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永村実子氏インタビュー・1

20201127 聞き手:立岩真也・尾上浩二・岸田典子 於:東大阪・ゆめ風基金事務所

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■インタビュー情報

永村実子 i2020 インタビュー 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所
◇文字起こし:ココペリ121

■インタビューの全体

※167分+1つ(インタビュー後御馳走になった時の会話)の記録を4つのファイルに分けました。
永村 実子 i2021a インタビュー・1 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所
永村 実子 i2021b インタビュー・2 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所
永村 実子 i2021c インタビュー・3 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所
永村 実子 i2021d インタビュー・4 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所

■関連項目

楠 敏雄(1944〜2014/02/16)  ◇関西障害者解放委員会  ◇全国障害者解放運動連絡会議(全障連)  ◇ゆめ・風基金

■本文


■■

永村:〔岸田さんから〕質問がメールで来て。〔それに対して永村さんが用意した文書※〕大半は資料ですので。

永村 実子 2020/11/27 「インタビューに際して」

立岩:私、この2年ぐらいちょっとインタビューをしてて※。2年前かな、富山で平井〔誠一、1953〜〕さんにお会いして※、3時間ぐらいですかね、そのときにお名前が出て。「いいよ」って。

インタビュー等の記録
※平井 誠一 i2018 インタビュー 2018/01/29 聞き手:立岩真也 於:富山市・自立生活支援センター富山

永村:平井さんとこは今も交流があるんですけどね。

立岩:そうおっしゃってました。「まだ彼女とつきあいあって、電話番号もすぐ出てくるよ」って言ってました。

尾上:僕この前、楠さんのことを聞かれて※、それで楠さんと僕初めて会ったん何でかっていう。本田さんから「大将(楠)が会いたがってるから」って電話もらったんが最初やった。

※尾上 浩二 i2020a インタビュー 2020/08/07 聞き手:立岩真也 +伊東香純 於:(NPO)ちゅうぶ

永村:京橋かなんかで会ったよね、あん時。

尾上:えーとね、美章園。その取り次ぎというか、連絡が、本田さん〔永村さん〕って。

永村:あ、そうやった? あの頃、楠さんから、いろんな人に会いに行かされたんですよ。「○○に会ってこい」って。

尾上:楠さんのインタビューのときに「楠さんとどうやって出会ったか」っていう話で。で、本田さんから「大将が会いたがってるから」っていうので電話があって、それが一番最初やったと。で、あちこちにそういうことをやってたって(笑)。

永村:特に
楠さんに「青い芝は全障連の結成にはずせないから行って話をしてこい」と言うんですけど、みんな青い芝と会うのは嫌がって、ほんでジャンケンして負けたもんが行くみたいな(笑)。

立岩:その尾上さんにコンタクトっていうのは、まあ尾上さんのインタビューで聞いたんですけど。それ以外にその嫌々ながら(笑)、どこらへん行ったん覚えてます?

永村:青い芝の会の他は、個別の障害者やいろんな大学の部落解放研究会や社研とか。鎌谷〔正代〕さん。

尾上:今の古井さんね。

永村:そうそうそう、嫌やったー。

立岩:そうやろうなあ。俺、先週初めて金〔満里〕さん会ったわ。今まで会ったことなかった。

永村:金満里とか怖かったよねえ。

尾上:(笑)あの時、青い芝的に言うと、鎌谷さん、金満里さん、で、あと長沢さん〔入部香代子、1950〜2013〕、

永村:長沢さんね。

尾上:長沢さん、入部さん。この女三人衆というか女傑みたいな感じでね、ほんと怖かった、あの三人。

永村:入部さんとこにも行かされた。彼女のところは全障連の生活実態調査で。

尾上:楠さんやっぱり、自分が怖い人は(笑)、

永村:ちゃうねん。鍛えなあかんと思ってたんやろうね。

尾上:え? 本田さんを?

永村:そうですよ。私はね、無理やり楠さんのところに連れて行かれただけやから、彼が龍大生のときに。私の知り合いが楠さんに。「こいつどうしようもないから鍛えたってくれ」って委ねたらしいです。あとでわかったことですが。

立岩:二人で行ったんですか? 例えば金さんとか、

永村:一人です。みんな一人で行かされるんですよ、もうー。

立岩:しごきですね。

尾上:ひどいな(笑)。

永村:もうなんかね、寝れないんですよ、前の日から。

尾上:緊張して(笑)。

永村:「言葉が聞きとれるかな」とかね、「どこで怒りだすかわからへん」とか思ってたから。青い芝の人ってよう怒る人やなと思ってたし。

尾上:確かに。突然怒りだしますから(笑)。

永村:福永〔年久、1952〜〕くんなんか、罵られまくってたからね。

立岩:福永さんに、言われた。福永さん、言うてることようわかりませんやん。

永村:「わかりません」言うて、「なんでわからへんねん!」みたいな。言うたって、わからないものはわからないし(笑)、

立岩:で、それは「何してこい」って指図なんですか?

永村:全障連結成に向けて青い芝の会にも参加してもらうようにという趣旨で、具体的なことはあまり覚えていませんが。

立岩:「何を伝えろ」というよりは「話を聞いてこい」って言われるんですか?

永村:そう。会議で青い芝の会とはどういう組織なのかとか、そういうレクチャーは受けていました。その上で、まずはお互いにね、「お互いを知ることからや」とかって。大広荘というきったない文化住宅があってね。 「青い芝の会がみんな集まってる場所があるから行ってこい」って。で、なんか「全障研に変わる全国組織作らなあかん」とかって。そんなん私だって10代でわけわからへん(笑)。何話すんのよ。

立岩:今日はお名前としては僕はずっと「本田実子さん」で知っていたので、どうお呼びしたらいいのかなと思ってるんですけど、どっちがいいですか?

永村:いや、どっちでもいいです。もうどうでもよくなっているし(笑)。

尾上:僕もどっちかと言うとつい本田さんって呼んでしまいますね。で、もと全障連でずっとやってた人はみんな「じっちゃん、じっちゃん」、下の方で呼んでね、みんな。

立岩:もしよろしければ、お生まれは何年ぐらいなんですか?

永村:53年。で、73年がちょうど二十歳です。

立岩:そうですね、そうですね。

〔岸田さん到着〕

岸田:補聴器を忘れたから、取りに帰ったらえらい時間が、

立岩:52、3年の人って、ここ3年ぐらいけっこう、「何年生まれですか?」って聞くと52年とか53年とか、そういう方、

永村:そうですね、51年53年が多いんですよ。

尾上:青い芝でいうたら、坂本さんなんかも52年生まれですね。だから51から53、ほんま多いですね。

立岩:なんでやろ。まあ、それはいいねんけど。その、53年生まれ、73年優生保護法で、71年、72年、反対の運動は確かにありますけどね。それが始まりぐらいって感じですか? でも18、19とかですよね?

永村:私ね、定時制高校行ってたんですよ。大阪の大手前高校の定時制。私が入った当時は、全日制の高校で学生運動をやって退学になった連中もいっぱいいてね。学校行ったら、いつも狭山がどうしたの、石川さんがどうしたのっていうビラをまいてて。もうそういうのが大っ嫌いで、私。

尾上:大嫌いだったんや(笑)。

永村:ええ。しかもきったない格好して、みんな、みんなおんなじような格好して(笑)。

立岩:それは定時制の高校に来る、高校生ではない人?

永村:いや、高校生です。

立岩:高校生? 先輩っていう感じですか? 同輩も含めて?

永村:退学になって来てるから、同世代もいれば、ずーっと年上のおじさんたちもいましたよ、定時制だから。

立岩:どっか退学になって定時制に来たっていう感じ?

永村:そうそうそう。

立岩:なるほどね。そっかそっか。

永村:で、中にはむっちゃ賢くてねえ、授業中に教師をいちびって喜んでるみたいな嫌な学生もいて。

立岩:ああ、いそうですね。いたわけだ、ほんとに。

永村:ええ。そしておまけにビラまいてるでしょ。もうイライラしてて、「私もう、要りませんから」言って、ビリって破いて返したら、そこが始まりですよ。「こらあ、おまえ何やっとんねん」「このビラになんぼ銭かかってる思てんねん」とか、もうやくざみたいに(笑)。もう毎日毎日かまわれて。で、喫茶店に引っぱりこまれて、毎夜毎夜話してるうちにみな、なんとなくおもしろいな、みたいな。怖いんやけど、なんかおもしろいな、みたいな。でも、障害を否定して卑屈やって、障害者と一緒に何かやるっていうのはもう絶対嫌やったんですよ。それで、女性解放だとか狭山闘争とか、優生保護法改悪阻止闘争とか、そんなんやってましたね。そこに楠さんたちも、龍大の学生さんとか周辺の人たちも来てて、知り合う前から楠さんは知っていました。楠さんは集会なんかでよくアジテーションしていましたから、白状振り上げて。

立岩:たとえば狭山の集会とかに行くとって感じ?

永村:そうです。それで優生保護法の改悪案が出てきたときに、「おまえは障解研作れ」と言われて。「えーっ!」って感じですよ。「障害者なんだからもっと障害者をうちだして、障害者運動やれ」とか。でも私「もうそれだけは堪忍して」って感じ(笑)。

立岩:「障解研を作れ」って言うたんですか?

永村:そう。だから「大手前高校定時制障害者解放研究会」を名乗ってましたよ。

立岩:大手前のってことか。なるほど、なるほど。

永村:それで龍大に無理やり連れてかれて。楠さんを紹介されて。

立岩:楠さんの仲間っていうか龍大の誰かたちが、本田さんを龍大に連れてった。

永村:そう、楠さんと知り合いで、それでまあ党派の人だから、なんやかんやあってあんまりシャバをうろつけないから、「こいつ鍛えたってくれ」って楠さんに頼んだそうです。だいぶん時間が経って、楠さんから聞きました。

岸田:お待たせいたしました。[…] お願いします。
それでは(笑)、なんかえらい緊張するな。尾上さんからね、永村さんが楠さんの秘書的役割を果たしておられたっていうことをお聞きして、これはぜひお話をうかがわなければということで、今日この席を持たせていただくことになりました。
それで、私は質問項目を送らせていただいたんですけど、お歴々の方々はその道のもうすごい方々ばっかりですので、何かございましたら、適当に。これ全部私がいつも録音を書いてもらってる方に全部テープ起こししてもらいますので、いけると思います。それで、では、

立岩:岸田さんさ、回答を文章にしてもらっているんだけど、それはもらってます?

永村:たぶんね、3時半か4時の間にね、データにしてみなさんに送りましたわ※。

※前掲 永村 実子 2020/11/27 「インタビューに際して」

立岩:だからたぶんうちに帰れば届いてると思う。まあそれ僕らは一応、今読めてるので、読んだりしながら聞いていきますけど。実は岸田さんが来る10分くらい前からぼつぼつと、何とはなしに話を聞き出してて。それが今ちょうど見たら、1の「いつ頃知り合いましたか。年月がわかれば教えてください」ってちょうどそのあたりの話ですわ。

岸田:ああ、そうですか。はい。

立岩:それには「71年ころと思います」と、「知り合ったというより、無理やり龍谷大学のボックスに連れて行かれたと思う」って。ちょうどそのあたりの話をしてたって感じですわ。
だから定時制の高校におって、まあいろいろオルグされて、最初は嫌で嫌でって感じやったんだけれども、まあだんだん「わからんこともない」っていうふうにはなってきて。だけどその障害者の問題を障害者としてやるっていうのは、非常にこうためらいがあるような状況で。ただ狭山であるとか、そういう集会も出るようになったあたりに、楠さんのところに連れて行かれたっていうあたりが、70、71年あたりってことですよね。それはおられた、学校に行ったら楠さんがいたっていう感じですか?

永村:たぶん72年くらいかな。根回しされてたと思うけど。みんな龍大のサークルボックスにぎょうさんいたんですよ。見たこともないような障害者の人とかね。障害者見たことなかったから。それでなんかいろいろ会議してはったけど、まったくわけわからんから、天井眺めたり、下のきったないチラシを見たりしてましたね。なんか大学のボックスってめっちゃくちゃ汚くて。

立岩:障解研みたいな、そういう、

永村:えーとね、「関西障害者解放委員会」やと思います。そこの会議を龍大でやって。

立岩:それは龍大のサークル、それとも複数の大学の、

永村:誰がどこの学生かはわからない。龍大の人もいっぱいいたから、龍大のボックスを勝手に使ってたんでしょうね。

立岩:場所としては龍大のボックス使って。何人ぐらいいたっていう記憶あります? 例えば10なのか、30なのか。

永村:いや、30もいないけど、10人、15人、もっといたかな。

岸田:まだ中核派やってはる…

永村:いや、中核派とちょうど分裂したてのころやったと思うんですよ。

岸田:ああ、そしたら72年かな。

永村:72年が分裂?※

※1972/09 分裂
楠 敏雄 20010501 「私の障害者解放運動史」,全国自立生活センター協議会編[2001:313-321]
「関西障害者解放委員会の結成と分裂
その頃、被差別部落出身の石川さんに対する差別・冤罪事件としての狭山事件の取り組みが高揚し始めました。その闘いに出会ったのがきっかけで、私も障害者に対する差別というのを問題にしようという自覚がやっとできたのです。そして、一九七一年十月、関西障害者解放委員会 (関西障解委) といういかめしい名前の組織を発足させたのです。
関西障解委を結成した過程では、ある政治党派の人たちの支援・協力が大きかったと思います。彼らに 「楠さんは障害者なんだから、障害者の解放という問題を自らの問題としてやるべきなんじゃないのか」と問いかけられ、一緒に勉強会をしたり狭山の闘いに学んだりしながら、組織をつくるに至ったのです。
その後、路線や運動の進め方の意見の違いでこの組織は一九七二年九月に分裂しました。その後、両方とも関西障解委を名乗っていたので、同じ名前の組識が二つあるという状態でした。
私たちのほうの構成メンバーは、当初は施設の職員や学生、施設の障害者あるいは地域で孤立している障害者たちが中心で、介護を必要とする重度障害者が結集するという状況ではありませんでした。分裂以降は、解雇された障害者や国鉄の環状線から落ちて電車に両足はねられた視覚障害者を支援するなど、個別の課題を取り上げて運動をするなかで、重度の障害者も参加してくるようになってきました。」

岸田:うん。金ちゃん、金聖宇ね、亡くなった。金聖宇とかがよう来てた。

永村:72年には、でももう機関紙が出てるから、楠一派、楠一派って言われてて。「楠一派って何かいな?」って、それもわからなかったけど。なんせね、もう難しい話ばっかりやってましたわ。どうやって対抗するかとかね。なんか批判合戦みたいな、って言うたら怒られるけど、イメージとしたらそんな感じでしたよね。

立岩:その15人なり20人なり、そのぐらいのところには、障害者もぼつぼついた?

永村:楠さんがいて、松葉の人もいて、弱視の人とか、圧倒的に健常者が多いですよね。

岸田:いましたね。なんかそんな、私、盲学校…、ゆびき、は、あのころは弱視やったから。それで楠さん、人がいなくなるとね、私のとこまで越境してきてね、「どこどこ連れてってくれ」とか言われて。「はい」とか言うて、わけわからんと行った。そんな人いましたね。もう中核とはきれいに分かれてたころですね。

永村:分かれてましたね。確か。ガンガンやってるころか、なんかそのへんはあまり、意味がまったくわからないから、

立岩:何しゃべってるかわからんって感じですよね?

永村:さっぱりわかりません。

岸田:言葉がわからん?

永村:そう。なんか難しいんです、単語が。

立岩:使ってる用語が、ね。

永村:だけど激しいのは激しいという。

立岩:楠さん以外の数が少ない障害者ってどういう人がおったとか記憶にありますか?

永村:ポリオの人や事故等で障害者になった人とか、下肢障害の人、弱視の人など

岸田:そしたら下宿がまだあそこの京都やったころですか?

永村:深草。

岸田:深草でしょう? あの汚いアパート。私あそこ窓から入ったいうて。鍵をね、私楠さんの、そういうもの運び係してたから、ほんでたくさん点字のこんなん持って、ほんで手引きしてね。で、そのとき「鍵がない」とか言われて、家まで来たら。「そうですか、ほな私キッチンから入って鍵開けます」とか言って、鍵開けて。変な、トイレしかない。で、あとはレコードと本、ですよね。

立岩:それ岸田さん、いつごろ?

岸田:それね、たぶん71、2年、うーん、中核とはもう分かれてたんちゃうかなあ。

立岩:じゃ、ほぼ同じような時期っていうことか? 72とかやったら。

岸田:でもお会いしなかったですよね?

永村:ごめんなさい、私あなたと何回かお会いしてるんです。

岸田:えー! え、私が、

永村:(笑) はい、すみません。だから、楠さんの周辺にいたでしょう?

岸田:えー? ちょっと待って、

永村:ただ私はほんとにね、楠さんの後ろにもうこんなに顔隠して、下向いて。みんな難しいことばっかりしゃべってるから、ほぼ、最初は人としゃべってないし、下ばっかり向いて。でも覚えてはいますよ。あとMさんとかいたでしょう。

岸田:Mさんって、あの弱視の人、

永村:そう、弱視の。

岸田:え、まったく個人的な大昔話で失礼します。ええ! そうだったんですか? 私、ほんなら弱視んとき知ってはるんですね。

永村:知ってます。知ってました(笑)。

岸田:えー!(笑) えー、へへへ、そうなんや。え、え、

永村:なんか桃谷高校の先生とか、まあ障解委には関係ないけど、楠さんを昔から応援するっていうか手助けする人はごろごろいましたからね。

岸田:うん。あのね、尾上さん、すごい昔話で失礼いたします。

尾上:いえいえ、どうぞ。どんどんやってください。

岸田:私こないだね、さっき大手前高校の話なさってましたけどね、山崎プロジェクトって、67年に佐藤訪米反対で、京大の山崎博昭っていう人が弁天橋で装甲車に轢かれて亡くなったんですけど。その彼を偲び、彼を顕彰しようっていうことでね、そういうのがあるんですが。そのときに赤松っていう中核派のもと大ボスで京大の人が、京大出身で今、山梨県にいはるんですけど。その人と私の知り合いが知り合いでね、ほんでちょっとこう顔合わせしてもらって。その赤松さんの連れ合いが、なんか門真の方で楠さんらと活動した経験があるとかいう。

永村:門真は障害者いっぱいかたまって住んでたからね。楠さんもそうやし、私も。一つの文化住宅に私の他4-5人。で、楠さんはいつもね、同じ長屋には住まないんですよ。1分ほど離れた別のとこに住むんだけど。

岸田:えー!(笑) ああ、そうなんだ。

永村:で、1人で動ける人っていないじゃないですか。で、私めっちゃしんどいからね、全障連の事務局の人たちに「門真の部屋空いたで、来えへんか?」って言うたら、みんなに「誰が門真コロニーに行くねん!」言われて(笑)。

岸田:えー、

永村:それで、もともと深草から門真に楠さんが引っ越してきて、楠さんがいた部屋を私が次に借りたんですよ

岸田:ああ、はいはい。

永村:龍大の学生か学生でないかは定かでないけど、障害者はいましたね。その、弱視の人とか松葉杖とか、あの、下肢障害とかポリオの人たちかな。うん、いてましたね。

岸田:あれ、そしたらちょっと楠さんの周辺が落ち着いたころですね。中核のときはややこしかったらしいけど。楠さんは中核のときの話は絶対してくれないんです。どうせされてもわからへんけど。理論がぜんぜんわからへん。

永村:私がいたその頃って、中核は「楠一派が何やら」って大学の門の前で言うてるし。

立岩:それは中核が楠一派を非難というか?

永村:そうそうそう。「日和見主義楠一派の何やらかんやら」言うてましたね。

立岩:大学のキャンパスで、

永村:門とかで、うん。

立岩:白いメットかぶって?

永村:メットはかぶってなかったと思うけど。

岸田:うんうんうん。そのね、さっきお話しした大手前高校の山崎プロジェクトの中にね、いや、中で宴会があったときに、なんか私が「楠敏雄さんについていろいろ今、調べてます」って言うたら、おっちゃんが出てきてね、「俺は楠の家に行って、毎日デモに行くとき手伝ったった」とか言うて、「毎日おにぎり持って、デモしとったで」とか言うて。「ああそうなんですか」とか言うたん。だいぶ古い話やからね。

永村:障害者解放委員会って、障害者問題もだけど、結構政治的な課題もやっていて、やれ日韓がどうしたの、訪米がどうの、あと狭山等々、円山公園とかでデモしてて、うわーと機動隊が乱入してきてね、学生みーんな逃げ足早くて、もう障害者だけ取り残されて。泣き出す人もいるし、「怖い、怖い」言うて。もう逃げようないから腹はくくれるけどね。「いや、何されるんやろう」って(笑)。盾でがんじがらめにされて。結局何の手出しもされなかったけど。

立岩:こないだ尾上さんとしゃべったときも言うたんやけど、韓国の連中も民主化闘争あったとき、やっぱりポリオの連中が足遅いから残されると。でも韓国の連中は留置所連れ込まれてボコボコにされたって言ってました。

尾上:(笑)

立岩:日本はそこまで相手にしてもらえへんかった。そんな話をしましたけどね。

岸田:なんか、でも楠さんは一応3泊4日のお泊まりはしはったんですよね?

永村:そうですね。「ほんまは見えてるやろう」とか言われて、目ぇわーっと開けられたりしたらしいよ(笑)。で、「白杖に武器隠してんちゃうか」とか言って、

尾上:(笑)

立岩:それはなんでパクられたって、覚えてます?

永村:聞いた話だと、なんかの政治闘争やったと思いますよ。学生ってもういろんな諸党派いるでしょ。楠さんが逮捕されたのはまだ中核派やってるじきじゃないかな。逮捕されたときの話はあとで聞いたので。

立岩:中核と別の、関西障害者解放委員会っていう旗印っていうか、プラカードなり旗なり何かあった記憶あります?

永村:えーとね、旗縫わされましたね。「障解委」という旗縫いましたよ、私(笑)。

立岩:何色やったか覚えてます?

永村:赤とねえ、何色かな、2色。うん。なんせ「旗作らなあかん」とか言うて。

立岩:地の色が、地か、字の、えっと、に赤か。どっちかが赤か。

永村:無地に「障解委」の文字を縫いつけたのは覚えているけど、色は?それで関西障解委のころ、まあ健常者が多かったけど、関学、同志社、京大、神戸大にも解放研とか障解研とか、障害者がいるとこは障解研作ってるし、いないところは部落解放研とかがあって、そういうとこももう「オルグに行かなあかん」「障害者運動に引きずり込まんとあかん」って楠さんが言って(笑)、大学めぐりなんかしてました。
で、74年に大原隆さんいう国鉄で両足切断された人のニュースを聞いて、病院に行きましたからね。「これは国鉄の建物・構造のありようの問題だ。そもそも建物が障害者を排除する構造になってるから転落するんだ」とか言って。もうアルコール中毒のもうどうしようもないおっちゃんですけど、説得して(笑)、裁判に持ち込んだんです。最終的に最高裁まで行って、和解にはなったんですけどね。で、その人を支えるためにも人手が足りなくて、そういういろんな大学の学生に働きかけて。それでローテーション組んで介護して。そのうちに障解委のいろんな集会とかデモとかも彼らも一緒に、ごったでやってましたね。

岸田:永村さんは、楠さんがいわゆる三療、あんま、はり、マッサージのね、業者に組合を作ろうっていう運動のときはご存知ですか?

永村:いや知らないけど、楠さんは非常勤講師以外では治療院もやってね。平野区の加美っていう駅の近くに文化住宅借りて、そこに全部機材そろえて。そのころはお金いっぱいカンパしてくれる教師たち周りにいたから、HさんやKさんとか。

岸田:高槻教組の。うんうん。

永村:あのへんがまだ青年部のころで、ボーナスもらったら袋ごと持ってきてくれたって。だからそんなんで機材もそろえてアパートも借りて、はり灸マッサージをやってました。そのころね、ほとんど視覚障害者、はり灸マッサージしてはったから。

岸田:もうそれほとんど90パーセントと言っていいぐらいに。で、あまり知られてないけれども楠さんも、あの世に行ってはるから許してくれると思うけど、札幌時代にねマッサージのバイトしてはったんですよ、まだ免許もらってないけど。で、そのときにそうとうきつい経験したみたいで。あんまり世間には言いたくないっていう感じで。私がインタビューさしていただいたときは、一応まあ障害者業界とか、視覚障害者業界の人間やということで重い口を開いてくれはったんですけども。だいたい北海道時代のそのきつい経験が、三療を北海道でずっとする気にはなれないっていうことで、まあ一応教員になるっていうことで大阪には来はったんですけど。
大阪に来たらやっぱり、今度はちゃんと指圧あんまマッサージは免許があるから、業者っていうかそういうとこに季節バイトみたいな季節労働者って感じでやってはって。そこもやっぱり今と違って徒弟制度だったので、ほんでやっぱりきつかったみたいで。で、もうだからまったく三療には魅力を感じず。また教員に、理療科っていうか、マッサージを教える教員になるために大阪に来たんだけれども、あんまりこう魅力がない。そこにちょうど大学進学というか、大学というところがあって、視覚障害者が入れるっていうのを当時はあの大阪府立、もりやったかな、校長か教頭かなんかがそれがいて教えてくれて。ほんでまあ一浪して京都に、受験のためにやってきたということで。私やっぱ彼、楠さん、差別っていうかに対する抵抗というかその問題意識っていうの。やっぱりその三療業のその痛いきつい経験が、彼は何も悪くないんだけれども、組織自体がもうめちゃめちゃやったから、当時は。だからそれに対して大学に入ったときになんとか改革したいと思って、組合組織を作ったのか、作ろうとしたのかな?

永村:それはないんじゃないかなあ。70年、71年ぐらいでしょう? 

立岩:今のその話っていうのは、一時期教師のボーナスを集めたりしてお金で物買って、開業っていうか仕事をしてはった時期があったいうことですよね。それは何人かでやってたの?

尾上:僕診てもらったことがあった時期は三上さんと二人でやって、

永村:三上さんもやってたんかなあ?

岸田:三上さんやってましたよ。

永村:ほんだら三上さんも来てたんかもね。

尾上:二人でローテーション組んではりましたね。僕ちょうど松葉杖ついてて、二次障害というか首が痛くなって。で、80年くらいに楠さんに診てもらうったら、「今日は自分の日だ」とかって。「ああ、別の日は誰なんですか?」「三上さん」っていう。平野にあった、「解放治療院」っていう名前でした。

永村:解放治療院って、名前が、

立岩:むちゃくちゃやね。むちゃくちゃな名前やね。

永村:「誰が行くねん」て。

尾上:(笑) 運動仲間しか行かない。

永村:しかも楠さん、へったくそなんですよ。視覚障害者の中では有名。私も何度かされたけど、針うってもらったとこポコッと腫れるしね。

尾上:施術がへたなん(笑)。

永村:楠さんも言うてたもん。「もう俺は自慢じゃないけどへたやからな。金ちゃんとこ行き」言うて。で、金ちゃんにやってもらって。

立岩:それは何年ぐらいから何年ぐらいまで、彼はそういうへたな施術をっていうか、してはったんでしょうね?

永村:74年くらいから全障連の結成ぐらいまでじゃなかったかな。

立岩:そんなに長い時間ではないんですね。

永村:お客さんあんまり来なかったんです。

立岩:でも尾上さん行ったよね?

尾上:僕もやってもらってるから。だから楠さんが主だったのか、まだ豊中に就労する前の三上さんが主だったのかはあれですけど、とりあえずまだ80年ぐらいにはまだありましたね。はい。

永村:やってたっけ?(笑)

立岩:じゃ楠さんが始めたけど、楠さんだんだん他忙しくなったりして、ちょっと交代交代とか、他の人に任せるみたいなそういう流れだったんですかね、もしかして?

永村:なんかね、反差別共闘のあたりから、すごい忙しくなるんですよ。 世話人会があったり、なんやら会議があったりして。だから治療院なんかしてる暇なかったんちがうかな。

立岩:でも一時期はそれで、

永村:もうやむを得ずね。

立岩:それで稼いでたって感じなんですよね?

永村:いやいや稼いでないから、

立岩:稼ぎにはならへん、

永村:天王寺の定時制で英語の講師をしていた頃もまだ実家からの仕送りもあったんじゃないかな。講師の仕事もそんなに給料はないし、治療院での稼ぎもしれているし。

岸田:私、でもね、関西テレビかなんかがね、放映に来るかもしれないとか言って、寝屋川のね、金ちゃんの解放治療院か、そこへ来るように楠さんから命じられてね、私は患者役でね。ほんであの二人が、まあ大丈夫か言うて、針のそういうのやってる役でね。でも待てど暮らせど関西テレビのテレビクルーが来なくてね。結局はまあ帰ったんですけど。

立岩:それいつごろだか覚えてる?

岸田:それはね、75年か6年ぐらいちゃいます?

立岩:ああ。じゃなんか細々とというか、そんな儲けにはならんけど、そんな時期もあったって感じやね。

永村:「そんな」どころか、儲けはまったくなりませんでしたね。だからいっとき関西障害者解放委員会の事務所にもしてたんですよ。まあ連絡先だけですけど。それで何がしかの家賃を出すみたいな感じにしてたん違うかな。まあ今から思えばお客入るはずないやろうと思うけど(笑)。三上さんも楠さんもね、別にはり灸マッサージしたかったわけじゃないから、やむをえず、

岸田:そうそう、やむをえずね。みな、まああの頃はそう違います? だからみんな教員になるために京都へやって来て受験しはるんですよね。みんな必死やったもん。やりたくない。ちょっと、ちょっと、ね、あれやったんですけど。ただ楠さんって、私はね京都時代はぜんぜん知らないんですよ。おんなじ建物の中にいたけどまったく、まったく知らないし。出て、楠さんが卒業して大学入ってね、なんか学生運動かなんかしてるらしいとか、ちまたの噂で。で、なんか「今度主席になった」とか、「えっ?」とか言って。でもまあまあ関係ないんで。ただ盲学校へ乱入しはったんですよ、楠さん、あの一派が。

永村:府立盲学校か何かですか? なんかそれ聞いたことあるわ。

岸田:うん。乱入して、

立岩:北大路千本の、あそこの学校でしょう?

岸田:はい。

立岩:うん。何年やろう?※

岸田:うーん。ほんで、そのあとね、またね、やっぱり進学を志す人は楠さんの、ちょっと教えを得ようというので、また手引きでね。お好み焼き屋の突き当たりの部屋に住んでたのご存知ですか? 楠さん。

永村:うーん、深草のアパートは2階、覚えてるけど。お好み焼き屋があったかどうかは覚えてない(笑)。

立岩:僕さっきから聞いてて、岸田さん自身がまあまあ覚えてるっていうの、ほぼ初めて気がついたよ。全然何も知らんって言うからさ、ほんま知らんやろなって思ってたんやけど、そうでもないじゃん、っていうのが一つと。やっぱその当時知り合いもたぶんかなりご存命だと思うんですよ。だから大学時代とか今でもこれからでも話聞けるんちゃうかなって思った。で今日わかったんは、まあ本田さんはその中核系のとことは分かれてて。でも今日聞いて、えーっと思ったのはやっぱり、中核の連中が楠一派を糾弾する(笑)のを学校でやってたっていうのは、そこそこまじめに敵視してたんやねっていうか、

永村:むちゃ敵視してました。私ぜんぜん知らんのに、なんか向こうの障害者解放委員会にね、知的障害と身体障害の人がいて、たーっと寄ってきて「楠一派のなんとか」っていうんですよ。「はあ?」って(笑)。なんかやたら突っかかってくるお姉さんがおって。
立岩:どういう言葉で非難するの? 「日和見」?

永村:日和見? 何言うてたんやろう。あの人たち。

立岩:楠さんたちからは、中核の方針で何もかもやってて、障害者の固有のっていうか無視されて、引き回されるっていうような話ですよね。

永村:あ、「政治的引き回し」という単語はよう使ってはったわ、そう言えば(笑)。

立岩:だから楠さんたちはそういうことで中核から抜けるっていうか、分かれるのは正しいんやって思ってはったし、言ってはったってことですよね。その中核の連中がやっぱりその、「階級的自覚が足りへん」とかそういう話なんかな? じゃ、本田さんもやられたっていうか言われたって口だったということですよね。

永村:全障連の前に72、3年ぐらいから赤堀差別裁判〔→赤堀政夫〕いうのがあって、後に各地に赤堀委員会みたいなのができるんですよ、全国に。で大阪の会議はよく私が担当で出てたんですね。そのときはまあもう、うっとうしかった。なんかわけわからんこと言うて、よう突つかれてましたわ(笑)。

立岩:そうですよね。そういう主題別のやつにやっぱ各党派の連中も来るから、まあうるさいっちゃうるさいですよね。

永村:全障連結成後は青い芝の人や他の障害者も来てたん違うかな。「来てよ」とかって楠さんが説得して。でも、もうすぐみんな来なくなったね。そういうのがうっとうしいから。

立岩:うっとうしいですよね、確かにね。

永村:ああやこうや言われて、なんか本筋じゃない話になるから。わずらわしいというか。



立岩:さっきちらっと被差別共闘というか、解放同盟との、それは僕もちょっとだけ機関紙みたいなの見たことあるんですけど※、その絡みで覚えてらっしゃることってありますか?

『被差別統一戦線』『被差別共闘』。作った資料が以下。 ◇立岩真也 編 2014/12/31 『身体の現代(準)―試作版:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』Kyoto Books

永村:今日ここに資料入れときましたけど。一つは74年の春闘で、総評が「弱者救済国民春闘」っていうのを提唱したんです※。それを聞きつけて、「弱者とは何ごとだ!」って「許されへん」とか言うてね。「ようし、扇町公園に殴り込みかけるぞ」とか言って。むこう何千人か何万人か、こっち15人ぐらいで、殴り込みもへちまもない(笑)。でもなんか潔くアジテーションしてましたね。「労働者諸君」とか言うて、「弱者とは何ごと!」って。「僕らはおこぼれをもらってなんとかするんじゃない」とか言うて(笑)。そしたら中に、やっぱりね、けっこう寄ってくる人もいるんですよ、組合関係で。あの教組の人たちももうちょっと前から付き合いがあったのかな。

※横塚 晃一 1977 「発刊にあたって 障害者解放運動の現在的視点」,『全障連結成大会報告集』 全障連全国事務局,346p.

で、解放同盟が74年に「被差別統一戦線」を提言して、何回か準備会とか会議があって、当然楠さんは障害者の代表みたいなことで。解放同盟は解放同盟で障害者の組織作ってたけど、楠さんも結構参加していたんじゃないかな。だからそのころからわりと解放同盟とはぐーっと、接近していく過程があって。

岸田:ああ、ああ。でもね、立命にね、山本崇記っていう方がおられて、京都の南九条、九条の方で部落解放同盟の活動してる人、その人なんか、あんまり楠さんのことは知らないみたいでですね。

永村:楠さんはまあどちらかというと、解放同盟って大阪府連との付き合いが強いから。その流れでヒューマインドに入ったんじゃないかな。

尾上:僕がちょうど運動に関わり始めたころって1978年で。最初は確か被差別統一戦線っていう名前やったけど、もう僕が参加してたころって反差別統一戦線、

永村:うん、共同闘争とかね、

尾上:共同闘争とか、統一戦線ですよね。

岸田:あ、そしたら私が持ってる資料は、それが発展した段階での、ぽろっとね、人権博物館のあの人が教えてくれて。せやけど全然、どうなっ…、流れがわからないというか。

永村:あなたが書いてたあれかな?。「岸田のてもとに『被差別統一戦線』という」、うんぬんがあってね、そのあとかな、ただ「女性解放の会・関西障碍者解放委員会・青い芝の会・水俣病患者会・公害」何々と続くんだけど、この下の青い芝とか水俣とか女性とかこれはたぶんね、73年に改悪されようとしてる優生保護法の改悪阻止闘争の全関西実行委員会だかなんだか、その構成じゃないかなって気がしますわ。

立岩:なるほど。

永村:その頃は女性と言えばウーマンリブの人たちなんですよ。で、ウーマンリブの人たちの主張は「産む産まぬは私が決める」ということに対して、青い芝の人たちは、「『私が決める』って、結局障害者やってわかったら中絶するやないか」みたいな、けっこう熾烈な議論がずーっとあって。でもリブの人たちもけっこうその、「障害者と対立して、自分たちの方針を立てたくはない」って。だから「わかりたい」みたいなのは、けっこう強かったと思いますよ。だから一所懸命青い芝の人たちの主張も聞いてましたからね。「一緒にやりたいんや」ということで、京都や兵庫やでデモやったりしてました。だからまあ完全に噛み合ったかどうかは別にして、優生保護法でわりとリブの人たちやら青い芝やらは一緒にやっていけたと思うんです。
ただその頃水俣とか公害とかもわりと社会問題になってて、そこはなかなかね、お互いに向き合って「一緒にやっていこう」というふうにはいかなくて。つまりみなさん「元の体を戻せ!」がもう当たり前の主張でしょう。なら青い芝の人たちにしたら、「元の体に戻るって、どういうこっちゃ」って。だからなかなか噛み合わない。喧々諤々やってましたね。原発問題とかもそうやったし。

立岩:その70年代の優生保護法のやつがきっかけだったっていうのは今日うかがって、そうかって思ったんですけど。まあ基本的には解放同盟が主軸になって、いくつかの反差別運動をこうつなげて何かを作ろうとしてた時期があったと。

永村:そうですね。

立岩:うん、70年代真ん中ぐらいやと思うんですけど、それ自体はその何か組織を結成するとか、そういうところには至らずっていう、っていうふうに、

永村:何とか共闘会議っていうのができますね。反差別なんやら共闘会議が。またこれはね、女性のリブの人たちはここは積極的は関わってなかったんちゃうかな。主に部落、在日、障害者、公害被害者とかじゃなかったかな。「障害児の生活と教育を保障しよう市民の会」がいつ結成されたか記憶がないけど、親御さんたちも関わっていたような記憶があるけど。それに労働組合も関わっていたと思う。反差別共同闘争・統一戦線と言えば提唱したのは解放同盟で、もちろん主軸も解放同盟だったし、全障連結成後も解放同盟、労働組合との関係は欠かせないものになっていきます。
70年代の終わりか80年代初め頃に、全障連でも共同闘争のあり方等をめぐって議論して冊子にまとめたりもしましたが、その中に解放同盟への批判みたいなものもあって、結局、外には出さない、内部学習用みたいな取り扱いにして。

立岩:え、僕その話初めて聞く。

永村:それ、ちゅうぶに持っていった箱の中に入っていますよ(笑)。

立岩:えー、そんなことあったんですか?

尾上:僕、運動始めて42年目にしてそれ知りましたね。

立岩:それは何を批判してるんだろう?

永村:何かな。利権というか、

尾上:物取り主義批判みたいな感じですか?

立岩:ああ、ああ、ああ。

永村:楠さんなんかわりと痛烈に、そこは。仲良くしつつ、そこは言うてましたからね。合宿やって、その合宿の議論をまとめて冊子にしたんやけど、あとで見たら、「こんなもん解放同盟見たら、捻り潰されるで」とか言って(笑)。「じゃ非売品にしよう」言うて。

尾上:門外不出になったんですね。

立岩:それは同盟の人も来てはったような集会の、内部討論みたいなもんだったんですかね?

永村:いえ、全障連の中の討論ですよ、それは。関西ブロックだったかな。

立岩:全障連ができたあとの、関西ブロックの中の議論の記録が文字化されたもんがあって、でもそれ見たら「ちょっとあかん」ということになって、お蔵入りっていう、そういう感じですか?

永村:そうですね。

立岩:それは知らんかって。

永村:今ならね、解放同盟の人がそれ見たからといって、「せやな」って言うかもしれないけど。当時はね、「捻り潰される」なんて勝手に思って。

立岩:じゃ、近づきつつも批判というか、そういうところもあったということやね?

永村:そうですね。

立岩:今の、くださったメモというか回答を拝見しながらあったんですけど、だいたい1ページの半分ぐらいは、ここに書いてあることを繰り返していただきながら聞きましたけど。これは、岸田さん聞きたいかな? 楠さんと青い芝の綱領のこと、ところ。回答読んだらいいかな?

永村:あ、「青い芝の行動綱領について厳しい批判をしてた」、楠さん?「してましたが、彼らの生き方にはかなり影響受けたようですね」っていうのがあるんやけど。批判というよりは、結局3回大会で青い芝は全障連を脱会してるんですよね。それがまさにここの行動綱領問題で。要は「愛と正義を否定する」とか、この妙に言い得てるようで、ようわからん綱領じゃないですか(笑)。

岸田:それ言うてはりました。ほんで『カニは横に歩く』でも書いてましたわ。楠さんがこういうことを、青い芝の批判を、行動綱領の批判を書いてるって。

永村:楠さんが批判するというのは、私の印象ではね、その、「この行動綱領を全障連の行動綱領とせよというところに無理がある」と、「それはできない」と。で、ずいぶんずーっと代表格で話しをしてたと思うんだけど。結果的に青い芝が脱けるんだけど。まあ私らもね、わけもわかってないのに偉そうに「(青い芝は)わかってないなあ」的な、もう上から(笑)、好きなこと言うてて。結局楠さんに「そうじゃない」って怒られた気がするん。「なぜ彼らはあの主張をするのか」、「そこは青い芝のような重度の障害者の人たちがたどってきた道、子殺しとか、子殺しに対する嘆願運動とかね、そういう背景があるんやということをちゃんと自覚して青い芝と向き合わへんと、うまくいかないよ」みたいなことを言ってたから、批判というよりはそこかな。

立岩:ただ、岸田さんの質問にある、「脳性麻痺の男性が楠氏の家にやってきて、たまたま介助者がいなかった。そこで、楠氏がトイレ介助をすることになったがそのおり、楠氏の障碍者としての生き方を批判した。」※というその男性は横塚さんではないね。

※出典は?→岸田さん

尾上:トイレ介護はね横塚さん要らないですもんね。誰なんやろうね、岸田さんが言うてるの。

永村:誰かはわからないですね。
青い芝の会の代表格の人とその後に話をしたときに、実は行動綱領問題っていうのがネックじゃなかったんだと、青い芝の組織内的には。障害者ペースじゃないところ、全障連に幹事を出してやっても青い芝組織が持たないな、という判断もあったんだよ、みたいなことを楠さんには言ってはったらいしいです。
確かに全障連の初期って屁理屈言いばっかりやったでしょう。で、「障害者にしゃべらせろ」とか言いながら、喋りまくる健常者もいたし。大賀さんなんか典型やし、あと東京の精神障害者の実態調査反対かやってる山本勝美さんとか、学校に入る会の加辺さんとかよく喋っていたと思う。

立岩:はいはい。まあ確かにようしゃべりそうやな。
ああ、なるほどね。それはありうるでしょうね。でもその話も聞いたことはなかった。そうかもしんないですよね。

永村:初期の全障連の頃って、全障連って幅広いじゃないですか。障解委って、「全障連を牽引していかなあかん」だの、「指導していかなあかん」だのとえらそうに。なんか青い芝の人たちにも「勉強してもらわなあかん」みたいなところがあったんで。

尾上:もともとの出自で言うと、障害者解放委員会と青い芝ってまあ違うじゃないですか。で、それで全障連というかたちで一つ一緒に作ろうというふうに思ったきっかけっていうのは、のちに養護学校義務化が控えてるとかいろんな状況あったんでしょうけど、なんかきっかけみたいなんあったんですか?

永村:それはようわからんけどね、なんで楠さんがあれほど青い芝にこだわったのかって。やっぱり「関西障解と青い芝でないとあかん」みたいなところがあったのよ。「この二者で呼びかける」言うて、

尾上:で、だいぶ前にね、楠さんと何かで話したときに第八養護学校を一緒に、それを建設措置でやったのは一番最初だったとかいう話を。寝屋川の。

永村:やってたやってた。で、親がむちゃくちゃ文句言うてくるねん。親って強いからね。「ほんならあんたらが一生、子どもたちの面倒みるんか?」みたいな。ただそういうとこには楠さん、絶対負けてへんかったからね、そこは。そのときに青い芝の人たちいたんかな。

立岩:第八養護学校阻止って聞くけど、資料何か残ってるんやろうか。第八養護〜寝屋川養護、できたの何年ぐらい?

永村:74年くらいかなあ。74年っていろんなことがあって、73年…。もうあのへんの古い資料も差しあげますんで。何か書いてあるかな(笑)、

https://www.osaka-c.ed.jp/neyagawa-y/「本校は、昭和50年4月に大阪府における第8番目の養護学校(知的障がい)として開校されました。」
※「(44) 七四年、大阪の第八養護学校建設に反対して関西青い芝の会連合会と関西「障害者」解放委員会が共闘したのを契機に、この二団体と八木下浩一が全国的な組織の必要性を訴えるよびかけ文を配布する。七四年「二月に全国代表者会議を開き準備会発足を決定、全国代表幹事に横塚、事務局長に楠敏雄を選出、七五年に七回の全国幹事会を開き、七六年八月の結成大会をもって正式に発足する。各地域ブロックの連合体として構成され、各々が役員組織、事務局をもつ。と同時に、毎年夏に各ブロックの持ち回りで開催される全国(交流)大会で全国役員、事務局長が選出される。その活動は、機関紙、全国大会の報告集等によって知ることができる。その他、特に関西における前史を含めて楠[82]等、全国障害者解放運動連絡会議[82]、等を参照。」(立岩[1990:187])
立岩 真也 1990/10/25 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積・尾中・岡原・立岩[1990→2012]※

立岩:それはぜひ。

尾上:「全障連結成大会基調報告資料」って保存版ですよ、保存版。放出していいんですか、もう?

永村:ちゅうぶに預けた箱の中にもバックナンバー全部入ってるから。

尾上:そうなんですね。何か経過とかありますかね、全障連の結成の経過?

永村:うん、何か書いてあったと思う。

立岩:昨日、たまたまなんですけど、全障連の記録見たいっていう、今京大の院生かなんかやってるのが、うちの書庫来て調べ物して。それからさっき、今日最初に名前出してた栗川っていう新潟の元高校教師の視覚障害のが、全障連見たいっつって。そういうことあります。で、機関紙と年次報告と、それはあるんですけどね。あと一部関西ブロック、関東ブロックの機関紙と、そういうのはあるんですけど。でやっぱりその、結局76年じゃないですか。76年の結成から10年ぐらいは、けっこう全障連もまじめに、

永村:そうですね。

立岩:毎回毎回の「怒号が飛んでんねやろうな」っていう、集会の各自の発言とかみんな記録して。こんな、最初こんな厚い、ね、市大の結成大会の報告書なんてすごい大きいですよね。あれがあったんだけど、だから76年から10年分ぐらいは、まあこんな感じやったんやろうなってわかんねんけど。ちょうどその75とか74とかそのへん、3、4、5あたりがちょっと謎っていうかね、何があったんやろうなっていう。で、それはこないだ尾上さんに聞いたんやけど、尾上さんやっぱり78年登場だから、デビューちょっと前なんですよね。なんで「そこがちょっとわからんな」って話で。で、「誰知ってるやろう」ってなったら、「本田さんちゃう?」みたいな、そんな感じやったんですよ(笑)。

永村:でもね、74年に実は全国交流集会っていうものをやったんですよ。それは、青い芝とはもうちょっと前から話し合い始めてるんかな。で、全国行脚をして、「全国の小さな点を結ばなあかん」って。沖縄は行ってないやろうけど、九州から北海道まで。河野さんとかも行ったんちゃうかな、健常者やけど。あと大賀さんとか。

岸田:大賀さん、せやせや。

永村:青い芝の人も行ったと思うんやけど、青い芝、

岸田:ほら、青い芝に鎌谷っていたでしょう? 鎌谷正代。

永村:はいはい、いました。

岸田:今、古井正代になってね。私、あの人反原発運動してるんです。こないだ23日に関西電力で集会があって会いました。 ほんで、彼女いわくね、「自分しかもう青い芝と関西障解委とくっつけたのを知ってるのはいない」とかって、「あとみんな死んでしまった」とか言って、

立岩:鎌谷さん、元気やな。

永村:元気ですよー。時々京橋でね、反原発のビラまきとかしてますよ。

立岩:僕、鎌谷さんとは何回かしゃべったことあるんですよ。今でもたまに連絡あります。今度話聞こうかな。でその、結局74年の全国行脚が76年の全障連に繋がっていくことですかね。

永村:そうですね。74年、みんなで賭けしてね、「さあ50人集まるかな、100人集まるかな」とか言って賭けてたんですよ。そしたらなんと450くらい集まってね。もうびっくり。

立岩:それが74?

永村:74年の、全障連の前の全国集会。

立岩:前の前の年に。じゃその前の年、前に「全国回って集まらへんか」みたいな。そんな感じですか?

永村:そうですね。関西障害者解放委員会って、わりとそこの解放通信にも入ってるけど、テーマがね「日共全障研を超える、障害者運動の全国潮流を」っていうテーマでずっと議論して。それで「全国組織を作らなあかんな」って言うんで。ほんで全障連っていうのはあとで出てくるんだけどね。で青い芝の人たちと話(はなし)しようっていうのが一つ、それは関西レベルで。全国レベルでも「どうも仙台にこういう障害者がいるらしい」とか風の便りに情報が入ってきて、そこをとにかく全部回って呼びかけていこうと。

立岩:ああ、なるほど。

永村:だけではなくコロニーの労働者とかね。大阪では金剛コロニー、関東では高崎コロニーとか、そこらへんの福祉労働者にも呼びかけて、障害者だけっていうより障害者運動を一緒にやっていくみたいな、あの「全障研を超える潮流」だから。

尾上:うん、スローガンはこうですね、いくつかあって、その最後、「すべての障害者は全障研、改良主義を乗り越え、関西障害者解放委員会に結集せよ」というのがありますよ。

永村:ああ、そうそうそう。

立岩:75か、そうか。本田さんは、その全国行脚に付き合ったんですか?

永村:いやいや、もう私はそんな、いわゆるオルグというやつができるようなあれじゃないから。なんで楠さんとひっついてるか言うたら、どちらかというと楠さんの当時のつれあいさんと仲が良かったから。だからしょっちゅう「ごはん食べにおいで」とか言うて、一緒にごはん食べて。だからその関係で楠さんの側にはいて、点字もぼちぼち学んで、点字読んだりとか。ただその全国行脚なんてもうとんでもないですよ。だって楠さんが、「あいつ箸にも棒にもかかれへんで」って言うてたくらい、いやーなやつだったから(笑)。障害者と見られるのがもう耐えがたいっていう。うん。だから龍大から帰るときに同じ方向やから、「君、一緒に帰って」とか言われて、楠さんの手引きさせられるん。もう足、もつれそうやったもんね、緊張で(笑)。「もう嫌やなあ」って、「そうでなくても目立つのに、こんな白状持った人と歩かされて」みたいな。まあ楠さん優しかったからね、昔。何やかんやいろんな話してくれるんですよ。「僕はこう思うんだよ」とか言って。

立岩:そのいろいろ回ったっていうのも、どっかに何か残ってないですかね?

永村:探したら残ってるかも。

立岩:たぶんそうだと思うんですよ。ぽつぽつといろんなとこから、たぶん数は少ないけど、なんかそういう、人の噂みたいなのは聞こえてきてて。あと施設の労働者もけっこう一枚岩ではないですよね、実際は。全部日共かって言ったらそうでもない。そういうのとか、それもよくわからないですよね。その施設労働者らしき人たちが第二組合みたいなものかもわかんないですけど。『福祉解体』とかいう雑誌の準備号とかがあったりとか。

永村:ああ、なんかその結成大会の報告書見たら、そう、そういうこと書いてましたね。そっちの保存版のほうに、なんかけっこう出てましたわ。

立岩:たぶんその反差別連帯もこの『福祉解体』も、なんか「ちょっと言ってみた」って準備会みたいなので、まあそれでなんとなく、それ自体はなくなってくけど、全障連はできるみたいな。大まかに言うたらそういう流れやと思うんですけどね。その間、何があったかっていうのが、まあよくわからんと言えばわからんと。でもなんとなく想像はつくって感じですかね。

永村:施設労働者が、けっこう来てるんですよ。

立岩:ああ、そうだと思いますよ。それは、びわこ学園とかさ、その、

永村:福井達雨さん〔止揚学園〕?

立岩:そういうとこも、統一が取れてるかって、そうではなくてけっこういろんな労働者がいたりするんですよ。滝乃川学園とかさ、なんかキリスト教系とか、そういうとこでも必ずしもそんな感じじゃない人がけっこういるっていうような話を今ちょっと聞いたりしてる人がいるんですけどね。

永村:兵庫の砂子療育園とかも、けっこう労働者の闘いがあったり。考えとしては、実は「地域で共に」みたいな。

立岩:そうでしょう。

永村:で、内部矛盾っていうか、

立岩:そうですよね。島田療育園、みんなその、必ずしも創始者の「愛と何とか」っていうんじゃない労働者もけっこういたりして。

永村:府中療育センター移転阻止闘争とかもあって、それ都庁前にテント張ってストライキとか、あのへん何かやってたんですよ。だからそういう影響もあるのかも。それにもコロニー労組の人たち来てたん違うかなと思うんですよ。施設労働者。

岸田:『コロニー解体』っていうのはね、私とこの家に関西障解委の2回目の機関紙があってね。で、コロニー解体っていうのはどこから…。

永村:中核派と分裂して第1回目のね、このちょっと分厚めの機関紙が、題名が『コロニー解体』になってましたわ※。

※「先述の「関西障害者解放委員会」の機関紙は『コロニー解体』というものだが、直接にのぞみの園(高崎コロニー)での闘争に関った名称のものではないようだ。私の手元には(たぶん)その第三号しかない(七六年)。」(立岩「施設/脱施設/病院/脱病院――生の現代のために・19」
※永村さんが1号をもっており、岸田さんが2号をもっているとすると、1〜3号があるということになる。

尾上:この時代の運動の機関紙ってね、まあ月刊ぐらいよりもうちょっとあれかもわからんけど、そういう「今、こういう情勢になって」みたいな感じのやつと、もう一つ理論紙みたいなやつ、2種類出すのが流行りというか定番で。その理論紙みたいなのが『コロニー解体』ですね。〔→「インタビュー・4」
[…]

立岩:楠さんとしては「青い芝要る」って思っていたけど、青い芝の方が「こんなやつらとは付き合えへん」みたいなっていうので、

永村:と言いつつ関係が壊れたわけでもないし、赤堀闘争なんかはずっと青い芝の京都のメンバーなんかと一緒にやってましたね。三宅さんとか、京都の青い芝の人とか。あ、福永さんなんかもそうやけど。

立岩:兵庫とか大阪とかの、

永村:大阪はまた独特だもんね、青い芝言うても。なんかあの、私のイメージでは、大阪だけなんか理屈通じるし、会話通じるような(笑)。

尾上:結局まあ関西青い芝が、緊急アピールでバラバラになって、大阪はまあずっと全障連に残るっていうようなことで。

立岩:反発する部分と、でも一緒にっていうのと、両方あってっていう。

永村:兵庫青い芝の会の福永さんは、ゆめ風の副代表なんですよ、今。体調悪くて来れてないけど。阪神淡路大震災の取り組みも含めて、なぜか関係が続いてるし。

立岩:ですよね。


続き↓ ◇永村 実子 i2021b インタビュー・2 2020/11/27 2020/11/27 聞き手:立岩真也尾上浩二岸田典子 於:東大阪・ゆめ・風基金事務所


*作成:中井 良平
UP:20210115 REV:20210504
永村実子  ◇楠 敏雄  ◇関西障害者解放委員会  ◇全国障害者解放運動連絡会議(全障連)  ◇ゆめ・風基金  ◇立岩真也  ◇尾上浩二  ◇岸田典子 
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