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永村実子氏インタビュー・3

20201127 聞き手:立岩真也・尾上浩二・岸田典子 於:東大阪・ゆめ風基金事務所

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■インタビュー情報

◇文字起こし:ココペリ121

■インタビューの全体

※167分+1つ(インタビュー後御馳走になった時の会話)の記録を4つのファイルに分けました。
永村 実子 i2021a インタビュー・1 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所
永村 実子 i2021b インタビュー・2 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所
永村 実子 i2021c インタビュー・3 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所
永村 実子 i2021d インタビュー・4 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所

■関連項目

楠 敏雄(1944〜2014/02/16)  ◇関西障害者解放委員会  ◇全国障害者解放運動連絡会議(全障連)  ◇ゆめ・風基金

■本文


■■

立岩:うまいですね。

永村:楠さんや仲間たちが鍛えてくれたようなものです。龍大時代の仲間の同窓会を私の家でやるんですよ、私全然知らん人もいるし。「じっちゃん、何月何日な、まあ10人はいかへんと思うけど」「悪いなあ、あんたとこでやりたいねん」とかって。森の宮に住んでいる頃は、仲間たちの宴会とか、女たちの集まりとか、しょっちゅう宴会していました。料理なんて場数ですよ。

岸田:楠敏雄を偲んで、

永村:毎年やってるやろ。

岸田:やってます。

永村:(笑) 去年も私、

岸田:ああ、安東さんが、

永村:「そんな毎年集まらなあかんか?」って。牧さんとこのあの狭いとこで。

尾上:僕が谷町でやったやつと、この前の東大阪でやったやつですね。

永村:あなた方は毎年やってたんでしょ、1月2日に。

岸田:やってたんです。

尾上:あなたたちっていうのは、どういう人たち?

永村:三上さん、岸田さん、安東さん。

尾上:へえー。

岸田:安藤さん、箕面の女性団体の。それから、障大連の片岡さん。

尾上:ああ、片岡さんね、なるほど。

岸田:それからりぼん社の小林さん。

尾上:あ、りぼん社のね。へえー。

永村:あ、1月2日のやつって小林さんも参加してたん? すげえ。

立岩:小林さん、まめやなあ。小林さんの話はおもしろかったわ。大阪、そうか、私知らない人たくさんおるな。たぶんじつは顔ぐらいは合わせてる人のほうが多いだろうけど。

尾上:定藤邦子さんは、今も研究されてるんですか?

立岩:いや、「ちょっとお手伝いしたいな」とかときどき言うんですよ。だけど、そのままになって何年も経ってて。たぶん、時間はたっぷりあると思うんで。

尾上:ああ。いや僕、そのときの実現に関わった人間からしたら、あのガリ版刷りのあれがああいうふうな本になるなんてっていう。その、それだけでもあの本※は価値があるって思ってるんですけどね。

※定藤 邦子 20110331 『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』,生活書院,344p. ISBN-10: 4903690741 ISBN-13: 9784903690742 3000+ [amazon][kinokuniya]

立岩:いや、そうなんですよ。ガリ版刷りのってあるじゃないですか、それをまあ、彼女まめっていうか、

尾上:入力してるんでしょ。

立岩:もう全部、手で入力して、

尾上:すごい(笑)。

尾上:(笑) それもさっきの資料の中に入ってるんですよ、きっと。

立岩:定藤さんにあれ送りつければいいかも。そしたら在宅でやってくれるかもしれない。



永村:楠さんの晩年はずーっとお節作りに行ってましたよ。

岸田:でも楠さんっていっぺん冷蔵庫のものが何にもなくなって、うちに電話かかってきて、「誰か来てもらえへんやろか」って。そんな普通に、

永村:あの人も上手、そういうの。いっぱい、だから支援者はいたよ、ごろごろ。

岸田:私ね、あの人と〔盲学校の〕寮が一緒やったんですよ、会わないけども。で、そこにね、にしむらっちゅうね、調理員の人いてね、その人料理下手でね。で、二人でね、「あー、にしむらの料理まずかったなあー」とか言ったら、横にいたヘルパーさん「あんたら40年前の食事のうらみ言うてんのか」とか言われて。楠さんは、ほんまにええもん食いというか、ぜいたく、

永村:いや、元からそうやったわけじゃないよ、やっぱり偉いさんと付き合うようになり、どんだけいいもん食べてるか(笑)。

岸田:あの人、小樽の盲学校の時にね、視覚障害者、全盲の人が多かったからね、あの寄宿舎でごはん食べたらね、こうトレーがないからね、あの、前に座ってた子にごはん奪われたって。だから「自分のごはんがなくなった」って。そんなん40年後か50年後に言うかっつうの。

[…]

永村:楠さんは味覚確かですわ。

尾上:ただ好き嫌いすごくあったよね。

永村:うん。

立岩:へえ、何が嫌いなん?

永村:あの、野菜ほぼ全般だめ。

立岩:(笑) 野菜があかんの?

永村:うん。

岸田:おから嫌い。

永村:おから嫌いやしね、魚も刺身はいいけど、焼き魚、煮魚は嫌い。

立岩:偏食やね、要するに。

永村:何作ってほしいって言うたら、里芋の煮っころがし。あ、そうそう、私がお節を持って行くねんけど、その帰りに北海道の高級なも、ウニとかイクラとかもらって帰るから(笑)。「ラッキー」言うて。

尾上:これはもう(笑)。あの、インタビューのときにも、あの言うたらね、それこそ本田さんのセッティングで楠さんと初めて会ったときね、あの、喫茶店で。で、楠さんカレーを頼んだんですよ。で、楠さんが開口一番「尾上くん、あの、福神漬けは載ってるか」とか言うから、「ああ、こっちの端に載ってますよ」って、「どけてくれたまえ」とか言う、なんか。で、「あ、楠さん福神漬けだめなんですか」「いや、漬物は全部だめなんだ」とか。なんかその話だけは覚えてる(笑)。

立岩:そうそう、そのそういう話しか人間覚えてねえって話を、尾上さんとこないだして※。でもほんまそうやで。

横山 晃久尾上 浩二 i2018 インタビュー 2018/03/17 聞き手:立岩 真也・岡部 聡・田中 恵美子 於:郡山市(福島)
「尾上 […]「あ、これが楠さんだ。」とかいう感じで(笑)。へへー、雲上人みたいな。で、その時も今思えば、確かに、楠さんもやっぱりカレーを…、まあそれは別に障害者だから云々じゃなく、カレー頼んでて。で、その時に色々話したんだけど、僕にとって覚えてんのはね、唯一覚えてるのは、「尾上君、あの、福神漬けは、あるかね。」「あ、こっちの端にあります。」「ちょっとどけてくれたまえ。」「え、楠さん、福神漬け、だめなんですか。」 もう、漬物が全部、だめなの(笑)。「あ、楠さん、福神漬けがだめなんだ。」という、それしか覚えてなくて(笑)。立岩 でも、そういうこと、あるよね。尾上・岡部 あるあるあるある。」「尾上 全障連というか、障害者解放委員会の中で、一番〔青い芝の〕影響受けたの、多分、楠さんだと思いますよ。あんまりね、公の場で言わなかったけど、「楠さん、青い芝と、何で一緒にやろうと思ったんですか?」という話をした時に、彼は元々、大学時代に、その頃の中核派に入って、狭山差別裁判とか、「部落解放だ!」とか言ってた。でも、ところが…、で、そのまあ、その、部落解放に合わせて、障害者解放も行ったんだけど…、横塚さん達と会って、はっと気づいたら、その、自分が、食事をまあ一緒にとると。視覚障害で、色んなものがあったら、やっぱうまく食べれないじゃないですか。で、不細工な食べ方にならない、カレーをつい無意識のうちに選んだりとか。やっぱりそういうのにも、「自分の障害っていうのをどこまでさらけ出してたのか?」っていうのを、大阪青い芝の連中との出会いだったりで気づいていくわけです。彼の中で、社会運動の活動家としての障害者ということから、もう少し、障害者自身のアイデンティティみたいなものを発見していく、いわば、何ちゅうの、その運動する社会的な主体としての障害者からもうちょっと何かこう、あの
尾上 浩二 i2020b インタビュー 2020/08/07 聞き手:立岩真也・岸田典子 +伊東香純 於:(NPO)ちゅうぶ
「尾上:[…]今にして思えばそういう話したな、ということなんですが。そのとき会ってすぐのときはね、それこそ交渉とかでビシバシ仕切ってたというか。その当時、全障連の事務局長ですからね。いうなら全国の運動のトップっていうか、もう横塚さん亡くなったあとだったし。この人が楠さんかーみたいな感じで、別に後光があったわけではないですけど(笑)。ところで、その喫茶店でカレーを頼んだんですね。カレー頼んで、「尾上くん」「はい、なんですか?」「いや、福神漬け乗っているか?」って。「こっちの端にあります」「どけてくれるか」「楠さん、福神漬けだめなんですか?」「ぼくは漬物は全部だめなんだ」とかいって、楠さんさっきの帝国主義論がどうのとか、マルクスがどうのこうのとかっていう話よりも一番強烈に覚えてるのは、楠さんは福神漬けをはじめとした漬物はだめな人なんだという、それが第一印象。
[…]
立岩:尾上さんと郡山で、「人間ってそういうことしか覚えてないよね」っていう話したよな。でもそうやね。ほんまにね。」


尾上:(笑) ほんまそう。

永村:鹿島さんと私がごはんのあと、お茶飲みながら漬物をバリバリかじってたんよ。楠さん漬物大っ嫌いなんで。なんか知らんけどキレてね。「あんたらいつまで、漬物バリバリバリバリ食べとるんや!」

一同:(笑)。

尾上:(笑) 食べとるだけで怒られるのか、すごいな、それ。

永村:「臭い!」言うて。

尾上:でも北海道って、っていうか、寒いところは漬物も冬の保存食やろ。

永村:施設だもんね。

尾上:ああ、そら施設だから。そうか、やっぱりそこに盲学校の、やっぱりこう偏りがあるんですね。

岸田:でもなんか三上さん言うてた、「楠さんはおぼっちゃまやから、けっこう食事は家ではぜいたくやったんちゃうか」って。

尾上:ああ、それでだから「漬物ごときは」みたいな感じなんかな。

岸田:そうなんちゃうかな。

立岩:楠さんはおぼっちゃんだったの?

永村:菓子屋さんのせがれなんです。和菓子やね、あんこ類やから。それを観光ホテルとかに卸して。楠さんもやたら兄妹が多いんです。

岸田:お葬式のときに来てはったんですか、北海道から?

永村:お通夜のときはは来てなかったんと違うかな。葬式はしてないから。「もう、やらんとこ」言うて。うん。で、もうごくごく人数かぎってお通夜はやったけども、葬式はしない、お墓も要らないって楠さんは言ってたけど。勇君は「みんなが集まる場が要るんちゃうか」と気にしていて、結局、お墓作ったけど。

岸田:いや、私も、お葬式行こうかなと思ても、あとお断りって言われて。

永村:そう、そう、いろんな人をお断りして(笑)。で、私は全然泣く気がなかったんやけどね。三上さんがおいおい泣きながら、ようしゃべんねん。もうその次、私や。「もうやめてよ」「引きずられる」言うて。

立岩:日帝米帝の話から始まったりすると、70年代。

永村:長いねん。長すぎるで。

岸田:こんだけバンバン言うてたら今ごろ、向こうではどういうふうに見とんのやろ。

尾上:くしゃみしてるかな。

岸田:「風邪ひいたな」とか言って。

立岩:その時代の人で、その葬式は別として、なんか話聞ける人っておるかな?

永村:いなくはないけど、ほんとに、全障連以降とか、ましてや障大連以降は全然関わりのない人ですよ。私がどういうわけかつながってるけど、つながってんのはもう楠さんのおかげっちゃあおかげなんやけどね。元関学のメンバーとかそれなりにいますから。→「4」



永村:やっぱり日本の障害者解放運動の中では役割担ってきたんちゃうか。それは認めるわ(笑)。楠さんのあの、末期のとき、もうすごいねん、病院迷惑やで。もう次から次から次、すさまじい見舞客やねん。

立岩:ああ、客が。

永村:「ここどこやねん」て、「楽屋ちがいまっせ」って言いたくなっちゃう。

立岩:へー。

尾上:こう、みんな入れ替わり「出待ち状態」みたいな感じですか。

永村:もうすごかったですよ。看護師さんに「社長さんですか」って聞かれましたよ。

岸田:でも言うてませんでした? ある時ね、「誰々の声が聞こえる」とか言って、

永村:あれはまだ元気な時です。

岸田:まだマシな時、

永村:うん。もう透析をやめたらね、毎日500ミリずつ点滴打つんですよ。その500ミリがどんどん、どんどん膨れあがっていく。いよいよもう、「今度こそ、ほんまのほんまに危篤かもしれへん」言うて電話がかかって来たから、まあ「しゃあないなあ」思て行ったら、そうそうたる人がぐわーってベッドを囲んでたわ。楠さんを見たら、さらにパンパンやねん、思わずもうあきれてねえ、「ちょっといつまでがんばってんのん!もうええやんか」って(笑)。

岸田:「いつまでがんばってんの」って(笑)。

尾上:(笑) そんなこと言えんの、本田さんだけやわ。

岸田:ほんまや。

永村:だって、勇くんとか、ゆみちゃん、たまらんやろな思ってたし。

岸田:林さんも来てたらしいですよね。

立岩:透析止めはったのは何? 内臓がもうあかんかったんですか。

永村:そう、もう、もたないって透析自身が。それでもう「やめますよ」って。そしたら、もうぶっくぶくですよ。すごいの、プヨンプヨンして。ゆみちゃんが「じっちゃん、ちょっと手え貸して」って、楠さんの手を触らすねん(笑)、「すごいやろ」とか言って。もう「遊んでる場合か」(笑)。

岸田:私、亡くなる10日前は行ったんですけど、それ以上、それ以降ですね、そしたら、

河野 秀忠(1942/09/23〜2017/09/08)

永村:河野さんなんか絶対見舞いに行かないの、ああいうの弱いから。私からいちいち報告はするけど。そしたらひと言、「はた迷惑な奴ちゃな」って(笑)。

立岩:河野さんはおいくつで亡くなられたんだ?

永村:えーと、72歳で亡くなってるかな。

立岩:そう、72かあ。若いなあ。

岸田:まあねえ楠さんも、私が一番最初に顔を見たのはその、えーと、龍大の近くのお好み焼屋でね、ほんでね、天パでね、ほんであの、「えー」と思って、そしたらしゃべりだしたら怖いねん、オオカミみたいで。あの、アジテーションしてるから。小柄やけど、ものすごいオーラが、

立岩:結局いくつで亡くならはった?

永村:えっと、69。

立岩:〔河野さんより〕もっと若いだよね。若いな、69。

尾上:1944年生まれで、そうか、誕生日になる前で、2014年だから。

尾上:本田さん、その全障連の専従っていうか、全障連からお金もらってそれが仕事になるっていうのは、いつぐらいなんですか? 

永村:えーと、いつぐらいやろう?

尾上:〔豊能〕障害者労働センターができたぐらい?※

※『障害者労働センター通信』がこちらの書庫にいくらかある。

永村:栗原くんが割とまっとうに給料をもらっててくれたおかげで、彼が辞めたあと私が入って。でも家賃払って食ってっというのはできないよ。だから、全障連をやりつつ作業所の仕事もやりつつ、そこからも何がしかもらって。

尾上:ああ。で、合わせたらなんとか生活ができるっていう。

永村:なんとか、は、できないなあ。

立岩:ぶっちゃけどのぐらい? その、全障連からくる金って。家賃ぐらい?

永村:家賃よりはありましたね。うん12、3万はもらってたんちゃうかな。でも、家賃、が傾斜家賃で最後は8万円になって。

尾上:収入の4分の3だ(笑)。

永村:ただ、食わしてくれる人だけは周りにいたから、安藤ちゃんにしろ、吉岡ちゃんにしろ。楠さんや西岡くんやら飲み代とか旅行代とか、まずお金はとられなかったからね。

尾上:全障連はあんがい教員とかの人が多かった?

永村:教師とかもいるし、自治体の公務員とか。八柳卓史さんや石橋宏昭さんも公務員。

岸田:ああ、石橋さんね。

大賀 重太郎(1951〜2012)

永村:大賀さんは実家は鉄工所で、連れあいさんは教師。全障連の専従の頃はいつも、「銭、銭、銭」言うてましたよ。「運動にもやっぱ銭は大事やで」って、「銭考えなあかん」って。

立岩:うん。彼はでもずっとそういう役回り、縁の下のっていうか。

永村:「だからあんたは九州を回って何百万稼いでこい」とかね。

立岩:あ、そんな感じやって、

永村:そうそう。健常者のくせにね、障害者に命令して。

尾上:(笑) こう全体の絵を描くんですよね、大賀さんってね。

永村:そりゃまああの、差別行政糾弾闘争、みんな黙っていて、大賀さん、しゃべりまくってんねんから。大賀さんにもむかついたけど、「何これ?」って。「障害者しか発言しちゃいかーん!」とか言いつつ。

尾上:「なんで、なんで誰も言わないの?」みたいな、

永村:「なんでこんなことが許されるの?」って。

立岩:大賀さんはしゃべりだすと、ようしゃべるっていうイメージもあったけど。僕、最初に会ったの、えっと東京の世田谷で、あの、二日市さんって障害連の元祖みたいな方の御自宅で会ったんですよ。障害者の十年研究会って。

永村:めちゃめちゃ古いですね。

立岩:80年代の、86年ぐらいだったっけ。

永村:中間年のころですね、国障連中間年。

尾上:関西で、関西であの、ノーマライゼーション研究会あったじゃないですか。あれの東京版をつくろうというのが、その十年研の発想だったらしくて。

立岩:そうか。二日市〔安、1929〜2008〕さんが座長っていうか。で、石毛〔えい子〕さんであるとか、そこらへんの人たちがけっこう、人数的には10人ぐらいやったけど集まって。で、僕は大賀さんの最初のイメージってのは、二日市さんの車いすを、割としゃべんない、こう、ほんとに裏方に徹する感じだったんですよね。

※立岩真也 2011/07/25 「もらったものについて・7」『そよ風のように街に出よう』81:38-44
「阪神淡路以来のこうした活動について研究者が書いたものは多くないが、ないではない。東京大学の元教員で今も「東京大学被災地支援ネット」の運営に関わっている似田貝さんとそこの大学院生が幾度か調査してそれを本にしたものがある。似田貝香門編、柳田邦男・黒田裕子・大賀重太郎・村井雅清『ボランティアが社会を変える――支え合いの実践知』(関西看護出版、二〇〇六)と似田貝香門編『自立支援の実践知――阪神・淡路大震災と共同・市民社会』(東信堂、二〇〇八)。これらの一部にだが、出てくる。おもしろいか、というと、その当時届けられた機関紙なんかと比べるとそうでもないというのが私の率直な感想なのだが、おもしろがらせるためにこういう本は書かれるのではないのだから仕方はないだろう。ただ、これらの本に、何人か存じあげている人たちが、とくに著者として、あるいは登場人物として、大賀重太郎さんがいた。
一九八〇年代、二日市安さん(二〇〇八年に七八歳で逝去)の御自宅を会場に、「「障害者の十年」研究会」という小さな研究会がしばらくあった。石毛えい子さん、北村小夜さん、堀利和さんなどがいらしていたと思う。そこに毎回だったと思うが、大賀さんがいた。二日市さんの車椅子を押していたのも大賀さんだったかもしれない。それから一度も直接にはお会いしていないと思う。機関紙などで、ずっと東京を拠点にしていた大賀さんが神戸に戻られ、活動されていることは知っていたが、それらの本に出てきた時、単純にうれしくなって、『ボランティアが…』を『看護教育』(医学書院)でさせてもっていた連載で紹介させてもらったことがある(これも全文をホームページで読める)。その一部を以下。

「大賀はだいたい二〇年ぐらい前に知った人だ。一九五一年生。[…]たしか神戸大学を中退し、稼ぎの方は妻に任せ、ずっと障害者の生活や社会運動の支援をしてきた人だ。
そんな人たちがこの運動のまわりには、もちろんそう多くはないが、すこしはいて、たいてい脇の方にいて目立たないのだが、大切な働きをしてきた。それには時代背景というものもあるにはあるだろう。「反体制」的な気分があり、そんな気分の人たちがいて、その一部が、様々な経路でここに入って、抜けられなくなって、何十年を過ごしてきたのだ。自分らの主義主張のために障害者を利用しようという人たちは障害者本人たちからも嫌われ、長くは続かなかった。残った人たちは、介助(介護)の仕事などしながら、側面から支える役をしてきた人が多い。
そういう時代の雰囲気があったということではあるだろう。だだ、今でも企業に就職せず、という人はたくさんいる。その時代にもそういう人たちがいたのだということでもある。「普通の社会」であればどうか、といった人たちがそんなところへやってきた。(むろん、要所要所でするべきことをこなそうとしたら、それなりの才覚は求められ、ただの変な人では務まらないわけではあるのだが。)
大賀さんは兵庫の人だが[…]全障連等で仕事。[…]地震が起こった時には東京にいたのだが、いてもたってもいられなくて、兵庫に戻ったのだという。大賀さんたちは「被災地障害者センター」(現在は「拓人(たくと)こうべ」)を設立し、その活動を長く続けてきた。彼は事務局長をし、今はその組織はNPO法人で、肩書きとしては常務理事ということになっている。
震災後の一時期の騒ぎは収まっていき、引く人は引くが、困難は続く。それでその人たちの活動は長いものになる。一つ確実に言えるのは、そこに既につながりや方法があったということだ。てきぱきとやることをやるという場所ではない場所があって、そこが地縁とはすこし異なる、人々のつながりの拠点になる。生活を立ち上げて続けていくことを支える活動が既にあり、それがあって、よい仕事ができてきたのだと思う。」

こんなことを書いた。」

尾上:僕はどっちかというと、その表の会議はあまりしゃべらなくて、終わったあとの飲んだ時に、

立岩:そういうイメージ。俺もそんな感じやねん。

永村:西尾くんがそれに引っかかった。釣られちゃった。

立岩:え? 大賀さんに、西尾さんが引っかかったんですか。

永村:大賀さんが西尾くんに目をつけて、「こいつは絶対ものにするぞ」言うてね。だからそういう時って、大賀さん絶対お金が渡るように考えるんですよ。ちゃんと生活が成り立つようにって。まあそこはえらいとこやな、って。

立岩:へー。

■全障連

岸田:いま、全障連はどうなったんですか?

永村:どうもなってないけど、関西ブロックの連絡先は石橋ちゃんになってて、代表は平井さんになってるね、たぶん。

岸田:で、実働はしてるんですか?

永村:してない。してない。

立岩:もう、もう長いことしてないっしょ。

永村:年に1回くらいは集まろうよっていうふうになってるらしくて、

岸田:あ、宴会かなんか?

永村:、年に1回富山に集まってるらしい。

岸田:ああ、そうなんだ。じゃ、ああいうスタイルが今はもう受け入れられへんのか、

永村:それやったらもうさっさと「解散します」とか、そういうふうにしたらええやんと思うけど。ああ、でも運動体のみなさんは大変やね。それでもよう働いてはるわ。だから私は「印刷で応援します」って(笑)。〔→「インタビュー・4」



立岩:うちでも今、うちの大学院出たやつが「事業所やる」って、今それの手伝いしてるんですわ。まあ、けっこう、ヘルパ人手不足で抜き差しならぬ状況だったりして、もうやらなあかんなって思って、ここ数か月がんばって、つくってなんとかしますけど。

永村:ヘルパーってね、一対一でしょう? きついですわ、現場はやっぱり。

立岩:きつうなると、果てしなくきつうなりますよね。そうでもないときもあるけど、きつうなりだすと、なんかこう、らせん状にきつくなるっていうか。えれえことになる。

永村:もう私介護事業、二度とやろうと思わないもんね。介護は大事やと思うんだけど。介護もするけど、もうヘルパーとしての介護のほうはもういっかあと思って。楽しいしね、ヘルパーとしての仕事以外の方が。好きなように、

岸田:ヘルパーさんで大学院生とかね、大学研究助手とかそういう人が昔はヘルパーさん多かったけど、今はいないですよね、あんまり。やっぱり今は、職のない若い子とか、父ちゃんの稼ぎが少ないからやってる人とか。まあでも父ちゃん年金で、自分でヘルパーでへそくり貯めるとか。だからまあ、

立岩:ほんまはね、学生さん金ないはずやから、もうちょいって思ってん。ちょっと今それを探してるっていうか。

永村:河野秀忠さんがね、学生を引っ張ってくるのに、「みんなバイトしてるやろう。居酒屋のバイト時給なんぼや? 障害者の介護してみ。深夜帯やったら時給なんぼや」言うて(笑)。引っ張ってきて(笑)。ヘルパーの資格取って、それおもしろいなって。

立岩:まあそれは、それが真実やと思いますよ、うん。

永村:あ、たしかに言われてみれば、居酒屋のバイトよりいいよな、と思って。学生に、「居酒屋のバイトなんかやってんと、障害者の介護してみ」って、「やったらなんぼもらえるで」って。

立岩:俺、今そういう本書いてるんですけど。ちょっと遅くなって来年になっちゃうんですけど、基本そういう話で※。でも彼は、河野さんはどこから学生さん連れてくるの?

※立岩 真也 2021/03/04 『HELP!――介助で暮す/を支えて暮す』,ちくま新書,筑摩書房

永村:あの、京都の何てったっけ、花園大とかで講師しててね。そのあとは小林さんが引き継いで。小林さんは今も行ってるのか行ってないのか、

立岩:そうですね、花園の雑誌とかに書いたりもしてますよね※。そうですよね、非常勤講師やられてましたよね。

※小林 敏昭 2011/03 「可能性としての青い芝運動――「青い芝=健全者手足論」批判をてがかりに」,『人権教育研究』第19号,花園大学人権教育研究センター,pp21-33.

永村:でもだんだん窮屈になって、あ、小林さんもう行ってないかな、「もうしょうもない」って。縛りがきつくなるらしいですね、大学

立岩:うんうんうん。毎回、何しゃべるか書けとかね。シラバスって言うんですけど。河野さんとかそんなん考えてるはずないやん。

尾上:(笑) そのときの出たとこの、

立岩:出たとこ勝負に決まってますやん。で、だいたいそういう話がおもしろいですよ。それはほんとはなんぼでもやりようあって、僕だったら、その15回分とか、うそみたいなことを、1行ずつ、うそだと思いながら。それでもまあむこうは形式なんで。そういうずるいことをやってますけど、やっぱりふつうはね、もうちょっと真面目に考えたら「こんなんやってられまへんわ」って思うんですよ。大学ってそういうとこに、次第になってますよ。15回授業あったら15回やらなあかんとか。そういうことになってますよね。

永村:だから「もうやってられへんから」って辞めて。小林さんももう辞めたんちゃうかな。やってんのかなあ。

立岩:そうかそうか。花園にも声かけてみよ。えっと、まあそうなんですよ、ちょっと絶賛ヘルパー募集中なんですよ。

立岩:植村〔要〕さんっていう視覚障害者は花園で会ったかもしれないな。今、国会図書館に勤めてるのね。

岸田:ああ、植村さん。

立岩:うち、視覚障害多いわー。10人ぐらいいたんちゃう?
今、現役は岸田さんと栗川さんかな。出た人では、九州の大学で教えている韓〔星民〕さんっていうのがいて。中村雅也さん。植村さんって今は国会図書館に務めていて。で、修士課程出た人もいるし、とか。視覚障害。意外とね、なんか意外っちゃ意外で、まあそうなんですけど、聴覚障害の人は少ないですよね。肢体不自由と視覚障害多い。で、発達障害、精神障害もこのごろ多いっていう感じですね。聴覚障害は今のところ、研究した人はいるけど、ほんまの聴覚障害の人はいない。



岸田:実は青い芝と楠の関係で。いったいその楠にトイレ介助をさせたのはいったい青い芝の誰?

永村:青い芝で、一人で楠さんとこに、

立岩:たしかに横塚さんは歩けたからなあ。

尾上:一人ねえ。森〔修、1949〜2016〕さんは介護者必ず連れてきたもんね。

永村:もう全然、森さんなんかもう、ど重度やもんね。最たるもん。

岸田:なんか、だから、楠敏雄を一人置いといて、脳性麻痺の人を泊まらして、で、楠敏雄がトイレ介助して、

尾上:そんな感じからしたら、坂本さんぐらいの可能性があるかな。

永村:さかもっちゃんは一人で動いてたかな、まだかろうじて。こうやって車いす。

尾上:あと電動に乗ってたか。でもあれか、でも楠さんの家って階段ありましたよね。だから一人じゃ上がれへんもんね。誰やろな。えー。

岸田:あった、あった、階段あった。

永村:やっぱりCPじゃなくて、筋ジスの人とちゃうかな。

尾上:あの、門真の住人ですよね。

永村:やーさんみたいな障害者。

尾上:楠さんが住んでたアパート。

岸田:ぼろアパート、あれ。

永村:でもね、楠さんがね、「いやあまいったわー」言うて、「もうトイレ介護は大変やな」とか言うてたから、こう歩けるけどトイレ介護がいるとかって人いるやんか。それは別にめずらしくなかったと思うけど。なんやかんや言っても。

尾上:歩けるけど、自分でこうズボンおろせないCPってけっこういますよね、上肢に障害があって。

立岩:やっぱり地元は地元やな、そうすると。大阪は大阪の、だ。

岸田:そのときの人が、楠さんに「あんた自分の障害どう思ってんの?」みたいな言われて、で、彼は「ああ、そうかあ!」みたいな。そこから、

立岩:ちょっとうそっぽいな、それ(笑)※。



尾上:僕これ、**さんか誰かに聞いたのかな、楠さん、実は目が見えてるんじゃないかっていう、冗談でね。あの、足立区役所とかで抗議行動やったときに、守衛が前でなんかこう、入らないようにこうやって。で、そのときに白杖でこう、わざとこう相手を、シュプレヒコールのときにその白杖を長くもってこう、かつーんとやってたというのを聞いたことがあるんです(笑)。

岸田:いや、あの人はほら、あのさっき言うた、捕まらはったとき、3泊4日の、あの、

尾上:あの、デモのあれで逃げ遅れてっていう、

岸田:逃げ遅れて、ほんで変なとこへぴゅーって行ってしまって、ほんでちょうど杖をたたんでて、ポケットに入れてて、凶器やと思われて。ほんで警察当局は、まず「彼はほんとに見えないのか」っていうのを調べてるために、***持ってきて。ピッとかいうて、あの網膜のとこ見てね、「いや、どうも見えないみたい」って。

永村:目ぇ、びっと開かれて、

岸田:だから「まったくの視覚障害者が」ね、「こんなとこ来るはずがない」とかって。で、昔の警察っていうのは、白い杖っていうのが何かさっぱり理解しとらへんからね。ほんでまあちょっと3日間ほどいたらしいけど。ほんで金ちゃん、金聖宇に言わしたら「よう、まあこれで大将も男になったなあ」とか言うんですからね(笑)。まあだからわりと体は敏捷でちゃんと動けてたんかなと。

永村:まあ20代までやね、元気やったん。

岸田:それは行いが悪いから。もうあれだけ無理して。

永村:だから「このままいったら透析になりますよ」って言われても動きつづけるんやもんね。あれはちょっと不思議やったね。「ちょっとぐらいセーブしたらええんちゃうん」って。

立岩:けっこうそれ言われてたんですか? 「この調子でやってたら透析になるよ」って。

永村:ずっと言われてましたよ。それでね、自分でこう素人なりに調べていろんな病院に入院するんですよ。京都の宝が池?とかいう地名だったかな。むちゃへんぴなとこに入院してねえ。

立岩:博愛会病院ってうちの近所にあるんだけど。あれは宝が池じゃなくて深泥池か。

永村:なんか忘れたけどね、もう、

尾上:なんか漢方を中心にしてた入院って、入院してたことってなかったでしたっけ?

永村:ある。もうなんせ病院をころころころころ、こう調べて変わって。行く人のこと考えてないからね(笑)。もう大変、もう行って帰るだけでも。ずーっと通院してたのもあの、藤井寺かなんかのもう大変なとこやね、最後はね。「もう楠さん、近くの病院にしてよ。介護体制とるの大変やのに」。そしたら「あそこは数値だけで判断して、数値どおりに水分を落としたりして、もうへろへろになるからダメだ」と言って。まあたしかにへろへろになって動けなくなって。でも、最後の方の人工透析の病院は大変でしたわ。

尾上:腎臓はもう若いときから、

永村:ずーっと悪くて。「透析になるよ、透析になるよ」と言うと、「俺は太く、短く生きるんや」とか言うとったわ(笑)。「ほそぼそと長生きしてもしゃあない。太く短く生きるんだ」とか言って(笑)。

尾上:医者嫌いでしたもんね、楠さんね。まあ障害者運動やってる人間ってだいたい医者に対する不信感もってるからね。

永村:そう、医者に議論ふっかけんねん。「昨日もな、こういう議論してな」って言って。「楠さん、何やかんや言うて、身柄押さえられてるんやから。明日どうなるかわからへんのに、そんなえらそうに言うてどうすんの。議論とか言って楽しんでるやろ、遊んでるやろ」って、

尾上:医者に論争ふっかけてしまうわけですね。[…]

岸田:いや、あの人、だからまあさっき言うてはったようにあの、鍼灸の方はいまいちやったから、いったい…。やっぱり教員に向いてたんかな?

永村:いやあ、教員にも向いてないんちゃう?

岸田:ほな、何に向いてたんやろ。

永村:ま、活動以外に向いてないやん、あの人は。私ほんとに「ああ、根っからの活動家っているんや」って、「何? 体こんなになっても活動したいの」。

岸田:あの人は学部卒業したときにね、小樽のときの先生が旭川の盲学校の校長になったからね、「旭川に点字図書館できるから就職しないか」って言われて。で、親御さんも「もう就職ないし、帰ってきたら?」と言われてたけど、「運動したいから」言うてやめたらしいけどね。あの人もけっこうね、ああ見えてて日本盲人会連合に対しては非常にこう不信感を持っとったけどね。あのまま就職して旭川の図書館に勤めてたら、けっこうその、日本盲人会連合のボスになってたんちゃうかなと。

尾上:(笑) 別の人生が、

永村:いやあー、どうかなあー。

岸田:別の人生が開けてたかも、

尾上:その枠にはおさまら…、ちょこんと、ずっとね、

永村:それはね、つまんないと思うわ。だって視覚障害者の世界だけでしょ。彼はもういっぱい、取り仕切りたかったんだもん(笑)。

尾上:(笑) だからこの前、岸田さんから質問いただいたときも、僕まあ全障連ができてから以降見てるからなおのことかもわからないけど、楠さんはその視覚障害者運動の活動家という印象は全然ないんですよ。まあもちろん視覚障害者教師の会とかね、そういうのはやってるけれども。たぶんそれで、だから日盲連のなんか役員に将来なろうとかっていうのは全然なかったんじゃないかな。

岸田:あの人はね、だからその旭川の図書館を、点字図書館を蹴った段階で、

尾上:まあその道はなくなったと。

岸田:うん、道はなくなった。それにあの、ほら、学生時代に過激派という名前のレッテル貼られてるところにいたからね、大学院も勉強もせんとね、運動ばっかりしてたから。私は運動してへんけど。そやからもう旭川をやめた段階で視覚障害者の組織とはもう決別したんちゃうかな。

尾上:もう別の道を、

岸田:別の道を歩むという人生になったんちゃうかな。



永村 実子  i2021d インタビュー・4 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所

*作成:中井 良平
UP:20210115 REV:
永村実子  ◇ゆめ・風基金  ◇楠 敏雄  ◇全国障害者解放運動連絡会議(全障連)  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇障害者(の運動)史のための資料・人  ◇WHO 
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