、1時間とか着替える時間に合わせて起こされるっていう感じです。

立岩:見形さんの場合は、朝起きて服着るのは看護師さんとか?

見形:最初は着替えさせてくれてたんですけど、うーんと、着替えはもうなかったですね。

立岩:まあ言うたら1日おんなじ服着てる的な?

見形:そうです。はい。

立岩:ちょっと待って、でも学校行くんでしょうよ、小・中・高のときは。そのときもそんな感じでした?

見形:そうですね。いつの日からか着替えなくなった。

立岩:じゃあパジャマみたいなもので学校に行ってたってこと?

見形:だから、ジャージですよね。

立岩:ジャージか、そっか。まあジャージを一日中、寝るときもジャージ、学校行くときもジャージみたいな。そういう感じか。

見形:はい。トレーナーにスウェットみたいな。

立岩:トレーナー、スウェットね。まあパジャマっていうんじゃなくてね、トレーナー、スウェット。朝はそんな感じで、ごはん食べて学校行って。夜はどうでした?

見形:夜もそのまま、えーと、4時にごはん食べて、4時か4時半が夕飯で、おやつが6時。でもだいたい人がいなくなるので、夕食と一緒に夜食も食べさせられて。自分で食べれる人だけ6時に食べていたりとか。食介のある人は早く食べさせられちゃう。[01:05:10]

立岩:ごはんとおやつと一緒みたいな。

見形:はい。で寝るのは8時。で、ベッドに全員【埋められちゃって】(01:05:18)、消灯は8時半だったり9時だったりって感じでしたね。

立岩:たとえば自分のベッドサイドというかに、ちょっとしたライトとかいうのは×(バツ)だったんですか、ありだったんですか?

見形:うーんと、たぶんだめだったと思う。つけてる人ほとんどいなかったし、ライトあるとこもあったんですけど、みんな自分でできる人がほとんどいなかったんで。

立岩:そうか。自分でつけられないから、病室の電気消えたら、もうそのままっていうことか。

見形:そうですね。あとはラジオを自分で私は聴いてたり。

立岩:ああ、ラジオは聴く。それはイヤフォンみたいなもので?

見形:イヤフォンしたりヘッドフォンしたり、あとはウォークマンとかがあった時代。ガチャガチャ音するのがみんな起こしちゃうなとは思ったんですけど、それを使ってたり。ラジカセも自分で押せたときはそれを聴いたりしてましたね。

立岩:見形さん今でも音楽好きですよね? 昨日もいろんな音楽聴く人がいて、一人はなんかやかましいハードロック系の女性で、一人はロカビリーとかっていってエルヴィス・プレスリー聴いてるとかって、なんか人間いろいろだなと思ったんですけど。見形さんはその頃80年代だよね。80年代、何聴いてました?

見形:えっと、何だろう、私はなんか一時期その頃は洋楽にはまっていて。そうですね、デュラン・デュランとか、あとはジェネシスとか、あとはボブ・ディランじゃなくて、ハードロックのみなさまというか、

立岩:じゃあ、わりと洋楽少女というか、

見形:はい。あと少年隊とかも聴いてました。ジャニーズの少年隊とか。チェッカーズとかも聴いてました。

立岩:じゃあ夜になってあたり暗いけど、寝るまでイヤフォンでラジオ聴いたりウォークマン聴いたりみたいな、そんな感じか。

見形:うん。あとオールナイトニッポン聴いたりとか。

立岩:そうか、オールナイトニッポン聴いてた。まだみんな深夜ラジオ聴いてた時代かもしれないですね。80年代だと、まだネットとかそういう話じゃないじゃないですか。それは見形さんいたときはまったくですよね? たぶん時代的に。

見形:そうですね、パソコンが出てくる前だと思う。ワープロですかね?

立岩:ワープロがぎりぎり始まったぐらいの時期だよね。パソコンで通信とかってのはまだですよね。

見形:そうですね。ちょっとお水飲んでもいいですか?

立岩:どうぞどうぞ。好きなように遮ってください。[01:09:14]

見形:じゃ、ちょっとお水飲みます。

立岩:はいはい。[01:09:56]

見形:すみません、もしもし。はい大丈夫です。

立岩:ありがとうございます。まだパソコンとかそういうので外部と通信とかできない時期だと思うけど、外出であるとか、そういう外との行き来っていうのはどんな感じでした?

見形:は、外出許可書がないと出れない。で、18歳未満の間は保護者印がないと出れないんで、勝手に外出はできなかったんで、まあ日曜日に親が来たときにまとめて書いてもらったり。

立岩:ああ、親が何月何日に外出するのを希望…、そういう書類を書くと出れるってことですか?

見形:はい。

立岩:それは、出ようと思ったら一人で出れるの?

見形:いいえ、だめです。一人じゃだめで、誰かがついて来ないと。親が同伴か、

立岩:親はそうだと思うんだけど、親いないとき、いっぱいあるじゃないですか。

見形:えーと、ボランティアでもよかったんですね。一応身元を書かされた気はしますけど。誰のとこの誰かがわかれば大丈夫。

立岩:東埼玉に出入りしてたボランティアの人たちって、どっかいたんですか?

見形:えーと、埼玉大学の学生とか、あと社会福祉協議会のおばちゃまたちとか。

立岩:そういう人たちが、それはたとえばボランティアの人たちとどういうつながりっていうか、どういうふうにして、たとえばボランティアの埼玉大の学生に頼んだりとかするもんなんですか?

見形:成人になって、18歳すぎてから筋ジス協会、ちょっといろいろのあるいわくつきの筋ジス協会に私も入ってたので、そこの若者たちというか、アダルトの、ヤングアダルトのみんなが組織作ってて。で、そういう「交流会をやろう」みたいなのを毎年、クリスマス会だのなんかイベントを企画してて。私もそこに入ってて、そこに人が必要だからっていうので、いろんな大学にこう呼びかけて、まあだいたいお手紙ですけど。で、ボランティアサークルのみんなと繋がって、そこの子たちと仲良くなったりして、こう自立への道が開けてくみたいな。

立岩:それは病院の中でやるの? そのクリスマス会みたいなやつを。

見形:えーと、病院の中でもあるんですけど、筋ジス協会は別で。なんか養護学校借りたり、体育館借りたり、あとはそういう病院の敷地内に埼玉支部の場合は建物を持っていて、支部直営のっていうか、

立岩:筋ジス協会の埼玉県支部の建物が、

見形:センターが。そこでやったりしてました。

立岩:そうすると、そういうところで学生のボランティアと付き合いができて、外出のときお願いする的なそういう流れ?

見形:そうです。

立岩:じゃあたとえばボランティアの人に「外出、付き添いお願いね」っていうときは、どうやって連絡するの? 電話?

見形:そうですね、ポケベルとか電話とか。



立岩:ああ、その手か。見形さんそこに入院されていたの、81年から87年って伺ってるんですけど、その頃のことって、まあ僕こないだ筋ジスの人たちがわりと出てくる本書いたときに、千葉・埼玉あたりで80年代の半ばぐらいにいわゆる自立しよう、した人たちのことを調べたりしたんだけど。たとえば福嶋あき江福島あき江さんっていう人が、病院は千葉にいたんだけど、さいたま市に越してくるっていうことがあったんですけど、ああいう人とか、ああいう人たちの、虹の会っていう会があったり、今でもありますけれども、そういうのってなんか伝わってたもんなんですか?[01:15:37]

見形:えーと、私が自立するだいぶ前、ちょっと前ですけど、少し知ってたかな。その埼大生は虹の会の人たちがいっぱい、まあいたので、あき江さんの話を聞いたことがあったかな。

立岩:かな? ぐらいの感じね。

見形:そうですね。で、そのあと私が自立するとき、虹の会の人たちのサポートを得ていったので、私1回だけあき江さんと話したことがあって。

立岩:そうなんですか。

見形:はい。電話で福島さんに話をさせてもらったことがありました。

立岩:へえー。それ何年ぐらいで、何の話(はなし)したとか覚えてらっしゃいますか?

見形:えーと、まだ私が自立をするけっこう前だったと思うんですけど。私がまだ23、4ぐらいかな。

立岩:じゃあ80年代の初めっていうか。何話したとか、ちょっと覚えてらっしゃいます?

見形:なんか私が自立したいって言ったのか、とにかくそういうサポートをくれるところ、そういうボランティアというか、それを探しているっていうようなことを相談したかして、「そういう情報もらえませんか?」みたいなことを直接聞いたような気がする。「どうしたら自立できるか」みたいなことを、「人はどうすればいいのか」みたいなことを。「とにかくボランティアさん、たくさんほしい」みたいな、私が「集めたい」みたいなことを言ったような気がするんですね。で、「どうしたらいいですか?」って聞いた気がするんですけど。

立岩:それが83年ぐらいだとしたら、福島さん自身が埼玉でそういう生活を始めた頃ですよね、たぶんね。

見形:そうですね。で、ちょうどもう、あき江さんはそのあとすぐ亡くなってるんですよね。

立岩:うん。87年に亡くなられてますね。

見形:だからその直前に私、電話をしてるような気がするんですよね。数年前かな、亡くなる数年前。

立岩:福島さん何ておっしゃったか覚えてます?

見形:すごく厳しいことを言われた気がします。

立岩:「そんな簡単じゃないよ」みたいな?

見形:たぶん。けっこうきついなと思って、思った記憶があるんで。「そんなに簡単に人は集まらない」みたいな。し、もうちょっと具体的なビジョン、「いつどうしたいの?」みたいな、「自立してどうするの?」とかいうことを聞かれたような気がするんですよね。私はとりあえず「ボランティアがほしい」みたいな、「とにかく人なんだ」みたいな言って。「それだったらうちでは、虹の会ではこたえられない」みたいな、「人を提供するところではないので」っていう感じで断られた気がします。

立岩:ああ。実際そうだったと思うんですよね。虹の会って実質的には福島さんの生活をなんとかするぐらいで、その頃いっぱいいっぱいっていうか、だったと思うんですよね。なおかつ福島さん自身もかなり、わりとキチキチッていうか余裕のある感じでもなかったから、「プラス1うちで面倒みるとか、それはできませんよ」っていう、まあそういう感じだったんでしょうね。でもじゃあ、直接にお話をしたことはあるんですね。[01:20:15]

見形:はい。で、「同じ病院から出てるから、きっとわかってくれる」と私はなんかたぶん変に期待をして、普通に電話したんじゃなかったかなって。

立岩:なるほどね。すみません、さっき猫が登場したりしてしまってですね。

見形:あ、いいえ。かわいいです。

立岩:大丈夫ですか?

見形:はい。

立岩:だったらよかったです。ありがとうございます。こうやってオンラインでやってると必ず登場する、ちょっとうるさいんですけど。すみません。
 福島さんに電話したとかその頃にはもう「施設出たいな」って思われてたということだと思うんですけど、それはだんだんそういう気持ちになってきたというか、たとえば誰かに言われたことが影響があったとか、「もう出ちゃおう」っていう、そのへんのいきさつっていうのはどうだったんですか?

見形:えーと、私が出たいって思ったの何回かあって。まず1回目が高校生のときに、やっぱ仲間の人たちが、男子の筋ジス患者さんたちがどんどん出て行ってたんで。高校卒業と同時とか、中学卒業でもう自立生活始めてる仲間が多かったんですね。私もだから「できるかもしれない」なんて思ってて。でもみんな亡くなって帰って来てたんで。病院戻ってくるときは亡くなっちゃってて。重篤化してたりして。すごい無理をして食いつないで生きてきたっていうか、やっぱりすごい短命になってしまってて。で、それがすごく自分は怖かったんですよね。「自立すると死ぬんだ」みたいな。

立岩:「病院退院しちゃうと死んじゃう」というか。実際そういうとこもね、80年代だと、まあ福島さんも87年だし、高野さんっていう方が千葉にいたんだけど、彼も80年代の初めに20代で亡くなってますよね、まあデュシェンヌ型の人ですけど。高野さんっていう男の人の名前って聞いたことあります?

見形:わかんない。

立岩:埼玉じゃなくて千葉の人なのでね。でもやっぱり84年とかですよね。その頃やっぱりまだ20代ね、その前はもっと10代とかで亡くなる人多かったですけど。寿命は延びてるけどまだっていう時期でもあったんでしょうね。その高校のときにちょっと思ったけど、でも先輩というか筋ジスで出た男の子たちが長く生きられないからっていうことが、それが高校のときだと。その次というか、そのあとはどんな感じだったんですか?



見形:それで継続療養になっちゃって、自分も。そのまま自立はできず退院もできないので、で、大学にも行けなかったので。もう通学できなかったので、大学にも行けず。

立岩:大学行きたいという気持ちはあった?

見形:そうですね。一応テストを受けるぐらいまではいってたんですけど。でも受けても通えないから「受けてもしょうがない」と思って。模試とかも受けたりはしてたんですけど。

立岩:じゃあ受験勉強的なことは、やったといえばやったんだ?

見形:はい。で、偏差値も出してもらって、どこなら受かれるっていうか、合格圏内だっていうのを出してもらってたんですけど。志望校には一応行ける予定であったんですけど、でも受けたところで行けないから。
 めちゃめちゃお尻が見える。[01:25:07]

立岩:猫のお尻が見えてしまいました。すみません。

見形:それでやめちゃって、受けるのをやめて。

立岩:じゃあ具体的には受験をするってことはしなかった?

見形:はい。

立岩:行くとしたら何学部に行きたいとか、そういうのあったんですか?

見形:そのときは社会福祉学科に行きたくて、社会福祉の勉強したかったので。社会福祉学科を受けたかったですね。

立岩:そうか、やっぱり10年20年違うと違うんだろうな。昨日聞いた人は山口の出身だったんだけど、女性ですけど。日本福祉大学を受験して、そこで学生やったって言ってましたね※。

見形:ああ、そうですか。

立岩:そのときは「制度を使って」って言ってたね。

見形:そのときは何もない。ホームヘルプって、そういうことすら知らなかったですね。

立岩:ああ、制度全般どういうものがあるのかっていう知識もそのときはあんまりなかった。

見形:あまりないです。

立岩:それで高校のとき出ようと思ったけど、まあそういうことがあって、大学受験を考えたけど、実際にはしなくて。その継続っていうのは要するに、高等部が終わってからも、まあ言うたら行くとこないから、その病院にい続けるっていう、そういう話ですね?

見形:はい、そうです。

※続き↓ ◆見形 信子 i2020b インタビュー 2020/12/13 聞き手:立岩 真也 Skype for Business使用


UP:2021018 REV:
見形 信子  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす  ◇脊髄性筋萎縮症(SMA)  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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