2020/10/22 於:ZOOM
聞き手:山口和紀
本インタビューは、山口が卒業研究の調査として行ったものです。小林敏昭さんの許可を得た上で本ページに掲載をしています。
20180227に行われた小林敏昭さんへのインタビューは(聞き手:立岩真也)こちら。小林さんの人項はこちら。
山口:おおまかには小林さん、ご自身が障害者、健全者運動に関わっていって、混乱期でどういう風なことが起きたというか、どういう状況だったのか聞かせていただいて。あと、その手足論についての理解だとか。まず、その小林さん自身がどういう風に健全者運動に関わっていったのかなというのが。
小林:僕は島根県の田舎で育ったんですよ。で、松江の高校出て、大学で大阪に行くんですよ。それは1970年なんですね。新左翼の運動とか勉強してたら、当然知ってると思うけど、70年安保というかなり大きな闘争がある、年なんですよね。ただ60年安保のときとだいぶちがっていて、労働者の人も学生の人も左翼的なシンパの人たちが担う運動だったんですよね。60年ほどの大衆的な運動ではなかったと僕は思うんですけど。70年、ちょうど大学に入った時にその闘争があって。その10年の改定の年だったというので。大学入ってからそういう運動と接点がね。まぁ顔出したり。そういうことがあって関わりもっていくんですけどね。
ただ、そんなに僕は活動家ではなくて、はしっこのほうからそういうのを少し興味を持ちながら経験してったみたいなそういう感じが70年あるんですよね。でまぁ、半分ノンポリっていうのか、そういう活動をしながら、半分はうーん、なんていうのかな。あのー、法学部に入ったんで弁護士になるつもりだったんだけど。まぁあのだんだんだん、授業も面白くなくなってきて、大学にもだんだんいかなくなって。その政治的な活動とか、市民運動に対する興味のほうが強くなっていくんですよね。当時は、まだ新左翼運動の残骸というか。まぁ69年が東大闘争、えっと、浅間山荘が71年かな。
山口:71年とか、72年くらいだったと思います。
小林:そう。ちょうどその間の、あのーまぁ、一番先鋭的な新左翼の人たちがあのまぁ過激化していった中で、いわゆる内部闘争でリンチをして殺すみたいな。そういう事件が続くんですね。そういう流れにぶつかって、かなり幻滅するわけですよね。ぼくは。もともと、そんな中心的に運動してたわけじゃないけど、何か希望があるんじゃないかとか思って。でも、結局そういう所に行きついてしまうんですよね。それでかなり幻滅したというところがあるんですよね。でも、幻滅したときに、自分はこれからどうやって生きていくんだって考えたときに、その方向が見つかりにくいっていう。こうやるべきだってものも、あのね、出てこなかった。さっき弁護士になるつもりだったとかいったけど、法律の体系というのは時の権力者とか力を持っている人のために、法的な体系とかができてるんだってことを思い始めてるから。弁護士にっていう思いもだんだん薄れてきて。
やっぱり、新左翼的な運動にも幻滅して。それで、先が見えなくなって昼夜逆転的な生活になっちゃったりして。起きてる間は小説を読んだり、まぁ明治以降の日本の小説とか読んで。高橋和巳とか大江健三郎とかそういうの読んでいて。新聞の朝刊を読んでから寝る。起きてから夕刊を読むという感じで。かなりしんどい時期があったんですね。で、そういうときに僕の友人が「こんな面白い運動やってるグループがあるから、一回行ってみないか」みたいな。それで誘われていったのが「グループゴリラ」だったんですね。知ってるかな。
山口:僕はAさんとはもうしゃべっていて。
小林:あぁそうか。Aさんとはもう喋ってるんだね。まぁあのそのグループゴリラっていう活動にまぁ、最初は興味本位で参加したんだよね。それがきっかけで、そのときはまだ青い芝の会とかできてなくて。自立障害者集団グループリボンっていう、青い芝の会の前身の団体があって。そこの事務所に顔を出して、グループゴリラの若者たちの会に参加をしたんです。
山口:それが何年くらいですか。
小林:それが72,3年くらいかな。そんな感じ。当時は大阪の第八養護学校っていうのができるんだっていうのがあって。それの建設を阻止するっていうのをグループゴリラの人たちが言ってて。それを文化住宅でひそひそ話し合ってるんですよ。なにやら不穏な空気がただよっているというか。で、どうやって阻止するんだっていうと、建築のための足場が組まれていると。それを夜の間に行って、足場を破壊しようと。みたいな話をしとった。それは大変なところにきたなぁと思って。それは結局実行に移すことはなかったけど。そういうところで始まって。それからは、まぁあの、まぁ、障害を持った人の介助者がとにかくぜんぜんいないっていう。不足している状態だから。介護に入ってくれっていうのがあって。介助の要請がどんどん電話にくるようになって。介護の面白さを知っていくんだよね。
山口:大学っていうのはどこに進学されたんですか。
小林:大阪大学。結局卒業せずに中退したんだけど。
山口:Aさんの話だと、74年に入学されたって聞いたんですけど、新左翼が残っててみたいな話を聞いたんですけど。小林さんと同じように。行かなくなって、みたいな。感じでした。えっと、それで。そのくらいに青い芝の会ができて、小林さんご自身もなんというか、役職というかについていくと思ったんですが。
小林:あぁ、1975年くらいかな。大阪で「AZ福祉工場設立準備委員会」というのができるんです。そのときもちろん、青い芝の会はできてるんです。端的にいって、運動だけでは食えないと。健全者も食えないし、障害者も食えないと。最初から一緒に活動しようと、それに呼応してうーん活動する障害者っていうのはでてこないわけで。ある程度、生活とか仕事とかそういうものをどっかでつくっていく、保障していかないと、運動の広がりはできないんじゃないかというので。福祉工場を作ろうって活動があったんです。75年くらいだったと思うんですけど。で、その時にぼくはその設立準備委員会事務局長という役職に就いたんです。
それからはずっと、もう専従という形で関わりを持ったんだけど。で、これはあとでもうまた話出ると思うんだけど、緊急アピールというのが関西で出て。そのあとに手足論の「見解」が全国青い芝から出るんだけれども。出たときには、青い芝とかグループゴリラとかの中心部分にいたのではなくて、その大衆運動部分っていうかな。市民運動をつくるっていう部分で、それはもちろん青い芝の一部なんだけど、市民運動的な色の強いところに居たので若干距離がある。だから、その当時の混乱の状況のなかで、その議論をしてあの文章をまとめていくっていう中心にはないない。それはあとで出るかもわからないけど、だから、関西で緊急アピールがでたときはびっくりしたっていうかな。だからぼくは、よくわかってなかったというか。そういう議論がされているっていうことを全然知らなかった。だから、一応専従者として活動の中心部分の中にはいたけれど、核の部分ではなかったというか微妙なところなんですよね。だから、Aさんはもうちょっと遠くのところに居て、専従者というのはだから、いくつかの層があるんだよね。専従者批判とかいろいろあったけど。
山口:Aさんは、なんか80年代くらいまでひもじかったって言ってました。
小林:あぁそうそうそう。いまでも僕とあったらね「小林さん専従費が出てよかったよね〜」っていうんだけど、そんなことはなくて。専従者といってもそんなに豊富な資金があったわけじゃないから。障害者たちが自分たちの生活保護の中から、他人介護料を積み立てて、それを専従費に回すっていう。あと街頭カンパを毎週やって。今は、街頭カンパってあんまりお金にならないけど。当時は、車イスの障害者が駅とかに居るとすごい注目を集めた。一日に数十万とか百万くらいのお金が集まったこともある。それだけ社会にとって障害者が街にでるっていうのはすごいインパクトだった。
山口:お金はそんなにあつまるもんですか。イメージ。
小林:そうそう。当時は、みんなびっくりするもんですから。その寝台式のストレッチャーみたいな車イスにのっていると。凝視するか目を背けるか、お金くれるかみたいな。そういう感じでしたね。そうやってお金を集めたりして。それでなんとか専従費を捻出してたとか、そういう感じでしたね。
山口:だいたい、イメージ沸きました。ちょっと聞き忘れたんですけど、小林さんご年齢はいくつでしたっけ。
小林:えっと、69歳。
山口:あぁAさんの4つ上と聞きましたから。
小林:そう。
山口:それで、75年にAZ福祉工場の事務局長になって、そのまま76年77年とそう、混乱期に入っていくわけですか。その崩壊の時期っていうのは経験されたと思うんですけど、
小林:さっきも話したけど、僕は核の部分に居たわけじゃなくて、当時の核の部分っていうのは、名前を言えば、Kさんとか、これはリボン社の中心なんだけど。これは彼がまぁ青い芝運動を関西に広めた張本人ですよね。「さようならCP」という映画を抱えて関西各地の上映運動っていうのをやって。で、グループゴリラの中心メンバーと出会い。そういう活動をしてきた中心メンバーがKさん。でグループゴリラっていうのは、77年当時は、関西連合会っていうのがあって、その時代表しているのがHさん。で、もう一つは青い芝の会の、関西の連合会の人、トップのMさん。この三人がもの凄く核になっていたんですね。緊急アピールについては、その経過を詳しくしらなかったんだけど。若干の距離があって、KさんとMさんの両名でかなり話を詰めたようなんですよね。この運動状況良くないよねと。うーん、その中心でというか。その活動をすべきなのに。うーん実体としてはね。頭のいい健常者が、社会的な知識に富んだ健常者が、そういう経験に乏しい障害者をまぁ引っ張っていくというか。あの、けなしたり、差別したりしつつ、運動をひっぱっていくというようなことが散見されると。これはなんとかしないといけないということで話をしたようなんですね。でまぁ、そういうことを確かに僕も感じていたんだけど。特に施設から、障害者を地域の中に取り戻そうとかね、在宅の障害者を自立させようとかいうことになると、当然その、なんていうかな、運動としてのというか思想的な側面よりも、その人が外に出たい、おいしいものたべたいとかっていう欲求のほうが勝つと思うんですよね。いままで何十年も閉じ込められて、外とまったく隔離されて、30歳,40歳になるっていう。まぁそういう人が、あの、親を説得し施設を説得し、地域にもどっていく。そうしているうちに青い芝の中心になっていく。
となると、どうしても、ぼく、僕もそうなんだけど。運動に頭から入った。そう人からすると、非常に、まぁ評価が低いというか。あの、どうしても下に見てしまうっていうんですよね。もちろん、そうなっちゃいけないっていうのは、運動の中で了承しているんだけど。実際にやってる自分たちの言動っていうのが、そういう風になってしまっているという。まぁぼくも気が付いていたんですよね。表に対しては障害者差別をなくそう、減らしていこうとか言いながら。内部的には、そういう差別的なことが蔓延してたっていう。それはたしかなんですよね。それで、緊急アピールっていうのが、77年だったかな。全国青い芝の見解が78年だったかな。緊急アピールというのが関西にきたときには、あぁ確かにそうだという感覚は強かったかな。結局、青い芝の歴史的なこともしっかり勉強していると思うんだけど、神奈川で生まれて、マハラバ村で思想的には鍛えられて、まぁあの親鸞の悪人正機とか、他力本願だとかっていう大仏さんたちとね、まぁその中心メンバーと議論したりとかって、七転八倒のコミューンというか共同体とかがあって。神奈川の青い芝の人たちっていうのは、相当になんていうのかな、感性的に優れているというのか。うーん、よく勉強もしているしね。
でさらにいうと、差別に対する感覚も鋭いし。そういう活動もできるし、そういうメンバーっていうのが神奈川青い芝ですよね。それは五つの行動綱領なんかを作った。というメンバー。ところが、その運動がどんどんどんどん広がっていく間に、70年の横浜の子殺しを経て、どんどん広がっていくと。そうすると、そういう障害者だけじゃなくなっていくわけだよね。さっき言った関西の青い芝の人たちっていうのは、一部をのぞいたら、そういう思想的、感性的にもそういう経験がほとんどない。あの、そういう人たちが中心だった。それは要するに青い芝運動の大衆化だと僕は思うんだけど。その大衆化というのが、そこまで青い芝運動を引っ張ってきた思想的、核心的なものと相容れなくなった。そう理解しているんですよね。
それが、内部でもそういう、差別的な、あの、障害者と健常者との関係性、そういうものが蔓延していく状況を生み出した。だから、一方では、従来の青い芝運動の思想性というのが、大衆化するにつれて本当は変容していかなければいけない。あの鍛えられていくっていうのか、変容していかなければいけないんだけど、それが無かった。もう一方では、だから、あの、そういう、うーん、どういったらいいのか。まぁ、活動そのものの持っているその、限界っていうのが、関西で、まぁあのね、発覚したっていうか。表面化したというのか。ということがあったんだと思いますね。致し方のない事態だとは思うのね。うーん。ただ、かなりひどい状況があったということかな、そういう感じだったんだろうと思いますね。そういう中で、手足論が出てきたというか。必然性というのがあると思います。
山口:ありがとうございます。なんとなく、こう、大衆化というか。障害者も大衆化していく中で、新左翼というのか前衛的な考えをもつ人がたくさん入ってきて。
小林:青い芝はそういうことを警戒してたのね。新左翼の人たちが入ってくるっている。東京都か大阪とかは学生がたくさんいるんで、介護者にひっぱりこみやすいけど、田舎で生活をしようとするとまず介護者がいない。来てくれるひとは政治的なところがある。気が付いたら三里塚にいた、みたいな。なにこれ?みたいなことが頻繁にあったからね。だからそれは青い芝も警戒していたし、全障連運動もそういうことあったし。
山口:手足論とその話は結構つながるかなと思うんですけど、Aさんは自分が入ったくらい、74年くらいから「手足は貸すけど、頭は貸さないんだ」みたいなことを、その当時から結構言われていたというのをおっしゃっていて。そういう話とか、手足論とは言わないけれども、なんていんですか、Aさんの話では「華青闘」みたいなものを皆、一応しみ込んでいて、そういう障害者の運動に口を出さないよねみたいな共通認識があったんだって仰ってたんですよね。そこらへんはどうですか。
小林:うーん、どうだろう。そこらへんは、Aさんとは違う部分が色々あるかもしれないですけど。口では言うんですよ、なにかあるときは呼ばれないまでは外で待ってるとか。それは障害者の当事者性というのをものすごく大事にしていたから。それはだから、象徴的に手足という言葉で表現をしたときに、いろんな誤解が生まれてくるんじゃないかなという気がするんですよね。花園大学の研究紀要にも書いたと思うんだけど、うーん、最初にあったときにその、ゴリラの人たちとあったときに、第八養護学校の阻止の話をしていた。うん、していましたね。そういう前提があるんですよね。そういう、うーん、どこかにあの、介護が必要な障害者の人がそこにいて、はいじゃあ手を貸しましょうといって介助をするわけじゃない、ですよね。青い芝という、それまで日本に表れてこなかった障害者運動、その障害者運動にであって、その趣旨に感動して、あるいは同調して、それで介護に入るっていう。そういう感じがあって。だから、そういうときの手足というのは、僕は言葉では確かにそういったけど、今の時代から当時を振り返って、手足になり切るという手足では無いわけ。うーん、それが混同されていると僕は思う。
エピステーメーみたいな、なんていうか、知的な枠組みっていうのがね。今の障害者の状況あるいは、福祉的な状況を考えて物事を考えていくと、当時の健常者、健全者と当時は言ったけど、その関係性はなかなか見えにくいかなと。それは手足という言葉でまた見えにくくなったという。当時は「頭は貸さないけど、手足は貸す」と確かに言ってたけど、その前提というのがあるからね。運動的な、思想的な。そういうのがあるからね。一緒に、進んでいこう、活動していこうっていう。大前提として、それが土台としてあってそのうえで手足は貸すけど頭は貸さないという言い方をした。それは今の枠組みでの手足論という言い方になると、かなり違うと。うーん、わかるかな。
山口:自分なりには頑張って理解しようと思うんですけど、なんていうか。またAさんの話をしてあれだけど、運動は手足になるんだけど、つまり「運動論としての手足論」はよくわかったし、そこに手を出さないというのは認識していて、実際にどうなったのかというのはあれとしても。その、実際の介助関係では口を出さないというのは「そこまでしっかりしてたわけじゃない」というのをおっしゃってたんですけど、そこはどうですか。介助で言われた通りにやるって感じだったんですか。
小林:基本はね、本人の気持ちを受け止めて、やりたいことをできるようにすると、それが基本だったけどね。でも、例えば、外に出て遊びたいとか、彼女と遊びたいとかさ。それはもちろんあってもいいけど、青い芝の会議には出なくてさ、そういうことをやりはじめると、こっちは文句言うよね。それは文句というか、まぁ、議論をする。まぁ障害者と話し合う。そういうことを僕は経験している訳だねぇ。だから、生活というのの中でも、うーん、そうだねぇ、だから、当然、同世代の若い男女が集まるわけだから、そういう恋愛というかあるしね。まぁいろんな遊びもするし、お酒も飲みに行くし。そういう中では手足なんてことはなくて、だから、グループゴリラっていうのは「自立障害者集団友人組織」っていう、「友人」という言葉を持ってくるという、新しい友人関係みたいなね。そういう所があったと思うんだね。運動については口を出さないと言っても、それは大前提が先にあるからね。差別をなくす、それで差別というのは具体的にはこういう形であらわれているから、それを変えていく。障害者と健全者の関係をこう組み替えていく。そういう前提があった上での運動には口を出さない。そこをちょっと理解しにくいところだな、とは思うんだけど。また、Aさんの立ち位置とぼくのは違っているとは思うしね。
山口:そうすると、その。だからその、青い芝の会の会議に出ないで、ここいこーみたいな感じになったら、「それはどうなんですか」みたいな話をすることと、手足論は矛盾はしてなくて。
小林:だから、当時は手足論じゃなくてね。新しい関係という、健全者と障害者の。それをつくっていくという、僕はそういう感じだったけどね。だから、「手足論」というのは今でも抵抗があるよね。たしかに、当時はそういうことは言ったけど、それにはちゃんと前提があったうえでのね、そういうのは「頭は出さない」と言えるだけの信頼関係があったんですよね。だから、そういう、大前提がない限りは、例えばその障害者の養護学校推進のね、集まりにいくんだと言ったらね。いやじゃあ言ってくださいとか言わないよね。運動の中での節度っていうのか、最低限の信頼関係とか、思想的に共有している部分があったから、「手足になる」っていうのを言えた。信頼関係があったからね。
山口:僕が当初思ったことは、セクト的な人たちが入ってきて、自分たちの運動に引き込もうとして、それはだめだろうという、あくまでも青い芝の方針に沿った形で自分たちは行動するんだと言う意味で「頭は出さない」という共通の認識というルールになっていたのかなと思ったんですけど。そういう空気というか、なんていうんですかね、その70年代のその、新左翼的ななんていうか、前衛的な考えっていうのに対する嫌悪というか、そう言う感じの中でできたと思うんですけど、どうですか。「頭はかさない」という話が、空気、青い芝に健全者が口出して引っ張っていくということに対する、素朴なその「だめだよね」っていうのがあったのかなと。それがどういう風に生まれたのかなということが気になるんですよね。
小林:うーん。まぁそれは確かにあったかな。横塚さんなんかも、そういう、あのー、自分たちはあの、一番健常者側から利用されやすい存在であるという認識を持っていたところはあるからね。だから、あの、そういう、政治的な、活動については警戒感というのがものすごくあったよね。だから、思想的なそういうところでも警戒感というのはもちろんあるんだけど。「手足論」がでるのはあの、混乱期に出てきたんだと、青い芝のそれまでの思想的な核心ではなかったと言う風に考えているんだけど、政治的な引き回しに対しての警戒感を持っていたというのはあったと思う。活動の中心部分も、僕らももっていたのね。
ただ、その、77年78年の混乱の原因はそれじゃないと思う。まぁぼくが経験した関西ではね。その、現場、介護の現場、活動の現場の中で、差別的なものが広がっていったことが原因だと思っているから、だから、政治的な引き回しの問題ではなかったと思っている。だから、そこで混乱をもとに出てきた「手足論」というのは、政治的な引き回しに対する警戒から出てくる手足論とは違うんですよ。位相が違う。その当時の、実際の状況を振り返ってみると明らかに違うと、そういうことですね。それ以前に、そのセクトの運動に巻き込まれないように思っていたというのはもちろんあったけど、78年の手足論がでてきたというのは、それが原因ではないと思う。全く影響がないとは言わないよ。健全者に対する警戒感というのはあるからね。セクトが現実に絡んで混乱したわけじゃないけど、もちろんそれがなかったとは思わないけど。だから、全然違うんだと言い切るのは違うと思うけれども、あのときの手足論は主要にはそれじゃなかったと、政治的な引き回しに対するものではなかったと。主要にはね。
山口:えっと、その、無意識的な、なんていうか、こう、差別意識っていうか。その関わりの中で表出して、しまって。その感じというか、それをなんていうか分からないけど。セクトうんぬんではなくて、それを何て言えばいいのか分からないのですけど。なので、ちょっと、そうですね、手足論という話は、その難しくなっちゃったんですけど。手足論というもの実際には、どういう風な形で言われていたんですか。その手足論という言葉は言わなかったとおもうんですけど。
小林:えっとそれは「手足は貸すけど」っていう話のほう?
山口:いや、えっとその、後の混乱期の「手足論」。Aさんは「霞を食っていきろ」って言われてたとかなんとかで。「霞をくって生きろ」っていわれて、そんなこと無理だって思ったとか言ってて。
小林:手足論がでたとき?
山口:専従費が切られて、自分らで金を集めろとか言われて。そう思ったが故に、公的な介助サービスを作る運動にシフトしたとおっしゃっていたんですが。小林さん的には、混乱期に、そのこう、なんていうか、手足論的なことが語られていたのかっていうのを教えていただきたい。
小林:うーん。まぁ、混乱、手足論が出てくる流れっていうのは、理解できたんだけど。それはだから、青い芝がそれまで主張していたこととずれているっていうか。ぼくは。矛盾しているって思ったんですよね。それはやっぱりあの、横塚さんとか、あの、直接僕は話をしたことがないんだけど。彼が書いた本とか読む中で、自己、うーん、自己変革、相互変革、社会変革みたいなことをかなり核心的な部分で言っていて。だから、うーん、手足論が出てくる、そこまであの、当時の運動がまぁ、かなりひどい状況にあったということは理解できたし、当時もね。したけれど、それが青い芝の本来の思想であるとは思わなかった。手足論というのはだからぼくは、一時的な回避策っていうか。シェルターに彼らは入ろうとした。自分たちの組織を守るために健全者は手足に徹しさせる、そうしないと崩壊すると、そういうまぁ、せっぱつまったところにいたんじゃないかなとは理解しているんだけどね。そういうものとして出てきたことは理解できるけど、本来の青い芝運動の思想的なものとは相容れないと言う風に思っていますけどね。いまでも。
山口:それは、そのどういう点で理解できないっていう。一方的に健全者が変われっていうのはおかしいとはわかるんですけど。大阪はそういうなんていうか、神奈川の思想的なものっていうのは結構入ってはきていたんですか。
小林:横塚さんはよく大阪に来て、Mさんとかとそういうひとたちと、話をしていたし。当然青い芝の思想的なものは入ってきている。それが核に、核の人たちっていうのは、共有していたと思うんだけど。関西というのは、一番運動が広がったんですよ。量的にね。そのなかで矛盾が出てくるというのがあるんですよね。だから、本来はそういう最重度の、その青い芝の一番重度の人、障害者を基点に考えなければいけないと言ってたけれども。現にそういう人たちが、施設とかいろんなところから出てきたときにね。青い芝がそれまで主張してきたことが、なかなか通用しにくくなってきた。これはさっき言った「大衆化」との矛盾が出てきた。そうすると、その中で思想的に鍛えなおさなればいけない。そうだったんだけど、逆に縮こまった。自分たちを守ろうと。縮こまって、自分たちを守ろうと出したのが「手足論」だと。運動の方向性としては逆を向いたんじゃないかと思うんですよ。それ以前にも青い芝の横塚、横田の思想性を再確認していくというのはやっぱり大変だったと思うんですけどね。その、鍛えなおすというのは、知的障害者とかの運動、精神障害者とか、重度重複の障害者の問題。青い芝はそういうものを取り込めなかった。やっぱり、感性、思想性の鋭い人しか担っていけないという運動だったんだろうね。それが青い芝の魅力だったと思うんだけど。その魅力があるがゆえに、壁にぶつかって。その壁を壊す、乗り越えようとするチャンスが、その77年、78年だったと思うんだけど。それができなかった。それは誰のせいでもなかったんだけど、限界だったと。それで逆に、縮こまった。そういう風に、その1つの手段が手足論。それを出すことによって自分たちの組織を守ろうとしたっていう。それはまぁ僕の見方であって、ほかの人たちはまた別の見方をするかもしれないけど。それまでの青い芝運動というのは、広がりが78年あたりで、あの、全国組織もなくなる。運動的には影響力が減退する団体になってしまったわけだね。あの時がターニングポイントだったかなと思いますね。
山口:組織を守るために出していて。
小林:組織を守ると僕は、そう思っているだけだけどね。
山口:その、気になるのは介助はしなきゃいけないじゃないですか。それで、運動の面で、健全者は敵だとかどうとかって、そういう風に言うと介助者がいなくなっちゃうじゃないですか。その部分はどのようにしていてたというか。明日、介助者いなくなっちゃったら元も子もないじゃないですか。仮に、手足論を言ったら健全者が離れるっていう予測はつくじゃないですか。だから、こう覚悟していったというよりも、広がっちゃったと思うんですが。どうでしょう。
小林:その手足論で?
山口:その手足論的な考え方にもとづくいろんなことですけど。
小林:関西でも青い芝の関西連合会っていうのがあったけど。大阪だけは青い芝の会の健全者を残すということにしたんですよね。他の青い芝の会は解散すると。当時は大阪青い芝の中心だったと思うのはOさん。最重度の脳性マヒ者で、寝返りもうてない。だから、介助者は一時間おきに寝がえりをさせないといけない。そういう最重度。それで彼は、健全者組織をつぶしたら生きていけないという自覚があったから、健全者組織を残した。だからAさんたちも、そのグループゴリラも残った。関西で青い芝運動が広がった時からあったことなんだけど。これは神奈川青い芝の会の人たちの豊かな感性とかそういうものが大衆化する中で、そういうものを持たない人が入ってくるようになったと言ったけど、それは関西では顕著で。介助者が日常的に足りないから、ビラをまいたり、友達の友達に電話をしたりして介助者を募るんだけど。人気のある障害者とまったく人気のない障害者がいるわけ、どうしてもね。関西でもそういう状況があったから、介助者を集めやすい障害者と、集めにくい障害者がいた。関係性のなかで集めていくわけだから。それで魅力を持った障害者は生きてけるだろうという判断があったんでしょうね。関西のなかでも、介助者を集めやすい障害者は大丈夫という判断があったんだろうと思う。そうではない障害者というのは在宅にもどったり、施設にもどったりという状況が生まれたんですよね。組織をつぶしたことによって。うん。
山口:手足論というのは青い芝運動を縮小させてしまったということだと思うんですけど。その青い芝運動を縮小させてしまい、その副次的には、健全者運動も分解してしまったので、こういう僕みたいなあとから知った人からすると「そんなこと言わなきゃいいのに」という感じもするんですけど。それを言わないといけないくらいに追い詰められていたということなんですかね。
小林:そうとうひどい状況だったんだと思う。運動の内部でね。
山口:ある種こう、「えい!」みたいな感じで、なげやりではないけれども結構「言っちゃえ」みたいな感じで。「手足論」というものがこう、こうあの、えっと。『あゆみ』上、『あゆみ』でなんかこう、養護学校義務化闘争の街頭のあれをやるつもりだったんだけれども、事務局の人がなにも介助をしなくて、それで「健全者は敵だ」というようになったと書いてあったんですよね。
小林:その話は知らないけど…。
山口:その話はその、なんか、たたいたとかなんとかで、喧嘩したときにたたいたとかっていう。それで怒ったとかいう。
小林:健全者が暴力をふるったわけ?
山口:そうです。そういうことが書いてあったんですけど。
小林:それは何年頃かな。
山口:『あゆみ』なんで、そのぱっと出せないんですけど。そう書いてあって、その素朴な感想というか、その些細な話だなと。その介助者が怠慢で「お前ら動け」と言ったら喧嘩になって、たたいたみたいな。それで、急に健全者組織をつぶすんだみたいなことになったらしいんですけど。でも、そのなんていうか、些細な感じというか。あくまでも、そのもともとあった導火線にこの件で火が付いたみたいな、そういうイメージを受けたんですけど。止められなくなったみたいな。
小林:それがきっかけという話なのかな。
山口:まぁイメージを受けたんですけど。
小林:ぼくなんか関西にいて、関西の視点で話してるから。それは神奈川の話でしょ?『あゆみ』だから。
山口:はい。関西の。
小林:だからあったんでしょうね。そういうことが。そういう積み重ねで、関西で「緊急アピール」が出るわけですよね。それが火をつけて全国に波及した。それで「手足論」、その「見解」がだされて、健全者組織をつぶすということになると。だから、そういうことは積み重なっていたと思うね。関西だけでなく全国的に。
山口:ありがとうございます。あとでじっくり自分でも考えます。あと、一つ聞きたいことがあって。えっと、えーっと、「手足論」というかその、健全者側はあの「頭は貸さない」みたいな言いかたをしてて、障害者のほうの機関紙とかを読むと、一番早いので76年くらいですか「健全者集団は青い芝の手足となりきらせる」ために作ったのにそれがえっと、その「なりきらせるためにつくったんだ」みたいなことが書いてあって。『あゆみ』104番に書いてあって、104番なんで書いてあって、それが出たのは1978年だと思うんですけど。その中に、えっと第2回全国大会でその時期はやっぱり、実際に78年、77年以降とかだと思うんですけど、小林さんが書いている通り、全国第3回から見解の間っていうことだとおもうんですけど。えっと、今聞きたいのはその、障害者運動の人は「なりきらせる」って言ってて、Aさんは「なりきらせる」とかじゃなくて「頭は貸さない」という話でいたのに。その、障害者の理解では「なりきらせる」ためにつくったと最初から言ってるんだみたいなことを書いてあって。それは本当にそうなのかというのを聞きたいんですけど。その「なりきらせる」と「頭は貸さない」というのは違うかなと。その最初から健全者集団というものに対する認識の齟齬というものにあったのかなと思うんですけど。
小林:ぼくは「手足になりきらせる」というのは青い芝にずっとあったのかは分からないんだけど。僕もちょっと書いたような気がするんだけど、いつからあったのか分からないみたいな。だいたい幅を持たせてると思うんだけど。そういう議論は関西ではほとんどなかったし。手足になりきらなきゃいけないという形で、うーん、その介助の中で原則を確認するとかね、そんなことはなかったと思う。ただ、やっぱり差別性、差別者と被差別者という関係は。
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山口:あ、聞こえますか?
小林:あぁ止まっちゃって。
山口:すみません、僕のWIFIが不安定でした。
小林:あぁ、続き。なんだっけ。
山口:77年7月に見解がでていて、その、『あゆみ』上でその「申し合わせ」が。健全者支援行動委員会と「手足に徹する」という申し合わせがあったのが、42、「あゆみ」の42番が4月で。そのだからその間でってことを書かれているんですけど。それはあきらか、その「申し合わせ」を基点にするんであれば、77年、78年にということになると思うんですけど。
小林:それより前に、なりきらせるという議論があったということかな。
山口:それはえっと、『青い芝』の104番に書いてあったのは、健全者集団は「青い芝の手足としてなりきらせる」という認識をしていたんだけど、104番が78年に出ていると思うんですけど、そういうことが書いてあって。Aさんは「手足を貸す」と言って、あーえっと「頭は貸さない」ということを言っていて。だからやっぱり「なりきらせる」と「貸す」では全然違う話だと思うんですけど。
小林:あー、そうだよね。後付けだと思うんだよね。
山口:あー。
小林:あー、そういう「なりきらせる」ということを言ったときに、健全者が集まってくると思う?
山口:(笑)
小林:いやー、集まらないと思うよね。だから、なんていうか。集まらない。ただ、自分の差別性に気が付かないということを障害者たちから指摘されて、それに気が付いていくということは大事なことだよね。だから、花園大の論文にも書いたけれども、障害者自身が差別性を抱え込んでいるからね、そこをやっぱり自覚してたからね。横田さん横塚さんはね。それは書いているし、だから、障害者と健全者というのが居て、健全者は障害者の手足に徹するべきだということは何も生み出さないということは分かっていると思う。だから、健全者とぶつかりあうことで障害者も自分自身の差別性に気が付くことになると思うんだよね。だから、「なりきらせる」ために組織を作ったというのは僕は間違っていると思うんだよね。ちょっと違うかなと僕は思うんですよね。
山口:ぼくもそういう気がして、横塚さんとか、そういうこと言わないかなという気がしますよね。
小林:たぶん、後付けだと思うし。どっかに資料があれば見たいんだけれども、75、6年でそういう資料があったとか。
山口:僕も探したんですけど、無くて。