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中野まこ氏インタビュー・1

2020/12/12 聞き手:立岩 真也 愛知・中野さん宅との間 Skype for Business使用

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こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 111分

 ※記録を2つに分けました。
中野 まこ i2020 インタビュー・1 2020/12/12 聞き手:立岩真也 愛知・中野さん宅との間 Skype for Business使用(本頁)
中野 まこ i2020 インタビュー・2 2020/12/12 聞き手:立岩真也 愛知・中野さん宅との間 Skype for Business使用


立岩:ありがとうございます。今画面見たら、坂野さんっていう、僕が勤めてるところの大学院の院生でもあるんですけど、岐阜の大学に勤めてる人がオブザーバーみたいな感じで入ってるんですけど、それは構いませんでしょうか?

中野:はい、大丈夫です。

立岩:はい、ありがとうございます。たぶん中野さん、初めましてですよね?

中野:そうですね、はい。お名前は拝見してるんですけど、初めましてです。

立岩:はい。最初から聞いていいかな?っていうことで、生まれは何年になるって聞いていいですか?

中野:私1991年です。平成3年です。

立岩:山口県のご出身ということで、

中野:はい、そうです。

立岩:ウルリッヒ(Ullrich)型っていうんですかね、

中野:はい。

立岩:これってさっき調べたばっかりなんですけど、なんか聞いたことあるかなと思ってたら、筋ジストロフィーから分けられることもあるし、中に含められることもある、みたいな。だけどかなり数が少ない。

中野:みたいですね、そうですね。

立岩:ネットで調べたら400人とか書いてましたけど、ほんとなんですか?

中野:そうです、なんか私もそうやって聞いてます。

立岩:知り合いっていうか、友だちっていうかで、その同じ型の人ってご存知?

中野:一応なんかウルリッヒ型の患者会っていうのがありまして、それで出会ってはいるんですけど、実際に対面で会ったのは2人ですね。あ、違うか、3人。3人ぐらいかな。

立岩:それは患者会を通してってこと?

中野:えっと、1人は山口県の、私が高校3年間特別支援学校に通っていたんですけれども、そのときに私は学校に隣接する病院、福祉施設ではないけど医療センター、障害のある子どもがリハビリとかで入院している病院があるんですが、そこに私は高校3年間入院していたんですね。そこで出会った友だち。

立岩:たまたま同じところにいたっていう人が1人?

中野:そう、そこに通院していた人ですね。私が高校のときに彼女は幼稚園だったから、けっこう歳は離れてるんですけど。

立岩:じゃあ、けっこう年下の、

中野:そう、主治医に紹介されて。「同じ病気の子がいるから」「親御さんが悩んでいる」とか言われて、「学校どうしよう?」みたいな。それで紹介されて初めて出会いました。自分と同じタイプのウルリッヒ型の人には。

立岩:高等部のときが最初で、1人目。

中野:そうですね。

立岩:残り2人は?

中野:残り2人…、もう1人は、私筋ジス協会に入ってるんですけど、一応会員なんですけど、そこの愛知県で…、今、愛知に住んでるんですが私、愛知の全国大会があったんです。

立岩:うん、筋ジス協会?

中野:そうそうそう、そのときに来られてたかたですね。なんかメーリングリストがあるんですけど、協会の。それで「同じだよ」って言われて、「会いませんか」ってなって、「じゃあ全国大会に行くので会いましょう」っていうことで、初めて会いました。

立岩:もう1人は、

中野:もう一人は、八雲病院に私、検査入院行ったんですけど、そこに入院されているかたですね。

立岩:ああ、その同じ病院に入院してる人としてそこにいた。

中野:そうですね、長期入院されているかた。



立岩:わりと発症が早いみたいなことのようですけれども、なかなか珍しいってこともあるし、診断っていうか、もちろんすごいちっちゃいときのことだから直接には記憶にないと思うんですけど、その診断っていうのはどういう経緯でっていうのは、たとえば親からとか聞いてますか?

中野:ああ。まあ、まずは2歳ぐらいのときに、やっぱり「他の子となんか違うな」みたいなことを気づいて、歩きというか、はいはいが遅いとか、そういう体の発達が遅いっていうことに気づいて、九州のおっきい病院に行ったらしいんです。でもその前に、なんか1歳ぐらいに首が回らなくって首を手術したって聞いてるんですよ。何て言うんですか、斜頸っていうんですか? 何だったかな。[00:05:29]

立岩:首が動かないんですよね。

中野:首が回らない、動かないっぽいから、なんか検診のときにそうやって指摘をされて、それでなんかもう赤ちゃんのときから、さっき言ったあの病院、私が高校3年間使って入院していた病院に週1くらいでリハビリに通ってたらしいんですよ。でもそのときはまだそういう診断ちゃんと受けてなくて、ただ2歳ぐらいに大きな病院を紹介されて、九州の。ちょっとどこかわからないんですけど、忘れちゃったんですけど。で九州で、筋生検? 検査。

立岩:はいはい、痛いやつね。

中野:そう、痛いかちょっと覚えてないけど、なんか筋肉取る検査をしたらしくて、それでわかったって言われました。

立岩:それはウルリッヒ型ってとこまでわかったってことですかね?

中野:はい、そうです。そのときに言われたって。

立岩:じゃあ、もうそのときにわかったわけだ。

中野:はい。

■訓練・手術

立岩:そうですか。そのあと、これもちょっとみなさんに聞くことにしていて、人によってはリハビリとか治療とか訓練とかいろいろやったって人もいれば、そんなあんまやんなかったって人もいれば、いろいろなんだけど。そういうことでなんか記憶に残ってるっていうか、そういうのありますか?

中野:はい、私はずっともう高校生までリハビリを受けてました。まず中学校までは実家にいたので週1その病院に通っていました、親と一緒に。市外なんですけど、1時間ぐらい車で、で週1通っていました。理学療法ですね、受けてました。

立岩:理学療法をやって、

中野:はい。

立岩:生まれが山口県の何市ってことでいいんでしたっけ?

中野:岩国市です。

立岩:その理学療法やってるとこも岩国なんですか?

中野:違う。周南市っていうとこで、市外です。

立岩:そこまで行ってリハビリを受けてた、それが小学校?

中野:赤ちゃんのときから中学校まで。

立岩:中学校まで?

中野:はい、週1回行ってました。

立岩:それは、自分的な感想というか記憶というか、どうでした?

中野:リハビリが木曜日だったんですけど、平日木曜日。で夕方の時間で、4時半とかから5時半だったかな、夕方の時間からだったんですけど、それに間に合うためには学校を早く帰んなきゃいけなかったんですね。私、普通の地域の学校に、通常のクラスで学んでたんですけど、私だけ一人なんか早退っていうか早く帰ることが「なんで私だけ帰んなきゃいけないのかな」って思ってました。

立岩:じゃあそうやってちょっと「嫌だな」と思いながら早退して。で親の自動車とかそういうので?

中野:そう、母の車で。

立岩:お母さんの車で通って。具体的にはどんなことするんですか?

中野:えーと、寝っころがって(笑)。なんか体、足とか手とかが固まっちゃうから、それを緩めるみたいな。

立岩:そのままだと固まってしまうから、屈伸っていうかそういうのやって、っていうことか。

中野:そうですね。あとは、私1回小学5年生のときに手術をしてるんです。股関節が閉じてるから広げる手術して。あと左足のアキレス腱を切ってるんですね、手術して伸ばしてる。こう足が爪先立ちになっちゃうから、かかとが着けれるように、みたいな手術をしてるんですね。だからそれまではなんか歩行器とかで歩けてたんで、そのリハビリの時間も「歩行器で歩きましょう」みたいな時間ありました。[00:10:01]

立岩:あの僕、筋ジストロフィーの人でアキレス腱切ったっていうの、初めてかなと思うんですけど、何人か脳性まひの人で子どものときに切ったという話は聞いたことあります。

中野:はい、ありますね、聞いたことが。

立岩:で、伸びたは伸びたんだけど、ぶらぶらっていうかなっちゃって、「なんかかえってよくないんだけど」っていう話も聞いたことあるんですけど。それは、

中野:私もなんで、その小学5年生だったから、まず自分の病気のことも知らないし、あとその手術がどういう意味を指しているかっていうのもよくわかんないけど、親とか先生が「やったほうがいいよ」って言うから、「やるのかな」って思ってやったんですけど。でも手術する前はこう床に座れてたんですよ、ぺたって。なんかお姉さん座りみたいな(笑)、よくわかんない。お尻がぺたって着けた状態で座れていたんだけど、その手術をすることによって逆に座れなくなっちゃって、椅子しか座れなくなりました。

立岩:床に座れなくなるっていうことはどういうこと? どこがどうなると床に座れなくなるんだっけ?

中野:その手術する前は、足をこう両股がくっつけた状態で、膝から下をこう横に広げて座ってたんです。だけど、それを股関節を広げる手術をしたことによって、できなくなっちゃった。

立岩:あ、お姉さん座りってわかった。だいたいどういう座り方か、なんとなくじゃなくてわかった。それができなくなったってことですね?

中野:はい。

立岩:アキレス腱のほうはどうだったんですか?

中野:アキレス腱は伸びたのは伸びたけど、でもかかとが着くわけでもないし。なんか前は、まあでもそもそも、もう小学3年生ぐらいから歩けなくなってたんで、一人では自力歩行はできなくて歩行器を使うようになっていたんです。だから手術したあともその歩行器で歩けるようになるまでに、なんかすごい時間かかった記憶があります。

立岩:じゃあ本人的にはそんなに、よくなったとかっていう記憶というか、ものではなかったってことですかね? その外科的にどうっていうか、

中野:そう、足が股関節が広がることによって、何がいいのかわかんない(笑)。この、何だろ、

立岩:そのときはお医者さんであるとか親から「まあやったほうがいいよ。いいようになるから」って言われた。

中野:そうですね。

立岩:なるほど。リハビリ自体はそんなにつらくはなかった?

中野:痛いとかはなかったです。むしろこう、たとえばその足が固まるとか言ったじゃないですか。だからそれをストレッチ的な感じでやってもらうのはよかったと思うし。あと、すごい肩こりとかひどくって、首とか。そこを伸ばしてもらうのは、すごく大事な時間だったかなって思います。

立岩:じゃあ、体をほぐすというかそういう意味では、

中野:そうですね、何か矯正するとかではないと思うんで、はい。

立岩:そういう意味では効果あったっていうか、まあ気持ちよかったっていうか、そういう感じってことか。わかりました。

中野:あとは肺活量のリハビリとかありました。呼吸リハ。どうしても肺が弱くなっちゃうので、咳する練習とか。咳を測る機械があるんですよ、咳の力。うん、そういうの。

立岩:こうやってぶーって吹いて、そうするとなんかピストンみたいなやつが上がるやつ?

中野:ああ、それ、なんか咳をして、おっきい咳、なんか普通に咳を、痰が出せるかっていうことですね、だから。風邪ひいたときに咳ができないと痰が出せなくて詰まっちゃうから、咳のおっきく出す練習とか、あと肺活量。こうアンビューバックをこうやって入れるじゃないですか、空気を。で肺を広げて、そのあとでふーって吐いたりとか。まあアンビューバック入れたあとに咳をするっていう練習しました。

■小学校中学校

立岩:なるほど、わかりました。で、小中は近所の学校に行ってたってことですか?

中野:はい、そうです。

立岩:それは自分ちから一番近い公立の学校みたいな、そういう感じ?

中野:そうです。校区内の学校、自分が普通に行くならここ、っていうとこ。

立岩:もしさしつかえなければ、何小学校と何中学校だったか、

中野:灘小、灘中。

立岩:なだって、さんずいの1字の、さんずいの灘? 「なんとか灘」って、

中野:さんずい、そうそうそう、そうです。

立岩:ああ灘小学校、灘中学校っていうのがあるのね。

中野:岩国の(笑)、

立岩:岩国市立、

中野:ああ、そうです、そうです。

立岩:3年生くらいから自力歩行が難しくなったっておっしゃったけれども、小中ではとくにそういう移動とかそんなようなことで、学校は何かしたりしなかったりっていうのはどうですか?

中野:えっと、まず小学校のときは3年生までは、所属が特別支援学級でした。なので、親学級では音楽とか図工体育と行事を一緒にやるだけでした。教科は自分一人だけでした。

立岩:その特別支援学級っていうのは学校に1個?

中野:1個だけあって、私しかいなかったです。

立岩:あ、全部入れてもってこと?

中野:はい。

立岩:1年生から6年生入れて中野さん一人みたいな。

中野:一人でしたね。なんでだろ? いたと思うんですけどね(笑)。

立岩:ああ、でも一人?

中野:一人。一人で。だからずっと一人で、先生と一対一で勉強していたんですけど、たとえばその体育とかそういう授業は一緒にやっていたんで。

立岩:それってなんかちょっと不思議感もあるんだけど、そのたとえば、

中野:逆だと思うんですよね、私は。

立岩:そういうこと、そういうこと。ねえ。

中野:そういうなんか合理的配慮が必要な教科ほど特別支援学級じゃない? と今は思ってるんですけど(笑)。

立岩:うん、なんか不思議だよね。だって、

中野:なんでだろ(笑)、まあたぶん教科のね、だって1週間に1回か2回しかないじゃないですか、体育とかって。「そっちなんだ」って思って(笑)。

立岩:たとえば国語でも算数でもいいんだけど、特に別にされなきゃいけない理由がちょっと僕には思いつかないんだけど。

中野:私もわかんないです(笑)。そのときは疑問持ってなくて、今ちょっといろいろね、インクルーシブ教育とか勉強してるんですけど、「おかしい」と思って。普通に教科書使って勉強できるんですけど。

立岩:そうだよね、それは普通にかなり不思議な気がする。だけど体育とかのときは一緒なわけ?

中野:そう。

立岩:体育一緒だけどさ、体動かないわけでしょ?

中野:うん。なので小学校までは一応参加はしていたんですけど、見る、見学的な。あとはできそうなやつも、たとえばドッジボールとか、車いすでやってたんですけど、私にあたっても死なないみたいな、ハンデ(笑)。あんまり楽しくないやつ。

立岩:で、途中までがその支援学級だったっておっしゃってましたっけ?

中野:そう、小学3年生まで。

立岩:3年生まで。で4年生からは?

中野:4年生、いや、だから私も嫌だったんですよね、一人で勉強するのが。

立岩:うん、まあ普通嫌ですよね。

中野:で、ちょうど特別支援学級の担任の先生が4年生で変わったんですよ、4年生になったときに。で、変わったタイミングでちょっと相談したんですよ。「私もみんなと一緒に勉強したいんです」って。

立岩:変わった特別支援学級の先生と、ってこと?

中野:うん? そう、

立岩:誰と相談したの?

中野:特別支援学級の先生。3年生が終わったら4年生なるときに先生が変わったんです、担当の先生が。そのタイミングで、「一緒に勉強したいんですけど」っていうふうに相談して、それで全部、朝の会から終わりの会までずっと一緒になりました。

立岩:相談したら、「まあわかった、それでいいんじゃない」っていうことになって、「なんだ、だったらそれまでもそうしてくれればよかったのに」って感じだよね、ちょっとね。

中野:(笑) でもまだわからなかったんですよね、そういうのは。

立岩:「そういうもんだ」っていうか、「されちゃった」って感じなんですかね。

中野:はい。

立岩:じゃあ4、5、6は、でも体の状態っていうのはまあ言ったら、僕はそのウルリッヒ型ってよくわかんないんだけれども、わりと進行してくものなんですか?

中野:ゆっくりです。デュシェンヌ型とかに比べたら全然。たとえば私の場合は2年生、3年生ぐらいまでは歩けていたんですけど、自分で。まあ疲れやすかったですけどね。こう運動場の端っこから端っこを歩くのがすごくしんどかった思い出があるんですけど。ただ3年生のときに歩いていたときに、家でなんですけど、こけちゃって、足を骨折しちゃったんですね、骨。それをきっかけに、すごくおっきな骨だったからしばらく治らなくって、何か月かと、ね、歩けない生活をしていたせいで筋力も落ちて、まあ自分の体重も増えるわけで、その中で自分でもう歩けなくなっちゃったんです。そこからは歩行器を使って歩くようになりました。

立岩:歩行器ってこう、何? 手を寄せかけて、

中野:こう周り半円みたいなやつ。半円みたいな、そこに乗っかる、

立岩:それにこう乗っかって、

中野:はい。

立岩:ぐりぐりっとこう押して、歩くみたいなやつってことか。

中野:そうそう。でも歩行器は家でしか使っていなくて、学校ではもう手動車いすになりました。

立岩:ふーん。その手動車いすはどうやって押すの?

中野:自分で漕いでいました。

立岩:手で漕いでたってこと?

中野:そう。だけど疲れちゃうから。筋力も弱いし。だからなんかあんまり移動してなかった。し、たとえば移動教室で音楽室とか行くときは、同じクラスの友だちが押してくれました。ただ学校は階段しかなくて、上下移動するときは、エレベーターもつけてもらえなかったから、階段昇降機っていうキャタピラーがついてるような機械に車いすを合体させて、先生が操作をして階段を上っていました。

立岩:ああ、昇降機を。それは学校がつけてくれたってことかな?

中野:えっと、名前言っていいかわかんないけど、ライオンズクラブっていう、なんかボランティア団体が寄付してくれました。

立岩:そういうことか。なんかそのパターンいくつかあるみたいでね、エレベーターとか聞いたことあんまりないな。あとは友だちが上げてくれたパターンと、あと学級ごと1階にしちゃった学校もあったって聞いたことあるな。だから上がんなくていいって。

中野:そうですね。私はないです。教室を替わるとかはなかったです。

立岩:たとえばさ、小学校ってよく「1年生・2年生、1階で」とか、だんだん学年上がると上のほうに行くみたいなのってないですか?

中野:そうそうそう、上がっていった(笑)。だからすごい大変、時間かかる。

立岩:ああ、ライオンズクラブがくれた昇降機だけど、あれも確かかかるよね。

中野:危ない、しかも。あれ怖いですよ。

立岩:怖いよね、なんかこう空中にいる感じがするよね。

中野:そうそうそう、怖いし。もう今は乗れないです、怖すぎて。

立岩:うんうん。そんな感じで小学校、そうか。じゃあゆっくり進行していったけど、かえってというか逆にっていうかよくわかんないけど、4年生から普通学級っていうか、それで小学校か。

中野:そうですね。はい。

立岩:で、中学校もその灘中学校。それは、ただ普通に中学校進学するって感じですか?

中野:はい。

立岩:誰からも何も特には言われずっていうか、

中野:特に何か問題が起きたことはないと思います。

立岩:中学校はどんな環境というか、どんなふうにして学校で暮らしてた?

中野:中学校もさっきの階段昇降機をそのまま持ってきて(笑)、

立岩:ああ、小学校にあったやつを中学校に持ってきてね。

中野:はい。で、最初から私も普通にみんなと同じクラスで勉強していて、普段たぶん加配なのかな、私のなんか介助をしてくれる先生がついていました。

立岩:それは教員なんですかね?

中野:教員、先生でした。介助員ではないです。

立岩:介助員ではなくて教員がプラス1?

中野:そうですね、副担任的な、そのクラスの。

立岩:それは3年間?

中野:同じ先生でした。

立岩:中学校のとき、特に何か覚えてることって、恨みつらみも含めてだけど何かありますか?

中野:(笑) 中学校は、たぶん他の障害のない人もそうだと思うんですけど、すごく思春期で、私もなんか思春期の、みんなも思春期で、こうお互いのことがすごく気になったりとかするじゃないですか、なんか(笑)。そういうのもあって、えーと、私すごく中学校はもう嫌な思い出っていうか、しんどかったなって思います。なんか、何だろ、中学校が二つの小学校が合体するんですね。灘小ともう1個の小学校が一緒になるんです。だから半分の人数は私を知っています。だけど半分の子は知らない、初めて出会いました、そこで。だから昔から知ってる子はまあなんか、なんとなく知ってくれてるけど、別の学校から来た人たちは初めて会うからどう接していいかわからないし、私もなんとなく距離があったなって思います。[00:26:08]

立岩:なんか具体的に嫌なことされたとか言われたとか、そういうのはなかった?

中野:嫌なこと、なんか、うーん、たとえば、中3のときに修学旅行があって、大阪のユニバーサルに行くんですけど、そのときのグループ、「一緒に行動するグループを自由に作っていい」ってなって、誰も入れてくれなかった。

立岩:ああ、それ、つらいね。

中野:うん。私も「入れて」って言えなかったし。なんかね、陰で言われていたのは、私がいると「先生がついてくるから嫌じゃん」みたいな。

立岩:なるほどね。

中野:悪いこと、悪いことっていうかそういう、「悪ふざけできないじゃん」って意味だと思うんですけど。そばに私ね、いつも先生いるから、なんか近づきづらかったんじゃないかなって思います。

立岩:修学旅行、行ったは行ったんでしょ?

中野:行ったけど、全部先生と行動した。

立岩:ああ、友だちと一緒のグループってのはなくて、

中野:そう、なんかちょっと若干、言葉が悪いけど、あんまりなじめていない子とかいたから、その子たちと一緒だったから。

立岩:どのグループからもなんか外れたみたいな、

中野:そう、他の理由でちょっとなじめないとか、ちょっといるじゃないですか、そういう人って。属さない人。

立岩:あ、そんな感じの。でもUSJには行ったは行ったわけだ。

中野:行きました(笑)。

立岩:遊びました?

中野:遊びましたよ。

立岩:そっか。こないだ僕…、尾上浩二って知ってますかね?

中野:はい

立岩:DPIの。彼は修学旅行連れてってもらえなかったって言ってたなあ。

中野:ああ、そういう人いますよね。

立岩:うん、まあ時代も違うんだけどね。30年ぐらい違うからね。違うと思うんだけど。

中野:あと、「親の付き添いがないとだめ」とか言うとこもあるし。



立岩:そんなこんなで中学校か。で中学校終わるじゃないですか。そうすると、特別支援学校の高等部っていうのかな?

中野:そうですね、はい。

立岩:それは距離的にはというか、どういう位置関係というか。で、通ったんですか?

中野:あ、なので、さっきの通ってたリハビリの病院の隣です、学校は。だから車で1時間かかるんで、それを毎日親がこう送り迎えするの大変なので、隣にある病院に入院するっていうかたちで3年間過ごしました。

立岩:僕、今京都なんですけど、京都だと国立療養所だった宇多野病院っていうのがあって、それの横に鳴滝養護学校っていうのがあって、ほぼ廊下一つでつながってるって、

中野:ああ、そうそうそう、つながってる、つながってる。

立岩:ああ、そういうとこね。ちなみにその病院のほうは名前何て言うんですか?

中野:えーと、何だったっけ? 鼓ヶ浦整肢学園。

立岩:整肢学園ってやつね。

中野:そう。今はたぶん、こども医療福祉センター的な名前に変わってると思うんですけど。

立岩:なんか日本中にその整肢学園ってあったみたいですね。

中野:ありましたよね。[00:30:05]

立岩:そっちが先で学校があとなのかな、そのパターンなんでしょうね。でその学校に行くときに併設の病院のところに寄宿っていう人もけっこういるみたいで。

中野:そうですね。長期にリハビリが必要な子どもとか、親が…、家庭の事情で家にいれない子がそこに入院していました。

立岩:高校のときのその特別支援学校に行くっていう選択というか経緯っていうのは、どうだったんですか?

中野:まず中学3年生のときに、高校のオープンキャンパス、オープンスクールってあるじゃないですか、見学会、に普通に行ったんですけど、岩国市内の公立高校に。で、まあ「ここに行きたいな」っていうとこがあったんですが、オープンスクールの授業の体験のときに、まあ学校自体がまた階段しかなくって、私もう中学3年生のときに簡易電動車いすを使うようになっていたから、その簡易電動車いすを階段抱えてもらわなきゃいけなかったんですね、高校生に。それがすごく嫌だなって思って。授業のたびにこう移動しなきゃいけないのに、階段をまた抱えてもらわなきゃいけないのかなっていうふうに思ったら、なんか自分で移動できないし、なんか他の人に迷惑をかけてしまうっていう思いがまずありました。
 あと一つは、中学校までが、中学校のときがほんとに人間関係がしんどかったから、なんか「みんなと違うな」っていうこととか、なんか「うまく関われないな」とか。うーん、なんか誰も知らないところに行きたいって思ったんですよね。

立岩:ああ、かえってね。

中野:そうそう。で、小学校5年生のときに先ほど手術をしたってお話をしたと思うんですが、そのときに一時的に3か月ぐらい私、特別支援学校に転校してるんですね。それが私が高校のときに行った学校と同じ学校で、その、一回特別支援学校の雰囲気を知っていたから、「あ、ここだったら全然車いすで自由に動けるじゃん」って思ったんですよ。「何も我慢することがないな」って。あとは一応その私が行った特別支援学校はもともとが肢体不自由の子どもを受け入れてた学校なので、今はね、いろんな障害の子がいますけど、普通の教科書を使った勉強ができるって知っていたから、だからそこに行こうって思いました。

立岩:なるほどね。その整肢学園のところは、1学年っていうかどのぐらいのサイズの学校だったんですか?

中野:うーん、私と同級生は8人いました。

立岩:同級生が8人。

中野:ただ、私と同じクラスの子は私だけでした。いなくて。一人、また。

立岩:ちょっと待てよ。8人っていうのは高等部全体で8人ってこと?

中野:いや、学年。私と同級生。

立岩:同級生が8人でしょ。

中野:はい。

立岩:その、一人ってのはどういうこと?

中野:えーと、特別支援学校の教育課程って4つに分かれるんですね。普通の高校と同じ勉強をするクラスとか、作業だけとかあるじゃないですか。だから私は普通の高校と同じ勉強するから、クラスは一人だけなんですよ。

立岩:なるほど。他の生徒たちはそうじゃないコースというか。

中野:そうそうそう。でなんか、ちょっと他学年の勉強したりとか、作業を取り合わせた勉強とかするクラスだったから、他のクラスは。運動がメインだとか。

立岩:3年間お一人だった?

中野:3年間一人。一人です。

立岩:どんなもんなんです? なんです?って言われても(笑)、

中野:(笑) 家庭教師みたいでした。だから私、数学がすごい苦手なんですけど、あるページが、ある教科書のここのページが全然理解できなくって、そのページを4日間くらいかけてやりました(笑)。

立岩:一人だから、対応してくれるっちゃしてくれるわけ、

中野:そう、理解しないと次にいけないから(笑)。

立岩:それは高校だとさ、まあ中学校もそうか、教科ごとに先生違ったりするじゃないですか。

中野:はい、そうですね。

立岩:それはどうだったんですか?

中野:違います。ちゃんと専門の先生が来てました。私はもう入学する前からそこに、もう入学願書を出すときから「大学に行く用に授業をしてほしい」って言ってたんですよ。だからすごく、入学したあとに、入学したら、何て言うのかな、普通の高校から人事交流で先生が転勤してきていて。なんかその人は、その先生は教科の指導はできるけど、特別支援学校の免許を持ってない先生がいるから、何て言ったらいいんでしょうね、特別支援学校の先生って教科指導だけじゃないじゃないですか。だから私の、たとえば生物の勉強を担当するけど、その先生の所属はたとえば自立活動がメインのクラスの担当だったりするわけですよ、担任。なんかそういう感じ。だから不思議な感じがありました。高校の授業はできるけど、障害のある子どもと接したことがない先生がいっぱいいました。

立岩:でもその教諭たちは所属としては、その学校の。よその学校から今日来るとかそうじゃなくて、

中野:ちゃんと転勤してきた。

立岩:その内部の先生なわけね。

中野:そうです、そうです。



立岩:そうなんだ。学校のクラスそのものは一人だとしてですよ、その付属っていうか、どっちが付属なのかわかんないけど、そこのその宿舎というか病院に寝泊まりするわけですよね。それはどんな部屋っていうか、たとえば4人部屋とかそういう感じ?

中野:はい。私が行ってたところは6人部屋でした。で、もちろん女の子だけなんだけど、えーと、ベッドが6個置いてあって、たとえば普通の病院の大部屋を想像してもらったらいいと思います。ただ普通は、普通の病院だったらカーテンがあると思うんです、仕切りが。それがなくて(笑)。ないからめちゃオープンされてるって感じ。

立岩:オープンだよね、それ(笑)。でもそういうとこ多い。だいたい6人、それがなんか途中で4人になったとかね、そういう話を何人かから聞いたんだけど。6人だったわけね。

中野:あとは畳の部屋とかもありましたよ。こう自分で這って移動できる人とかは畳を使っていました。

立岩:うん。で、その6人の部屋に6人いたわけでしょ。

中野:6人全員はいませんでした。ベッド空いてるところもありました。

立岩:で、その高等部に行くのは中野さん一人とかでは…、あ、そっか、同室の子どもたちはいろんな年齢の人がいるわけ?

中野:そうですね、基本的にはその病院は18歳未満を受け入れているんですが、いろんな事情で、もう20歳、40歳とかいました。

立岩:ああ、そのパターンね。子ども用の施設なんだけど、加齢児っていうかな、そういう人も。40歳。

中野:中には自分が子どものときに教育、就学免除を受けられていたから学校行ってなくって、40歳とかになって、今、通ってるって人もいましたよ。

立岩:通ってるっていうのは、その隣の?

中野:そうそう、特別支援学校に、高等部に。

立岩:へえ。その人たちって、まあいろんな人がいたんだろうけど、病院によっては筋ジス病棟っていうのがあってね、40人ぐらいいたりするっていうそういうとこもあるけど、中野さんいたところはどういう人たちと一緒に暮してたんですか?

中野:えーと、主に脳性麻痺だと思います。

立岩:ああ、脳性麻痺の人が多かった。

中野:はい、とくに筋ジス専用とかではなかったので。

立岩:じゃ、その病院で自分が3年間いた間に、筋ジスの人って何人かいたっていう感じですか? [00:40:15]

中野:筋ジスの人は、いや、私は知らないです。いなかったかな。だからこんなふうに、私みたいにしゃべれる人があんまりいなくって、まず。脳性麻痺と知的障害重複してるみたいな。あとは医療的ケアで、もうずっとベッドにいるとか。

立岩:うんうん。その3年間の間は体はそんなに大きな変化はなかった?

中野:えーと、大きな変化といえば、高校1年生の冬にすごい頭が痛くなっちゃって、朝の寝起きが。で、それまでにも定期的に1年に1回とか検査入院をしていたんですね。夜間の呼吸状態を診る検査入院をしていました。で、そのときに検査したときに、ちょっと夜間の呼吸の状態がちゃんとできていないということで、呼吸器使ったほうがいいんじゃないかって言われました。で高校生の冬に呼吸器を使うようになりました。

立岩:頭痛いのは、たとえば脳に酸素っていうか、

中野:二酸化炭素がたまってて、呼吸がきちんとできていないっていうことでした。

立岩:それで痛くなってるんじゃないかっていう見立てで。呼吸器っていわゆるこういうやつですか?

中野:鼻マスクですね。

立岩:鼻マスクのやつね。それはどのぐらいの? その人によるじゃないですか、夜だけとかさ、

中野:ああ、寝てるときだけです。夜間。

立岩:夜寝るときにつけて、朝起きたら外すっていう。

中野:はい、そうです。

立岩:それはずっと、その生活は続いてるんですか?

中野:今ですか?

立岩:うん。

中野:(笑) 今、続(つづ)…、ちょっと紆余曲折あるんですけど、今はちゃんとやってます。

立岩:ちゃんとやってるって、つけてるってこと?

中野:そう。でもちょっとさぼってる間があって(笑)。なんでかっていうと、高校3年間はきちんとね、看護師さんが管理をして呼吸器をつけて寝ていたんですが、卒業したあと私は大学生になって、愛知県に来て一人暮らしをはじめました。一人暮らしをしたら誰もね、「つけろ」って言う人はいません。全部自分で管理をします。で、つけるのがめんどくさかったりとか、「別につけなくてもめっちゃ元気じゃん」と思ってたんですね。むしろ病院にいたときよりも、こう外と接する、外に出て体を動かす機会が増えたから、全然風邪引かなかったんですよ。なんか病院にいたほうが、1か月に1回風邪引いてたんで。だから「元気だな」と思ってさぼっていました、まず大学生活の間は。

立岩:大学のときは、ほぼずっとさぼってた。で、大丈夫?

中野:さぼっていました。そして就職して、就職して3年目ぐらいに、3年目まではさぼっていました。

立岩:それでも大丈夫だったってことだよね?

中野:そう。だけど体の中ではやばいことが起きていて、その3年目ぐらいのときに、ちょっと救急車を運ばれました。

立岩:就職3年目で? それは何が起こったんですか?

中野:頭が痛くて、すっごく。で頭痛と、あともう動悸がひどくって。で「やばいやばい」って思って。でもなんか脳がどうにかなったのかなと思ってCTとか撮ったけど、「全然大丈夫です」って言われたんで原因がわかんなくって。で、もともと愛知県で出会った筋ジスのなんか患者会があるんですけど、その人に相談したら、「呼吸器使ってますか?」って言われて、「あ、さぼってます」みたいな。で、「えー?」って思って、なんか「じゃ一回、八雲病院でちゃんと診てもらったほうがいいよ」って、北海道の。で、もうどうにもすごい体がしんどいから、もうしんどい体で北海道に行きました。そしたらもう呼吸状態がやばくって、夜中の酸素濃度が65だったんです、一番ひどくて。65って死んでるぐらいなんですけど(笑)、「よく生きてるね」って言われて。

立岩:だけどその身体症状そのものは、社会人3年目に初めて出たぐらいの感じだったってことですか? [00:45:10]

中野:そう。でもただ、「やっぱり仕事してるから疲れてるのかな」と思って、一般の人と同じように。

立岩:ああ、そう思ってたんだけど、

中野:でも、そう、それが自分にとってはほんとに命にかかわるぐらいのしんどさだったらしくて、そのときにちゃんと呼吸器の設定も高校生以来設定してもらって。あと呼吸器の本体のメーカーももうなくて、「新しいのに替えましょう」って言われて。全部新しくしてもらって、そこからちゃんと毎日寝てる間は呼吸器使うようになって、体調がよくなりました。

立岩:そういうことか。八雲、今度移転するん…

中野:もう札幌にしましたね。

立岩:らしいですね。八雲にはどのくらいいたんですか?

中野:1回目は1週間いました。で次の年にもう1回行ってるんですけど、そのときは別に体調が悪いというかではなくって、自分の体に合った車いすを作りたくて、シーティングをしてもらいたかったんですね。それで2週間滞在しました。で1年後に検査したとき、「めちゃめちゃ呼吸状態がよくなってるね」って言われました。「呼吸器使ってよかったね」みたいな(笑)。

立岩:悪くなってたわけだ。同じような感じで八雲に高等部のとき3年間いたとかね、そういう人の僕はお話うかがったことありますけれども。そうか、中野さんの場合はそういうふうにね。で、話戻しますけど、その高等部で3年間クラスは一人で、病室は6人部屋で、筋ジスの子はいなくてっていう中で、でその最初っから、さっきおっしゃってたけど進学するつもりでそこにいたと。

中野:まあ勉強がしたかったんで、はい。

立岩:勉強は好きなの? わりと。

中野:まず勉強が取り柄だったと思うんですよ、自分には。親からもそうやって言われていて、「あんたには勉強しかないからね」みたいな。だし、その学校に、中学校とかも、「勉強ができていないと一緒に勉強できない」と思っていたんですよ、「同じクラスじゃなくなる」。

立岩:そんな感じもあったんだ。

中野:だからみんなには宿題を教えたりとかはしてたんですけど、「そのためにだけ私はいるのかな」みたいな、存在価値というか。うん。「ちゃんと意見言う人」みたいな、何か先生に聞かれたら(笑)。

立岩:まあちょっとつらいような、でもがんばった、みたいな。

中野:はい。

立岩:数学ができなかったって言ってたけど、得意なのは何なの?

中野:(笑) 得意なのは、えー、何だろう。もう全然わかんないんですけど、社会とか。

立岩:どっちかっていうと文系か。

中野:文系です、文系。もう理数は無理です。

立岩:理数は嫌っていう感じ。まあ、「勉強はしなきゃ」っていうか、「勉強してなんぼ」みたいなそんな感じもあってまあ勉強したわけだ。

中野:そうです。一応学年でけっこう上の方だったんで、順位は。

立岩:中学の時?

中野:はい。

立岩:お勉強できるほうだったってことね?

中野:できるほうですね、基本それしかないと思ってたから(笑)。

■DO-IT JAPAN

立岩:ほんで高等部行って、どういう学校行こう、とかっていうのはいつごろ考えだしたの?

中野:あ、大学ですか?

立岩:大学。日福だよね?

中野:あ、日本福祉大学です。

立岩:日本福祉大学ですよね。他にもいたよな…、違うかな。

中野:えーとね、まずは高校入った頃はまあ大学用の勉強はしてたけど、大学に行こうと思っていなかったです。私が行けるわけないし、私は高校卒業したあとは公務員になろうと思ってたんで。なんか自分の中のイメージが、車いすで働けるのってやっぱりデスクワークだと思ってて、なんか。で「公務員だったらいいかなあ」みたいなの思ってたんです、想像だけど。
 だけどなんか高校1年生のときに、その特別支援学校の担任の先生が新聞記事を見つけてきて、それがDO-IT JAPAN(ドゥ・イット・ジャパン)っていう、えーと、東京大学の先端化学技術…、うん? 先端研? 福島〔智<〕/a>先生がいらっしゃるところが主催で、障害のある高校生を対象にした大学体験プログラムがあるよって教えてくれたんです。それに私高校生のときに、えーと、2年生のときと3年生のときに参加してるんですね。で高校2年生のときに初めて参加したときに、その東京での4泊5日をすごしたときに、同じ筋ジスの、まあタイプ、型は違うけど筋ジスの先輩に出会ったりとかして、あとは頚損で24時間呼吸器を使ってる人とかに出会って、「自分も一人暮らしして大学生活、行なってるよ」みたいなことを知ったんですよ。そんな私よりも体の状況が悪そうな人が(笑)、言葉が悪いですけどね、なんか障害が重たい人が、「え、一人暮らしして大学行ってるって、どういうこと?」って思ったんですよ。で、「できるんだ」って思って。そう、それですごくなんか現実を、なんか感じてきた。「行けるかもしれない」みたいな。[00:51:15]

立岩:へー。DO-IT JAPANっていう企画っていうかプロジェクトって、そういうものなの?

中野:そう、今もありますけどね。

立岩:今もやってんだ。福島さんとかも出てくるの?

中野:福島先生はお話をしてくれました、講義みたいな。まあそこでは4泊5日をホテルに滞在しながら、東大に通って大学の授業を受けたりとか、どういうふうに授業を受けるために合理的配慮をお願いするかとか。あとはその、ホテルでの生活はもう親は全然入って来てはだめっていう感じで、一人で東京に行ったんですけど。その現地での身体介助は、現地の初めて会う学生さんのボランティアがやってくださっていて。だから私にとったら大学の体験もまあよかったんだけど、その、知らない人に自分の介助をお願いするっていう経験が初めてで、すごくおもしろか…、おもしろいっていうか。実家とか病院に入院していたときは、親とか周りの看護師さんが勝手にやるじゃないですか(笑)、なんかいろんなことを。だけど、そこの東京での生活はまったく知らない人がやってくださるので、自分で言わないとわからないわけですよね。で、そのときの経験で、お風呂に入る介助をしてもらったんですけど、学生のボランティアさんに、「どこから体洗いますか?」って聞かれたんですよ。

立岩:うん、うん(笑)。

中野:そのときに私は答えられなかったんです。なんでかっていうと、いつもは身を任せていたからですよ(笑)。で、「えっ」て思って、「どこから洗ってるっけ?」って思って、それが答えられなかったことが、これはすごくはずかしいことだなって思った。それを気づかせてもらったんです。

立岩:その学生は大学生?

中野:大学生で、えーと、社会事業大ってありますよね。

立岩:はい。日本社会事業大学ね。

中野:ああ、そうそう、そこの学生さんとかだと思います。ボランティアで関わってくださっていて。

立岩:東大の先端研だから、駒場でしょ?

中野:駒場キャンパス。

立岩:うん、でしょ? そこでホテルってどこになるの?

中野:新宿の京王プラザ。

立岩:おお、いいとこじゃないですか。

中野:めっちゃ高かった。びっくりした。こんな高級なところ行けるんだと思って(笑)。

立岩:その京王プラザの宿泊費は誰が出すの?

中野:あ、それは、そのプログラムの方たちが補助をしてくれる感じです。

立岩:ああ、自分も出すけど補助も出るってそういう感じ?

中野:確か、ちょっと忘れちゃったけど、交通費とか飲食費は自分なんですけど、滞在費はなんかもらってた気がします。忘れちゃったけど。

立岩:そうですか。いや、京王プラザだったらまあいいほうっていうか、だいぶいいほうですね。

中野:そう、そこのバリアフリールームみたいな。

立岩:ふーん。そのプログラムって、まあ福島さんに聞いたらわかんのかもしんないけど、いっぺんに何人ぐらいの高校生が受講するの? 基本は。

中野:えっと、大学をめざしてる高校生、

立岩:大学をめざしている高校生が、何人ぐらいいたって記憶ある?

中野:うーん、私のときは20人はいなかったと思うんですよね。

立岩:10人よりはいたけど、20人はいなかったくらいの感じ?

中野:はい、はい。

立岩:へー、そんなのあるんだ。

中野:でも最近なんか小学校とか中学生を対象にしたものもあるみたいですよ。

立岩:そうか。福島さんもいいことやってるんだな。

中野:(笑)

立岩:いや僕ね、福島さんに、彼が大学に入るときの話とか聞いて、すごいおもしろかったんだよ。そのインタビューの記録もあるんだけどね※。そうか、後輩に対してそういうことをやってるのか。そうか、そうすると「私も大学ありかも?」って思いだしたってことね。

※福島 智 i2018 
インタビュー 2019/01/08 聞き手:立岩 真也 於:立命館大学衣笠キャンパス創思館4階・書庫

■日本福祉大学

中野:そう。そういうふうに同じような人に出会ったことが初めてだったんで、障害の状況というか、あ、自分より重たい人か(笑)。その人が「え、自立生活?」とか「ヘルパー」とか言ってたから、なんか「へー」て思って、「できるんだ」って思って。あとはちょうどそのころに、えーと、日本福祉大学が気になっていたんですよね。で、日本福祉大学の先生もそのプロジェクトに関わっていて、だからそこでいろいろ大学の情報をもらえることができたんです。で日福はまず「学校の中はバリアフリーだよ」っていうことと、あと「一人暮らしをしている障害学生もたくさんいて、ヘルパー事業所があるよ」って教えてもらいました。で、そこから事業所に連絡をしてっていうやり取りがで…、やるようになりました。

立岩:高校のときから日福に行くっていうのを見越して、「そこで暮らしたら」っていう前提で事業所とコンタクトを取ったりとかっていうこと。

中野:そうですね、まだ合格決まってないんですけど、もう1年以上前から連絡を取っていて。まあ呼吸器を使うっていうことと、だから夜勤、夜間の、重度訪問介護なんで、そういうところから人集めもしないと、てもらわないといけなかったと思うので、けっこう早い段階から連絡をしたりとか、あとは何回か愛知にも実際に行って、まあアパート探したりとか、あとは病院にもちゃんと顔を出して、「受け入れてもらえますか」みたいな話とかもしてましたね。

立岩:へー。中野さんの親どういう親か知らないけど、って知ってるはずないんだけど、

中野:(笑)

立岩:親は、もっとさかのぼってからでもいいんだけど、どんな感じ?

中野:まず親は、まあ父と母がいるけど、主に私のことをやっていたのは母なんですね。リハビリ連れて行ったりとか、病院とかも全部母で。で、その父はあんまり関わりがなく…、関わりっていうか、あんまりそういうことしなくて、うーんと、でも「自分のことは自分でしなさい」っていう考えかたなんですよ。だからまあ、たとえばトイレ介助とか着替えとか全部身の回りのことはするけど、お母さんが手伝ってくれるけど、「できるところまではしなさい」っていう感じでやってたし、あと大学のことも最初の頃は、まず実家から通える距離の大学に行ってほしかったらしいんですよ。山口県の大学か、広島ぐらいって思ってたけど、一応広島の大学も広島大学とか県立大学とか見学に行ったんですが、自分が勉強したいこととなんか違うなって思って、あんまりしっくりこなくって。で、「日本福祉大学がいいんだ」っていうことを伝えて。「じゃ、いいけど、全部自分で準備しなよ」っていう感じ。ちゃんと連絡、他のね、愛知県の人と連絡取って、自分で連絡をして、自分でいろいろ調べて準備しなさい、っていう。ただそこに、愛知県に行くときもお金は出すし、一緒に付き添いはするけど、じゃあ新幹線の時間も自分で調べなさい、みたいな。

立岩:そういう親なわけね。

中野:はい。私の母は、私に障害のことを教えてくれませんでした。ウルリッヒ型筋ジストロフィー。

立岩:その、筋ジストロフィーだとも教えてくれなかったの?

中野:えっと、知ったきっかけ、ちゃんと正式にウルリッヒ型っていうものを聞いたのは、そのDO-IT JAPANの申込用紙に「自分の障害名を書きなさい」っていう欄があったんですね。で、「何だろ、これは何て書けばいいのかな」って思って聞いたのと同時期ぐらいに、さっき言った呼吸器を使わなきゃいけなくなったんですよ。で、「え、私って呼吸器使うような体なの?」みたいな。そんな機械とか頼らなくてもいい病気だと思っていたんですよね。だからびっくりして、そこでちゃんと主治医と親と私とで病気のことを話して、でそのあとに、そのあとっていうか、えーと、広島の、西広島病院あるじゃないですか、筋ジス病棟、広島に。そこに1回見学に行ったんですよ、親と。母と娘。で、「将来あなたはこういうふう」、こういうふうっていうか、「呼吸器を使って生活をすることになるかもしれませんよ」みたいな話をしたりとかしてたんです。それまではまったく言われませんでした。[01:01:13]

立岩:それ高2だっけ? それまでっていうのは、自分はなんか障害もってるっていうのはもちろんわかってるわけじゃないですか。

中野:そう、まずは、

立岩:何だと思ってたの?

中野:えーと(笑)、筋ジストロフィーという言葉を知ったのは、小学5年生のときに病院のカルテを勝手に見ました。

立岩:あ、そのパターンね。

中野:そう。そこに「筋ジストロフィー」って書いてあって。「ああ私こういう名前なんだ」みたいな、知ったんですけど。ただそれをこう、もう当時ネットがあったけど、パソコン使えたんだけど、検索することもできたんですが、「検索するのはよくない」と思っちゃったんですよ(笑)。なんかそれを調べることは悪いことで、調べたら親が嫌な思いするかな、みたいなのはなぜか思っていて、とくに調べなくて。ただ筋ジストロフィーという言葉が頭に残っていたっていう感じ。

立岩:ああ、そんな感じね。だから筋ジストロフィーって名前のものだってのはわかったけど、筋ジストロフィーってどういうものでっていうのは、あえてというか、わざとというか、知らなかったけど、高2でそういうことがあったときに初めてっていう。

中野:はい。「ああ、こういう、段々進行するし、呼吸ができなくなるんだなあ」みたいな(笑)。うん。そこで初めて教えてもらったっていう、正直に、なんか面と向かって母と話をしたっていう記憶です。

立岩:お母さんはさあ、あえて詳しいことまでは言わなかったっていうことについて、何かそのときに言ったりしました?

中野:うーん、

立岩:特には?

中野:特には…、でも泣いてた、なんか(笑)。

立岩:泣いてた?

中野:泣いてた。なんかでも、「まこにはいろいろやりたいことやってほしいよ」みたいな。

立岩:それは医者と三者のとき? それとも二人っきりのとき?

中野:二人っきりのとき。その、なんか、うん、二人っきりのときですね。

立岩:お医者さんから「あなたはこれこれだ」っていう話を聞いたあと、みたいな感じ?

中野:聞いて、そのあとに広島の筋ジス病棟に見学に行って、帰りの車。

立岩:あ、そういう順番ね、お母さん運転しながら泣いてて、みたいな。

中野:そうそうそう(笑)。ちょっと「事故らないでほしいな」って思いながらって感じ(笑)。

立岩:そんな感じかあ。僕、日本福祉大学って学部の構成とかよくわかってないんですけど、あそこ学部は一つなんですか?

中野:いや、学部はいろいろあるんですけど。

立岩:いろいろあるのか。そっか、すみません。

中野:(笑) 私はその中のまあ教育、大学…、私は教員になりたかったんですよ。特別支援学校の先生になりたくって、教員免許が取れて、かつ福祉とか障害のことが勉強できる学部に行きたかったから、日本福祉大学の、あの、まあ今はもうなくなっちゃって名前が変わっちゃったんですけど、子ども発達学部っていうところで勉強をしました。

立岩:ああ、そのときは子ども発達学部っていう学部で、

中野:はい、そうです。教職課程があるとこです。

立岩:学科ってのはあるんですか?

中野:学科は、心理臨床学科です。

立岩:心理臨床ね。それは教員の免状っていうか、取れる? その受験資格っていうか、

中野:はい、特別支援学校と、中学・高校社会が取れます。

立岩:取った?

中野:取って。あと小学校の免許は独学で取りました。[01:05:12]

立岩:ということは、その学部を卒業すれば受験資格が出るってことか。

中野:そうです。だから私、教員採用試験受けました。

↓続き
中野 まこ i2020 インタビュー・2 2020/12/12 聞き手:立岩真也 愛知・中野さん宅との間 Skype for Business使用


UP:20210201 REV:
中野 まこ  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす  ◇筋ジストロフィー  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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